彼の声552006年7月31日つまらない水準で感動するのと、くだらない冗談に感動するのとでは、どちらが愚かしいだろうか。誰かはどちらでもかまわないと思う。感動したところで何がどうなるわけでもない。そんなどうでもいいことに感動しながらも、これから何について述べようとしているのか。ファンタジーとは何を隠すための覆いなのか。とりあえず何も考えていないことを隠さなければならない。それを見聞したからといってどうなるわけでもなく、見せ物を発表することによって、何をどうしたいわけでもない。たぶん幻想の中に真実が隠されているのかもしれないが、制作者の思い通りに事が運んでいるわけでもなく、得体の知れぬ誰かの思惑に虚構全体が支配されているわけでもない。要するに現実の世界には乏しいものをもたらしたいわけか。それが現実ならどれほど感動することか。言葉や映像ではなく、紛れもない現実を見せてほしい。しかし現実とは何なのか。人々が追い求めている幻影は現実には存在し得ないのだろうか。それがわかるときがいつか訪れるだろうか。誰がそれを待っているのだろうか。そんな問いかけに誰が答えてくれるというのか。誰も答えなど求めてはいない。誰もが知らないことを知りたいのだ。自分しか知り得ない秘密を知りたい。そんなつもりにさせるのがフィクションのねらいだ。実体としては大勢の人が同じ秘密を共有することになり、それを知り得たときの驚きと感動を共有することとなる。それが人々の願望となるのだろうか。同じ夢を見ているつもりになれるなら、進んで幻想の虜となることをいとわない。だがそんな実態を知ったところで何がどうなるわけでもない。人々は同じ時間と場所を共有しながら群れていたいだけなのかもしれない。そんな幻想を全世界に拡大させれば、この世界に恒久的な平和が訪れるだろうか。人々はそこで何を支持しているのか。幻想と戯れながら心を浄化したいわけか。安易な目くらましにいかれて、日常の現実を一時的に忘れたいのかもしれない。そこにとどまるとはそういうことだ。そこにとどまり続ける限り、同じ感動を他のみんなと共有しているつもりになれるだろう。それによってこの世界の矛盾が解消されるわけでもないが、物語の中では何かが解決しているように思われてしまう。解決しなければ物語は終わらない。話に終わりがあるということ自体が何かの救いとなっている。終わりがなければ終身禁固刑に処せられたような状況になってしまうだろう。そこから出てこられなくなる。出られなければそのまま物語の登場人物と化せばいい。コスプレキャラになってしまうわけか。しかし物語の終わりはどこにあるのだろう。世紀末にはあと百年近くある。前世紀末には結局何が起こっていたのか。騒ぐだけ騒いでいたら、いつの間にか通り過ぎていた。それがどうしたわけでもなかったようだ。それ以上を期待していた者たちにとってはまったく拍子抜けだったらしい。君はそんな世紀末の物語に裏切られて、少しは正気に戻ったのだろうか。昔のことは忘れてしまった。あれからそれほど時が経ったとは思えないのに、もうすでに過ぎ去った昔でしかない。それに関して何の感慨も湧いてこない。今世紀に入って数年が経過したのに、相変わらずの日常が続いているだけで、何の代わり映えもしない現実のただ中で、普通に生きていると思っている。ファンタジックな現象はいつも画面の中でうごめいているだけか。それを大勢の人が見聞しながら、その中で息づいている何かをさらに生き延びさせようとしている。君にはそれが見苦しく感じられるようだ。ところでその何かとは何のことなのか。ファンタジーの中で誰かはいつもあり得ない冒険の最中だが、なぜそれに無関心ではいられないのだろう。なぜそれらの行為に注目しなければならないのか。なぜか冒険につきあっている人々が滑稽に思われる。そう思っている君は幻想を共有しようとせず、感動に至ることを拒絶してしまう。感動するのが面倒くさいのか。そんな嘘では人々には通用しないだろう。君は自分が人々であることに無頓着のようだ。そして何となくそこから遠ざかりたくなる。感動の光景から離脱したくなる。感動するのは幼稚だとさえ思っている。そう述べることによって誰の反発を期待しているのか。要するにひねくれているのだろう。どうしてもいつ何時でも正気でいたいらしい。ところで君が定義する正気の精神状態とはどんな具合なのだろうか。あてどなく遠くを見つめているときは正気なのか。果たして本気になるのはいついかなる状況になった時なのか。それに対する明快な回答は持ち合わせていないが、たぶん正気な精神状態で本気になることはないだろう。あらすじ通りに事が運んでしまったら、それではつまらぬファンタジー以外の何ものでもないではないか。自由とはそういうものではない。7月30日理由はいい加減だが、何となくこの世界がつまらなく思えてくる。ただ人々やそれらが構成する国家やテロ組織が戦争ごっこをやっているだけではないか。そんな最近のニュースを真に受けても仕方がないだろうが、そういえばスポーツも戦争ごっこのたぐいなのかもしれない。人々が騒ぐほど戦争ごっこがおもしろいものだとは思えない。別に人々が騒いでいるわけではなく、メディア関係者が騒いでいるだけではないのか。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただの出来事を伝えているだけなのだろう。そんな風に思われるとしたら、自らの感性が衰えている証なのかもしれず、そんな状態で何をわかろうとしても、思い違いか勘違いを招くだけではないのか。それでもかまわないだろうか。君が何をわかろうとしようと、わからないことはわからないままに無視され、わからない思いはどこでもないどこかに放置され続け、君にはどうすることもできず、現実に何もできはしない。何もできないから空模様を気にしながら、どこかへ出かけるのをためらっているわけか。確か誰かのフィクションの中では、呪術師が嵐を呼んでいるらしいが、そんな話から何かのきっかけが生じるはずもなく、かといって他に何が生じるわけもなく、嵐が画面から飛び出てくることもない。だからそこで何を語ろうと、現状では何をする気にもならず、そこからの脱出は無理なのではないか。嵐は地球上のどこにでもやってくるが、誰かの心の中では何の効力も発揮されない。面倒くさいのでわざと短絡的に物事を考えているのか。とりあえず夏は苦手だ。そこいら中から虫が湧いて出る。それの何が最悪なのか。にわかには最悪の状況を定義できない。どうでもいいことではないか。何を想定しながら行動しているわけでもない。その必要はない。何かを思い出そうとしているのだが、なかなかお目当ての固有名が出てこない。誰のことを思い出そうとしているのか。人は人と争う。自然から収奪して、人からも収奪する。その何もかもを金に換えれば、後には何も残らない。それでも交換の可能性があるはずだ。金と物を交換しながら生き続ける。人はなぜそうするのだろう。生き残るためには必要なのか。生き残れなければどうするのか。交換の可能性がなくなる。せっかく貯めた金も君のものではなくなるだろう。君は交換の可能性を見いだせない。梅雨明けの真夏なのに冷めている。目が覚めているわけではない。目が覚めればまたいつもの夜だ。たぶん疲れているのだろう。心が貧しい。それは誰の心とも思えないが、そういう言葉は似合わない。君たちはだまされている。誰にだまされているのかわからないが、いい加減に目を覚ましたらどうか。そして首を傾けながら何を見ているのでもない。人の浅知恵に惑わされて虚しいとは思わないか。他に何があるというのか。付け焼きの知識に付随している思考力は君を裏切る。誰の思考も裏切られるだろう。なぜそうなってしまうのか。何がもたらされているとも思わない。救いとは何だろうか。それがあると思ってはいけない。それでも君は真実を把握できると思っている。考えることは必要だが、それが有効に機能するとは思わない。何を考えているのかわからないし、何を述べているのかもわからない。何かが破綻しているのだろうか。つまらない争いごとに疲れているだけか。そんな現状をどうすることもできはしない。何を述べても無駄だろう。しかし理由がわからない。愚かな人々は愚かな行為に耽っているだけではない。そこには何も見当たらない。それは誰にもできないような行為かもしれない。空想することで満足すべきなのか。空想と妄想はどこで重なっているのだろう。できもしないことを空想するのは妄想なのか。考えていることは浅はか極まりない。それ以上の継続は無理なのかもしれない。たぶんなるようにしかならないだろう。それはわかっていることだ。わかっているが信じられない。信じられないからわからないふりをして、わかっていることを忘れようとする。だがそれでは死ぬことも生きることも叶わない。どちらでもないのなら、君はどのような状態で存在しているのか。不死であり不生であり、言葉だけの存在でしかないのに、どんな行動がとれるというのか。いったいいつになったら君の物語が始まるのだろう。誰がそれを語るのか。何もないのに語れるはずがない。何も語れないのに何があるというのか。何があるとしてもそれが空虚だとは思いたくはないか。なぜそこから目を背けるのだろう。そこには何もないからか。どんなに言葉弄しても、何もないことを認めざるを得なくなる。だから何を語ろうとも無駄だ。それ以上は何も言葉を導き出せない。だから苦し紛れにおもしろおかしくふざけようとするわけか。7月29日取り立てて何を述べているわけでもないが、何をどう述べても何もおかしくはない。別にこの世のおかしさを表現しているわけではなく、ただの言葉を文章の中に配置しているに過ぎず、それをおかしいと感じられる意識自体がおかしいのではないか。そんな風に考えようとする頭はかなりおかしい。しかしそれは誰の頭なのか。特定の誰の頭がおかしいわけではないが、それらをどう読んでも、つまらぬ矛盾をはらんだ言葉の連なりでしかないはずだ。そんな言葉が連なっている文章でしかなく、それ以上でも以下でもなく、それを超えることも、超えられずにどこかへとどまることもない。不安定で壊れやすく、放っておけば記憶の外へ押し出されて、どこかへ消え去るように運命づけられた文章だ。君はそれについて正しいことを述べるべきではない。しかしそうする理由がわからない。そのように語ることの何が間違っているのか。深夜に起きて言葉を連ねること自体が間違っている。だがこの際そんな些細な過ちは無視されるしかないだろう。君はそう述べながらも何から遠ざかろうとしているのか。なぜ自意識にはそれがわからないのだろうか。何を述べても無駄なことはわかっている。ではわかろうとしていないことが他にあるだろうか。そういう話ではない。たぶんそれ以外を求めてはだめなのかもしれない。では何を求めるべきなのか。現状では何も求められないわけでもないはずか。現に今は適当な言葉を求めている。それだけでは満たされないような言葉だ。だがそれではわけがわからないだろう。そんな言葉などもとからあるはずもなく、何もないから満たされないだけではないのか。それが満たされない本当の理由なのだろうか。そんな言葉では満たされないか。もし満たされたとしても、何がそこから生えてくるわけもないだろう。君は植物のことを述べているのか。それは樹木か草かどちらなのか。たぶんどちらでもなく、言葉が連ねられている平面は空虚で満たされている。それで何がわかるわけもなく、何もわからないわけでもない。それは意志の力ではどうにもならないことだ。たぶん言葉が何かを示してくれるだろう。適当な状況の到来を告げてくれる。君はそれを知っているはずだ。架空の存在が何を知っているというのだろう。それは空虚ではない。空虚だと思うなら、他に何を示せるのか。何らかの状況を示している。事物が通り過ぎた後に残る空気の乱れを感知したとすれば、それは何かの痕跡かもしれない。言葉ではない。君の影はそこから生まれてきた。どこから生まれてきたわけでもない。要するにすべてを否定する気なのだろう。世の中に否定できないものなどないが、それらの否定には中身が伴わない。何をどう否定しても説得力を得られない。誰を説得するつもりもなく、他人にどうしてほしいわけでもない。ただそこから遠ざかれないだけか。たぶん何がどうなっているわけでもないのだろう。だがどうにもできないからどうしようもないわけではない。少なくともそこには何らかの答えがある。君はそこで何かを見いだしている。たとえそれが言葉でないとしても落胆することはない。まだ始まったばかりではないか。何が始まっているのだろう。始まりようがないのは誰の物語なのか。ターゲットはどこにも見当たらない。それが目標とはならない。何かを見いだすことが誰の使命ともならない。おかしなことを述べているようだ。君はそこで何を裏切っているのか。あるいは何をわかりかけているのだろうか。そのどちらでもなく、あるいはどちらでもあるようなどうでもよさの範囲内に答えはあるのかもしれない。あるいはそんなのは答えではなく、問いも答えも不在の混沌の中に誰かの意識が隠されているのだろうか。誰によって隠されているのか。そしてそれらの誰は誰を指すわけでもなく、ただ便宜的にそんな言葉を使ってみただけかもしれず、そこからどんな人格を伴った誰も導き出されはしない。誰について述べているのでもなく、誰かについて語っているのでもない、どこにも出口などあるはずがない。もはや幻想の答えを追い求めていることにもならない。ただそんな言葉がどこまでも連なっている。それ以外は何も語れないだろう。もしかしたらそれさえも語っていないのかもしれない。何も語れないような状況の中にそれらの言葉は連なっている。だからそんな語りには意味がない。要するに無駄なのか。無駄でなければ何なのだろう。無駄と見なす以前に何か見落としていないか。それは考える必要のない事柄だろうか。そこからどう言葉を繰り出すべきなのか。さらにわからないことを述べている。君にはわかるはずのない内容になっている。それが幻想の正体なのか。何について述べているのか。たぶんそのまま強引に無内容を続けるつもりなのだろう。君にはそれがわかっているはずだ。わかっていながらそれを放置している。7月28日少し冷房が効き過ぎていないか。それは昼の話だろう。それから半日が経って、夜になっても冷房が効いている。今し方戻ってきたところで、その間は冷房など入っていなかったはずだ。しかしここで冷房がどうのこうの述べていることに意味などありはしない。たぶん君たちには進むべき道がないのだ。君たちではなく、君自身はどうなのか。架空の人物に対するつまらない語りかけもマンネリ気味となってきた。そんなことははじめからわかりきっていたことではなかったか。空には雲が低くたれ込めている。すぐにも雨が降ってきそうだ。雨とともに適当な言葉の連なりも到来してほしいか。到来するのではなく君が構成するのだろう。だが君にそれができるとは思わない。できなくてもかまわないか。誰にかまってもらおうとも思わない。そういう話でないことはわかっている。君に大局的な見地に立てる余裕などありはしない。戦争とは何なのか。他に解決すべき事柄があるのではないか。たとえあるとしてもそれをわかる手だてはない。何を訴えかけても誰も耳を傾けはしないだろう。人はそんな状況で生きている。ただそういうことを肯定しなければならない。そこには何もないのと同時に何でもありの世界なのだ。どんな出来事が起こっても、何があってもかまわないのはもちろんのこと、それが何もないと変わらないあり方を示しているわけだ。そんな状況は退屈だろうか。要するにそんなことはどうでもいいということか。そこからさらに言葉を連ねるのは苦痛を伴う。君にはそれができない。できないからそこで眠ってしまい、目がさめたら翌朝に戻っている。気がつけばそんな状況が繰り返されていて、そこには言葉を連ねることによって破滅させられてしまった誰かの意識が漂っている。だがそこから先が君の出番なのだ。君にはそこから語ってもらわなければならず、いつも何もないところから言葉を連ねてもらわなければならない。そのような行為が架空の君自身を形成している。君にはそれが我慢ができない状況となっているのだろう。我慢ができないのに、なぜそれをやろうとしているのだろう。ではそれの何が嘘なのか。嘘であろうとなかろうと、状況には何の影響ももたらさないだろう。そこには何もない状況があり、何もなければ言葉も連ならないはずだが、その辺がフィクションの便利なところで、何もなくとも何もない話が続いてしまうわけだ。そんな嘘は聞き飽きたか。君はそれを誰に聞かされ続けているのか。誰もそんな嘘は聞いていないか。それが本当に嘘であるなら、そんな嘘が聞かれようと聞かれまいと、そんな嘘はどうでもいいことではないのか。どうでもいいからこそ、そこで嘘の話が進行中なのかもしれない。酔っぱらいにはそんな嘘がお似合いか。どこの誰が酔っぱらいのふりをしているのだろう。要するに誰かが酔っぱらいのふりをしていることも、嘘の範疇にはいるのだろう。フィクションとはどこまで行ってもそのような嘘の積み重ねにしかならない。それが気に入らないなら、どうか真実を語ってほしい。誰に向かってそんなことを呼びかけているのか。そんな呼びかけも嘘の延長上に続く言葉となっている。フィクションの言葉はそうやって延々と続いてゆくらしく、そんな風に述べれば述べるほど話にきりがなくなる。そんな嘘の無限循環には嫌気がさしているのではないか。嫌気がさしているからこそ、さらに深く嘘の罠にはまってしまう。柔な精神状態ではそこから抜け出ることはできない。精神そのものがそのような状態に安住してしまっていて、そのような状態から精神が構成されているのではないか。だがそれこそ嘘の無限循環の一部なのかもしれない。そのような状態では何を述べても嘘となってしまい、嘘以外の何もない状況が延々と続いてゆくしかない。それでもそれを続けてゆかなければならないのか。それも嘘のたぐいだろう。そこでどんな話が続いているわけもなく、ただ何もないという嘘が言葉によって提示されているに過ぎず、そんなのは話でも何でもありはしない。要するに内容がないということなのか。しかし内容がなければどうするのか。何がどうしているわけでもなく、どうすればよいということもない。ただ同じような言葉が延々と連なっている。それらの文章は必要から見放されていて、読む者の存在を想定できない。誰も読まなくてもかまわないような文章となっている。実際に読む者を必要としない、読者からの自由を確保している無内容に違いないが、そんなものは文章ではないのかもしれない。文章であるとしても、用をなさない文章に違いない。そこには何もないのと同じような不在が存在しているわけだ。それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことでもない。君はそれが虚無のたぐいだと勘違いしているわけか。それの何が勘違いなのだろう。それも嘘の一種か。7月27日この世のどこかで想像を絶する出来事が起きているとは思われない。なぜ思い通りにゆかないのだろう。高邁な理念を嘲笑するのは悪いことなのか。誰が何を言おうと、そういう言葉の用法は間違っている。この期に及んでの理論的な模索は受け入れがたい。君にはそれとは違う状況が見えているはずか。曇り空は君に何も語りかけてこない。それを言葉にできないのかもしれない。意思疎通の難儀さは今に始まったことではないが、何をあきらめているわけでもない。ただ無駄にそんなことを述べているだけかもしれない。そのわけのわからなさが言葉を繰り出すきっかけを作り出す。文章の中には言葉以外に何があるのだろう。空隙を言葉で埋め尽くすわけにはいかないか。わかりきったことを尋ねないでほしい。空虚の他に何もないのはいつもの通りか。君には思い当たる節などない。現実には何もないわけではないが、ただの現実は言葉にかすりもせず、それどころかたった今並べた言葉を置き去りにして、何の痕跡にも残さずに、さっさと意識から遠ざかってしまう。記憶には何も残らない。それについて言葉を繰り出す隙を与えない。すでに忘れ去った後から言葉を弄していては、何について述べているのかわからない。いったい君は何を述べているつもりなのだろう。そんな台詞は聞き飽きたか。では誰に向かって何を述べているのか。どんなにこの世界に対して反発しようと、そこから遠ざかることはできない。世界の内部で息づいている自らのみすぼらしさを再認識するだけか。君の言葉はそこで限界に達している。要するに現実をつかみ損ねているのだ。今日の話題は明日には忘れられ、明日の話題もそんなに長続きはしない。そこからどんな現実を取り出そうとしているのか知らないが、したり顔で何を取り出そうと、そんなものはことごとく本質から外れている。いくら飾り立てようと、そんなものは言葉の綾に過ぎず、現実とは何ら関係ないフィクションのたぐいになってしまう。だからといってそこで挫けているだけでは物足りない。しかし君は何について述べているのか。闇雲に空を見上げてみても、どこから何が降ってくるわけもなく、明日は雨が降るかもしれないが、雨空の下に神が降臨するはずもない。そういう処理の仕方は欺瞞だろうか。何となく欺瞞の意味を感じ取れない。君は言葉を弄することによって何をごまかしているのか。そこには何もないという事実を認めがたいわけか。依然としてそんな状況から抜け出ていないようだ。さっきから何を述べているのか。たぶん何かが執拗に繰り返されているのだろう。言葉があてもなく循環している。誰もそれを止めることはできない。だから君しかいないわけだ。今こそ無駄な語りとはおさらばして、本当の沈黙を実現しようではないか。またわけのわからない妄想にとらわれている。しかしなぜそれをすぐに打ち消そうとするのか。もう少し妄想をふくらませないと話にならないのではないか。話にならないからこそ今がある。だが今があるということは何もないということだ。その逆説をいかに乗り越えてどんな話を展開できるのか。まだわけのわからない話にこだわっているのだろうか。まだ意味にとらわれるわけにはいかないが、話に中身がないことを誇っている場合ではない。君のこだわりはそんなところで停滞することなのか。なぜそこで終わらせる必要があるのだろう。文章の意味を理解できない。たぶん何を主語に持ってきても、誰が何をやっていることにもならない。それは誰の文章ともならないだろう。単純化された説明では納得しがたいか。短絡的に物事を考えても、つまらない答えしか導き出せないか。そこからの飛翔はあり得ないのだろうか。何を飛び立たせるつもりなのか。マジシャンの袖から白い鳩が飛び出す。何か驚くに値するような出来事を体験したいか。あるいは月並みな文章表現から逸脱するような文章に出会ってみたいか。本気でそんなことを思っているわけではない。たぶんそれも無駄な思いこみになってしまうのだろう。妄想はとどまることを知らず、絶えず君の感性をむしばみ続けている。要するに単純化された人間にしたいわけか。人も機械も将来は似たようなものになるのだろうか。安価な天然資源がなければ、それについて語ることもできず、資本主義も成り立たなくなるそうだ。何のことはない、人間はそれによって自らの社会構造を維持発展させてきた。だからつまらない国家同士のいがみ合いに巻き込まれたくはない。国民などという言葉には吐き気がするが、国家単位で物事を考えなければならない不自由さから比べれば、そんなことはどうでもいいことか。たぶん意思疎通など強引に成り立たせるようなものではないのだろう。今どき戦争など時代遅れもいいところか。だがそれは君が判断することではない。何とかそれとは違う成り行きを導き出して、もう少し現実的に振る舞えないものか。7月26日言葉が何かにかぶれて鬱陶しい内容になる。物語とはそういうものだろうか。何がそこでの物語なのか。暗闇の中で不在の何かがうごめいているようだが、それは遊技のたぐいだろうか。それらの言葉の連なりは何に関係しているのだろう。少なくとも文学とは無関係だ。それでも言葉を適当に繰り出していくうちに、自然と迷路が組み上がり、その場限りの意味不明とともに、精神のバランスを著しく欠いているのかもしれない。何がバランス感覚を奪っているのか。文字が小さすぎて何が記されているのか判別不能に陥っている。それは一過性の現象に過ぎない。要するに文章が無駄な言葉によって水増しされているのだろう。このところの大雨で海までながされてしまったのか、海の中に誰かの死体が漂っているらしいが、その海の藻屑は腐っているのだろうか。なぜか誰かの腐臭をかいだつもりになり、わざとらしく顔をしかめてみる。君は緑茶の苦みで目が覚めた気でいるらしいが、どうもまだカフェインが不足気味のようだ。この世界に足りないものは何なのか。少なくともそれはカフェインではないはずか。現実にはそれとは無関係に言葉が過剰に湧き出でる。湧き出でるのは清水のたぐいかもしれない。誰かの腐敗と山奥の清流は無関係だ。そんなどうでもいいことを語りつつ、それで気分を害しているつもりになれるだろうか。そう述べる意図がわからない。どさくさ紛れにそこから逃げだそうとしているのか。果たしてそこから精神の自由が生じるだろうか。わけがわからないふりをしながら、精神の混乱を装い、それを何かのいいわけにしたいらしい。どうもそうではないような気もしてくる。自らが何を考えているのかよくわからないのはよくあることだ。そんな幻想にさらされながらも、まだ心は正気を保っているつもりらしい。水なら海へ行けばいくらでもありそうだが、塩水は飲めない。だが汗まみれの君には塩分が不足している。猫背のまま木陰にしゃがみ込み、誰かが暑さに耐えている。意識が次第に定かでなくなり、行き先を見失い、また言語的な行き詰まりを解消できなくなる。そのような状況で何を語れば本気になれるのか不明だが、空中を浮遊するには何が必要なのか。できることなら宗教とは無縁でいたい。本気でそれをしたいわけではなく、何となくそんなことを述べてみたかっただけか。気晴らしに遠くを見渡せば、崩れかけの岩山から誰かが降りてくる。君は仙人の話を聞いたことがあるだろうか。たぶんその話はまだ始まっていないはずだ。始まらないから死んでしまうわけか。それはどういうわけなのだろう。別にいずれ到来する死の始まりを見極めたいのではない。霧が濃く立ちこめていて、その先がまったく見えなくなる。このまま車を走らせてゆけば事故を起こしてしまうかもしれない。もしその先で事故死すれば、いったいそれは誰の死にふさわしいのか。誰が車を運転しているのだろう。誰か助けてくれないか。冗談でそんなことを述べているのだろう。そこでごまかそうとしているようだ。まったく軽薄きわまりない話になってしまうようだが、仙人はどこで何をやっているのか。仙人は不老不死のはずだが、その容貌からすると老人が多いようだ。そんな話ではない。事故現場では誰が死にかけているのだろう。別に誰の事故死を予言しているわけでもない。君の死因は事故死ではなく病死の可能性もある。では何が完治していなかったのだろうか。まだ君は病名を知らされていないのではなかったか。ところで君はいつ死ぬことになっているのか。死ぬなら早いほうがいいのだろうか。そんな話でもなかったはずか。それは話以前の話だろう。君に付随する話はどこかでとぎれていて、その先が見当たらないとき、すでに君はこの世の存在ではないのかもしれないが、それは誰かが話したい内容とはまったく無関係になっているはずだ。仮にそうだとしたらどうだというのか。それらの言語的用法は誰の発想に基づいているのか。それではいきなり話の内容が飛んでいる。たぶんそう述べて話の不連続を示しているのだろう。もちろん誰が何を示しているのでもなく、いつの間にかまた主語を示す単語の存在が疑わしくなってきたが、語られている話がどこから盗んできた内容とも思えない。少なくともそこで語っているのは君ではあり得ない。君に語らせるのが面倒くさいのか。誰が何を語っているのでもないが、君にはそれらの言葉の断片から意味の通った文章を構成する義務が生じている。そんなのは嘘だろう。そんな断言がどこから生じてくるのかもわからない。また未知の言語に接しているのかもしれない。いつ生じたのかもわからないような言葉の連なりにどんな責務が生じているというのか。何となくそれらの文章を読みたくなくなってくる。架空の物語の中から誰かが何かを仕掛けてくる。そんな被害妄想もまったく信じられなくなってきた。もうこの世には誰もいないのではないか。他の人々は誰かの範疇に入らない動物のたぐいか。7月25日夕暮れ時はどこへ行っても渋滞に巻き込まれる。どこから車が湧いて出るのか。それだけ多くの人が暮らしているということだろう。しかし少し飛ばし過ぎか。近頃は度を超して冗談を述べすぎている。だが今さらそれが緊急に修正を施さなければならない事態ではないはずか。軌道修正には多少の時間を必要とする。しかし誰がそれによって窒息しているわけではなく、別にガイガーカウンターが異常な値を示しているわけでもない。誰かが無意識のうちにチェルノブイリまで行ってきたわけでもない。そんな意味のない話に終始しているうちに明日になってしまうだろう。またできもしないことをやろうとしているのだろうか。何がそれらの文章から導き出されるというのか。それはわけのわからない妄想かもしれないが、そこから何を語り始めることもないだろう。現実に何も語れないような状況に直面している。たぶんそこからは何も出てこない。そして他に何を語り出そうとしているわけでもない。もはやその必要はないのかもしれない。心は何に対しても興味を示さない。それはいつもの嘘に違いないが、いったい誰に嫌われようとしてそんなことを述べているのか。そんな理由であるはずがない。では君は誰に対して牙をむいているのだろう。君は猫科の動物の幻影だろうか。フィクションの中ではそんな存在でも気が利いていると思われるだろうか。しかし冗談でそんなことを述べているにしても、少しむきになりすぎていないか。誰が何に対してむきになっているというのか。どこかで誰かの攻撃的な性格が顕在化しているのだろうか。妄想の中では顔の表面から磁力線が放射されている。それは気のせいだろうが、それのどこが妄想の続きなのだろう。目が覚めたふりをしながら、夢の中で身体が飛翔している。そして誰も知らぬうちに、誰かの額から角が突き出てくる。それはどこかのファンタジーから盗んできた言葉だろうか。現実には何かの間違いに違いないが、どうも最近は剥き出しの虚無を使いすぎているようだ。何もないのにそこから糧を得ているような気がする。現実の生活は何でもないのに、何かいい加減なことを空想し続けていて、そこからどこへ向かっているわけでもなく、知らぬうちに偏見が頭に植え付けられているようだ。夢の中で出てきた額の角は、何かの偏見の象徴なのだろうか。そこで何が見いだされているのだろう。言葉に尾ひれがついている。オタマジャクシから足が生えてきて、水槽の中を熱帯魚とともに泳ぎ回る。意味もなくそんな状況を空想して、何もない現実から逃避しようとしているらしいが、そんなつながらない文章を無視して、崖の上から下をのぞき込んでみると、森の樹木が天に向かって枝葉を茂らせている。なぜ唐突に場面転換してしまうのだろう。竜脚類の化石がそんなに珍しいか。どこかの展示場で恐竜の化石が見せ物となっているようだ。そして誰かがどこかで伝説上の動物について熱く語り続けている。君はそこで何か勘違いしていないか。意味不明な言葉が方々へ飛んでいないか。あらぬ方角からいらぬ情報がもたらされるが、それらのどこに戦略が隠されているというのか。君にはどんな戦略が必要なのだろう。ただ行き当たりばったりで言葉を繰り出しているだけのような気がするのだが、それで虚無から遠ざかれたとは思えない。何から遠ざかっているわけでもなく、目の前の虚無にいっそう近づいているだけか。近い将来そこへ飲み込まれてしまうだろう。それでもかまわないのだろうか。そこに誰の意志があるわけもなく、それらの文章はさらに大きく常識からはみ出てしまったらしい。そこで誰かの本性が剥き出しになっている。なぜ地方自治体が続々と破産しそうな気配なのか。採算度外視でいい加減な事業を展開しすぎたわけか。それは夕張市特有の事情なのかもしれない。だが君は北海道に住んでいるわけではない。それは斜陽傾向の観光産業と同じく、いい加減な寄り道に過ぎない。いったい翌日の深夜に何を述べているのだろう。たぶん邪魔が入ってしまったのだろう。一応やる気にはなっていたようだが、様々な事情からそこで挫けてしまう。自らの意志を全うできないようだ。翌朝に目が覚めたら疲れがとれていたのだろうか。今はいつなのか。時間的には昨日からだいぶ経ってしまったようだ。様々な出来事が錯綜して、何をやる暇もなく、画面上に文字を記す機会がなかなか巡ってこない。翌朝は久しぶりに晴れていることに気づく。これからまた仕事に気をとられることになりそうだ。それの何がおかしいのか。誰かは当たり前の日常に飲み込まれることがおかしくてたまらないようで、気がつけば笑いが止まらなくなっている。確かにフィクションの中ではそうなのだろう。なぜ人々は無駄なことを延々とやり続けているのだろう。それを無駄と思っていないからやっているわけだ。ではなぜ君にはそれが無駄に思われてしまうのか。それの何が無駄なのだろうか。7月24日まだ夜明け前だろうか。一仕事した後も雨が降り続いている。雨降る景色は退屈だとは思わないか。そのまま黙っていても夜になり、明日になれば雨がやむかもしれない。雨空を見上げながら、何の到来を待ち続けているのか。誰の心がどこへ出現するとも思えない。そんなことを記しているうちにもう夜になってしまったようだ。言葉と言葉の間に数時間のブランクがあるようだが、それは労働にいそしんでいる証拠となるだろうか。ところで君はマルクスのことをどう思っているのか。遠い過去において分厚い書物を著した者だ。その本は出版から数十年を経てもまったく売れず、はじめから忘れ去られた存在だったのだろうか。しかし次の世紀において『資本論』は有名になった。その内容をほとんど理解していなくとも、それについて述べる者が次から次へとまるでウジ虫のように湧いて出たはずだ。社会主義者とはそういう輩のことをいうらしい。だからどうしたわけでもない。たぶん君がそれを読むことはないだろう。盲目の君には何も読めはしない。盲目だったら点字の書物を手で触った感触から読み取ればいい。たぶん盲目というのは嘘だろう。そんな嘘以外に何も思いつかないのか。確かにフィクションの中ではそうだ。しかしそのフィクションがどこにあるのかわからない。いったい君は何について述べているのだろう。フィクションの中では何も述べていないのではないか。だがその沈黙に意味はない。誰が押し黙っているかもわからない。そんなことを述べるためにこの世界に出現したわけではない。たぶん何が到来しているのでもないのだろう。それはフィクションでさえなく、虚構の中に収まりきらないような何かだ。現実からもはみ出ている。言葉の性質とはそういうものなのだろう。そこに何が現前しているわけでもなく、架空の意識が何を述べようとしているわけでもない。しかしマルクスはそこからどこへ向かったのだろう。寿命が尽きて黄泉の世界へ旅立っただけか。それについて君は何を保持しているのか。持ち合わせは何もない。手持ちの札は使い切ってしまったようだ。マスメディアの論調からすると、世の中は勝ち組と負け組の二極分化の様相を呈しているそうだが、はたして君は勝ち組なのか負け組なのか。たぶん負け組に属している路上生活者は使い物にならないだろう。彼らを雇うのはよほどの奇特さを身につけている強者に違いない。それより少しマシそうなフリーターも使い物にならない。定年退職した元サラリーマンも使い物にならない。使い物になりそうな人材はすでに官公庁や大手企業が確保している。それより優秀な逸材は他人に使われるより、他人を使う方を選ぶだろう。その一方で使い物にならない人材を時間給で使い捨てにしながら、かろうじて自転車操業的に事業を継続させている会社などいくらでもありそうだ。学校教育は一握りの使い物になりそうな人材と、その他大勢の使い物にならないポンコツを絶え間なく排出し続けている。考えてみれば知らぬうちにものすごい社会になったものだ。社会全体の雰囲気が正気でない。本当に正気でないならどうすればいいのだろう。そんなのは嘘に決まっていると思いこんでいればいい。本気になるのが面倒なのか。君に本気という精神状態はない。すべてが冗談で片付けられる。本当にそれがすべてなのだろうか。とりあえず誰もが衣食住ぐらいはただの世の中にならないものか。世の中の人間がすべて遊んで暮らせるようになったらどうするのだろう。労働する者がいなくなり、国家が滅びるか。それは願ったり叶ったりの展開か。現状ではそんな風になるわけがないが、それでもいいような気がする。とりあえず必要最低限の衣食住は配給制にして、人々はそれ以外の贅沢品や旅行費用などを得るために働くような時代になったらおもしろいような気がする。そうなるためにはどうしたらいいのだろうか。何らかの画期的な技術革命が必要か。頼みの綱は科学技術の革新か。それも何かの冗談を述べていることになるのだろうか。君はつまらない冗談の他に何も思いつかない。そして自らの無力さを思い知るだろう。動物的な弱肉強食の論理が人間社会をいつまでも覆い尽くすだろう。とてもそんな状況が真実とは思えないか。それは言葉の問題であって、もう少し柔らかく現状を肯定しなければならない。そこに顕在化している剥き出しの野生は無視して、それとは違う現象に目を向けなければならない。だから音楽がそれに対するいいわけとして到来するわけか。君はスポーツが嫌いなのか。何がそれのいいわけとして機能できるのだろう。適当に音楽を聴きながら、空想から抽出された現実を忘れようとしている。もはやそれらの言説は使い物にならず、他に何も持ち合わせていないとすれば、そこにはいつもの空虚がにじみ出てくるしかないようだ。7月23日なぜそこにいられないのだろう。誰がどこかに存在しているわけではなく、誰も何も自らの存在を証明できないだけだ。それで何か気の利いたことを思いついたのか。そういうことではないだろう。とりあえずそんな台詞には魅力を感じない。それはただの言葉の連なりに過ぎない。そして言葉はすぐに裏切られる。別の言葉によって裏切られる。だからそこで何を思い出しているわけではない。ただ思い出すべきことを思い出せない。そのとき何を思い出そうとしているのか。それを誰が知っているわけではない。言葉はどこまでも的を射ていない。どこへ届こうとしているのか。何を届けようとしているのか。君の想像力はあてにならない。それで何を説明しているつもりなのか。説明する対象を見いだせない。君は耳が遠くなったのだろうか。それは難聴のたぐいか。いったい何を聞き逃してしまったのか。なぜそこから遠ざかろうとしているのだろう。そしてなぜ遠ざかれないのか。もういやになってしまったのかもしれない。だからそれ以上は何もできない。まだ何もやっていないのにそれはないだろう。だから何を述べても意味不明になってしまうのだ。それでは誰が何をやろうとしているのかわからない。わかりようのないことをわかろうとしているわけではない。たぶんそれは無駄な文章だろう。無駄に語り続け、無駄に言葉を弄している。それは無意味なことだろうか。まともな内容に至れなければ無意味と見なされる。そこに至る正しい道筋を知らない。どこかにわだかまりがあるようだ。ところでそことはどこなのか。どこで君は迷っているのだろう。そこは迷路などではないはずだ。どこで道順を間違えたわけでもない。もはやくるべきところまできてしまったのか。荒れ地が延々と続いている。明日はまた雨が降るそうだ。見渡す限り何もないのは、それが空想の世界だからか。言葉は何を示しているわけでもない。何もないのに何かを語ることは可能だろうか。たぶんそう述べることが可能なのだろう。要するにそれはごまかしのたぐいか。そこで誰が何をやっているわけでもない。空想の世界では誰も何もできはしない。しかし何かかすかに聞こえてこないか。さっきからしきりに言葉を弄しているのは誰なのだろう。それは何のための努力なのか。君は誰に何を問いかけているのだろうか。誰に何をしてほしいのか。まだそんなところで迷っているらしい。迷い疲れて一歩も足を進められない。軍事力とはどのようなときに有効に機能するのだろうか。つい今し方雨が降り出してきたようだ。屍の数と憎しみを増大させるために軍事力はある。それを行使した場合はそうなるだろう。その結果世界の兵器産業が潤うことになる。世界各国は高い買い物をするために税金を湯水のごとく使っている。それを誰が承認しているのだろうか。民主主義国では国民が殺傷兵器を買うことを承認していることになっているらしい。他国の軍事力が驚異だから自分たちの国も軍備増強を図らなければならない。それが税金の無駄遣いだとは思わないのか。誰もが思っているかもしれないが、誰もそれをやめさせることはできない。そして欠陥はいつまでも放置され続ける。だが破綻や破滅はいつまでたってもやってこないだろう。そういう形で国家が滅びることはない。たぶん無理に滅ぼさなくてもかまわないのだろう。軍事力に頼って国家を滅ぼそうとすれば、さらに国家は強大となる。世界が一つの国家によって統一されるまで戦争は続くだろう。だがそれはいつの日となるのだろうか。統一などあり得ないから永遠に戦争は続くわけか。本気でそんなことを述べているわけではない。たぶんそんなことはどうでもいいことなのだ。目的は別のところにある。目的がないのが君の目的ではない。目的を明かせないのが君の泣き所か。たぶんそれが目的ではないのだろう。君はこの世界が統一されることを望んでいないのか。君には関係のないことだ。今は何も思いつかないが、現実はまったく違っている。アメリカもイスラエルも国家意志の水準では勘違いなことをやっている。あれらの戦争は別に問題を解決させるためにやっていることではなく、何も解決をもたらさないような現状を肯定させるために行われている。そしてそこで誰が何を行っているわけでもなく、結果的にはなんでもないことを延々と繰り返しているに過ぎない。いくら人が死のうとゲリラの組織が壊滅しようと、それは何でもないことなのだ。涼しい顔して自爆する輩はいくらでもやってくる。戦争が恐怖心を麻痺させているのだろう。宗教が暴力の手助けを行っている。それに対していくら異議申し立てをしようと、そんなことはお構いなしに短絡的な行為は繰り返される。たぶん暴力は考えることを必要としないのだろう。そこには思考が省かれている。では科学技術が事態を解決してくれるだろうか。無人のロボット兵器でも投入すれば、味方は死なずにすむかもしれない。だがそれはそれだけのことだ。殺される側にしてみれば無慈悲な殺戮がエスカレートしているように感じられるだけか。たとえ敵をすべて皆殺しにしても、今度は味方から敵が生じてしまうのだろう。いくら殺しても殺したりなくなるだけのような気がする。だから戦争はおもしろいと思うか。そんなことを思っている暇はなく、ひたすら裏切り者の影におびえているだけかもしれない。7月22日何を深刻に受け止めているわけではない。ただ何も述べられなくなっただけか。だがそんな喧伝は通用しない。はやし立てるような話題は何もない。いったいそれの何が喧伝なのだろう。あまりにも簡単すぎる。簡単に結論に達しすぎている。何が結論なのか。どこかで結論に達してしまったらしいが、それらの文章の中では未だ顕在化していない。だがそこになくとも君にはすでにわかっているはずだ。わかっていながらとぼけている。何をわかっているというのか。それを言葉で示さなくてはわかっていることにはならないだろう。本当は何もわかっていないのではないか。それにしては時間の進み具合が遅すぎる。何の理由にもなっていないだろう。どこに思考を要する問題が転がっているのか。理由を要するような言説になっていないのではないか。それが負け惜しみになっていないことを祈ろう。何に負けているつもりでいられるのだろうか。別に負けられない状況になっているわけでもない。君は旅人になって世界中を無責任にさまよい歩きたいのか。金持ちで暇をもてあましていればそれも可能だろう。何らかの仕事に携わっている者なら、目的の大地に縛り付けられていて、軌道から外れることは許されない。行動パターンが定常化してしまう。要するに退屈にやられて煮詰まってしまうわけだ。たぶん目的は人間をだめにしてしまうのだろう。また背中がかゆくなる。目の前の画面がかすんで見える。どうやら今日も限界に近づいているようだ。何が限界に近づいているのか明らかにはできないので、それは誰かの想像に任せるとして、おそらく君はそこでつまらない雰囲気を感じているのだろう。何をはぐらかす理由があるのか。それらの何が注目に値する現象なのか。それは理論家のいいわけに近いかもしれない。何を探求しているかわからず、自らがやっていることの根拠を見いだせずにいる。なぜ唐突に理論家が登場しなければならないのか。あまりにも論理的に飛躍がありすぎるだろうか。何も論理的には述べていない状況で、なぜそんな嘘をつく必要があるのだろう。ただ時の流れに流されているような気がする。見失っているのは目的でも根拠でもなく、では他に見失っているものがあるだろうか。それは何かのバリエーションに違いない。何かに躓いた拍子に、これからどこへ出かける必要があるのか、と自らに問うてみる。それで意味不明を脱することはできない。背後で大きな黒い影が成長し続けているようだ。それは何かの曲の題名か。君自身でそれらのとりとめのなさを終わらせることはできない。何かが分裂しているようで、たぶん言葉と言葉の間が離れすぎていることに気づいていないのだろう。いったい誰が気づいていないのか。君にはそれが気づいているのだろうか。現状がそうでないことぐらいはわかっているつもりか。それが勘違いだとしたらどうなのか。どうなのかと尋ねられている対象が曖昧か。何もかもがはっきりしないのは今に始まったことではない。そこから遠ざかるつもりが、ますます近づいている現状に驚いているようだ。誰がそこに近づき、誰がそれに驚いているのか。すべての誰かが君に収斂するわけではない。君の内面では何が起こっているのか。心がどこにあるというのだろう。それは文章的なテクニックにしかならない。そこから文章が生じている事実に驚くべきか。誰も驚かないだろうし、誰もが雰囲気に流されている。何を見ようとしているわけでもないし、何も見えていないわけでもない。ただ現状が見えているだけだろう。しかし見えている現状とは何なのか。それはどのような虚構と密接に関係しているのか。君たちは誰の物語の中に見いだされているのか。何が抽象されているわけでもなく、導き出されているそれは何でもない日常の一コマに過ぎない。たとえばマンガの平面上に誰かの顔が描き出されている。鳥獣戯画の中では何がデフォルメされていたのか。つまらないたとえ話には飽き飽きしているところか。だが誰に向かって何を述べているわけでもない。そこから遠ざかるために誰かは必死で言葉を記しているのかもしれないが、今までにそれに成功した例しはない。醜い話を大げさに繰り返すわけにはいかない。国際情勢など無視できると勘違いしている君は、その勘違いを推し進め、さらに現実から遠ざかろうとしている。そして無理が祟って気分を害しているようだ。今や周りを取り巻く状況が気に入らないことだらけか。それほど現状にマッチしていないことを気にしているわけではない。ひたすら過去を振り返っていればそんなことにまで気が回らないだろう。そうやって何を忘れようとしているのか。過去を振り返りながら過去の出来事を忘れることができるだろうか。そういうその場しのぎの嘘はやめてほしいか。やはり現状では何を述べているのでもないらしい。7月21日たぶん状況はそのままに推移してしまうのだろう。君は雨空の下でいったい何を勘違いしていたのか。その日に誰が生まれるわけでもないが、クリスマスまであと何日なのだろうか。その場の思いつきにはまるで連続性がない。話の辻褄が合わないのはいつものことだろう。とりあえず状況は今のままでもかまわないが、それ以外には何も思いつかないのではないか。別に話のおもしろさを追求しているわけではなく、他人の顔色をうかがいながら、誰にこびているわけでもなく、新種のコーラを飲んで体調を崩している場合ではない。まだ正気を取り戻していないのかもしれず、炭酸飲料は体が受けつけなくなってしまったようだ。しかしそれらのフィクションはどこでとぎれるのだろう。まともな感性では何も捉えられない。つぎはぎだらけの文章の中で、誰かの精神はつまらないこだわりにつなぎ止められている。それは文字の集合体に過ぎず、その中では軽薄な争いごとの顛末以外に何が述べられているわけでもない。なぜ文学が社会的な影響力を持たなければならないのか。小説や物語などは読んでおもしろければそれでかまわないのではないか。ハリーポッターでも読めばそれなりの高揚感は得られそうだ。しかしそれならマンガであってもかまわない。少年時代に経験するマンガやアニメに覆われた暮らしから何が生まれるのだろう。それは中高年になってから享受するオタク文化のたぐいか。今はそれらの何を馬鹿にする気も起こらない。音楽を聴いていればそのような状況にならずにすむのだろうか。そういう問題ではなく、どういう問題ともなり得ない状況の中で、人々は何をおそれているのだろう。気がつけばまたもやそこに空虚が到来している。言いしれぬ虚無感は君の心をむしばみ、出来損ないの人間として何もない空間へ放り出す。何となく不完全のようだ。川は流れてその水は海に注ぎ、途中の橋の上から何を眺めていることにもならず、独裁に対する恐怖感など誰も抱いていない。まったくの意味不明に違いない。混乱した意識が覚えているのは昨日の出来事に過ぎず、過ぎ去った時空で誰が何をやっていたわけでもない。どこかで誰かが何かをつぶやく。もうその辺でおしまいにしたらどうか。誰かの意図や思惑を無視しながら、何かがゆっくりと変化している。もはや激しい口調で訴えかける輩などどこにも存在せず、重機が騒々しく動き回っている建設工事の中に、ありふれた目的があるだけで、その状況にはどんな疎外感も当てはまらない。皮肉がまったく通用しなくなって久しい。そしてそれは誰の感慨ともなり得ず、誰の意識にも言葉がはい込む余地はない。それでも君は何かを述べ続ける。それに対する下らぬ否定作用が君の心からやる気を奪い去ることもない。そこでは誰の感情を受けつける余白も用意されていない。文字と文字の間にある余白は、何に埋め尽くされるために存在しているわけでもなく、誰かの感情移入はいつも空振りに終わってしまうだろう。もう終わってしまった人に何を質問しようとしているのか。あのときの心境はどうだったのだろう。それを語ることにどんな意義があるというのか。語ることに意味や意義があるわけではない。その模様を伝えることによって利益を得ようとしているわけだ。誰かの興味は他人の興味であり、そこに有名人の語りが差し挟まれる。物語は君の心に何をもたらすのか。出来損ないの頭脳では何ももたらせない。機械との相性が悪いのかもしれない。しかし神に何が捧げられているわけもなく、それが君の精神であるはずもない。アニメの中に魔法使いが登場した時点で君の興味は失われる。制作者がそこで怠けているのだろう。生身の人間ができないことを画面上で実現しているように見せかける。それがフィクションとしての怠慢なのかもしれない。出現しているのは魔法使いではなく、誰でもないただの雰囲気に包まれた色彩の消失点だ。君はどこでそれらの映像を見ているのだろう。そこからなぜか昔話のオンパレードとなってしまうらしい。まるで話の本質をとらえていない。それ以前に意味不明がさらに深まっている。取り返しがつかないほどの混乱ぶりか。やるながら気が済むまでやっていればいい。人々の苦しみや悲しみが制度を作っているわけではない。制度は君たちの境遇などまったく顧みず、ただ自らを守る組織の永続化をはかるのみだ。なくなってしまっては困るものは、人の命などではなく、誰かが発言する権利だけか。だから君に発言する機会を与えてほしいのか。そのとき君は何を空想しているのでもない。君にはまだ言葉を記す余白があるだろうか。そこで何を述べられるのか。気の利いたことは何も述べられない。ただ漸進的に終わりに近づいている。たぶんまたわけのわからないことを述べているのだろう。7月20日見いだされている状況を持続させようとしている。時はどこへ向かって流れているのか。誰が話をしているとも思えないが、誰かは空から止めどなく落ちてくる雨粒の数を知りたい。何が社会的な影響力を保持しているのか。マンガがすべてでないことはわかっている。ジャズがすべてでもないだろう。空虚が何かを覆い隠そうとしている。そこには巧妙な仕掛けが隠されている。とりあえず何がすべてでもないのだろう。では何を知ろうとしているのか。それらの文字列から何らかの影響を受けている。ここではまるで時間が止まっているようだ。何かが終わってしまったらしい。君にとっては興味のない出来事だ。すべては音楽から始まるらしい。だがそれは物語ではない。物語から遠く離れているわけでもない。感性が立ち直りかけている。次第に気力も充実してくる。たぶん冗談ではないのだろう。だいたいの目見当で距離を測っている。まだそこからどれほど離れているわけでもない。貨幣で商品を買う形式はさらに長続きしそうだ。この社会を変えるような認識を示すのは容易ではない。君は何が変わってほしいのだろう。ただ自らの嗜好で好き嫌いを述べているだけか。その辺ではっきりしたことは何も述べられなくなる。ごり押し気味に言葉を繰り出しても、すぐに話の内容が意味不明に陥ってしまう。今がその状態なのだろうか。別に誰と文章の明晰さを競っているわけではない。言葉の断片は地球の切れ端につなぎ止められて、決してその限界を超えることはない。しかし美的な言葉の構成は逃げ口上に過ぎない。たぶんわけのわからない内容を述べてしまうことについての言い訳なのだろう。しかしそれで誰に影響を及ぼしていることになるのか。それのどこによくなる可能性を内包しているのか。それが誰の主観性から生じた言葉なのか。相変わらず内容がどこにも見あたらない。いったい今の君には何ができるのか。それについて何通りもの解釈が可能かもしれないが、それらのすべては君特有の嘘に基づく言説に過ぎない。嫌悪感を催しながらも呆れ果て、何となくため息が出るらしい。そんな風に述べてしまうことに負い目を感じているのかもしれない。何とかそこから遠ざかり、言葉の迷路を抜け出て明快なことを述べてみたい。それは誰が目指しているゴールなのか。だがすべては恣意的な言いがかりに過ぎない。君はどこから離れようとしているつもりなのか。つまらない目的をねつ造してどこへ向かうつもりなのだろう。いったいそれの何が革命なのか。社会的な影響力を云々する前に、社会とはどこに存在するものなのか。ネット上にはどんな社会がはびこっているのだろう。たぶん誰かは何について述べているわけでもないのだろう。君はそこから逸脱する術を知らない。言葉が限界に達しようとしている。君は言葉を信用できない。言葉とはどんな言葉を指しているのか。興味は他の言葉の方へ向いている。だからそれについては何も述べられない。そんなわけで何も述べられないことについて何を述べたらいいのか。高邁な理念を示してそれで終わりなのか。それではあまりにも単純過ぎはしないか。だがそこから派生した予想はすぐに外れてしまうだろう。この世界はどこへ向かっているわけでもなく、神は何をもたらそうとしているわけでもない。人々は何を受け入れようとも思わない。それはあるがままの世界でしかない。矛盾だらけで不具合だらけの世界だ。君の頭の中ではそんなネガティブな思考がはびこっている。では言葉によって何を伝えようとしているのだろう。何をやっても無駄のようだが、それでも何かしらやってみるしかないか。すでにだいぶ無駄に言葉を連ねているのではないか。君はさらにそこから遠ざかろうとしているのか。しかし遠ざかるとはどういうことなのか。何から遠ざかろうとしているのか。歴史的事実は受け入れがたい。そこに生じている真実を遠ざけ、代わりに独りよがりのフィクションを導入する。日本語で語ることは難しい。ただわけがわからないだけだろう。甘ったれた状態のままでいたいのだろうか。物事を単純化して考えるのはよくないが、外の世界に何があるというのか。そんなことはどうでもいいか。しかしそれでは動物と人間の違いを説明できない。感性の牢獄から抜け出ようとしているわけか。わざと見当違いのことを述べているのかもしれない。だがとてもそれが美的には見えない。今となってはシュールレアリズムなどは単なるがらくたに過ぎないか。そういう偏見を何の根拠も示さずに述べることのどこに説得力が宿るのか。たぶんいつものでたらめなのだろう。運命共同体とはいかなるルールに基づいて成り立つものなのか。そこでは何が利用され、他の何が犠牲となっているのだろう。今の君には何も示せない。示すべきは理由や根拠とは異質の言葉なのかもしれない。7月19日何も映っていない画面と向き合いながら、架空の出来事について考えを巡らす。何かが終わりを迎えているらしい。すでに話が終わっている。言葉が出現するきっかけをつかめない。なぜそれを認めようとしないのか。またつまらないことを述べてしまったようだが、どうもそれは違うような気がする。しかしなぜ今ある現状を肯定しなければならないのか。できることなら肯定したくはないが、現状では肯定するより他に選択肢はない。肯定する理由など何でもかまわないのであり、たとえば考えるのが面倒だから、それらの現状を肯定してみると、そんなフィクションではつまらないことに気づく。だからそれらの現状があるらしい。まったくそれが理由になっていないような気がするが、それ以外のどんな言葉を選ぼうとも思わない。いったい選択肢にはどんな内容が入っているのか。選べる状況ではないのかもしれない。ここにはただ一つの現状しかない。それを肯定するにしろ否定するにしろ、そんなことで現状が変わるわけもなく、それについて考えることをやめれば、いつまでもそんな現状が続いてゆくだけだ。だがいくら考え続けても、何の結論に至る保証もない。実際に何を考え続けているのかもわからず、意識はどんな結論にも至りたくないのかもしれないが、そこから意表を突いて言葉がずれてゆく。そして気がつけば、何か外れたことを述べているような気がする。たぶんそれは部分的な差異だろう。どこかに見込み違いでもあるのだろうか。君はそこで何を述べようとしていたのか。そのままどこまでも意味不明を貫き通すつもりなのか。今の君は何も得ていない。物事を否定的に解釈しすぎているのかもしれない。なぜそれほどまでに苛烈な批判が必要なのだろうか。それらの現象はすべて君には無関係なのではないか。仮にエイズや環境破壊によってアフリカが死の大地と化そうと、君自身がこの地上から消滅してしまおうと、そこから何が出現するというのか。この先人類がどうなろうと、人類ではない君には関係のないことではないか。人類とは何なのか。類人猿の一種だろうか。誰かは不幸を身にまとって地上に舞い降りたらしいが、そこから誰に災禍を及ぼそうとしているわけではなく、勝手に地上が変化していくだけだろう。どのような種を繁栄させるために変化しているのではない。その身に希望を携えているのは人間ではなく、ゴキブリのたぐいだろう。昆虫ならいつまでも生きながらえるかもしれない。そんな現状を肯定しようと思えばいくらでも肯定できる。現状のただ中で右往左往しているだけの者にとって、現状とは空気のようなものだ。それが変化しようとどうなろうと、ただそれに順応しながら生きてゆくことしかできない。これからどんな世の中がこようと、ただそこで生き延びようとするだけだ。受動的なリアリズムとはそういうことではないのか。そんな君にどんな希望がもたらされるわけもない。今の君に現状を変える力などありはしない。だからそこでささやかな仕事をこなしながらひっそりと生きているのではないか。君たちはなぜそれを嘲笑するのだろうか。見捨てておきながらそれを笑い飛ばすことはないだろう。もはや虫けらのような扱いを受けているに過ぎないのに、そこからどうしろというのか。しかし誰が君なのか。誰かがそこで嘘をついているのだろうか。誰も君にはなれず、君も誰でもない誰かでさえない現状の中で、そこからどうやってフィクションを構成するつもりなのか。君には眼がないので何も見えないはずだ。誰かがその顔に眼をつけ忘れたのか。世界に何の影響も及ぼせないようなちっぽけの存在でしかない君に、誰が人格を与える気になれるだろうか。ではもはや造物主にまで見放されているのだろうか。造物主とは創造主のことか。君には二つの言葉の違いがわからない。そんなことはどうでもよく、それを神と呼べば誰もが納得するようなことでしかない。そして誰もが神に関する作り話をでっち上げることに疲れている。だが君が神でないとすると、君はどのような存在なのだろうか。やはりゴキブリのたぐいだろうか。しかしゴキブリでは数が多すぎる。もう少し希少な存在として扱ってもらえないだろうか。できれば何らかの天然記念物のような名を授けてほしい。誰が何を望んでいるのかわからない。わざとわからないように述べているのだろう。そしてそれはフィクションにさえ至れずに、単なる言葉の連なりとして忘れ去られる運命なのかもしれず、誰の心にも届かない文章としてその存在さえ黙殺され続けているはずだ。しかし誰に何をこびているのでもないのだから、それは当然の成り行きに違いない。君の認識ではこの世界には何もないことになっているはずだ。何もなければ何も起こらないだろうから、それについて述べている文章など存在し得ない。7月18日この世界に何か不都合があるとすれば、それは国家が存在することか。国家を背負って戦うと、たまにはジダンのような結果が生じたりしてしまうのだろうか。または自国が負けたことに腹を立てて、選手に罵声を浴びせるブラジル人たちのように、醜い光景が展開されるわけか。人々はくだらぬ幻想にとらわれている。それほどまでして他国に勝つことに執着しても仕方がないだろう。なぜそんなどうでもいいような目的に殉じる必要が生じてしまうのか。他国に勝って歓声を上げるという一過性の快楽にだまされているわけか。どうも無責任な傍観者気取りの君には、それらの現象のすべてが馬鹿げだ行為に見えてしまうらしい。それは自国の官僚機構や軍隊組織を維持するために突っ張り続けている北朝鮮にもいえることか。さっさと韓国に妥協して朝鮮半島を統一して、力を合わせて日本を追い越すためにがんばった方が遙かに有益だと思われるが、国家意志として身についた自己正当化本能を捨てられずに、このまま自己崩壊を迎えるまで自らの首を絞め続けるのが関の山か。なぜそうまでして国家に殉じようとしてしまうのだろうか。それは程度の差こそあれ、日本人と呼ばれる架空の人々にもいえることか。たとえばロシアに対して北方領土の領有権をかたくなに主張し続けるのも、国家意志とかいうフィクションが介在していることになるわけか。そういう無益な主張は棚上げにして、ロシアの沿海州と北海道で自由貿易圏でも構成し、圏内での人や資本の行き来を自由にして、土地の取得や居住も自由にすれば、何となく実質的に問題解決になってしまうような気がするのだが、それを実行に移そうとすれば、互いの国の官僚機構や軍隊が抵抗してしまうのだろうか。たぶん折り合いをつけるのは相当難しそうだ。またそれと同じような自由貿易圏を九州と沖縄と韓国と台湾と香港や広州あたりを含めてやれば、それらの地域の風通しもだいぶ改善されるような気がするが、もちろん国家に邪魔されてそんな具合になるわけがないだろう。すべては君の妄想の段階にとどまるしかないようなプランに過ぎない。そしていくら国家を悪者扱いしようと、それを解消することはできそうもない。たぶんフィクションの中に登場する架空の国民たちには、国家という精神的なよりどころが是が非でも必要なのだろう。それは宗教のようなものか。実質的に国民主権をいいわけにして支配されているのだから、それは逃れようのない強制力なのかもしれない。しかし本当にそれをやめさせる手だてはないのだろうか。国家と国家の間にどっちつかずの自由な地域を挿入させて、徐々にそれを拡大させてゆけば、自然と国家が無力化してゆく、というのは絵に描いた餅以上の計画にならないものだろうか。何よりも支配装置としての官僚機構と暴力装置としての軍隊組織をどうやって無力化させればいいのだろう。その辺で説得力のある案を考え出さなければ、いつまでたっても誇大妄想の域にとどまるしかないか。しかしそれで何か困っているわけでもないだろうから、別に誇大妄想でもかまわないのではないか。君一人が何を考え出したところで、それに賛同してくれる者がいなければ机上の空論のままだろうし、たとえ多くの者が賛同したところで、昔のマルクス主義のように大した成果も上げられずに、それどころか時がたつにつれて次第に矛盾があらわになってきて、結局下火になってしまうだけかもしれない。一見正しいと思っても、実際に試してみれば不具合だらけで失敗の連続ということもあり得る。しかしだからといって考えることをやめるわけにはいかないか。どのような方向へ考えるにしろ、そこから何らかの可能性を見いだせるかもしれず、それを信じてさらに考察を深めなければ、まともな言説には至らないのではないか。しかしそこからどう考えればいいのだろうか。何を考えようとどうなるわけでもなく、実際にこの世界に深刻な危機が訪れなければ現状は変わらないか。君はまた戦争の到来を期待しているのか。戦争によって国家の矛盾が明らかにならなければ、誰も国家の成員であることをやめようとはしないだろう。だがたとえ矛盾が明らかになったところで、国家による支配から逃れることはできないか。そういう成り行き頼みの消極論では説得力を持たない。では問題はどこにあるのだろうか。人々の生活の基盤と国家はどのように結びついているのか。それを根本的に見つめ直さなければ、妙案を導き出すには至らないだろう。しかし本気でそんなことを考えているわけではない。現実に国家があるならそれを利用しない手はない。国家を通して自己実現でも図りたいなら政治家にでもなればいいだろう。それが現実的な選択肢になり、国民を幸福に導くなどとナイーブなことを主張し続ける政治家など掃いて捨てるほどいるのではないか。7月17日気分は昨日とさほど変わらず、述べている内容も似たようなものか。そしていつものように、何を見ているわけでもないと嘘をつきつつ、本当に何も見えていないような気がしてくる。それは気づく必要のない光景なのではないか。よく見れば土砂降りの雨の中を、ずぶ濡れになりながら猫が歩いている。どうやら昼に見た光景を思い出そうとしているらしいが、そんなことは今の気持ちには関係ない。それどころか何もかもが無関係なのだ。君が存在しているよりどころとなっている言葉さえ君から遠ざかる。結果的に君とはまったく無関係な文章が構成されつつある。たとえば宗教とは何だろう。あるいは国家とは何なのか。なぜ意識の中でそれらがリアリティを持ち得ないのだろうか。とりあえずここでは何も顕在化していない。こことはどこなのか。平和な地域ではそんなことはどうでもいいことでしかない。だがひとたび紛争地域で宗教と国家が連携すると、簡単に有無をいわさぬ殺戮が行われる。イスラエルの軍隊が隣国で空爆を行い、たちまち数百人もの人々が命を落としてしまう。目には目を歯には歯をというわけなのだろうが、やはり現地のイスラエル人たちはそれについて何とも思っていないのだろうか。異教徒には空爆などやって当然の仕打ちであり、そのような地域ではそれが日常において普通に感じていることなのかもしれない。それは自然災害とそれほど変わらぬ感覚なのだろうか。そういえば別の地域では豪雨で人が何百人も死んでいる。梅雨時の東アジアではよくあることか。インドやバングラデシュなどの南アジアでもよくあることかもしれない。だがそこにいない君にとっては、そんなこともどうでもいいことなのか。架空の土地に暮らしているのだから、悲惨な目に遭っている人の気持ちなど推し量れるわけがないか。この世界では人などちょっとした拍子でいくらでもすぐに死ぬ。それが自らの生活に直接関係なければ気にするほどのことでもないわけか。他人にそんなことはわからない。君にさえわからない。この世に存在しない君の気持ちなど誰にわかるわけもないだろう。要するにすべてはフィクションの中での話なのだ。そしてそのときの誰かの気まぐれで、どのようにでも話の内容が違う方面に逸れていってしまう。それはフィクションにさえならない話なのかもしれず、それどころか考えようによっては話でさえないのかもしれない。そこでの語り手にとって、面倒なこだわりは避けて通りたい障害物なのか。だが避けてばかりではわけがわからなくなる。いったい君はそこで誰のことを述べているのだろう。そことはどこなのか。大して危険が顕在化していないように感じられる地域に暮らしていると、国際情勢など対岸の火事であって、何とも思わないのかもしれない。別にジャーナリストではないので、それについて何かを考えたり思ったりしている暇がない。それは嘘で暇はいくらでもあるので、暇な時間を利用して他のことを思っている。もちろん思っている内容はどうでもいいことだ。だから実際にこの先何が起ころうと、それは娯楽の対象に過ぎない。娯楽以外はすべて仕事か。他にどんなことを思う時間が残されているのか。そしていつも考えているのはそんなことでしかなく、それらの虚無以外は何ももたらされない状況から、その精神をどのように遠ざけるかについて、ほとんど考えあぐねながらも、まるで言い訳のように繰り返される適当な試行錯誤を経て、徐々に一定の答えに近づきつつある。とりあえずその件については、珍しく本気で考えていることだけは確かなようで、答えとなるべき事柄について、なにやら特定の対象を思考によって見いだそうとしている。それは以前ではあり得ない状況だろうか。しかしそれは具体的に何なのか。何でもないわけがないだろう。それについて誰かは将来起こるであろう出来事を漠然と思い描いている。しかもどうやら言葉を弄してそれについて語ろうとしている。だがいったん語り始めると、たぶんその誰かが消えていなくなってしまうのだろう。その誰かは君にとって取るに足らない存在でしかないが、ある種の人々にとっては失いたくない貴重な存在なのかもしれないが、それは具体的に誰なのか。誰でもない誰かでは納得できないような話の展開になってきているだろうか。そんなことはないか。人間とはどのような存在としてこの世界にあり続けるのだろうか。誰がこの世界の主役なのか。物語の主役を演じたがる者なら掃いて捨てるほどいるだろうが、君は自らがフィクションの中でうごめいているような存在では物足りないと感じている。できならそれを乗り越えて存在し続けたいらしい。要するに何らかのリアリティを伴った存在としてこの世界に登場したいわけなのか。誰かにとってそれはできない相談か。7月16日すべては相対的な差異でしかない。いったい何がこの世の主役なのだろうか。労働者とは何を指す言葉なのか。たぶん必要最低限の生活必需品しか買わなければ、ある程度は金持ちになれるのかもしれない。しかしそういう水準で小金が貯まったとして、それでなんになるのか。金があろうとなかろうと、それは相対的なことでしかない。ただ普通に生活していけばそれでかまわないのではないか。それだけのことにどんな差異を見つけ出そうとしているのだろうか。何を述べているのかわからない。何も述べてはいないのかもしれない。発言者がどこにいるわけでもなく、少なくとも君が何を述べているわけでもないのだろう。数日前にアシナガバチに刺された腕がかゆくなる。いちいちそんなことに関わっていられない気分なのか。知らないうちに何かを追い越してしまったような気がしてくる。気がつけばそんな状況になっているらしい。しかしそこから何を想像しなければいけないのか。何事も仕事と割り切ってビジネスライクな対応が期待されているというのに、今さら感情はないだろう。何を想像的に回復させたところで、それらの共同体が心のよりどころとなっているようでは、先が思いやられるだろうか。先頃終わったサッカーのワールドカップから得られた教訓とは何だったのか。あれらの何が娯楽として機能したのだろう。引退した中田のヒデは何を勘違いしているのか。あれらのパフォーマンスは何かの集大成だったのだろうか。今ひとつ考えがまとまらないようだが、見聞を広めているつもりになるのは楽しいことかもしれない。とりあえず世界のどこへ行ってもただの人がいるだけだ。それをただの人と見なしてしまうことが気にくわないのかもしれないが、おそらくそれらの大半は労働者なのだろう。年がら年中子供の相手ばかりはしていられないはずだ。そして何かのイベントにかこつけて騒ぎたいやつはいくらでもいて、そこからメディアが利益を搾り取るのだろう。それらのどこに救いがあるわけではない。単なる競争に巻き込まれて何かをすり減らしている。誰かはそこで寿命が縮むような体験をした気でいるのだろうか。しかしなぜ他人を応援しなければならないのか。ならば自分を応援してどうするのか。誰かがひたむきに走り回っている光景に勇気づけられたりするのだろうか。それらを楽しむには何らかのいいわけが必要なのかもしれない。誰かが真剣に仕事をしている姿を見ながら、それを笑い飛ばしてはいけないのだろう。スポーツとは神聖なものなのか。ジャズを聴きながら片手間で見てはいけないものなのか。文字を記している手が震えているわけではないが、勘違いや思い違いに彩られた文章はさらに続いてゆくらしい。先に行けばいくほど継続が困難となるだろうが、そんなわかりきったことで苦悩しないでほしい。さらに手間をかけなければ意味が通らなくなるだろう。意味不明のままでかまわないのなら、そのまま適当なことを述べていればいい。それで気が済まないわけでもないはずだ。そして何も起こらない静かな夜が果てしなく続くわけでもない。君は何も持ち合わせてはいない。それらの言葉は君のものではなく、誰のものでもなく、何を媒介しているわけでもない。感情は感情であり、それを表現しているつもりの言葉はただの言葉でしかない。そして聴いている音楽は音楽以外の何ものでもあり得ない。それらのどこに気休めの救いが見いだされるわけでもない。別に救いを見いだそうとしているわけではないのだから、それはそれで当然の成り行きか。この世界は誰のものでもなく、誰がそこで生きているわけでもない。現実の世界の中では生きられないから、人々は幻想を抱くわけだ。幻想の中でその勝手な思いを実現したつもりになって、それで気が済んだふりをする。だがそれで何が成し遂げられたわけではない。何も成し遂げられていないから、さらに空想の世界へとその心をのめり込ませる。だからこの世界に人間などは存在しない。存在しているのは何かの幻影だけか。なぜ君はそれを人間とは見なさないのだろうか。人間という言葉より幻影という言葉の方が人間という存在には似合っているということか。何をわざと回りくどく述べているのだろう。人間という言葉に実体はない。実体があるとすればそれは神となってしまうだろう。しかしそう述べて、何を冗談ですまそうとしているのか。そんな冗談を述べている間は確かに楽しいが、それを述べ終われば虚しさがこみ上げてくる。実際に何もないのだから、虚しくて当たり前だろう。そう述べている意識は何にかぶれているわけでもなく、フィクションの中に存在しているつもりの君が人間の範疇に入っているわけでもない。たぶんまた何も語らずに雰囲気だけは文章を記しているつもりになりたいだけのようだ。7月15日君は金を払ってそれらの環境を手にした。居心地はどうなのだ。快適な生活環境なのだろうか。夕暮れ時になって何かを忘れていることに気づく。本を読んでいる時間が惜しくなって、すぐさま言葉を連ね始める。まだそれを続けようとしているらしい。動機など何もありはしない。それを続けることによってどのような可能性がもたらされるのか。まだ死にたくはない。この世にやり残したことでもあるのだろうか。やり残したことをやろうとしているわけではなく、やりたくもないことをやらされている感もあるが、それはその場の成り行きだから仕方がないだろう。そんなわけでさらなる行き詰まりを抱えながらも、強引にそこからの継続を目指しているようだ。君にはまだそれをやり遂げるだけの時間が残されている。それは何かの思い違いかもしれないが、とりあえずはそれをやり続けようとしているらしく、それによって何がもたらされようと、君には関係のないことだ。君自身の死でさえ無関係に思われる。そんな言葉の組み合わせを模索している。それらの文章には作者の立場が存在しない。作者の意向や感情などはすべて無視され、文章が作者を廃棄物として放逐してしまうだろう。言葉以外は何ももたらさないとはそういうことなのか。それで誰が報われるのか。たぶんそれを読むことによって誰がどうなるわけでもないのだろう。ただ目で文字を追ってゆき、文字列のすべてを読み終わればすぐに忘れてしまうだけか。今となってはどんな文章を読んだのかも思い出せない。いったい君はそのとき何を読んでいたのか。まだそこには読むべき文章がもたらされていなかったのかもしれない。文章を読むにはまだ機が熟していなかったのだろうか。読んで理解できるような文章ではなかったのか。そんな思いを巡らしているうちにまだ何も読んでいないことに気づく。そんな嘘は通用しないか。だがいったんそんなどうでもいい嘘をついてしまうと、その後に文章が続かなくなり、それに関して言葉を繰り出すのが面倒くさくなる。そして本当に何を読んでいたのか忘れてしまったらしい。どうやら嘘が本当になってしまったようだ。他人の言葉に頼ってみても、すぐに裏切られるのが関の山か。何が君を裏切っているといえるのか。安易に嘘をついてしまったことを後悔しているとは思えない。まだ迷路を抜け出す気でいるらしい。いつまでもそこにとどまろうとは思わない。実際にとどまっているのは君自身ではなく、君から生じた虚無の文章か。そんなはずはないだろう。とどまろうとしている迷路がどこにあるのかわからない。どうも君の意識はありきたりのフィクションを受けつけないようだが、言葉は君をどう変容させているのか。そんなことを考えたことはない。何を考えても今さら何がどうなるわけでもない。当たり前のことを述べてどうするつもりなのか。なぜそんなことを思うのか。結局何もわからなくなってしまう。状況的には言葉以外の何がもたらされているわけでもないが、雨はもうやんだのだろうか。あれからかなりの年月が経過しているようだが、あれとはどんな出来事だったのか。君には何ももたらされないだろう。それは君が架空の存在だからか。君が架空の存在になってからどれほどの年月が経過したのだろう。今述べている君が本来の君でないことはわかっている。それは何かの謎解きを連想させる言葉だ。しかし彼はどうなってしまったのか。架空の君の登場とともに彼が姿を消してしまったようだが、その存在を示す手がかりはどこに隠されているのだろうか。君が何を見つけ出すはずもない。しかし彼はなぜ全力で走り回らなければならないのか。感性の衰えを隠すことはできない。そこで何をやりたいのか目的がはっきりしていないようだ。さっきから惰性の言葉が連なり続けている。迷いがあるらしく、その迷いを断ち切れずに、何を述べていいのかわからなくなり、それが言葉の迷路を形成しつつあるようだ。だからそこから遠くへ行けるわけがない。どこへも行けないだろう。そこで道が閉ざされている。どうやらそこで少し眠ってしまったらしく、何かを見逃して、今日から明日へと意識が後退していく。何を見逃したわけでもないか。君にはどんな道も残されていない。理由もなくそこから遠ざかるわけにはいかないようだ。君は何に目を光らせているのか。どこかで心が氷解している。ではもう何も言い残すことはないか。そこからどこへ行けるわけもなく、そこは相変わらずの地表面だ。現につまらない成り行きにうんざりしているのではないか。気の弛みからそんな台詞が湧いて出る。何となく拍子抜けの成り行きになってしまっている。昨日と同じような言葉に囲まれて、その言葉の並びに違う意味はあり得ないか。君はその後に付け加えるべき言葉を知らないようだ。7月14日理念とは何なのか。理念が言葉で示す状態を目指す理由がどこにあるのだろう。なぜ理念に殉じる必要があるのだろう。君は理念とともに死ぬことになるのか。そんなはずがないと思いたいが、疲弊した頭脳は今度は何に頼ろうとしているのか。彼は何を構想しているのだろうか。彼の本を読めばわかるかもしれない。読みたければ読んでみればいい。読んで納得するとは思えないか。誰が納得しがたいのか。相変わらず君は納得を拒絶する。だがそんなことを述べ続けても文章の引き延ばしにしかならないだろう。確かに結果的にはそうなのだが、そこには何か判断を躊躇するような気分が醸し出されているのかもしれない。たぶん流行の言説からはほど遠い。しかしなぜ彼らは北朝鮮について考えなければならないのだろうか。君たちは彼の地から誰を救い出さなければならないのか。そんなことを考えているわけではなく、何となくニュースを見ながら、漠然と不必要なことを考える。それは誰に課せられた使命であるわけもなく、たぶん今や誰にとっても関係のないニュースかもしれない。君はすでにそこから遠ざかっているつもりで、無視しながらも執拗に同じ言葉を繰り返す。冗談ではないか。しかし国家とは何だろう。程度の差こそあれ人々を支配する装置が国家として存在しているらしく、国家を抜きにして世界情勢は語れない。それがそもそもの間違いなのか。別にここで世界情勢について語る必要などありはしないが、国家が人々を支配することのいいわけとして、国民を幸せにするために国家は存在していることになっている。国家の中で支配することと幸せにすることは両立するらしい。だがひとくちに支配といっても、その国内の状況によっては、それは耐えられない息苦しさをもたらしているとは限らない。誰も国家に幻想を抱くような時代でないことぐらいは認識しているのではないか。それはイスラエルや北朝鮮の現状を鑑みてみれば明らかになることか。一方は今まさに暴力による脅しを実行している最中で、もう一方は何を考えているのかわからないような行動に訴えかけている。一方は世界帝国であるアメリカの同盟国で、もう一方は敵対を装っている。だがそんな状況から何がわかるというのか。人々の意識は国家の存在を前提として構成されている。そうであったとして、そこから何か不都合が生じているわけでもなく、そのような意識に取り返しのつかないような欠陥が生じているわけでもない。要するに君がいかに国家を否定しても、国家があり続ける現状を変えるには至らないだろう。官僚組織としての行政機構が存在する限り、それを国家と見なすことに何の違和感も生じはしない。国家を否定的に批判してはいけないのだろうか。そこには資本主義という宗教が渦巻いているが、それを信じるか否かにかかわらず、人々はその渦に巻き込まれていて、いかに金を稼ぎ出すかにその生涯をかけているようだ。しかし彼らはなぜ宗教にこだわるのか。どうして宗教を心のよりどころとしているのだろうか。その辺から何となく思考がでたらめに分散しようとしている。そんなことを述べるつもりではなかったはずだ。人間に目的などありはしない。幸せになることが目的であるはずがない。ただ生きて死ぬだけの人生に何の目的があるというのか。たぶんそれは嘘に違いない。だがたとえ嘘であろうと、君たちは常に幻想を追い求める宿命に支配されていて、それに逆らうわけにはいかない事情もあるらしい。要するに仕事をしなければならない日々に嫌気がさしているわけだ。そして一攫千金を夢見て大勝負に出て、結局は敗れ去る運命か。自ら抱いている夢を実現させるためにはどんな犠牲が必要なのだろう。そういう話をするために思考を巡らしているわけではないが、そこには気に入らない現実が横たわっているらしく、必死にそれを無視する動作を続けながら、何とか別の出口を目指して言葉を連ねているようだ。迷路には出口がつきものか。その出口が夢であり幻想であり、はたまた自らの死だとしたらどうなのか。死ぬということは消えてなくなることだ。自然に還るということかもしれない。無限循環の一地点が死だとしたら、そこから何が生じるのだろうか。それはただの死でしかなく、夢でも幻想でもなく、現実の死でしかない。だから金を稼ぐのはむなしい行為でしかなく、そこにどんな目的があるわけでもない。なにやらわかったようなわからないようなことを述べながらも、どこかでごまかしがあったかもしれないが、それが致命的な欠陥になるとは思っていないらしく、さらに無駄なことを述べるためにも、そのような逡巡は必要な一過程なのだろうか。しかしそこから何がもたらされるのだろうか。ただのつまらない言葉の連なりにはどんな幻想が宿っているのだろう。7月13日どうも自制が利かないらしい。何かが暴走しているつもりになる。それは虚構の動作か。しかし壊れかけた文章をどうやって復元するつもりなのか。君はそこで何を語っていることになるのだろう。何か現状について否定すべき理由でも思いついたのだろうか。君は何かの罠にはまっているのかも知れない。だがそれは気晴らしの娯楽でしかない。息抜きで罠にはまっているわけか。何のことやらさっぱりわからない。誰かの悪意を無視しているつもりで、今日も何かが生成し続けている。それはいつの時間帯での出来事なのだろう。何を訴えかけたいわけではない。逃げ水が浮き出るアスファルトの上は灼熱地獄だ。真昼の日差しと湿気は耐えられない蒸し暑さを生み出し、屋外で仕事をしていると体中から汗が噴き出してくる。そんな状況のただ中で、意味の定かでない言葉の連なりを模索している場合ではないか。たぶんエアコンが効いている室内では何でもないことなのだろう。だから夕暮れ時を通過して夜になってしまう。君はそれでも継続をやめようとしない。恐ろしい勘違いに突き動かされ、誰も読んだこともないでたらめな文章を構成しようとしている。それが恐ろしい勘違いであるわけがない。それの何が恐ろしいのか。今さら誰かの暴力行為を正当化してみても仕方がない。それはいつもの過剰反応に違いない。いつまでもそんなことが繰り返されるのだろうか。有無をいわさぬ攻撃にはそれなりの理由があるらしい。だが何のことを述べているわけでもなく、それらの言葉から類推できそうなどのような出来事に当てはめてみても、何かが少しずつずれている。特定の固有名をあげて非難する気にはなれない。そんな印象を抱くに至る背景を知りたいとは思わないか。そのとき君は何を知りたいわけでもなく、何でも知っているわけでもなく、要するに知りたいことが文章の中からは出てこないようだ。文章上に構成された意識が知ることを拒否しているらしい。その時々で起こる意見の食い違いを修正できずに、結局は支離滅裂な言葉のつながりを肯定せざるを得ない。そしてそんな説明は不要に違いない。それがなければ何が実現可能なのか。それとは違う展開を期待しているのは誰なのか。間違ってもそこからたたみかけるような言葉の噴出がもたらされるはずもなく、ただ何かについて述べることから遠ざかろうとしている。もはや君には時間がないが、そんな嘘をついている余裕はあるらしい。唐突に不可解な動作をもたらしたい。誰がそこで動き回っているのか。しかしどんな思惑があるわけでもなく、理由もなく言葉と言葉をつなげようとしている。面倒なので誰かの幻影が辺りをうろついていることにしておこう。まったく正気を保てない。時折奇声を発しているのは獣のたぐいか。密林の中を進んでいるのは宝探しのたぐいか。そんな物語も過去に存在したはずか。どんな期待を抱かせようとしているのか。おそらくクライマックスシーンで想像を絶するお宝が出現する手はずなのだろう。そこで喜怒哀楽の感情が頂点を迎えるわけか。だが知り得ないことはそこから遠く隔たった地点に隠されている。君はそこで何を見いだそうとしているのか。それは期待はずれの展開なのだろうか。何が見いだされるはずもないから期待はずれなのか。たぶんそこから遠ざかれないのだろう。何もない現状から意識を隔てるわけにはいかないらしい。そんな結果を招くために言葉を弄しているわけではない。本心をあらわにできるような文章ではない。それは這い上がるべく想定された落差ではない。まったくとどきそうにない高みを見上げて首をいためている。上を向いて歩いていたら何かに躓いて転げ落ちる。飽きてしまったのはそういう事情からではないのだろう。少しでたらめがすぎているのかも知れない。しかしそれでかまわない。誰かがそう思っているのだろう。君ではない誰かが君の心を操っている。そんな嘘を信じているわけではないが、何となくそれでかまわないような気がする。本気になれないのだから仕方ない。もう昼間の体験を忘れてしまったようだ。暑さにやられて無気力になる。何も見いだせずに無関心を装う。それはいつものことだろう。それで何になるのだろうか。まるで実感が湧いてこない。何をやっているのかも明らかにできないようだ。では何を落ち込んでいるのか。誰と競い合うつもりもなく、言葉が意味不明になってしまうのもかまわず、唯我独尊というつもりにもなれず、中途半端に虚無と戯れている。そんなことを語るべきではなかったようだ。そんなことをやって何になるのだろうか。何にもならないから続けようとしているのか。そういう逆説はつまらない。何もなくても何かがあるように装わなければ文章として嘘になってしまうか。嘘でもかまわないだろう。7月12日そんな当たり前のことを述べてどうするのか。とりあえず今日は昨日ではない。時間的には今日と昨日の狭間で何をやっているわけでもない。昨日は何をやっていたのか。何かしら語っていたらしいが、架空の昨日はすでに誰かの物語の中へ埋め込まれていて、それを今さら君の文章に移植することは難しい。そんなわけで目下のところ君の文章の中では、理由のない苦悩がのたうち回っていて、意味不明な言葉の羅列からも伺えるように、内容のあることは何も語れないことからくる焦りによって、苦し紛れの言葉が複雑に入り組んでいるように感じられるが、たぶんそれは何かの屁理屈に違いない。おそらくこれからする話の内容はそれとは異なるのだろう。異なっているように装うだけか。さっきから何を黙り込んでいるのか。黙り続けている理由など何もなく、ただひたすら黙りこくっているだけのように見える。それではつまらないと思うなら、その沈黙の時間について、何かそのきっかけとなる出来事を思い出せないだろうか。過去に遡ってそれに関する心当たりでも探してみようか。だが本気で探すつもりはないのだろう。仮に探しても何も見つからず、また苦し紛れに偽りの出来事でもねつ造するのが関の山か。そしてそこからさほど遠くないところに、それとはまったく関係のない逸話でも用意されているのだろうか。それではいつもの意味不明とさほど変わらないではないか。君がその場の雰囲気に流されながら何を述べようとしているかは、実際にそのときになってみないことには何もわからない。とりあえずその場に生じた知ったかぶりの精神は、もっともらしいことを述べて、その場を適当に取り繕うとしているようだ。例えば人間の行いによってこの地球上から何が絶滅しようとしているのだろうか。どこかのテレビ番組の中でそんなことが述べられていたが、神のふりをしているつもりの君はそう思わない。絶滅させるのが面倒くさいのか。今の君にそんな力はないだろう。そういうことでないのは当然だが、特定の誰が何を絶滅させようとしているのではなく、それは誰の意図するところでもなく、政治経済的な利害関係から生じた自然破壊によって、ある特定の種が遠からず絶滅するらしい。だがそれの何がおもしろいのか。それでつまらないのなら、地球上に存在するほとんどの種が絶滅してしまったらおもしろいか。仮にそうなったとしても、誰がおもしろがるわけでもないだろう。ならばもう少しひねりの利いた内容が望まれているわけか。誰が生物の絶滅を望んでいるわけでもない。そうでないとしたら他にどんな状況が考えられるのか。おそらく生物が絶滅した後に機械が繁栄する時代が到来するだろう。そうなるためには一刻も早く自己増殖型の機械を創造する必要がある。だが本気でそんなことを考えているわけではない。そういうSFじみた話は今どき流行らないか。あるいはそんな冗談ではつまらないのか。冗談にさえならないだろうか。しかし話がつまらなければどうしたらいいのか。どのような基準でおもしろか否かの判断が可能なのか。いかにおもしろい話を提供するかについて、誰に過剰な期待がかけられているとも思えない。そうやって話を横道に逸らしてしまうのはいつものパターンだ。たぶん誰かの空想は別の方角へ向かっているのだろう。連日の雨で水かさを増した濁流を眺めている。それとは別の場所で君はどんな風景を見つめているのか。そんな君の存在を無視しながら、流れる水の光景を誰かが眺めている。なぜそんな話にこだわるのか。それは今の君とはまったく無関係だろう。川の上流がどうなっているか、それを知りたいとは思わないか。石ころを拾い上げて川面に向かって投げようとしているわけでもなく、堆積と摩耗からもたらされたその模様を黙って見つめ続ける。雲は次第に分厚く空を覆い始め、今にも雨が降り出しそうな気配だが、しばらくそこにとどまって、何を見いだそうとも思わないだろう。辺りを浮遊しているのは誰の心でもない。ではそこに立ち現れているのは何の幻影なのか。幻想の未来には行き先がない。この先何がどうなろうと誰も心配するには及ばない。君はすでに土の下で永眠中か。誰かがドラキュラのように復活する夢を見ているそうだ。どうも話があらぬ方向へ飛んでいるようだが、それでも君はまだいいわけじみた言説の出力を期待しているわけか。そこから何を生じさせようとしているのか。言葉以外に空虚を表現する方法があるのだろうか。なぜその内容が空虚であると決めつけようとするのか。本題が何もない。何も思いつかないうちに咳が止まらなくなり、息苦しさに耐えかねて、咳き込んだついでに意識が夜の闇の中へ飛び出しそうになる。そんな嘘とさっきまでの嘘との間に何の関連性も見いだせない。誰かが川を眺めていたのは空想上の話か。だがある特定の種の絶滅は現実の話なのだろう。しかしそれらの何がおもしろいわけではない。何となく意識がどこかへ逃げかけているようだ。今の君は何も述べる気にはなれない。7月11日対話の対象でさえない相手を小馬鹿にしてどうするのだろう。久しぶりにその手の言説に接して隔世の感を抱く。この世界の情勢について、中には相変わらず皮肉を述べている者もいるらしい。まだそのような言説が有効だと思っているのか、はたまた半ばあきらめ気味にぼやいているだけなのか、君も過去にはそんな言説を操りながら、無駄でくだらぬことを述べていたのではなかったか。ではなぜ心変わりがしてしまったのか。本当にそういう語り方は無効なのだろうか。ではそれが無効だと気づいたのはいつの頃だったのだろう。いつの頃からなのか俄には思い出せないが、気がついたら言説がかわっていた。誰の意志を挫くような事態に遭遇したわけではないが、気がつけばまた途中から横道に逸れている。それは何の軌跡になるのだろうか。君は何の軌道を外れているのか。その程度の迂回で人の道を外れているとは思えない。そして今やその手の他人を小馬鹿にした言説の弱点もわかっているはずだ。訳知り口調で述べる以前に自らの精神状態を無視している。にやけた動作を言葉で表現することによって自らの小心さがあらわになってしまう。外国や自国の政治的指導者の言動が浅はかだと主張することが浅はかなのであり、そう述べることが結果的に状況を見誤らせている。彼らが浅はかならそれを小馬鹿にする者たちはさらに浅はかなのであり、そのように皮肉な苦笑いを取ろうとする行為が、現状を変える方向に力を働かせるはずもなく、そんな馬鹿な政治家を指導者として頂いている自分たちの立場を自虐的に否定することにしかならない。それは何よりも言説が述べているくだらない現実の中で自分たちが生きていられることが、危機感を煽る言葉とは裏腹に、こんな世の中でも普通に暮らしていけている、という逆説的な自信につながってしまうわけだ。そしていったんそれを自覚してしまえば、それらの危機感を煽る言説などは単なる息抜きの娯楽としか受け取られないだろう。日々起こっている凶悪な事件にリアリティを感じられないどころの騒ぎではなく、リアリティそのものが映画を見ながら味わうスリルやサスペンスと同じとなってしまうだろう。そんな者たちは結局日々体験する現実を否定的にとらえながらも、精神的にそれに依存しながら生きていくことしかできない。くだらぬ世の中だと思いつつも、それなしで生きてゆくことなどあり得ない。そういうメンタリティを共有している者たちにしてみれば、自国の総理大臣やその後がまを狙う者たちは、どうしようもない愚か者で、自分たちのメンツを保つために国を滅ぼしかねない無能者ということになってしまうわけだ。そして自分たちは毎日のように彼らを小馬鹿にしながらも暇つぶしに余念のない、高みの見物を決め込む酔狂な世捨て人気取りの言説を操っているつもりなのか。それこそ出来の悪いフィクションそのものだ。そしてそんな言動を繰り返しながらも内心焦っていることが見え見えなのだ。要するに強がりややせ我慢のたぐいで、意外と議会制民主主義による自浄作用を信じていたりする。まさかいつか諸葛亮のような賢人が出現して、自分たちが密かに抱いている高邁な政治理念を実現してくれるとでも願っているいるのだろうか。どうもそこから話が脱線してしまうらしい。精神の集中が長続きしないようだ。意識の中で何が変化しているのだろう。普段の精神状態と何も変わらないと思っているのだろうか。要するにいくら言葉を弄しても、実際には何も述べられないわけか。それへの返答として辺りを覆う沈黙に対して何も反論しようがない。君はそんな状況を肯定しなければならない。そしてわざと意味不明なことを述べている。それも冗談の一種かも知れないが、冗談だけではまともなことは何も述べられない。しかしなぜ雨が降っているのだろうか。別にその理由を知りたいわけではなく、それで冗談以外のことを述べたつもりになっている。しかしなぜそんな意味のない冗談を述べているのか。何を打ち消しているわけでもなく、すべてがその通りなのかも知れない。いくらそれを否定しても無駄なのであり、さらに言葉の真空状態へと文章の質は移行し続ける。気休めの言葉など何もいらない。それでも何もないよりはマシだと思ってはならない。何があるわけでもなく、それでもあり続けるのは空虚そのものか。そんな考え自体がこの上もなくみすぼらしい。では今こそ世界の物質的な過剰性を肯定しなければならないか。この世界が隙間だらけであることを無視して何が得られるのか。何も得ようとしていないのならば、空腹に耐えかねて気が狂うだけだろうか。ならばそんな見え透いた嘘は通用しないか。何が嘘だと見なし得るのか。それほど執拗に言葉を弄さなくても死ぬわけではない。7月10日そういう話ではなく、何となく目が死んでいるようだ。それとは違う質問の到来が待ち遠しい。疲れているのに疲れている風を装わず、相変わらずの風景を横に見ながら、取り立てて急いでいるわけもなく、一見落ち着き払っているようにも見えて、そんな言葉に寄りかかりながらくつろいでいる。そんな文章表現は間違いだろう。ではもはやすべては手遅れなのか。何が手遅れであろうと、継続を中断する理由にはならない。手遅れだからこそ無駄に言葉を弄しているわけだ。批判する対象を見いだせないのに、何を批判しているのだろう。君はそれに対して何の反論も許さないのか。誰かは君に反論したいわけではなく、君を介して構成された文章にケチを付けたいようだ。だがそれによって君はどうなるわけもなく、痛くも痒くもないが、では何が痛し痒しなのだろう。誰が諸刃の剣を振り回しているわけではない。たぶん何にケチを付けようとしているわけでもないのだろう。何か主張したいことがあるなら、それを言葉にしてみればいいのだろうが、何の主張も持ち合わせていない場合、そこから何を述べたらいいのだろう。主張を組み立てるには時間が足りない。足りない時間をどこで補うこともできない。放っておけば時間はどんどん流れ去ってしまい、やがて砂時計の砂はすべて落ち、そこで時間切れとなってしまうらしい。時間を保管しておくことなど不可能か。そんな無駄なことを考えながらも、そこでどうやら時間がないらしいことに気づく。何となくいいわけとしてはわざとらしすぎるような気がする。だがそれがくだらない事態だとは思わない。とりあえずはそういうことでしかなく、そこから何をどうやっても間に合わないのだろう。間に合わせようとしていないのだから、焦っても無駄に違いない。どんなに言葉を連ねてみても、空虚以外は何ももたらされないだろう。そうやってあきらめた風を装いながらも、さらに無駄な文章を記し続ける。そしてもはや冗談では済まなくなるような長さになることを望んでいるようだ。いくら文章を長くしても無内容では何の評価も得られないだろうが、別にどのような評価を期待しているわけでもなく、それを否定されても肯定されても、一向に文章の無内容は変わらない。はたしてそれでいいのだろうか。いいわけはないだろうが、いったいそこで何がどうなっているのか。君はその辺の事情をまったく把握できない。君が述べているのではないのだから、それは当然の成り行きに違いない。そして誰がそんなことを述べる理由も意味もわからないが、わけがわからないのに何をどこまで述べるつもりなのか。いったい誰がそれを述べているのだろう。それもわざとらしい作り話のたぐいか。無理に述べようとしても何がもたらされるわけもない。何ももたらされないからくだらぬ疑念が生じてしまう。そこで君は何をしているのか。そしてそれを知り得ないのはどういうわけなのか。知りたいことは何もないのに、それを知ろうとしているのはおかしい。ではそんな嘘をついて何を回避しようとしているのか。それもおかしな成り行きだろうか。あるいはそんなことを述べてしまうのも当然の成り行きか。意味を担うことを拒否しながらも、文章を構成し続ける意識は意味を求めているのかも知れない。だが文章の無内容がそれを拒絶している。しかしそれで誰をけむに巻いているのだろうか。それらの言葉の連なりが誰を悩ませているとも思えない。確かに誰にも読めないような文章でもないが、いったいそれを誰に読ませようとしているのか。無駄な言葉を延々と連ねて精神的に疲れているらしい。気休めに耳を澄ませば何か聞こえてこないか。雨音とともに虫の鳴き声もやかましく聞こえてくる。虫ではなく蛙が鳴いているのかも知れない。だが闇の中では視線は何の役にも立ちはしない。見ている画面にはいつもの文字列が並んでいるだけで、そこから何が進展するとも思えない。どうも最近は否定的な愚痴ばかり述べているようだが、それがかろうじて文章を構成する糧となっているらしい。情けないとは思わないのか。いったい何について述べればいいのだろう。とりあえず言葉を連ねているようだが、それで終わりなのか。何が終わりなのだろうか。ではなぜ終わろうとしないのだろうか。終わらせるつもりがないような文章自体が君の終わりを予感させる。君の思考には理由も意味もありはしない。あるのはただそれらの言葉の連なりを継続させることだけだ。それが思考から導きだされた結論なのだろうか。それでは思考といえないのではないか。いったい現実の意識は何を考えているのだろうか。この世界ではどんな現象が起こっているのだろう。誰と誰がどこで会っているのか。そこからどのようなコラボレーションが生まれようとしているのか。7月9日なぜか必要から見放されて、誰かの意識は心の中に閉じ込められようとしている。だが心が牢獄であるはずがない。フィクションの中で君が悩む必要はない。そこから何を見いだそうとしているのか。どこかに争いごとを引き起こす必然性があるのだろうか。そこにどんな思惑が渦巻いていようと、そんなものを真に受けるわけにはいかないか。探求するとはどんなことなのか。他人の作品をどう評価したらいいのだろう。たぶんけなすにはそれなりの理由が必要だが、けなす必要はないのかも知れない。けなす理由などありはしない。評価するつもりもない。いったい作品がどこにあるのだろうか。評価に値する作品がないというわけではなく、作品の存在を知る気がしないらしい。要するに作品がなくても間に合ってしまうわけだ。生きるためには何ら不都合を感じない。だから君はそこから遠ざかる。なぜさっさと退散してしまうのか。評価するのが怖いのか。何を評価しなければならないのか。遠くでがらくたが崩れるような騒々しい物音がしている。そんな言葉などいらないと思うなら、他にどんな言葉を持ってくれば文章が間に合うのだろうか。間に合わせの言葉が導きだされるとは思えない。状況的には何もない。それはいつものことだろう。また雨が降ってきそうな気配だ。それが仕事でなければやる必然性を見いだせないようなら、仕事以外は何もできなくなってしまうだろう。どんな作品に接する機会もなく、何のインスピレーションも得ることはない。それをやるきっかけを失い、夕暮れ時でもないのに画面が赤く染まっている。しかし何も語れなくなった時が言葉を連ねるチャンスとなっている。自然と意味も定かでない文章が生じてくる。それは神秘主義に染まっている証か。何を思っているのでもなく、何を述べているのでもない。そんなことが許されるだろうか。誰に許しを請うわけもなく、誰に許してもらおうとも思わない。なぜ今ごろになって本音で語っているのか。それが本音だとは到底思えない。君は何から遠ざかっているつもりなのか。それが空虚でないとすると、近づいているものの正体は何なのだろうか。あやふやな幻想を断ち切りながら現実の世界が急速に近づいてくる。今はいつの夜なのか。今日であるはずがない。そのとき偶然に思い浮かんだ言葉の断片は、君の意向に逆らい、意味を担うことを拒絶しながら複数の文章に分散しようとしている。やはり何を述べているのでもないあやふやな雰囲気の中にとどまりたいのか。誰がそこにとどまっていることになるのか。特定の意味を文章に封じ込めたいわけではない。たぶんそう考えること自体が虚構のたぐいなのだろう。もはや完全にわけがわからなくなっているようだ。君はなぜそうまでして継続に執着しているのか。その辺が君の限界なのだろうか。今や君が作り上げようとしている架空の言語空間は最大の危機に瀕している。そんな嘘をついても誰も真に受けないだろう。つまらない世間話ならいくらでも続けられそうだが、なぜそれをやってはおしまいだと思うのか。それ以外に何を語ることができようか。君がいくらそこから遠ざかろうとしても、それ以外に何もないのに、他の内容を語れるはずがない。世界は君を無視しながら君とは無関係に動いている。それは世界ではないのかも知れない。世間の大多数の人々が思い描いている世界はマスメディアによる洗脳によって植え付けられたものに違いない。たぶんそれがこの世界そのものなのだろう。マスメディアがこの世界を情報によって構成している。君はそれ以外の世界を言葉によって提示できるだろうか。だがこの世界に真の姿などありはしない。メディアはひとつではなく、様々な種類のおびただしい数が存在していて、それらの相互作用によってそこに暮らす人々の意識の中に様々な世界像を映し出す。そしてそれを受け止める人々も決して一様な意識や精神構造を持っているわけでもなく、立場や行動様式によって物事に接している度合いもそれぞれ異なり、そこから固定観念のようなものを導きだすのは間違っており、世界に対する見方や考え方も人それぞれで多少の差異はあるのかも知れない。まさかその差異をコミュニケーションによって埋めようとは思わないが、世界に対する何らかの共通認識を得ようとする試みも、マスメディアによって盛んに行われていることも確かだ。世論調査という粗雑なやり方で人々の思いを収斂したつもりになっているどこかの報道機関のように、なんとか最大公約数的な世界像を提示しようとする者たちはこれからも後を立たないのだろう。だが擬似的に世界をひとつにまとめてどうするつもりなのか。人それぞれで感じている世界が違っていてはまずいのだろうか。違っていて当然であり、違っているからこそ、世界に対する意見をひとつに集約させる必要が生じてしまうのだろう。たぶんより多くの人が幸福をつかむために妥協してほしいのだろう。今のところそれはできない相談のようだが、指導者面した輩は絶えずをそれを追い求めている。7月8日早朝の薄暗がりの中で考える。何かがおかしい。それは嘘かも知れないが、どうも体調が思わしくないようだ。もしかしたらそれも嘘かも知れない。なぜそんなことを述べてしまうのか。理由など何もありはしない。数日前には埃を吸い込んで咳が止まらなくなる。しかしそれは架空の出来事だろう。相変わらずの無内容に嫌気がさしているようだが、話の内容がまったく見えてこないのも相変わらずだ。それを言葉にできないのだから仕方がないのではないか。たぶん何を見ているわけでもないのだろう。ブラインド越しに雨が降り続いている庭を眺めている。君は世界によって何を見せつけられているのか。君という存在が無視され続けている現状の他に、何か興味深い現象でも発見したつもりになれるだろうか。どうでもいいことばかりで、何も真に受けるわけにはいかないらしいが、ほとんど冗談にもならないような出来事に取り囲まれ、それらの何について語ったらいいのかわからず、途方に暮れる日々が続いているようで、何に対して本気になったらいいのかわからないままだ。まったくどこかの国会議員のように、青臭い青年の主張でも述べていれば事足りるような状況ではないが、そんな君は目下のところ誰からも必要とされていない。この世界は誰を必要としているわけでもなく、神さえも世界にとっては邪魔な存在でしかないだろう。もはや救世主など冗談以外では出現不可能な時代なのかも知れない。むろん君が救世主であるわけがないだろうが、誰が何を救うために現れなければならないのか。そんな風に語ること自体、頭がおかしくなっている証拠か。おかしいのは頭ではなく文章そのものだ。そしてそのおかしさに笑うこともできない。それはまったく笑えないおかしさのようだ。体験するすべてがどうでもいいことのように思われてくるのだが、何がすべてなのかまったくわからない。すべてを体験できるわけがないので、わかりようがないのだろうか。わかろうとしていないのはもちろんのこと、わかるという精神作用自体を理解できない。はたして理解することがわかることになるのだろうか。あるいはそういう語り方自体が根本的に間違っているのか。間違っている以前に言葉の並びがおかしい。何となくそういう話ではないような気がする。しかし唐突にそんな疑念を抱くのもおかしいのではないか。要するにそこで文章が行き詰まっているのだろうか。苦し紛れに嘘をつくなら、たぶん音程が外れているのだろう。そして話が脱臼している。あり得ないことを語るには現実感が希薄だ。しかし言葉を繰り出すのに気を狂わせる必要はない。やっていることのすべては正気の沙汰の範囲内にある。正気でなければそんなことを述べる必要は感じられない。正気であるからこそ気が狂っているふりをするわけだ。そしてまだ何も述べていないことに気づくだろう。やはりすべては冗談で述べていることかも知れず、本気になれないのは冗談の範囲から一歩も外へ踏み出せないからだろう。言葉がそこで萎縮してしまっている。なぜ彼らは馬鹿げたことについて飽きもせず討論しているのか。馬鹿げたこととは何なのか。そこで自説を主張し合うのが彼らの仕事なのだ。しかし騒ぎ立てるようなことは何もしていないのが現状だ。たぶん騒ぐ対象と騒ぎ立てる側の仕事がかち合っているのだろう。だから騒ぐ対象にしてみればやって当たり前のことをやっているだけなのに、何を騒いでいるのか不思議でたまらないのかも知れない。そして君にはそれが理解できない。やっていることのすべてが意味不明に思われてならない。誰かにしてみれば君が何について語っているのか理解できない。たぶんすべては嘘であり、語っている内容はどこにもありもしないフィクションに違いない。具体的な固有名を出すのがそんなに怖いのか。それらの文章にはどれほどのリアリティがあるのだろう。何らかの力が干渉を及ぼしているらしい。間違ってもそれについて語らせないようにしている。そして俄に迷路の出口が閉ざされて、わざとそこへ迷い込み、何となく気晴らしになるような幻想を追い求めようとするだろう。そしてそれは偽りの演技に違いない。誰が何を演じているわけもなく、特定の人格を担うような意識は迷路の中に存在せず、要するに外部から興味深そうなふりをしながら迷路の中を覗き込んでいる視線があるだけだ。それで何を理解できるというのか。理解したくないのだからそれでもかまわないのか。何を理解しなければならないのだろうか。この世界の現状について何をどう考えればいいのか。少しは真摯に何もない現状を受け止めるべきなのか。それとも何もないと嘘をついているだけの現状を真に受けるわけにはいかないか。そんなことでいくら言葉を弄しても何もわからない。だからこの世界は興味深いのではないか。それは強引なこじつけにすぎない。7月7日そんなことにこだわるべきではない。いくら批判してもそのすべては無視されてしまうだろう。その証拠に球けり遊びはもうすぐ終わってしまうらしく、今は興味がないので、それが名残惜しいとは思わないが、いったいそこで誰と誰が出会ったのか。出会いは偶然に訪れ、何らかの意味を結実させる前に別れてしまうだろう。要するに言葉が足りないのだ。身体の躍動に言葉は似合わない。言葉に何らかの力があるとすれば、それは無力を装うことで得られる力か。言葉を弄すればすべての事実が嘘になってしまうだろう。そしてそこから逃れようのないごまかしが生じてしまう。まだ完全には燃え尽きていないようだが、もうそこで終わりなのか。胸の痛みはとっくの昔に去ってしまったのか。君の発作はまだ終わりそうもない。どこかで何かの燃焼試験が行われているようだが、それを終わらせることなど誰にもできはしない。終わりたくてもでたらめな言葉が終わらせてくれない。そしてそれらの言葉の並びには精神的に耐えられないものがある。そこから君はどうすればいいのだろう。何か気を紛らわすための出来事でも必要か。それらの何が出来事へと変貌するのか。いったいそこで何を思いついたのか。たとえば気休めとは何だろう。少し前の出来事を思い出すまでもなく、唐突に誰かが叫び声をあげたらしい。別に発狂してしまったわけではなく、騒いでもかまわない場所なら誰もが騒いでいるということだ。叫び声が何を語っているわけでもないが、どこかの球場なら誰もが野球を見ながら騒いでいる。例えば甲子園球場はそんな幻想の宝庫だ。スポーツには空疎な欲求がつまっている。誰もが偽りの戦いを体験したいのだろう。実際に誰と誰が敵対しているのだろう。そしてそんな光景を黙って眺めながら、君は何を悟ったのか。君は誰かの行く末を知っている。近いうちに誰かが死んでしまうだろう。もう手遅れなのか。何が手遅れなのかわからないが、とりあえず手遅れなのだ。だがそれで何を知っていることになるだろうか。一応は何かを知っていると見なしてもかまわないが、それについて何を知っていようと君は救われない。他人の生死など巷にはありふれている。それを知っていることで救われたいわけではない。それは誰もが知っていることなのかも知れない。彼がもうだめなことはわかっていて、それとなく知っている者同士でその事実を確認し合っている。ならばそれを知っていることがどうしたというのか。誰かの終わりを予想するのは簡単であり、予想できてしまうことに何の価値もありはしない。そんなことは誰かが死ぬ前からわかりきったことでしかない。ではそこから何を導きだせば価値があるのだろうか。死は価値とは無関係だ。だがそれは誰が決めることなのか。いい加減な誰かは彼の終わりを予言した後から、すぐさま彼の復活も予言してしまう。いつか彼は死者として公衆の面前に復活するだろう。その遺影の写り具合が芸術的だ。何をもって芸術的と評されるのかわからないが、故人はとりあえずそういう冗談は好かなかったようだ。しかしそれらのどこまでが現実の出来事に基づいていて、どこからがフィクションなのか、そんなことを知ってどうするのか。それをどうやって知ることができるだろうか。本当に知りたいのはそんなことではないらしい。いったい何を知りたいのか理解に苦しむが、それだけでは話としてつまらないのだろう。だが何をおもしろがっているわけでもない。作り話の中では複数の人間を介してそんな噂が広まっているようだが、君はそれに対して興味が湧かない。だからそこから離れようとしているが、過去に離れられたためしはない。離れようにも離れられない事情でもあるらしい。実際に架空の話から何も見つけられないから興味が湧いてこないのだろうが、何を見つけようとしているのか。言葉の断片を拾い集め、それを文章として構成したいらしい。何かが散らばっていることは確かなようだが、それが言葉の断片だとは思えない。辺りには砕石が転がっている。どこかの工事現場かも知れない。確かに興味はそんなところにはない。なぜそんな文章に耐えているのだろう。我慢がならないのはそういうことではないはずか。だから君は現状を把握できないのだ。君の言動は理解しがたい。何を述べているのかわからない。現状を把握するのが面倒くさいのか。体のどこかに癌でもできているのだろうか。なぜそうまでして健康を維持しなければならないのか。あらぬ方向へ言葉が逸脱している。足下の石を拾って遠くへ投げてみる。何を試しているわけでもない。では何がそこで試されているのか。今は生死の境を彷徨っているわけでもないが、いつかは死んでしまうかも知れない。君はそこから言葉を繰り出そうとしている。それが心の叫びだとは思わないが、少しは本音で語ってみたらどうか。7月6日空耳とはそういうことなのか。誰かはどうしようもなく大人げないようだ。それでも何かに守られているらしい。偶然に何かの力が作用して君の行き先を変更してしまう。君は理由もわからぬままにそれに従わざるを得なくなり、その通りに進んでゆくと、やがて視界が開け、何となく事がうまく運んでしまう。信じていないにも関わらず、それを否定することもなく、そのままに成り行きは放置される。すべては自然が解決してくれるだろうし、解決しなければ解決しないままに放置されるだろう。それでも君は自然の成り行きを信じていないのか。何か神秘的な力に支配されているのだろうか。たぶんそこには誰にも解決できない問題もあるのかも知れないが、解決されなくても一向にかまわず、解決できないものを無理に解決しようとは思わないが、そんな思いとは無関係に、たぶん誰もが忘れた頃に人知れず解決してしまっている場合もあり得るだろう。そんなことはどうでもよくはないが、結果的にどうでもよくなってしまっているかも知れない。それがどうでもよくないと思う人々はマスメディアを利用して、どうにかしなければならない、と他の人々に向かって訴えかけようとするだけだ。やはりそれでどうにかなるとは思えないが、何となくうやむやのうちにどうにかなってしまったことにして、強引に幕引きを狙っている場合もあるだろうか。解決するのが面倒な場合はそういうこともあるだろう。しかし君はそんなことを述べながらも何について語っているのか。何か解決してほしい問題でもあるのだろうか。解決不可能だからそんなことを述べ続けているのではないのか。要するに文章をもう少しまともな内容にしてほしい。たぶんそれができないから苦労しているのだろう。結果としてそんな文章になってしまう事態を止められずにいる。それに対する解決方法を思いつかない。思いつかないふりをしているだけで、実際にはわかっているはずだ。一番簡単な方法はやめてしまえばいいのだ。では一番難しい方法は何なのか。それが思いつかないから苦労しているわけか。だがそんないいわけが通用するはずもなく、君の思いなどまったく無視されて、ただ言葉は適当に連なり、誰かによって記されてしまうのだろう。誰かとは君のことではないのか。君が誰かについて語る資格はない。そんな決めつけがどこから生じてくるのかわからない。いったい何を説明しているのだろう。少なくとも説明できないようなことではない。君はそこから何かを語り続けなければならず、なぜそうなのかがわからぬままに、何かを適当に語り続け、その内容が気に入らないらしい。それはどういうことなのか。君は自らが語り続けているそれらの文章から一刻も早く別れを告げなければならないということだ。なぜ唐突にそんな結論が導きだされるのか。単にそれらの文章がつまらないということか。ならばどうすればいいのだろう。別れを告げたからといって別れられるわけもない。別れられないのに別れたいとはどういうことなのか。どういうことでもなく、他にどういう意味でもありはしないだろう。君はそこからどんな意味も求めない。ただ何か適当な出来事が起こっているだけだ。それが起こる理由が知りたければ、それについて考えればいい。考えてもわからなければわからないままでもかまわない。何の解決ももたらされなければそれでもかまわない。かまわなければどうするのだろう。お気に入りのジャズでも聴きながら悦に入っていればいい。そういう成り行きが気に入らないのではないか。そしてどのように言葉を弄しても気に入らないのだろう。とりあえずそういう気に入らない思いも文章に利用しなければならない。誰が何をどう述べてもかまわないのがそこでのルールなのかも知れず、それについてどんな反応を示そうと、それらの言葉の連なりは続いていってしまう。その継続を止める手だてなど考えない方がよさそうだ。止まる時は自然と止まってしまうのではないか。実際に止めようとしていないのだから、そんなのはどうでもいいことだろう。問題はそれをどうやって止めるかではなく、止めようのない言葉の連なりの内容をどう変えてゆくかだ。それをどうしようとしているのか。どうにもできないものをどうにかしようとしているらしい。やはりそこから遠ざかろうとしている。遠ざかろうとして中途半端にしか遠ざかれないことが気に入らないようだ。そこで思考が止まっている。どうやら限界を感じているようだ。そしてそこからどうしようもなく大人げないことをやろうとしているのかも知れない。それは具体的にどのようなことなのだろうか。しかし具体的には何も決まっていないのではないか。何を語るかが決まっていないらしい。たぶん自己言及以外のすべてがその選択肢に入っているのだろうが、そこから先はまったくの未定だ。だからそれが気に入らないのであり、気に入らないからつまらないのではないか。そしてそれが無限循環の始まりであって、そこから同じような文章が果てしなく続いてしまうのだろう。7月5日誰かのつぶやきを真に受けるつもりはない。ただそのように述べてしまう理由がわからない。何の怒りも湧いてこないのは、怒る理由がないからか。それによって誰が困っているのか。何かしら不都合が生じているのかも知れないが、実際に何をやっているわけでもない。あまり軽はずみなことを述べてはいけないが、ここに至ってなお事態が切迫しているとはいえない。ただのお遊びにすぎないのかも知れない。朝から雨が降り続いている。まだ危険な言葉遊びの領域に意識はないようだ。遊びが危険であるわけがないだろう。知識はそれが危険ではないと教えてくれるが、それを信じていいのかどうか俄には判断がつかない。本当に述べるべきことが何もないのだろうか。それが真実である可能性はどれほどのものなのか。それらの中で何を真実だと見なせば納得を得られるのだろう。いったい誰に何を納得してほしいのか。君が嘘をついていると思い込んでほしいのか。だがその嘘の内容を知り得ないのはどういうわけなのか。わけなど何もなく、ただ嘘によって今より高次元の思考へとたどり着きたい。それこそ意味不明に違いないが、なぜそんなことを述べてしまうのかよくわからない。君には語ることなど何もないのではなかったか。そこから言葉を並べなければならない。たぶんそれは語っているのではなく記しているのだろう。語ることと記すことを区別しなければ、それらの行為の本質を理解できないか。それはどんな機能を示しているのだろうか。何かを行うことが自己満足に直結するわけか。実際には語ることと記すことをその機能に応じて使い分けているわけではなく、ただその場の気分次第で語っていると述べてみたり、記していると語ってみたりしているだけか。だからどうだというのか。君は言葉を記すことによって何に満足しているのか。そこから逃げられなくなる。そこから遠ざかれなくなるだろう。だから逃げも隠れもできなくなってしまうわけか。そういう意味で述べているわけではない。どこできっかけを見いだそうとしているのか。あやふやに文章の内容が推移することを狙っているのかも知れない。君にはそれがごまかしであることがわかっているはずだ。わかっていながらあえてニュアンスをずらそうとしている。要するにごまかしを取り繕うことができないらしい。ごまかしはごまかしのまま放置され、それを無視して話を続けようとしている。それがそこでのルールなのだから仕方ない。本当にそんな嘘をついてもかまわないと思っているのだろうか。何となく夕方から眠ってしまって、気がついたら日付を越えてしまう事態を許してしまうようだ。言葉の連なりを今日の日付内でおさめることは難しい。継続するには是が非でも明日が必要なのか。そういう意味で述べているわけでもないだろう。君にはそれが理解できない。理解しようとするつもりがないらしい。それどころが理解という言葉の意味すら知ろうとしない。はじめから現状を理解する気がしないのだろう。それらの馬鹿らしくも愚かしい成り行きにどんな感慨を当てはめればいいのかわからない。他に何を当てはめたら正解なのか。そういう話ではないだろう。わざと話すべき内容とは別のことを述べている。それが内容の意味不明さを招いているのだろうか。言葉を連ねることを介して、さらに理解不能になろうとしているみたいだ。そんなことをやっていて楽しいか。楽しくなければ作業を続けるわけにはいかないか。そういう理由を行為に当てはめるのは間違いもいいところだろう。わざと間違ってみせたいのかも知れない。だがそこから突破口が開けるとは到底思えず、さらに意味不明な言葉の迷宮に深く迷い込んでしまうだけだろう。いったい君は何を述べているのか。その場の不可思議な雰囲気に流されながら、思考することをやめてしまっているだけか。そして愚かさの深みにはまっている。そのままの状態で突っ走ろうとしているらしい。走りながら軌道修正ができるわけがなく、いったん立ち止まってそれらの行為を省みる余裕が必要か。それは余裕ではなく必須の条件か。なぜ立ち止まって顧みようとしないのか。ただ面倒くさいからだけでは説明にならないのではないか。君に現状を説明する義務はない。誰に何を課せられているわけでもなく、自らに課していることといえば、その場をいいわけの言葉で取り繕うことだけか。そんな風に考えてしまうのは虚しすぎる。だがその場はそんなやり方で切り抜ける以外に方法を思いつかず、実際にそんな愚かしい作業を続けながら、同時にそれではいけないと思いつつも、なんとかその場をやり過ごそうと必死なのかも知れない。要するに引きつった笑いを浮かべながらお互いに皮肉の応酬に終始しているわけだ。それが人間社会の実態なのか。7月4日何となく恐れていた事態が実際に起こってしまったのだろうか。だが深刻ぶるつもりはなく、新鮮な体験だったかも知れない。それどころかまったく本気にはなれない。たまにはそういうことも起こってしまうのが世の中だ。言葉を連ねていくうちに、ほんの些細なことでしかないような気がしてくる。何かに吸い込まれるように向かった先で、偶然の罠にはまり込み、少し傷ついてしまっただけか。そんな言葉が君の気持ちを裏切り続ける。面倒になってきたので、そこから早く退散したいようだ。だんだんどうでもいいような気になってくる。傷ついた部分はまた買えば済むことか。買わなくても修復でも試みてみれば気が済むのではないか。そんな風にして次第に興味を失ってゆくのだろうか。まだそこまでいってないだろう。そこまでいく必要も感じられない。適当に現実と戯れていればそれでかまわないのだろうか。かまうかまわないの問題ではなく、そうならざるを得ないような状況になってしまうわけだ。たぶん誰もが似たような状況を経験するのだろう。そしてそんな気休めの言葉を記してしまう。それが人間的な弱さかも知れない。そういう水準で強くなる必要はない。いい加減に偏狭なこだわりを捨てるべきだが、それがなければ誰かの人格が崩壊してしまうか。何を述べようとそんな場所へは到達できないだろう。そんな場所とはどんな場所なのだろう。それはどこにも存在しない架空の場所か。涅槃の境地というやつか。そうなるとたぶん予定調和の展開に違いない。君にはそうなってほしくない。君とは自分のことなのだろうか。それは何かの方便か。それ以外にどんな使い道があるのだろうか。言葉以外に何を使うつもりなのか。どんな雰囲気に包まれながら言葉を連ねているのか。それは苦し紛れの言説だ。それらの年老いた顔には何が似合うだろう。誰について述べているつもりなのか。すべてが変わってしまったわけではない。まさかまだ他人の興味をつなぎ止めようと努力しているのか。それにしては必死さが足りない。四六時中見栄を張り続けるのも楽じゃない。そんな人物がどこにいるのか。もう君にはついてゆけないはずか。それらは興味を持たれそうな文章からかけ離れている。だからさようならを告げなければならない。そううまくいくことばかりではない。架空の君を作り上げるためにどれほどの歳月を費やしたのか。だが結果として導きだされたそれは、君のことを述べた文章ではあり得ない。君自身が君について語る必要はない。それが君自身が陥っている逆境なのか。では何を跳ね返そうとしているのだろう。自由に振る舞おうとするたびに自由が逃れてゆく。そんな虚構の振る舞いからそれらの文章が生じている。だから君はいつまでたっても君自身にはなれず、それどころかどんどん君から遠ざかっていってしまう。要するに真実を話すのが面倒くさいのだ。その面倒くささが君の人格を構成している。しかし時間とは何だろう。時間の経過が人格を変形する。摩耗しながら折れ曲がり、不必要な部分が削り取られ、やがて消滅するだろう。滅却してしまうわけか。では滅び去る前に何か言い残すことはないか。今さら何を言っても消え去るだけか。そういう後ろ向きな発言はいただけないか。誰が発言しているわけでもなく、ただそこに記されている。では他に何を説明しようとしているのか。それほど身を削っているわけではない。だが痩せようにも痩せられない体型に近づいているわけでもない。そこに何が見いだされているわけでもなく、誰が何を説明しようとしているわけでもない。状況を説明するのが面倒なのか。今さらそれはないだろう。しかし依然としてポケットの中身は空っぽのままだ。空っぽの心は何を求めているのか。それは心ではない。君に心などあるはずがない。そう断言してしまっていいのだろうか。いい加減だからかまわないのか。かまわないがかまわないままではどうしようもない。どうにもできないからかまわないわけか。それでもどうにかしようとしているのだろうか。それはつまらない行為でしかない。もはや君には何もできはしない。だからひたすら言葉を記している。まだそれは違うと訴えたいのか。たぶんその状況では無理だろう。ではそこには何が回帰しているのか。言葉的なでたらめさでごまかすことができるのだろうか。今さらごまかしがきくとは思えない。だからといってつまらない哲学に回帰するつもりはなく、言葉遣いの難しさに救いと求めることなど不可能だ。だがかなり言説的に後退していることは確かだ。何を述べているのか意味不明なところが最大の欠陥か。何に流されているのかもわからずに、それでも何かに流されている感は否めず、結果として提示されてしまう何のまとまりもない文章の中でもがき苦しんでいるのがそこでの実情か。だがそれで何を説明していることになるのだろう。7月3日別にそれがわけのわからない成り行きであるわけがない。ただ白く濁った水が目にしみる。目を水で洗ってどうしようというのか。君はそこで何をやっているのか。羽蟻が目に飛び込んできて、しばらく目を開けていられないほどの痛みを覚える。なぜ虫までが行動の邪魔をするのか。そういうことではないだろうが、それがどうしたのだろう。思いがけず痛い思いをすると急に腹立たしくなるらしい。それは数時間前の出来事だ。君はそこからどうやって立ち直ったのか。なんとか虫を指で掻きだし、気を取り直してまっすぐな道を進み、目的の場所にたどり着き、作業を再開しようとしているらしいが、何となく今は無理のような気がしてくる。何が無理なのか。何でもないのにそれは無理に決まっている。それが何だかわからない。意志を挫くような作用が外部から働いている。やってはいけないことでをやっているわけでもあるまい。実際にはそればかりではないのだろうが、たぶんそれをごり押しすれば、ほとんどはくだらない結末に導かれるはずだ。感覚的にそういう感じがしてくる。それでも語り進むうちに、何が無理なのかが次第に明らかになってくるかも知れないが、そこで安心して気を抜けば、感性はそこで眠ってしまうだろう。風邪が治らず眠気が襲ってくる。しかしそれが無理な理由ではないはずだ。はじめからそんな話は聞いたことがない。なぜそうやってつまらないことを述べているのか。わざとそうしているのだろうか。それ以外に何も思い浮かばないからそんなことを述べているのか。たぶん意識がそこまで到達していないのだろう。あきらめて通常の精神状態へ戻り、相変わらずの無内容にあきれかえり、それ以降の言葉の継続が困難となる。要するに自らを卑下しながら、そんなことをやっている場合でないと悟ってしまうわけだ。だから無理にやろうとしても無駄なのか。別に喉が渇いているわけではない。必要もないのに水分のとり過ぎか。それほど汗だくになっているわけではないだろう。久しぶりに空が晴れ渡り、日差しがまぶしい午後に通常の意識がある。そして数時間後のにわか雨の中で何を考えているのだろうか。たぶん瞬く間に夜になってしまうだろう。それほど忙しいとは感じないが、めまぐるしく動き回り、心身ともに疲れ果て、それをやる時間がないことに気づく。ただやる気がしないだけか。ではなぜそういう成り行きになってしまうのか。必然的な成り行きにはすべての偶然が作用している。偶然にそれらの言葉に出会ったわけではない。巡り会いには何らかの物語が絡まっているらしく、あるフィクションの中で誰かの宿命を知ってしまう。君はそれをやらざるを得ない。時間は有り余るほど残っているはずだが、それは君のための時間ではないようだ。そこには誰のための時間が設定されているのか。それは何かの設問だろうか。そこから答えを導きだそうとは思わないが、何か気がかりなことでもあるのだろうか。できもしないことをやろうとしているわけではない。誰がそれをもたらしているのか。怠惰な気分とともに何をやろうとしているのか。やる気がしないのならやらなければいいだろう。どこまで述べてもまともな結論には至らない。そして完全に枯れてしまったらしい。誰の心が枯淡の境地に至っているのか。そういうことではない。ただの嘘が繰り返されているだけか。心の中では延々と枯れ野が広がっている。今は秋ではないだろう。ここは黄金色の麦畑ではない。わざと無関係な空想をありもしない時空へ連結させているだけか。どこかの絵画平面へ紛れ込んでいるふりをしている。だがそれが何を意味するわけでもなく、ただの言葉遊びにすぎないのかも知れず、そこから思想や思考が導きだされることはない。疲れているうちに翌朝になってしまったようだ。様々なやらなければならないことのひとつがやれていない。実際に無理なのだから仕方ない。できないものはできないだろう。未だに道に迷っている気分のようだが、いい加減に偽りの迷路を取っ払ってしまえないものか。まったくそんな気がしないわけだから、それはすでに迷路とは見なせないはずだ。まっすぐにのびる迷路など存在しない。曲がりくねるのが面倒くさいのか。なぜ曲がりくねる必要があるのか。曲がりくねる理由を見いだせない。曲がったことが嫌いなのか。そういう意味で言葉を弄しているわけではない。どこかに空白の時がある。時間のない空間がある。それでも状況が見えないとは思わない。できないことはできない。できそうもないことをやろうとは思わない。そして何もかもがわからなくなる。それは君が探し求めていた状況ではない。では何を求めていたのだろう。何も思い浮かばないようだ。理由もなく動揺しているが、理由がないわけではない。7月2日それは不吉な響きだ。僕は君たちがそれほど窮地に陥っているとは思わないが、集団の構成員でいることは何の助けにもならず、そこから救いがもたらされることはない。山中で雨にぬれているうちに雷が鳴らないことに気づく。道に迷って途方に暮れ、立ち止まったまま何もやる気がしなくなる。何を考えているのか。雷と君との間にどんな関係があるのか。何となくそんなことを述べてみただけか。戯れ言はその辺で切り上げて、とりあえず生き延びなければならない。それ以外のことは何も思いつかないようだ。それは君の経験ではない。たぶん過去にそんな文章を読んだことがあるはずだ。自らが体験した出来事は文章とはならずに、かつて読んだつもりの物語から適当な言葉の連なりが到来し続けている。それを文章の中にどう埋め込むつもりなのか。君は誰に必要とされているのか。やるべきことが他にあるわけではないが、それで知っていることを語っていることになるのだろうか。何をわかろうとしているのだろう。君は何を聞き逃しているのか。なんだか次第に眠くなり、いつの間にか明日になってしまうだろう。なぜか耳が聞こえないふりをしていたようだ。理由など何もないのかも知れず、誰かの話をわざと聞き逃していただけかも知れない。宮殿のような邸宅の住み心地はいかがなものか。使用人でも雇わなければ掃除が行き届かないだろう。またどこかで話が飛んでいる。それは何から得られた知識なのだろう。どこかでそんな画像を眺めているようだが、それで心が癒されるわけではない。要するに話をわかりにくくして、何らかのごまかしを導入しようとしているらしいが、気分が乗ってこない。君はそこで何を示そうとしているのだろう。たぶん意識はいつもの空虚に近づいてゆく。それで何の問題にもなりはしない。それをさらに続けるべきなのだ。君たちは今でも国家の中で暮らしている。そこに何らかのアイデンティティを確立したいらしい。自分たちの存在意義を言葉と行動で示したい。みすぼらしい考えに凝り固まっている。本当にそう思うなら、それとは違う価値観を提示してもらいたいか。それによって君たちを納得させることは困難か。自らの存在を肯定できないのはどういうわけなのだろう。存在自体が理由を必要としていないからだ。それは肯定する必要のない存在なのだろうか。無理に肯定しなくても存在しているものを改めて肯定するには及ばない。つまり君は君自身の存在を肯定する必要はなく、ただそこに存在している事実をどうすることもできはしない。その存在は君の思念の及ぶ領域にはない。そしてそんな状況が危機を構成するはずもなく、それはただの定常状態でしかないだろう。要するにそこに現れている現象は紋切り型の無限循環でしかなく、それが君たちの自己同一性を支えている。そこからどんな思想が導き出されるのか。何かが生じているかも知れないが、それは予想の範囲内で振動する感情の上り下がりだ。別に驚くに値しない現象だが、それに大げさに驚いてみせるのがそこでのしきたりとなっているかも知れない。君はそんな予定調和の反応には我慢ができないらしく、しきりに貧乏揺すりを繰り返し、早くその場を立ち去ろうとして、少々焦り気味の言動に染まっているようだ。それがどこから生じている言葉のつらなりであるかを明らかにするつもりはない。しかし何をわざとらしく宣言しているのだろう。別の時空は蒸し暑さとけだるさに覆われている。あれから数時間が経過して、何となくそのとき話したことが理解できたように思われるが、同時にそんなことは早く忘れてしまいたくなる。どうでもいいような戯れ言の繰り返しに我慢ができなかっただけか。だがそれにいらついていたのはほんの一瞬で、そんな心境にならざるを得ないような状況だったのだから、それはそれでそのときだけの感情でしかないのだろう。今はそこから遥か遠くで息づいている。もはや君には状況を説明する義務すら生じていない。いつの間にかまったく無関係な人間に成り下がってしまったらしい。たぶんそこで浮き足立つ必然性はないのだろう。そんなわけで誰も君たちを助けてくれないだろう。君たちはすでに状況に敗れ去っている。そこからいくら考えても何ももたらされはしない。国家の力を過信しすぎていたのだ。いったい国が君たちに何をしてくれたというのか。メディアを利用しながら何を訴えかけていたのだろう。そんな場所でいつまでも踊らされて惨めだとは思わないのか。利用しているつもりが、利用されるだけ利用され続け、気がついてみれば手許には何も残っていないのではないか。ただ白髪が増えただけか。それは君たちが老人になってしまった証拠だろう。そして何のことを述べているわけでもありはしない。7月1日駱駝が歩き出す。そこから走り出せるわけもない。限界が見えている。目に見えているわけではないだろう。それは誰の目でもない。歩ける範囲が限られているということか。無限に歩ける者などいるわけがない。君は誰にもの尋ねているのか。電線にとまっているカラスに話しかけているわけではない。ではなぜ猫は上空を見上げているのか。いつものように感覚がずれているようだ。夢見る季節ではない。年齢的に夢という単語を使うわけにはいかないか。いったい誰が老人なのか。架空の感覚はどんな言葉に反応しているのか。放っておけば空想が壁からにじみ出てくる。板張りの廊下はどこまでも続いている。窓際の雑草がついに枯れ始める。窓から猫が覗き込んでいる。君がいつか死ぬことはわかっていた。誰が助けを求めているわけではない。誰も君を助けられないだろう。誰が助けようとしているわけでもなく、それらの現象はすべて画面上で起こっていることにすぎない。今さら時計の針を元に戻してももう遅い。生きられる時間はとっくに過ぎ去り、今が誰かの亡霊と対話しているだけか。なぜ死ぬと身体が腐り始めるのだろう。君はそこから誰の身を案じているのか。覚えきれない曲を聴き続けている。渦巻きの螺旋に興味を持っているようだ。それがこの世の現象だと思いたい。君が生き返ることはないが、すでに死人ではない。誰かは君の存在を忘れてしまった。やはりそこから遠ざかろうとしているのか。性懲りもなく力の及ばない領域へ逃げ込もうとしているようだ。砕け散った何かの破片を拾い続けている。だいぶ以前にそうなってしまったのだろう。君の思考は浅はかきわまりない。どこから何が飛び出してくるのか。それらのすれ違いは誰が仕組んだことなのか。誰がそれを知っているのだろう。自分をさらけ出すことのどこが愚かなのか。他人に笑われることが楽しいか。他人を笑っているうちは楽しかろう。変な言葉遣いになっているようだ。だが気に入らないのはそんなことではないらしい。珍しく腹を立てているのは誰なのだろう。やはりその雰囲気を敬遠している。それは悪臭のたぐいだろうか。すべてが問答無用らしい。関心を抱けないのは致し方ない。誰かは当然のことをやったまでなのだろう。少なくともいらぬお節介ではなかったはずだ。その精神状態のまま立ち回らなければならない者の立場を考えたことがあるのか。見え透いた嘘をつかざるを得なくなる。それが誰かに課せられた試練なのだろう。君がその使命を全うすることはない。誰に頼まれたわけでもなく、どんな命令に従う義務もない。誰かは自分が自衛隊員ではないと思っているようだ。別に迷彩服を着ているわけではない。君がそれをどう取り扱おうと誰も邪魔することはない。言葉は誰でも自由に使うことが可能か。自由に使えたらの話だが、とりあえずそれを実証しなければならないらしい。君は間違ったことを述べている。何が正しいことなのだろう。今こそそれを遂行しなければならない。嘘に決まっている。嘘でなければ何なのか。それは桃の缶詰を食べたときの感触に似ている。別の時空ではさらに違うことを述べているようだ。聞こえてくるのは誰のつぶやきでもない。それは今までの何度も聴いた曲だろう。だが何に勇気づけられているわけではない。どうやら君はそこから遠ざかる術を知ってしまったらしい。だから逃げ出すことはいつでも可能だ。実際に逃げ出してきたのではないか。はたしてそれは正しい行いなのだろうか。誰がそれを食い止めることができようか。見たくもない光景には目をつむるべきか。できればやってみればいい。それらの呪いが誰に襲いかかっているのか。誰かは何を呪っているのだろう。災いはどこからもたらされているのか。すべては自然現象だと解釈すべきなのか。誰がそれに答えられるわけもない。答えようのない問いが辺りに散らばっている。それは逃れる術を知らぬ言葉の群れか。発せられるそばから地面に落ちる。君の耳に届く以前に地中にしみ込んでしまい、聞き取ろうとする気にもさせてくれない。それに対してどう答えたらいいのだろうか。さらに悪戦苦闘を装うつもりなのか。どこかに何かがばらまかれる。空を切り闇を切り裂き、どこに救世主が出現するわけもなく、すべては期待はずれに終わるだろう。人々の夢は裏切られるためにある。それが夢でないとすればただの現実でしかない。結局約束は果たされず、空手形をつかまされた人々は裏切られたことを悟り、自らの愚かさを認めようとしないばかりか、責任転嫁する対象を必死で探しまくり、さらなる窮地に追い込まれてしまうのだろうか。借金が雪だるま式に増えてゆくのを黙って眺めることしかできない。そうなりたくないならどうすればいいのだろう。6月30日誰かが遠くで念仏を唱えている。まさかそれで誰かの怨霊が退散するとでも思っているのか。たぶんそういう話ではないのだろう。ではそれらの現象のどこに焦点を絞ればいいのか。現象とは何だろう。君はすでにそんなところにはいない。そして誰がそんなことを主張したいわけでもないが、この世界は君のものではない。君は神なのか。冗談でならそうかも知れない。だが君はこの世界では何も信じない。だからこの世界では君は君でさえない。君でさえないとすると、君に当てはまる人物を他に設定する必要に迫られているわけか。それはどういうことなのか。何も君が君でないことを他の誰が証明しようとしているわけではない。証明する以前にその状況を説明しなければならない。たぶん君はそれを説明できないだろう。君が君でないのなら、自身について説明できないのは当然のことか。それらの状況は君自身によってもたらされているわけか。そういう話でもないだろう。ではただ混乱を煽っているにすぎないのか。それしきのことで誰が混乱するだろう。まだ心に余裕があるらしい。ついでにわざと焦っている風を装っている。なぜそうするのか理由がわからない。この世界では何かが違っているのかも知れないが、この世界以外にどんな世界の存在を認識できるわけもなく、少なくともこの世界で起こっている現象について説明しなければならず、それを怠れば、述べている内容が何のことやらさっぱりわからなくなる。いったいさっきまで何について述べていたのだろう。それから半日が経過した段階では、何もわからなくなってしまったということか。それでは焦る理由にもなりはしない。焦りたいのに焦れないか。たぶん本気で焦りたいわけではないのだろう。その証拠に心は至って冷静のようだ。だからそれについて何を反論しても無駄だろう。誰が反論したいわけでもなく、そもそも反論する対象がもとから存在しない。誰かがわざとらしくねつ造してみせる作り話の中では、そういう場合わざとひどいことを述べてしまう輩を登場させて、それに対してわかりやすい反論が用意されているものだ。要するに反論しやすい状況がそれらの場面に生じているわけだ。しかしそれはどんなドラマなのだろう。またずいぶん回りくどく述べているようで、さらに根気よくまた無駄に言葉を連ねてきたものだ。そんな安易なことを述べるために意味不明に陥ることはないだろう。それらの作り話の中ではいくらでも議論を白熱させることができて、またそれをわかりやすくも単純な結論に導くことも可能だ。要するに誰もが安心できる答えが話の終わりに設定されているわけか。少なくとも君が構成しようとしているフィクションはそんな単純な話ではありえない。本当にそうであったなら、どれほど溜飲を下げられるだろうか。やはり本気で述べているわけではないらしい。その証拠に誰かと誰かが話の中で出会う必然性を打ち立てられない。出会うはずのない人物が出会ってしまうわけにはいかないだろう。それをやってしまえば漫画になってしまう。そういう場合くだらぬ物語の中では、必然的に偶然が作用して、あたかも偶然に出会ったように見せかけるのが必然的な成り行きになるだろう。君は無意識のうちに紋切り型について述べているらしいが、そんな話の成り行きではつまらないか。つまらなければ偶然の出会いをどう演出するつもりなのか。言葉で何を飾り立てようとしているのだろう。誰かがどこかで半狂乱になっている。そういう話でもないはずだ。では見上げれてみれば天井についた蛍光灯がまぶしい。月並みな文章表現でも追求してみるか。またそうやって嘘をつく。誰が尊敬に値する人柄を有しているのだろう。言葉遊びの範疇ではそういうのもありだろうが、まともな文章でないことは確かなようだ。どうやら君は普通の成り行きで言葉を連ねてみたいようだが、それもまた無い物ねだりになってしまうだろう。言葉を連ねること自体が狂気の営みなのか。そんなことはないと心の中でにやつく輩も多いかも知れない。知ったかぶりなら誰にでも可能なようだが、中身が伴わないのは多くの人にありがちなパターンだ。しかし知っていながら知らないふりをするのは質が悪そうだ。君はそれを解決したいわけではなく、適当にそこから文章を展開させたいだけなのかも知れない。何を述べているのでもなく、そうかといって何も述べられないわけでもなく、何となく言葉によって現実逃避を試みながらも、そのような営みがかえって自らを何もない現実に直面させてしまうらしい。偽りの解決に組するわけにはいかないが、そこからそれなりに変化を被りたいらしい。何もないままではつまらないか。6月29日橋のたもとには何があるのか。まさか芥子の花が咲いているわけでもあるまい。視線がそこから飛んでいる。目を覚ませば金魚鉢の中は空っぽだ。架空のまなざしは奈落の底から空を見上げている。現実の空から雨が降ってくる。他に何を見ているのだろうか。画面上の景色が移り変わる。それは車窓からの眺めになるだろう。作り話ではそういうことになっているらしい。誰が空を飛んでいるわけでもない。間違いは誰にでもあることだし、災禍が誰に降り掛かってくるともわからない。偶然の成り行きは君を助けてはくれない。ときにはそんな状況に出くわしてしまい、誰かは動揺の色を隠せない。だが死んでしまえと怒鳴られても、まだ死ぬには早すぎる。それどころかどこかで老人は執拗に生き延びようとしている。君はまだ老人ではない。だが君に魂が宿っている形跡はない。死人に口なしか。時々顔色が変わるが、それで喜怒哀楽を示していることにはならない。無関心を装いながらも何にこだわっているのか。早くその文章を終わらせたいようだが、その執着心は半端ではない。何に執着しているのか理解できないほどに執着しているようだ。ただわけがわからない。そんな風にしてまた無駄な言葉を繰り出しているようだが、それが命がけの飛躍でないことは明らかだ。はじめからそんなことは思ってないはずだ。とりあえず架空の人物には命がない。なぜそんなに早く疑念を打ち消してしまうのか。そこで何を打ち消しているのだろうか。ときにはそんな成り行きでもかまわないか。だがそこまで持っていくだけの根気に欠けている。たぶん話にならないうちにあきらめてしまうのだろう。いったい何について語ればいいのか。架空の対話を利用しながら誰かと誰かがどこかで騒いでいる。作り話の中では誰と誰が対話していることになっているのだろうか。そんなことではない。何の魅力も感じないのでその話はなしにしよう。だんだん語るのは阿呆らしくなってくるらしい。わけのわからないことを語っているうちに焦りが生じてくる。頻繁に冷房を切ったり入れたりしているうちに、暑くなったり寒くなったりして、偽りの世界では気候変動が激しくなる。だがそれが地球が温暖化している証しとなるはずもなく、はじめからそんなことを述べようとしていたわけではないことに気づく。とりあえず今は蒸し暑いので地球が寒冷化してほしいと願っているようだが、その場の都合で地球全体の気温がどうなるわけもなく、そんなわかりきったことに異議を唱えるつもりもなく、では他に何を述べたいのかといえば、そんなことはくそくらえか。だいぶ投げやりな気分に近づ 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