彼の声572006年11月30日なぜ悲観的な意見が大勢を占めているのか。それらの人々は恐怖のシナリオという脅しを好んで使う。特定の個人に何ができるのだろう。何を憂う必要が生じているのか。人々はそれほど馬鹿ではない。政治家の思惑通りに事態が進行するわけがない。何事も簡単にはいかないから、現状のどうしようもなさがある。君に何があるわけでもなく、酒場の喧噪の中に怠惰な気分があるだけか。誰がそこではしゃいでいるのか。それは意味のないはしゃぎ方だが、たぶんそこに何らかの真実が隠されているのだろう。君にはそれが理解できない。理解する以前に身体が破壊されているのではないか。たばこの煙にのどをやられて声が出なくなる。そのついでに肺癌になって死にたいわけでもないだろう。誰を恨んでいるつもりなのか。ただ君の言葉には中身がない。それらの言葉が君の実在を奪い去っている。虚空をにらみながら歯を磨きたいわけか。それを我慢する必要がどこにあるだろう。先月の時空は執拗に残ってくる。早くその先に進みたいか。しかし意味のない会話だけでは限界に違いない。ではそこで一休みしたいのか。なぜ休んで英気を養っているつもりなのか。実態としては眠りたいのに眠れない。安易に眠って翌日に疲れを残すわけにはいかないらしい。そういう話ではないのではないか。まだそこまで至っていないような気がする。気分は最悪からほど遠い。怒りをどこにぶつけたらいいのかわからないが、怒りの感情自体がフィクションの中で生じていることに気づいていないだけか。実態を反映していないわけだ。何を危惧しているわけでもなく、何の問題もないのに状況を恐れている。何かを批判せずにはいられないわけだ。そうしないと文章にならないのだろう。君たちはこの世界から背を向けている。知っているつもりの現実のほとんどは思いこみそのものであり、自らが無意識のうちに作り上げたフィクションに浸食されている。まずはそんな実態を理解しなければ謙虚にはなれないだろう。批判のための批判が横行して、そこに夕刊紙あるいは週刊誌的な批判が成立する土壌が形成される。何か今にも日本が崩壊しそうな雰囲気の中で批判が語られているわけだ。本当にこのままでは日本という国家がどうにかなってしまうわけか。いい加減にどうにかなってほしいような気もするのだが、そんな批判が何十年も続けられているのに、未だにどうにもならない現状があり、そんな現状に業を煮やして誰かがテロに訴えるわけでもなく、相変わらず延々と批判を繰り返している状況が続いているわけだ。要するにこのままでは日本が危ないと語られている限りは、そんな状況が保たれていて、誰もがつかの間の平和をいつまでも享受している実態がある。なぜつかの間の平和がつかの間で終わらずに何十年も続いているのか。それが奇妙な状態だと思ってはいけないのか。君はそれについてどのような答えを持ち合わせているのだろう。平和とはそういうものなのかも知れず、実態として平和からはほど遠いのに、それが平和であると述べることしかできない。まるで絶えず危機感を煽っていないと幻想としての平和を信じられないかのように、このままではこの国が危ないというフレーズが世の中の隅々にまで行き渡っている。それで何を理解したつもりになれるだろう。確実の世の中が悪い方向へ向かっているというのに、そんな状況が何十年も続いてきたにもかかわらず、一向に何の結果にも至らない。それが恐ろしい状況だとは到底思えないのだ。それどころがそれらの危機感を煽るフレーズがまったく信用されていないことに苛立ちさえ覚え、そんなことを何十年も続けている人々がオオカミ少年のようにも思えてきて、世の中に向かって警鐘を鳴らしすぎて気が触れてしまった哀れな人のようにも感じられてしまう。もういいのではないだろうか。それ以上警鐘を鳴らし続けても一部の信者以外は誰も信用しないだろう。そんな状況を保ち続けて何がおもしろいというのか。おもしろいか否かを問う以前にそれがその人の職業となってしまっている現状があるわけか。それは恐ろしくも退屈な職業に違いない。年がら年中警鐘を鳴らしていれば腕の筋肉がつくかも知れないが、その筋肉は警鐘を鳴らすことにしか使われないのだから、それ以外の動作にはまったく役に立たない筋肉なのではないか。要するに彼らはこのままではこの国が危ないと述べること以外は何もできなくなってしまっているということか。実態としてはそんな風に述べている現状をいつまでも持続させようとしているだけで、今こそ現状を改めなければならないと勇ましく宣言し続けているのとは裏腹に、そんなことをいつまでも述べ続けられるような予定調和の状況が続いていないと職を失いかねないという危機感が、一方で彼らをそういう言動に駆り立てているのではないだろうか。そんな風に勘ぐって考えないと説明がつかないような現状なのかも知れず、それについてどのような危機感を抱いているわけでもないが、これからもそんな状況が続いてゆくのだろうか。11月29日明確な目的がないのは当然のことか。君に未来などあるはずがない。あるのは偽りの過去とどうにもならない現在だけか。それだけあれば十分なのではないか。未来こそあてにならない想像上の時間でしかないか。では何に居直っているのだろう。強がるような状況ではないのではないか。何もできないのだから仕方がない。できていないと思っているわけか。何をやろうとしているのかわからない。何をやろうとしているのでもなく、ただ言葉を並べてみようとしているだけか。動機がどこにも見当たらない。探す必要のないものを探しているつもりらしいが、何も見いだせないのは君ではない。たぶん今日は何もできないだろう。なぜそれらの出来事に興味を抱けないのか。疲労が蓄積していて眠たいのだから仕方がない。あわただしい日々から抜け出せずに、他に何をやる気にもならず、かろうじて雑事がひっきりなしに続く日々を切り抜けているだけだ。それで何をもたらせるのか。何もないと思ってはいけないのだろうか。虚無的な趣のジャズを聴きながら、他に何を感じているのだろう。言葉が君から離れてゆく。君も君自身から離れてゆく。意識はどこを経巡って戻ってこようとしているのか。どこへ戻ってくればいいのだろう。あの山の向こう側には誰がいるのだろうか。星空を見つめているのは誰なのか。誰もそこにはいない。不在の時空で何かが奏でられているらしいが、それが音楽である必然性はない。たとえばそれは宝石の一種になる。フィクションだからそんなことを述べても平気なのだろうか。平静を装っているのは君ではない。つまらないことを述べているのも君ではない。無気力な言葉に取り囲まれているのも君ではない。しかし誰が君ではないのだろうか。興味のないことを語っているのかも知れない。それは誰にとっても興味のない話だ。誰が何に敗れ去ろうとしているのだろう。状況は君の目論見通りには変わらない。それどころか誰にとってもそれは思い通りの展開とはなっていないはずだ。だからつまらないと思われてしまうわけか。何をどう思っていようと、意識は絶えずこの世界から離れて行こうとしている。楽しければまだしばらくは生きられる。苦しみをどうやって昇華できようか。何に恐れおののいているのか。終わってしまうことがそんなに恐ろしいのだろうか。何が終わろうとしているのだろう。終われない物事があるはずがない。いくら無理を押し通しても、やがて終わりの時が訪れる。力の行使を持続させることは困難を極める。それは誰の勝利にも至らず、戦いに参加したすべての者たちが敗北感を味わっているはずだ。それこそが負けを悟らせる。それとは様々な勝利かも知れず、実際に所々で勝っているのかも知れない。微細な勝利の積み重ねが全体として完璧な敗北に反転する。いくら勝っても無駄なのか。何が勝利感を抱かせるのか。何を突き詰めて考えれば、それが完全なる勝利につながるのだろう。考えるだけではだめなことはわかりきっている。ならば言葉によって何を伝えればいいのだろう。何を伝えても負けは負けであり、それを勝ちに反転させることは不可能だ。何を言い繕っても見え透いている。すべては嘘なのだろうか。いつの時代も切り捨てられるのは弱者なのか。弱者と弱者が戦っているのかも知れず、それを強者が眺めて楽しんでいる。だから弱者に勝利などあり得ない。だがはたして強者はいつまで傍観者でいられるのか。戦わざるを得ない成り行きに巻き込まれてしまったらそこで終わりか。その時点で強者は強者でなくなってしまい、弱者同士のけんかに巻き込まれてしまった時点で弱者になりはてる。今日も君たちを観客席から無責任に眺め続ける強者がいるわけか。強者とは何なのか。それは幻影の一種かも知れない。実体は何もなくそこには何者もいない。現実と格闘しているとき、背後から冷めた視線を感じているとしたら、それが強者のまなざしなのか。しかし何が強者なのだろうか。ただ単に負ける状況にないから強者であるだけか。戦わないのだから負けようがなく、勝とうとする気もなければ、過ちを犯す心配もなく、ただくだらぬ光景をつまらなそうに眺めている。まったくやる気がないようだ。見上げれば雲が晴れた空を横切っている最中だ。風に流されている。あてどなく彷徨い続けていたのはいつの日のことか。道に迷っていたのはどれほど昔のことだったのか。まだ君は迷っているつもりなのか。それほど時は経っていない。あの場所からそれほど遠ざかっていないような気がする。場所は場所として絶えず君に近づき続け、君は君でその場所からひたすら遠ざかろうとしている。いったい何を忘れてしまいたいのか。それは言葉にできないほどの出来事だったのか。そんな出来事がいつ君の行く手に立ちふさがっていたのか。それを体験した感じは、取り立てて強烈とは言い難いような、あるいは別に印象に残っていたわけでもなく、今となっては思い出せないほど微かな響きを感じ取っていたかも知れず、あるいはその微かな響きにだまされていたのかも知れない。君はそこで何を述べていたのか。11月28日過ちは誰にでもある。発言に対する配慮が欠けていたらしい。そんな状況を思い浮かべて、それが思い違いであることに気づく。もはや何を述べても何もできはしない。何もできないから何かをやろうとしているのかも知れないが、たぶん何をやろうとしているわけでもない。それがわからない。それは違うのではないか。では実際には何がどうなっているのだろうか。ただの矛盾にすぎないか、あるいは使うべき言葉を間違えているのか。要するに最初からわけがわからないということか。何かがこんがらがっているようだ。時間感覚がおかしい。今はすでに翌日の夜か。誰かが迷路の中で彷徨っている。空疎な言葉を用いて何を主張できるだろうか。言葉にできない主張などない。しかし言葉と言葉がまったくつながらず、何も思いつかない状況に業を煮やして、強引に書物を漁り、クライマックスシーンで誰かが言いはなった決め台詞を探し出そうとする。いったいそのとき何を思いだしたのか。眠気を覚えているらしい。ひたすらテレビを見ている自らに気づき、急いでそれを消して、記述しかけの文章に向き合い、またそこから空疎な言葉を繋げようとしている。いったい何を考えていたのか。たぶん久しぶりの感動に巡り会っていたのだろう。そしてまた嘘をついている自らに気づく。それがこのところは日課となっているのだから仕方がない。誰と同じように言葉を連ねようとしていたのか。いい加減な目論見はたちまち破綻して、そこから違うことを述べようとしても、前の文章が邪魔をして、なかなか思い通りにはいかないようだ。だからすかさず嘘をついてみる。気持ちに粘りがなく、気力が萎えて、眠ってしまいたくなり、さらに遅れてしまうことを覚悟する。それ以外に何を悟っているのだろう。いつものように何を述べても無駄だと思っているわけか。無駄でなければ述べる必要がない。無駄だからこそ述べているのではないか。君は心の中の虚無に向かって語りかけているようだが、そういう意味のない自問自答は独り言しか引き出せない。それがどうしたというのか。そんなわかりきっていることを今さら述べないでほしいか。君は無駄だとわかっていながらすぐに嘘をつく。時間稼ぎなのが見え見えだ。だがそんな時間稼ぎ以外に何ができるだろう。なぜそうやって自らを追い詰めようとするのか。どこに追い詰めているつもりなのか。それは何かの袋小路となっているわけか。何かではなく本当の行き止まりなのかも知れない。しかしそんな風に述べても楽しさはどこからも出てこない。何を追い詰めてみても、その場に漂っている虚しさをぬぐい去ることはできない。実際にはその場が袋小路であるわけもなく、ただのだだっ広い空き地にすぎない。崩れかけたコンクリートの壁が残っている。所々にさびた鉄筋が剥き出しになっていて、昔何かの建物があったことを伺わせる光景の中に、見知らぬ誰かが佇んでいるようだ。冬の冷気が足下から忍び寄り、寒さに耐えかねて、いてもたってもいられなくなり、さっさとその場を立ち去りたい衝動に駆られているらしい。君は誰のことを述べようとしているのだろう。真夜中にその場で何をしていたのか思い出せなくなる。苦し紛れにそんな嘘をついてみるが、まったく意味をなさない状況に変わりはなく、そこから話を進めようとする気が失せる。どう述べても嘘っぽくなってしまうようだ。まったく本気になれず、そんな心境のまま文章にのめり込むのが馬鹿らしく思えてくる。だから他のことを語ろうとしてしまう。そんな無駄な試みを誰に咎められるわけでなく、どこかのスピーカーを通して何かをつぶやき続け、そんな状況が醸し出す意味不明な雰囲気に惑わされ、さらに的外れな指摘を続けて、そんなことを述べている自分自身が戸惑うのを楽しんでいるかのように振る舞う。それは場違いな言葉の連なりなのではないか。言葉が状況を捉えられず、それとは別の時空で語られている文章を無理矢理その場に導入して、それで体裁を取り繕うつもりらしいが、うまくいくはずもなく、さらなるわけのわからなさを招いてしまい、どつぼにはまっているように思われてくる。そんなやり方がうまくいくはずがないことははじめからわかりきっていたはずだ。そこから何を語ろうというのか。語れていないことの中に誰かの心情が結びついているかも知れないが、それが文章の内容として記述されることはない。何となくそれではつまらないような気がしてくる。今さら誰の感想を述べてみたところで、それを真に受けるような心理状態ではなく、わざとわけのわからないことを述べている最中に、まともな判断を差し挟むことは不可能か。そんな状況ではうまくいかない。うまくいかないことが君をさらなる記述に導いていることは確かだが、それで何を述べているわけでもないことを確認しつつも、そこから抜け出そうと考えているのは自己矛盾もいいところか。そんなわけにもいかないことも重々承知しているはずなのだが、なぜかそこからさらなる試みを始めてしまうらしい。11月27日さらに雨が降り続いているようだが、本当に明日は止むのだろうか。明日ではなく明後日になるかも知れない。翌日の夜にはすでに雨は止んでいる。そんなことを述べているうちに一日が経ち、何となくまた遅れてきたらしい。時間の流れに言葉が追いつけなくなっている。いつものことなのかも知れないが、無理なことを述べようとして、失敗してしまうのもいつもの成り行きか。別に何を主張したいわけではないと嘘をつく。それが嘘にならない条件を考察してみよう。できるわけがない。ふやけた頭では何も考えられず、そんなことを思っているうちに状況から見放されてしまう。機会を見失い、途方に暮れ、そのとき何を述べるはずだったのかわからなくなり、代わりにどうでもいいようなことを延々と述べ続け、その試みが失敗のうちに終わることを自ら証明してしまう。それで楽しいか。誰が自らの失敗を楽しんでいるのか。だが楽しければさらに失敗を長引かせることができるだろう。失敗を長引かせてどうするのか。何となくそれで事足りてしまうような気がするらしい。いい加減なことを述べている方が気が楽かも知れないが、それ以外に至らないのは欠陥のなせる業か。今さら何を述べているのだろう。はたしてそういう宿命のうちに他の可能性を見いだせるだろうか。何がどうなっているわけでもなく、何をどうしようとしているわけでもない。すべては自らの信念に基づいてやっていることにすぎず、それ以外に理由や動機を見いだすのは困難だ。ならばそこから何を抽出できるだろうか。言葉の連なりは何を語り続けているのか。文章を支配する意味不明は誰かが語る隙を与えない。だからひたすら継続を目指すことができる。何を続けているのでもなく、続けようとしている意志が、結果的に何ももたらさないことを告げている。たぶんそれ以外は何も述べられないのだろう。すでに話の筋を見失ってから久しい。そこから物語ることなどまったく不可能な文章だ。何がそうさせているのではなく、自ずからそうなってしまっている。そうならざるを得ず、そうならなければ文章の継続は困難なのだろう。いったい君はそこで何を忘れているのか。忘れられない思い出など忘れるはずがない。それはいつもの矛盾にすぎず、すぐに元の木阿弥になり、気がつけば出発地点に戻っている。この世がどうなろうと、どうにもならないことがあるらしい。君自身には関係のないことかも知れないが、誰の身に災いの火の粉が降りかかろうと、状況はひたすら意味のない言葉を振りまき続け、それを嫌う誰かはいつまで経っても不平不満を並べ立てる。そんな状況で何を物語れるのか。虚無的な意識の中で強引に物語ったとして、それが紋切り型でない保証はどこにあるのだろう。それらの文章の中で君は何を指摘しているのか。それで何か気の利いたことを語ったつもりになれるだろうか。たぶん語っている内容と考えていることとの間には、修復不可能な亀裂が生じている。それも紋切り型の範囲内か。何がそうさせているのだろう。時間が余白を生じさせ、余白の中で言葉が連なっている。余白とは何か。画面上に余白が生じている。それで答えになっているはずがない。わからないことを突き詰めて考えても、わからないことに変わりはないが、何とかそこから意識を脱出させなければならない。意味不明でないような展開を生じさせなければならないか。具体的なことを述べる必要が生じているのかも知れない。終わりはいつやってくるのか。なぜ終わらせようとしないのか。君が忌み嫌っているのは、具体的にどのような状況なのか。今このときがその状況なのだろうか。ならば具体的にどんな状況のただ中にいるのだろうか。そんな行き詰まりに至ったとき、人は誰でもどんなことを思うのか。そうではないと思う。それは違うと主張したいらしい。つまらない世界の中で、何か生き甲斐のようなものを見つけたつもりになり、それが信じられなくなる。この世界がつまらないわけがないと思うようになる。たぶんそれも違うのだろう。気に入らないのはそんなことではない。あくびとともに何かを忘れて、忘れた何かが君を迷路の中に引き戻す。まだ混迷状況を抜け出てはいけないらしい。今さら何を迷うことがあるだろう。とうに出口をくぐり抜け、今は広々とした空間でくつろいでいるはずだ。なぜそのまま何もしないわけにはいかないのか。いったいこの先で何をどうしたらいいのか。この先があるとは思えない。ならばここで終わってしまうわけか。こことはどこなのだろうか。どこでもなければここではなくなってしまうか。ここにいながらまだここに至っていないとしたら、いったい誰がここに至れるだろう。いくら言葉を弄しても何も得られないことに変わりはない。言葉を連ねることによって、何も述べていないように装っている。そんなことをして何になるのか。本当に何にもならないとすれば、何かをやることが無駄に思われてしまう。無駄で無意味なことを述べ続けることが、そんな状況を継続させる秘訣なのかも知れない。11月26日つまらないことで騒ぐのはくだらないが、それがくだらないことだと気づかないのは誰なのだろう。そんなことを述べている君は誰でもない。何がお気に召さないのか。誰に向かって何を述べているのだろう。その辺に限界があることはわかっている。メディアは常に何かを伝え続けている。そういう特性なのだろう。何かを伝えることしかできない。実効性がまったくない。どうもほとんどの人々はそれを真に受けなくなってしまったのではないか。メディアの限界を見透かされている。そんなわけでいつの間にか世間知らずな子供の相手をすることしかできなくなっている。君は画面を見ながら薄ら笑いを浮かべているだけだ。それで何がわかるわけではない。そういう語り方は好ましくない。語っている対象を特定しなければ何を語ろうと無効だ。それができないのはどういうわけか。胸の痛みが次第に激しくなって行く。いつ死んでもおかしくない。そういう切羽詰まった状況はフィクションに違いない。フィクションの中でしか人は死ねないらしい。それと何がメディアに関係しているのだろう。眠たくてたまらないか。考えてはいけないことを考えているのかも知れない。その内容は何なのか。内容など何もない。何もないから考えている。考えても何も出てこないだろう。そこには何もなく、何ももたらされない。腐ってしまったのだろうか。何かが腐っている。腐りかけているのかも知れない。腐るまでに費やされた時間の経過がもたらされている。重みを感じているのは重力のせいだろうか。見たこともない風景を眺めているわけではない。何が見えているのだろう。落ち葉が雨に濡れている。重みを感じているのは落ち葉のせいか。埃っぽいのは掃除を怠っている証拠だろう。無駄に言葉を弄しすぎて戻ってこれなくなる。それで世間が見えているとは言い難い。どこから戻ってこようとしているのか。ここがどこだかわからない。君はとんでもないところまできてしまったらしい。雨はいつまでも降り続き、誰かの心を憂鬱にさせる。今この世界で何が問題となっているのだろう。雨が降り続いていることの何が問題なのか。それを知りたいとは思わないか。鏡の向こう側から誰が何を問いかけているのか。焦れったい言葉の運びについて行けない。ロゼッタストーンには何が刻まれていたのだろう。君はそこで何を解読したつもりになれるだろう。まだそんな段階ではない。考えがまとまらずに焦りを覚える。そんなことを述べている場合ではない。その先を続けてわけがわからなくのは目に見えている。だがそれが予言に結びつかないのはどういうわけなのか。明白な理由を語れないのはどういうわけか。わけがわからないのだから、わけなどあるはずがないか。君にはまだ余裕があるらしい。誰が誰を教育の対象と見なしているのだろうか。はたして子供たちに教育を施す必要があるのか。なぜそう感じるのか。目先の利益とは何だろう。原子力発電を押し進めることなのか。放射性廃棄物はどこへ捨てたらいいのだろう。国会議事堂の地下深くに最終貯蔵施設でも建造すれば、誰もが納得するかも知れない。核廃棄物の安全性を証明するには、それを押し進めている国家が身をもって範を示さなければ、誰も信用しないだろう。保守主義者は国家主義や資本主義に責任転嫁することばかり考えている。世界情勢を国家単位でしか語り得ない欠陥人間を多数輩出することしかできはしない。誰もが互いに責任のなすり合いに終始し続け、結局戦後教育が悪いというどうしようもない結論で納得したつもりになりたいらしい。いったい戦後とは何なのか。なぜ戦後ばかりがくだらぬ言説の対象となり得るのか。戦前の方がさらにめちゃくちゃなことをやっていた事実を忘れようとしているだけか。今さら第二次世界大戦も太平洋戦争も日中戦争もない。そんな遠い過去からどうやって現状の原因を探り出そうとするのだろうか。ずいぶんまわりくどいやり方には違いないが、ある種の人間にとっては、それで説得力が増すわけだから、それはそれですさまじい論理的展開なのだろう。そんなアクロバティックな言説が横行しすぎているか。君はそれで何か述べている気になれるだろうか。たぶん何かしら述べているのだろう。気休めにすぎないが、それでも言葉がある程度連なっていれば、一応はそれで満足しなければならないか。しかし老人のまなざしには何も映っていないようだ。君がそれを阻んでいるのかも知れない。言葉の不自然な並びによって、何らかの目くらましのような効果を発揮しているのだろうか。とりあえず何事にも本気にはなれない。何となく馬鹿らしく思われてくる。何が馬鹿らしいのかと言えば、それは世の中の在り方か。何か抽象的な内容になりつつある。誰も答えを見つけられないのに、問いかけることばかりがもてはやされているように感じられる。誰が何を主張したところで、それは言葉の範囲内で伝わる現象でしかない。いったい彼らは実際に何をやっているのだろうか。目先の利益に踊らされているだけか。11月25日要するにつまらないと思っているわけか。そんなことで本気になってはいけない。では何から学べばいいのだろう。失敗は失敗でしかなく、そこか学ぶべき事など何もありはしない。そんな嘘をついて虚しさでも醸し出そうとしているのか。話は話でしかなく、いくら煮詰まっていてもそこから別の方向性を探りたくなる。別に争いごとになるのを避けているわけでもない。まだ目覚めていないようだ。たぶん誰も目覚めていないのだろう。そんな言葉では誰も目覚めない。永眠している者が目覚めたらゾンビになってしまうか。どんなに金と労力を費やしても、奇抜さを乗り越えることはできないが、乗り越える必要があるとは思っていない。要は金ではないのかも知れない。では君は何のために働いているのだろう。働いていることのいいわけを求めているわけか。それによって何を妨害しようとしているのか。妨害できるとは思っていないが、それは資本主義そのものなのかも知れない。何かに追い打ちをかけるように立て続けに別の何かが起こり続ける。似たような出来事が果てしなく連なっている。別であるはずがないか。ならばそれをどこへ押し出すつもりなのだろう。そんなことをやって何が楽しいのか。誰が楽しさを追い求めているというのか。バランスを欠いているようだ。だからそこに何を当てはめようとしているわけでもない。何も当てはまらないからこそ、的外れな言葉が行き交っているわけだ。だがそんなことは問題ではない。それで一向にかまわないのではないか。君にはでたらめな内容が似つかわしい。それがでたらめでないはずがない。うまい具合に否定的な言説を連続させているつもりのようだが、それで成功しているとは思えない。かろうじて終わりの時を回避しているだけか。それが何を目指しているのだろうか。それとは何のことなのか。たぶんそれがわからないように述べているだけなのだろう。それだけではないと反論するつもりか。誰に向かって反論するつもりなのか。すべては夜の闇に吸い込まれる。そんな対処の仕方を思いついたらしいが、実質的には何の対処にもなっていないだろう。それが君のねらいなのか。誰にとっても認めがたいような文章にしなければならない。それで生き残れたら奇跡のように見せかけたいわけか。そんな大げさなことではなく、ただそこから何らかの思考が生じているにすぎない。君はこの世界の在り方が気に入らない。しかしこの世界はこの世界でしかなく、他にどの世界もありはしないことは承知しているのだろうか。あるいは別の世界からこの世界をのぞき込んでいるつもりになれるだろうか。意味的に文章がつながっていないのではないか。何をどうすればそんなつもりになれるのか。何も思いつかないのに勝手に話が進行していってしまう。何の話かわからないのに、そんな話があり得るだろうか。何らかの話にはなっているのだろう。それで辻褄を合わせようとは思わないが、話の辻褄がどこにあるのかもわからない。君は辻褄の意味を理解してないのではないか。やはり本気にはなれない。本気になれない理由がわからない。見上げれば天井の蛍光灯がまぶしい。それがやめる理由になるだろうか。何をやめようとしているのか。君がやめても言葉は自然に連なってゆくだろう。具体的に何を語っているのでもないのはいつものことだ。君にはやめる理由が理解できない。何が理由となっているのか。続ける理由とやめる理由がどこかで交差しているらしい。その交差点には何があるのだろう。見晴らしのいい展望台でもあるわけか。いつかその展望台に昇って、周りの風景でも眺めるつもりなのだろうか。そういう横道は意味不明だが、他に何を語りたいわけでもないので、事の重要性は皆無に思われる。つまらないことにこだわっているうちに人生が終わってしまうのかも知れない。本気で娯楽にのめり込んでしまう人々には余裕がない。だが他に何があるというのか。テレビだけが君の語り相手なのか。そんな嘘も時として意表を突いているようにも思われる。誰かはいつ何時でもけんか腰の姿勢を崩さないが、そんな人格はあり得ない。文句ばかり並べていても、本気で怒っているわけではないらしい。たぶんそれも話の断片なのだろう。決して全体として完成することのない文章の一部分に話が断片として偏在している。相変わらず何を語っているのかわからない。何かと何かが複雑に絡み合い、何を形成することもなく、混沌のただ中に言葉を放り込む。誰が何を放り込んでいるわけでもなく、君はそこで文章の生成を否定したいらしい。何もかもが不在だと大げさに騒ぎ立てたいのだ。本当に何もありはしない。すべてが嘘だとしても、そんな嘘さえ文章の中には存在しない。何を述べているのかわからないわけだ。何もかもが判別不能なほど言葉が方々へ分散している。本当に何が存在しているのか。言葉以外にどんな手がかりがあるのか。どうあってもメロドラマ的展開を否定したいらしいが、それで話になっていないのは致命的な欠陥か。それでかまわないのならどうしようもない。11月24日どうもどこかで誤解が生じているらしい。それでもう何も語りたくなってしまったのか。何か原因でもあるのだろうか。語ることが何もないと思っているのは誰なのだろう。それでも誰かが何かを語っている。テレビの中からそんな主張が聞こえてくるが、つまらないのですぐ消して、適当なジャズでも聴きつつ、何となく言葉を連ねているらしい。そこには何が欠けているのか。その程度の水準にとどまるべきなのか。それは誰の時間でもなく、誰の支配も受け入れない時間帯なのかも知れない。しかしどこまで逃げれば気が済むのか。どこから逃げているのだろう。逃げずにとどまる理由があるだろうか。逃げることによって何を導き出そうとしているのか。言葉の連なりは誰の思いを反映しているわけでもない。偶然がそうさせているようだ。君はそれらの文章の形成には関与していないようだが、では誰が文字を記しているのか。記述者が不在の理由を知りたい。そんな風にして逃げているわけか。何から逃げているのか。現実から逃げていると思いたい。逃げ切れるほど柔な現実ではないはずか。冬の日差しは何をもたらしているのか。いくら無理を押し通しても、必ずどこかで息切れしてしまう。何をわかろうとしているのか。ため息だけでは何も進まない。とりあえず現状から距離を取らなければならない。やり直しはききそうもない。すでに逃げるだけ逃げて、後戻りができなくなるほど追い込まれているはずか。それでも希望を捨てようとしないのは、何らかのもくろみを心に抱いているからか。それが浅はかな試みにならなければいいが、わざと失敗しようとしているわけでもないだろう。それの何が失敗なのか。現時点では何もわからないようだ。わかりかけていることすら忘れてしまっている。そしてそんな風に述べているうちに焦れったくなる。いい加減に真実を語ってしまったらどうか。何が事の真相となるのだろうか。さらに言葉を弄すれば、忘れかけていたことが次第に思い出されてくるかも知れない。君には行き先が見えているらしい。誰の末路を知ってしまったのか。近づこうとすると離れていってしまうのは何なのか。君はさらにこの世界から遠ざかろうとしている。何の内容にも至らないのはそのためだ。他人の心から遠ざかり、退屈な政治状況から遠ざかる。どこまでも保守主義にすがりつこうとする輩は醜い。しかしそれしか選択肢がないと思いこんでいるとしたら、それはこの国の現状そのものなのかも知れない。要するに嫌な人々が大勢いるということか。不快で不愉快なことを述べている。それがどうかしたのだろうか。時が経てばそんなつまらないことは忘れてしまうだろう。誰もそこにはいない。何が見当たらないのか。君は何を嫌っているのだろう。何を思い出そうとしていたのか。君がすべてではない。この世界がすべてでもない。誰かは何を述べているのだろう。息を止めて目を閉じて耳をふさいで、後は何をやったら気が済むのだろうか。そういうことを述べていると楽しいか。迷い疲れて眠ってしまう。どこから何が響いているのだろう。空洞の内部で何が反響しているのか。それは心の闇ではない。夜空が天井から落ちてくる。ユーモアになっていない。言いっぱなしの言葉が闇の中へ溶け込んでいく。君は君自身を夜の闇の中へ放り込む。それは嘘の始まりになるだろうか。終わりを見いだせないなら、それは始まりに違いないが、それらのフィクションはどこで生成されているのか。まだ時間が必要らしいが、それは何をやるための時間なのだろう。思いこみを深めるための時間かも知れず、それらの思いこみから遠ざかるための隔たりが求められている。何を取り去ろうとしているわけでもなく、心の中にどんな気持ちが生じているわけでもない。これからどんな嘘をつくにしろ、それが見え透いているとは思いたくない。では何をどう受け止めればいいのだろうか。帳尻あわせやつじつま合わせは無効か。たぶんそうではないと思っているのだろう。現状を否定したいのか。そんなことを思っているわけではない。心入れ替えれば今とは違った風景が見えてくる。君にはそれがわからない。何を述べているのかもわからない。たぶん何も述べていないのだろう。心がそこから遠ざかってしまったからか。興味をなくして文章を構成できなくなる。ひたすら無駄なことを述べ続け、虚しさがこみ上げてくる。それで無限に近づいたといえるだろうか。無限とはどのような概念なのか。余計なことを考えているようだが、気休めにはほど遠いと思われ、そんなことを述べている自らが馬鹿らしく思われてくる。それでも君は本当のことを明かしていない。未だに屈折した感情を捨てきれず、もうとっくに終わってしまった出来事にこだわっている。事の顛末を知ろうとして、何を調べているつもりなのか。まだそこまで到達していない。誰が行き着く先を予想しているわけではない。ではそれらの文章は誰に何を告げようとしているのか。話の内容がでたらめで意味不明である以前に、わけがわからないというわけでもあるまい。そうなってしまったわけを誰かは知っている。11月23日嫌悪感がどこからともなく生じてくる。色彩感覚が狂っている。それは何に対する感想なのか。軽やかに何が動作しているのだろう。誰が軽やかにステップを踏んでいるわけでもなく、機械的な動きに何を期待しているわけでもない。見る目がないとはどういうことなのか。目が少々傷ついているようだが、別に盲目になったわけではない。眺めているのはテレビ画面にすぎず、安易な映像表現ではその場の状況を伝えきれていないようだ。しかしそれを言葉によっても伝えきれているわけでもない。君はいったい何について語っているのだろう。別に三文オペラを堪能しているわけでもなく、無人の舞台において何が演じられているわけでもなく、それほど凝った演出が施されているわけではない。それで誰のやる気が出てくるわけもないか。誰に何をやってほしいわけでもないはずか。ただ一連の動作を順序立てて説明する気になれないだけか。誰が詳しい説明を必要としているのか。それらの話には始まりも終わりもないのに、そこからどんな動作が生まれるというのか。またそれが現実の動作といえるだろうか。実際に何がそこでうごめいているのだろう。痕跡は何も見つからず、影すらもそこにはとどめていないようだ。そんな判断不能な状況の中で、何を述べることができるのか。それでも中身を伴った文章を構成するつもりなのか。だが絵画的な文章などあり得ない。すべての事象は過ぎ去り、言葉もついでに忘れ去られてしまうだろう。この世界では廃墟以外に何も残らない。本当に何も残らなければ、それは誰の本望と結びつくのだろうか。誰もそんなことは望んでいないはずか。それは誰の結末なのだろう。君は誰の行く末を案じているのか。そうではなくこの世界の行く末か何かか。とりあえず終わりよければすべてよしでは、何も報われないはずだ。省かれるような途中ではあまりにも虚無的すぎるだろうか。途中で何が報われようと、結果的にはすべては廃墟と化すわけだ。それでいいはずがないと思うのは誰の意識なのだろう。だから何とかしようとして、無駄な努力を惜しまず、それが無駄にならないと密かに願いつつも、結果的に無駄な努力に終わってしまうことを悟っているらしいが、それがどうしたわけでもない。たぶんそれが神の言葉とはならないだろう。意味が通らないのではないか。なぜそう不自然に語ってしまうのか。ではそこで何を反省すればいいのだろう。何かそこに思い違いが潜んでいないか。思い違い以前におかしいのではないか。それでまともな神経だと言い張るつもりはないが、どんな可能性をそこから導き出せるのか。何をうまくやろうとしているのか。うまくやろうとすればすべてが台無しとなるだろう。昨日は疲れてしまって何もできなかったようだが、今日はなぜやる気が出ているのだろう。そうではないはずだ。すでにあきらめの境地に至っているはずなのに、執拗にその続きを言葉で構成しようとしているらしく、それが無駄であるとか過ちだとか貶す前に、何か積極的な行為であるかのように思いこもうとしているらしく、君にはそれはどうしようもなく鬱陶しく感じられてしまうらしく、何とかそれが思い違いであることを言葉で示そうとしているわけか。そんなことができるわけもないだろう。やっているのはできもしないことのようだ。では今やっているそれらの試みは無駄で無意味なことなのか。そう述べて何を卑下しているのだろう。あるいはそれは嘘に違いないか。何があるいはなのかわからない。嘘でなければ逃げようがなくなってしまい、そこから遠ざかれなくなってしまう。だから今はできうる限りくだらぬ問答を避けて、何かそれとは違う文字列を導き出さなければならない。そうやってさっきからできもしないことを延々と述べているようだ。それが君の悪い癖か。だが悪い癖でも文章には違いない。そんな薄気味悪い状況を払拭するには言葉が足りなすぎる。何が薄気味悪いと感じているのか。そんなこともわからずに言葉を使うのはおかしい。やはり意識は支離滅裂気味にいつもの自己言及へと誘い込まれているようだ。しかし事態を打開する術を思いつかない。要するにそこで行き詰まっているらしく、そこから抜け出そうともがき苦しんでいるようだが、それが予定調和の成り行きだとしたら、それに逆らって何か強引に違うことを述べるべきなのか。君はそこからどう展開すべきを知っているようで、影もうすうす感づいていて、それを行う機会を探っているらしいが、君の意向に逆らっている誰かは、今さらそれを行うつもりはないらしい。何が今さらなのだろう。誰が多重人格なわけもないが、何となく自家中毒に陥っているような気がする。それは尿毒症の一種か。思いもよらぬ言葉を辞書で発見したらしく、さっそくそれを冗談で使ってしまったようで、次いで呆れてものも言えなくなってしまう。だがそんな風に述べてしまえば、言葉の泥沼に沈み込むこともないか。軽薄すぎて逆に浮き上がってしまうのではないか。しかしそれでどこから浮き上がっていることになるのだろうか。見えているのは何の変哲もない地上の風景だ。そこで意識がもうろうとし始めるが、別に風邪気味というわけでもなく、それとこれとは意味的にまったくつながらないことを承知しつつも、たぶんそこで転調したつもりなのだろう。それも冗談のたぐいかも知れない。本当にわけがわからないまま終わってしまうようだ。そのほとんどが蛇足となっている。11月22日誰かがいつの間にか追い込まれている。それは君の思い違いだろう。しかし気休めは要らないか。誰の思い違いでもなく、本当に追い込まれているのではないか。時折意味不明な文字列が外の世界から送られてくるが、それが誰からのメッセージでもあり得ないことは承知している。それは数ヶ月前の出来事に関連した仕打ちなのか。なぜどうしたらいいかわからないと述べるのか。どうしてそういうことになってしまうのだろう。間に合わせの知識では何もわからないか。ではわかるには何が必要なのだろう。わかろうとしなければいつまで経ってもわからないままか。わかるのに必要なのは時間だけかも知れないが、いくら時間を要してもわからなかった場合、それは骨折り損のくたびれもうけになってしまいはしないか。何を恐れているわけでもない。それだけでないことは承知しているが、君にはわかり得ないことを誰がわかろうとしているのか。誰にわかってもらいたいのか。それに関して君は過去の経緯を忘れているようだが、どのような手順を踏んで誰がそれを知ろうとしているのか。気がつけば話がそこから一歩も先へ進んでいない。また無駄な延々と言葉が繰り返されている。それも一つの技法かも知れないが、わざとらしくて退屈極まりないという点で、失敗に終わっているのだろう。いくら無限循環にはまっても誰もそこから助け出してくれないか。助けてほしくないのかも知れず、そのまま言葉の無限循環のただ中で自閉していたいのかも知れない。それの何が勘違いだと主張したいのか。誰が何を主張しているというのだろう。君はその主張の中身をまだ知り得ない立場にあるようだ。知りたくもないのかも知れない。そんなことを知ってもつまらないだけか。くだらぬ詮索は自らの卑しさを自覚させる。言葉の使い方が間違っているかも知れない。たとえ間違っているとしてもそれでかまわないのではないか。そのうち何でもかまわなくなってしまうだろう。空疎であっても無意味であってもかまわないか。それはもとからそうなのではないか。不特定多数の人々から注目を浴びたいわけでもないはずか。何によって注目されたいのかわからない。殺人事件でも起こせば一時的に注目を浴びることができるかも知れないが、それで終わってしまうだろう。打ち上げ花火が一発しか上がらなければ寂しい限りだろうか。ところでそれは何でもかまわない範疇の中に入るわけか。入っても入らなくてもかまわないが、そこで何となく嘘をついているようだ。破綻を来しているのかも知れない。追い詰められた後は破綻してしまうわけか。そこで話がつながるとは思わなかったらしい。しかし何の話をしているのだろうか。誰が何を話しているわけでもなく、わけのわからない言葉の連なりが記されているだけか。少しずれているようだ。わざとずらしているらしいが、それを誰も認識できないかも知れない。要するに骨休めの箸休めといったところだろうか。ますますわけがわからなくなってしまうかも知れない。そのとき知り得たことはそんな内容ではなかったはずか。では何を知り得たというのか。水面に何かの影が映っているはずか。その影がわけのわからないことを語っていて、それを他の誰かが記していることにしておこう。それはくだらぬいいわけにすぎないか。それを誰が知っているのだろう。さらに同じような言葉が繰り返されてしまう。それも君の思い過ごしにできるだろうか。それが無理なら何か違うことを述べてみればいい。話が脱線していってしまったところに戻って、何か気の利いた修正を施してみればいい。その気がなければそのままに推移していくしかないだろう。今さら大げさことを語るつもりはなく、世界情勢がどうのこうの語る気がしなくなって久しい。それでもこの世界について何を語れるというのか。すべては限りのない修正の連続になる。どこまで修正しても修正し足りない。どこをどう修正してもなお別の修正が必要となる。しかしすべての修正が無駄というわけでもなく、逆に何をやっても無駄だと感じて、そこで修正を怠ってしまえば、そこで終わってしまうわけだ。何が終わってしまうのかといえば、生きることが終わってしまうのだろう。それ以降は生きていても抜け殻のようになって生きていくことになるらしい。だが生きている気がしなければ死んでいるというわけでもないらしく、何となく生きているというわけでもなく、取り立てて何を考えているのでもないらしい。ただ周りの自然環境と同化しているわけだ。しかし自然の一部として振る舞うことの何がいけないのだろう。それで何をあきらめていることになるのか。理由も根拠もなく、そのように生きている者は、ただそれだけの人として生きているということか。それだけの人となることの何がいけないわけでもない。人としての価値などない方が気楽かも知れず、気楽であれば肩肘張らずに自然と自由に振る舞っているつもりにもなれるだろう。それが自然が仕掛けた罠だとしてもそれを否定する気にはなれない。それでもかまわないのだろうが、君はそうはなりたくないらしい。無論なりたくない理由など何もない。11月21日柿が熟しすぎて根本近くの地面に落ちてくる。それとは何の関わりのない行為とは何か。昼の空に向かって何を叫んでいるわけでもない。ただ何かがおかしい。唐突に突拍子もないことを述べようとしているのか。気が狂っているのはほんの一瞬にすぎない。後はひたすら平静を装い、何食わぬ顔で辺りをうろついている者がどうしたというのか。どうしようもなければ無視するしかない。誰にちょっかいを出そうとしているわけでもない。たとえばそんな風に述べれば挑発的な響きを担えるだろうか。いつまでも自信過剰でいられるわけでもないが、それでもこの世界にもたらされている現象は退屈極まりない。本心からそんなことを述べているとは思えないが、どこから何がもたらされているというのか。思いついた先に何があるのだろう。意味不明な言葉が果てしなく並んでいるようだ。誰が並べたわけでもない言葉の羅列の果てに、何がもたらされるのだろう。予定調和の成り行きをどうやってぶち破るつもりなのか。別にそれで勝負に出ているわけではない。誰かが何かしら述べているようだが、いつも同じことの繰り返しのような印象をぬぐえないだけだ。やはりちまたには馬鹿な人々がうごめいているようだ。今日も画面上の光景は何かに踊らされている。いずれそんな現象も何からの試みと見なされるのだろう。君はどこまで馬鹿になれるのだろう。そこで誰が犠牲となっているともいえないが、言葉だけが一人歩きをしていて、全体的に不自然な印象を与えているようだ。いったいそれはどういうことなのか。どういうことでもなく、少なくともそういうことではなさそうだ。結論とは無縁の試みの中に破滅へのきっかけが潜んでいるらしく、とりあえずそこで支離滅裂をよしとしなければ、その先へは進めないということらしいが、実際にそんな印象はない。誰かは言語中毒に陥っているのだろうが、印象に残らないような衝動がどこから生まれるのだろう。何が創作のプレッシャーになっているとも思われない。ただ中身が伴っていないだけか。たぶんそこには何もありはしないのだろう。質も実もなく、空疎な文章だけがそこに記されている。だが少なくともそこから話が始まるらしく、安易に虚無が語られる一方で、それは血のにじむような努力とはならず、死ぬような苦労とは無縁の試みなのかも知れず、そこで何が生きているわけでもなく、誰がその状況のまま生き長らえようとしているわけでもない。脳死状態ならやがて死が訪れるはずであり、誰もいなくなった満天の星空の下に、寒風でも吹きすさんでいるわけか。低気圧が上空を通過したのかも知れない。寒冷前線の北側に入ったということだろうか。それで天候以外に何が変わるというのか。何を変えようとも思わない。わざわざ変えようとしなくても、それは次第にわざとらしい作り話へ変質しようとしている。それとは何なのか。誰がそれを語っているのだろう。誰がどのように著しているというのか。しかし変化とは何なのか。言葉と無意味の均衡状態が崩れ去ろうとしているわけか。もとから釣り合っていたわけではない。誰かがそれらの文章を添削したがっているようだが、今さらその場に生じている矛盾を改めるつもりはさらさらない。誰が何をしようとしているとも思えないが、ただ考えれば考えるほど言葉が出なくなる。言葉が出なくなれば終わりにしてしまえば済むことだ。それの何が問題なのか。やはりいくら語っても何も語っていないような気になり、そこから何も語り得ない自らに対する自己嫌悪とともに、実際に目を閉じようとしているわけか。目を閉じれば眠ってしまうだけだろう。結局のところそれらはすべて言葉遊びの段階にとどまっている。確かに誰が何を語っているわけでもなく、それらの無内容は何のたとえ話にもならない。要するに君は完成させることを拒否しているわけだ。拒否する以前に終われないのではないか。終わりがなければ誰がそれらの文章を構成しているともいえないか。たぶんそういう話ではないのだろう。この世界がそれを求めていない。妄想とはそういうものだろうか。何が妄想なのだろう。すべては空想の段階にとどまっているらしいが、前置きに力をかけすぎているようにも感じられ、それだけで完結させようとしている感さえ抱かせる。それで完結できるわけがないか。何かが重荷になっているのだろうか。語ろうとする動機がどこにも見当たらない。その理由を明らかにしようとせず、ひたすら前述とは無関係に言葉が無方向に飛び散ろうとしている。虚無の領域へ退きすぎなのか。何が虚無の領域といえるのか。そこでは誰もが重力からの作用を被っているらしい。自らの重みで床にへたり込みそうになる。たまには無重力環境にその身を置いてみる必要があるらしいが、それは限られた者たちにしか可能でない。しかしそれは何のたとえになるのだろうか。比喩の対象がどこにも見当たらないのはどういうわけなのか。単なる嘘でしかないということか。たとえ嘘であろうとなかろうと、重荷から解放されたいと願うのは誰しもが思うところか。それは何の結論にも至らない終わり方になるだろうか。11月20日その決意はどこで明らかにされるのか。いったい何をやめようとしているのだろう。やめられないことをやめられるわけがない。誰かはそれをやめようとしている。しかしすべては架空の話だ。やめられない話だから架空になってしまうわけか。しかし架空の話だからといって何を空想しているわけでもないのだろう。時空を超えて何が襲来しているわけでもなく、そういう無駄な言葉でその場を取り繕う一方で、何かの殻を破って別の何かが出てくるような気配を感じるが、たぶんそれは気のせいだ。その何かはいつまで経っても何かでしかない。そこからどのような展開もあり得ず、それは何か以外ではあり得ないような何かだ。実際にそう述べているのだからそうに違いない。要するに何も述べられないということか。しかしそれで別に意表を突いているとも思えず、それでうまくいくわけもなく、いつものように何を述べているわけでもなさそうだが、その状態から抜け出そうとしていることは確かかも知れないが、結果的には相変わらずわけのわからない話に終始しているようだ。いつまでもそんなことを述べていると虚しい気分にならないか。君はその虚しい気分を利用してさらに遠くまで言葉を連ねようとしている。それで何がわかるというのか。わけがわからないということがわかったのだろうか。そんなのはごまかし以外の何ものでもないだろう。満足からはほど遠い、不快な気分のただ中にとどまっているはずだ。だが一方でそういう文章の取り繕い方を身につけている自らに気づき、恐ろしく思われてくる。なぜ限りなく内容から遠ざかろうとしてしまうのか。それが相対的に無内容に近づいていることになるのかも知れないが、いったい文章を構成することとは何なのか。さらにわけがわからなくなるためにそんな作業を繰り返しているわけか。翌日の空は晴れ渡り、快晴のようだ。天候でごまかそうとしても無駄か。無駄だからこそ天気について述べていて、それが苦し紛れの感を否めないことに腹を立てているわけか。そんな風に思ってしまうこと自体が愉快でたまらない。思っているのではなく記述しているだけだろう。それがさらに虚無感を煽り立てているわけか。なぜこの世界は君に空虚しかもたらさないのか。たぶんそれはこの世界が君のものではないからなのだろう。君が神でない証拠がそこから導き出される。そういう大げさな理由で何もないことの説明になるだろうか。何もないわけではなく、君には空疎な文章があるはずか。君は自らの存在が意味不明であることに戸惑っているのだろうか。しかしそれは思い違いもいいところで、それが存在であるはずもなく、それは紛れもなく君の不在でしかない。しかし不在とは何なのか。存在しない君について誰が語っているのだろう。誰がそこで決意を表明しているわけか。それはどのような決意の表れなのか。途中からわざと論点をずらしてわけのわからなさを醸し出そうとしているようだが、そうすることにどのような意味があるのだろう。意味がないから無意味なのかも知れず、わけのわからなさと同時に意味不明をも文章に反映させようとしているだけか。それこそわけがわからない。そうする理由は何なのだろうか。要するに何を述べているわけでもないことを文章によって示したいのか。何となくそんなことを述べているうちに呆れてきたようで、そうまでして継続させようとするのは本末転倒のような気がしてくる。何が本末転倒なのかといえば、何か述べたいことがあるから文章を構成するのがまともなやり方であることはわかりきったことだが、文章を構成するために何も述べることがないと表明しているわけで、たぶんそんな状況ならさっさとやめた方がいいとは思うのだが、何となくそんな単純な成り行きでそれらの文章が構成されているとは思えなくなっているようだ。そんな無内容の中にも何らかの主張が紛れ込んでいるのかも知れず、何も述べることがないと語りつつも、その実何かを述べているのかも知れない。たまには空疎な文字列の中にも、その場の偶然から語り主の不明確な主張らしきものが紛れ込んでいるようにも思えてくる。たぶん意味不明の中にも何らかの意味を読み取るべきなのだろう。そこであきらめてはならない。あきらめずに根気強く続けるべきなのかも知れず、何を続けているとも思えないが、何かしら続けている現状を認めなければならないのではないか。何ももたらさないからといってこの世界をあきらめてはならない。世界の中で何かを探し出し、何か有形無形の実現を目指すべきなのか。しかしそれらの言葉は何を語っているのか。君に何をやらせようとしているのだろう。すでに待ちくたびれるほど待ち続けているのではないだろうか。何の到来を待っているのかも忘れてしまうほど待ち続けている。本当に何を待ち続けていたのか。何がどうなってほしかったのか。そのために何をどうするべきだったのか。今となっては何も思い出すことができなくなっているようで、どこから遠ざかっているのかもわからないほど遠くまできてしまったような気がする。11月19日もう昨日の時間帯をすぎてしまったらしいが、そこからさらに続けてしまうらしい。たぶん意味を見いだせないだろう。実際に見いだそうとしているのは意味ではなく、無意味な文字列に違いないが、そうすることに何の意味があるというのか。わざと矛盾を形作っているつもりなのだろうか。そんな矛盾が何をもたらすのか。すでに矛盾をもたらしているではないか。何も述べられないのに何かを述べている現実がある。もはや良心の出現を期待する状況にはないらしい。この世界に見いだされている価値観とは無縁の試みが繰り広げられている最中のようだ。そんな大げさなことではないのかも知れないが、何となくそれを肯定することはできない。それでもあとから受け入れざるを得ない成り行きになってしまうだろうか。何を受け入れるつもりなのか。それらのぎこちない言葉の連なりをどうすることもできず、制御不能な駄文へと変貌を遂げているのかも知れない。もはや何をどうの述べていたのか思い出すこともできず、つまらぬ気分で自動的に文字が連なる画面を黙って眺め続けるしかできない。それは君の文章ではない。君とは無関係なただの文章に違いなく、誰の所有物でもありはしない。誰がそれを止められるというのか。誰が何を止めるつもりもなく、誰とも無関係なのだろう。少なくとも君には関係のない文章だ。誰が君に迷惑をかけているわけでもない。外では雨が降り続き、部屋の中には静かな音楽が響き渡っている。そんな状況が誰に関係しているというのか。ただむやみやたらと言葉を繰り出している。誰がそうしているのだろう。誰でもない誰かがそうしているわけでもあるまい。どうしようもなくそうしているのは誰だろう。そんなやり方で気が済むとは思えない。誰がそう思っているのか。誰もそう思っているわけではないだろう。少なくとも誰かがそう思い、どうしようもなくそうしているはずだ。そうでなければ話が成り立たず、そこに架空の登場人物を設定できるはずだ。しかし話の中身が何もないのにフィクションが成り立つだろうか。何を成り立たせようとしているわけでもなく、ただそんな風に述べているだけか。だが誰が述べているのだろう。誰も述べているわけでもなければ、そこに存在する文章そのものが実在しないということになるだろうか。そんなはずがない。それはわざとらしいやり口だ。わかりきっているのにわからない風を装い、そんな嘘が剥き出しになっているのに、あえて嘘をついているわけを知りたくなる。わけなどわかりきっている。そのわけを表明するつもりはないが、わけなど何もないと述べることは容易だ。要するに簡単に嘘をつけるわけで、それで誰に迷惑をかけているわけでもなく、何を述べているわけでもない。嘘が嘘として機能していない。たぶんそれはフィクションでも何でもなく、文章はただの戯れ言の羅列と化しているだけかも知れない。君はそれで気が済むだろうか。気が済んでしまったらそこで終わりか。何となくその先に何を述べていいかわからなくなっている。愛とは何だろう。唐突にそんな意味のない問いかけに逃げたくなってくる。何も突拍子のない答えを期待しているわけではない。自然に振る舞えたらそれでかまわないのではないか。その自然という言葉が理解不能に陥っているのかも知れず、何もかも自然でごまかしてしまえばそれで何か述べているような気になっているのだろうか。誰が何を述べていることになるのだろう。人々はそうやって自然の一部として機能していて、自然に支配されている動物にすぎないのか。唐突に述べていることのわけがわからなくなる。それで自然に通用するとは思えないが、他の何に通用させようとも思わない。確かにどこかに良心を置き忘れてきてしまったらしい。君にはそれが理解できない。たぶんそのようなタイミングなのであり、機会を捉えてそのような意味不明を繰り出しているのだろう。それでその場はうまく機能しているはずだ。要するにそんなことならいくらでも述べられるというわけか。そんなに状況が甘いとは思えないが、何となくそんな認識でかまわないのだろう。ただいくらでも眠ってしまってかまわないのかも知れない。眠れるときに眠ってしまえば、何もかも忘れてしまえるかも知れない。面倒なことは目覚めた後に片付けてしまえばいい。片付けられたらそれでその場はおしまいになる。おしまいになってしまったらまた眠ってしまえばいい。そんなことの繰り返しですべてが片付くだろうか。しかし何を片付けようとしているのか。はたして片付けるものがわかっていないのに片付けられるだろうか。そのときになった片付ける対象が目の前に現れるのかも知れず、たぶんそれを片付ければいいだろう。そうやって物事を簡単に考えようとしていること自体、かなり眠たくなっている証拠かも知れず、もう何もかも投げやりに処理したくなっているのかも知れない。すべてはどうでもいいことなのか。確かにどうでもいいが、それをどうでもいいことのように扱ってはならないのかも知れない。11月18日なぜそんなところでとどまっているのか。何を語ろうとしていたのだろう。何も語れないからとどまっているのではないか。ならばそれで終わりとなってしまう。簡単なことだろう。しかしそれで気が済むはずもない。ならばどうしたらいいのか。どうにもできなければそこで終わりだ。たまにはそんなのもありかも知れない。どうにもできないのだから仕方がない。仕方がないがあきらめることなどできるわけがない。ならば未練がましく言葉を組み合わせて文章を構成する以外にないだろう。やはり前置きが長すぎるだろうか。わざとらしい自己言及に終始している。それだけでは物足りないか。その状況で他に何ができるというのか。何もできないからそんなことを述べているわけだ。いくらでもそんなことを述べ続けている現状がある。その状況とはそんな現状のことだ。現状では何かが踊っている。平然と嘘をついている。やましいことは何もない。現状に逆らうべきではないのだろう。何も思い詰めることはない。絶望が君を助けてくれるだろう。無理にそこからはい上がろうとしてはいけない。偶然に道が開けるはずだ。言葉はそんなごまかしの一部始終を再現してくれる。すべては空虚のただ中に投げ込まれ、意識そのものを無に分解してしまうだろう。そこで忘れていた話を思い出させてくれる。話の中ではすべてが形骸化している。空っぽの動作が話しそのものだからだ。何を操作しているのでもなく、無が言葉を操作している。そこでやりきれない思いが明らかとなり、一連の動作によって辻褄を合わせられなくなる。首をかしげながらも、そんなことを語っている自らに気づいてしまうわけだ。それは無意味なことだろうか。すべての時がそんな風に推移しているとは限らない。偶然がそれらの雰囲気を醸し出しているだけだ。だからそこで止まってしまうわけか。話など何もあるはずがない。芸術なんてくそ食らえか。何が芸術なのかも理解できない。つまらない言葉を用いて、その場の静かな雰囲気をぶちこわしにしている。途中に凶暴な感情が紛れ込んでいる。要するにそういう文字列では飽き足らないのだろう。自意識で偶然を操作できるわけがない。何か高尚な内容に持ち込もうとする意図が感じられてしまい、それを嫌って言葉が勝手に暴走してしまうらしい。だがそんなやり方をいつまでも続けられるわけもなく、次第に行き詰まりの度を深めつつ、苦し紛れに感情の爆発を装い、それをいつまでも持続させようとして、無駄な言葉が執拗に繰り返されるが、それでうまくいった例しがないようだ。だからいつも挫折してしまうわけか。何に挫折しているというのか。挫折している証拠を見せてほしい。心が乱れて卑しい感情が顕わになる瞬間を見逃していいはずがない。すかさずそこに空疎な内容をあてがい、何事もなかったかのように平静を装うとするが、その見え透いた動作は不自然な印象を免れ得ないか。何が君をそうさせているのだろうか。それの何が決め台詞として機能しているのだろう。機能不全に陥った文章を抱え込んでいるわけでもあるまい。何となくそんなことを述べながら、その場はそれで済まそうとしている。後から何を吟味することもないだろう。くだらないことだと思ってしまえばそこで終わりかも知れないが、終わらない話などくだらなすぎるか。それで危機が回避されたなんて思ってはいけないわけか。まだくだらない話には続きがあるのだろうか。いつまでも言葉を連ねていると、やがて終わりを通り越してしまい、何が話の終わりだったのかわからなくなる。その時点で何が話だったのかもわからなくなり、何となく意味のないことを述べ続けている自らを見いだして、そんな自らが虚構の存在であることに気づき、そんな自らの不在にどう対処していいかもわからず、つかの間の虚脱感を味わったつもりになるが、それで何が済むはずもなく、さらに虚無的な内容を続けようと無意識が画策しているようで、そんな得体の知れぬ影におびえながらも、事態はその場で影のなすがままに推移しているらしく、何を語っているわけでもないのに、言葉の連なりが延々と続いてゆく状態が持続されていって、そんなやり方は気にくわないようだが、気分を害しながらもそれを受け入れざるを得ない状況になっている事実に気づいてしまい、絶望の淵に追いやられ、そこで終わろうにも終わりようがないどうしようもなさをどうすることもできず、引きつった薄ら笑いとともに、それらの成り行きに身をまかせ、ただいつまでも眺め続ける。何を眺めているのでもないのに、それで眺めていることになるらしく、何となくあきれかえりながらも、それらの自動作文システムに助けられている現実がある。それはどういうことなのか。それでかまわないのだろうか。かまうわけがないのかも知れないが、君は完全に意識の外にはみ出ているようだ。しかしそこに何があるというのか。夜を覆い尽くす暗闇の中にどんな希望が紛れ込んでいるのだろうか。君はその希望をつかんだつもりになれるだろうか。11月17日どこかで立ち往生しているらしい。渋滞にでも巻き込まれてしまったのか。気がつけば思考の外側で何かがうごめいている。それは感情のたぐいではない。暗めの音楽がラジオから流れてくる。紅茶は香りを楽しまなければならないそうだ。何を述べているわけでもないのはいつもの通りだ。思考は限界に近づいているようだ。精神的に崩壊状態なのだろうか。興味のないことを無理に述べているうちに、何を述べているのかわからなくなってしまったようだ。しかしそれはよくあることでしかない。頭の中では何かを考えているつもりらしいが、現状から何を吸収しているのだろうか。君はこの世界の中で何を目指すべきなのか。彼の地では何度目かの冬を迎えている。それが何の答えになっているわけでもない。謎解きの答えなどどこにもありはしない。その調子では何をやろうとする気力も湧いてこない。疲れているのは毎度のことだが、すぐに眠ってしまうのはどういうことなのか。それで運命の糸に導かれているとでも思っているわけか。ただ疲れているから寝てしまうだけか。やる気にならないのは昔からそうなのであって、それが取り立ててどういうことでもなさそうだ。もうすでに行き先は決定している。今さらそんな成り行きに不満があるわけでもないだろう。毎日のように押し寄せてくる雑音のたぐいにいちいち不平不満を並べていたら体が持たない。たまにはそれとは違う成り行きになることを願って、少しは中身を伴った文章を構成したらどうか。それができたら苦労はしない。何となくその場の雰囲気に踊らされているわけでもなく、しかし空気をつかんでいるわけでもなく、何かいい加減で適当なことを述べているだけのようで、気まぐれに眠気を催し、それでうまくいっているとも思わないが、何もかもうまくいっていないように装いつつも、くだらぬいいわけに明け暮れ、やがて呆れられ、何を述べることにも飽きてしまい、偽りの狂気にかこつけて、唐突に周囲を驚かすようなことを述べているつもりになり、それが不発に終わろうと、それで何かを成し遂げたような気になる。そんな状況なのだからもはやそれに耐えるしかないようだ。この際膿をすべて出し尽くして、初心にかえって、まっとうな主張でも展開してみようではないか。そもそもそれが嘘なのではないか。初心自体がかなりいかがわしい内容を伴っている。もはや書くことが重要な時代ではないのだろう。誰もが適当でいい加減なことを書き散らし、それを不用意に発表できる時代だ。そんなことまで発表する必要もないのに、やはりほとんどの書き手は得体の知れぬ誰かに読んでもらわなければ気が済まぬ性分らしい。要するに見せびらかし中毒となっているわけか。まったくどうしようもなく大人げない。発表するか否かを問う判断基準がない。だから何でもありなのであって、何を発表してもかまわないわけだ。それが誰にでもできてしまうのだから仕方がない。もはやら他人の稚拙な文章を馬鹿にするどころではないのかも知れず、何の選別も選考も経ていない文章をいきなり公にできるわけだ。質が低下していることは否めないか。基準が何もないわけだから質も何もありはしないだろう。文章の質自体があり得ないのではないか。しかしそれ以上の何を望めばいいのだろうか。自由とはそういう状況のことをいうのではないか。何を批評しているのでも批判しているのでもなく、何も述べられないことのいいわけとして、そこにいもしない他人の文章を嘲笑してみせることしかできない。批判の対象となるのはすべて架空の文章だ。無理を承知で言葉を連ねている現状だけが誰かの肩に重くのしかかる。君にはそんな成り行きが愉快に思えて仕方がないようだ。それは浅はかな強がりややせ我慢にしかならないが、それ以外に何ができるかといえば、何も思いつかないのだから、結局それをさらに押し進める以外にやりようがないのだろう。要するにいつのものように行き詰まっているわけだ。予定調和気味に同じような言葉が繰り返され、それを読む者の眠気を誘う。ただ眠たいだけで、何を述べても眠たくなる。そして語っていることの何もかもが馬鹿げているように思えてくる。何が悪いのだろうか。どこに諸悪の根源が潜んでいるのか。誰に批判の矛先を向けようとも思わず、そうかといってその先にどんな言葉を続けられるわけもなく、そんなことしか述べられない自らの愚かさを嘆いても仕方ないような気がしてくる。何を探し出そうとしているわけでもないらしい。どうしようもなく深夜の時間帯になってしまうのだから、そんな成り行きを呪ってみても仕方がないが、さらに誰かは自己嫌悪を催すような意味のないことを述べているのだろうか。君は何を考えているのだろう。何も考えられないのではないか。ごまかしだらけの世界から何を抽出しようとしているのか。どうにもできない問題をどうにかしようとしているわけではない。ごまかしや嘘で塗り固められた大人の世界を見せつけておいて、今さら教育も何もあるわけがない。11月16日どこかで狂いが生じている。それは感覚的なもので、実際に何が狂っているわけでもないはずだ。すべては予定通りに事が運んでいる。それでも何となく迷いが生じている。今さらそんなことを語っても仕方がないのではないか。すでにすべては動き始めている。何となく空気が乾いてのどが渇いている。風邪でも引いているのだろうか。今くじでも引けば何かが当たったりするのだろうか。大当たりを引き当てなければ意味がない。そんな風に語れば何だか胸がわくわくしてくるだろうか。だがさっきまで語っていた内容を思い出せない。いい加減に述べるのはよくない。結果として投げやりな態度を招いている。その癖を直さなければならない。直さなければ命にかかわるようなことなのか。命の代わりに何を落としたら驚くだろうか。誰を驚かせようとしているのか。それは落とし物などではない。いつまでもわけのわからないことを述べるべきではないが、そんなことしか述べられないとすると、その先に何が待ち受けているのか。退屈にやられて死にそうになってしまうか。それですぐに死ぬようなことはない。無駄な問いかけばかり繰り返している頭がおかしくなる。しかしこの世界で起こっている出来事は何に関係しているのか。様々な出来事が関係し合って、それらの雰囲気を醸し出している。空気中に何かが漂っているようだが、まだ狂気の雰囲気にはほど遠い。別に映画の話をしているわけではなく、何をどうしようというわけではないが、それらの雰囲気から何を読み取れるだろうか。だいぶ焦っているようだ。すでに何かしら真実をつかんでいるらしいが、それが解決の決め手にならない。誰を自白に追い込もうとしているわけではない。たぶんこれから君が述べようとしていることはわかりきったことだ。それの何がわかりきったことになるのか。今さら君についてわかりきったことを述べようとは思わないが、君はこの世界の現状を馬鹿にしていないか。しかし馬鹿にしているだけで何ができるわけもない。まったく誰からも相手にされていないのと同じことか。ならば相手にされていないことの気休めに奇妙なことを述べてみたい。何が気休めになるのだろう。できもしないことを試みることなどできはしない。それで冗談になっていないような気がする。君はそこで何を仕掛けているのか。何を仕掛けようとねらい通りにいくはずがない。何もやらないうちからあきらめてどうするのか。また意味のない逡巡が繰り返されている。得体が知れないとは思わないか。君は誰のことを述べているのだろう。過ぎ去った日々は遠すぎて、今さら思い出しても仕方がないように感じられる。そこから言葉が湧いてこない。なぜそこから遠ざからなければ思い出せないのか。利いた風なことを述べているかも知れない。すべては近視眼的な思考に基づいている。その場だけでうまく立ち回ることばかりに気を取られ、未来へ向かう可能性を無視しているような気がする。では何が未来への可能性を秘めているというのか。今のままでは何の可能性もありはしない。そう断言できてしまうこと自体が何を述べているのかをわからなくなしているようだ。わざとそう述べている。本当に何を述べているのだろう。何も述べられないはずがない。意味もなく強がっているだけでは先へ進めない。後ずさりしながら先へ進めるわけがない。彼には君のどんな姿が見えているのだろう。恐怖に駆られているように見せかけたいわけか。誰にどう見られようと、本当の姿からはほど遠いか。なぜそうやって嘘をつくのだろう。それも戯れ言には違いないが、そんなことを述べている余裕がどこにあるのか。実際に述べているすべてはほとんど意味不明に近い。ではどこへ帰ればいいのだろう。帰るところなどどこでもいいのではないか。すでに君は土に帰っている。今見えている姿は君の亡霊に違いない。危険を冒して誰かに会いに出かけたまま、帰ってこなくなった。それが今から数十年前のことか。だから今そこにいる君は得体が知れない。すでに君ではないのかも知れない。では何をそこで語っているのだろう。それで誰かに語りかけているように感じられるわけか。冗談にもならないようなことを語りながら、また以前と同じような展開に持ち込もうとしている。今さら苦渋の表情を浮かべても始まらない。まだ話が始まろうともしていないのではないか。しかし何をそこから始めたらいいのか。なぜ君は怪我をしているのか。かなりの深傷を負っているようだ。もう死の直前まで話が進行しているらしい。それは誰の物語なのだろう。それで誰のメッセージを解読したつもりになれるのか。それ以降は明確なことを何も言えなくなる。明確に語ってしまったら話をその先に引き延ばせないだろう。ならばどこまでだらだらと無意味なことを語り続けるつもりなのか。語らなくていいことまで語っている現状が文章中に露呈している。そんなことを語らなくてもいいはずだが、それ以外は何もないような気がしてくる。それは偶然の出来事などではない。11月15日さらにあれから数日が経過してしまったようだ。そこから時間を遡れないものか。何を思い出そうとしているのか。あれは何かの事件だったのだろうか。あれについて考えすぎているようだが、あれとは何なのか。改めて考えるようなことではないだろう。とりあえずさっきまでは睡眠中だったようで、昨日は昨日で何もしていなかったわけではない。何やらわけのわからないことを述べている。ところで昨晩は何をやっていたのだろうか。下界では何かが立て続けに起こっているようで、文章の中に使い慣れない言葉が多数出現している。それをどのように組み入れようか。無理なことはやらない方が身のためか。やってみなければ無理かどうかわからない。翌日の昼に何を考えているのか。結局何も言い出さないうちに夜が閉じられる。朝がきて昼を通り過ぎ、時間はまた夜に出会う。時間外では意識が対応しきれないようだが、そこで君は何について語ったらいいのだろう。実際は何も語れなくなっているようだが、では何をあきらめなければならないのか。しばらく文章の継続をあきらめていた。それをやる気にならない。何もないのだから、語るのは無理なのかも知れない。だが君が無理と思っても、影はどこまでも空疎な言葉の連なりを構成したがっている。疲れているのに疲れを感じられないようだ。それが当たり前のことだとしたら、なぜ文章の内容が否定の連続にならないのか。文章中ではまるで癌細胞のように空疎な言葉が増殖し続ける。すでにそれから三分が経過していて、誰かがカップ麺を食べようとしているらしい。君はそれを無視して強引に言葉を連ねているらしいが、まだ予定した時間が経過していないようだ。いったい何を催促されているのか。君の耳には何が聞こえているのだろうか。聞こえていない音に導かれて、仮想空間では誰かが空高く昇ってゆく。自らの死と引き替えにして、この世の何を否定していたのか。なぜ事件が起こらなければ話が先に進まないのだろうか。それで何が進展していることになるのか。夢の中で何を思い出したつもりになり、どんな音を聞き逃した風を装えるのだろう。それではまったく文章になっていないようだ。途中で音が途絶えて何も聞こえなくなる。迷ってばかりではらちがあかない。理性も知性も何の役にも立たない。何をいらついているのだろうか。何もなければ平静を装っていれば済むことだ。何と戦っているとも思えない代わりに、進むべき道を知らず、ひたすら眠ることを願う。たぶんその代わりとなる気休めをもたらせないのだろう。無意識の影は何をもたらしたいわけでもない。ただ君が君自身から遠ざかりたいようだ。できもしないことを述べようとして、相変わらず無理なことをやろうとしているらしい。実際には何もやりたくないのに、架空の場所で何をやろうとしているのか。物語の登場人物たちに何をやらせたいのだろうか。誰が何をやりたいわけでもない。それを強引に物語ろうとしても、語っている内容はことごとく的外れになってしまうだろう。君は言葉を記す以外に何もできはしない。ただ粗雑なことを述べているだけのようだ。そこから何が見えているのだろうか。地平線の向こう側に水平線が見えてくるだけか。もう少し車で走れば海が見えてくる。狭い島国の中で人々はどこへ避難し続けているのだろう。天変地異というほどのことではないが、災害は毎日のように起こっている。そんなことにいちいち驚いていても仕方がない。つまらない映像に見とれている場合ではない。君はそれに気づかない。終わりが近づいているわけではなさそうだ。いつまでもどこまでも眠っていたい。その気力が萎えないうちに眠ってしまおう。しかし永眠するほどの理由がない。体がだるいのは何かの病気にかかっている徴候か。本当にそうであったなら気休め程度の安心感でも得られるだろうか。何だか目の前で何かがぐるぐる回転し始めている。そう感じているうちにも床が斜め手前に傾いてきたようだ。もはや何かの前触れどころではなく、いきなりこの世の終わりがやってきたようだ。君はそこで息絶えてしまうのか。心変わりしている途中の過程を省いてはいけないか。何を見せようとしているわけでもなく、そんな風に現状を感じながらも、やっと折り返し地点が見えてきた。まだ醜態をさらすほど衰えてはいないようだが、周囲が薄ぼんやりしていて、屋根の上から烏がこちらの様子をうかがっている。そんな光景では満足できないか。ではそこから何を推し進めるべきなのか。眠るのが面倒くさいのならば、眠りながらも目を覚ましている風を装えばいい。誰もそんなことをやろうとは思わないだろうが、その退屈な人生は誰のものなのか。なぜ日頃の不満を爆発させないのだろう。猫背がさらに前のめりになる。たぶん述べているのは無意味なことなのだ。虚しい気分でどこまでもつまらないことを思う。やはりそれでは意味がないだろう。意味がなければ無意味になるのだろうか。わかりきったことを繰り返さないでほしいが、安易に妄想へ逃げてはならない。11月14日何が至上の愛なのだろう。そんな曲がどこかで響いている。交響曲は大げさだろうか。せせこましい感性が雄大な音楽について行けないだけか。ならばニール・ヤングあたりで満足しなければならない。それが嫌ならパルティータあたりで妥協しようか。虎の毛皮の表面上に何を記しているのだろうか。液晶画面に壁紙も何もあったものではない。それは瞬く間にヒョウ柄へと変化する。文字的に統一がとれていないようだ。どうせまたわけがわからなくなるように語っているのだろう。常套手段も使いすぎると鬱陶しい。そういう水準で自足してしまえば、やがて紋切り型を何とも思わなくなる。不用意に言葉を繰り出しすぎているのか。もう少し取捨選択の基準を狭めなければ、そこで終わってしまいそうだ。どこかでコヨーテが遠吠えを繰り返している。昔大草原のただ中に小さな家があったらしい。それは恐ろしい映像のたぐいか。開拓民にも夢があったのだろう。バッハにも夢があったのだろうか。将来に対する漠然とした不安が頭をよぎる頃、密かにそのときが近づいてくることを祈っている。しかしどのようにして危機を脱するつもりなのか。それは大げさなアクション映画の話ではない。筋書き通りに事が運ぶわけがないが、誰がその筋書きを構成しているつもりなのだろう。誰もが君を愛している。そう思っているうちは勘違いに助けられてしまうのだろう。では勘違いに気づいて絶望してしまったらどうするのか。その先に何が待ちかまえているのだろうか。誰が待ちかまえているわけでもなく、死に神に無視されているわけでもない。そのとき君は虚無に取り憑かれていて、たぶんこの世界からも無視されていることだろう。それでは意味的に不連続なのではないか。根拠を示すことはできないが、とりあえずそんなことはない。意味など端から無視されている。そこにとどまってしまったら、その先はあり得ないのだろう。そこに根付いて枯れるまで生き続ける。君は占い師を退け、そこから予言を裏切ろうとするだろう。それが神の思うつぼなのか。予言者の末路は悲劇となる他ない。視線が絶えず揺れ続け、焦点が定まらず、言葉がいつまでも拡散し続け、まとまった文章となることを拒否してしまう。だから何を語っているのかわからなくなり、次第に焦りを覚えはじめ、ついには苦し紛れに奇声を発するようになってしまうのか。突拍子もない驚きを求めてしまうらしい。そうなるもはや奇をてらいすぎていることになるらしく、正常な感覚からかけ離れ、頭から言葉を排除して、絵画の抽象性へと逃げ去ろうとする。要するに芸術が爆発してしまうわけか。彼はそこで何をにらみつけていたのだろうか。何もない白塗りの壁に何かの染みを発見して驚喜する。それこそが至上の芸術なのか。そう述べて何を馬鹿にしているのだろう。おそらく馬鹿にしながらも真の芸術の出現を恐れているのだろう。そんなものなどあるわけがないと言葉で主張しながらも、密かに自らでそれを作り出そうと模索しているわけか。そういう行為がいずれ偽金作りに発展して、ありもしないフィクションのねつ造癖が身の破滅でも招いてしまうのか。そんな安易にはこの世界から降りさせてもらえないか。実際に降りるときには身ぐるみすべてはがされて、一文無しで荒野へ置き去りにされてしまうのかも知れず、そうなることを恐れているからこそ、芸術家は既存の権威にすがりつこうして、絶えず保身に汲汲としているわけか。しかしなぜそれが芸術家に限られるのか。芸術家は政治家とどこが違うのだろうか。人々を魅了したいがためだけの言葉は貧相だ。そんなもので感動する者は幼稚な知性しか持ち合わせていない。そういう決めつけ自体が危険な兆候か。独我論的に世の中から浮き上がってしまうかも知れない。言葉が的を射ていないのだろう。矢を放った先に的が存在しないのかも知れず、まるで見当違いの方向へ批判の矛先を向けているだけなのかも知れない。おそらく君はそこで文章を構成することを断念しているのだろう。当初に述べようとしていたことからはだいぶ遠ざかってしまったらしい。そのとき聴いていた音楽はすでに止み、今はそれとはかけ離れたジャンルの音楽が流れている。北欧のジャズは何を目指しているのか。音楽は何も語らない。何か語っているように感じられるのは、君の勝手な思いこみに違いない。音楽はそんな君を置き去りにして、さっさとその場から消え失せ、今度はまた別の音楽が何もない空間に響き渡るのだろう。音楽が何を主張しているわけでもなく、君の存在を認識しているわけでもなさそうだ、軟弱なやり方では太刀打ちできそうもない。肯定的な意見をはねのけ、否定的な意見はゴミ箱に投げ捨て、とりあえず空気を振動させ続け、壁で適当な方向へ反射して、君の耳に到達しているようだが、それで君の存在を認めたわけではない。君がその音楽に好意を抱いているのは勘違いのなせる業だ。しかしなぜ音楽は聴衆に媚びないのだろうか。名もなき聴衆には特定の固有名があてがわれていないからか。11月13日何かを眺めているうちに視野が狭まってきた。いつの間にか眠ってしまったらしく、目覚めてそのとき何を眺めていたのかを思い出そうとしているようだが、それは誰の言葉でもなく、世界はそれについて何も語らせないようだ。そんなわけで架空の言葉はどこまでも不明確だ。やはり何を語りたいわけでもないのに、何かしら語っているらしいが、そこに醸し出されている自由な雰囲気にはとりとめがない。次第に何もやる気がしなくなる。間が持たないとはどういうことなのか。何かを物語るには、ある程度言葉の範疇を区切らなければならなくなる。そうしないと何を述べているのかわからなくなる。幼稚な作文には嫌気がさしているらしい。今までに何を述べてきたというのか。不意に見上げてみれば、木漏れ日がまぶしく差し込んでくる。森の中で誰かがさまよっているようだが、そんな話の設定では終わりまで持たないだろう。途中から脱線してしまうに決まっている。だから早々と意味不明の展開に突入してしまうのか。そんな風に述べて、わざとふざけたふりをしているらしい。またいつものいいわけが始まっている。そして何となくそれ以外は何も語れずに苦しんでいるようだが、これから何が起ころうと、何も驚くにはあたらない。実際に何も起こらないのだから、そんなことはあり得ない。あり得ないから世界のすべてはフィクションと化す。君は作り話の中の登場人物とは無関係だ。架空の世の中には生きるに値しない人間が大勢いるらしい。現に暮らしている世の中の何が架空なのだろう。実際には架空でないのに架空だと思わせるのはどういうことなのか。別に納得できる理由を求めているわけではなく、理由も必然性もないことを証明したいだけか。それで納得できるわけがない。いったい現実の世界では誰が生きているのだろう。そこは価値のない世界だ。空っぽの世界には何ももたらされない。意識すべき心がどこにもない。だから別に動揺しているわけでも強がっているわけでもない。しかし語るべき言葉が何もなければ、哀しくなってしまうだろうか。哀しみをこらえようにも、空疎な言葉しか思いつかない。いくら試行錯誤を経ようと、依然として哀しむ対象が不在だ。どうも語るべき言葉が見当たらないようだ。どこを探しているのか知らないが、別に探し物が見つからないわけではない。要するに何を探しているのかわからない。語るべき言葉を探して見つかるとは思えない。そこに言葉が到来していないだけだ。では何に躓いているのだろうか。いくら考えてみても何が導き出されるわけもないのに、現状の何を受け入れられるだろうか。いずれ時が勝手に動き出して、状況は何らかの変化を被るだろう。確かにそこでいつまでも時間が止まっているとは思えないが、どんな主張にも欠陥があり、それが気休めの言葉なら要らないような気がする。では言葉以外に何を必要としているのか。とにかく早く言葉の藪から抜け出さなければならない。別に抜け出そうとしているわけではないはずか。そうやっていくら現状を否定しても、それだけ苦しみが長引くだけか。そこで誰かが誰かに訊ねる。まだ言い残したことはないか。話にその先があるとは思えないが、それで言葉が出尽くしたとも思えないのはどういうわけなのだろう。たぶんそれは君の疑問ではない。言葉の代わりにあくびが出てきて、それで話になるとは思えないが、眠気の次にくるのは睡眠の時間のようだ。ひたすら惰眠をむさぼり、そんな言語表現に惹かれつつ、意味や言葉のつながりを無視して、強引に意識を記された文章になじませようとするが、愚かな行為に際限があるとは思えない。とりあえず高みの見物とはなりがたいようだ。それに関してどんなに言葉を弄しても、軽はずみな言動に対する責任を免れることはできない。無責任に何を述べてもかまわないというわけではないらしい。自由という言葉はそのような言動には当てはまらない。文章の内容を導き出せないのは君のせいではない。もうわかったということかも知れない。それ以上何を述べても無駄だということか。できないことをやろうとしても挫折するだけか。だがそれで何を否定しているつもりなのか。執拗に繰り返されるまわりくどい問いかけに答えるつもりはないらしく、お節介な誰かが答えてくれることを望んでいるわけでもないのだろう。それでもやっと言葉の藪から抜け出したような気になり、爽快な気分とは言い難いが、少しはすっきりしたようだ。いくら言葉を弄しても何を述べている気にもなれないのは、そこで具体的なことは何もやっていないからか。すでに感性のテロメアが摩耗しているようだ。何もやらずに何をやっているのだろう。睡眠の時間が近づいているらしいが、言葉を弄する以前にやるべきことがあったようだが、どうしてもそれを思い出せない。たぶん明日になったら思い出しているかも知れないが、たとえばそれは寝る前に歯を磨く程度のことだったかも知れない。何かを物語ろうとする試みとは無関係の動作なのだ。そう思いこまなければ眠れないか。11月12日ひとたび事件が起これば、人はメロドラマ的対応しかとれなくなる。それがそこでの限界のようだ。だが今さらそんなことを述べても仕方がないだろう。この世界にはわかっていないことが多すぎるが、つまらぬ事件でことさら感情的になることもないだろう。見いだされた時において、誰が何をする必要性を感じていようと、別の誰かにとってそれは取るに足らないことでしかない。目下のところ行動の必然性などどこにも見当たらず、そこから言葉がどこへ向かっているかは、そのときの気分と外部からの作用次第か。しかしどんな偶然がそこに作用しているというのか。案外何かが意味不明気味に推移しているだけかも知れない。では架空のまなざしはどこで何を眺めているのだろう。窓枠に風景が収まりきらないようだが、誰かはさっきから何をやっているのか。他の誰かなら何かをやっているらしい。携帯電話を操作する者たちに囲まれて、自らもそんな動作の最中のような気分になる。偽りの動作から解き放たれて、気分だけではなく、本当にそんなことをやっているのかも知れず、他の誰かはあわただしく指を動かしながら小さな画面に見入っているようだが、そんな風にして何を知り得るのか。わけがわからないのは誰でもなく、意識は機械の虜となっているようだ。しかしそれの何が見え透いた嘘なのか。嘘でなければ何が現実なのか。それらの現実が嘘と渾然一体となり、身勝手な思考を暴走させているようで、連ねられた言葉の取りようによっては、自らにこれは妄想ではないと言い聞かせているようにも感じられてしまうが、やはりそこから誰が嵐を呼んでいるわけでもなく、何を引きちぎって自由になりとも思わず、数日前の雨空を思い出しながら、打ちのめされた思いとは無縁の偽装された敗北感を醸し出そうとしているようだ。そんな意味不明なことを述べて何になるのだろうか。誰を惑わそうとしているのでもないように思われ、見え透いたごまかしにすぎないのかも知れないが、いったい雨はどこから吹き込んでくるのか。唐突に雨の話をしているわけでもないが、仮想の風が精神に何らかの作用を及ぼして、それらの無駄な思考を洗い流してしまうだろう。何をどう考えても無駄に思われてしまい、電車の中吊り広告に記されている内容が、時代遅れの思考に基づいているように感じられる。誰が何を批判しているのか知らないが、実際に見えている風景はそれとは異なっていて、人の群れが道を埋め尽くし、週末の街中を活気づかせているようだ。それが得体の知れぬ動物の群れだと認識するのは気が狂っている証拠だろうか。だがそういうずれ方はその先につながらない。何を逸脱させようとしているのでもなく、君自身の思考が文章から外れていて、その結果として積極的な内容は何ももたらさず、絶えず付け足し的にその場のつじつま合わせに終始するだろう。それがそのとき導き出された文章なのだから、それはそれで仕方がないというわけか。誰がそんな内容に納得するだろうか。だが君の力ではどのようにも修正することは叶わず、その先に不連続な内容を付け足す他はやりようがなくなり、そんなことをいつまでもやり続けていると、あきらめの境地に至ってしまうのかも知れず、それも一つの結果として受け止めなければならないようだが、それで自己満足を得ることはなく、そこから肯定的な内容を導き出すこともできない。それは君自身の問題ではないように思われてしまう。そしてそこから導き出された世界観は他の誰とも共有できない。だからそこであきらめてしまうのか。そんな理由では理由になっていないだろう。いいわけに終始しているのは他の誰でもなく、つまらぬ事件を毎日のように伝え続け、そのような行為が社会にもたらす影響を憂慮している訳知り顔の解説者たちか。一般人が興味本位でのぞき込んでいるテレビ画面上では、他に誰が動き回っているのか。なぜそこから言葉が飛んでしまうのだろう。君は文章が一定の意味を担う必要性を感じない。携帯電話の話はそこからどこへ進展しようとしているのだろう。いったい正義はどこにあるのか。それは新規参入した携帯電話会社の社長の名前に違いないが、それが予想外の展開だとは到底思えない。わざとわけのわからぬことを述べているようだが、話の内容がまったくの的外れに至ってしまっているらしい。要するに暇つぶしの冗談が生じているわけか。幾分苦し紛れの気配に近づいている雰囲気もある。たぶんそこで誰かは刹那的な気分になっているのだろう。もう気持ちを立て直す気にもならないようだ。ではそこで終わってしまうわけか。何を終わらせようとしているのだろうか。それに関して誰かの感情を推し量ることはできないようだが、何となくおもしろくないのかも知れない。それでつまらぬテレビ画面を飽きもせず眺め続けているわけか。それで何かの気晴らしになるのだろうか。今のところは想像の域を超えない話かも知れないが、何となくそれで話の無内容を食い止めているような幻想を抱いているのかも知れない。11月11日外部からもたらされる様々な作用に対応しきれずに、気が散っているのだろうか。大変だと思っているのかも知れないが、実際はそれほどのことではない。いつものようにそこから逃げているのかも知れない。逃げようとしているが逃げられない状況にあるわけか。誰がすべてから逃げているのだろうか。逃げているのが誰かなんて、その固有名をいちいち特定するつもりはない。意識は怠惰に流されているのだろう。そう受け取ってもらってもかまわない。遠くを見つめても焦点が合わないようだ。人間は個人としては無用の存在だ。死のうが生きようが、他者との関係がなければどうということはない。周囲の人間に迷惑をかけたければ自殺すればいいが、誰に向かって述べているのでもなく、生き続けても迷惑がかかる場合もあるわけだから、個人としてはそんなことはどうでもいいに違いない。そういう意味で個人主義者は孤独を受け入れなければならない。誰も相手をしてくれなければそれでかまわないのかも知れない。たとえ気が狂っていると思われようと、我が道を行けばいいことでしかない。それはもはや批評の対象ではなく、他者から見向きもされないような存在になりはてているだけだ。それで楽しければかまわないのかも知れないが、そこから何を主張しようと無効に決まっている。しかしそんな水準で何を述べてみてもつまらないだけだろう。だから逸脱してしまうのだろうか。外は数日後の闇に包まれている。夜なのだろう。青白い炎がどこかで点り、誰かがガスコンロの上で料理の最中なのか。なぜそこから逃げてしまうのか。無駄な言葉を連ねて逃避してしまうのだろう。誰かがどこかで首つり自殺をしたそうだ。それで何かを遂げたことになるわけか。死んだ当人の思いなどすぐに忘れ去られるだろう。生きることがうまくいかなかったのだろう。人間は人間にとってそれほど重要な存在ではないのかも知れない。そこに何らかの固有名がつけられて、他の誰かと関係がなければどうでもいい存在に違いない。ならばその辺の世の中で繰り返されている人間の生と死にはどのような意味があてがわれているのか。誰かは死んでもらっては困る人の存在を認識できるだろうか。なぜそこからかけがえのない存在が導き出されるのか。たぶん物事の本質から遠ざかっているのだろう。どこかに利用価値が生じている。働かせるにしろ学ばせるにしろ、そこから利益を生み出せなければ無用な人間と見なされてしまうだろう。時には他人に向かって何らかの感動を求めている場合もある。思い通りに生きたいだろうし、他人を利用して思い通りの展開に持って行きたい。そんな自らの傲慢さを悟られないように、様々なやり方が生み出される。何とか他人を騙し出し抜き喜ばせ、時には力ずくで従わせ、何とか自己実現を図り、何らかの結果を伴った達成感をもたらしたい。世の中にそんな思惑が渦巻いていることは誰もが知っているはずだ。もちろんあからさまにそんな当たり前のことを告げる者などいはしない。いきなり他人に向かって、これからおまえを利用して、そこから利益を出そうと思っている、なんて宣言するはずがない。利用する側も利用される側も、そんなことは暗黙の了解事項として承知しており、その上で自分がいかに利益を得るか、その方法を絶えず模索し合っている。だがまっとうに生きるためにはそんな現実に気づいていてはいけないのかも知れない。気づいていても積極的にそれを忘れる必要さえあるのだろう。あからさまに利益ばかり追求してしまうと、人間関係がうまくいかなくなってしまう。効率最優先を改め、無駄な迂回や停滞を楽しむ余裕が必要か。それもわかりきったことでしかないか。少なくともこちらの欲望を相手に悟られないようにしておく必要がある。だから簡単に目的を設定するのは間違いなのだろう。目的を設定して、それを達成するために努力している姿を、他人に見せびらかしてしまうのは危険すぎる。そういうやり方は攻撃の標的となってしまう場合さえある。とりあえず偽の目的を掲げて、それに向かって努力しているように装うことぐらいは、最低限必要なことなのではないか。真の目的などありはしない方がいくらかマシに生きてゆけるのではないか。ありふれている思考を模倣してはいけない。ありきたりの夢を本気で抱いてはいけない。では何をどうすればまっとうに生きてゆけるのか。まっとうに生きようとしてはいけないのだろうか。そんな生き方がまかり通るとは思えないが、悲壮感を漂わせて不可能に挑戦するのも馬鹿らしいだろう。そんなことを考えている場合ではないのかも知れず、他の何を適当に考えている場合でもないのかも知れず、では何をどう考える場合なのかといえば、そんなものなどどこにもありはしないのかも知れない。すべてはどうでもいいことなのか。そう思ってしまっては間違いなのだろうが、間違いをいつまでも放置し続けるつもりはなく、たぶん放置しておけないのであり、また生き延びるための何らかの方法を模索している自らに気づくわけか。11月10日さらに現実から遠ざかることができるだろうか。今は何かの途中に違いないが、まだいいわけにはほど遠い内容だ。それで意味の通った文章になっているのだろうか。君はそれらの言葉の連なりに意味をもたらそうとしているのではなく、すかすかな気分で知らんぷりを継続させて、そんな見え透いた気分とは逆に何かを知ろうする姿勢をとり続ける。そんなのは嘘に決まっているだろう。そのままでは調子に乗ってさらにどうしようもないことを述べてしまいそうだ。誰かは過去の時空で何を語っているのか。散漫な気分でとりとめがないようだが、なぜ疲れているのだろう。それで楽しんでいるとは到底思えず、まるで苦行層のようなことを必死でやり続けているようだ。君は苦行層の姿を見たことがあるのか。とりあえずそこから何をどうやろうと、修業や修行ではあり得ないようだが、外部からの視線が語るところによれば、相当疲れているように見える。しかしそこでなぜ視線が語ってしまうのか。誰の死を期待しているわけでもないだろうが、まさかこれから死んでしまうわけでもないか。疲れているだけで死を意識するのは大げさすぎる。またそれで気が触れているわけでもないらしく、心身の疲れを意識しつつも、何とか正気を保っているように見せかけ、それによってまともなことを語ろうとしているのかも知れないが、それでも何となく疲れを理由にしてしまうとまとまりがつかないようだ。そのついでに君は大げさな交響曲を聴きたくなる。はたしてそれが気晴らしになるだろうか。気晴らしになるどころではなく、さっきから空疎な言葉が意識にまとわりついて離れない。やはりこれから君は死んでしまうのか。要するに君は意味不明に生き、意味不明に死ぬ運命なのかも知れないが、確かに疲れている。その時空で認識しているのはそれだけか。それだけのためのための文章でもないはずだ。ならば他にどう語ったら納得するだろうか。人は何のために生きているのか。そんな決まり切った問いかけに答える者などいるわけもない。奇特な君なら答えてくれるかも知れない。しかしそれが奇特な振る舞いとなるだろうか。そういう話ではないだろう。何のためにでも生きているのかも知れず、誰のためにでも人は生きられる。だがそれではますます生きている意味がわからなくなる。はじめから意味など知ろうとしていないのではないか。人は誰でも漠然とした疑問や疑念を抱くものかも知れない。しかしそこからどう文章を展開させるつもりなのか。目的が見当たらないのはいつものことだ。まともな内容を容易には導き出せないのかも知れない。努力するのも容易ではないが、人は酒を飲み続けると老いる傾向があるらしい。誰が居酒屋で酒を飲んでいるのだろうか。それのどこに目的が潜んでいるというのか。そういう話は意味不明に近い。結論など何もありはしないようだが、ならば何の話でもないか。話でなければ何かの中毒症状を起こしているわけか。誰の予言か知らないが、数日後には冬になっているそうだ。誰もそんなことを述べているわけではない。何を笑っているのだろう。そういう話ではなかったはずか。素朴な疑問がどこからともなく湧いて出る。それに何の意味があるのか。しかし無意味なことを述べてはいけないのか。それとは何なのか。頭の中で何かが暴走しているわけでもあるまい。ふくれあがった妄想が突然破裂して、意識の外部にまで損傷を及ぼす。まだ夢から覚めているわけではないが、夢の中で何を述べているのでもないらしい。ならばいつまで眠気に逆らっているのだ。もう何日も眠っていないわけではないが、真昼に眠くなり、夕方頃に眠くなり、深夜にも眠くなる。いったいいつになったら眠らせてくれるのか。今は朝ではない。それどころか今は今ではない。そこで誰が眠気を催しているわけでもないだろう。ならばさっきまでの眠気は嘘なのだろうか。嘘ではないが、結果として眠りにつかないのだから、眠気を阻む何らかの要因があるらしい。要因とは何だろう。たとえばそこで眠ってしまっては死んでしまうわけか。別に冬山で遭難しているわけでもない。ただわけがわからないことを述べている。現状はどうなっているのか。この世界に不満を抱いている誰かによると、次第に息苦しい世の中になっているそうだ。密室の中で空気が抜かれていく。そうやって真空状態を維持したいらしいが、何もなければ何も述べられないだろうか。なぜか外的要因でどうしようもなくなる。何かあるとすぐに遅れてしまうらしく、やはり立て続けのイベントには対応しきれない。しかしそれですっきりしたのではないか。すっきりできるような立場なのか。それは誰の立場なのだろう。誰が何を述べる立場にもなっていないように思われるが、そこから何もない状況についてどう述べたらいいものか。状況を理解していないのではないか。解決の糸口などどこにもありはしない。ただ相当疲れている。それだけのことに不可能が立ちはだかっている。無理なのだろう。何が無理だかわかっているようだが、その無理を跳ね返すことは不可能のようだ。11月9日たぶん語っている内容があやふやだ。それらの何もかもが作り話だったのだろうか。彼は他に何も思い浮かばないようだ。それは彼ではなく君ではないのか。そこで何か矛盾していないか。この期に及んで何をやり直そうとしているのか。それはわけのわからない矛盾に違いない。何もないのに言葉を記しているのはいつものことだろう。生きる上で無駄なことを考えすぎているわけか。最後の夏が過ぎ去ったのは何年前だったのか。その時が彼の姿を見た最後だった。そういうフィクションは好ましくないが、誰のことを述べているのでもないらしい。しかしなぜ彼はしきりに危機感を煽っていたのだろう。何かよくない状況の到来でも察知していたのだろうか。そこから話が展開するはずもない。よい方向に転がっていきそうもない。聞こえているのは何かが崩壊する音にすぎない。そこではありとあらゆる可能性が試されていた。その中の一つが今ある現状になっているらしい。過去は現在につながっている。それを導き出そうとしていたのだから、何となく当たり前の結論へと導かれてしまうのだろう。取捨選択の過程であり得ないことは除外されてしまう。だから話がつまらなくなってしまうのか。しかしそのつまらない話を執拗に繰り返してしまうのは誰なのだろうか。それが架空の登場人物だとしたら、事実そのもの実態が希薄になってしまうだろう。希薄どころではなく、それはまったくの作り話にすぎなくなってしまう。今回はそれでかまわないとは思っているのだろうか。注意深く耳を傾けてみれば、もっともらしく語っていることのほとんどがどこかで聞いたような内容であることに気づくはずだ。そういう語り方は好ましくないのだろうか。ではどう語れば納得するのだろう。いっそのこと何も語らない方が真実みを帯びるかも知れない。すべての事実がそれについて語るために存在しているわけではない。中には語ることができないような事実もあるはずか。しかしそう述べて何がわかったことになるのだろうか。少なくともそれについて語らなければ何もわからないままではないか。わからなければなかったことになってしまうか。誰も知らないことを語りようがないだろう。誰かが知っていて、そのことについて語らなければ、他の誰も知り得ないということか。中には知り得ないことを語りたがる者もいるはずだろう。意味不明なことをしきりに語りたがるのがその誰かとなってしまう。そんなわけで今日も誰かが何かを語り続けている現状があり、その誰かの存在を無視しているのが君のようだ。しかしそういう話のまとまり方はおかしい。何を語ろうとしていたのか意味不明だ。語っている途中から状況を把握できなくなっている。そんな文章を読んでも仕方ないか。仕方がないからさらに語り続け、結果としてわけがわからなくなってしまうのではないか。そういう逃げ方もあったはずか。どこかで気づかないうちに脱線してしまったのだろう。内容を導き出せぬまま、空疎な言葉だけが先行して連なってしまい、意識がそれについて行けなくなるらしい。それはまるで把握できない現状を文章にしているようだ。そんな行き詰まりを突き抜けられるだろうか。それの何が行き詰まりに思われるのだろう。そこからさらにわけがわからなくなる。それは君の思うつぼだろう。予想内の成り行きでは誰も驚かない。誰も驚かなければ退屈な言葉の連なり以外に何ももたらされないか。たぶんそれが日常の現実なのだろう。予想外の出来事に気づく感性が欠如しているのかも知れず、その感覚の鈍さが退屈な日々を滞りなくこなす上で有利に働いている。何よりも気が狂わないように生きていくためには、ある程度鈍感な感性が必要とされているのだろう。ちょっとしたすれ違いが行き違いを気にしているようでは、神経がすり切れてしまうか。そこで問題とされているのはそういうことではないのか。また途中から思い違いが生じているように感じられる。何となく当初において述べたかったことが出てこなくなって、その代わりに当たり前の紋切り型的な教訓話に行き着いてしまったようだ。たぶんそういう結論に至りたかったのではないはずだが、述べたかったことを述べられないのもいつものことだろう。君には予想外の意味が理解できない。何もかもが予定調和となってしまったら、それは予想外と見なしてかまわないのだろうか。そう語っていることの意味もわからなくなる。なぜ今さらそんなことを語っているのだろう。文章が破綻してしまうことははじめからわかっていたはずだ。わかっていたからこそ、でたらめな内容でも平然としていられるのだろう。やはりそんなことを述べるのも予想の範囲内なのだろうか。しかしそれでは驚きが欠如している。真実も欠けているかも知れず、思っていることを素直に述べていないような気がする。だが何らかのごまかしを介在させなければ、そこには至らないのではないか。それは君のいつものやり方に違いない。そうやって矛盾だらけの文章が構成されてしまうわけだ。11月8日闇雲に言葉を連ねて文章が意味不明に陥る。心には一点の曇りもないと思っているが、それと何が関係しているのだろうか。なぜ不機嫌なふりをしているのか。それを信じて何になるのか。いったい何を信じているのだろう。何も信じられないよりは、少しでも信じられる対象がほしいところか。しかし今は何もない。意味のない利便性に惑わされる。立て続けの挫折はやる気を失わせる。そんなことを思って何になるのか。何にもならないなら、それはただのいいわけにすぎないのだろうか。誰がそんなことを思っているのか。その話の内容は特定の個人から生じているのだろうか。仮にそうだとしても何の問題もありはしない。問題について語っているわけではないはずだ。明らかに言わんとしていることからずれている。わざと論点をずらして意味不明へ逃げているのではないか。君は状況の変化を望まないようだ。わけのわからない状況に陥っているように装い、いつまでも言い逃れに終始していて、何ももたらせないことを嘆いているようだが、それが見え透いたでたらめなのかも知れず、何かを知ろうとしている意識をはぐらかし、知るに至る一歩手前で感性に急激にブレーキがかかって、気がついたらどこかに止まっていたように思わせるが、何がそうさせているのだろうか。いつまでもそこにとどまりたいのか。そんな問いかけに誰が応じるのだろう。誰ではなく君はどうなのか。どうにでもなってほしいが、どうにもならないことはわかりきっている。そしてまるで予定調和のような成り行きに末に、どこかで道案内人に出会うが、それが物語に移行するきっかけとはならないだろう。別に文章を物語化させる必要性を感じない。それこそが唐突な意味不明の出現に違いないが、誰かが無言で指し示している先には何が待ちかまえているのだろう。事前の予定ではそういう話ではなかったはずか。話がまとまらなくなるのはいつものことだろう。そこから崩れ去ろうとする。無駄に言葉を投じて、馬鹿らしくなるように語りかける。話の中で誰が何をやろうとしているのでもないが、そこで誰が何をやろうとしているのか。わざと間違っているだけのように感じられる。本当にそれを願っているのだろうか。君が願っているのはそういうことではないのかも知れないが、それでも誰かがどこかで滅びようとしている。語り損ねているらしいが、さらにわけがわからなくなり、何も語る気がなくなって、ふてくされて寝てしまったようだ。まるで遠い昔に戻ったみたいだ。くだらぬ論理に染まっていた頃が懐かしい。今はもう何も思わない。この世界からは何も感じられないが、死が間近に迫っているとは思えない。誰かは何かを強硬に否定し否認しているのかも知れず、それによってかろうじて自らの存在意義を見いだそうとしている。だがそんな在り方は疲れるだけだろう。疲れるだけ疲れれば、もう少し違った方向に話が動いてゆくだろうか。気がつけば自己言及ばかりでは退屈極まりない。そういうやり方では不満なのか。不満だから現状を否定しがちになるのではないか。まったくイベントが立て込んでしまうとやる気が失せる。言葉を記す気力がなくなってしまう。投げやりな気分になり、どうにでもなってくれと思いたいのだが、なぜかそこで踏みとどまるように頭の中で何らかの機構が働いてしまうらしい。やはりあきらめきれないのだろうか。心をかき乱され、とても平常心には戻れそうもないが、それでも表面的には平静を装い、何とか継続の方向で努力しようとしてしまい、何やら意味のない試みを繰り返してしまうらしく、それがいつもの自己言及だと知りつつも、それをやめるわけにはいかないようだ。そしてそんな調子で満足からはほど遠い状況に甘んじながらも、必死に耐えているのだろうか。そんな風に思ってしまうこと自体が終わりの兆しなのかも知れないが、何かそれとは違うことを述べられないものか。今さらそれはないだろう。誰がそんなことを述べてしまうのか。君の他に誰がいるというのか。とりあえず紋切り型なら間に合っている。過去の時空でそれにまつわる適当な話がなされていたはずだ。確かにそんな話をどこかで聞いたことがあるが、それを蒸し返そうとは思わない。今はそんな話をしている場合ではない。これから何が始まるのかを知りたい。始まるのではなく終わるのではないか。では話の終わりに際して、もはや同じような言葉の繰り返しでは済まなくなってきているのだろうか。しかしそれで誰が納得するはずもないだろう。ならばどこまで現状から逃げ続ければ気が済むのか。そうやって何を避け続けているのだろう。とっくに危機は到来している。思い過ごしでなければ、すでに君の身に不幸が降りかかっているはずだ。いくら振り払っても執拗にくっついてきて離れないハエのように、不快で鬱陶しい成り行きに弄ばれている。だがそれでいったい何について語っているのか。今はいつの時間帯なのか。実際はそうではなく、ほんの少し希望が残っているはずだ。たぶんそれだけの希望なのだろう。11月7日まだ余裕があるらしい。それが何の余裕だか不明だが、とりあえず心に余裕があるということだろうか。そのように受け取ってもらってかまわないのか。誰に何を確かめているのだろう。今いくら余裕があろうと、今後の成り行き次第ではすぐに使い果たしてしまうだろう。今までにわけのわからない成り行きをいやというほど経験している。単に君がそれをわかろうとしないだけだろう。嫌な成り行きを理解するつもりはないか。嫌と思うならその辺の原因を探ってみたらどうか。なぜいやがっているのだろうか。それがいつもの自己言及を招いているからなのか。自己について語っていないのに、自己言及も何もないだろう。ではそれらの文章は誰について語っているのだろうか。簡単に述べるなら、それは君について語っている文章に違いない。君とは誰なのか。もしそれが特定の固有名を保たない君だとすると、君のことではないのではないか。誰でもない君について語っているのなら、君は君以外の誰でもなく、誰でもない君という言葉それ自体について語っていることになる。そんな君など実体としてはあり得ないか。実体がないのだとすれば、それは言葉でしかなくなる。言葉でしかないとすると、君とは誰のことになるのか。何となく途中から冗談を述べているような気がしてくる。だがそんなことを語って何がおもしろいのか。おもしろくなければつまらないということか。つまらなければどうだというのか。そんな風にして無駄に言葉を弄しながらも、それを語っている誰かは少し焦れてきたように感じられる。今さら焦ってみても仕方がないだろう。そこから他人を攻撃する理由は見当たらない。他人を怒らせて何がおもしろいのだろう。意識してやるにしろ無意識でそうするにしろ、他人を怒らせようとして怒らせたら、それは怒らせた方の勝ちである。それは思い通りの展開になるわけだ。ではそれに対して怒らせようとされている側にはどのような反撃が可能なのか。そこで怒ってしまっては相手の思うつぼだから、ここはじっと思いとどまって、怒るのをこらえるべきなのか。しかしそこで黙ってしまっても怒らせようとした側の勝ちである。相手を攻撃によって黙らせたわけだから、それもある意味では思い通りであり、怒らせようとした側の勝ちである。要するにその時点で怒らせようとした側は無敵となるわけだ。しかし無敵のままでいられるのか。無敵となったのと引き替えにして、そんなことをいつまでもやり続ければ、そのうち誰からも相手にされなくなる。それで気が済むなら、そのまま無敵の王者として孤独の大地で死ぬまで威張っていればいい。そんなことが可能だとはとても思えない。安易なやり方に手を染めると何もかも失ってしまう。失うものが何もなくなれば後は死ぬだけだ。要するに周囲の人々に迷惑をかけるだけかけて、結局誰からも相手にされなくなり、後は死ぬまで孤独な余生を送っていればいいということか。そんな話が現実にあり得るのか。どこかの馬鹿がそんな試みをやっている最中だとすれば、それはそれでがんばってもらってかまわないのかも知れないが、君にはそれがわからないようだ。別にこれ見よがしの態度に興味を抱いているわけでもなく、それほど本気になる必要はないのではないか。攻撃を仕掛けてくる者はその時点で危険を冒している。リスクを冒してまで他人を攻撃する必要があるとは思えない。そうやって何を得るのだろうか。少しは得るものと失うものとのバランスを考慮に入れているわけか。そんな計算がどこで成り立っているのだろう。もしかしたらすべては攻撃している側の思いこみにすぎないのではないか。どのような勝算があるとも思えない。しかしそれでも攻撃されている側が何とも思っていないわけがないはずか。彼はその時点で君が弱音を吐いていると思いこむが、そんなことで誰が救われるはずもないだろう。まさかそこから不快なオーラをまとって救世主が現れるわけもないし、それで何を救っているとも思えない。いったい彼はその場に居合わせた者たちに何を知らせたかったのか。未曾有の危機が間近に迫っているとでも告げたかったのだろうか。やはり何のことやらさっぱりわからない。そこからどのように話をまとめるつもりなのだろう。まとめるつもりのない話なら、はじめから思わせぶりなどしないでほしいか。期待した分さらに落胆が大きくなる。そういう展開は精神衛生上よくはないだろう。しかし今さら何を気にしているのだろう。自らがしでかしてしまった罪の重さに対して自覚がまるでない。反省の色はまったくなく、いいわけらしいいいわけも皆無で、平然とそこから先へ突き進もうとしている。だが突き進んだその先に何があるというのか。何が待ち受けているわけでもないような気がする。しかし本当に何もないだとすれば、それはどういうことなのか。ただ単に誰からも無視されているだけなのか。そんな受け取り方にも勘違いが潜んでいるのだろうか。しかし思い違いや勘違いだけでそこから生きていけると思うか。11月6日順序が逆かも知れないが、とりあえず夜と昼が入れ替わるわけがない。そんなことはあり得ないだろう。あり得ないからこそフィクションになる。君はそれで楽しいのか。君には何もできはしない。それで本望なのか。それらの文章は誰に向かって問いかけているのか。どんな疑念を抱いているのだろうか。君のペースには乗ってこない。君の領域には踏み込んでこない。だから安全でいられるわけか。だが臆病者の論理ではつまらないだろう。つまらないからこそそうやって生きていられる。危険な領域に踏み込まなければ、つまらない日常とともに生き長らえることができる。しかしそれでは何も導き出せないのではないか。別に彼に対して嫌がらせをやっているわけではないが、向こうにそう取られてしまったらどうするのか。そのときはそのときだろう。どうなるかは君次第だ。だが君がどうしようと知ったことではないのかも知れない。今の君は隙だらけであり、どこからでも攻撃可能か。攻撃されたらそれでかまわない。かまわないから隙だらけというわけでもないが、何となくそれでかまわないような気がするらしい。君には言葉がある。いつも空疎な言葉の連なりを記している。それで満足しているのだろうか。少なくとも不満を抱いているとは思えないか。誰がそう思っているのか。何を根拠にそんなことが言えるのだろう。君に関して誰がどこで発言しているとも思えないか。誰がそう思っているのだろうか。さっきからそんな問いかけが執拗に繰り返されているようだが、誰が誰に向かって問いかけているのか。粗雑な文章なのでその辺は曖昧のようだ。そういう結論に至ってしまう理由がわからない。君がわかろうとしなくても、他の誰かが理解すればそれでかまわないだろう。何事も投げやりな方向で推移していれば、それで言葉を連ねやすくなるのかも知れない。しかしそれは偽りの自由ではないのか。それらの何が自由なのか。その場の成り行きに拘束されているのでは自由とはいえないのではないか。何に対して自由なのか、その対象が曖昧か。自由を声高に叫んでいる人たちは、自由という言葉から自由になれない。そんな逆説は屁理屈のたぐいなのではないか。今は自由な雰囲気に包まれているつもりなので、屁理屈などいくら述べても許されるのではないか。そう述べているうちに屁理屈なんて忘れてしまえばいいだろう。過ぎ去ったことは忘却の対象でしかない。本当は後で思い出そうとしているのではないか。では何を思いだしたら気が済むのか。思い出す対象なども忘れてしまえばいい。何もかも忘れて過去の記憶から自由になれるだろうか。それが実現したらどうなるのか。それでは単に自由になれたつもりになっているだけか。それでもかまわない。誰がかまわないのかわからないが、わかった風を装っていれば自由な気分でいられるかも知れない。ならば自由はまやかしのたぐいか。いったいいつまでくだらぬ架空の問答を繰り返すつもりなのだろう。気分次第でいつ終わるかが決まるかも知れない。何となく予定調和の結論は嫌いだ、それは何となくではなく、本当に嫌いなのではないか。ではなぜ何となくという言葉をわざわざ付け加えようとするのか。明確な目的を持っているのよりは、何となくの方が自由に感じられる。自由は怠惰を誘発するわけか。怠け者は自由だと見なされるわけか。そんな風に思いたければそれでもかまわない。今の君には関係のないことだ。何となく何が自由なのかわからなくなる。どうやら君は嘘をつきたくないようだ。何となく正直者のふりをしたいらしい。何が何となくなのかますますわからなくなるが、それでかまわないのだろうか。何となくならそれでかまわないのだろう。誰がそう思いたいわけでもなく、誰もそんなことは思っていないのかも知れないが、何となくそれで万事がうまくいっているような気になる。意識が疲れていると論理的な展開を好まなくなる傾向があるらしい。だから再三再四何となくという言葉が記されてしまう。しかしそれで君は何を述べているつもりなのか。空疎なだけでは文章にならない。そう思いたいのなら勝手に思っていてかまわないだろう。君はそう思っていてもかまわないような状況の中にいるようだ。それは嘘かも知れないが、嘘なら嘘でいくらでも嘘をついてもかまわないのではないか。フィクションとはそういうものかも知れない。たとえばおろおろしてうろたえたつもりになっているのなら、それもそれで嘘のたぐいだろう。もし本気でそう思いたいのなら、危険な領域に踏み込んだあげくに敗れ去れば済むことだ。現状ではそんなことはあり得ないか。あり得ないからこそそれがフィクションになるのだろう。だから劣悪なフィクションの中では突飛な現象が頻発してしまう。ではあり得ないことをすべて取り去れば、フィクションは現実になってしまうだろうか。そうなってしまったらおもしろいか。何を強がっているのだろう。おもしろいどころの騒ぎではなく、感動して涙を流してしまうのではないか。確かにそうなったらおもしろいだろう。11月5日誰かが誰もいない空間で叫んでいるようだが、別にそれほど気が触れているわけではない。何やら不揃いな石を数十個河原から拾ってきて、それを石器に加工しているようだが、それはテレビ画面上で展開されている光景だ。それを見ている部屋の中では埃が宙を舞っている。何かのアレルギー症状だろうか。背中がかゆいのはそれとは無関係だろう。シックハウス症候群を疑っているようだが、くだらぬ作り話にも限界があり、話を進めていくほどに虚しさが増してゆく。ならばそんな話はなかったことにしておこう。だがそこで何を理解したらいいのか。理解できない現実に何を思うこともないが、そんな儀式の強要でストレスがたまる一方か。ならばもうやめた方がいいのではないか。やめられるものならとっくにやめているところか。それの何が儀式なのか理解できない。ただ日頃の鬱憤を書くことではらそうとしているだけではないのか。たぶん冗談でそんな思いもしないことを述べられるのだろう。それで現実に抗っているつもりなのか。抗っているのではなく、それが現実そのものなのかも知れない。しかしそこから何が出てくるのだろう。現状では何について考えているのでもなく、何を記しているのでもなさそうだ。目の前に広がる光景から目を背け、代わりに空想する虚構をすぐに否定して、結局そこで行き詰まってしまう。それ以上は何を試みても無駄か。さらに何かが長引いているらしいが、それが何なのかわからない。冗談でそんなことを述べているわけではない。しかし真剣になっているのでもない。真剣になりようのない状況なのだろうか。まだ何について述べているのもない。ではなぜそんなところで考え込んでしまうのか。考えれば考えるほど文章の内容が空疎になる。しかし考えなければ何も述べられない。だからさらに考え込んでしまうわけか。なぜそうやって安易に出口を探してしまうのか。迷路の中では精神的に耐えられないからか。それでは理由になっていないのではないか。そう述べてしまうこと自体が安易だ。信じられないくらいの安易さに心を支配されている。そして気がつけばどうにもならない状況になっていて、そのついでに頭の悪さも顕わになっているらしい。そんな現状に我慢がならないようだ。こらえることができないらしい。それはヒステリーのたぐいだろうか。冗談でしかないのかも知れないが、そう書けばそれで気が済んでしまうのだから、安易なヒステリーかも知れない。しかしその先はどうしたらいいのだろう。別に何もない空間に放り出されているわけでもあるまい。少しは冗談を述べる余裕でもあるわけか。冗談ならすでに嫌と言うほど述べているつもりか。そんな唐突の嘘では継続は無理だろう。それでも無理に無理を重ね、どうやってもそれが無理でない状況になるわけもなく、しかしどうしてもそれが無理だと悟ることもできず、そのままではあきらめきれぬままにあきらめさせられてしまうように感じられ、どうにもやるせない状況に近づいているようだ。はじめから無理なことをわかっていたはずなのに、やはりそれでも結果的にそんな成り行きに巻き込まれてしまい、予想通りの無理な結末に直面している。いったい何がどうなってしまったのか。すべては予定調和ということだろうか。ならばそこからどう話を展開させていくつもりなのか。そんなことを述べようとしているわけではない。何も述べられないことを承知で何かを述べようとしているだけか。いったい現状の何を批判すればいいのだろうか。何を忘れて何を思いだしているのだろう。気まぐれで何かを述べているらしいが、未だに内容が定まらない。それでも何となくわざとらしい話の展開にはなりつつあるようだ。要するにそれ以上は何を述べるのも馬鹿らしくなってきたということか。やはり無理は無理でしかないだろう。この世界は無理なことばかりのようだが、その無理を無理として認めず、強引に現状突破を試みるのが人間の性というものか。今イラクあたりで行われていることもそんな状況の一例なのか。道理にかなっていないことをごり押ししながら突き進むことばかりにかまけていて、結果として泥沼状況に陥る。これまでもこれからもそんなことばかりの世の中なのだろうか。現状ではそんなこと以外にやりようがないのかも知れず、それが正しかろうと間違っていようと、やるしか生きる道がないような切羽詰まったところからしか行動を起こせないような成り行きになっている。できれば四方八方丸収まるような展開に持って行きたいところだろうが、利害関係で調整がつかないのは当たり前のことで、そこで誰かが力まかせのごり押しをしたら、そこから先は際限のない争いごとの連続となってしまい、容易には事態が収まることはない。そして人々は疲弊し荒んだ気持ちになり、弱い者たちが安易な犯罪に手を染めてしまうわけか。そんなことは世界中のどの地域でも見られる光景に違いないが、その悪循環から抜け出すのは容易なことではないのかも知れない。やはり結局のところ無理は無理でしかないのだろうか。11月4日言葉が圧縮されて出てくる。堅すぎて話にならない。それの何がわからないのだろう。わけがわからないのは毎度のことだが、それほど常軌を逸しているわけではない。またそこから遠ざかろうとしているわけか。現実から逃げ出しても行き着く先が見あたらない。誰の霊が舞い降りているのか。場所がない。空白を除いて文字を記す場所がない。誰かが山に登ろうとしている。峠を越えたところで大きな岩が行く手をふさいでいる。他に待ち受けていた物事を思い出せないか。誰かはそこで何を仕留めようとしていたのか。そこで待ち受けていた運命はどんな結末をもたらしたのか。見えているものに気づいていない。性急に言葉を並べようとしているようだが、それは過ちのもとだろう。時間の経過に意識が追いついていない。気がつけばいつもの夜になっている。夜は同じ闇を伴っているらしい。それはただの暗闇だろうか。暗闇にどんな種類があるのだろう。そこに好き嫌いが生まれるとは思えないが、それのどこが魅力的なのか。いったいどんな期待が込められているのか。君の知ったことではない。荒唐無稽さを味わいたければマンガを読んで済ますべきか。文字の連なりに何を期待しているわけでもない。適切な内容ではない。同じことを何十年も主張し続けるのにも何らかの理由があるのだろう。しかし誰のために何を述べている状況に変わりはない。書くことに目的を見いだすのは間違っている。書こうとすれば書けなくなるだけだ。だからさらに遠くまで書こうとしてしまう。しかし今週は何もなさそうに思えてくる。材料が何もない。語るための材料でも探しているわけか。ある意味でご苦労なことだが、それならすでに間に合っている。すでに何かしら語っている最中だろう。自らが語っていることについて語ろうとしている。虚しいとは思わないか。哀しい出来事にでも遭遇しているのだろうか。空白を文字で埋める作業が哀しい出来事になるのか。思い違いとはどのような状況の時に発生するのか。そこに何らかの思い違いが含まれていたらおもしろいか。のどの調子が思わしくない。ならばこれから地獄でも見ようとしているわけか。文章のつながりがわからない。わざと言葉を分散させようとしているのかも知れない。しかしそれでは疾走感を醸し出せないだろう。言葉を繰り出す以外に何をやろうとしているのでもないが、何だか時間が止まっているような錯覚を感じているらしい。そんなのは嘘に決まっているだろうが、それによって何をごまかしているのでもないらしい。少なくとも現状はそんな気分で推移している。それが過ちを誘い出しているわけか。間違っているのならいつまでも間違っていたい。今は正しい内容を導き出せない。それでかまわないのだろうか。そうなるより仕方のない状況がもたらされているようだ。もはや誰を悪く言うこともできない。しかしそれでは何を褒め称えていることにもならない。君はこの世界がどんな状況になってほしいのか。今だってかなりの確率で平和になってきているはずだ。暴力を用いて平和に抗うのはナンセンスだ。暴力的に平和をもたらそうとするのも愚かしいか。誰が何を用いて脅しをかけているのか定かでない。恐喝的な言動を行使するのは楽しいだろうか。何を怒っているのだろう。口調がそんな雰囲気を醸し出す。化けの皮がはがれたのはかなり以前のことであり、それ以降は笑いの領域で話が展開している。そんな風に思いたいのは誰なのだろう。まだ微かな頭痛が続いているらしい。人をさんざんな目に遭わせても、何とも思っていないのは明白のようだ。当人は至ってマイペースで事を進めているつもりらしい。勘違いとはそういうところから生じてくるのだろうか。それについて何を語ろうとも思わない。いったん嫌になってしまったら、あとはそれについて言及するのも億劫になる。たまらなく不快なのはわかっているようだが、それをどうすることもできずに今日に至ってしまっている。だからうんざりしつつも、それについては何も語れなくなってしまったのか。それは一つの禁止事項となっているらしいが、それでは何も語れなくなってしまうのではないか。君はそこで立ち往生していて、そこから先へ進めずに困り果てている。君とはいったい誰なのだろう。そういう話ではない。なぜそこで方向転換しないのか。迂回路ならいくらでもあるはずか。そうしない理由がわからない。できることをやろうとせず、できないことを無理にやろうとして、当然のことながらそこで挫折している。それで何がわかるのだろうか。君はわかっていることを語ろうとしない。そして無駄に言葉を費やして、虚無の中に落ち込もうとしている。それで何がわかるはずもない。何もわからなければそこで終わりだろうか。終わらないからわからないままに文章を放置しようとしているわけか。そういうごまかしはいただけないが、現状ではそんな風にしか語りようがないだろう。そんな状況の中でも、君には暗闇の彼方に光明が見ているのか。それはどのような幻想に基づいているのだろうか。11月3日今日も無駄に何を語っているのだろう。はじめからやり直しても同じことか。仮に結果を恐れていなくとも、同じ結果を見てしまうだろう。何を見ても同じ風景に見えてしまう。君の記憶はいかれている。そんなわけでまた遅れてしまう成り行きになりそうだ。もはや成り行きでさえない。何をそこに重ねているのか。過去とも未来とも何の関連もありはしない。ストレスで気を病んでいるのだろうか。それしきことで病気とは見なされないか。すでに半年後には死ぬ運命なのだろうか。唐突に何を述べているのだろう。本当は誰のことを述べているのか。君はすでに死んでいるし、私はもういない。彼なら行方不明中だ。今は語り手がいない状態なのだろうか。そういう嘘はつまらないか。その場には誰もいないのに、半年後には誰が死ぬのだろうか。誰が死のうと、すでに死んでしまった君には関係のないことか。そういうフィクションは意味不明だ。意味不明なら適当な意味を付け加えればいい。別に意味に関して疑念を抱いているわけでない。では無駄な言葉の連なりに呆れてしまうか。それで少しは気晴らしになっただろうか。それは無理というものだ。気を病んでいるのではなく、肺を病んでいるのかも知れない。咳が止まらなくなる以前に頭痛がしてくる。そして実態としては不必要なことを延々と語っているにすぎない。どうやらしばらく前から意識がもうろうとしているようだ。そして気がつけば何も手につかなくなっている。好き勝手にやりたい放題の君はそうすぐ消えてなくなるらしい。どこかへ去ってしまうわけか。だがそれで何を語っているのでもない。すでに語りすぎるくらい意味不明な奇声を発している。それで語っていることになるのか。そうやって言葉の矛盾を楽しんでいるわけか。誰がそこで楽しんでいるのだろう。誰もいないのに誰かの声が響いてくる。ラジオでもつけっぱなしになっているのかも知れない。たぶん常軌を逸しているのだろう。ではどこで脱線しているのか。はじめからそうなのかも知れないが、そうだとしたら、まったく軌道修正も何もないだろう。何を目指して語っているのか定かでない。目指す対象を見つけられないのはいつものことだろう。画面上では何が宣伝されているのか。娯楽に金をかけて何をしたいのか。目的を見失っているようだが、何が目的だったのか思い出せない。君の欠陥は忘れっぽいことなのか。それを欠陥とはいわない。どこからともなく預金残高が発生している。そんなことはあり得ないが、話がどこかへ飛んでしまったらしい。語り方がおかしいだろうか。それともわかりきったことを問いかけないでほしいか。もう何も語れないことになっているわけか。怠惰と疲労困憊が同時に押し寄せている。本当に疲れているのだろう。確証は何もない。わかっていることは、この世界はつまらぬ出来事で構成されているということか。なぜそれがつまらないと思われるのだろう。生きるということは何かの犠牲を伴っているらしい。なぜそうまでして生き残ろうとするのか理解できない。テレビをつければまた思い出したように拉致被害者キャンペーンが繰り広げられている。ここしばらくは音沙汰がなかったのに、今頃になって過去を蒸し返して、どういう風の吹き回しなのか。そこにどんな意図が隠されているのだろう。忘れてほしくないというメッセージか。何となくテレビを消して音楽を聴いている。何を思っているのでもないらしい。他人のことは忘れてしまった。自分の過去も思い出せない。政治ショーにどんな関心を抱けばいいのか。どこかで絶え間なく会議が開かれているらしいが、お呼びでない人には当然のことながらお呼びがかからない。つかの間のイベントにどんな実質が伴っているのだろう。はたして誰がスパイだったのか。戦争ごっこにスパイごっこに、あとはどんな遊びが有効なのか。官製談合やら必修科目の履修漏れなど、ごまかしだらけの大人が子供から信用されていないことは誰しもが思うことか。しかし暴力で従わせようとすればすぐに死んでしまうだろう。そんなわけで誰もが衰弱しつつあるらしい。どこかのアンケート調査によると、この世界を暴力で支配しようとしている代表的な人物は、ビンラディンとブッシュと金正日だそうだが、そんな名前にはもう何の感慨も抱けなくなっている。何となく新鮮味を欠く言葉の響きだ。メディアの中から語ろうとする者はもう少し違うことを述べられないものだろうか。できることなら末期的状況の中でもがき苦しんでいる君に、もう少し生きる勇気を送り届けてもらえないか。夢や目標や娯楽などといった幻想とは関係のない、直接現実を感じ取れるような言葉の到来を期待している。つまらない言説に思考を縛られるのはごめんか。可能性を感じ取れないような状況に導かないでほしい。しかしどうなる可能性を求めているのだろう。どうにもなりたくないのにそれはないだろうか。それ以前にどうかしているのではないか。頭がどうかしているようだが、そこからどんな可能性を感じ取っているのだろう。11月2日また話が煮詰まってきている。もう少し楽しそうに述べてみたらどうか。そんな心境にはほど遠いか。それもフィクションの一部なのだろうか。何をフィクションと見なしているのだろう。なぜそれが現実の出来事だと認められないのだろう。認められない事実を必死に否認し続けたいらしいが、君にはそれが事実だということがわかっている。自らに嘘をついているわけだ。だが他人について何をどう考えても、勝手な思いこみの域を出ない。そして今日も何について語っているのか定かではない。誰を悪者に仕立て上げても意味がない。別に正気でない者たちが権力を握っているわけでもない。仮に突拍子もないことを考えていようと、そこに至る何らかの過程があるのかも知れない。他人を否定的な紋切り型の枠内で捉えてみても、それで何がわかるというのか。その人なりのこだわりとは何なのか。なぜ言葉が通じないのだろうか。要らぬお節介はごめんのようだ。彼には立ち直るきっかけなど必要ないのかも知れない。そして彼という言葉は架空の人格を示している。そういう述べ方では意味不明だろうか。まるで腫れ物をさわるような対応しか導き出せないのはどういうわけなのか。何をそこから抽出すべきなのだろう。空虚だけで文章は成り立たない。そんなことはわかりきっているが、無意識のうちにそれを推し進めようとしてしまうらしく、そこに欠陥が構成されて、その欠陥を覆う言葉が文章となるらしい。しかし誰かはそんなことを語りながらも笑いが止まらない。何がしかしなのだ。接続詞が間違っているようだが、そうしないと文章がつながらないらしい。そんな文章はゴミか。ゴミ以前に意味不明だろう。意味不明だからゴミではないのか。そういうわざとらしい論理を真に受けるわけにはいかないか。君には反省という態度があり得ないようだ。いつまでも狭い範囲で言葉を循環させている。だから何に反対しようと、それはうわべだけの反対だ。そもそもそういう話ではないだろう。ただわけがわからない。そこに顕在化している欠陥を放置している。なぜ欠陥を直せないのだろうか。欠陥こそが文章の構成には欠かせない。欠陥を取り去ったら何も残らない。だから何の利益ももたらさないような言動は控えてほしいか。では欠陥がどんな利益をもたらしているのだろう。欠陥が継続を支えていて、文章を終わらせないために欠陥がある。だから君は言葉の奇形性を尊重しなければならない。ならば虚無や空虚で言葉を結びつけていることを認めようではないか。文章は絶えずそれに言及しているはずだ。しかしそれとは何なのか。それが誰かの名前であったらおもしろいか。たとえばアブドゥル・イブラヒムとは誰なのか。なぜ唐突にそんな人名を持ち出してくるのか。要するに音楽を聴いているらしい。それでは答えになっていないだろう。言葉につまれば必ず人名が出てくる。だがそれで危機を乗り切れるわけがなく、不用意なことを述べていることを自覚せざるを得なくなり、その結果ますますわけがわからなくなる。自己嫌悪に陥る前に何かそれとは違うことを述べなければならなくなる。影は何か述べたいことでもあるのか。君はもう使い物にならない。使い物にならないから架空の君として文章中に登場する。それはどんなゲームなのだろう。ゲームとなるには他者が必要だ。複数の人物が競わなければゲームとはいえない。架空のゲームを展開させるには複数の登場人物が必要か。当たり前のことを述べないでほしいか。今さらゲームも何もありはしない。君はクイズの解答権さえ奪われている。要するに選挙権を放棄しているわけだ。ここ数年は無関心を装っているはずだ。生身の誰かにとって、もはや政治は関心事ではないらしい。君は議会制民主主義を無視している。君の前には無関心にさせるメディアが立ちふさがっているわけか。真に受けるような状況ではないのかも知れない。何が危機なのだろうか。安倍氏に何ができるというのか。教育改革とは何だろう。家族を思い国を思う心を養うことの何が危険なのだろう。そんなことを子供たちに教えて何になるのだろうか。あるいは高校生に世界史を教えてどうするのか。はたして学校で教えることの何が重要なのか。どうでもいいことだが、とりあえず形だけでも教えたことにしておかないと、世間が納得しないか。世間とは何なのか。すべては大人になるための通過儀礼でしかないのだろうか。とりあえず芸能人がクイズに答えるために世界史は必要なのだろう。実態としてはそこで何が学ばれているわけでもない。人は学校を通して学ぶことができない。学校は集団生活によってストレスを加えるための機関なのだ。試験によってまともそうな者を選別したいだけなのかも知れない。たぶんそこも生存競争の場なのだろう。学校はくだらない人間を多数輩出しようとかまわない。それが学校の役割なのだから、それはそれで正常に機能しているわけだ。人は教育によってどのような人を作ることもできない。ただ人はどのようにも作られてしまうだけだ。11月1日そういう出だしは好ましくない。時が流れ風景も流れ去り、何かが移り変わっているようだ。それは間違っているのではないだろうか。誰かが方々へ出歩いているつもりになっているが、それが孤独な歩みだとも思わない。時代感覚を失っているようだが、それは誰かの思い過ごしだろう。そうやってまたつまらないことを考えている。君には君の考えがあるのだろう。しかしわかりやすい思想のようなものを提示する気にはならないらしい。何らかの法則を捉えたつもりになっていることが、そもそもの勘違いなのか。安易に結論を導き出そうとしてしまうのも、何となく違っているような気がする。物事の道理を単純な法則で解き明かしたつもりになってしまうのも、たぶんそれである程度は正解なのかも知れないが、かすかな抵抗感を覚える。すべてを知ることはできない。すべてを知ったつもりになることもできない。それでも何らかの法則に従って動いていることになるのだろうか。後からそれを分析すれば法則らしきものを導き出せるかも知れないが、それをこれからの動きに当てはめてみても、やはりそれである程度は正解かも知れないが、何らかの不確定性要因が残ることはわかりきっている。絶えず法則に修正を迫るような動作が至るところで発生しているのかも知れない。いつまでもその法則が有効であるわけがない。それでは予定調和となってしまうか。ではそのような現象は何を示しているのだろうか。君はそこで何を感じ取っているのか。今さらそんなわかりきったことを述べて何になるのだろう。たぶんそこから一歩も前進できない。そこで行き詰まりのようだ。では後は迂回に迂回を重ねながら、虚無の周りを言葉で埋める作業が残されているだけか。冗談ではないか。それでも真実を語っていると思いこんでいるらしい。では何が嘘なのか。どこまで嘘をつけるだろう。相変わらず風景が流れ去っている。それを車窓の窓から眺めているわけか。時折興味深い光景に出くわしたつもりになり、それをネタにして道草を食っている輩もいるらしい。画面上はそんな言葉によって荒廃している。空疎な言葉は荒野をもたらす。そうすることによって出口に至りたいわけではなく、そこに何の目的があるわけでもない。出口とは何だろう。なぜそこから引き返そうとしているのか。心は言葉の混沌の中で自足しているようだ。何が出口だとも思わない。夜空を見上げながら何が見えているわけでもなく、真昼の空に星座を見ようとしているわけでもない。それは誰かの体質なのだろう。怠惰を利用していいわけを述べ続ける。たぶんそこに弱点でも見いだそうとしているのだろう。他人の欠点をあげつらい、そのどさくさに紛れて自らの欠点をうやむやにしたいらしいが、それでごり押しが通るわけもなく、つかの間の挫折感を味わうが、そんなことはすぐに忘れて、また性懲りもなく強引に自己実現を図ろうとする。それは思いもよらぬ脱線だろうか。言っていることとやっていることの間に予期せぬ落差を感じざるを得ない。君は好き嫌いの次元で状況を判断してしまっているらしい。それが思考的な混乱の原因であり、それに気づかぬまま、さらなる過ちを繰り返し、ついには誰からも相手にされなくなる。それはごまかしようのない現実かも知れない。そこにいたってなお強気で独りよがりなことを述べ続ける気らしく、周りの状況が見えていないことを周りの人々に悟られてしまい、馬鹿にされ陰口をたたかれながら、そこからさらに思考的に前進しているように思いこむ。そんな作り話を述べていると楽しいか。時には気晴らしになるだろうが、もっと前向きなことを述べるべきではないか。もっとまともな文章になるように努力すべきではないか。まったくいいわけには事欠かないようだが、今さらながらフィクションの偽善性にはうんざりさせられる。偽りの話なのにそれが本当であるかのように工夫を凝らそうとしている。嘘に嘘を重ねるための工夫など詐欺そのものではないのか。それで文章が成り立っているのだとすれば、そんな文章など読む気がしないか。そんな嘘もわざとらしいか。過ぎ去った言葉の連なりについて何を批判しても無効か。それで反省しているつもりになれるだろうか。過去の文章を顧みて、気に入らないところを修正しつつ、そこに何かを付け足そうとしているようだ。今はそんな風に述べてしまう理由を知りたい。外では風が強く吹いているようだが、それは一時的な気の迷いだろうか。真昼の光景に見とれているわけではないが、何となくそれでかまわないような気がしてくる。また何を述べているのでもない状況に近づきつつあるようだ。君にはそうなる原因がわかっているらしい。まだ本気になっていない。遊び半分で照れ隠しを繰り返す。どうやら他人から誤解されたいようだ。いつまでも謎の人であり続けたいのか。それでも冗談の延長上にある文章なのかも知れない。そこから言葉はさらに循環し続け、いつも同じようなことを述べているような気分を保ちつつ、空疎な気分を醸し出している。10月31日電車の中吊り広告の表面上でライオンキングが叫んでいるようだ。新聞の紙面には今日も無駄な言葉が並んでいる。君には役に立たない言葉だろうか。何を批判しているのでもない。誰が窓の外を眺めている。辺りが暗くなり、やがて何も見なくなってしまう。そこで誰が物思いに耽っているわけでもないだろうが、それ以外の何を見定めるつもりはなく、夜になっても相変わらず何も始まらず、用意した言葉は勝手に去ってしまう。そんなはずはないだろう。もう少しちゃんと文章を読んでみたらどうか。たぶん何らかの内容を含んでいるはずだ。何か少しは内容のあることを述べてみたらどうか。たとえばひげ面のポニーテールはやがて禿げるだろう。頭皮を四六時中一定方向に引っぱっていることになるらしい。それは無駄な内容だろうか。誰にとってもそうではないような気もしてくる。中には興味深く読んでくれている人もいるらしい。だからなんだというのか。何をそんなに開き直っているのだろう。君は誰のおかげで生かされていると思っているのか。そんな言葉を真に受けるわけにはいかないらしい。心情的に反発せずにはいられない性格なのだろう。だがそこから何が立ち去っているわけでもない。言葉は相変わらず意味不明をまとって君の側にある。君はそこから適当に選んで空白に連ねてみればいいだけだ。それで何が構成されるのだろう。それらの連なりが何らかの主張を帯びることがあるだろうか。誰もそんな風には思っていないはずだ。実質的は気晴らし以外の何ものでもないだろう。表面的には平静を装ってはいるが、心の中で何かが砕け散っていて、砕け散った破片で切り傷を負い、その内部はすでに血の海か。そういうマンガチックな展開は好まないか。何も感じないことの理由など求める気にはなれない。誰のせいでもなく、本気でそんなことを思っているのでもない。しかし今さらほおづえをついて何を考えているのか。たぶんそこに欠陥を見いだせるのだろう。何かが欠落している。それを思い出そうとしても、過去に気づいた欠落ではあるまい。すべては嘘なのだ。嘘でなければ本当だと思いたいが、真実を述べるのが面倒なので、だから適当に嘘をついているわけか。それでも間に合わせの嘘に決まっている。他意はなく、窓の外に広がる暗闇の風景を眺めながら、何か思いついたような気になりたいだけなのではないか。それで実際に何を思いついたのだろう。この世界についてどんな認識を得ているのだろうか。そういう大げさなことではなく、ほんの些細な思いつきに文章の内容を重ね合わせようとしているのか。何を思いついたのか知らないが、さっさとそれについて語り始めたらどうか。それも嘘なら今まで通りに沈黙を守っていればいい。黙っていれば勝手に言葉が連なってくれる。それはあり得ないことかも知れないが、いい加減な自己言及が架空の時空でそれを許してくれることだろう。しかし意味がわからない。そうすることによって何がもたらされるのか。意味不明がもたらされ、空疎な文章がそこに構成される。わかりきったことを述べないでほしい。だがわからないことを述べるわけにはいかない。しかしそれが意味不明なのではないか。わからないから意味不明なのであって、それがわかってしまったら意味不明にはならないだろう。何となくそれは屁理屈のような気がするが、そんな風に述べる必然性がそこにはあるのかも知れない。そうやって言葉を連ねている現状があるらしい。今はそんな現状を何とかしなければならない。何らかの意味を担い、その意味を感じられる文章を構成しなければならない。目的とはそういうものだろうか。あまりにも漠然とした目的だ。内容がなければ目的にも至らないだろう。いったい何をどうしたいのか。何かをごまかさなければ出来事を起こすには至らないだろうか。教師ならば何をごまかしているところか。生徒たちに向かって、何をしろと命令しているのか。偽りの仮面をかぶり、自らができなかったことを生徒たちに強要しているのかも知れない。それが教育が直面する矛盾だろうか。教師の教えによれば、誰もが自らの成功を目指して努力しなければならないことになっているようだが、努力が無に帰したとき、その先に待ち受けているのはどんな状況なのだろうか。なぜ努力は必然的に無に帰さなければならないのか。そんなはずはないと思いたいところだが、何となくその方がおもしろいような気がする。だが努力が報われて何らかの達成感を得てしまった方が、気分がいいだろう。普通の神経の持ち主なら、たとえ試みが失敗に終わろうと、心情的に少しでも報われたつもりになりたいものだ。なぜそう思ってはいけないのか。誰もが納得できる理由などあるわけがない。ただすべてが無に帰してしまったときのことを想うと、何となく愉快な気分になる。これまで積み重ねてきた努力が水の泡と消えてしまったとき、君は何をやっているつもりになれるだろうか。そこでどのような演技をしなければならないのか。照れ隠し程度では誰も納得しないか。10月30日何を悩んでいるのか。悩み事を述べて何になるのだろう。昼の暑さに何か文句でもあるわけか。もうそろそろ寒いままであってほしいか。誰が天候を選んでいるわけでもない。そんな話を誰がしているのだろう。きっとどこかに何かが記されている。それを読んで誰かが感動するわけか。皮肉とは何か。皮相的なところで受け答えを繰り返している。よく見れば誰かの目尻にはしわが深く刻まれている。いったい何を考えているのか。誰かが誰かに悩み事を打ち明けているのはテレビドラマの中の一コマだ。そんな単純にいくはずがない。何を悩んでいるのかわからない。世界史とは何だろう。日本史も世界史の中に含まれるわけか。時間の経過とともに何かが拡大し続けている。古代オリエントの周縁部でギリシアが生まれ、さらなる周 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