彼の声542006年5月31日君は何か気の利いたことを述べているのだろうか。それともまったく的を射ていないか。現在進行形のことは未来へ託される。未来は未定であり、未来のことを予想する気にはならない。心はいつも今この時につなぎ止められている。そんな風には思わないか。誰を想定してそんなことを語っているのか。何か他に話題がほしいのか。未来は君に覆い被さるだろう。当てのない推量は何ももたらさない。そこで何が立ちふさがっているのか。不吉な予感をぬぐえない。君はどこへも行きはしない。ただそこにとどまり、とどまりながらゆっくり沈下して行く。あくびとともに何かを忘れてしまうが、それが肝心な内容だとは到底思えない。予言の内容をどうしても思い出せないようだ。占い師気取りはとっくの昔に視界から消え去っている。それは聞いたことのない曲調だったかも知れない。思い出しているのはそれとは無関係なことだ。聴いている曲はなじみ深い。疎外感に苛まれることもないだろう。だが安心には油断がつきものだ。結果として新たな危険をもたらす。しかしそんな言葉の処理の仕方で悦に入る必要があるだろうか。君はまだ老いぼれるには若すぎるか。そこで何を見ているのか。それは誰の頭蓋骨に見えるか。指輪の表面に刻まれた装飾でしかない。何かを入り組ませているのだろう。わざと粗雑なことを述べている。冗談では物足りないのか。冗談になっていないのかも知れない。ただわけがわからないだけだ。劇的な内容を楽しめなくなった。たぶん何もしていないのだろう。気分次第でどこへでも行ってしまうわけにはいかないらしい。場所はいつまで経ってもここだけだ。どこへ行ってもそこにとどまり続けるだろう。そこは呪いの場所なのか。そことこことはどう違うのか。呪い以外に何か肯定できる行動をとれないか。他の誰を呪えばいいのだろう。格好がいいとは思えない。誰かは頭の形について語っているのか。伸びすぎた頭髪を整えなければならず、頭蓋骨の形状を矯正することはできない。音のでないピアノが酔っぱらっているらしい。音がしているのは靴の踵の部分だ。貧乏揺すりをしているのは向かいの席の白髪頭か。誰がそこで死んでいるのだろう。ニュースで伝えられている訃報を真に受けることができない。今でも信じられないと誰かが述べていた。死んだ後まで時間稼ぎをする必要はない。それでも君は生き続けなければならないのだろうか。やる気もないのに何かをやっているつもりのようだが、それで楽しくないのはもちろんのこと、他に何をやればいいかなんて、すぐに思いつくわけがない。まだ心は遠ざかりの風景の中にとどまっているようだ。いったいどこから遠ざかろうとしていたのか。遠ざかりの始まりを思い出すことなどできはしない。意識の中で何かが弾けているようだが、それは手榴弾の一種だろうか。目の前で何かが炸裂して意識を失う。夢の中ではそんなこともありだろう。考えていることがそれとは無関係であり続けたい。そんな無理な願いを誰が聞き入れてくれるだろう。結果的に楽しければ理解したことになるのだろうか。でたらめなことを述べている暇なら大歓迎か。もたらされる時間の意味を理解できかねる。何かをやり遂げなければならないことはわかっているようだが、それに関しては誰も何も教えてくれないだろう。誰にとってもわかり得ないことをやろうとしているのだろうか。理解の範疇からは逸脱しているのかも知れない。そこから逸脱していないと気が済まないのであって、述べている内容からはみ出ているような言説でないと、何かを述べている気がしてこない。状況に逆らいたいだけのようだが、その状況の中からそんな行為が導き出されてしまうのだから、それがまったく恣意的というわけでもないらしい。そのほとんどが君の思考とは関係ないのだろうか。それは思考から導き出された語りではないのかも知れない。では闇雲に言葉を連ねることに生き甲斐でも感じているのか。それをも肯定したらどうだというのか。もたらされているのはいつもの虚無感とわけのわからない文章とある種の達成感と何なのか。他に何か思いつくことでもあるのだろうか。君は自身の未来に向かって何を述べたいのか。ただ言葉を繰り出すことの楽しさに埋もれているだけでは、何を述べていることにもならないことは承知しているつもりだが、それでも誰かの心に無関心をもたらしたつもりになって、何となく満足してしまうらしい。5月30日つまらない批判にはうんざりしてしまうか。君に批判する資格はない。何を批判するつもりだったのか。夕立の後は泥道がぬかるんでいる。何も批判できなくなってから久しいようだ。何をどこに置いてきてしまったのか。新聞には何が書かれているのか。世界はいつまでもそのままなんだろうか。そのままに推移するはずがない。君はこの世界の成り行きを信じられない。だがすべてが馬鹿げているわけではないはずだ。正気でないのは一部の不満分子だけではない。すでに誰もがありふれたことを述べている。複数の出来事が複雑に絡み合い、気に入らない成り行きについて、それを真正面から批判できなくしている。批判が無効になるような出来事の組み合わせを容易に構成できてしまい、批判し続けている者の愚かさが露呈する仕組みになっているらしい。そのような批判の無効性が君を謙虚な気持ちにさせてしまうのか。そんなことを批判すべきでないという思いが心を支配しているようだ。たぶんつまらないことにこだわっている者たちがそんなことをしてしまうのだろうが、組織の中で身動きがとれない者たちにそれ以外の何ができるだろう。そんなことをやらざるを得ない状況に追い込まれている。組織の中ではどうしてもその場しのぎのごまかしが通用してしまうようで、それがいったん組織外に漏れてしまうと、その組織に向かって各方面から一斉に非難が集中することになる。しかしそんな一般論では物足りないか。たとえばその組織に社会保険庁という名称がつけば、何となく何かを述べているような気にさせるだろうか。そんなことを述べても何が変わるわけでもない。これからもいくらでもそんなことをやってしまう組織が出てくるのだろう。この国ではそういうごまかしが通用してしまう組織ばかりなのではないか。この国に限らず、世界中でそんなことばかりが行われているのかも知れない。組織に対して無理な目標が設定されれば、目標を達成しているように見せかけるための見え透いたごまかしをやらざるを得なくなる。だがそれは君が知っていることではない。君はそんなことを知ろうとは思わない。そしてつまらないことはすぐに忘れたくなり、実際に時が経てば忘れているのだろう。そんなことはどうでもいいと思う。君は矛盾だらけの世界に嫌気が差しているわけではない。人間の弱さは組織内の結束に結びつく。そこで何を制御しようとしているのだろう。ギャンブルにでものめり込めば我を忘れることができる。そうなれば金がなくなって身も心も貧しくなるだろう。万が一大金持ちになったりしたら、どのような精神状態になれるのか。そんな荒唐無稽な夢を実現させようとは思わないか。ギャンブラーも人間の本質を体現している。実際この世界は誘惑の宝庫なのだ。そして誘惑に負けてしまうことが人が人である証となる。思いっきり痛い目に遭ってみないと目が覚めない。目が覚めたからといって、救われるわけでもないし、何の報いももたらされないかも知れない。将来起こりうるかも知れない救いの時は、君をその救いに縛り付けようとする。依存症に導かれたいのか。それを説明しようとする浅はかな言説などどこにもありはしない。君は説明できないことについて語ろうとしているわけか。すでに何かを語りながら説明しているではないか。だが実感は何もなく、そんな説明では満足できないのかも知れない。自らが思いもしなかった言葉の並びになってほしいか。文章が自らを超えて語り続けてほしいか。それはわけのわからないことだ。確かにおかしな言葉の並びによって、文章を意味不明に陥れようとしているのかも知れないが、いかんせん語彙が少なすぎる。語っていることのすべてが過去の語りの繰り返しになってしまっている。そんなことは過去にも語った内容なのかも知れない。君はそれによって何を示したいのか。馬鹿げたことの繰り返しによって、この世界が救いがたい愚かさに覆われていることを証明したいわけか。しかしそれの何が馬鹿げているのだろう。なぜそれを馬鹿げていると見なさなければ気が済まないのか。何を照れているのだろうか。そうやってすぐに冗談の言説の中に逃げ込もうとする傾向にあるが、そんなはぐらかしも見え透いていて、飽きが来てしまっているのかも知れない。そんなこともすでに分かり切っていることでしかなく、それはくだらぬいいわけに終始しているように思わせる。それでいいわけがないだろう。5月29日昼の空気は生暖かい。誰かが風邪を引いている。腐った頭の持ち主は今さら何を探しているのか。宝の山はおとぎ話の中にあるらしい。誰かは壊れかけの頭脳に未練が残っている。腐っていればすでに死んでいるはずだ。翌日は快晴だが、相変わらず何を目指しているわけでもない。脳みそがいかれているわけではなく、社会が君を必要としていないのではないか。何だか無性に腹が立ってくる。本気になってはいけない。文章で述べられていることを真に受けてはいけない。それで何がもたらされるわけでもない。心が止まっていて、思考が静止しているようだが、そんな言葉には動じない。内容がないことは分かり切っている。では意味もないのだろうか。意味があれば楽しいか。楽しくなければ無意味のままでもかまわないか。実際に無意味なことを述べているかも知れない。本気になれないのなら、何を述べても意味がないだろう。自家撞着に陥っているかも知れない。当たり前のことを当たり前のように述べているようだが、それの何が矛盾しているのか。すべてが嘘なのかも知れない。嘘でなければ何も述べられない。しかし何が嘘なのだろう。誰もそんなことは述べていないのではないか。君は何も述べられない。しかしそれが嘘というものだ。嘘ならそれで終わりだろうか。終わりたくても終われないだろう。終われるはずがない。しかし終われなければ続けるしかない。いつまで経ってもそんなことを述べ続けるわけだ。ではそのとき君は何を述べていたのか。過去の話ではない。意味などどこにでも転がっているだろう。何を思いだしているのだろうか。思い出は何も語らない。君は何に語りかけているのでもないらしい。結局誰もそこにはいないらしい。人はいるが誰もない。それらの人々は誰でもないのだろうか。誰が人として認められるのか。何をもって人と見なせばいいのだろうか。少なくとも君は人でない。人が人である時、どのような行動に出れば人として認められるのだろうか。君は人とは見なされないようなことをやっているのだろうか。誰がそんなことをやっているのか。どうも自らがやっている行為を否定したいらしいが、いったい君はそこで何をやっているのか。何もやっていないとは言わせない。何も言わないが、その代わりに適当な文章をいい加減に記している。要するに君は愚かなことをやっている。それで何かの気晴らしにでもなるのだろうか。気晴らしでそんなことをやっているわけでもないはずだ。努力を怠ってはならない。どんなことがあってもそこから逃げてはいけない。だがなぜ自ら進んで不幸になろうとしているのか。それの何が不幸なのだろう。そうやってまたいつものはぐらかしに逃げてしまうらしいが、実際にどんな状況に陥っているのか把握していないようだ。それについて述べることなど何もなく、それで状況の説明になっているとは思えないが、いったいそれの何を説明すればいいのだろう。腕が肩から上へ上がらなくなっている。君は何について述べようとしているのか。感覚が麻痺しているようだ。たぶんふざけているのだろう。そこから何がもたらされようとしているのか。阿漕なことをやろうとしているわけではない。神は慈悲深いだろうか。神に逆らっているつもりの君はどうなのだ。君がやることは他の誰に評価されているのだろう。評価に値しないことを述べているのかも知れない。それで君は満足しているのか。もうすでに見捨てられている。世界は君を置き去りにしている。もはや呪詛の言葉すら要らないほど落ちぶれている。呪いは着実に効果を上げ、君の心を灰で埋め尽くす。不完全燃焼どころではなく、情念は完全に燃え尽きているのかも知れない。炭化して原形すらとどめていない。だからそこには何もないと感じられるのか。他に眠気を感じてやる気をなくす。しかしまだ無駄話が続いてしまうのだろうか。延々と何を語っているのだろう。次第に夜の静寂に押しつぶされそうになる。君はそこへ至っても本気になれないわけか。なぜ本気になる必要があるのか。いったい何もない夜はいつまで続くのか。何もないわけではなく、そこには言葉が連なっていて、必死になってその連なりを先へ延ばそうとする意図が働いている。君はそこから抜け出せるだろうか。何を苦しんでいるのか。それが地獄のような苦しみであるわけがない。君は地獄そのものの存在を信じていない。ただそれとは無関係に音楽を聴き続けているだけか。5月28日何か得体の知れぬ気配を感じ取っている。久しぶりに君の影がよく見えるようになる。それは不吉な前兆か。なぜか岐路に立たされているような気がするのだが、君の運命はすでに決定済みだ。誰かがどこかでそんなことをつぶやいている。いつものように何を述べているのかわからないが、これからどうなってしまうのか。本当に死んでしまうのだろうか。誰が死ねば気が済むのだろう。何を意図的に逸らしているのか。それは君の身に起こりうる不幸なのではないか。冗談ではないと思いたいが、曇り空と雨空を見上げて空の明るさを空想する。今は朝だろうか。文章ができあがる頃には夜になっているかも知れない。たぶんすでに翌朝だろう。まったく効率的でなく、できるはずがないと思われる。何ができるはずがないのか。つまらない思いばかりに気をとられ、また未完成のまま文章が提示されてしまうのだろうか。心なしか風景が斜めに傾いて見える。それで何がわかるのか。誰かの心は痛んでいるらしいが、今さら何をアピールしたいのか。何か決め台詞でも表明しなければいけないのか。文章は君自身に興味を抱けない。それは飽きが来ている証拠だろうか。どうやらいつまでもそこにとどまるわけにはいかないらしい。何を見ているのか。どんなことを考えているのだろう。この世界はおかしいと思う。それはこの世界に対する見方や考え方がおかしいからだ。君たちは何を主張しているのか。どのような主張が顕在化しているのか。主張の正しさを信じていいのだろうか。正しいことを信じているからといって、それで何がもたらされるというのだろう。もたらされているものや状況を活用することができるのだろうか。なぜ活用しなければならないのか。状況を把握しているとは言い難い。もたらされているそれは君には関係のないことやものなのではないか。それらの意味を理解できない。正しいと思うことを述べれば反発を買うだろう。屋根にとまった雀がこちらを見ているような気がする。それは一瞬の出来事だ。他に何が見えているわけでもない。そういうことではないのだろうか。枯れかけた雑草は窓際で執拗に生き続ける。またそこから逃げようとしている。逃げられないのに逃げようとする。そんな思いでいるうちは何も成し遂げられないだろう。それでかまわないのだろうか。他人にとってはかまわないようだ。君には自分という意識がない。君自身が君にとっては他者なのか。それともわけのわからないことを述べて自己満足に浸っているだけなのか。浅はかな夢を抱くべきではない。本気になってはいけないのだろうか。今こそ決着をつけたいわけか。できもしないことをやろうとしているわけではない。何の兆しを感じ取っているわけでもない。それでも何とかしなければと感じているらしく、実際に何か中身のありそうなことを語ろうと努力している最中のようだ。君は嘘をついているのか。なぜそう思うのだろう。流れは変わったのだろうか。それはどのような流れなのだろう。では今から反転攻勢を仕掛けなければならない。それが嘘なのか。君は何をどう思っているのか。驚きが何もない。驚く必要を感じない。その辺を何か割り切って考えているのかも知れない。終わりが見ているのだろうか。それは誰の終わりなのか。君は間違ったことをやり続けながらも、結果的にはうまく立ち回っているように思われる。間違い過ちを犯すことが君にとっての有効なやり方なのかも知れない。しかしそこからどこへ行けばいいのだろう。どこへも行かずにそこへいつまでもとどまり続けるつもりなのか。他人の気持ちなどわからなくても生きてゆけるだろう。そんな人間なら掃いて捨てるほどいるらしいが、実際に掃いて捨てられてしまう人々には、どのような基準もありはしない。掃いて捨てられる基準があったらたまったものではないか。誰がそうなってしまうかは、そのときの状況次第だ。信心深い者にとっては神の気分次第なのだろう。そんな風に考えてしまう心が鬱陶しい。しかし鬱陶しくてたまらないことは他にもありそうだ。どんなことを述べてもかまわないのだろう。どんなことをやってもかまわないか。やりたければやってみればいいし、いつまでも勝手なことを述べていればいいだろう。それができればの話だが、人生は有限であるべきなのか。君は有限の時間の中で何を浪費しているのか。かけがえのない体験をどぶに捨てるようなまねはいただけない。5月27日誰かが語り続けているフィクションの中では、何となく面倒な事態に直面しているようだ。そこで何を思いついたのか。親しみやすさとは何だろう。老人は枯れた風情を愛でている。現状に同化しようとして、知性をどこかに忘れている。しかし知性とは何だろう。何をもって知性と呼んでいるのか。それはつまらない言葉の連なりになる。君にはそれが我慢がならないようだ。具体的な話に持って行こうとすると、すぐにわけのわからない抽象性の殻に閉じこもろうとする。現状が気に入らないことはわかるが、それについてどう思っているのか明らかにできない。自分でも何を述べているのか理解できないらしい。近頃はそんな話ばかりのようだ。昼に窓の外を見やると風が止んでいる。雨も止み薄雲を通して日が射してくる。午後にはまた通り雨が降ってくるだろう。それはいつの日の話でもないらしい。何の話とも無縁な文章が形成されようとしている。どんな妄想を抱いているのだろう。なぜそこから逃げているのか。逃げたくても逃げ出せない状況なのではないか。その場所にとどまりながらも心は逃げている。何をやるのも無理なのだろうか。何かしらやっているのに無理はないだろう。無理なことをやろうとは思わないだけか。つまらないことに労力を割きたくはないか。人々が争っているのは当然の成り行きだ。他人と話題を共有したければ、他人と同じようなことをしなければならず、同じようなことを大勢でやっていれば、自然と競い合いになるしかなく、競い合えば自ずから優劣がついてしまい、劣勢になった者はおもしろくない。他人との競い合いの中で自分が優位を占めていないとおもしろくはない。そんなことをいくら述べてみても仕方のないことかも知れない。だから気晴らしが必要なのだろうか。息抜きで娯楽にうつつを抜かしている。つまらないこだわりはすぐに忘れてしまいたい。馬鹿げたことをいつまでも考えているべきではない。そんな分かり切ったことを実行に移せない。もう少し多様な価値観を提示できないものか。生きて行くのに目標など要らない世の中にしなければならないが、それが目標になってしまったらお笑いぐさだ。それが嫌なら生きて行かなければいいだけだ。生きて行かなければ死んでしまうのだろうか。自らの死を願っているわけでもない。生きるも死ぬも、どちらの状態も自らが主体的に決めることなどできないのではないか。どちらでもかまわないのであり、生きているなら生きようとするし、死んでしまえば死んだままなのだろう。くだらぬ謎解きにつきあっている暇はない。それは謎を超える試練か。それの何が試練なのか。それとは何なのか。明日になれば結果が出る。しかしその結果を真に受けることはない。結果は途中経過にすぎず、何となく一区切りつけたいということでしかないはずだ。そこにどんな哲学があるわけでもなく、どのような思考を伴っているわけでもない。やはりそんなことはどうでもいいことなのだろうか。では何を切羽詰まっているのか。用意はすでにできているが、何のことやらさっぱりわからない。それらの状況から何を抽出しようとしているのか。フィクションの中ではただ君が生きている理由を知りたいらしい。だからわけがわからなくなる。ちんぷんかんぷんなことばかり述べているようだ。少なくともそれは死ぬ用意ができているということではないのだろう。自らの死を恐れている。それでは迫力不足のようだ。自ら死んだぐらいでは物足りないか。死ぬ理由を求めているわけでもなく、死という言葉を利用して文章を記しているだけなのかも知れず、そこから何を導き出そうとしているわけでもないのだろう。そこから消え去りたくないことは確かなのだが、そのためにはどうしたらいいのかわからず、ただ闇雲に言葉を連ねながら、どこかへ逃げようとしている。現状に耐えられず、現状から逃げようとして果たせず、その場で立ち往生している自分に嫌気が差してくる。しかし迷っているわけではないようだ。いい加減な文章でその場を取り繕うとしている。できもしないことをやりたいらしい。急ぎながら焦り、せわしなく指先を動かして、何やら述べているつもりらしいが、それではいつもの無内容にしかならない。右往左往しているようで、それが予定調和の範囲内であることも承知していて、何となく自らの行動が面白味に欠けるのが気に入らないらしく、それ以外の選択肢を模索しているようだ。5月26日理由を求めたい。飾り気のない音を聞いている。願いが聞き届けられていることを確かめようとしている。バロック的な建築は何を示しているのだろうか。理由とは何だろうか。雰囲気に流されている。曇り空なら楽しいか。風はどちらへ吹いているのだろう。枝葉はそよ風を受けて揺れている。言葉はいくらでも分散する。何を示しているわけでもないらしい。ただ不可思議な響きを誰かの心の中に残しているようだ。見えている景色は仮のものでしかない。まるで暗号を解いている気分になるだろうか。何を期待しているわけでもないらしい。到来しているのはそれとは別の雰囲気だ。感じている雰囲気を確かめたい。あくびとため息は何の邪魔をしているのだろう。さらにそこから遠ざかれるだろうか。それは以前と同じ言葉か。隠されていた真実を発見したつもりになる。それはどんな言葉なのだろうか。君はそれを求めていたのか。さらに状況は停滞しているようだ。不意にそれとは違うことを思い出す。もう飽きてきた頃だろう。すべてがぶちこわしにされている。凄惨な光景が目に浮かぶ。それはありふれた言葉なのかも知れない。できないこととできることを分けて考えることができず、いつの間にかそれを忘れようとしている自らに気づく。すべてを水に流すことができるだろうか。説明を要しない文章を読んでいるようだ。何かが続かないようで、言葉を連ねるのが面倒になってくる。翌日の昼は雨が降り続いているらしい。おかしな癖を煩っているのだろうか。それによって文章がおかしくなるのは大したことではないが、何もないという前提が崩れてしまうのは嫌か。どこまでが本気なのかわかりかねる。すべてが冗談というわけではないだろう。限界を知らないことは愚かさの比率を上げることになるのだろうか。迷い悩み、結局過ちを犯し続ける宿命を呪うわけにはいかない。心を揺さぶる表現が楽しいわけではない。そこにはつまらぬこだわりが満載されているようだが、こだわる理由が見あたらない。何も見えていないはずなのに、何かを嗅ぎ取っている。宝のありかでも探し当てたのかも知れない。フィクションの内容は安易な方がいい。それとは違うことを考えられないのだろう。何が違っているのか。問題は何もない。英会話ができなくても何の支障も来さない。誰かはそんな地域で暮らしているそうだ。どこかで何かがいかれている。君には文章が理解できない。まだ立ち直れていないようだ。だが心臓に穴が開いているわけではない。穴から何をのぞき込んでいるのだろう。どちらにしろ君に勝ち目はない。勝負を避けているだけか。それは何かの実験なのだろうか。外ではまだ雨が降り続いているらしい。そんな風に言葉を並べていて楽しいか。でたらめなことを述べている理由を知りたい。峠を越している。腕の痛みも和らいで、何を背負っていたのか忘れるほどの余裕が生まれている。たぶん創作ではない。現実には生きていないのかも知れず、誰かの生死を確認することさえできない。しかし安否を気遣うほどのことでもないだろう。無事で生きているわけもないか。瓦礫の下敷きにでもなった気分でいたいらしい。どこかで地震が発生している。何を述べているふりをしているのだろう。今日も切羽詰まって苦し紛れなのか。気が抜けて空気が抜けている。何も思いつけないので自信喪失か。ため息交じりに夜空を見上げ、一息ついている風を装う。卑屈に振る舞っているのかも知れない。狂言の一種を思い出す。大声を張り上げるのは気晴らしのたぐいか。映像の中から誰かの振る舞いを抜き出している。何かのコラージュに見せかけている。おそらく意味を知ろうとしていないのだろう。腐っているのかも知れない。何かが途絶えようとしている。途切れているのは誰との交信なのか。それは通信ではない。メディアはすぐにペテンを賞賛したがる。その浅はかさは何に似ているのだろうか。すぐに終わらせたいのだろう。恐ろしく退屈な年月を経て、なおそれを押し通そうとしている。誰にとっても早く死んでほしい人などいくらでもいるはずだ。未だに戦国時代が続いてるらしい。それは数千年前の出来事になるだろうか。約束はとうに反故にされ、雲散霧消の中で何を語ることができるというのか。いつもの誇大妄想で片づけてしまいたくなる。そこから逃げ出すのは簡単だ。今を通り過ぎてどこへ向かいたいわけでもなく、ただ眠りにつきたいのかも知れない。5月25日君はつまらない言葉が好きのようだ。どんな言葉を好んで使っているのだろう。快適な世界では悩み事が取り除かれている。絶えず気に入らないことを減らす努力が続けられている。そんな幻想を誰が抱いているのか。君は何を信じているのだろう。新たな悩み事が次から次へと出てくる。何かしら気に入らないことが生じてくる。いくら努力しても、努力した分だけさらなる努力が必要となってくる。何をいくらやっても足りなくなる。そうやって人は常に移動し続け、行き先には何かが待ち受けている。時には何も待ち受けていない場合もある。たとえ何もなくても、それが何かを物語っている。では具体的に何を語りたいのか。そこから先には何もないが、何もなくても楽しくなってくる。だが何もないから言葉が続かない。言葉が続かなくても楽しくなる。放っておいてもやがて何かを語り始めるだろう。だが語り始めれば眠くなる。気がつけば同じことを繰り返し語り続けている。本当に語ることが何もないのだろうか。何か強烈な感情をねつ造してみたくなるか。誰かがくだらぬ台詞を吐き捨てる。この世は反吐のでるような社会だ。その醜い台詞には何が宿っているのだろう。何に押し流されているのか。それが怨念とか情念とかだったらわざとらしいか。わざとらしいのも楽しさのうちに入る。すべてがありふれている。何もかもが存在し続けている。この世がすべてなのかも知れない。この世界にはすべてがある。それ以外に何が存在しているのか。知り得ないことも多すぎる。知りたくもないことまで知っているつもりになれるか。何か矛盾していないか。何が矛盾していようとそれは驚くべき内容ではない。どのような内容にもなり得ない。他に何を知っているつもりになれるのか。どんな言葉を付け足さなければならないのだろう。そして何に気づくべきなのだろう。不細工な言葉の進行を無視して、幸運をつかんだつもりになる。もうこれ以上は嘘をつかないでほしいか。それでも文章が意味不明になる。わからないことを述べているらしいが、そんなことは分かり切っている。誰が何を知っているわけでもなさそうだ。君に知り得ないことがあるのは当然だとしても、それを知りたいと思わないのはどういうことなのか。どういうことでもなく、わからないことを知ろうとしても仕方がない。ようは忍耐をどこまで続けられるかだ。肝心なことを忘れていては仕方がない。それでも何を知ろうとしているのかわからない。今はそういうことを述べたいわけではない。それでもこの世には何があるのだろう。人々は自らが関係することを広めようとしている。こととは具体的になんなのか。それが君たちの仕事なのだろうか。仕事とは何だろう。誰が仕事をしたいと思っているのか。それは何かの精霊だろうか。誰かの思念が空を漂っている。何かが脳裏をよぎり、薄い布きれが風に舞う。工事現場では土埃が舞っている。誰がそこで暮らしているのだろう。言葉は誰の心の中につなぎ止められているのか。郷愁の思いに近づいているわけではない。何も考えられず、何ももたらされないことも承知している。目の前の風景が透き通って見える。そこにあるのはある種の空気であり、何らかの雰囲気なのだろう。俄然やる気が出てきたわけもなく、さっきまで人形の首がぐるぐる回っていた。さりげない一言が何を招くわけでもない。危機はとうの昔に去っているようだ。何もできないわけではなかったらしい。すでに何かをやり遂げたつもりになっているようだ。意識はどこまでも曖昧なままに作用し続け、精神の存在を感じさせない。君はどこから降りているのだろう。今は何を語っているわけでもない。どんな意識にも欠陥はつきものだ。完璧でないことが完璧さを求めさせるわけでもない。誰かのありふれた人生に感動しているわけでもない。はたして聖徳太子に人生があったのだろうか。それは何もないことに対するいいわけか。見失われた時空から何を取り戻そうとしているのか。ただいい加減に言葉を組み合わせているとしか感じられない。ではなぜそこでやめてしまうのだろう。何にいたたまれなくなってしまうのか。すべてを手に入れるという野望が叶うことはない。ただすべてを手に入れたいと願っているだけだ。そんなフィクションはありふれている。馬鹿で間抜けな人物像が浮かび上がってくる。それらの話はどこへ向かって語られているのか。まったく本気になれない。5月24日なぜか翌朝は快晴だ。天気予報を見ていなかったのだろうか。それは二日前の翌朝のことだ。知っていたのにわざとしらばっくれてみる。鳥がさえずり猫が鳴く。完全に一日遅れの記述が定着してしまったようだが、今後さらに遅れることもあり得るだろうか。人は争う生き物であり、生物は常に弱肉強食の掟に従って生きているのだから、人も生物の一種としてそれを免れ得ないのかも知れない。物語の中で強調される争いごとも生存競争と見なせば納得できるだろうか。なぜそういう次元で考えようとするのか。もう少し人間的な水準で考えたらどうなのか。人と人の関係に不具合が生じているから争いごとが絶えないのではないか。不具合の内容は千差万別であり、無関係な者がいちいち口を挟むべきではないが、それでは争いを放置しているにすぎない。君は何を解決したいのかわからない。そこから先に何も言葉が思い浮かばない。それはどうでもいいような話だとは思えないのだが、具体的に何が問題なのかわからない。内容を掘り下げて考えようとしても、肝心の内容がどこにも見あたらない。娯楽として争いごとを見聞してはいけないのか。世の中はそればかりなのではないか。それを必要以上におもしろおかしく演出してもわざとらしいだけか。常に怠惰な雰囲気に心が押し流されている。それは形而上学的な問題だろうか。高邁な理念はどこへ消え去ってしまったのか。今ではそれをまったく信じられない。信じ込んでいた頃の思考が稚拙だったのかも知れない。わざと批判の矛先をかわしきれなくなった風を装い、そこで立ち往生してしまうのか。話が飛んで何を述べているのかわからなくなる。何に従って言葉を連ねたらいいのか。今こそ簡単な結論に至らなければならないのか。今まさにドラマの中ではつまらない争いごとの最中なのではないか。毎度おなじみの勢力争いや権力争いに明け暮れている。だがそう述べて何を批判しているつもりなのか。それもつまらない言説のたぐいになるだろう。そう見なさなければ言葉が続かないか。続かないことを続けるべきではないが、続いてしまうなら、結果としてそれは続かない話とはならない。まさに続けようとして続けているわけだ。ただ続けようとしているだけであり。続けようとする意志があるらしいが、何を続けるのかわからない。意味もなく惰性で続けている。人はそれでも生きてゆけるだろうか。人ではないのでわからないか。なぜ人は生きているのだろう。何のために生きているのか。それでについて何か意見があるのだろうか。それは幻想の一種かも知れない。中には何かのために生きていると思いこめる人もいるらしい。何のためでもないが、そこに納得のいく理由を構成できる人は幸いである。誰かの意識はあやふやさに浸食されている。やはり漠然とそんな思いを抱いている。何に関してもとりとめがないのだ。ただ無性に眠たいのか。目で見ている光景に興味を持てない。誰かの目は節穴なのか。それでも見えているのだから、その見えているものについて語る必要を感じている。外界ではさらに一日が経過している。言葉を記し始めてから一日経てば曇り空に遭遇する。その間に何が起きたのか。やる気を失わせる出来事とは何だろう。そんなものは何もなく、ただ他の用事で疲れているだけか。しばしば中断して、何も思いつかないような成り行きを強いられている。つまらないニュースに心奪われるわけもなく、殺人事件の被害者に同情することもなく、画面に映っている何もかもが娯楽と思いこんでいるわけもなく、そこから何が伝わっているのかを理解しようとしているわけでもない。しかし何も理解できないわけでもない。あくびとともに退屈な文章表現を推し進めている。要するにそんな現状には否定的なのだ。見えているのはそれだけでないと思いたいわけか。何か忘れていないか。何かを述べたかったはずだ。言葉の源泉が枯れかかっている。なぜそのように述べられないのか。いったいどのように述べようとしているのか。そんなに述べることなどありはしない。枯れかかっているのではなく、源泉からくみ上げすぎているのではないか。過剰に述べようとしている。述べる必要のないことまで述べている。無理に無理を重ねているように思える。だからどうだというのか。他人は他人であり、君が何を述べようと誰かには関係のないことだ。関係を持ちたければ自らが何かを述べなければならない。5月23日怒りの感情はやがて静まり、喜びの表現を育む。何かに役立つような言葉は嫌いだ。何よりも底が浅い。ひねくれ者の考えることはわかっている。いったいそれは誰の台詞なのか。今さら分かり切ったことを述べないでほしい。まだそんなところで道草を食っているのか。君は草食動物のたぐいか。わざとらしい言葉に鼻白む。言葉の使い方を間違っているかも知れない。しかし何をそんなに驚いているのだろう。どんな言葉を反芻しているのだろう。何もわからないふりをしながらも、自然と笑いがこみ上げてくる。それがなぜおかしいのだろう。自然に笑えない状況を経験したことでもあるのか。確かに君の笑いはぎこちない。笑いながら顔の片側が引きつっているような印象を受ける。まだ立ち直るきっかけがつかめないのだろうか。苦し紛れに冗談ではないと思いたいのか。それは毎度おなじみの台詞に違いない。そこから遠ざかれないのもいつものことだ。出口が遙か遠くに見えている。それが迷路の出口だと思いこんでいるらしいが、そこまで行ってみないことには確かめようがない。だからいつまでもとどまっているわけにはいないと思うが、なかなかその先へ進めない。そんな話には興味を持てないか。作り話には違いないが、それにしては内容がなさすぎるような気がする。迷路の中で彷徨っていると思いこんでいるだけでは話にならない。まったくいつまでそんな話にこだわっているのか。なぜそれほどまでふざけたいのか。どうやらふざけていると勘違いしているようだが、誰が勘違いしているのだろう。ふざけているのは誰なのか。そういうふざけ方はいただけない。少しおふざけがすぎるらしい。君は同じ言葉を飽きるまで繰り返したいのか。今はそれしかできないのだから仕方がない。だからそこから先へ進めないのだろう。ただそれだけではだめなような気がするらしく、必死になって違う言葉を探している最中なのだろうか。言葉を使うことばかりに夢中になっていると内容を忘れてしまうだろう。だからそんなことばかり述べ続けている現状から抜け出せずにいるらしい。そんなわけで曇り空はいつまでも続き、上空を見上げながら憂鬱な気分になっているようだ。まったく理由になっていないようで、それらの言葉によってどのような気分を醸し出したいわけではなく、話の中にどんな心境が紛れ込んでいるかを知りたいわけでもない。ただうんざりしてくるか。うんざりしたついでに指先がしびれてくる。それとこれとは関係ないだろう。関係なくても感じていることは確かなようだ。親しみやすさはわかりやすい。わかりにくさは混乱を招く。知らず知らずのうちに招いているのは行き詰まりか。では態度のふてぶてしさは何を想像させるだろうか。そんな人物が出てくる漫画なら掃いて捨てるほどあるだろう。そしてそのような性格の単純化は暴力の行使によって支えられている。すぐに対決に至ってしまうわけだ。神秘的な力を身につけることがいいわけのように作用している。力を身につけたら当然それを行使しなければならなくなる。それが破壊的な暴力の連鎖となって読者の視覚を刺激し続ける。はたして身体表現は暴力にしか帰結しないのだろうか。では他にどんな力を働かせなければならないのか。それは話にならないような力かも知れず、少なくとも話をおもしろくするためには取り除かれるべき力なのだろう。とりあえず君たちは考えなければならない。対決を回避したら話がつまらなくなってしまうことに気づくべきだ。人と人が争う話にしなければ物語は成り立たない。そして争いには暴力がつきものとなる。人々は話のつまらなさを受け入れがたい。戦うことなく話が終わってしまうような物語には興味がないばかりか、そんな物語などあり得ないのかも知れない。ではそれらの物語の何を正当化しなければならないのか。戦いの中から友情が育まれるといういいわけに終始していることの何がおかしいのだろう。最終的にそうしなければ救いがない。救いがなければ感動がない。感動がなければつまらない話になってしまうだろう。それで戦いを正当化できるだろうか。相手をたたきのめそうとすることの何が友情に結びつくのだろうか。友情とは互いの雌雄を決した後から生まれるものなのか。本当にそんな結末に至ってしまったら君は感動してしまうだろうか。君とは誰のことなのか。君は何を否定して何を肯定しているのだろう。冗談でなければつまらない。5月22日さらに楽しい気分から遠ざかる。何をためらっているのか。別に死ぬ気でいるわけがない。言葉の連なりにセンスが感じられない。思い過ごしにも意味を付与したいところだが、それをどのように述べれば納得するだろうか。どう述べても気が済むわけもなく、ただ淡々と事実について感じたことを語るしかないだろうが、何も急に怒りをあらわにすることはないだろう。とりあえずそこには使われていない言葉がある。何もかもが意味不明というわけではないらしい。だが説明を糾弾する理由が見あたらない。君はそこで何を説明しているのか。そしてそれの何を批判すればいいのか。そんな現状に逆らっていたいらしい。相変わらず述べている内容がよくわからない。この地球も人がいなくなれば楽しくなるかも知れない。ネズミとゴキブリの天国になるだろうか。知性はどこにあるのだろう。楽な気分で適当に生きている人がうらやましいか。殴り合いからリラックスが生まれるだろうか。君はボクシング・ハイ状態を信用できるか。いつから何を考えているのだろう。そんな造語がどこから出てくるのか。フィクションの中では誰かに脅されていることになっている。何をひらめいたのか思い出せない。わけのわからないことを述べていると楽しいか。翌日の曇り空はやがて雨空に推移するそうだ。何が不適切な表現なのか。つまらないことが明らかになる。忘れていたことを適当に思いだし、それがつまらないことだと悟る。この世に力強いいいわけというものがあるだろうか。何をそんなに力説しているのか。誰かがどこかでごり押しの最中だ。自らの思いを他人に押しつけたいらしい。誰もがそんなことを思っているのだろうか。是が非でも他人の心を支配したいらしく、そんな願望を抱いている者は愚かだろうか。他にも愚かな者はいくらでもいるだろう。少しでも心を許せばすぐにつけ込まれるわけか。何か高い商品でも買わされるのだろうか。だから勘違いしている場合ではない。まだわけのわからない物語を語っている最中のような気がしてくる。過去においてそんなことがあっただろうか。はたしてそれで何がもたらされるのか。それらの言葉の連なりに何らかの変化を感じ取れるかも知れない。吹っ切れているような気がする。もはやその程度でかまわないと思い始めているようだ。そのとき何かをあきらめている。何も見いだせないわけだ。次にくる波を待たなければ何も到来しないだろう。だが言葉は相変わらず連なっているではないか。君は君のセンスを疑っているようだ。開き直るにはまだ早い。そうならずにそこへしがみ続けるのもみっともないか。神に救いを求めるほどばつの悪い状況はない。それをやらずにすませてきた結果が今ある現状を構成しているはずだ。そんな現状は救いがたいか。誰が救われたいと思っているのか。君は救われることの意味を理解していないのかも知れない。仮に救われたとしてもまた次なる苦難が待ちかまえていることだろう。苦難を経験しなければ救いの時もやってこない。苦難と救いとは表裏一体の関係にある。だから救いをもたらすのが神だとすれば、苦難をもたらすのも神になるわけだ。そのすべてが神の仕業だとすれば、神は人をただ弄んでいるだけということになるだろうか。しかしそんな簡単なことを述べるのは気が引けるだろう。ならば言説に何か適当な装飾を施さなければならないだろうか。それはリハビリ過程にある文章かも知れないが、必死さが足りないようだ。本気でそんなことを述べているわけではないということか。まだ善と悪の二項対立的な物語を信じているのだろうか。何が善で何が悪かを判断するのは誰のつとめなのか。この世界にやってはいけないことなどあるのか。誰もがそれを知りたいところか。誰もそれを知り得る立場にはない。多くの人はそれを知るのではなく、信じ込もうとしているだけだ。そんなことはやってはいけないと信じ込もうとしている。本当は簡単にできることかも知れないのに、いったい何に邪魔されているのか。その邪魔をしている当のものを君は知っているはずだ。知っているのにそれを言葉で明らかにするのをためらっている。簡単なことは述べたくないのだろうか。あるいはそれが簡単なことだと信じ込もうとしているだけか。ただ何かを述べるのが面倒くさいらしい。それでは今まで述べてきたこれは何なのだろう。何となく白々しいことを述べているようで、たぶん虚無とは無関係だ。5月21日たぶんそれも冗談の一種に違いない。だいぶ投げやりなことを述べているようで、やる気がないのはもちろんのこと、それを理由にしてやめるわけにはいかないことが、さらに君を追いつめる。だいぶ本心に近づいてきたようだ。少しは自らをさらけ出す覚悟でもできたのだろうか。その一方でわからないことが多すぎて、真昼に汗だくになる。生身の肉体を所有しているつもりの誰かは、今日もそこであくせく働いているようだが、それが肉体労働の範疇に入るとは思わない。何を労働と見なせばいいのかわからなくなる。働かなければならない理由を見いだせずに、自分の殻の中に閉じこもり、そして今頃になって過去の過ちに気づく。なぜそのとき働かなかったのか。それに関して何を根に持っているわけでもないが、誰かが根に持っているのは、そんなくだらないことではないはずだ。浅はかな恨み辛みでは心が動かない。誰かはもっと無責任な立場になりたいようだ。相変わらずの曇り空の下で、誰かはあくせく働いている気がしている。本当にそうなのだろうか。何が本当なのかわからないが、とりあえず全人類のほとんどは働かなければならない状況にあるらしく、行政機構によって労働が奨励されている状況にあるらしい。なぜニートではだめなのだろう。どうしてモラトリアムが許されないのか。労働から解き放たれてこそ人は自由になれる。自由になれば何もしなくてもいいのだろうか。ただ呼吸しているだけで衣食住が満たされるはずがない。はたしてそれで救われているのだろうか。神はどこで何をやっているのか。他人を見下すようなまなざしには嫌悪感を抱く。荒ぶる神は理性を受けつけない性格のようだ。心には感情とは違う何かが宿っている。しかしそれは興味の対象とはなりがたく、その存在に対する疑問がどこからともなく生じてくる。君は理性の必要性を感じないらしいが、感情がないのかも知れない。感情がなければそれを理性で抑え込む必要もない。たぶん君には人の心が宿っていないのだろう。そんな決めつけでは物足りないか。簡単に説明できてしまうようなことはつまらないか。それは根拠のない偏見なのだろうが、何やら複雑なことを語って悦に入りたいようだ。それは実現可能だろうか。今語っているそれがそうなのだろうか。それは何かの暗号かも知れない。文章の中に解読不能な暗号が潜んでいる。ただ実態としては、以前に述べたことが延々と繰り返されているだけだが、それについてわからないことをわかった風には語れない。神はどうしてもそこにとどまりたいようだ。そこは地の底だ。地獄と呼ばれる仮想空間か。そこにとどまっても何がもたらされるわけでもなく、何の報いを受けるわけでもない。ただ淡々と無駄で無意味なことを語り続けるだけか。誰かはそうなることを願っているようだ。目指しているのはどのような高みなのか。高みではなく地の底であり、そこまで登っていくつもりはなく、降りて行く気も起こらない。ただどん底から頂上を見上げているばかりのようだが、それでどんな感慨がもたらされるのだろう。何ももたらされはしない。何もないことの他に何を望んでいるわけでもない。何もなければそれでかまわないだろうが、それでかまわないのに、さらに言葉を連ねようとしているのはどういうことなのか。本当はそれでは気が済まないのではないか。ではなぜ嘘をついているのだろう。君にそれが嘘でないことを証明できるだろうか。本気でそういう展開に持ち込もうとしているはずがない。現状では無駄に言葉を連ねているにすぎないことが気に入らないらしく、ついでにそれでかまわないと嘘をついている誰かの姿勢も気に入らない。だから必死になって何か他のことを語ろうとしているのだろうが、それが悪あがきなのであり、まったく様になっていない。そんなわけで今日も馬鹿らしいことを思い続けているようだが、それでもいつか救われることを願っているわけか。何もないのに宗教はないだろう。宗教でなくても救われる方法はあるのだろうか。そんな話をしたいわけではない。そのとき神に救いを求めていたのは誰なのか。君は誰のことを述べているつもりなのだろう。踵に痛みが走る。少し歩きすぎたようだ。歩くことが不健康だなんて誰が思うだろう。足があれば歩きざるを得ないが、なければ不便きわまりない。ではそんな語りを何につなげようとしているのか。そこから何を幻想できるだろう。5月20日獣も何らかの思考を持ち合わせているらしい。藪の中でうずくまっていて、身動きがとれないようだ。そしてなぜか自分の右足がすり減っている。夢の中でもそんな経験はない。そんな嘘を誰かが信じたつもりになるらしい。まだ説明の途中だろう。堪え性がないようだ。先を急ぎすぎている。わだかまりはまだしばらく解けそうもない。ただわからない。なぜそんなことをしなければならないのか。それを知りたいわけではない。今日も大地の上で人がうごめいている。何をしているのかを知りたいとは思わない。それでも虫けらとは違うと思っているのだろう。虫けらが何を思うのだろう。君は何を思いたいのか。矛盾していることはわかっているが、それを切り捨てるわけにはいかないようだ。いつまでも無駄なことをやり続けている。それは思いにはつながらず、誰が何を思っているわけでもない。無駄なことはいくらでも語れるが、それが無駄でないはずがない。もう少し要点を絞って効率的に語れないものか。いったい効率性とは何なのか。誰もが限られた範囲内で生きながらえたいと思っている。浅はかな人も健康に注意しながら生きながらえたいのだろう。何とか生き残りたい。そのついでにまっとうな神経の持ち主が死んでしまったらどうするのか。意味がわからない。とりあえずそこを離れたくないのだろう。大地にへばりついて自らの生をまっとうしたいらしい。そう述べて何を皮肉っているわけでもない。しかし印象的にはどうなのだろうか。攻撃的な口調は未だに健在か。現状を何とかしなければならない。自らの力で何とかできるとは思わないが、時にはやらなければならないことを悟ったつもりになる。何もできないことはわかっている。何もやらないことと引き替えにして、言葉は君を裏切らない。そうであってほしいようだ。だがタイミングを外している。述べている内容が状況に合っていないのだ。わざと機会を逸しているつもりのようだ。また以前と同じような言葉が連なっている。心を蝕んでいる幻想を振り払うことができず、遠ざかる機会を必死にたぐり寄せようとしているらしいが、もはや手遅れだ。時計の針を元に戻せても、過ぎ去った時間が戻ることはない。数年前と比べても、遙か遠くまで歩んできと思っているのに、まだそんなことを述べている現状が腹立たしいか。どうやらこのゲームはリセットが利かないらしい。迷えば迷うほどさらに迷い続ける。どこまでもそんな案配なのだろう。何が案配なのか。失敗の連続から新たな失敗が生まれる。そんな失敗で満足できるだろうか。満足できるはずもないが、そこであきらめなければならなくなる。歩みを止めて何もかもやめてしまえるだろうか。冗談でそんなことを述べているらしい。謎は謎のままでかまわないのであり、いつか解かれることを期待してはいけないようだ。それでもまだ余計なことを述べていたいらしい。君はとっくの昔にその歩みを止めている。何の進歩も感じられないようなことを延々と述べ続けているのではないか。そう述べながらも何を誇張しているのだろうか。まだ何も述べていないと思いたいわけか。そう述べる理由がわからない。君には君自身を君の意識につなぎ止める理由が見あたらない。要するにわけのわからないことを述べていたいだけか。絶えずそれとは違う言葉を繰り出そうと画策しているようだ。そんなフィクションでもおもしろく思われる時期があったのかも知れない。今はどうなのだろう。もう飽きたか。何に飽きているのか意図的に語ろうとしないらしい。それは誰の言葉でもありはしない。意識は君が述べていることをすべて否定したいようだ。そんなことを述べたいわけではない。君はいつまでもどこまでも孤独に語り続けるつもりなのか。それらの言葉は何を表現しているのか。誰もが君の死を願って止まない。被害妄想はいつまでも君をつかんで離さない。そのとき独裁者は何を支配したと思いこんでいたのか。歴史は何も語らない。誰が復讐を遂げたわけではない。もはや血塗られた大地は人を必要としない。君は自らが何を語っているのかわかっているのか。亡霊の話など信用できない。ではこの際亡霊を退けるべきなのか。誰が亡霊なのだろう。君は誰のことを述べているのだろうか。策略など何もありはしない。疑う者は皆粛正されたらしい。君は楽しいことを語っているつもりのようだ。ただわけがわからない。亡霊は何を述べているのだろうか。5月19日気がつけば再び翌日になっていて、今朝は屋根を叩く雨音で目を覚ます。過ぎ去ったのはただの数日でしかない。だが述べていることは昨日と変わらず、文章は型にはまった手法を未だに継承しているようだ。何がどうなっているかを知りたいらしいが、すでに気づいている。それは欠陥を構成していて、その欠陥を利用して何かしら述べようとしている。雲間から日差しを感じる。中身は何もない。誰が何を述べているわけでもない。たぶんそこから遠ざかるわけにはいかないのだろう。遠ざかれないから遠ざかろうとしている。いったん遠ざかってしまったら遠ざかる必要はない。そこから君を導き出す。言葉で構成しているつもりなのだろう。ニュース番組的な事件の伝え方が殺人願望を刺激する。そんな嘘は通用しないだろう。根拠は何もない。安易な心はフィクションを現実に近づけたい。遠ざかろうとしているのにその逆をもたらしたい。生きようとしている者は死に、死のうとしている者はいつまでも生き残る。それはあり得ない状況に違いない。まだ語りが足りないのだろうか。だが知りたいのはそんなことではない。疑問が多すぎるのだろう。今後それをひとつひとつ明らかにしていかなければならない。冗談ばかりで逃げていては何もわからない。何をわかろうとしているのかもわからない。だから言葉が続かなくなる。気がつけば意味のないことを述べ続けている。思考が働かず、意味を求められない。わかろうとしていないのだろう。それをわかるつもりはない。しかし何を拒絶しているのだろうか。伝えることは何もない。それでも何かを語りかける。正気でないのは君ではない。勘違いにもほどがある。風が吹き雨が降り、蒸し暑い空気を運び去る。すべては忘却の彼方へ退いて行く。そこから何を見いだせるだろう。何を考察してるわけではない。考えている内容は他にありそうだ。妄想はすでにどこかに流れ着いている。感覚の漂流は終わりに近づいている。たどり着いた地で芽を出し根を張って成長していく。それは植物の一種かも知れない。周囲の植物と生存競争を繰り広げている。そこで特徴を捉えて姿を描き出さなければならない。言葉がテレビ画面からの影響を受けている。それではつまらない。感性の独自性が滅却されてしまう。すべては意味のない話のようだ。視野がさらに狭まり、思考が単調になる。それは同じことの繰り返しだ。よくないことはわかっている。早く次の話題に到達しなければ文章が立ち枯れ状態となってしまいそうだ。そう述べる意味がわからない。話題となるのは君とは無関係な殺人事件のたぐいだ。無神経な心は他人の死に興味を抱いている。君はそこで年老いるしかないようだ。歳月の重みで押しつぶされそうだ。もはや痛みを感じられない。思い出すのは楽しいことばかりで、話すほどに無神経さに拍車がかかる。言葉を無視して文章を嫌っている。ついでに色彩感覚が狂ったような風景を妄想している。ゴッホは何かを愛でていたはずだ。ひまわりの黄色は狂気の色だ。そして目の前の赤信号を無視できなくなる。そのまま突っ込んでいったら死んでいるところだ。煩わしさに嫌気が差す。面倒なので一休みすることにしたらしい。誰かはそのとき車を運転していた。有名人の逸話など聞きたくはない。人はそれでも仕事を続けている。誰のことを語っているわけでもない。どこまで行っても単調な風景に気が狂ってくる。そんなはずはないだろう。今は部屋の中で文章を記し続けている。もう嘘をつくのはやめた方がいいのではないか。まださりげないことを述べていない。なぜそれを述べる必要があるのかわからないが、とりあえず話の方向を変えてみたい。ブラインドの隙間から夜の闇が見える。蛍光灯に照らされているだけの現状だ。まだ語らなければならないのだろうか。無駄に言葉を連ねて悦に入る。喜悦の表情を見たことがあるだろうか。要するにそこへ踏みとどまることができないのだ。意味のない怠惰に疲れ、首が斜めに傾き、床が目の前に迫りくる時、どうやって持ちこたえることができようか。わからないならわかった風を装わないでほしい。何をわかろうとしているのでもなく、何がわかりたいのでもない。ただ無表情のまま画面を眺め続けているつもりなのだ。耳を澄ませば遠くから音楽が聞こえてくる。それは画面の中からではない。君は黄泉の世界の話をしているのか。わかっているのはそんなことではない。5月18日なぜか粘っている。一日遅れで適当にありもしないことを語り続けているようだ。だがすでに昨日は過ぎ去り、今日もまた過ぎ去ろうとしている。この調子では明日などやってくるわけがない。意味のない義務感に駆られているとすれば、それが真実であることを証明して見せなければならない。相変わらず地表では何かがうごめいている。雨が降り、言葉が循環している。人々は自らを取り巻く虚無を退けたいようだ。だがいくら振り払っても無駄だろう。いつも見ている画面上に虚無がへばりついている。そしてそれでは意味を伴った文章になっていないだろう。虚無の代わりに内容をもたらしたい。それが本心だとしたら驚くべきことだ。それほど驚くことはない。少しわざとらしい動作を伴っている。もはや疑念を抱くことには疲れてしまった。たまには違った内容を獲得したいらしい。そんな風に述べながらも、誰かは誰かの出現を避け続けている。そこで起こった出来事の内容を知りたい。何かが妙に気にかかるようだ。そして妙な気分になる。いつの間にか歩みが止まっている。今さら何かに気づいたらしい。まだしばらく雨が降り続くらしい。明日もまた雨が降るのだろう。ふと立ち止まって翌朝の雨空を想像する。どこかにカビが生えてるのかも知れない。君には何かが見えているようだ。目に映る光景には人影がない。印象だけでは何も語れまい。また無理矢理語ろうとしているらしい。何か予感がしている。当てにならない予感を気にしている。確実な兆しを把握したい。何かが変化する兆候を感じ取ったつもりになりたいらしい。そうでないと機が熟したのが嘘になりかねない。いつになっても意味不明なままではつまらない。だが事件はいつまでも起こり続ける。起こそうとする者がいる限り、試みが途絶えることはない。それはおかしいと思っているらしい。知らないうちにそこに意味がもたらされている。今はそれを知りたいようだ。だがしばらくしたらそれも嘘になってしまうだろう。面倒くさいので語っていることのすべてが嘘でもかまわない。誰かと誰かが会話している。それを盗み聞きしているわけではない。それらはすべて架空の登場人物を連想させる。言葉と言葉の間に言葉が抜けているようだ。それで間に合わせの言葉を差し入れようとしている。人は人を殺す生き物なのだろう。時と場合によってはそんなこともあり得るのだろう。だから今日もどこかで右往左往している。人を殺さずに済んでいることを誰かに感謝しなければならなくなる。君の身代わりに今日もどこかで殺人犯が誕生するわけだ。たぶん明日もそうなるのだろう。どちらにしろ君には関係のないことだ。文章がかなりおかしくなっている。わざとそうしているのかも知れない。あるいはそのようにしか語れないのかも知れない。それで何となく楽しくなってくる。開き直っているわけだ。下手な解説が煩わしい。ついでに呼吸が止まりそうだ。関係のないことを述べているが、それも君には関係のないことだろう。たぶん曇り空の上では星が瞬いているのだろう。そこまで視点を上昇させてみよう。気まぐれに述べているのはできもしないことだ。空想上の視点はどこまでも上昇する。君はそう述べることによって暗号化される。そして嘘はどこまでも嘘に違いないが、それでも文章として機能している。それは虚無としての機能だ。心はそこであきれ果てて、それとは違う内容を模索し続け、さらに無駄なことを述べる。不意にきてれつという言葉を思い出す。その場の雰囲気にマッチしているようだ。逃れられないのに逃れようとする仕草が痛ましい。しかしゴキブリを踏みにじる気にはならない。後始末が大変だからだ。世にも奇妙な話にはなりそうもない。ただ間違っている。どこまでも間違い続けている。だから楽しくなってしまうらしい。それで気分は最高になれる。同時にそれは嘘のたぐいになるだろう。愚かさの極みに意識が登りつめようとしている。愚かさはエベレストよりもさらに高い。その調子なら夜の静けさに到達できるかも知れない。君には屋根を叩く雨音は聞こえない。聞こえないふりをしているのだろう。あえてその状況を肯定してみよう。そこから遠ざかるにはそれを肯定しなければならない。他人はそれとは違う意見を持っている。理由がなければ肯定できない。ではもっともらしい理由を導き出してみよう。今ならそれが可能に思われる。そんな印象を持っている。5月17日何か伝えたいことがあるのなら、普通に語りかければいい。誰もあからさまな対決などを求めたりはしない。センセーショナリズムの追求であってはならない。常時おもしろさを追い求めるのもおかしい。君は何について語っているのだろうか。それは誰かの想像にまかせるとして、何となくそれとは違うことを述べてみたくなる。あまり多くの望まないのは当然だとしても、何を望んでいるかもわからないのも考え物か。いったいそれらの状況がどうなってほしいのだろう。そこから何を導き出せるのか。世の中の多数派に媚びるのはよくない。多数派に中身など何もない。それに対峙しているつもりの少数派気取りの連中にも同様に中身がない。しかし中身とは何なのか。何がそれらの中身を構成しているのか。それはすべて否定すべきことなのだろうか。何を否定したらいいのだろう。何も否定すべきではない。そんなことはできっこないと思う。すぐさま言葉が肯定を否定に変えてしまう。ひずみがどこかにあるのではなく、ひずんでいてもかまわないと思う。何もかもがひずんでいる。君自身の身体もひずんでいる。ひずんでいれば楽しいだろう。だが他に何も述べられない。ひずんでいるのは身体ではなく、足下の床の形状なのではないか。物体は己自身の重力によって空間にひずみを形成する。そういう話をしたかったのではないか。しかしそれが何と関係があるのだろうか。そんなことはもう忘れてしまったか。すでに夜が明けている。鳥のさえずりを聞きながら何も思わない日々が戻ってくる。昨晩は何を考えていたのか。いつもながらの紋切り型のやりとりがないと誰かは満足しないらしい。しかし誰の気を引くために何を述べているのでもない。そんなのは通用しないと思われる。何をどこで通用させたいのか。何も導き出せないことにいらだち、それがつまらない感情であることを忘れて、我を見失い、他者の存在を意識できなくなる。それはどのような現象をもたらすのか。そこで何を体験しているのだろう。たぶんさらに眠っていたいのかも知れない。眠りながら夢でも見ていたいのか。夢の中で何を思うだろう。君は何も見いだせないだろう。何となくそんな思いに囚われる。何に反感を抱いているのか。さらにつまらないことを説明しなければならないのが腹立たしいか。いったい何を説明しなければならないのか。いくら考えても何も捉えられない。内容に具体性を感じ取れない。世の中から逃げているのだろうか。世間に対する関心を削ぎ落としている。それは不自然な意志を構成している。問題の核心について語りたくないのかも知れず、何が核心なのか考察するのが面倒くさいのだろうか。そこまで考えが至らないのだろう。自らが何を考えているのか把握できていない。まるで意識が君自身の外にあるかのように感じられる。意識は周りの風景に溶け込んでいるのかも知れない。そんな表現は意味不明だろう。しかしそんな風に述べていると楽しくなってくる。根が幼稚なのだろうか。馬鹿げたことならいくらでも述べられるか。たぶん常に奇をてらっているのだろう。そうせざるを得ない心理状態にある。そうしなければつまらなくなるだろうか。ゆがんだ心はどこかがちぎれて分裂を繰り返し、そのひとつひとつがさらにひねくれまくる。不自然な曲がりを目にしているらしい。何が曲がっているのだろうか。世界が曲がり、人生も曲がり、ついでに腰も曲がり、誰かが年老いて死を迎えるわけか。君と誰かがねじれの位置にあることをいぶかしく思う。文と文がつながっていないようだが、そんな曲は聴いたことがない。誰かの曲がいくら曲がっていようと、それは当たり前のことか。曲と曲の曲がりにはどのような関係があるのだろうか。ただ楽譜にでたらめな音符が記されているだけか。どうやらそれらの苦しみには際限がないようだ。曲の中で誰かが苦しんでいるようだが、曲がりくねった長い道を歩んでいるつもりなのだろうか。そんな曲を聴いた覚えがある。今から何を思い出そうとしているのか。怠惰と無関心の間から何が生じているのだろう。苦しみはできるだけ長引かせたいようだ。誰かが苦しんでいるを眺めながら、君はどんな感慨を抱いているのだろう。それはどんな文章となって示されるのか。すべては冗談だと思いたい。君には君の人生があり、誰かはそんな人生には無関心だ。ただ闇雲に言葉を繰り出して無駄なことを述べ続けているだけか。5月16日なぜか誰かが君を待っている。中には君の出現を待ち望む人もいるらしいが、君は自らの出現を否定したいのか。何を蒸し返そうとしても、そこには何もありはしない。機会がないということだ。なぜそんなことをやっているのだろう。それはただの思い過ごしかも知れないが、機会を得られぬままに無内容を産出し続けている。巡り会うのはいつもの空虚でしかない。本当にそれは空虚なのか。そういうわけではないような気がするが、相変わらず意味の定かでないことを述べようとしている。またそうではないと思いたいのか。疲れているのでもはや軌道修正は期待できない。なぜ何もやらないうちから精神的に疲れてしまうのか。感覚がずれているほかに何をずらせば正常な神経を獲得できるのか。できるはずのないことをやろうとしているわけではないが、何もできないわけでもないはずだ。否定が連続しているそうだが、それは文法的な誤りなのだろうか。君は模倣から逸脱している。あらゆる語りから独立しようとしている。はたしてそんなことができるだろうか。だがそれでマンネリを回避できるはずがない。何を回避しようとも思わない。否定の否定は肯定になるだろうか。では何を肯定すればいいのだろう。何も肯定できないわけではないが、それも否定の連続になるらしい。そう述べてはいけないようだ。何を述べてはいけないのか。つまらない引き延ばしはやめた方がいいだろう。やめられないから今がある。意識が言葉の断片に埋もれている。そこから脱出する術を知らないらしい。どこから抜け出そうともがいているのか。そんな嘘は白々しいか。今さら逃げようとしてももう遅いか。いったい何が遅すぎるのだろう。言葉は何も捉えない。心は何を捉えようとしているのでもない。それが意識であるはずがない。この世界は君に何もできはしない。君という存在を捉え切れていない。君はこの世界の所有物ではないのか。神に何ができるというのか。神がこの世界に君臨していたのは遙か昔のことだ。神をまともに信じている人は少ない。ただ己の利益に結びつけるために祈っている。何を祈っているかといえば自らを利することばかりだ。それでは神も浮かばれないだろうか。浮かばれようとは思わないか。君は虚無の深淵の中でどこまでも沈み続ける。それは底を知らぬ深みになっているらしい。いくらもがいても無駄な労力にしかならないだろう。そこから遠ざかることは叶わない。無理を承知でそんなことを述べているのだから、それは仕方のないことかも知れず、それ以外には何も述べられないようだ。何か他に興味を引く題材はないのか。それがあればそれを記そうとするのではないか。それとも何を記しているのでもないと嘘をつけば気が済むことか。理由など何もなく、理由がなければ何もできないわけではない。しかし言葉を記す理由がどこにあるのだろう。だが何も述べられないわけではない。それを何とかしたいようだ。何もない状況を改善したいらしい。誰がそうしたいのかはっきりしないが、とにかく何らかの内容を導き出したいようだ。無理を承知でどこかの誰かがそう思っていることにしておきたいのか。それこそ無理の最たるものではないのか。ではそれらの無理を解消するにはどうしたらいいのだろう。それがどうしようもない状況だとは思わないことだ。何もないのは楽しいことだ。そして楽しいことは苦しいことだ。苦しさが楽しさを浸食している。楽しいと思いながら、そう思うことが次第に苦しくなる。そして楽しいと思うことが無理になる。それでは楽しくないだろう。楽しくないから苦しくなる。そういうごまかしは通用しないか。その苦しみをごまかしようがない。ごまかしようがないからさらに苦しくなる。そんな煩悶を切り抜ければ、いつかもっとマシなことを述べられるようになるだろうか。そんな嘘は聞いたことがないか。それの何が嘘なのだろう。何が苦しみを構成しているのか。言葉などいくらでも連ねられるはずだ。その気になればそうなのかも知れない。君は何を変えようとしているのか。そして何をあきらめているのだろう。言葉で自らを装飾しているつもりなのか。栄光も何もないのに、飾り立てても仕方がないだろう。君は詩人ではない。詩歌によって何を伝えたいのか。何を讃えなければならないのか。自然が美しいとは思わないし、着飾った人が美しいわけではない。心は自らの貧しさを表現することしかできない。5月15日文章がおかしい。それはいつものことかも知れないが、どういうわけかそこで歩みが止まっている。それ以上の継続は無理なのだろうか。たぶんそれは違うのだろう。何が違うのか。それとは何だろう。違うと判断できる対象を見いだせないが、たぶん何かが違っているはずだ。歩みを止めるには何か理由がありそうだが、別にはっきりした理由がなくてもかまわない。要するにどうでもいいことか。何をあやふやなことを述べているのか。それにしてもわけがわからない。いつもように何がわからないのかわからないが、わからないでは埒があかないだろう。意味不明を避けたければ、少しはわかったようなことを述べてみたらどうか。何について述べたらいいのか、自分では何も決められないようだ。決めようとしていないのかも知れない。そしてすでに語っているそれは無内容に終始している。これからもいつまでもそんなことを述べ続けるのか。そこで言葉が終わっている。言葉が終わり文章も途切れる。だから楽しくなってくる。なぜか楽しいと感じている。嘘でもかまわないから楽しくなりたい。ただ意味もなくそう思いたいだけのようだ。そこが君の限界に違いない。だが限界はとっくの昔に通り過ぎている。単に通り過ぎただけで、それで限界を克服したわけではない。越えられないから避けて通る。限界から目を背けているだけか。しかしそれの何が限界なのか。それについて何をどう感じているのか。なぜそれが違っていると思うのか。別に難しいことを述べようとしているわけではない。ただ何かがずれているような感覚を抱いている。それだけではないと思いたいのだが、それだけなのかも知れない。そんな曖昧さに嫌気が差している。心の内側に湿気がこもっているようだ。どこかに風穴でもあけなければ耐えられないか。そういう話でもないような気もする。なぜそう述べてしまうのか。間違っているのは確かなことのようだ。やはり間違っていると思う。何が間違っているのか。文章を長引かせることが間違っているのだろう。何となく馬鹿げていると思う。他には何もありはしない。ただそれだけなのだ。それだけのことに煩わしさを感じている。大したことではないだろう。大したことでないから何も感じなくなってしまう。何も感じないから何もできなくなる。そんな理由では理由になっていないだろう。では他にどうすればいいのだろう。ただ闇雲に金を使えばいいのか。なぜ唐突に金の話になってしまうのかわかりかねるが、金を使って何かを買えば気が済むことだろうか。しかしそこには抑揚がない。抑揚とは何なのか。強弱を知らぬようで、気持ちにメリハリがなく、いつも平板な印象を受ける。出来事から見放されていて、驚きを知らぬようだ。しかし驚きとは何だろう。何かが上がったり下がったりすることらしい。そんな言葉を用いて何にかけているのか。どうなることを期待しているのだろう。誰にも出会わずに死を迎えることができるだろうか。そんな妄想をいつ抱いたのか。誰かに出会っているのに、それを無視して先を突き進んでいるようだ。他人の存在を気にしていない。唯我独尊とはそうではないが、そんな言葉を尊重する気にはなれない。誰かがそこから遠ざかろうとする気配を感じ取れない。偶然に頼りながら、そこから離れたいようだが、未だに虚無の深淵をのぞき込んでいる。それの何が興味深く感じられるのか。まだそこまで達していないはずだ。効率的になってはいけないようで、絶えず無駄な努力を続けていなければならない。無駄が人を人として成り立たせている。その一方で無駄なことをやり続けているから、効率的な動作にあこがれてしまうのだろう。しかしあこがれているからといって、それを本気で目指してしまったらおかしくなるだろう。効率ばかりを突き詰めたければロボットにでもなればいい。そうなれば人に心などいらなくなる。いらないものを持っているからこそ、人が人でいられるのかも知れない。しかしそれはどのような自己正当化なのだろう。それによって心の存在を正当化しているつもりなのか。そんなことはわかりたくもないし、知るつもりもない。ただそうやって感情を制御しようとしているだけか。それは誰の感情なのか。本当に君はそれを知ろうとしているのだろうか。知り得ないことを知ろうとは思わない。知り得ないわけでもないだろう。知ろうとしないから知り得ないように感じられるにすぎない。5月14日それは偏見に違いない。頭蓋骨の内側で脳が右側に寄っている。何がそれの方便として機能するだろうか。それをどう生かせばまともな認識に至るのか。正気でないのは毎度のことか。そこに何があると思っているのか。不自然な感触を捨て切れていない。それらの文章はすべて奇をてらっていると思いたい。しかし結論とは何だろう。何が結論として作用しているのか。君はそれらの歴史から何を学んだつもりなのか。栄枯盛衰は時の運か。そんな当たり前の言葉ではつまらない。さらに言葉が分散している。もう何を述べているのかさっぱりわからなくなる。なぜそうなってしまうのか。何がどうなっているわけでもなく、また翌朝に目が覚めているだけのようだ。少しは文章を読んでいるのだろうか。何かの文章が繰り返し記されているようだ。それで誰かに圧力を加えているつもりなのか。過ぎ去った出来事は忘れ去られるだけか。どんな文章にしろ、それを以前と同じ言葉で構成してもつまらないだけだ。しかしそれをいくら批判しても仕方がない。そんな批判は無視されるだけで、また性懲りもなく同じ文章が出現してしまうのだろう。おそらくそこで対話が成立することはない。驚きのない日常生活から感受性が削ぎ落とされている。言葉がそれに呼応しないようだ。それでも何が調べられ、そこから何かが想像されているようだが、実際に何が見えているわけでもない。結局君には何もわからないだろう。ただ遠回りしているだけだ。直接そこへ出向くわけにはいかないのだろうか。君には何が見えているのか。何を見ようとしているのか。そこで何が矛盾しているのだろう。ただくだらないことを述べているだけだ。そしていつの間にか文章の全体を把握できなくなる。もう何を述べているのかわからなくなる。弱音を吐いてどうするのか。たぶんそれは何かの冗談なのだろう。今度は意味もなく強がってどうするのだろうか。そんなことはどうでもいいことなのかも知れない。ただ何となくよくわからなくなっているのは毎度のことで、それについてどう述べていいかわからない。そこから何を導き出せるのか。久しぶりに空虚という言葉と遭遇しているのかも知れない。空虚そのものではなく、ただそんな言葉を思いついている。本当にそれが空虚かどうかはどうでもいいことか。君はそこから逃げているのだろう。逃げているのに遠ざかれない。空虚と同居しながらもそれを否認している。必死になってそこから目を背けている。見えているものを認められないのか。目に映った何かの残像を振り払い、まっさらな気持ちでゼロからやり直したいのか。しかしそれで何をやり直せるのか。現状としてはただ意味もなく言葉を弄して、何を述べているのでもない文章を構成することしかできていない。それは嘘偽りのない現状認識なのだろうか。嘘に決まっているだろう。そんな決めつけを楽しげに言い放っているのはどこの誰なのだろう。いったいそれらのフィクションの中には誰が息づいているのだろう。それはただの冗談にすぎないのか。冗談でなければ何なのか。何がもたらされているわけでもなく、それでも必死になって何かをもたらそうとして、誰かがどこかでもがき苦しんでいる。しかしそれも嘘だと思いたい。そんな嘘では踊れない。嘘で踊って何をどうするつもりなのか。ただ踊らされて一生を終えたいだけか。実際には何に踊らされているのでもないだろう。それは何か虚栄心のようなものなのかも知れず、君はそこから先に進みたいのに、そうさせてもらえないのは、そこで満足してしまうようなおごりがあるのかも知れない。そこまでやってしまったのだからもういいのではないか。その程度の語りで満足していれば、それをいくらでも続けていられるだろう。そんな風に語っていれば、そこからいくらでも時間が経過して、限界を見ないようにして語り続ければ、いつか一生が終わるだろう。そのとき君は楽しい人生だったと思うかも知れない。それらの語りに捧げられた人生というわけだ。冗談ではないだろうか。それはくだらぬ妄想にすぎないか。何とか自己満足に至りたいばかりに、無理矢理文章を構成しているにすぎないことは、わかりすぎるくらいわかっているはずか。だがそんな自己卑下もつまらないと思う。要するにいつまでもそうではないと思いたいだけなのかも知れず、何を語ってもそれは違うという思いに支配されているようだが、はたしてそれでいいのだろうか。5月13日この世界はゴキブリと鼠の巣と化している。そこでどんな認識に至ろうと、それほど狂気に囚われているわけではない。ただ真昼の風は強すぎる。風は窓の外で吹いている。そんなはずはないだろう。そう思いたいだけで、意識は野外に滲み出ているのか。屋外で何を空想しているのか。何を空想しようと、それは以前から生じている意味不明にすぎない。要するに語ろうとする何もかもが予定調和の範囲内なのか。だが翌日に獲得する知識を前日に推測するのはおかしい。まだそこに至っていないのではないか。それを今から説明するつもりなのか。何を説明しようと意に介さず、さらに正常な範囲を逸脱してしまうのだろう。そしてそれは過去に説明したことの繰り返しになってしまう。その時点で説明はすでに限界に達している。いくら言葉を弄してみても、ことごとく考えが足りず言葉が足らない。過去には何もかもが過剰だったはずか。そこにどのような郷愁が巣くっているのか。むやみやたらと過去を懐かしんでも無駄か。数日後の真夜中は遠くからやってきて、そこで闇が閉じようとしている。ついでにあやふやな時間も閉じてほしいか。何も思わないのなら思考も閉ざすべきか。閉じた思考は何を生み出すのか。知っているのはそんなことではない。そこはまだ迷路のただ中だ。では迷路を設けているつもりの意識はどこで生じているのか。きっと世界のどこかに意識を構成している文章が記されているのだろう。それは意識ではなく、その代わりに何かが息づいている。それは合理的な考えの範疇には入らない。すべてが無理のなせる業だ。意味もなく彷徨い続けているだけかも知れない。あてどなく彷徨っているのは黄砂に捲かれた小動物のたぐいか。そのように語る必然性を知らぬのもいつもの癖だろう。どこからともなくゴキブリがはい出て来て、その時誰かは未知の頭脳に遭遇している。鶏の夜鳴きとともに何に気づいているのだろう。奇妙な環境下に人が住み、妙な気分はいつまで続くのか。たぶんそれは排気ガスを嫌っているのだろう。いつの間にか冗談が途切れて、言葉をなくして文章の構築をやめたくなってくる。これ以上の機会がどこにあるのだろう。そこで君は何を取り逃がしているのか。眠らないのは夜行性だからか。冴えているような半ばやけくそのような、そんな気分を知っている。人にはそれがよく似合う。すべてがでたらめなのだろうか。正気でない人々はがらくたという言葉を好んで使うようだ。何を謙遜しているのだろう。いやがっているのはそこから羽ばたこうとしている蝙蝠か。虫はいつまでも虫であり続け、海中に暮らしているのは砂を吐き出す生物だ。でたらめの始まりには誰が立っているのだろう。それがでたらめでないと断言することの何が傲慢なのか。強引に言葉を自分のペースに引き込んでいる。そこで語りを打破している。取り立てて何をやることもなく、そこから何をやろうとしているのか。文字の厚みを測るつもりはない。文章を遠くから眺め続ける。さっきから何を述べているのだろう。過去はいつまで続くのか。それが過去でないとすると、未来はいつやってくるのだろう。いつまでも現在であり続けることは可能か。意識はさらにそこから遠ざかり、感性はどこまでも縮退している。ミクロの世界に微生物が住んでいる。まだ生きているらしい。すでに過ぎ去ってしまったらしく、時計の針は今を刻んでいる。過ぎ去った時を懐かしく想っているのは正常な意識が戻ってきた証かも知れない。そして述べていることがつまらなくなってくる。たぶん今日はそこまでなのだろう。そこを超えることは正気を見失うことだ。躓くはずのないタイミングで躓くことでしかない。風景に亀裂が走るのを君は見たことがあるのか。それを冗談で済ましてしまう神経を持っているだろうか。必要以上に大げさな表現を嫌っているのかも知れない。その時君は何を思うだろう。何かが大地から遠ざかっているのかも知れない。それは国家とか民族とか、二十世紀が産み落とした負の遺産だろう。政治家たちはどこかで思い違いをしている。未来はどこからやってくるのか。少なくともそれらの言葉を操っているうちは過去の時空にとどまれる。だがそれは君の言葉ではないらしい。やり残したことはすぐに忘れ去られ、何をやろうとしているのかもわからなくなり、早晩自らのやっていることを正当化できなくなるだろう。そんな言葉を誰が知っているのか。5月12日亡霊とは何だろう。なぜ亡霊は死んでいなければいけないのか。君が生きているとすれば、君は亡霊ではない。そんな当たり前のことを今さら述べる必然性はないだろう。ならばこの際嘘をついて、君はすでに死んでしまったことにして、成仏できぬその魂が、夜な夜な辺りをうろついていることにしておけばおもしろいか。しかしそれで何が徘徊していることになるのか。魂とは何だろう。その実体はどこに現れるのか。徘徊する空間がどこにあるのだろう。言葉や文章で空間を作り出せるわけがない。では何を述べているのだろうか。誰が何を述べているつもりなのか。君はそこから遠ざかれない。言葉につなぎ止められ、文章に支配されている。その状況で何をどう語ればいいのか。すでに語り始めているそれは何なのか。それについてどう述べればいいのだろう。たぶんそんなことを述べる必要はなく、それについて何を語る必然性もないのかも知れない。では他に何を述べればいいのか。そんな成り行きでいつも袋小路に追いつめられてしまう。それは誰の策略に引っかかっていることになるのか。言葉の海で溺死している。そこで死んでも死にきれず、今日も亡霊となって辺りをうろついているらしい。それは誰の魂でもなく、言葉の抜け殻であり、語り損ねた物語なのかも知れない。そして精神的には常に危ない橋を渡り続けているつもりなのか。まさか気が狂う一歩手前だとでも認識しているわけか。それも予定調和のわざとらしさに囚われた思い過ごしに違いない。そう述べること自体が意味不明なのではないか。何がそれもなのか。ただ何となくそう述べてみたいだけなのだろうか。君はそう述べながら何を戯れているのか。それは何でもない状況でしかない。まるで死の一歩手前のごとく深刻ぶりながらも、一方では性懲りもなく間の抜けたことを述べ続けている。君は馬鹿なのかも知れない。だが今さらそんなことに気づいても後の祭りか。すでに馬鹿げたことを平然と繰り返している現状があり、その馬鹿げた文章から遠ざかるきっかけを見失い、さらにそれを深化させようとして努力を怠らない。要するにもう手遅れということか。閉塞感で窒息しそうになっているのかも知れない。それでも続けようとしている。それが無駄な努力だということはわかっているつもりのようだ。わかっているのにやめられないのはどういうわけなのか。たぶん亡霊に取り憑かれているのかも知れない。冗談でそう思っている。今はそんな風にしか述べられない。たぶん未来の時空においてもそうなのだろう。何かに取り憑かれているとしか述べようがない状況に追い込まれているようだ。それでもそんな風に述べていれば少しは気晴らしになるだろうか。何かそれに対して反論でも用意しなければならないのだろうか。常にそうではないと思いたいのではなかったか。そんなことはもう忘れてしまったようだ。何かが立て続けに起こり、それらにかかりきりになっているうちに、心とやる気をどこかに置き忘れてきてしまったようだ。しかしそんないいわけは嘘に決まっている。まだその水準で停滞しているらしい。いい加減にそれとは違うことを述べてみたらどうか。述べられたらこれほどの苦労はしないだろう。簡単にはいかないからそこから遠ざかれずにいるわけか。外では翌日の雨が降っている。雨に打たれて風邪でも引いたのだろうか。だからといって君がすぐに死ぬはずもなく、何でもかんでも君の死に結びつけようという魂胆は病的に感じられる。そんなことを述べていること自体がおかしい。ではそこからどのような兆候を読み取れるだろうか。ただ誰について述べているのでもない文章を構成したいだけか。もういい加減に他のことを述べたい気も一方ではあるのかも知れないが、今はとりあえず述べ続けていることをさらに深化させなければ気が済まず、それの何が深化なのかさっぱりわからないかも知れないが、そう述べておけばそんな気がする程度で納得しておくべきだろうか。しかしそれでおもしろいか。だがおもしろくなければどうするというか。何となくそれでかまわないような気もしてきて、さらに無駄に言葉を弄して、その続きを語り続けるとしよう。たとえそれが嘘であってもかまわない。冗談にさえならないのかも知れない。どこまでもそんなことを述べ続けている。それはまるで何にたとえたら気の利いた文章になるだろうか。述べる気もないことを述べないでほしいか。5月11日なぜ自己主張しなければならないのか。自らがやっていることを正当化しなければならないか。そんな表現があり得るだろうか。何となくそこから降りたくなってくる。実際に何かが錯綜していて、それが原因で言葉の分散に拍車がかかり、離ればなれになってしまった言葉と言葉を、どうつなげたらいいのかわからなくなっている。それでも何となく周囲の状況がわかりかけているのかも知れない。かなり迷っているようだが、まだ心に余裕が感じられる。確かにそれらの言葉には魅力を感じないが、その場はそれ相応の雰囲気を漂わせている。君はそこで何を確保しているのだろうか。ひょっとして忌み嫌われているのかも知れない。誰かの亡霊がそうつぶやいている。そんなのは嘘に決まっているだろうが、なぜそう述べてしまうのかわからない。さらにさっきとは違うことを述べている。そうではないと思いたい。風に吹かれてどこへ飛ばされていくのだろう。何が宙を舞っているのか。見ている風景を空気が通り過ぎ、そのついでによくわからない言葉をつれてくる。君はその意味を知ろうとしている。それが存在するわけを知りたいわけではない。君にはすべてが関係のないことだ。亡霊の役割を知ろうともしない。君こそが亡霊そのものなのではないか。すでに死んでいる。だがそれは以前にも述べたことだろう。言葉は何を表現しているのか。言葉はただそこに記されているだけだ。そこから意味を読み取ろうとは思わない。関心を抱くこともないだろう。意識はすでにそこから離れている。さらに印象が薄くなる。しかし重要なのはそんなことではない。続けることが重要なのか。雲に覆われた空は低く空気が重い。蒸し暑さを感じた翌日は肌寒い。それが何を示しているとも思わない。何となく意味のつながらない文章が構成され続けているということか。もう終わりだろうか。それとも滅びの予感を感じなくなってしまったのだろうか。意識はどちらともとれるような気分でいるらしい。本当にそうなのだろうか。誰に同意を求めているのか。どんな主張に同意したいのか。君はすでに死んでいる。なぜそこで死んでいるのだろう。何かまだやり残したことでもあったのか。そうではなく、死ななければいけない理由がどこにあるのか。どこにあるのかを知りたいわけか。たぶんききたいのはそんなことではない。誰に何を尋ねたいのでもない。ただそうではないと思いたい。気に入らないことはいくらでもある。馬鹿げた意見に同情していてはいけない。そこでやりたいことなど何もない。しかしそれはどうでもいいことだ。やりたくなくてもやらなければならないことなどいくらでもある。そんなことばかりやっていると早死にしてしてしまう。そんな予感がしてくる。どこからともなく死の足音が聞こえてくるが、それがありきたりのフィクションであることも承知している。そしてすぐにそうではないと思いたくなり、自分はまだ当分生き続けると堅く信じ込んでいる風を装う。本当にそうなのだろうか。それで何を述べていることになるのか。何か危険でも感じ取っているのだろうか。だんだん寒気がしてくる。病は気から生じるらしい。何とかそれを打ち破らなければならない。迷信こそ信じてしまいたい。亡霊は頑なに自らの死を否定しにかかる。誰かが君の容態を気にかけている。あくびとともにそれを忘れ去れるだろうか。なぜ忘れる必要があるのだろう。早く自らの死を忘れたいか。そんなことを思っているのは誰なのか。それらの文章から誰の死が導き出されるのだろうか。それが導き出されるとして、文章が示しているフィクションとしての死を信じることができるだろうか。それを信じているのは誰なのか。またそれを知ろうともしなかったのは誰なのだろう。結局何を述べているのでもないらしい。ただそこから遠ざかりたいだけなのかも知れない。自らが溶け込んでいる風景が許せないのだろうか。そういう抽象的な物言いではなく、できるならもう少し具体的に述べられないものか。君はいつまでもそういう無駄な言葉で全身を覆い続けるつもりなのか。何かを述べることによってどのような事実を隠しているのだろう。本当にそこには何もないのだろうか。さらに適当なことを述べようとしている。それはいい加減な内容なのではなく、事実そのものに迫ろうと努力しているらしいが、目指している内容からはまったく無視されているような文章に違いない。5月10日誰がそんなことを思うだろう。少なくとも君は何も思わない。何も思わずに数日が経過している。そしていつものように何を思っているわけではないと述べている。どこで誰が述べているのか。風景の美しさに心を奪われている場合ではない。最近は思考力が著しく低下している。軽度のアルツハイマーのたぐいか。つまらない冗談はその辺にして、それから君はどこへ向かったのだろうか。地平線の向こう側にはどのような大地が広がっているのだろう。単に同じような大地と海が広がっているだけか。なぜか虚しいことのいいわけに終始しているようだ。説明するとはいいわけを述べることなのか。過去に述べたことがすべてリセットされている。本当にそうなってしまうことを恐れているのだろうか。できれば完全な空白を表現してみたい。できもしないことについて何を述べればいいのだろうか。そこでも説明が必要だろう。君はどこまでも完璧な文章表現を目指しているのだろうか。それが嘘ではないと思いたいが、まんざら冗談でもなさそうだ。しかし表現する対象がなければどうするのか。さらにいい加減なことを述べてしまいそうだが、それにしても同じような事件がいつまでも起こり続けるのはどういうわけなのか。同じような環境下では同じような思考形態から同じような行動が生じてしまうわけか。そして似たような境遇の人物が似たような事件を起こし続ける。それについて君はどんな実感を持っているのだろうか。つまらない世の中であることに変わりはないが、それでかまわないのかも知れない。君は世の中のおもしろさを解せないのだろう。具体的に何がおもしろいのだろうか。俄には何も思いつかない。だからそれほどおもしろがらそうとしなくてもいいのかも知れない。それはどういう理由なのか。つまらないことならいくらでも述べられるか。そういうことを述べたいわけでもないはずか。何を述べたいわけでもない。述べたくないことを述べているのかも知れない。どこかにあるはずのない文章が埋もれているかも知れず、それを探し求めている。そんな嘘ではつまらない部類に入ってしまうか。何を述べているのだろうか。たぶんそんな心配は無用だろう。そうでなくともすべてがつまらない。何に対してもまったく関心が持てない。そう思いこんでいるなら、そこから抜け出ることはできない。叶わぬ願いをいつまでも抱き続けているうちに一生を終えてしまうだろうか。そうなったらおもしろいか。おもしろかったら一生を棒に振った甲斐があるというものか。やるはずのないことをやろうとしているわけでもなく、たとえそれが間違っていようと、間違い続けていてもどうということはなく、何に対して言葉を投げかけるわけでもなく、道ばたに生えている雑草のように、誰かに無視され続けている現状を呪うわけもなく、その誰かが誰なのかもわからず、その正体を探ろうとしているわけもなく、誰でもない誰かについて何を述べようとしているわけでもなく、ただ気分次第で適当に言葉を組み合わせて文章を構成しようとしているらしい。それが何になるのか。何にもならなければ楽しいか。楽な気持ちでいられるかも知れない。たぶんそこから抜け出ようとは思わないのだろう。だから何かを爆発させて、どこか遠くへ飛んでいかなければならなくなる。それについて何を述べているわけでもなく、結局何を述べているのかわからなくなり、それでかまわないとさえ思っている現状に嫌気が差して、どこか遠くへ消え去ってしまいたくなるだろうか。それで少しは楽しい気分になるだろうか。いつの間にか楽しくなりたいと思うようになっているようだ。誰がそう思っているのだろうか。そう述べて何を確認しているのか。文章の主語を構成する人格に何の意味があるわけでもなく、そこから思いもしない意味が導き出されてしまうことに嫌悪感すら抱くか。冗談ではないだろう。冗談でないのに冗談だと見なされている。そんなつまらぬ思いに流されて、何が流されているのか気づかないまま、そのままどこか遠くへ流されていってしまいたくなるか。それも気まぐれに繰り出された嘘の言葉か。何でもないことについて延々と言葉を連ねてしまうことに何を思えばいいのだろう。何かを思い出してほしいか。昔はそうでなかったことに気づいてほしいか。しかし今さら遅いだろう。すでにそれをやり遂げてしまったようだ。いったんやり遂げてしまえばしめたものか。5月9日まだ使っていない言葉がある。そんなものはいくらでもあるだろう。それを探し出せるだろうか。探し出そうとしていないようだ。夕闇が迫っていたのは数時間前のことだ。さらにそれから時間が経ち、夜が明け明日になり、いつもの日常のただ中にいることに気づく。どこかで記憶が飛んでいるようだ。何に驚いているのか。そんな決まり文句には驚かない。何が決まり文句なのだろう。何も恐れることはない。そんな文章表現を英語で示せるだろうか、示すことができたとしてもそこから抜け出られたことにはならない。そこから遠ざかるために言葉を弄しているのではないか。今はそうではないと思いたいが、それ以外の動機が見あたらない。しかしそれでは中身がないだろう。中身とは何だろう。冗談で何かを述べているようだ。何か語りたいことがなければ文章にはならないのではないか。相変わらず語る対象を見いだせないのはどういうわけなのか。この世界には何もない。この世界になければどの世界にもありはしない。君には感心がないことばかりのようだ。それでも何か語りたければ、関心がないことを列挙してみればいい。何に関心を持てないのだろうか。政治的な無関心は今に始まったことではない。何が政治的だというのか。つまらないことには驚かない。それはわかりやすい文章表現に違いない。ただ何もわかろうとしていないだけだ。まだそんなことを述べているのは見苦しいだろうか。何を述べてもいいわけにしかならないようだ。本来なら何を述べているべきなのか。他者の言葉を模索していたのではなかったか。唐突に何を思いついているのだろう。何も思いつかないよりはマシか。何を述べても依然として君は他者でしかなく、私という言葉を伴った意識はどこにも見あたらない。それは心ではなく言葉という幻影が文字で示されているだけだ。何がそれの幻影だと見なされるのか。それとは何だろう。語ろうとする内容が間違っているような気がする。君は自らが述べている内容を信じられない。常に心が動揺しているようだ。揺れ動いているのは心だけではなく、身体も揺れている。行く当てがなく、よろめきながらも歩き続け、さらなる迷路に迷い込む。そこは藪の中だろうか。誰かが円盤鎌で篠を刈っているらしいが、心の中に葛藤は何もなく、何と格闘しているわけでもなく、またいつもの意味不明が語られているようだ。言葉と意識の偶然の巡り合わせが最後の頼みの綱か。それでもまともな内容を生み出すにはほど遠いか。何がまともだというのか。明確な基準など何もなく、ただその時の気まぐれで何かを思っているだけか。勘だけが頼りでは進歩がないが、別に学術的な理論を追求しているわけでもなく、そのように述べていくと、やはり何を目指しているのでもないことになってしまいそうだ。焦点がまったく定まっていないようで、何の意図も導き出せず、何をよりどころにして述べているわけでもないように思われる。しかしそれは君に特有な性質でもないような気もしている。何を述べているわけでもないのはどこでも同じようなものか。ただ世の中には流行の言葉や言説が流通していて、それを用いて文章を構成すれば、何か気の利いたことを述べているような印象を纏うようになる。だがそこに根拠のような明確な理由を見いだそうとすれば、とたんにすべてが曖昧となってしまう。そこに何らかの意味があるとは到底思えない。人は何に基づいて行動しているのでも語っているのでもない。他者との相互作用によって何らかの行動が生まれ、何らかの語りが生じてくるわけか。そんな単純な仕組みで行動や語りが生み出されるわけもないか。説明しようとすればするほどそうではないような気がしてくる。自らが発したつもりの言葉に裏切られているような気になってしまうわけだ。そんなことを述べたかったわけでもないように思われてきて、何かが違っているような不安感に苛まれ、絶えず居心地の悪さを覚える。だが何が正しいわけもなく、正しいことを定義できず、正しいことを述べられないのだから、述べていることが違っていて当然なのではないか。それを肯定していてはまずいだろう。わかりやすくなってしまえば、ウケはよくなるだろうが、何となくそれではおかしい。ただおかしなことを肯定しているだけなのではないか。それを真に受けてしまう人々が世の中の多数派を構成しているのは間違いないかも知れないが、それに乗ってしまってはいけないような気がする。5月8日言葉が沈黙の持続を妨げる。光は闇の到来を妨げるだろうか。なぜか否定的な気分が持続しているようだ。何を探しているわけでもない。何か語りたいことがあるわけでもない。君はその時が到来するのを待ち望んでいた。本当に何も思わない。一瞬の間では確かにそうだろう。何を批判するにしても、批判して何が変わるとも思えない。何が変わってほしいと思っているのか。誰かは批判し続ける姿勢を維持しようとしている。たとえそれが紋切り型であろうと、ごり押し気味にひたすらそれを繰り返す。年がら年中そんなことをやっていれば、楽しい人生が送れるかも知れない。それもひとつの生き方には違いない。時代に埋もれ、社会に埋もれ、一過性の流行に引きずられ、そんな語り方ではだめだと思うか。そうではないと思いたいのだろう。何もしないのは効率的かも知れない。何もできないから何もしないのだろうか。それが自らに課せられた定めだと思っている。宿命とはそういうものだろうか。いい加減な嘘にも飽き飽きしている。雨音を聞きながら、それとは違う音を聞きたいようだ。無理なことはわかっているが、それを空想することぐらいはできそうだ。そこから離れたいのは誰の願望なのだろうか。できることなら何もしたくない。できもしないことを夢想している。何事とも関係のない人間でいたい。それも嘘のたぐいなのだろうか。嘘でないとするとどうなのか。どうでもいいことでしかない。それらの言葉は現状を裏切っている。君は退屈をもてあましているのかも知れない。もう何もしなくてもいいのかも知れない。たぶんそれは真実なのだろう。そんな思い込みを信じてかまわないのか。真実はどこにもありはしない。相変わらず続いている雨音にいらだっているのだろうか。風景のどこに自意識が隠れているわけでもなく、頭の中に何が宿っているわけでもない。何をひらめきたいのか。何か適当な過去を思い出したか。それは君の過去ではないだろう。そんな人物を知っているわけがない。記憶にないことを思い出すことはできないが。文中に作り話を構成することはできるだろう。だがそのすべては君には関係のないことだ。要するにそう思いこんで責任逃れがしたいわけか。誰の責任で文章が構成されているわけではない。ただひたすら労働に励んでいる。それが君の自由なのか。意味がわからない。もはや取り繕うことは不可能だ。何を困っているのか。そうではないような気がする。何をどう思ってみても仕方がないのかも知れない。ただ生きているだけではだめなのだろうか。つまらない結論を導き出すつもりはない。現状ではただ生きているだけだ。ただ意味不明なことを述べている。だがそこに意味を見いだすことは容易だ。すでに意味について述べている。それをわかろうとしていない。君はそれをわかりたいのか。知りたいことは他に山ほどある。だが具体的に何が知りたいのかわからない。君は何を知ろうとしているのか。何も知りたくない。知りたくないが知ってしまうだろう。この世界には何もないことを知ってしまう。ただ情報が行き交っている。幻想が伝播している。物質が変化している。それだけでは言葉にならないだろう。具体的な現象に興味を持たなければ何も語れない。それは間違った認識だろうか。間違っていることを認められないか。さらに意識から遠ざかる。それは自意識ではない。もはや末期的な様相を呈している。どのような兆候を意識しているのだろう。頭が重くなり、起きあがれなくなり、それが夢の中だということを忘れさせる。なぜ蒸し暑いのに寒いのか。それも夢の中の感覚に違いない。別々の場所と時間で体験した感覚を混同している。だがそれほど深刻な状況だとは思わない。何も見えていないのにそれを知りたくなる。時間的には余裕があり、それを知るにはまだかなりの時間をかけなければならないだろう。さらに言葉を無駄に弄さなければならない。それを適当に組み合わせて文章を構成しなければならない。勘違いであることは承知している。勘違いでなければ何を知ることができるだろうか。少なくとも意味のあることを提示したい。この世界では誰もが愚かなことを繰り返していて、愚かだとわかっていながら、それがやめられないことを正当化しなければならない。そうしなければ生きてはゆけないのだろうか。生きて行く過程においてこだわりが生じてしまい、それをいつまでも捨てきれないのかも知れない。5月7日誰かは反応を期待しているようだ。何らかの反論の出現を待ち望んでいるのだろうか。だが誰かの反論が救世主のはずもない。ただの意味不明に違いない。言葉はさらに入り組んでいく。それは単なる予測にすぎない。君は遠からず破滅するだろう。君とは誰なのか。君は誰にとっての誰なのだろうか。誰でもないのにそんなことを述べるべきではない。誰もそんなことは述べていない。そんなこととはどんなことなのか。まだ睡眠が足りない。もうそこで行き詰まってしまうわけか。現状をどうすることもできはしない。言葉はどこまでも言葉以外の何ものでもあり得ない。危険な香りとはどんな匂いなのか。線路に置き石でもすれば気が晴れるだろうか。現実にはそれもフィクションの一部なのだろう。意味がわからない。意味をわかろうとしているのでもない。何を試みているのか判然としない。たぶん文章を構成しようとしているのだろう。雨が降り続いているらしい。微細な範囲で何かを述べようとしている。それだけでは気に入らないか。空調がおかしい。そこは部屋の中ではない。地面が傾いて見える。坂道の途中で何を眺めているのだろう。まだ何を語り始めているのでもないらしい。わざとそうしているのか。融通が利かないのは誰のことでもない。混乱しているのもいつものことだろう。それ以外に何を思えばいいのか。君はどこから遠ざかろうとしているのか。知ったかぶりなことを述べるのは禁物だ。誰かの本性がそこから明らかになるだろうか。つまらない意見と同じように、誰もが知っていることをわざと述べてみる。自己主張にも愚かさがつきものだろうか。愚かになれることは幸いである。利口ぶってみせることは愚かになっている証拠だろうか。その時点でどうにかなっているのかも知れない。頭の中では普通に振る舞っているつもりのようだ。しかしそれでも誰のことを述べているわけではない。すべては断片でしかないのだろうか。言葉は何かの断片でしかない。それ以外にどんな意味が宿っているのか。それぞれに違う意味があるのではないか。その意味をどう組み合わせて何を述べようとしているのか。たぶん現状では何も述べられないだろう。誰のことを述べているのでもない。観光だけでは世界を語れない。君の愛想笑いは何を示しているのでもない。指し示すべき対象を知らない君は、現実から疎外されている。それで何を述べているのでもないからか。雨はまだ降り続いているだろうか。半分枯れかけた雑草も雨水を浴びているはずか。言葉は何を示しているのだろうか。画面に映っている映像美に見とれている場合ではない。人々は画面の前に座って何に見とれているのか。人それぞれで違う映像に見とれているわけか。それらすべてが同じ事物だとしたらどうだろう。それらすべては映し出された事物にすぎない。誰が見ても都合のいい事物が映し出されている。見えてしまってはまずいものは映し出されない。人々が見たくないものとは何だろう。そこには何もない。画面は何も映し出さない。電源が切れているのか。スイッチが入っていない画面を見つめ続ける。そうやって君は何に逆らっているのだろう。そこからどんな物語が生まれようとしているのか。君が背を向けている当のものを言葉によって示すことができるだろうか。その気もないのにそう語ることによって何がもたらされているのだろう。映像の映らない画面は何をもたらしているのだろう。それが虚無だとは思わないか。虚無とは安易な言葉だ。何でもかんでも虚無と述べれば、それで片が付くと思っている。そんなものに気をとられていると言葉が前に進まない。そんな画面を遠くから見つめている。さっきまでは背を向けていたはずだ。何に惑わされているのか。何に従おうとも思わないが、何かに従わされているのかも知れない。時にはそこから糧を得ている。それで神は満足するのだろうか。いったいそれで何に対して負けを認めることになるのか。たぶんそれでも何を語っているのでもないことになるのだろう。君はそこでつまらない夢を見ている。すべては幻想だと思いたくなる。それでも満足からはほど遠いが、その辺で妥協しなければ、倒錯にきりがなくなり、自らがどこで何をやっているのかわからなくなるだろう。それはどうでもいいことでしかなく、そのどうでもいいような成り行きを求めていたのかも知れないが、実際にそれを体験してみると、何だか拍子抜けの感をぬぐえない。5月6日事件が起こった場所を特定できない。思考が崩れ去っている。日本刀には刃こぼれがつきものだろうか。その刀で誰を斬ったのか。誰が他の誰を斬ろうと、君には関係のないことだ。身体は現世に囚われているが、言葉はそこからいくらでも離れられる。だが精神の集中はそれほど長続きしないだろう。面倒くさい語りはごめんだが、今さらそんなことを述べても無駄だ。結局興味を引くには至らない。いったい何を説明しているのか。言葉が足りないようだ。そのほとんどが的はずれに思われる。それでは文章に帰結しない。すべての断片が分散し始める。言葉を何に帰結させようとしているわけでもない。心が離れているつもりでも、そこから遠ざかるには至らない。どれほど離れたのだろう。あるいは離れられないのに離れたつもりになっているだけか。逆に近づきすぎているのかも知れない。まるで遠近感が狂っている。狂っているのはそれだけか。ついでに頭も狂いたいのか。そして倒錯した思いにとらわれる。行き詰まりを打開するには、苦し紛れの回想場面でも挿入した方がいいのだろうか。それで何かを説明していることになるのだろうか。説明とは何だろう。説明する以前に説明する対象が欠けている。一向に意味が見えてこないが、それを見いだすために何を活用しているわけでもない。そんなことは誰にもわからないだろう。そんなこととはどんなことなのか。接点が皆無だ。何をわかりたいのだ。それはわからないことだろう。たぶん何もわからないかも知れないが、それでもどこかに何かが存在しているはずだ。たとえば蒼穹とは何か。色のたぐいかも知れない。青空を漢字で表現している。空は相変わらず青い。一億年後も青いはずか。それも君には関係のないことだ。唐突に何を思っているのだろうか。言葉がつながらない。相変わらず言葉は具体的な事象を無視している。その代わりに文章は何を取り込んでいるのだろう。いつもの虚無だけでは物足りないか。もはやそれを虚無とは呼べない。いつもとは違う言葉で表現しなければならなくなる。気まぐれにそんなことを思っているらしい。意味のない話だ。これから何をするにしろ、それでは何もしていないのと同じことだろう。たぶん実際には何もしていない。そこには誰もいないのだから何もできない。ただ粗雑なことを述べている。油断しているとどうにかなってしまうだろうか。文章は何かの寄せ集めには違いない。所々で破綻している。ほころびは拡大解釈され、さらに亀裂が増大しそうな気配だ。わざと意味不明を装っているのはもちろんのこと、その先に待ちかまえている破綻を予感させるものがある。人々は常に崩壊を待ち望んでいる。それは何の崩壊でもかまわないのであって、自らに害が及ばない範囲なら何でもよく、それを目にして興奮したいようだ。数年前の大津波の時はさぞや心が躍ったのではないか。だがそんなありふれた言いぐさはつまらない。それも君には関係のないことでしかないが、他にどんな事件を思い起こさせるのだろうか。わからないままの方が気楽に振る舞える。意識してわかろうとしていない。はしゃぐような状況ではない。誰のことを述べているのか。些細な感情の行き違いから殺されてしまった人々を哀れに思う。それは別々の時空で起こってしまった複数の出来事でしかない。ただ話を複雑にしてみたいだけか。誰かは今から何を語ろうとしているのか。語るにはタイミングが遅すぎるだろうか。君は何を考えているのだ。この世界には何がもたらされているのか。事件はどこで起こっているのだろう。なぜいつまで経っても話が始まらないのか。それは君に関する話ではない。そうやってはぐらかされるだけのようだが、思い出したのはそんなことではない。わざと思い出さないように心がけていた。ただそれを思い出せないだけか。事件はいつも画面の向こう側で起こっている。それらのすべてが君には関係のないことなのか。そしてまったく興味のない話になっている。君は誰と話しているのだろう。そういう話ではなく、どういう話にもならず、言葉は誰に媚びを売っているわけでもない。ではもう意味不明はうんざりだろうか。それらの文章は誰をうんざりさせているのか。だが不完全だからこそ改善の余地が残されている。そしておかしないいわけを述べている場合ではなく、何も述べられないことを無視しているわけでもない。自らの至らなさはどこへ至るための方便なのか。5月5日物事を正確に把握しなければならない。言葉はそれを反映していないようだ。いい加減なことならいくらでも述べることができるかも知れない。だがそれで何を述べているつもりなのか。君にはまだ知り得ないことがありそうだ。誰もがすべてを知っているわけではない。誰もそんなことを知るはずがない。そんなこと自体が明らかになっていない。これからそれを述べるところだろうか。何も語ることがない。君はそれを容認できるだろうか。誰が何を思っているわけでもない。ただ馬鹿げていると思う。架空の意識がそう思っていることにしておこう。君はそれを理解できない。その代わりに何を述べることも可能なのか。そんなはずはない。何も見えてこない。それは何かのなれの果てだろうか。もうごまかしはきかない。何かが揺れ動いている。心が動揺している。無駄な物言いから脱却できないのだろうか。そこから遠ざかるのは困難を極める。遠ざかれないのだからどうしようもない。どうしようもないが、それが楽しいのかも知れない。何やら辺りが騒がしい。つまらないことで誰かと誰かが言い争っている。そんな画面から目を背け、ついでにスイッチを切って、目が覚めたつもりになる。そんなことで気持ちは揺るがない。心のどこかに不動の意志を空想しているのだろう。あり得ない思いを文章上に構成したいらしい。それは見えているはずの世界ではない。何も見えなくても何かが見えていると思いこんでいる。君はそれを語りたいのだろう。そんなのは無理に決まっているかも知れないが、それでも何かを語っているように思いこんでいれば、少しは気晴らしになるかも知れない。だがそれでは相変わらずそこから遠ざかることは不可能だ。具体的な事物はどこで見いだされるのだろう。それを把握することは可能なのか。現時点では何を述べているわけでもないが、遠からずそうではないような成り行きに状況が変化していくかも知れず、それを期待しながら現状の無内容に耐えているわけか。そんな嘘では現状を打破することは叶わない。なぜそう決めつけてしまうのか。のぞき趣味には好奇心が欠かせない。だがそんなことを知りたいわけではない。そのつまらない身の上話にはどんな言葉が似合うだろうか。誰の話をしているわけでもなく、それらはすべて架空の作り話にすぎないのだろうか。君はそれらの話の何を信じればいいのだろう。何がそれらの話を構成しているのか。未知のエピソードがあるわけでもない。そこに繰り広げられる何もかもが、どこかで見聞したような話でしかない。繰り出された言葉はそんな不具合を内包している。だからそれを明らかにできないのか。それとは何なのだろう。何かが嘘で塗り固められていて、それが話を構成しているだけなのだろうか。しかし嘘とは何なのか。何がそこで謎めいているのだろう。わざとつじつまの合わない話をしているだけか。いい加減に背後で鳴り響いている物音に気づいてくれないだろうか。何かが崩れ去ろうとしている。君は五差路のどこから出現しようとしているのか。そういう話ではない。安易に意味不明を装うのは配慮の足りない証拠だ。実際にはまだその続きがある。君は強引にそれを省略して、どうでもいいようなことをいつまでも述べ続けようとしている。さっきまで何を語っていたのか思い出せなくなることを期待しているようだ。たぶんその浅はかさがそこでの命取りとなっている。それ以外に何を思い出せばいいのだろう。そういう話でもないはずか。それでも何かの束縛から解き放たれたような気分に近づいているらしく、いくぶん自信を取り戻しつつある。過去の話はすべて水に流して、今こそ新たに何かを語り始めなければならないか。しかしそれは君に課せられた使命や義務とは異質の水準でなされなければならず、誰かの期待とは無縁の内容を目指さなければならないようだ。それで何が変わるのだろう。すでに変わり始めていることに気づかないだけか。まだそこまで至っていないのかも知れず、ある時何かのきっかけで急にそれを意識する瞬間が訪れるかも知れない。誰かはその時を待ち続けている。たぶん忘れた頃に思い出すだろう。思い出していることすら意識できずに、その瞬間を通り過ぎてから、身の回りに生じている異変に気づく。そして今さら気づいても遅いことにも気づき、また機会を取り逃がしてしまったことを悔しがるだけで、いつ巡ってくるかも知れぬそれをさらに待ち続ける羽目になるわけだ。もはや二度と巡ってこないそれをいつまでも待ち続けるのだろう。5月4日ザムザラとは何なのか。淀んだ心は渇ききっている。何に飢えているのかを知るつもりはない。あえて知ろうとしないところに人の醜さが巣くっている。だがいつまでもそれを無視していることはできない。不用意に生成されたそんな言葉の連なりに、君は不快感をあらわにしてしまう。ただ気に入らない状況がいつまでも続いている。猫が虫の死骸に気づく。がらくたに埋もれ、あり得ない真実を見いだそうとしている。死ぬ気になれば何でもできるわけもなく、常軌を逸してしまえば、本当に死んでしまうだけかも知れない。死ぬ気にはなれない理由はそういうことか。今は曖昧さの中であえいでいるらしい。わからない内容が果てしなく続いてしまう気配だ。この先にどんな言葉をつなげて行けばいいのだろう。カフェインの効果で頭が冴えてきた感じするが、それで何が見いだされるわけでもないらしい。なぜ現状を肯定することができないのか。相変わらず語りようのないことを語ろうとしている。語るきっかけがつかめないのもいつものことだ。なぜこの身に危機が訪れなければならないのか。それの何が危機なのだろう。言葉だけでは何もわからない。言葉以外に何が必要なのだろう。わざとらしい疑問に答える気が起こらない。それは疑問でさえなく、分かり切ったことしか問われていないのではないか。だがそんな切り返しが有効だとは思えないのはなぜだろう。そんなことを語るべきではないのかも知れない。猫が草をかんでいる。見ているうちに頭が変になる。そんな演技は底が浅い。演じているのは狂言の一種だろうか。何が狂っているわけでもなく、何かが狂っていると思いたいだけなのだろう。誰かはそれが嘘ではないと思いたい。人がなすべきことは何もない。ただ何かと戯れて一生を送っていれば、それで満足するかも知れない。難しいたとえ話など一切不要になるだろう。君には疑う余地が残されていない。ある水準を超えてしまうと、それは何でもないことになってしまうらしい。何も感じなくなってしまうわけか。現実に他人の痛みをわかろうとしていない。人はそこから出て行かなければならない。常に退場し続けなければ、あとから何も出てこない。君がそれをわかることはないだろう。わからなくてもかまわないのだから、無理にわかろうとしても、それは勘違いに終わってしまうだろう。今日が今日ではあり得ず、明日になってしまうかも知れない時に、何を占っているのだろうか。それは君の知っていることではない。吉兆以外の何がもたらされるのか。知り得ない思いに満たされている。どこかに油断があったかも知れない。誰に見つめられているのか。映像の中に誰かの視点が釘付けとなっている。相変わらず理由が定かでない。理由にはならないいいわけがあとから付け足される。そんなことは初耳か。聞く耳を持たないのに何が聞こえてくるのか。しらばっくれるのもいい加減にしてほしいか。限りのない言葉の中からおかしな響きを選んで並べているようだ。その恣意的な言葉の配置に困惑を覚える。偶然が排除されているように感じられ、そこから疎外感が生じているのだろうか。死ぬにも生きるにもいい天気になることが望ましい。何を述べているのだろうか。それはいつもの意味不明かも知れないが、だから曇り空になるのを望んでいるのだろうか。まったくこじつけにもならないでたらめだ。だがそのでたらめがおもしろおかしく、楽しい気分を呼び込んでほしいのか。それが何に至るはずもなく、何のきっかけになることもないだろう。愚行が繰り返されているような気がするだけか。それでも君は遠くから画面を眺めながら、でたらめな言葉の並びを美しいと思うようになる。そんなのは嘘だ。なぜ言葉の美を信じられないのだろうか。何をごまかしているのかが明らかになっていない。では答えはどこにあるのだろうか。無理に答えなど探していない。自ずから出てくるのが答えなのではないか。そんな神秘主義を信じたつもりになっているわけではないが、言葉では示せないことを言葉で示そうとしていることは確かかも知れない。そんな不可能に挑戦するのは馬鹿げている。そんなものがあるはずがない。本当に国家は遠からず滅びるのだろうか。誰がそんなことを述べているのか。誰も述べていないようなことを語っているつもりなのだろうか。誰がそれを語っているつもりなのだろう。わからないことをいくらわかろうとしても無駄か。叶わぬ願いには不幸がつきまとう。本当にそれが君の望みなのだろうか。5月3日誰かの気を引くような文章表現はないだろうか。心が腐っている。意味のない文章だ。何か心に迷いでもあるのだろうか。別にそれほど道に迷っているわけではないが、どこかで立ち往生していたのかも知れない。それはいつのことだろうか。何をどう述べればいいのかわからなくなる。それは毎度のことだ。そんな中でも君はまだ自らが生きていると思っている。ただ思考力が衰えている。そんなはずはないだろう。誰が反論しているのか。回り道はくどすぎる。しかし同じ道をいつまでも歩んでいるわけではない。決して軽やかではない足取りも、いつしか堂々巡りを繰り返しつつ、まったく前に進まなくなって久しい。もはや前に進む必要がないのかも知れない。まったく馬鹿げているだろうか。それでも絶望するほど救いようがないわけではないが、もし救いがあるとすればそれは何だろう。君はどう救われたいのか。何を信じているわけではない。ただいつまでも冗談ではないと思い続けている。それは冗談で済むことなのだろうか。誰かは運に見放されているのかも知れない。今は何も述べられないが、言葉は何を演じればいいのだろう。言葉について何を述べればいいのか。矛盾したことを述べないでほしいか。それが無理なら、とりあえず真実はどこかに記されるべきなのだろうが、その真実とは何なのかを、まずは記すべきなのではないか。そして唯一の真実を無限の嘘で囲み、何が真実なのか容易にはわからないようにしなければならない。それは即興で思いついた意味のない行為だ。そう述べる意味がまったくわからない。できるはずのないことをやろうとして、できあがった架空の文章はまるで不協和音のような言葉の並びになる。そのような文章を記してみたい。ただの意味不明だろう。なぜそれを空想するのか。意味もなく奇をてらっているだけだろう。くだらぬ物言いはやめてほしいか。まだ物言いの段階まで達していないのではないか。いったい何を物申しているのか。わざとらしい語り方はやめてほしいか。それは君のなすべきことではないのかも知れない。しかしなすべきを知らないとすれば、何をなせばいいのだろう。とりあえずそういう述べ方はやめてほしいか。それ以外を知らないのだから仕方ないだろう。そんなわけで不必要なことを延々とやり続けている。おまけに寝不足気味で今にも睡魔に引き込まれそうになっている。そんな嘘もやめてほしいか。ではどんなことを語ればいいのだろう。安易な矛盾口調に毒されてる。それは口述筆記ではあり得ない。かなり遠くから言葉が舞い降りてきているようだが、それをどう組み立てれば自然な感じが醸し出せるだろうか。述べている意味がわからない。具体的な内容が欠けている。何について語りたいのだろうか。世界は何を待っているのだろう。君はどんな状況が到来してほしいと思っているのか。率直には何も語れないようだ。それどころか何も語る気がしてこない。この世界で起きている出来事について何をどう述べればいいのだろう。今さらそれはないだろうか。そう思わないなら、その代わりにどう思えばいいのか。たぶんそんなことはわからない。わからないからさらにわかろうとする。そしてさらにわからなくなる。何もわからないと楽しいか。だがなまじわかってしまうと面倒なことになる。それについて説明しなければならなくなる。それは余分な説明かも知れない。説明しなくてもいいことまで説明しているわりには、肝心なことが何一つ説明されていない。そんな文章を読むと楽しくなる。読ませて理解させるという文章本来の目的が放棄されているからだ。そんな堅苦しい目的に沿った文章は味も素っ気もないか。そういう述べ方も違うだろう。わかったようなことを述べるのが面倒くさいのか。何となくそう述べてはいけないような気になってしまう。何もないのに何かを述べているように思われ、それは違うと感じられてしまうらしい。では他にどう述べればいいのだろう。たぶん翌日の空は晴れているのだろう。それは日付の上での昨日も同じだ。だが晴れているからといって、無理に気が狂うわけでもない。それの何が無理なのか。気が狂っているのではなく、語り方がおかしいのではないか。現状についてどのように語ろうと、現状がどうなるわけでもなく、気が晴れるわけでもない。また曇り空が到来するのが待ち遠しいか。理由など何もないが、それで気が晴れるわけでもなく、何がどうなるわけでもない。5月2日雨に濡れて不快な気分になっているわけではない。雨に濡れていたことは確かだが、そう述べる必然性を見いだせない。それはどのような必然性なのだろうか。何の必然性を見いだしたいわけでもない。ただそれを語っている現実の中にいる。それがどうかしたのだろうか。心の病なのかも知れないが、それは危険すぎる言葉か。今はそう述べてはいけないような気がしてくる。戯れに繰り出した言葉にとらわれて、本当にそうなってしまうかも知れない。だが今さらそこへは戻れない。そことはどこなのか。なぜそれを明らかにしたくないのだろうか。そんなことはどうでもよく、そこがどこだかわからないだけかも知れない。わからないからどうでもいいことなのか。何がどうでもいいのだろう。それはどうでもいいようなことではないのかも知れないが、それがわからないのだからどうしようもない。どうやら考え直さなければならないようだ。もう少し中身のあることを語らなければならない。たとえばそこは君には知りようのない場所だ。知りたくないことは知らなくてもかまわないか。ならば君は遠からず滅びるだろう。おかしな言葉が連続している。それも危険な兆候になるだろうか。何が危険きわまりないわけではなく、そう述べて何に反論しているわけでもない。またそれによって何を予言しているわけではなく、無理に予言したいわけでもない。何かを予言しているつもりになれば、さらにおかしくなってしまうだろう。頭がおかしいのはいつものことだ。だが明確なおかしさの基準がどこにあるわけでもなく、それは単なる気のせいかも知れない。そんな成り行きに嫌気が差してきたか。いつものように何を述べているのかわからないが、それでも君は語り続けるだろう。だが何を語りたいのかわからないが、とりあえず語り続ける。だが使える言葉が限られている。それ以外のことを語れなくなっている。君には語りたくないことがあるらしい。それについては語りたくないようだ。それとは何だろう。どうしても語りたくないことについて、どう語ればいいのだろう。たぶん語るのは無理だろう。君には語る必然性がないのであり、それでも語りたければ、必要がないのに意味不明に語るだけになるだろうが、それで楽しいのか。語ることによって楽しさを求めているわけではない。翌朝は寒く、空は雲ひとつなく晴れ渡っている。テレビ画面上では相変わらず何かが語られている。一般人ならそれに興味を示す必要があるのかも知れない。正気でなければそれを無視してもかまわないか。そのような前提はあり得ないだろう。正気でなくても興味を引くようなことが語られていて、テレビを見る者はテレビによって洗脳されているのだから、それに逆らうことはできない。そこから身体を遠ざけるのは容易ではない。仮に身体を遠ざけても心は何かを思っている。安易に情報を取得したいようだ。世間の話題について行きたいか。誰かはそういう安易な欲望にはなびかないだろう。ただ画面に映っている人々が正気だとは思えない。それも見当違いの認識か。ではそこから何を理解したらいいのだろうか。何が正気であって何が正気でないのか、それを見分けることは難しい。それは一目でわかるようなことではなく、一目でわかるようなことは語る必要がない。君が語らなくても他の誰かが語るだろう。だから何も語れなくなっているのか。それは君のいいわけであって、その場のご都合主義に違いない。何のことやら述べていることがさっぱりわからないか。それは嘘のたぐいだろうか。本当は何も語れないわけでもなく、現にこうして意味不明の成り行きについて、詳細に語っているではないか。間違ったことを述べているのかも知れないが、それはいつものことだろう。それでも何かを伝えたいのか。だが何かとは何なのか。何も伝わっていないような気がするが、それでいいのだろうか。ただ無駄に言葉を弄して自己満足を得たいのか。それだけならまだ人畜無害だろう。それらは世の中に害毒をまき散らすような言葉ではないか。何よりも人々の欲望をくすぐるような文章ではない。それを読んでも何も得られないような言葉の並びになっていて、そこには何も語られていないから楽しいと思う。楽しいのではなく、ただ楽なだけなのではないか。楽なことと楽しいことはどう違うのか。楽なら楽しいと感じるだろうか。楽でも楽しくてもどちらでもかまわないような気になってくる。5月1日遠くからパトカーと救急車のサイレンが聞こえてくる。殺人鬼は物語に毒されている。そんなに人を殺めるのは楽しいか。それの何が痛ましいと思われるのだろう。心がフィクションに浸食されているらしい。君は鳥のように空を飛んでみたい。子供じみた嘘はやめてもらいたい。かなりわざとらしく感じられる。今さら何を述べても無駄だろうが、何が今さらなのか。無駄だと思うならやめたらいい。やめられないから何かを述べようとしているのだろう。思い直してまた利いた風な意見でも述べてみようか。それは違うはずだ。君はさらに違うことを述べようとしているだけだ。その違いがわからないか。何が見いだされているわけではないし、何を見いだそうとしているわけでもない。噴飯ものの文章が提示され続ける。それで満足できるはずもなく、ただ何を述べているのかわからなくなる。なぜそうなってしまうのか。そんな疑問はわざとらしい。いったい何に焦点を当てたらいいのだろうか。それが文章の構成に役立つとは限らない。みるみるうちにすべてが見当違いの内容に近づいている。そこで何かに気づかなければならない。どこから逸脱してしまったのか。はたして何に気づかされようとしているのか。この世界が終わりに近づいていることか。数百年前の人々もそう思っていたはずだ。終わりが近いと思われてから、さらに数百年が経過したわけだ。それで何がどうなったのか。どうにもならずに、期待はずれに終わっている。人が考えているほど簡単には終わらないということか。そんなことは分かり切っている。しかしいったい何が終わってほしいのか。世界という言葉は何を意味するのだろう。ただ漠然と日々をやり過ごしている限り、世界を意識することなどあり得ない。通常の意識に世界が入り込む余地はない。思っているのはそんなことではなく、考えているのもそんなことではない。それは意味の定かでないことだ。とりとめのない思いに意味など宿らないし、それはあり得ない意味などではない。意味的に文章がつながらなくなっているだけか。何を述べているつもりなのか。とりたてて何を述べているとも思えないようだ。何となく判然としないことを述べているらしい。どうも利いた風な意見を述べるところまで至らないのかも知れない。それ以前にわけのわからない逡巡のうちに終わってしまうだろう。どこをどうやって経巡っているのかもわからない。結局は元の木阿弥に戻ってしまう。言葉の使用法が間違っているのだろうか。終わらない世界の中で何を終わらせようとしているのか。何も終わらせることができずに、昨日の思いをいつまでも引きずりながら、無理な文章を記そうとしている。無理なことはやらない方がいいが、無理だとわかってやっているわけではない。何となく無理そうな気がするだけか。しかしそれだけでは何を述べているのかわからない。できるだけ正しいことを述べようと努力しなければならない。だから世間に逆らっているふりをするわけか。世間が何を意味するか知らないが、結果的にそうなっているだけだろう。仕方ないからそんな風に振る舞っているだけだろう。いったい何が仕方ないのだろう。焦点がまったく定まらない。たぶんそれは物語ではない。事実は何も物語っておらず、事の成り行きが文章として示されているだけだ。それが物語なのではないか。君は何か勘違いしているようだ。だからそこから抜け出られない。そうなってしまう理由がわからないのだ。理由などいくらでも導き出せて、それを知りたければ、それらの理由の中からどれかひとつを選ばなければならなくなり、いったん選んでしまえば、今度はそれが嘘になってしまう。要するにフィクションをねつ造していることに気づいてしまうわけだ。それが物語となって君の思考を拘束しにかかり、固定観念に塗り固めてしまう。思考の自由を奪われた頭脳には幻想すること以外の動作は用意されておらず、現実を把握することができなくなり、物語の内部に意識が組み込まれて、その中で活動することしかできない登場人物のひとりと化してしまうらしい。たとえばヒーローやヒロイン、あるいはそれに敵対する悪役になろうとすることが奇異に感じられなくなってしまうわけだ。何かおかしいと思えなくなり、話の筋に従って自らの行動の自由が制限されていることを、不快に感じるどころか、その通りに歩むことが自らに課せられた使命だとさえ思うようになる。4月30日どうもマンネリから逃れられないようだ。それについて何か説明が足りないような気がするので、さらに詳細な説明を求められているわけでもないだろうが、何となく続けて説明しなければならないと思っている。誰がそんなことを思っているのだろうか。何を求められているわけでもないように思われるので、君は何に対しても無関心を装いたいようだ。金輪際本気になるつもりはないらしい。金輪際とはどういう意味なのだろう。無関心でいることと本気になることがつながらず、おまけにかなり回りくどいことを述べているような気がしてくる。それは駄文のたぐいだろう。本気でそう思いたいところだが、今は本気になれないことになっているので、その代わりにさらにいい加減なことを述べなければならなくなる。君がそう述べているわけではない。そこから逃げてはいけないのだろうか。いい加減なことを述べながらも、それをさらに発展させなければならないのか。何とかそこから起死回生の大逆転をねらっているのかも知れないが、それこそが意味不明な誇大妄想から生じた勘違いのなせる業だ。そこから先は何を述べているのかわからなくなる。だから即興的にそこから離れたくなる。しかしそこから離れたら何も述べられなくなり、何も語らない言葉の連なりに押しつぶされてしまうだろう。本気でそんなことを思っているのだろうか。何を思っても具体的な事象は雲散霧消してしまう。対象が何もないのだから、何も語れないことに変わりはない。そこで予定調和のごとく行き詰まり、何も述べられないことを嘆き、悲嘆に暮れているふりをしている。自らが何を語っているのかを知ろうとしないことがおもしろいらしい。君は言葉遊びの度が過ぎているようだ。しかし何を読み解こうとしているのかがわからない。趣味の試みは戯れの水準にとどまるしかない。何に身をまかせているのか。またいつものように虚無を求めているのだろうか。無意識の意図を知りようがないが、何かの雰囲気を感じ取っているらしい。勘違いかも知れないが、今はそう思うより仕方がないのかも知れない。完全に逸脱しているようだ。どこから逸脱しているのかもわからない。何をそんなに語ろうとするのか。何を語っているのかわからない。具体的なことは何も語りたくないのかも知れない。君はそれを知りたくない。何も語れないことを認めたくない。だからさらに意味のない言葉を連ねようとしている。それが思い違いであることもわかっている。あえて嘘をついているのかも知れないが、そんなことは誰の知ったことでもない。ただそんな風に述べているだけだ。今はただそう述べている。またいつかそれとは違うことを述べる機会も訪れるだろう。はっきりしたことは何も語れなくなる。どこかで一区切りつけなくてはいつまでもそれが続いてしまうだろう。だんだん投げやりに語り始めている。気がつけばまだわけのわからないことを語っているようだ。まるで何かのうわごとのように語っている。たぶんそれは戯言のたぐいに決まっている。何を断言しているのか。そこで何をどう解釈すればいいのか。少なくとも何もわからないわけではない。しかし言葉だけでは何も伝わらないだろう。何を伝えようとしているのでもないが、何も伝わらないことに腹を立てているわけでもない。何も伝えられないのかも知れない。思い違いからそれらの文章が生じているらしい。すべては虚しい努力でしかない。努力していることすら思い違いに違いない。何かをやっていなければ気が済まないのだ。何もやらなければすべてが丸く収まるかも知れないが、それで何の不都合があるのだろうか。まだ試していないことがありそうだ。それをやればさらに虚しくなるだろう。偶然に遭遇してしまう。何に出会っているわけではなく、誰に巡り会っているわけでもない。それは虚無でさえない。何でもないようで、ただそれだけのことかも知れない。すでにどこかに突き抜けてしまったのだろうか。何もないわけではない。言葉がどこかに引っかかっている。つながりを保とうとしているのかも知れない。ついさっきまで雨が降っていたようだ。雨音が聞こえたような気がする。誰かはそこで何をやっているのだろう。君はまだ誰でもないと思いたい。はたしてそれが自由なのだろうか。自由でなければ不自由なのだろうか。そんな簡単な成り行きにはいかないようだ。自由と不自由の間に適当な言葉が差し挟まれなければならない。4月29日いつも君は何を述べているのだろう。いつもの無内容でしかないが、本当にそのすべてが意味不明に思われるだろうか。できることならもう少し簡単なことを述べてみたら楽しいか。別に楽しさを求めているわけではないが、この世界の中で何が起きているのだろう。それについてどんな認識を提示すればおもしろいのか。おもしろいことを述べようとしているわけでもない。ならば気休めに毎度おなじみの浅はかな構図でも示してみようか。たとえば世界の中では、北朝鮮が地方の弱小ヤクザだとすれば、アメリカは全世界規模で展開している広域暴力団といったたぐいの存在だろう。自分の娘を北朝鮮に連れて行かれた母親が、暴力団の大ボスのところへ助けを求めに行ったらしい。何か変だとは思わないか。それが正気の沙汰でないと思ってはいけないのだろうか。北朝鮮による拉致がどうのこういう前に、ここ数年のアメリカによる対テロ戦争において、何が行われてきたのか。多くの者たちがテロリストの嫌疑をかけられて拉致され、一部では拷問まで行われていたというのに、そういうことをやっている国家に助けを求めにいくのは、倫理的におかしいのではないか。アメリカによる軍事攻撃によって、何の罪もない一般人がどれほど巻き添えを食って命を落としたことか。少なく見積もっても数万人が殺戮されているはずだ。おまけに彼らは日本国内には軍隊を常駐させ、その軍人が時折犯罪に走り、女性を強姦したり殴り殺して金を奪ったりしているにもかかわらず、思いやり予算とかいう年間数千億の上納金を出させた上に、部分的に出て行くならさらに三兆円を出せと脅しをかけている。そしてついでにBSEがらみでは、まったく聞く耳を持たず、自分たちの論理をひたすら押し通し、さっさと牛肉の輸入を再開しろ、とこれまた脅しをかけている。そんなことをやっている国家でも、現時点では世界唯一の超大国なのだから、わらにもすがる思いで助けを求めにいくのは、当然の帰結なのかも知れないが、異例の面会を許した大統領のブッシュ氏にしてみれば、ただ政治的に利用したいだけのような気がする。そして韓国の拉致被害者と連携しようとすれば、とたんに竹島問題で頓挫したりして、結局各国の政治的利害の中で翻弄され、意味もなく右往左往しているだけで、何の進展にも至らずに、そうこうしているうちに年月が経過していって、あと数十年もすれば、忘却の彼方へと忘れ去られてしまうような話でしかないのかも知れないが、たとえそうなったとしても、それはそれで自然の成り行きとしか思えないだろう。すべては国家という偏狭な共同幻想から生まれた不幸なのかも知れない。もちろん国家主義者にしてみれば、自らが依って立つ国家という基盤上でしか、思考を巡らすことができないのだろうが、この愚かしくも間抜けな時代がいつまで続くのか。現状では国家間の経済的な不均衡を改善するきっかけすら見いだせないが、とりあえず将来的には、世界のどの地域に暮らしていようと、それほど支障を来さないような世の中になれば、自然と国家主義的な観念も下火となっていくのだろう。しかしそうなるまでにあとどれほどの月日を要するのだろう。たとえば中東などで行われている、宗派や民族間の不毛な殺し合いをやめさせることが可能だろうか。とりあえずアメリカが試みているような、軍事力で強制的にやめさせる試みは失敗に終わっているような気がするが、では他にどんなやり方があるのだろうか。数十年をかけてそれらの攻撃的な情念の熱が冷めるのを待つしかないのか。それをやめさせることはできないが、自然にやめるのを待つことはできる。待ってどうなるわけでもないだろうとは思うが、忍耐強く待つべきだと感じている。もはや消極的かつ受動的に待つことしかできないのかも知れない。それは間違ったやり方だと思うが、部外者にはそうする以外に手だてはないような気がする。我慢がならない者の中にはジャーナリスト的に現地に飛んで、そこで行われている不正義を暴き出して、それを全世界に向けて訴えかける者も出てくるだろう。あるいはユニセフのように募金活動を通じて、虐げられた弱者を救う試みを地道に行う者もいるだろう。それが何になるとはいわないが、やりたい者は積極的にやってもらったらいいのかも知れないが、たぶんそれとは違うやり方があるのだろう。別に神秘主義にかぶれているわけでもなく、何となくそう思っている。4月28日何の根拠も示せないが、物語ることは馬鹿らしい。それは幼稚な精神作用の結実だ。何に勇気づけられてそう述べているのだろうか。とりあえず何かを説明しなければならない。きっと後悔するだろう。この期に及んで何か打ち明けたいことでもあるのか。戯れ事にもほどがある。秘密など何もない。その時間帯の外には何があるのだろう。気分的には黄昏れているようだ。何も見えていないのかも知れない。何となくお呼びでないような気がする。何のリアクションも期待できない。意識してそのようなことを述べているのかも知れない。だがいつまでも遠くを見つめているだけでは何の進展も期待できない。何を進展させようとしているわけでもない。ではすべてが期待はずれなのだろうか。何を期待していたのか。何を忘れているのか。気がついたら何も語れなくなっている。そんなやり方ではだめなことは分かり切っているはずだ。ではどんなやり方が可能なのか。君は何を呼びかけているのか。すでに目が死んでいる。まったく立ち直れていないようだ。気分は最悪だろうか。たぶん何の気分も導き出せないだろう。気分などどうでもいいのではないか。自意識などどうなってもかまわない。何を強がっているのか。君にはそれとは別の面がある。それとは違うことを述べてみたいが、それが何だかわからない。誰かはなぜ行動するのだろう。行動に至る理由など知らぬ。つまらない遊びにこだわっている。誰かはこの世がどうなろうと、ただ生きていくだけのようだ。流されている。さらに遠くまで流されて行く。どんどんそこから遠ざかって行く。そこには何があったのか。それをことさら思い出す必要があるのだろうか。もはや何を見いだすこともできない。この世界を馬鹿にすることなど簡単だ。造作もなくそれに対応する言葉を繰り出せる。それが思い上がりであることは承知している。いいわけには限りがない。無性にいいわけがしたくなる。たぶんそう述べてしまうことが気に入らないのだろう。何もかもが馬鹿げているように思われてしまう。それでやる気が失せているわけか。やる気が失せているように装っている。それが冗談の始まりかも知れない。意味のない冗談を連発して、自業自得気味に自滅する。政治的な意味を求める気にはなれない。何に賛成すればいいのだろう。何に対して反対の意思表示を明らかにすればいいのだろう。ついてくるのは愚かな意識だけか。まるでサーカスのような演技を期待しているわけか。それが物語のだめなところかも知れない。何とか主人公を助けてしまいたい。幻影の罠にはまっている。その助け方にうぬぼれが介在している。いったんそれを許してしまえば、それ以降はいくらでも愚かになれる。もはや歯止めが利かぬようだ。そしてついには誰もいなくなるわけか。そんな末路がどこにあるのだろう。何も物語らないうちから終わってしまったようだ。何を終わらせようとしているわけでもない。まだそこまで行っていないのだろう。中途半端に物語っている。君にはそれがわからない。誰も気づかぬところで何かが進行中のようだ。崩壊直前のきしみでも聞こえてくるか。無理を重ねすぎている。冗談にもほどがあることは先刻承知だ。意味不明を装っていることも認めよう。それが君のやり方なのだから仕方ない。それで済むことでもない。知らぬ間にどこから逸脱してしまったのだろうか。白々しい嘘をついてみても始まらないか。後退しながら退廃し続けているのかも知れない。見るべきものは何もない。君はそこで消滅できるだろうか。意識を消し去っても生身の身体が残っている。そこでようやく本音でも漏らすつもりなのか。何を述べているのかわからない。何も語らないうちから終わってしまってかまわないのだろうか。そこから何を読み取ろうと君の勝手だが、読み取ったつもりのすべては勘違いかも知れない。だがそれが君に課せられた試練であってはならないはずだ。何を述べてもすべては戯れ言のはずだろう。それを考慮に入れてもわけがわからなすぎかも知れない。そんなことを述べている場合ではないか。他に何をやっている場合でもなく、何を述べている場合でもない。ただ言葉が連なっているだけだ。それですべてを語ったつもりになれる。たとえそれが勘違いであろうとかまわない。勘違いさえ気休め程度の効用はありそうだ。今の君には安らぎが必要なのだろうか。それも何かの勘違いなのだろう。4月27日どこからどこまでが本気なのだろう。決してまじめになることはできない。何に対してまじめになってほしいのだろう。現状ではその代わりに意識して倒錯を装っているのだろうか。心がどうかしているのかも知れない。しかし何がどうなってどうかしているのか。またつまらないことにこだわっているようだ。病気か何かで身体の自由が利かぬ者は何か生きている証がほしいそうだ。絵を描いている人々の中にはそんな境遇の者もいるらしい。誰もが何かしら報われたいのだろうか。生きていくためにはそんな目標が欠かせない。君は何のために生きているのか。結果的には何のために生きていることになるのだろう。ひねくれているのかも知れないが、それは違うと思いたい。たぶん報われたくないのだろう。報酬を得るために汲々としているのは虚しいことだ。目標がなければあくせく働けない。あくせく働く必要がなければ人はどうなるのだろう。怠惰に流されて何もする気がなくなるのだろうか。それでもかまわないと思う。生きる目的がなくてもかまわない。ならばいっそのこと死んでしまえばいい。安易に死ぬわけにはいかないか。死ぬのが怖いのか。しかし強がってばかりはいられない。死んでしまったら何もできなくなってしまう。では何かをやろうとしているのか。だがその何かが目的となってしまったら困るだろう。目的とは何だろう。何かをやろうとするとそれが目的となってしまうのだろうか。ならば生きている限り目的がなくなることはないわけか。しかし目的とは何だろう。そんなものは目的ではないと思えばそれで済むようなものなのか。目的とは別の言葉を当てはめてみればいいのではないか。生き甲斐というやつか。人々は生き甲斐を求めて右往左往しているわけか。生き甲斐がなくても生きていくことは可能だろうか。目的も生き甲斐も否定したくなる。それが確かな言葉として示されたとたん、それではないような気がしてくる。君は何のために生きているのでもないと思いたいらしい。自らが何らかの言葉とともに語られるのが我慢ならない。そのような決めつけには必ず反発が生まれるのだろう。だから君は君自身について語るのが嫌いだ。絶えず君とは無関係な何かについて語ろうと試みているようだ。その何かが何なのかを明らかにするのも好まない。たぶんそれは何でもない何かなのだろうが、そう述べてしまうと、やはりそれは違うように思われてくる。そんなことまで語る必要がないのかも知れない。何か心のどこかでまじめに生きようとする人々を馬鹿にしているような雰囲気があり、ふざけてそんなことを述べているように思われる。君にも自己顕示欲というものがあるのだろうか。だが誰も振り向きはしないだろう。誰を振り向かそうとしているわけではない。それらの文章のどこに魅力があるのか。何を目指しているわけでもなく、何から見放されているわけでもない。運から見放されていると思うだろうか。だが君は何を求めているのか。何かしら求めているのではないか。虚無からも見放されてしまうのがそんなに怖いか。そんな風に思いたくはない。少なくともそこには何かしらあるはずだ。もっと単純に述べられたらどれほど幸せになれるだろうか。もっと単純に生きられたらどれほど幸せになれるだろうか。そうなる気もないのにあえて心にもないことを述べているらしい。いつもそんなことはどうでもいいと思いたい。前向きなことを述べるのが気恥ずかしいのかも知れない。しかしそれでいいはずがないだろう。だが驕り高ぶるほど絶好調になれるはずもない。なぜ人々は単純になれるのだろう。なぜかそれがおかしいと思われるのかも知れないが、わけがわからないのは毎度のことだ。君はまだ生きているのでも死んでいるのでもないはずだ。どちらの状態も気に入らない。積極的に馬鹿らしいとさえ思っている。それらの何が馬鹿らしいのだろう。君は誰を馬鹿にしているのか。心の中で何かが渦を巻いている。どこかに穴が開いていて、そこにすべてが吸い込まれていってしまうような感覚を覚える。そんな意味不明なことを思っているうちにさらにわけがわからなくなる。そんなことではいけないのかも知れないが、そうする以外に何も思いつかないので、他に何をどう思っていいのかわからない。言葉ではうまく説明できないのに、それでも言葉を適当に繰り出して文章を構成しようとしている現状がある。本当に現状はそれだけなのか。4月26日妄想の中では誰かに邪魔されている。誰かはまたつまらないことを思い出しているようだ。何かそう述べてしまう癖がついているらしい。思考回路がいかれている。そう思いたいだけで、本当はきわめて正常に機能しているのだろう。先のことを見越して今があるわけか。今は遠大な計画の途上にあると思いたいか。いかれた頭脳には何がお似合いなのだろう。君には別の道がある。それとは違うこともできるはずだ。さらにつまらないことも述べられる。思考停止も甚だしい。切羽詰まらないと本心を明らかにできない性分のようだ。それが本心だとは思わない。どこかで誰かが笑っている。曇り空の下で雨が降るのを心待ちにしている。何かが狂っているらしいが、社会の仕組みは正常に機能しているようだ。今日もくだらぬ事件の幕引きがはかられようとしている。誰かが損害を被っているのだろう。おまけに命まで取られたら楽しいか。キャラメルのおまけには何が入っているのだろう。この世の中では何をやってもいいのだろう。同じやるなら楽しいことをやってみたいか。そこから遠くないところで殺人や詐欺事件が起こるのだろう。そんなことをやりながら、何かもっともらしいことを主張したい人もいるらしい。ザルカウイ氏は案外愉快な人物なのかも知れない。サラ金業者のチワワは今も元気なのか。そんなはずではなかったと思いたいのか。君にはどんな台詞も似合わない。平和とは何だろう。平和な状態は楽しいか。いつも危険と隣り合わせなのだろうか。行動はどこで制限を受けているのだろう。何をやるのも自由なら何もできなくなる。自由は人を狂わせ、不自由なら欲求不満を募らせるだろう。そんな単純な解釈がどこで可能となるだろう。君は稚拙な文章表現によって何を見定めているつもりなのか。やはりそこから遠ざからなければならないのだろうか。遠ざかってどこへ向かうつもりなのか。向かう場所はどこにも存在しない。そのとき何を語りかけているのか。暗闇の中で目の前を幽霊が横切ったように見えたが、それが何を意味するのか。そういう話ではない。君自身が幽霊のたぐいなのかも知れない。君はそこでお終いなのか。待ち受けている運命が気に入らない。それが運命でないとすると、フィクションの中身にはどのような変更が加えられるだろうか。そこから君の本心が導き出されるはずもない。君はそこから逃げ続けている。窓に映っているのは誰の影でもありはしない。影ならとっくに退散しているは 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