彼の声53

2006年

3月31日

 つまらない意見にかぶれているようだが、それに関して大げさなことを述べる気にはならない。見えていることはそういうことではない。夢を見ることなら簡単にできる。目標に向かって努力するには馬鹿になればできるだろう。ただ何もやらないとなると、そこで不可能に直面してしまうのか。何もやらないわけにはいかなくなる。今日が今日であって、今が今であることを率直に認められない。たぶんこの世の中には何もありはしないだろう。あるのは安易な認識と勝手な思い込みだけか。だがそんな否定の仕方があるだろうか。何を闇雲に否定しているのか。この世界に関する言説ならいくらでも否定できるだろう。絶えずそうではないと述べ続ければいい。それで何を述べていることにもならないかも知れないが、否定の言説に自足することで、ある種の満足感を得ることができるだろう。何を根拠の希薄なことを述べているのか。言葉の連なりはどこにもかすりもせず、どこか得体の知れぬ無限定な空間へと消えてゆく。それで何を述べていることになるのだろう。君はそんな言説に満足しているのか。自らが述べているつもりの何に酔っているのだろうか。じれったいと思っているのかも知れない。君はこの世界について何も語り得ていない現状をどう思っているのか。誰が何を語ろうとしているのか。今さらそんなごまかしはないだろう。どうやら君にはまだ時間が残されているらしいが、それは何をやるための時間なのだろう。何もできないのに時間だけが残されているとしたら、ただ無駄に何もやらない時を過ごせばいいだけか。誰かの実感としてはよくわからない。そんな実感はどこから出てくるのか。過去から何かがもたらされているのかも知れないが、自らの過去を振り返ることにいかなる意義を見出せるだろうか。何を疑問に感じているわけでもない。自らの将来の姿を想像できずにいるらしい。言葉がどことつながっているのだろう。過去でも未来でもなく、どこでもないような場所から何が発せられているわけでもない。何を見ようとしていないのか。そんな話をしたいわけではない。そこにどんな話が存在していようと、それを明らかにする気にはなれない。だからといって何も話していないわけでもないだろう。だがそれに対してどんな反応を期待しているわけでもない。語っているすべては君には関係のないことか。ならばどんな認識に至れば気が済むのか。この世界についてどう思えば満足するのか。何か過去の出来事ついて思い出す必要を感じているわけか。過去は過去であり、少なくとも今ではない。そんなわかりきったこと以外で何か感じていることはないか。何か知り得たことを忘れているのかも知れない。忙しない日々の中でいったい何を知ってしまったのか。今さら夢も目的もないわけではないだろう。たかが知れていることならいくらでも知っているはずだ。夢も目的もたかが知れているということか。誰の偉大さに気づいたわけでもなく、どんなまやかしを告発したいわけでもない。ただそれらの言葉を意味が通るようにつなげる気にならないだけか。それでも君は今の時代につなぎ止められている。つまらないものを手に入れようとして、安くない買い物を繰り返す。それで物や心が得られたとして、それで一時的な満足感を得て、それに飽きてくればまた次のターゲットを定め、何らかの作用によって運良く機会が巡ってくれば、それに向かって何らかの行動に及んでしまうわけだ。そしてそんなことの繰り返しによって、この世に対する未練と興味を保ちつつ、たまにはそれが暇つぶしの遊技でしかないことに気づいたりして、何らかの葛藤を経験するのだろう。それだけでは何を説明したことにもならないか。それでも何かを否定しているのかも知れず、無意識のうちに否定的な感性を発揮しつつあるようだが、それで何を知り得たつもりになれるだろうか。たぶんそんな世界から抜け出ることは不可能なのだろうが、それもわかりきった認識にすぎず、言葉の連なりが求めているのはそんなわかりきったことではない。しかしそれ以外に何を知り得るのか。いつまでも無理を押し通そうとしても、無駄な言葉以外には何も得られないだろう。だからこそそれらの試みは果てしなく継続されるわけか。そんな大げさなことではないはずだ。たぶん後から振り返ってみれば、つまらない内容の羅列としか見なされず、それが存在することによって生じた誰かの内面のほころびなど、些細な揺らぎの一種としか見なされないだろう。しかしそれはどういうことなのか。どういうことでもないはずか。ただの文章でしかなく、言葉は何かの混乱を表しているにすぎないのかも知れない。


3月30日

 薄暗い曇り空の下で誰かの意識が漂う。見飽きた風景の中に生身の身体が溶け込む。萎れてしまう前にかろうじて見出された言葉の連なりには、花とは異質の響きが内包されている。まわりくどく難しく語れば何をごまかすことができるのか。覚えのない心境に至っているのかも知れない。濡れ衣には身に覚えがないらしい。だが本当の思いを語っていないことは確かなようだ。君はそれ以上の窮地を知りたいのか。誰がどこで切羽詰まっているのだろう。まったくの余裕なのかも知れない。余裕くれていないで、早く別のことを述べた方がいいのではないか。いつまでもわけがわからないでは示しがつかないだろう。しかし誰に悪影響を与えているのだろうか。他に何を語ればいいのか。無理なことを要求しているわけではない。ただ君の知らないことを語ればいいのか。君は誰に何を語らせようとしているのか。それこそ無理な話に違いない。ではこの世界がどうなろうと君の知ったことではないか。君が知っているのはそんなことではない。君には関係のない話に違いない。それでもこの世の中は荒んでいると感じているのだろうか。偽りの予定調和を信じている。すでに破綻しているのにそれを認めようとしない。はたして金が人を狂わしているのだろうか。それとも国家という枠組みを維持しようとしていることに無理が生じているのだろうか。人々は自明の形式を疑う必要性を感じない。当たり前のことを当たり前と思って何が悪いのか。そう思っていること自体が悪いのだろうか。ではどのような兆候を感じているのだろうか。つまらないことにこだわっているのはいつもの通りだ。それ以上は何もできはしないだろう。何もできないから行き詰まっている。だから何もやろうとしないのだろう。ただ言葉が虚無の周りをぐるぐる回っているだけだ。そしていつまでもあやふやな概念を信じている。それは誰の観念から出てきた言葉なのか。それともいつものように誰が何を考えているわけでもないのだろうか。誰が君の邪魔をしているわけでもない。君のやっていることを止めようとしているわけでもない。たぶんどこに不具合が生じているわけでもないのだろう。君自身の存在が不具合そのものなのかも知れず、そこから生じている言葉の連なりも不具合を表しているのかも知れない。君が何を考えようと、君自身の存在が無駄で要らないものなのだ。君がいてもいなくても、この世界がどうなるわけでもない。だが君が述べようとしているのはそういう話ではない。たぶん君には時間がないのだろう。これから生じる無限の時間は君のために残されているわけではなく、君が消え去った後に続く時間でしかない。残された時間はあとわずかだ。しかし君は君にしかできないことをやろうとしているわけではなく、ありふれた日常の中に埋没し、あり得ない空想に耽り、無駄な時をいつまでも過ごしている。それでいいはずがないと思いながらも、では他に何をやればいいのか思いつかない日々の中で、次第に朽ち果ててしまうだろうか。それが君にとっての老いという現象か。そんなはずがないと思いながらも、心身の衰えを自覚せざるを得なくなる。それでも誰の話をしているわけでもないと思いたい。何よりも君には使命があるはずだ。誰から下されたわけでもない使命があると思い込んでいる。それを継続させなければならない。無理とわかっていてもやり遂げなければならない。中身が何もなくてもやり続けようとしている。たぶん正気ではないのだろう。正気でないからそんなことをやっていられる。君はそれをやっていることの恐ろしさを理解していない。誰を傷つけているわけでもなく、誰から無視されているわけでもない。それらの話には実感が伴わないようだ。いつまで経っても肝心の話の内容を知り得ないのだから、それについて何を語っているわけでもないのだろう。何も語れないのに言葉が連なってしまうのは、この際どうでもいいことか。とりあえずこの世界にはどうでもいいことが満ちあふれていて、それについて何を語ってみても違うような気がするわけだ。どこかが違っているようで、しかもそれの何が違っているのかがわからず、それについて繰り出されたすべての言葉があやふやなのだ。だから何を語ってもどうでもいいように思われ、それでは何を語っているのかわからなくなってしまうらしい。


3月29日

 何を説明しているのか。たぶんそれは説明できないことではない。だから説明しようとしているのだろうか。この世界は何を求めているのだろう。古代のマヤやアステカ文明の人々のように、天は我々に生け贄を求めている、と判断していいのだろうか。それが冗談とは思えないのは、誰が抱いている感慨から生じていることなのか。述べていることの意味がわからないが、わかろうとしているそれは意味ではないのかも知れない。わざとおかしな話の成り行きにはまっている。しかしはまっているのは罠ではないはずだ。何が仕掛けられているとも思えず、気まぐれにどこかの小道を歩いているだけだ。ただまわりくどい話はいけない。できるだけわかりやすく述べるべきだろう。何を述べればいいのかわからない。君は何も求めない。もう言葉など不要なのかも知れず、いつまでも戯れ言を繰り出している時ではないのかも知れない。それでは何をやればいいのだろう。さらに無駄なことを語らなければならない。それが君に課せられた使命なのだろうか。どうやらまた冗談を繰り出そうとしているようだが、それが冗談ではないと思うのはどのような理由によるのか。何をそこで思っているのだろう。この世界の秩序は改められなければならない。誇大妄想に至る原因は世界について考えてしまうことから来るらしい。時代遅れのつまらない宗教対立について何を思えばいいのか。そこでは何が世界から取り残されているのだろうか。君たちは何を暴露しようとしているのか。芸能人の私生活について何を知りたいのか。それが誇大妄想と何の関係があるのだろう。たぶんそういうことではないのだろう。聞きたいことは何もない。伝えたいことはどうだろう。君はそれ以上の何を求めているのだろう。誰が何を求めているわけでもなく、ただの無内容が明らかになっているにすぎない。虚無はそれ以上の何を求めているのか。虚無が求めているのではなく、君が何かを求めているはずだ。君には何も見えていない。誰が何を見ているわけでもない。世の中が移ろいゆく。風景が揺れている。はたしてこの世に目的があると思うか。人はこの世で何をすべきなのか。何か為すべきことを探す必要が生じているわけか。何を探しているのでもない。他の捜し物はいつまで経っても見つからないだろう。必要のないことをやっている現状がある。探さなければ探し出されてしまう。探し出されて何を施されてしまうのか。見えていないものを見せられる。グロテスクな事物を目の前に差し出され、それについての意見を求められる。それを認めるか否かの選択を迫られる。何を認めて何を否認しようとしているのか。すべてを認めるわけにはいかないのか。差し障りのない範囲内でそれを教えてほしい。君に見えているものを言葉で示してほしい。たぶん今は夜だ。明日も夜がやってくるだろう。同じ夜ではないが、似たような夜を過ごすことになる。そして朝がやってくる。時間的な順序では夜の次に朝がやってくる。君は翌朝に何を思うだろう。思うことは思わないことかも知れず、本当のところは翌朝になってみなければわからない。しかしこの世界に何を差し出しているわけでもなく、どこに向かって否認の言葉を投げかけているわけでもない。君には何かがあると思っていて、いつもその何かを表現しようとして、様々な試行錯誤を繰り返しているつもりなのだろうが、それがこの世界そのものなのかどうか、君にはよくわかっていないし、気づいていないことが多すぎるのかも知れない。だからそこで行き詰まってしまうのか。そこから内容を得ようとして果たせず、代わりに無内容を受け取ることに疲れて、もう何も語りたくないと思っているようだが、そこからどんな結論を導き出せばいいのか。もうやめた方がいいのだろうか。頭が壊れていることは以前からわかっていることか。それでも続けようとしていることに、何の理由があるのだろう。見え透いた嘘をつかないでほしいか。それは言葉の結晶からは程遠く、文章としても欠陥だらけだろう。取り返しのつかないようなことを語っているのかも知れず、何の可能性もないことを語り続けているのかも知れないが、可能性とはどのような可能性なのだろうか。誰がならず者になりたいと思うだろうか。映画の中に塗り込められたイメージが現実の世界で通用するとは到底思えない。日常がそれを許さない。


3月28日

 そのように振る舞うことの目的は何なのか。誰かは晴れ渡った空を見上げているわけもなく、薄曇りの下に誰の意識が漂っているわけでもない。誰もそんなことを望んでいるわけでもないか。気持ちは何に抵抗しているのだろう。何に抗っていようと、他に何を述べられるわけもない。それらの言説にどんな理由が紛れ込んでいるわけでもなく、ただそういうことを述べたいというわけでもないだろう。大げさな映像や画像が氾濫していることにどんな目的があるわけでもない。ただ宣伝している商品を売りたいだけなのか。それが君たちの目的ではないはずか。それらの映像や画像を見せつけたいだけか。実際には誰に向かって見せつけているのだろう。例えば美術館の壁に掛かっている絵画などは誰に見てもらいたいものなのか。ターゲットはどんな人たちなのだろう。君には何も見えていないようだ。時間をかけて思考を働かせなければ何もわからないようなことの何が有用なのだろう。時間切れ間際にかろうじてわかるためのヒントをつかみ取ったような気にさせることの何がスペクタクルなのか。君は冗談で何を述べているつもりになれるのか。わざとわけのわからないようなことを述べているつもりなのか。たぶんつもりなのではなく、本気で述べているわけでもないのだろう。互いに関連性のない複数の文章をランダムに並べているだけかも知れない。複数の意識はそれぞれで違った性質を持ち、異なる傾向の文章を構成しようとしているのだろう。しかしそれでは説明は不十分かも知れず、読む者に対して何を知らせようとしているのでもない。何を明らかにしようとしているのでもない。ではどのような想像力の喚起を期待しているのか。この社会には何を想像させるための技術が氾濫しているのだろう。それはただのクローズアップさせるための仕掛けにすぎないのか。それらの撮影機は何を追い求めているのだろう。どのような人々を驚かせようとしているのか。できることならそんな罠にははまりたくないと思うだろうか。君はそれらの何を受け入れがたいと思うのだろう。受け入れられない理由とは何なのか。誰が何の理由を探しているつもりなのか。つもりではなく本当に探し求めているのだろうか。それに関して何もわからない誰かは、通常の軌道を外れて、どこか遠くへ行ってしまいたくなるが、これまでも決められた軌道の上を無限に走り続けていたわけでもなかったはずだ。だがそのように感じられる原因を探りたいわけでもなく、他に何を探求しようとも思わない。ただ虚しさはいつでも背後から忍び寄ってきて、絶えず君のやる気を偽りのものと決めつけ、それ以上の境地に至るのを断念させる傾向にあり、そのような作用に抗う理由を見出せずにいるらしい。君はそれも予定調和の範囲内だと強がってみせるだろう。しかし何でもかんでも想定内では生きていく上で面白味に欠けるのではないか。だがその予定調和を強引に打ち砕こうとは思わずに、そのような言説の範囲内にとどまり続け、どのような精神状態になることも期待せず、黙って周囲の景色が変わるのを待っているだけのようだ。だがそれで何を述べていることになるのだろうか。たとえ周囲の景色が移り変わろうと、それにつられて内部の情景が変わるとは思えない。君にはそんな確固とした信念があるとも思えないのだが、それに関して君は何を判断する立場にもなく、たとえどんな判断を下したところで、たぶん周囲の状況によって却下されてしまうだろう。君はそれらの状況に逆らえないのではなく、その状況に一体化しすぎているのかも知れない。君の意識は君を取り巻いている状況から導き出されいて、状況の一部を構成しているにすぎないのかも知れず、状況が君を君として認識されているのではないのか。君自身の存在がそれらの状況そのものなのかも知れない。しかしそこからどんな認識が導き出されているというのか。ただ君が存在していること以外に何を知ることができるのか。そこはどのような世界なのだろうか。そこでは何が優先されていて、他の何が退けられているのか。たぶん世界のすべてが構成されているのかも知れない。それがこの世界そのものなら、それはあり得ることだろう。世界の一部分が世界のすべてから構成されている。そんな認識が誤りだろいえるだろうか。認識が正しいとは思わないのなら、認識の正しさとは何だろう。


3月27日

 たぶんどこかに終わりが潜んでいるのだろう。そして終わりの背後に始まりが迫っている。しかし一向に物語は始まらない。それを語る必然性を感じない。何もないので語れないことは承知している。それでも語ろうとしているのだからおめでたい話だ。奇声を発しているのは音楽の中の声だ。闇夜に魂が吸い取られているわけでもあるまいに。何のことやらさっぱりわからない。誰にも理解できないような無内容を語っているわけか。今さら君に何ができるのだろう。何を知りたいのか知らないが、秘密といえるような秘密など何もない。だがすべてが明らかになっているわけでもないだろう。すべてとは知りたいのことのすべてなのか。だがそれがすべてでないことも知っているはずか。いったい何をもってすべてだと見なせば気が済むのか。何をどう定義しようと気が済むはずもなく、誰かの意識は絶えずそれ以外を知りたがっている。好奇心という心は中毒性そのものなのか。もう少し柔らかな表現を思いつけないものか。それらの言葉の連なりには柔軟性が欠けているだろうか。いつも同じような言葉しか登場せず、同じ面子の違う組み合わせによって、何か新しい気分を醸し出すことができるだろうか。それとは違う側面を欲しているのかも知れないが、それ以外に何を見出せばいいのだろう。またもやそこで行き詰まりか。それの何が行き詰まりなのだろう。画面が心持ち左側に傾いているのかも知れない。それとこれとは無関係かも知れないが、気分次第で行き詰まりを打開できるかも知れず、その程度で打開できる行き詰まりなど行き詰まりとはいえないのではないか。行き詰まった画面から目を離して、君は何を見ているのだろうか。こんなはずではなかったか。それはいつも思っていることだろうか。他にいつも何を思っているのだろう。とりあえず目的がない。目的はいつも放棄されている。至ることのない言葉の連なりに感動できるはずもないか。では何を読んでいるのだろう。そこで何が踊っているのか。心が躍るはずもなく、キーボードを叩く指が踊っているはずもない。君にはそれが理解できない。いつの間にか静寂が辺りを支配しているように感じられ、何の物音も聞こえないふりをしていることが滑稽に思われてくる。耳をふさげば呪いが襲いかかるか。それは誰の呪いなのか。あるいは呪われていることは楽しいことか。何をわざと間違っているのだろう。ついでに何も思わないことも嘘なのだろうか。他に何を思えばいいのか。他もなく何もないことに呆れ果てるだけか。そんなごまかしが通用するか。通用しないなら他に何を通用させればいいのだろう。この世に通用させたい論理を思いつかない。それは論理ではないだろう。決まり事にはなりそうもなく、語ることのすべてが優柔不断さを醸し出しているようだ。そもそも何を語っているのでもないわけだから、そんなことはどうでもいいことか。たぶんすべてがどうでもいいことなのだろう。しかしどうでもいいように思われることを執拗に語っていること自体かなり矛盾していないか。矛盾もどうでもいいことの範疇に入るだろうか。矛盾していようといまいと、その矛盾自体を問題にするような状況にないらしく、矛盾は矛盾としてそのまま放置され、それに気を止める気配もなく、一向にまとまらない文章をまとめる気もなく、結局何を述べているのでもないような文章になっていることを認めざるを得なくなる。しかしそれを認めてどうするのか。認められないことを無理に認めようとしているわけではなく、どのような文章であろうとなかろうと、そのありのままの姿をどう思うわけでもない。文章は姿ではなくその内容が重要なのだろうか。内容がないのに重要も何もありはしないか。だがそんな無用で行き詰まりを打開したような気になる。特定の内容に囚われることなく自由を実現できたように思われる。たぶん冗談でそんなことを述べているのだろう。何が自由であるわけもなく、不自由が自由だと勘違いしているだけではないのか。ではそこからどんな結論が導き出されるのか。今日もまたつまらないことにこだわりすぎていて、ただ何も語らないことに専念している。言葉が偽りの文章を構成し、それ以上に必要のないことが延々と述べられ、それをやめられなくなり、君に関する意見はどこかに追いやられて、それが日の目を見ることはなさそうに思える。


3月26日

 錯覚も感覚の一種なのだろう。言葉は述べていることのすべてを否定している。何が間違っているかはわかっているつもりだ。君が間違うのも無理はないか。それほど不思議には思わない。何を述べているのかわからないことの何がおかしいのだろう。では不思議に思わないことはどんな内容なのか。どこまで行っても会話は成り立たず、その調子で平行線上を突き進むしかないのだろうか。誰がそれを望んでいるのだろう。望まない話は望むように修正を施す必要がある。しかしそれを誰が望んでいるわけでもなく、君は何も望まないように自らの心を制御している。そんな話がどこにあるのだろう。誰かはどんな話の出現を望んでいるのだろうか。そこに出現しているのは話ではなく、単なる言葉の羅列にすぎない。それが話として成立することは永遠にない。だがそんな断言は嘘に決まっている。そして決まりようのない不確かなことを述べている。決定的に言葉がつながらない。どうしてそうなってしまうのか理解できない。それは偶然のなせる業だろうか。それが偶然であることを理解してどうするのだろう。話はそこからどう展開することもなく、ただ語ることのすべてを否定しにかかってしまうかも知れず、それでは話にならないことを承知しながらも、それを語っているつもりの君にはどうにもできないことを悟らされるだけのようだ。困難な事態を打開できない。たぶんそれを困難だとは思っていないのだろう。困難でないから打開する必要はないか。それはどういうことなのか。どういうことでもなくそういうことでもない。ただ語っていることのすべてが否定されるだけだ。君は黙ってその否定作用に従うだけか。そして気がつけば心が虚無に浸食されている。寒がっているのは君だけではないことを祈ろう。ウケねらいの言説から遠ざからなければならない。例えばスポーツの試合結果について利いた風な見解を示すのは恥ずかしいことか。誰もがそうしているではないか。君はそれが他人事だと思っているわけか。他人事でなければ何になるのだろう。日々努力することの正しさを教えてくれて、勇気づけられるかも知れない。それで楽しい気分に近づくだろうか。そういうことではなく、真面目に仕事に取り組む気になるかも知れない。ではふざけるのは良くないことなのだろうか。時と場合によるだろう。ふざけてもいいタイミングでふざければ、そのふざけていることの意味を理解してくれるかも知れない。誰に理解してほしいのだろう。何を理解させたいのか。君がふざけているなんて誰も思わないだろう。何をもって自らがふざけていると主張したいのだろう。何かそれをわかる手がかりを提示できないものか。今の君にそれを求めるのは酷というものか。なぜそんな風に思われるのだろう。語っていることのすべてが嘘だからか。君は何から遠ざかろうとしていたのだろう。沈黙の静けさから逃げ出そうとしているわけか。なぜ語っているのに沈黙に支配されているのか。ならば言葉は何を物語っているのだろうか。何がそれらの言葉を構成しているのか。見え透いた嘘から当たり前の事実まで、君にそれらを組み合わせて文章を構成する技量が備わっているだろうか。それらが文章でないはずがない。結果的に言葉の連なりは文章を構成している。ありふれた成り行きに従って、ありふれた言葉がありふれた順番で並び、ありふれた文章がありふれた画面上に記される。君はそんな成り行きに疑問を感じないのだろうか。それは自らが語っている文章ではないのか。そうでないとしたら誰が語っているのか。誰が語っているわけでもなく、君が何を語っているわけでもない。要するに君は君自身の存在を否定したいわけだ。しかしそんなわかりやすい結論では納得しないだろう。いったい誰を納得させたいのか。君は何に納得すればいいのだろう。それらの文章をどのように変更すれば納得してくれるのか。そういう話ではないか。では夜に目覚め、文章と共消え去ろうとしている思いの正体でも知りたいか。何を思っているわけでもなく、誰が何を思ってもそんな思いなど無効になってしまうような状況なのかも知れず、しかもそれが何を意味するわけでもない。何を語っているのでもなく、何を語りたいのでもなく、そんなどうでもいいことが文中に記されている状況に耐えられないのかも知れない。だが他に何を求めているのだろう。


3月25日

 誰かは自分の力量を把握していない。君はこれまでに何を見てきたのか。この世界には何か見るべきものがあるのだろうか。いったいそこで何をやっているのだろう。実際に見てきたことややってきたことについて何を述べられるのか。何を述べてもかまわないが、そのような言説には驚きが欠けている。君は何に対して驚かなければならないのか。この世界の中に驚くべき対象を見出せないのなら、すべてが起こるべくして起こったことでしかないわけか。かなり傲慢なことを述べているかも知れない。とりあえず簡単に述べられるようなことは無視すべきらしい。理由など何もありはしない。たぶん確かなことは何も述べられないのだろう。いくら画面を見つめても光以外は何も出てこない。それが画面を見つめていることになるだろうか。理由を知りたいのではなく、動作の意味を知りたいのではないか。できることならそんな風に行動していることの真意を知りたいのではないか。不可視の行動の全容と明らかにしたいわけか。まるで何を述べているのかわからなくなる。どこかで難破し座礁しているようだ。行き先も知らずに外へ飛び出るとひどい目に遭う。想像力にも限界がありそうだ。感性はどこに追いつめられているのか。だがそこが袋小路であるわけがなく、必ずどこかに抜け道があるはずか。印象だけで断定してはいけない。語りようのないことは語れなくて当然だ。それが芸術だなんて勘違いもいいところか。では破棄されて当然の文章なのだろうか。何を捨て去ることが可能なのか。それらの独白には限りがない。誰が告白しているのかもわからず、告白の内容もありふれている。誰かはそこで何を告白しているのか。自らの過ちでも告白して罪の重さを減じてもらいたいのだろうか。何かが裏返っている。仮面の裏側には何が記されているのか。それが君の告白だといえるだろうか。告白の義務などあるわけがないだろう。しかし仮面が告白してしまったら誰かの小説になってしまうだろう。冗談としてそのようなことを述べているわけか。読みもしない小説が冗談の材料になり得るだろうか。共同体としての幻想の国家像に何を託せば死ぬことができるのか。君は死ぬために何をやっているわけでもなく、それは生きるためでさえない。では単なる強がりか。冗談を述べることが何の強がりになるのか。他に何を知り得るだろうか。知る手がかりを提示してほしいか。その代わりにさらに不明確なことを述べ続けている。君に不可能はない。それがふざけた誇大妄想だろうと、たぶん真実に違いない。たとえ嘘であっても真実に違いない。だがそれが何を意味するのだろうか。ただわけがわからなくなるだけか。何について語っているのかわからない。何を演じているわけでもない。何も演じられないから話にならないのだろう。だから話に主人公など必要ないわけだ。そして君は何を語っているのでもなく、そこで何が語られているのでもない。そういう話になってしまうと誰が困るのか。君以外の誰がそこにいるわけか。誰もいなければ君もいないだろう。君について誰も語らなくなってしまう。ではそんな君とはどんな存在なのだろうか。そこからどのようなエピソードを構成することができるのか。それの何がおもしろいのか。誰もつまらない話には興味はないようだ。しかしそれのどこがつまらない話なのだろう。何が話になっているのだろうか。君はそこで何を告白しているのか。まったく何もない。そしてそこには何かがあり、それは言葉の連なりを形成しているらしい。話になっていないのに、それが話を構成している。そういうやり方は卑怯に思われ、何となく後ろ暗いことをやっている気がしてくる。君はそんなやましさにいつまで耐えられるだろうか。耐えられなくなったらどうするのか。逃げ道はどこにもない。そしてそこから道が続いていて、それがどこへ続いているのかわからない。道などいくらでもあり、陸地の地表面上では無数の道が走っていて、幾重にも交錯しているだろう。どの道を歩んでもどこかにたどり着く。そしてたどり着いたそこが場所なのだ。そこは何をするための場所でもなく、何かをするための場所でもある。どちらでもかまわないのだろうか。どこで迷ってもかまわない。いつ何時でも迷っていてかまわない。それは誰が迷う場所でもなく、君が迷う場所でさえない。それでも誰かが迷っているわけだ。馬鹿げた話になってしまったかも知れない。それが最後の告白になるだろうか。


3月24日

 わからないことはいつまでもわからないだろう。わからないことに賞味期限があるわけではないが、それに関して比喩的に何を述べているわけでもなく、直接何を述べているとも思えない。何か他にたとえ話でも思いつくだろうか。雲の上には青空が広がっているかも知れない。遠くを見つめる眼差しはどこまでも遠い。それの何が間違っているのか。感情の行き先を知りたくなる。もたらされているのはどのような感情でもなさそうだ。文章の中に息吹を感じられない。何かが分解している。辺り一面には何かの残り滓や断片が散らばっている。壁と壁の境目には綿埃がたまっている。角が取れて丸くなることはない。ではどこが丸くなっているのだろう。数知れぬ失敗を繰り返してきたのに、まだ懲りていないようだ。失敗の数だけ何が生じたのだろうか。もたらされている物事に気づかないのだが、それも失敗のうちの一つか。顔が腫れ上がるまで殴り合っているのは画面に映っているどこかのプロボクサーか。関係のないことを書き記すのがそんなに楽しいか。それが自由だとは思うまい。では誰に操られているのだろうか。わざととんちんかんなことを書き記すのにも飽きてきた。何を愛しているわけでもなく、誰に何を指図しているわけでもない。そこまで威光が届かないのか。しかし自由とは何だろう。風がないので空気が淀んでいるようだ。煙草の火は二日前に消えている。その煙と共に誰かが去っていってようだ。煙草の広告には自由があるのだろうか。何かの表現から圧迫を受けている。だがそれが何かの表現では意味不明だ。だから伝えることは何もないように思えてしまう。そこで探索が終了してしまうわけか。さっきまでどんな言葉を検索していたのか。まだそのときの記憶が生きているらしい。そこから遠ざかるにはどうしたらいいのだろう。それぞれの意識が別々の方角を向いているようだが、意識の複数性を単独の人格の中に閉じこめることはできない。何がそこで矛盾しているのか。アクロバティックに語ろうとしているのではなく、単にわかりやすく語ることができないだけのようだ。それは何のための評価につながるのか。言葉を消化し切れていないようで、まったく文章の内容を見出せない。いくら逃げてもわかりやすさを獲得することができないばかりか、その代わりにもたらされているわけのわからなさからも見放されているような気になってくる。はたしてそれらのでたらめな言葉の羅列から困惑の表情をもたらすことができようか。たぶんどこかで互いの意識がすれ違っているのかも知れないが、その互いの一方が君であるとは思えず、もう一方も誰かではないような気もしてきて、結局何を述べているのかわからなくなり、述べていることの内容をさっさと放棄して、またいい加減にそれとは関係のないことを語り始めてしまい、まったくまとまりを欠き、収拾をつけようとする気も起こらなくなる。それが自由だといえるだろうか。ただの戯れ言が延々と続いているだけか。その執拗さは冗談とは思えないような真剣さをもたらすだろうか。だが真剣に何を語っているとも思えず、どちらにしろ中途半端なところで妥協しなければならなくなり、そうではないと思いつつも、そんなことを思っている自らが愚かしく思われてくる。それで良くないことはわかりきっているのだが、その良くないことを延々と続ける羽目に陥っている状況をどうすることもできずに、ただ焦り動揺するばかりで、他に何もできないことから生じる焦燥感と共に、一方ではそれを利用しながら語り続けている後ろめたさを認めざるを得ず、そんなやり場のない心境の中に、語ることの真実があるのだろうか。それはどのような行程なのだろうか。断続的に繰り出される言葉の軌跡をなぞりながら、そこにどんな真実を見出しているのか。そのような工程を経ないと真実の語りには至らないのだろうか。しかしそれらの何が真実の語りなのだろう。どこに至っているとも感じられず、それらのすべてが間に合わせの文章としか思えず、その場限りの嘘や冗談からしか構成されていないような気がしている。それで君は誰を騙しているつもりになれるのか。君自身は何に騙されているのだろう。言葉をそれが醸し出している雰囲気に騙されているのだろうか。そんな浅はかなものに騙されたつもりになれば、何とか急場を乗り切った気にでもなれるのか。


3月23日

 何となくそうではないような気がするのだが、そんな状況に納得していてはいけない。気に入らないならその趣旨を伝えなければならないようだ。伝える相手が見当たらないのではないか。空の色を知りたい。何とかそこから脱出しなければならない。どこから抜け出ようとしているのだろう。抜け出る方法を思いつけない。見出されているのはそんなことではない。何をそんなに困惑しているのか。君の作り話を確かめることができるだろうか。知識はみんなテレビからもたらされているのだろうか。カラフルな街並みを非現実的だと思うのはなぜだろう。灰色の街並みを見てカラフルだと感じるだろうか。皮膚がこすれて痛くなる。いつの間にかこんな場所に出てしまったようだ。風はどこから吹いているのだろうか。微かに文字の匂いがする。言葉と経験はどう結びつくのか。それは経験ではない。ではなぜねじが回転しているのだろう。脈絡のないつながりが文章を形成する。異なる概念をわざと結びつけようとしている。心が石になるわけがない。そこでどのようなイメージをかき立てられているのか。言葉には匂いと味がする。だがそんなことをの述べているうちに何を述べているのかわからなくなってくる。考えれば考えるほどそれは違うと思われてくる。そういう話ではないだろう。すでに述べることが何もなくなっていることに気づいているらしい。口の中が苦くなっている感じがする。プレッシャーに耐えられなくなっているわけだ。そんなことしか述べられない。以前から明らかに後退しているだろうか。君には遠すぎるのだろう。もはや何をするにも手遅れなのかも知れない。それでも述べようとしているのだから、正気とは思えないか。正気でやっていることではないのかも知れない。本当にそういうことなのだろうか。まったく比喩になっていないだろう。結果として意味不明な内容になってしまう。もたらされている状況の本質を理解していない。君は試されているのだろうか。しかし何がそれらの試練なのか。それがわかれば苦労はしないか。できることならそこから遠ざかりたいが、言葉がまとわりついて離れようとしない。まるで蔓のように心に巻き付いて離れない。しかもそれで何を述べようというのでもないらしい。まるでこの世は情報地獄だ。どうでもいいような情報が拡大解釈され、四六時中それに振り回される。つまらない出来事に行く手を遮られ、そんなことにかかずらっているうちに、他に何をしたらいいのかわからなくなる。自らのやりたいことがわからないのは当然のことだ。やりたいことなど何もないというのは真実かも知れない。しかし何をもって真実だと見なすのか。何がそこでの真実なのだろう。それについて何をどう判断すればいいのだろう。たぶんつまらないことにこだわりすぎているのだろう。本心から何を求めているわけでもなく、何がもたらされようとそれについてどう思っているわけでもなく、結局身の回りにからみついているどうでもいいようなことに神経を磨り減らし、そこから抜け出られない境遇をどうすることもできずにいるだけか。しかし何かを述べればそんな否定的なことばかりでは気が滅入ってしまうのではないか。すでに滅入りすぎていて何も感じなくなっているのかも知れず、しかもそんな状況でもなおのこと否定的なことを述べてしまうわけだ。だがそう述べることによって何がもたらされているのだろう。君がそれで何を否定していることになるのだろうか。俄には何も思いつかないのだが、君が何を述べようと、またこの世界についてどう思ってみても、それで何がどうなるわけでもないように思えてしまうことの何が間違っているのか。それは正しい認識なのだろうか。どのような正しさなのだろうか。あるいは何が正しく何が間違っているわけでもないのだろうか。まったくその辺で理解の外に出てしまうような気がしてくる。それでも思考を巡らしているつもりなのだろうか。そうだとすればそこから何か肯定的な思惟作用が出てこないものか。この世界の中で何か肯定すべき対象を探し出すことができるだろうか。例えばこの世界がただの世界以外の何ものでもないことを肯定すべきなのだろうか。たとえそれを肯定したからといって、何がどうなるわけでもないかも知れないが、それ以上は何も考えつかないらしく、そのような認識に至るしかないようだ。


3月22日

 迷路の片隅に雑草が生い茂る。ひまわりの種でもまいてみようか。畑がどこにあるのだろうか。気晴らしの種を買いに行かないか。軽い気持ちで嘘をつき、深刻ぶって悲嘆に暮れてみる。そんな芸当ができる状況ではないか。君は社会科学というものを信用していない。またまわりくどいことを述べようとしている。屋根を叩く雨音を聞きながら、何も思いつかないことを気にするでもなく、ただ適当に言葉を並べて悦に入っているだけか。何を卑下しているのか。卑下しているのではなく、それが紛う方ない現実なのだろうか。そしてそのような現実の中に埋もれていることを恥ずかしく思い、そんな思いを抱いている自らを卑下しているわけか。言葉を連ねているうちに、本気でそんなことを思っているのでもないような気がしてくる。そんな嘘にも語り方次第では説得力が宿るだろうか。しかしそんな風に語ることによって、何をずらしているのだろう。だがそれで煩わしい日常の作業をうち捨てることなどできはしない。たぶん誰が読むべき文章でもないのだろう。つぎはぎだらけの言葉が連続している。しばらく鬱状態のままで推移しているらしい。喉もと過ぎれば熱さを忘れるわけがない。気に入らない状況から退散しようとしているわけか。どこから逃げているのかわからない。逃げているふりをしながらも、誰を出し抜こうとしているのだろう。それはつまらない遠回りにしかならないだろう。逃げているふりをすることが、結果的に逃げていることになっていないのかも知れない。そんなことはわかりきっていることか。では迂回しながらも何に近づいているのだろうか。自ら構成している空疎な言説に、批判すべき論点を見出せないか。つながらない話をつなげようとしているわけではない。何も思わない状況が思考力を腐らせる。もう何も思いたくない。そう思うことが思いを裏切っているわけか。だがそれでしてやったりとはいかないだろう。気がつけば相変わらずの意味不明が続いている。それでは気の休まる暇もないか。では気休めに何を述べようとしているのか。ふざけてピントの外れた批判でも繰り返してみようか。それ以前に批判する対象を探し出さなければならない。空き瓶から泥水がこぼれ落ちる。それはどんな幻想なのだろう。目の前で展開されている現実からは程遠い。君はひたすら画面を見つめ、そこに何もないことを確認している。泥縄式でも何も出てこないか。そこまでやる必要はないのかも知れない。見たことも聞いたこともないようなものの出現を求めているわけではない。疲労を取り去ってもらいたいのか。それで危機を脱するわけにはいかないか。とりとめもない困難が続々と待ちかまえているらしい。できることならそれが単なる通過儀礼であってほしいか。やらないで済ますわけにはいかないだろうか。また何を避けようとしているのだろう。そろそろ固有名でも持ち出して論を展開させるべきか。できもしないことを述べてみても仕方がないか。そこから遠ざかるにはまだ言葉が足りないのだろうか。逆に言葉が多すぎていちいち選んでいる暇がない。一方でそれが語彙の貧困を招いていると思われ、まったく見当違いのことを述べ続けているような気がしてならない。述べている途中から何に反論しているのかわからなくなる。反論しているのではなく、反論しながら同意しているのではないのか。結果的にそう受け取られても仕方のないようなことを述べているらしい。だからそれ以上は何も述べられなくなってしまうのだろうか。言葉の多数性を理解しながらも、そこから構成される意識の唯一性を信じて止まないのだから、開いた口がふさがらない。いい加減そこで生じている矛盾に気づいてほしいか。そんなことに気づく方がおかしいのであり、個人が個人であることに何の矛盾も感じられないのだろう。だからそれ以上は何も述べられなくなり、無理に言葉を繰り出せば、かつて述べていたことの繰り返しにしかなっていないことに気づくはずもなく、そんなところで自己満足に浸っている自らを許してしまうわけだ。しかしそこから先に何があるのだろうか。そこで立ち止まっていてはまずい理由を知らず、自ら立ち止まっていることさえ理解できず、何か新しい思考に至ったような気になり、何となく悟りの境地に達したように思われてしまうのだろうか。君はまだそこまではいっていないか。


3月21日

 何を気遣っているのだろうか。どこにも隙間が見当たらず、とりつく島もありはしない。語っている内容はたかが知れているが、その語り方が尋常ではないと思いつつも、狂気に逃げる気もしない。ただ何を語るにも中途半端になってしまう。すでに夜が明けたらしいが、まだそんな時間だ。どうやら時間の使い方を間違えているらしい。そしてそれから数時間が経ち、夕暮れ時に朝に語っていた内容がわからなくなる。どうしてそういうことを語ってしまうのか。何か気に入らないことでもあるのだろうか。できればそれについて何か理由を知りたいところだが、理由が単純であるわけでもない。それは理由ではなく、動機など何も見当たらない。しかも語りの中身は何もなく、結局そこでは何も起こらなかったことになるだろう。誰が何を起こそうというのでもないらしく、人々がくだらぬイベントに心を奪われているうちに、誰かの頭が空っぽになってしまう。そこまでやる必要がどこにあるのか。だから理由など何もないのだろう。ならば孤独の痛みとは何だろう。そんな意味のない言葉の断片を放棄できるだろうか。それともそこから何らかの脈絡を導き出せるのだろうか。それらの何がフィクションなのか。何を読んでいるのでもなさそうだ。映像は魔術の一種だろうか。人はそれらの映像を見ながら何を思うのだろう。だが実際の成り行きは、様々な思惑が複雑に入り組んでいるようで、そういう単純な話にはならない。具体的に何がそれらの映像なのだろうか。君はそこからどんな意味を抽出したのか。何も見出せないと思うのはなぜだろう。そしてそれでも言葉の断片をつなぎ合わせて、いい加減に文章を構成しようとしているようだが、それで何を述べているつもりになれるのか。対象となる映像を知らず、批評する動機も見当たらないのに、今さら何を述べているのだろう。起源のない言説には意味が宿らない。語る対象のない文章には中身がない。では他に何を知りたいのか。何も知らなくてもかまわないのだろうか。たぶん意識は世の中の表層を彷徨っている現象を把握できていないのだろう。そこから何を把握したいとも思わない。しかし逃げ場はどこにも見当たらない。何を避けられるわけもない。すでに退路を断たれているのだろうか。やはりそういう話ではないのか。何をどうすれば文章の中身を獲得できるのだろう。それにはどのような精神状態を経験しなければならないのか。そういう話でもないような気もする。では本気になれとはどういうことだろう。何に対して本気になれないのだろうか。思いの過剰な発露を嫌っているのかも知れない。何を軽く見ているのか。たぶん娯楽には気休め以上の効用があると思っているのだろう。どこの誰がそう思っているのか。誰が何を思っているのでもなく、ただ言葉が連なっているだけのようだ。そこに意識を感じられず、それらの文章を介して何を思いたいわけでもない。では君は何を相対化しようとしているのか。まともな言説とはなりがたい。何を知ることもなく、何を知りたいわけでもない。気持ちは風に揺られ、身体は不動のまま地面に突き刺さっている。これからありもしない話をできるわけもなく、何を思いつくわけでもない。君は何を求めているわけもなく、人々はすべてを求めている。君の存在は虚構であり、幻影の出現には歯止めがかからない。ここまで来るのにどれほどの力が注ぎ込まれているのか。いったい何に関心を持てばいいのだろう。意識はいつも蚊帳の外にあるらしく、文章の中に入り込むことはできない。代わりに食い込んでくるのは何なのか。地面にくさびが打ち込まれる。ここに至って理由など何もない。何も提示できないうちに夜になってしまったようだ。それでもまだその先に向かって何かを語らなければならず、そんな理由のない義務感に苛まれているのだろうか。それらの映像の中で誰が何を語りかけているわけでもない。語っているのではなく、身体が動いているのだ。何かが動き回っている。映像とはそういうものなのだろう。しかしそれはどんな映像なのだろうか。そんな映像などとっくに忘れてしまった。たぶん君の心には迷いが生じているのだろう。そんなことを述べても仕方がないと思い始めている。別に君は映像の話をしたかったわけではなく、何を語りたかったわけでもないらしい。ただ言葉を連ねている現状がある。


3月20日

 何か気晴らしの娯楽はないだろうか。誰が何を探しているのでもなく、これから何をしようというのでもないらしい。ただいい加減に言葉を繰り出して文章を構成したいだけか。一刻も早くそんな状況から逃れたいのかも知れず、そのために心はそんな状況のただ中でもがき苦しんでいるのだろう。要するに思っていることとやっていることが矛盾しているのだ。まだ階段を駆け下りていく状況ではない。それは何を暗示させるのか。そんな動作を繰り返す気もなく、何となく何かにもてあそばれているような気もしてくるが、つまらない水準で何かを述べようとすると、とたんに馬鹿にされているような気分になってしまうらしい。誰に馬鹿にされているのでもなく、自らに馬鹿にされている。申し訳ないように思われてしまう。そんな状態が続いてしまうと焦りを誘い、さらに同じようなことを述べてしまうらしい。その程度ことで悲観的になってはやっていられないが、やっていられないならやめるしかないか。やめられないのにやめるしかないかはないだろう。そうやってやめることは選択肢から外されてしまうらしい。それは言葉のあやにすぎない。抜け殻状態で出がらし状態なのに、まだそこから文章を紡ぎ出そうとしている。それは予定にはないことだろうか。他に何か予定があっただろうか。何を予定として仮定していたのか。何か設定すべき計画などあっただろうか。だがこれからどうすればいいのだろう。どうにもできないのにどうにかしたいらしく、さかんに思考を巡らして、次なる一手を探っているようだ。今さらそんなことをやっても無駄だろうか。何をやろうとしているかもわからずに、何をやろうとしているのか。とりあえず君はその状況から飛翔しなければならない。そこから飛び立って、別の状況の中に着地する必要がある。そのために移動しているわけか。夜道を進んで行き、行き止まりの前で一息ついている。これからどうすればいいのだろう。君に何かを思っている暇があるだろうか。思いつくために立ち止まっているわけか。そこで何も思いつかなければ、そのまま無意味に言葉が連なってしまうだけか。それでもかまわないなら、そのまま言葉を記し続けていればいい。しかしそんなことをやって何になるのか。何か得られるものを期待しながら言葉を記し続けているわけではない。何も得られなくてもノルマを達成したいだけか。ノルマとは何だろうか。はたしてそれがノルマになるのだろうか。では他に何を思えばいいのだろう。思うのではなく言葉を記していればいいわけか。結果は残酷なものになってしまうかも知れないが、それを受け止められるだけの度量がどこにあるのか。たぶん君は心が広いのだろう。そんな文章でも許してしまうのかも知れない。いつまでもつまらない水準にとどまり続け、その文章のつまらなさを味わい尽くさねば気が済まないのかも知れず、そこから何を得られるわけでもないような行為の中に君の心が宿っているのだろうか。それが心といえるだろうか。心とはどのようなものなのか。何となくそこから意味を見出せないような気がしてきて、はじめから無意味であることを望んでいるような心を捨て去りたくなってくるだろうか。たぶん無意味な行為の中にも意味は宿っているのかも知れず、その意味を汲み尽くそうとしている無意識がそこに働いているのかも知れない。だから闇雲に言葉を弄して、何らかの結果にたどり着くことを目指しているわけか。しかしそれで通用するような世の中なのか。通用しなければ通用させるように努力し続けなければならないわけか。それはそのための努力なのだろうか。だがそれの何が努力といえるだろう。それで君は何をやっているつもりになれるのか。無駄に言葉を連ねて文章を構成することに快楽を見出しているわけか。そんな快楽がどこにあるというのか。それは快楽ではなく苦痛そのものなのかも知れないが、それでもそんな苦痛などすぐに忘却の彼方へ消え去り、無意識に従って言葉を連ね続ける機械仕掛けの君を風景の中に見出している。そんな風景がどこにあるのだろう。それは絵画の一種だろうか。何かの絵の中に君が塗り込められていて、それを誰がのぞき込んでいるのだろう。そしてそういうあり得ない空想によって何から逃げているつもりなのか。何から逃げているのでもなく、それらの光景のただ中に意識があるのかも知れない。だがそれは誰の意識なのか。


3月19日

 何となく退潮傾向を感じている。展開して変節してしまっているらしい。それは否定すべき現象だろうか。人々は何を浮かれているのか。中にはそういう人もいるということか。この国の憲法にはどのような理念が記されていたのだろうか。何やら現実離れしていて歯の浮くような台詞でもちりばめられているだろうか。そういう内容でもないような気もする。それは駄洒落の類か。何を述べているのかわけがわからない。たぶんそんなことを述べたいのではないのだろう。憲法の内容など知らなくても生きていけることは確かだ。君はそれ以外に何を知っているのだろうか。なぜそれがそれ以外の内容なのか。とりあえず今は昔ではなく未来でもない。今を生きている自らが存在しているようだ。何をまわりくどいことを述べているのか。それは馬鹿げたことではなく、感じ方によっては馬鹿げたことでもある。もう少し肯定的な内容にできないか。心はどこから戻ってきたのだろうか。それは心ではないのかも知れない。君はそこで何を見ているのか。そして何を見損なっているのか。一過性の騒ぎにも同調すべきなのか。何に同調しようとしているのか。なぜ世界はねじれているのだろうか。人もねじれ心も言葉も土地もねじれている。海はどうなのか。ただ波打っているだけだろうか。砂浜はどうなのだろう。街並みは何を象徴しているのだろう。高層ビルの群れは何を意味するのか。鳥は羽ばたき魚は水中に潜る。それらの何が心を写しているのだろう。空想の画家は何もない表面に何を描きたいのか。そんなことはあり得ない。風が吹き枯れ葉が舞い、風景は揺れ動く。水面に映し出された誰かの顔も揺れている。それが無意識でないことも確かだ。空想の世界では遠近感が欠けている。視力がだいぶ落ちたようだ。それは無難な述べ方だろうか。誰の真似をしているのか。誰かの顔が歪んでいる。鏡がたわんでいるのかも知れない。その場にはどのような力が働いているのだろう。それももうすぐ消え去る運命だろうか。君は誰の運命を予言したのだろう。そこには誰もいない。誰が存在しているわけでもなく、何があるわけでもない。君によって何が見出されているわけでもなく、どんな見解が示されているわけでもない。だからいつもの行き詰まりが到来しているわけか。それで何を述べていることになるのか。それでも言葉は何かを示している。たぶん抑揚の類だろう。何かの波が押し寄せているのだ。物資の波動性と粒子性が渾然一体となり、人の心に何かを感じさせているのだろう。見渡せば夜景の中に人工の光が点在している。その光の下で人々がうごめいている。遠くから眺めれば人は物質の一種にすぎず、近づきすぎれば暴力を誘発する。心に近づきすぎると感情が暴発してしまうのだろう。それが自己防衛本能なのだろうか。常に一定の距離を保っていなければならず、つかず離れず辛抱強く見つめることが肝心なのか。言葉はそのためにあるのかも知れず、人と人の間には言葉が必要なのだろう。性急に利益を求めると、言葉は消え去り、暴力が顕在化してくる。常に他人を自分の思い通りに支配したくなる。それが人間関係の崩壊を招いているのか。暴力によって人間でなくなれば何になるというのか。それでも人間なのだろう。暴力こそが人間の本質的な欲望を反映している。だから暴力を放棄した人間は人間でなくなってしまうのだ。理性的な人間は常に人間から逸脱しようとしている。そんな人間にはなりたくはないか。しかし誰が人間になろうとしているのか。戦争好きのどこかの国の大統領は人間なのだろうか。たぶん彼は懸命に人間になろうとしているのだろう。そこから逸脱しては自己崩壊すると思い込んでいる。君はそんな人間像から逸脱しているといえるのか。他に何から逸脱しているのか。なぜ人間に他があるのだろうか。君は君自身の他人になろうとしているわけか。それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、君は人間の本質を軽蔑しているだけか。軽蔑しつつもそれに支配されている自身が疎ましいか。そしてそういうフィクションは願い下げにしてもらいたいか。何がフィクションを形成しているのか。それは誰の物語でもなく、君自身の現実なのではないか。しかし君とは誰のことを指しているのか。君について語っている文章などどこにもありはしない。それが嘘だといえるだろうか。


3月18日

 今日も言い訳の言葉が降り積もって何らかの文章が構成される。述べても仕方のないことをいつまで述べているつもりなのか。そんな後ろ向きの姿勢を転換できずにいるようだ。君はそこで何を否定しているのだろう。否定できないことを否定しているわけではない。要するに何も肯定できないということか。否定の言葉でしか説明できないようなことを述べている。しかしなぜこの世界には不具合が生じているのだろう。それはどのような不具合なのだろうか。そんな世界の有り様を否定することで何がもたらされるのか。国家が単なる行政組織を超える存在だと解釈している者たちが多すぎるのだろうか。あるいはオリンピックだのパラリンピックだのワールドカップだのと、世界中で四六時中運動会のごとき催し物が開かれている現状がおかしいのだろうか。なぜ人々は国家単位で馬鹿騒ぎをしている現状を容認しているのだろう。誰が容認しているわけでもないか。そんな現状を無批判に受け入れるどころか、その騒ぎに積極的に加わろうという姿勢が、一方では国家間の対立を助長していることに気づかないのだろうか。そんなことは百も承知だろう。たぶんそういう考え方は間違っているのだ。それらの軽薄な馬鹿騒ぎが、各国の人々の融和に貢献しているのかも知れない。何よりもオリンピックの類は平和の祭典である。軽薄な馬鹿騒ぎであるわけがなく、崇高な理念に基づいて行われる行事なのだ。だがなぜそんな冗談を信じたつもりになれるのだろう。そこでは何が崩れ去ろうとしているわけか。君はスポーツを見ることによって馬鹿になろうとしているわけか。馬鹿になっているのはそれを騒ぎ立てながら伝えているメディア側か。しかしそう述べることによって君は何を否定しているつもりなのか。何を否定しているわけでもなく、また何を肯定しているわけでもない。馬鹿になるのは場合によっては良いことかも知れない。他人から馬鹿にされ、軽く見られることによって、その隙に乗じてうまく事を運んで、誰からも気づかれずに自らの計画を遂行できる。そういう話ではないのか。それは何の話なのだろうか。君はそれらの見せ物を斜めから眺めながら何に感動しているのか。何を斜に構えているのか。そういう言葉の用法は間違っているのではないか。別に君の話をしているわけではなく、誰がスポーツについて語っているわけでもない。何となくそれは違うと思われてくる。ただ何となく現状を肯定できない。この世界を肯定するためにはどのような人間にならなければいけないのか。流行りの携帯電話でも買って仲間内でメールを交わし合っていれば世界を肯定できるようになるだろうか。そういう話でもないか。では流行りの服を着て、流行りの髪型にして、流行りの店で飯を食い、流行りの映画を見て、流行りの本を読み、流行りの音楽を聴き、流行りのテレビ番組を見て、要するに流行りのライフスタイルを満喫していればいいのだろうか。それらのすべてを肯定していれば、かなりの馬鹿になれるかも知れない。しかしその場合、馬鹿とはどのような定義で成り立つ言葉なのか。そういう水準で何を論じても低俗な内容になるだけか。もう少しマシなことを述べられないものか。たぶんここで馬鹿と述べている対象はすべて馬鹿ではないのかも知れない。現代人のすべてを敵に回すような事態は避けなければならない。他人の楽しみを馬鹿にして何になるのか。それは冗談などではなく、ただの間違った認識にすぎないのだろう。とりあえず我が道を行くばかりではつまらない。そういうのは愚か者のやることか。ある程度は世間の流行り廃りに敏感でなければセンスを疑われてしまうか。この世界に本質などというものはなく、すべては表層でうごめいている現象にすぎないか。そういう根も葉もない極論は受け入れがたいかも知れないが、少し思考を巡らせれば、少なくとも本質めいた特性を探り当てたつもりになることはできるだろうし、何かわかった風なことを述べることができるかも知れない。差し障りのないことを述べるには、絶えずそういう方向で何かを述べていなければならないのだろう。利いた風なことを語っている必要がある。そのような水準を外れて何かを述べようとすると、とたんに要らぬ誤解や反発を受ける羽目になるのだろう。それでもこの世界の有り様を肯定しなければならないというわけか。


3月17日

 何を避けているのだろう。誰に勝つつもりもなく、誰と対峙しているわけでもない。君には自己主張というものがないのだろうか。遠回しにあやふやなことを述べているようで、何もはっきりとした考えには至らず、どこまで述べてもきりがなさそうだ。何を述べているのでもないのだから、言葉はどこにも響かず、もうすぐ夜になろうとしている。たぶん夜は昼ではないのだろう。なぜ当たり前のことを述べているのか。昼の中に夜を探しても無駄か。廃線のさびたレールの上を風が吹き抜けていく。それはどこかで見た映像だろうか。直にそれを見たわけではなく、画面に映った幻影の類なのだろう。何を敷衍しようとしているのか。その逆なのではないか。その場の雰囲気に惑わされている。また胃を痛めてカフェインの助けを借りるつもりなのか。それとも適合しない言葉を無理矢理つなげようとしているわけか。何かを語ることによって、何が見えてくるわけでもないらしく、意識して何を見ようとしているわけでもない。見ようとしなくても見えてしまうものを見ているだけか。それはものではないかも知れない。現実にそんなものを見ているわけではない。だからそんなものがどんなものなのかわからない。君は何に勝利しなければならないのだろうか。それが何の勝負なのかわからない。何かのゲームにでも参加しているつもりなのか。例えば誰かと我慢比べでもしているわけか。では何をそんなにやせ我慢しているのか。心当たりは何もない。君はそこで誰の存在を知ろうとしているのか。何を知ろうとしているのか、知りたい理由はなく、根拠を欠いている。ゲーム上では敵の存在理由を見出せない。それは敵ではなく、ただの石ころかも知れない。関心を持てないのだから、人も石ころと同じなのかも知れず、それはどういうことでもないのだろう。やはりいつものようにそういう話ではないのだろうか。なぜ話にならないのだろう。根本的に話になりそうな話ではないのかも知れない。安易に語るわけにはいかないのだろうか。君は無駄に語ることによって何を犠牲にしているのか。戯れ言の連続で嫌気が差してきたようだ。そんな思いをどこかに捨て去り、一方で捨て去れるはずのない思いを忘れようとして、他に何かを考えているつもりになる。何を考えているつもりなのか。誰が何を考えているのだろう。たぶん君は間違っているのだろう。語る対象を取り違えていて、その語り方も間違っている。意味を求めようとして無意味に到達してしまう。語っているすべてがとりとめがない。わざとそんな風に感じているのではないか。他人が何をどう感じているのかを知りたいわけか。誰がそれを知りたいのだろう。しかし考えていることはそんなことではなく、ただいい加減に語りながらも、考えがまとまらず、そのまとまりのなさがそのまま文章として出力されているのかも知れない。それが行き詰まりの原因なのか。それが現時点での正しい認識かも知れないが、そんなことを述べても行き詰まりを打開できるわけもなく、さらに内省的な自己言及の罠にはまりつつあるのかも知れない。底が知れぬ深みだ。しかしつまらぬ罠にはまって自己陶酔している場合ではない。ゲームと現実の違いを見極めなければならない。ゲームも一つの現実には違いないが、現実のゲーム化には、ゲーム化の過程で悪しき単純化がまかり通っているのではないか。対戦する相手が常時存在することが何よりもその不自然さを感じさせる。そして単純なルールを伴ったゲームが見せ物と化しているのも、プレーヤーにつまらぬ自己顕示欲を生じさせているのだろう。しかしなぜ自己顕示欲が顕在化するとつまらなく思えてしまうのか。例えば君にはイチローがつまらない人間に思えてくる。彼はもう終わっているのではないだろうか。何をそんなに騒ぐ必要があるのだろうか。彼が騒いでいることに何の必然性も感じられないのはどういうわけなのか。君には野球などどうでもいいように思えてくる。何かが違っているように思えてしまうのだが、その何かが何なのかはわからない。しかしそれは違うと思われてしまうことは、まんざらそれは勘違いではないように感じられて、それによってたぶん彼の終わりを確信してしまうわけだ。ゲームにのめり込むと自らの浅はかさがむき出しになって露呈してしまうのだろう。なぜそうなってしまうのだろうか。


3月16日

 それは何かのコラージュだったかも知れない。誰かが白い壁を見つめている。そこで何が揺れ動いているのか。心が転がる石のように転がっているわけではない。何がそこに転がっているのか。例えばそれが誰かの生首だとしたら、それは戦国時代の話になるだろうか。語っている話の筋が通らない。何を語っているのではなく、何かが転がっているのではなかったか。そんな話がどこに転がっているのだろう。両者を融合させても意味が通らない。実際に何が転がっていたのだろうか。そんなことを語りたいわけではない。何がそれなのか、それをこれから考え出さなければならない。そういう話ではないか。では何をためらっているのか。この世界には譲歩すべき理由が見当たらないようだ。お互いに譲歩できなければ対決するしかないわけか。誰と誰が対決しなければならないのだろう。それで何を避けようとしているわけでもなく、避けがたい状況に直面しているわけでもない。ところでそれとは何だろう。まだそんなことにこだわっている。君はそれに関して何を知っているというのだろう。知っていることを残らず伝えたいわけではない。それどころか伝えたいことなど何もありはしない。だからそこで行き詰まってしまうわけだ。そんなことを述べるためにわざわざ文章を構成しているのか。何を構成しようとしているわけでもなく、それは文章などではない。誰がどこに文章を記しているのでもなく、君はただ困り果て、途方に暮れているだけだ。カフェインを受けつけないような体質になってしまったらしい。なぜか調子が思わしくない。それが何の調子なのかといえば、すべての調子が悪いと言えば嘘になるだろうか。それでも何か述べているらしい。子供だましの言説を擁して何を語ろうとしているのだろう。結果的にはどうかしているように思えるが、それの何が結果なのだろう。そういうことではないのかも知れない。何に対してどう述べればいいのか。悲しみと哀しみの違いを知りたいのか。虚飾を排するわけにはいかないらしい。だが堂々と自らの主張を述べるわけにもいかないようだ。君は自分を信じていないわけか。他に何を信じているのだろう。この世界には何もない。存在する何もかもが引き潮に乗って沖へ出ていってしまう。そういう話ではない。いくらか砂粒が目に入ったようで、しばらくまぶたを開けない。それはいつの記憶なのか。文章の断片をいい加減に組み合わせている。ため息交じりに君は何を思うだろう。とりとめのない会話が何をもたらすのか。それが会話を構成しているわけもなく、部屋の中には誰もいない。人気のない通りには電柱が立っている。暗闇は辺りを覆い、無関心な心は眠りにつく。深夜の風景でも思い浮かべているわけか。多額の金銭を手に入れた人々は、金儲け以外にやりたいことがあるのだろうか。それは浅はかな想像の範囲内で出力された言葉の連なりだ。通貨は出会うべき人々の顔を知らず、紙幣に刷られた誰かの顔は、誰の後ろ姿を目で追っているわけでもない。何も身にしみていないらしい。君はスポンジなどにはなれないか。さびた鉄はいつ朽ち果てるのか。鉄の厚さにもよるだろうか。昼は昼でそれなりに仕事をこなしているはずか。真実がそれらのどこに宿っているか知らないが、君に心当たりがあるわけがない。今の君は方々へ分散してしまっている。君の分身としての言葉は文章のどこにもつながらない。部分を知らず、全体にも至らない。それでもかろうじて何がつながっているのだろうか。誠実さが足りないのかも知れない。しかしそれほど綱渡りをやっている感覚はない。無意識は危機が間近に迫っていると感じるだろうか。考えていたことが浅はかだったかも知れない。その愚かしさを今さら後悔している。愚かなままで楽しさを演出できるのか。夢の中では何を語っていたのか。試しに何か適当なことを述べてみよう。だが価値観が喪失している。そうすることにいかほどの価値があるというのか。それらの語りはただの意味不明にすぎないだろう。語るべき対象を持たず、語らない状態を選べず、言葉は自然に連なってしまい、それでまともな文章になるわけがない。冗談でそんなことを述べているのだろうか。その辺の真意がつかめないが、それは誰の真意でもなく、文章のどこに誰の意識が介在しているわけでもない。しかしそんな嘘がどこで通用しているのか。


3月15日

 何が壮大な実験場と化しているのだろう。何も思えないのは幸運の兆しなのだろうか。空白はどこにでも存在しているが、それは空白などではない。そこには何もないわけではなく、何もないと思い込むことによって、何を否定したいわけでもない。それはどういうことなのだろうか。君は何かの誘惑に負けているのか。無駄に言葉を弄しているうちに、また怠惰に流されてしまうのだろうか。それらの疑念はどこからもたらされているのか。見えているものは偽りの景色か。暗闇の中で誰の気配を感じているのだろう。それらの文章には何かが欠けているのかも知れない。いくら手間をかけても無駄なのか。空白の中に何かを見出している。壁の表面に黒い染みが浮き出ているように見えるが、それはカビの一種だろうか。別に血が滲み出てきたわけではない。そこにはどんなカラクリが仕掛けられているのか。言葉が空白のどこかに埋め込まれているのかも知れない。心は何を求めているわけでもなく、言葉が誰の心を求めているわけでもない。常に自ずから表出しようとしている。壁紙がはがれて中からセメント詰めの言葉がむき出しになる。そんなわけのわからないことを述べながらも、いったい何を空想しているのか。心は別の時空に浮遊している。そんな嘘もつまらないか。そういう次元の問題ではないだろう。問題など何もありはしない。あるとすればそれは空白そのものか。今からそこに適当な言葉を書き記さなければならない。それは落書きの類だろうか。できることならそんな行為は拒否したいか。誰がそうしたいのだろうか。コンクリートの壁にスプレーペンキで適当な落書きが施されている。それはどこかの塀だったかも知れず、いちいちいつそこに落書きしたかなんて覚えているはずもない。当人は知らぬ存ぜぬを貫き通すつもりか。しかしそれを誰が追及しているわけでもない。君はいつもそこから逃げているばかりだ。逃げ回りすぎて目が回り、どこから逃げているのかも定かではなくなる。そんなことがあり得るだろうか。たぶんそれとは違うことを述べているのだろう。それらはすべて当たり障りのない内容かも知れない。過去はどこまでも過去なのか。ピントがはずれているのだろう。焦点をどこに合わせればいいのかわからない。物語の結末には興味がない。そんな結末はどこにもありはしない。すべては結末を無視し続けながら継続されようとしている。似たような境遇はいくらでもありそうだ。思考がどこに戻ってきているわけでもなく、何を考えようとしているわけでもない。考えられない事態が起こりつつあるわけもない。予期せぬ出来事に遭遇しているわけでもない。だがそれが想定内の出来事だったわけでもない。そんな出来事などどこにもありはしない。何を見出そうとしているわけでもない。思い出そうとしているのはそんなことではない。そこにはもとから何もなかったのかも知れない。ただ意識がそんな現状を否定したくて、空疎な言葉を連ねているにすぎないのかも知れない。結末をそんなに知りたいか。それは何の結末なのだろうか。そして未だ結末に至れないのはどういうわけなのか。誰がどこに至ろうとしているのか。誰もそんなことを知りたいとは思わないだろうし、知る権利もありはしない。でたらめな文章の行く末を誰が予測できるだろうか。それでやる気になっているといえるのか。少なくとも何を述べているのでもない。方向性が間違っている。そこで行き詰まりを迎えているのか。しかし終わりはあり得ない。認識がずれている。たぶん何も感じないのだろう。苦悩することもない。それは現実の社会と同じことだ。ところで傾いた首は治ったのか。なぜ疲れているのだろうか。悪意を感じられない。オーラがどこから生じているわけでもない。君はどこまでも語らなければならない。たとえそれが意味不明な文章であろうと、そんなことはそれらの語りとは無関係なのだ。それらのどこからどこまでが語りなのではなく、それらの文章の中に時折現れる不連続な言葉のつながりを、怪訝な思いと共に読むことで、別の語りを擁すればそこにあり得たかも知れない何らかの語りを想像してみればいいことでしかない。そんな文章なのだから仕方ないのであり、それは修正不能な欠陥なのかも知れないが、とりあえずそれはそれとして、そのような文章を後から読み返さなければならない宿命のようだ。


3月14日

 相変わらず文章の内容が意味不明のままだ。何を語っているのかわからず途方に暮れ、それでも語ろうとする自らが正気ではないように思われてしまう。本当に気が狂っているのかも知れない。冗談はその辺にしておいて、もう少しまとまりのあることを述べてみたらどうか。真昼に空を見上げながら何を思っているわけでもなく、午後の日差しを浴びているうちに気が遠くなる。そういう嘘もつまらない。しかし大きな物語とはどのようなものなのか。例えばそれは人類の進歩と調和といった類の話なのか。あるいは天皇制に関する話も大きな物語の範疇に入るのだろうか。いずれにしてもそんなことはどうでもいいような話でしかないか。基本的に話はおもしろければそれでいいのかも知れない。たとえそれがウケねらいで、皮相さや軽薄さを漂わせていようと、結果的におもしろければ何の文句もつけられないのではないか。だが別につまらない話に文句をつけたいわけでもなく、ただ話すことが何もないのだ。語るべきことなど何もない。しかしそれで文章の形成を断念するわけにはいかないらしい。矛盾していることは承知している。だが世の中の何に焦点を当てればいいのかわからない。どうでもいいと思うならすべてがどうでもよくなってしまうだろう。空を雲が流れている。それの何を理解すればいいのか。情報の海の中で溺れそうになっているだけか。すでに呼吸停止状態なのかも知れない。街の中を人々が群れをなしてうごめいている。それらの現象は何を意味するのだろうか。ただこの世には人が多すぎるということでしかないか。ではなぜそんなに人が多く生きているのだろうか。人類という種族が地上で繁栄しているということか。それの何がおもしろいのだろう。何となく語っている内容が馬鹿げていないか。いったいどこに人類が存在しているのか。その辺でうごめいているあれらは人類ではないのか。それの何がおかしいのか。君は人類をどうしたいのか。君も人類の一員ではないのか。君は君という言葉でしかなく、君は君以外の何者でもない。そんなことはわかりきっている。君が君であることに疑念を差し挟む余地はない。だがそういうことを述べたいのではないだろう。他に何を述べたらいいのか。何を述べていいのかわからなくなる。気がつけば夕暮れ時になっている。人はそこで何をやりたいのだろうか。何もできないとは思わないか。少なくとも何かをやっているつもりにはなれるようだ。誰もがそう思うだろうか。生きている限り何かをやらざるを得なくなる。だが何もやりたくないからといってわざわざ死ぬ必要性は感じない。死ぬことも何かをやらざるを得なくなったうちの一つでしかないか。生きている限り誰もが死にざるを得なくなるわけだ。そんなこともわかりきったことだろうか。ではどうせ何かをやらざるを得なくなるのだから、何かやっていて楽しいことをやりたくならないか。好き好んで辛いことや嫌なことをやる気にはならないか。しかし実際にやらざるを得なくなることが辛いことや嫌なことばかりだとすれば、そんなことはやっていられないか。やっていられなくとも半ば強制的にやらされているとすればどうだろう。それは強制労働の類だろうか。北朝鮮の強制収容所や日本を含む世界各国の刑務所では収監されている者がそんなことをやらされているのだろうが、たぶん多くの一般人も金のためにやらされているのかも知れない。辛いと思われる仕事はみんなそうなのか。幾ばくかの報酬と引き替えにして辛い仕事をやっている人たちが世の中には大勢いるのだろうか。しかしなぜそんな当たり前のことを述べてしまうのか。そんな現状の何が気に入らないのだろうか。嫌な仕事をさせられている人たちに同情でもしていればいいわけか。しかし何をやろうと嫌な思いとすることはあるのではないか。またうんざりすることの連続の中にも少しは楽しい出来事にも遭遇することもあるかも知れない。あるいはいつかそんなことはどうでもいいの範疇から外れた出来事に巡り会う瞬間が訪れるかも知れない。他に何を期待しているわけでもないが、退屈な現状をやり過ごす気にもなれず、これからどんな出来事に巡り会おうと、それについて何を述べようとも思わないかも知れないが、それがつまらないと思うならそれでもかまわないのかも知れない。君にはその程度の認識がお似合いか。


3月13日

 終焉とは何だろう。大きな物語と小さな物語の間に生じている微細な差異を見出せない。人は弱肉強食を受け入れられるだろうか。個人主義に際限はない。服装や髪型や持ち物によって、他者との差異を際立たせたいようだ。それによって他人から尊敬されたいのだろうか。畏怖されるような人間は不要なのかも知れない。嘘か本当か区別のつかないような情報に踊らされて、社会に浸透している退廃に気づかなくなる。気休めに何を述べればいいのだろうか。現実には冗談を交えながら、かなりまわりくどいことを述べているようだ。君は現代において何か顕揚しなければならない価値を提示できるだろうか。何に価値があろうと、それを求めることによって何がもたらされるのか。なぜかいきなり暴走してしまう。どういうわけか理由もなく生き急いでいるようだ。走っている途中では、理論などというものに関心を持てない。立て続けにわけのわからない出来事が重なり合い、それに対処することに時間を割かれてしまい、他に何もできなくなる。本気になれないのはいつものことかも知れないが、誰かは価値至上主義に染まっている。君は誰のことを述べているのだろう。そこでどのような風景を眺めているつもりなのか。物にしろ心にしろ、それを豊かにすることによって何がもたらされるのだろう。君はこの世界に何をもたらすつもりなのか。何もできないことから来る焦りやもどかしさが、君の心に何をもたらしているのか。見つめている方角にはいつもの風景がある。そこには不動の静けさが染みついている。なぜ今さらそんなことを述べているのか。やり方が間違っているのかも知れない。いつまでも状況に適合しないやり方にこだわっているようでは、さらに無意味な成り行きにつき合わされるだろう。永久にそこから出られなくなる。だがそれで何を告発しているつもりなのか。文章の中に誰の本音が隠されているのだろうか。過去の世界では何もわからないはずだった。だがそんな話の設定をぶち壊したいわけではない。何に気づいているわけでもなく、誰に何を気づかされようとしているわけでもない。君は言葉の残骸の中で身動きが取れない。いつか見た夢の内容はそんなところか。いつ眠気が吹っ飛んだのか。昼は仕事の最中だったかも知れない。もはや昨日のことなど何も覚えていない。今は昨日ではないはずだ。しかし何を述べているのかわからない。たぶんまた昨日と同じようなことを述べているのだろう。何もわからないわけではないが、その曖昧さを吉と見るか凶と見るか、その辺の判断ができていないのかも知れない。だが気分は最悪だろうか。たぶんそれでも何かしら述べていることは確かなのだろう。平気で嘘をつき、でたらめさの中に真実を隠している。本気になってはいけないのかも知れず、本気にならなければ時の流れについて行けないのかも知れない。要するにそこで取り残されてしまう。忙しさにかまけて、気がつけば数日が経過している。そういう話ではないのだろうか。それでも意味のない言葉を巡らして、何かを考えているようなふりをしている。そこにどんな魂胆があるのかもわからず、それについて考えようとすると、すでに忘れていることに気づく。いったい何を忘れてしまったのか。何も覚えていないわけでもないが、それは昨日のことでもなく、数日前のことでもない。過去を振り返っている場合ではないわけか。何となく意味不明な雰囲気を言葉でなぞっているようだ。だがそれがまともな文章といえるだろうか。配慮が欠けていたのかも知れない。何に対する配慮が欠けていたのか。心当たりはない。忘れていたことを思い出すきっかけがつかめないようだ。自分のやっていることをまったく評価できない。しかしそれがどのような嘘に結びつくのか。良くなる兆しを感じ取ることができない。それでもこの世界は変化し続けているのだろうか。数日後の朝になってしまったらしい。眠っていたとは思わないが、実際には眠っていたのだろう。夢の続きを見たいか。何を悩んでいるのか。まだ何かを記しているようだが、無駄な悪あがきに違いない。それでも人は生き続けなければならず、生きている間は何かを追い求めなければならない。意味のない生き方では不満が残るのだろう。意味の中に生き続けようとしているわけか。意味がなければ生きているとはいえないか。


3月12日

 連続性を保てずに意識が飛んでいる。それから話はどうなったのか。空白の数日が過ぎ去り、そこで誰が気を失っているわけでもない。気がつけば正気を取り戻しているわけか。だが今さら何をやる気になるだろう。それらの文章は誰のことを述べているのか。そこから何をどうするつもりなのか。まだ何も決まっていないはずだ。やるべきことを知ろうとしていないようだ。すでに断言された運命を覆すことなど不可能だ。もはや君の敗北は決定的か。その負けを織り込み済みで事態は推移しつつある。それはかつて誰も見たことのない地平になるだろう。そんな妄言を気にする必要はないか。ありふれた日常に取り囲まれて、突然気が狂うはずもなく、心は常に平静を装いつつ、そんな見せかけの平常心から暗い欲望が形成されるわけか。だが何をどうしたらいいのかわからない。何もない現実に絶望する必要性を感じない。何も崇高さを求める成り行きには至らないだろう。他の誰から恐怖感をもたらされているわけでもない。レンタルビデオ店からその手の映画を借りてくれば満たされるような感覚のどこが崇高なのか。現実の体験はそんな生易しいものではないわけか。何よりも手軽に調達できるような感覚からは程遠いものでなければ嘘になるだろうか。しかしそれを現実に体験しては取り返しがつかなくなってしまうだろう。では強烈な体験はシミュレーション的なもので間に合わせるべきなのだろうか。だがそういう疑似体験が何の役に立つのだろうか。怖いもの見たさを満足させる以外には何の役に立たなくても、それはそれでそんな予防注射的な経験で済ます方が無難なのかも知れない。平凡であることを尊ぶ一般人にしてみれば、貴重な体験よりも平和で安定した生活を優先させるべきなのだろう。今なお戦火の中を彷徨い、悲惨な境遇にある人々からすれば、ふざけているとしか思えないようなことをやっているのかも知れないが、この世界には地域によって厳然とした格差があることは否定できない。君たちはそれを直接体験しているわけではなく、ゲーム感覚で間接的に見聞することしかできない。例えばスポーツという疑似戦争の結果に一喜一憂することも、娯楽の水準で軽薄に体験しているにすぎず、そんなことに本気になっている人々は本質的に愚か者なのだ。しかしその程度の愚か者でないと平和な社会には順応できない。順応できない者は実際に暴力を行使して、人殺しにでもなって犯罪者になるしかない。それはある意味で恐ろしいことかも知れないが、その恐ろしさにいちいち自覚的になっていては、気が狂ってしまうだろう。だからこの社会で正気を保つためには、毎日のように報道される殺人事件などは無自覚に聞き流しているしかない。しかしそれで何を否定しているつもりなのか。この社会を否定的にしか捉えられないことは間違っているのだろうか。ではいったいこの社会の何を肯定すべきなのか。実際に平和で平凡な日常を送っていることのどこを否定する必要があるのだろうか。否定するには無理があるような何もない日々に埋もれて、惰眠をむさぼっている現状について、それでもかまわないといえるだろうか。たぶん何もないということが嘘なのかも知れず、何もないなりにも何かしら苦悩や葛藤があり、それなりの波瀾万丈を体験しているつもりになれるのかも知れない。平和であろうと戦争状態であろうと、どちらにしろ人は生きていたり死んでしまったりするものだろうが、そこから肯定的な部分や否定的な部分を抜き出して、それを比較して何かを述べれば、それで何か述べているような気分になれるかも知れない。はたしてそれで良いのか悪いのかわからないが、そんなことしか述べられない現状を肯定して良いものかどうか迷うところか。簡単に事の善し悪しを述べる気にはなれないか。あるいは何をどう肯定しようと否定しようと、そんなことはどうでもいいことになってしまうだろうか。たぶん安易に本気にはなりたくないのかも知れず、つまらない出来事に飛びついて、騒いでいる他の人々と一体感を共有する気にはなれないのかもしれない。流行っている話題について述べることは、火事場の野次馬的な言動に終始することにしかならないのではないか。要するにそれで何を述べているのでもないことになってしまう。社会に埋もれ時代に絡め取られて、後から思えば何でもないことにこだわっていることになってしまう。


3月11日

 何をやる機会が巡ってきたのか。それは何日前の夜だったのだろう。今語りつつあることは時間的にずれている。意識から無理に言葉を押し出そうとしている。だがそうすることに何の理由もありはしない。ただそう述べたいわけでもない。そんなはずではなかったはずか。まだ語りたいことを語る機会に巡り会っていないのだろう。そんないいわけがどこで通用するのか。通用させようとは思っていないのかも知れない。何がすべてでもないが、金儲けがすべてではなく、それ以外にすべてがあるわけでもない。当然家族の絆がすべてでもなく、愛国心がすべてでもない。そんなくだらないことにかまけている場合ではないだろう。そんなことを述べているどこかの政治家は幼稚なのか。自分たちの家族や暮らしている国を、外の世界に向けて誇ってみせてもさもしいだけか。しかしさもしいとはどういうことだろうか。何事も単純明快さに寄りかかってしまうのは愚かなことだ。今さら強がりや痩せ我慢は通用しないか。件の政治家はどこでそれを通用させようとしているわけか。自分たちが抑圧している対象を解放しない限り、まともなことは何も述べられない。思考の単純さを利用できるのは愚かな人々に対してだけか。言葉で操作できる範囲は極めて狭い。芸術や産業やスポーツや科学などの分野において、何か秀でていると思わせるのは容易なことではなく、他者より秀でていると思われるのが良いことだとも思わない。たぶんそんなことは誰の知ったことでもないのだろう。何となくそれらの意識は月並みな評価を嫌う傾向にあるのかも知れず、常に驚きや羨望の眼差しを必要としているのかも知れない。それが愚かなことのすべてになるだろうか。何がすべてであるわけもないが、愚かであることはどこまでも愚かさのただ中にとどまることなのか。なぜ当たり前のことを述べられないのだろう。そう述べてしまうことがつまらないからか。何事もそのままでいることは困難を極める。絶えず微妙に立場を変え続けていないと気が狂ってしまうだろう。しかし必要以上に自らの愚かさを演出する必要はない。そんなことははじめからわかりきっていることではないのか。実際おまえは昔から必要以上に愚かなのだ。事実何もわかった例しもなく、いつまで経っても無意味な文章を記し続けている。それが状況を変えるための有効な手だてではないことはわかりきっているのに、なおもそれをやり続けている。恐ろしいほどの執着心と根気を保ち、どこまでもくだらない状況をそのままにやり過ごしている。それが日常のすべてなのだろうか。しかしそれで何を否定しているつもりなのか。否定作用は言葉をつなげ、文章としてどうでもいいような内容に導く。否定し続けることから語りを長引かせ、現状を肯定することを一層困難にさせる。しかしこの世界の何を肯定すればいいのだろう。どこかの政治家のように安易な紋切り型を口にすれば済むことなのか。家族の絆を大切にしたり、国を愛する心を養えばうまくいくと思っていることのどこが愚かしいのだろう。政治家はそんなことを信じてしまう愚かな人々を自らの支持者として抱えていると思っているわけか。なぜ君たちは馬鹿にならなければならないのだろう。君はそれに対してどんな反論を用意しているのか。周囲から取り残されている。そんなことを否定するには及ばないし、正しいことに反論してどうするのだろう。ヤクザやマフィアは自分たちのファミリーを大切にしているし、ヒトラーやムッソリーニやスターリンは国家を愛していた。サダム・フセインだって家族の絆を大切にし、イラクという国を愛していたはずだ。たぶん件の政治家はそれらの存在をすべて否定した上でなおそのようなことを述べていたいのだろう。どこか矛盾していないか。そんな反論を真に受けるわけにはいかないか。確かに金儲けがすべてではないが、それを目的としていけないわけがなく、実際に多くの人々が金を稼ぐために汲々としている。過労死になるのも厭わずに必死で仕事に励んでいる他人の存在を否定することはできないか。そこまでして何になるのだろう。ただそうせざるを得ない状況に追い込まれているだけか。何がそうさせるわけでもなく、すべてが自己否定に導いてしまうのだろうか。しかしそれの何が自己否定なのだろうか。自らがおかれている現状を受け止めることが自己否定そのものにつながってしまうわけか。


3月10日

 春はくだらないことに思いを馳せるにはちょうど良い時期だろうか。過去から未来へ向かって時が流れている。つまらない出来事に大げさに驚いてみせるのは誰なのか。心身の完璧さにあこがれるのは愚か者である証か。いつまでもどこまでも完成することから逃れていたい。死は人間の完成形態か。人並みにつまらないことを述べるのもその場の成り行きに沿った言動か。つまらない世界につまらない人々が暮らしている。それが君の提示するフィクションの全容か。それで誰が困っているのだろう。君には何もわからない。ただそれは違うと思っているだけだ。存在する何もかもが過剰なのかも知れないが、それらの文章は妄想の産物でしかない。あり得ないことがあり得ない時空で行われている。それはつまらない映画の一場面にすぎない。毎度おなじみの宝探しゲームに酔いしれるわけもなく、そんなフィクションから誰が遠ざかれるだろうか。確かに誰かの意識は遠ざかっている。自分だけ正気を保とうとしているのか。しかし述べていることが抽象的すぎるのかも知れない。ただわけがわからない。まだ感性が目覚めていないのだろうか。そういう話ではないような気がする。それで何がわかるのか。やはり何もわからないのだろうか。そんな話はどこにもありはしない。意識が何から遠ざかっているのかわからないのか。君程度の思考力ではそれらの状況を理解し得ないのだろう。きっかけがつかめないのはいつものことだ。しかし何を迷っているのでもない。目的があることは楽しいことなのか。少なくとも望ましいことではないはずだ。それでは何を述べているのでもなくなってしまうだろう。そんなわけでまたわけがわからなくなってしまい、語ることに挫折した意識は、どこか遠くの時空へ迷い込んでしまったらしい。そういう話にしておいて、あとは意味不明を装うつもりか。当初はそんな話ではなかったはずだ。本当にそこから立ち直るのは無理なのだろうか。言葉の連なりは意味を獲得できずにゴミと化す。ゴミの中に宝が埋もれていると思い込みたいのだろうか。それはゴミでさえなくなってしまうだろう。ゴミでなければ何なのか。それはただの出来事に他ならない。では他に何が見出されるべきなのか。意識は何を欲しているのか。わからないことはどこまでもわからない。ますますわけがわからなくなり、結局何を述べているのでもなくなってしまうわけか。そんなことの繰り返しに嫌気が差していたのはどこの誰だったのか。さっきまでの態度とは大幅に異なっているが、身体が揺れ動いているのは何でもないことだ。相変わらず中身は何もない。単に素直になれないだけかも知れない。それが何を意味するかわからず、かといって途方に暮れるでもなく、ただ何とも思っていないだけかも知れない。そこからどこへ行きたいのかを知りたいわけではない。行き先は事前に決まっている。いつもの通り道をいつもように歩いているだけだ。迷うはずのない道で迷うわけもなく、誰に行き先を尋ねているわけでもない。他人は何に感動しているのか。感動した先には何が待ちかまえているのか。なぜ感動したところに留まれないのか。君はすでに感動を忘れている。取るに足りない出来事に記憶を占拠され、つまらない思いに囚われている。たぶんそういう成り行きが気に入らないのだろう。考えてはだめなのか。考える前に言葉を記さなければならない。つまらない成り行きには無視することが必要か。それを無視したら何もなくなってしまう。遠ざかろうとしているのはそれではないはずか。そうでないとしたら何をそんなに焦る必要があるのだろうか。どうでもいいような文章が導き出されてしまうことに焦るのは当然のことだろう。しかし君の本音はどこにあるのだろう。それが迷っていることの証となるだろうか。それの何が違っているわけでもない。日常がありふれたことの総体ではあり得ない。だがそれが君の主張であるわけがない。ではそれらの文章からどのような刺激がもたらされているのか。誰がそこで語っているのか。何を語ろうとしているわけでもないのに、その語っている無内容が気に入らないらしい。意味が文章の中からはじき出されている。意図的にそうしているわけではなく、ただそうなってしまう成り行きなのだろう。そして眠気には勝てそうもない。だから無意味なことを語っているわけか。


3月9日

 その件については気にしていない。取るに足りないトラブルにすぎないのかも知れない。砂糖とミルクで味をごまかしている。心身共に変調を来している。それが何のいいわけになるのだろうか。何を見失っているのか。ありふれた日常に埋もれながら、胃の痛みをこらえているわけか。気がつけば頭痛もしてくる。それで吐き気でも催せば完璧な病人になれるだろうか。休む暇がなくて過労死寸前の身なのか。それほど大げさで深刻な状況に陥っているわけでもないか。時間が尽きようとしている。それを記す場も尽きようとしている。強引に終わりの時を予感したいらしい。だが実感としては何も湧いてこない。確かにフィクションはいつか終わるかも知れないが、そんな終わりなど今までにいくらでも経験してきたはずだ。誰かは動かない腕時計の残骸に囲まれて生活している。なぜ唐突にそんな話になってしまうのか。言葉がまったくつながらなくなる。机の片隅にいくつかがらくたが放置されているが、腕時計のいくつかはまだ正確に時を刻んでいるらしい。それが電波時計の宿命なのか。電波時計はその中の一つだけだろう。そのぼろぼろになったプラスティック製の腕時計をのぞき込みながら誰が笑っているのか。君は自分の顔を知らないらしい。振り返ることを知らぬ性格なのか。性格の問題ではなく、単に説明できないことを説明しようとしているだけではないのか。過ぎ去った歳月が君の性格を形作っている。誰が死ぬには惜しい人物であるわけがない。アニメーションの中で繰り広げられている流血と暴力の連鎖に驚いている場合ではない。海の中には弱肉強食の世界が広がっている。釣り針が口に刺さった魚は痛々しく見えるだろうか。君が作り上げた虚構の世界は静寂に包まれている。そこには誰もいないのだから、それは当たり前のことだろうか。はたして身の程知らずなのは君なのか。誰もいないと誰が困るのか。誰もいないのだから誰も困った風ではない。そんなつまらないことを述べている場合ではない。君たちはなぜ戦っているのか。どこからともなく的はずれの問いが発せられる。そんなことに気づくはずもなく、勘違いの他に何を知りたいのか。君たちは誰のために生きているのか。他の誰をさげすまなければいけないのだろう。そんな都合よく敵役が登場するはずもなく、その道をどこまで行っても迷路であるはずもない。なぜそんな都合よく事件が起きるのだろう。なぜ君は額に十字架の入れ墨を施されているのか。そんな受刑者がこの世界のどこに暮らしているのだろうか。この世のすべてが監獄であるはずもないが、自由はフィクションの中だけに存在する。そんな自由は要らないか。なぜ君は書物を読もうとしないのか。どうして本を読む時間がないのだろう。そういう話の成り行きにはなれない。それは君の話ではないらしい。ではそこで何を誇っているのだろう。誇りに感じることなど何もない。頭のおかしな輩はそれに気づかない。気づいたところで修正しようがない。だから君の頭はおかしい。そんな昔のことなどとうに忘れてしまった。だが昔から頭がおかしかったわけではないだろう。話すことに魅力を感じていないのかも知れない。何かがおかしいと思っている。別に詩人になりたいわけでもない。それは決して詩の断片ではない。文章のすべてが詩歌であるはずもなく、そのほとんどは韻律とは無関係にひたすら散らばり続け、一つの文章としてまとまることを拒絶しているように思われる。だから何を述べているのかわからないのか。そんな結論も拒否できるだろうか。たぶん何も要らないのだろう。そしてそれが栄光につながるはずもなく、名誉なことであるわけもない。では何に取り憑かれているのだろうか。毎度おなじみの虚無ではつまらないか。何を選り好みしているのか。まだ感性がそこまでいっていないのではないか。センスがなさすぎて、かえってそれがセンスがあるような錯覚を生んでいるのだろうか。それは感覚的なものではなく、構成力なのかも知れない。今はつまらないことしか述べられない。これからもたぶんそうだろう。問題は誰が記している文章がそうなのかということか。そしてそこから脱線するのも時間の問題か。要するに君は正気でそんなことを述べているわけだ。別に気が狂っているふりをしているわけでもなく、ただ普通にそんなことを述べているにすぎない。


3月8日

 絵の中に笑みが浮き出ている。イタリアにはピエロという本名があるらしい。別に愉快なことを述べたいわけではないが、結果として愉快な気分になれるのであれば、それでかまわないのかも知れない。だからこそ本当はどうでもいいわけだ。本質的な問題ではあり得ない。君は語ることによって何を目指しているわけでもない。現実には何を求めているわけでもない。何も求められない状況なのかも知れない。頭がどうかしているのだろう。そういうことにしておけばいい加減に振る舞えるだろうか。だが誰がどう振る舞おうと、ここではフィクションにしかならない。君は嘘の出来事を記そうとしている。君自身には関係のないことか。君自身の実体がどこにあるのかわからない。何を他に説明すればいいのだろうか。やはりそういうことではないのだろうか。確かにそういうことにはならないが、放っておけば自然と言葉が連なるはずだ。嘘ならどんなことを述べてもいいのだろうか。誰かが映画館へ行く理由を述べている。誰かの瞳がスクリーン上でクローズアップされている。何を拡大解釈しているのか。君は映画がテレビに敗れたとは思わないらしい。それは君の意思ではどうにもならない現象に違いない。どういう言う意味なのだろう。例えばそれは哀しいことなのか。あるいは虚しいことかも知れないが、誰にとっても哀しいことでも虚しいことでもあり得ない。それについて君は何も思わない。文章の中にそう記されているだけだ。事後的にはそうなのであり、事前には何の思惑も介在していない。ただそこから逃げ出したくなってくるのはどういうことなのか。はたしてそれが誰の感想になるのだろう。感想なのではなく、すでに逃げ出している者もいるはずか。誰がそこで語り合っているのだろう。論議が白熱して、頭の表面から湯気でも立っているのだろうか。心がどこかへ行ってしまったらしい。もう貧しい言葉遊びには飽きてきた頃か。そこから状況がどこまで変化したのかわかりかねる。成り行き的は許せない事態なのか。それらの大地が地表面に貼り付いていることはわかっているが、そこから何が生じてくるのか。大地の上には何がへばりついているのだろう。人々の思惑は浅はかで物足りない。何に操られているわけでもないのに、偶然に生じた不具合に振り回される。情熱からもたらされるなりふり構わぬ行動や言動は、いずれ何らかの過ちと共にその身に災禍を招くだろう。災い転じて福となさければ生き残れないか。文章の中では何でも可能か。己の限界に気づいていないだけだ。気づいていないふりをしているだけだ。他に気づいていないこともある。君には不安が必要だ。不安を利用して語り続けている。俄にはわかりかねることしか語れないようだが、語り続けているその内容は空疎に思える。何がそこで響いているのだろう。ただの雰囲気だけで実質は何も伴っていないのだろうか。何をどう語ればそうなってしまうのか。そうならざるを得ないことなど何もないのではないか。君には何もわからない。そう思えて仕方がないのはどうしてなのか。何かを飾り立てている。まるで装飾品のような文章になってしまう。要するにわかろうとしていないのか。言葉をちりばめているだけで、それで何を言わんとしているのでもないらしい。君には何が足りないのか。足りないものを補うことは不可能なのか。何を補えばいいのだろう。それが違う文章でないとすると、他に何があるのだろうか。そういう話ではないのかも知れず、どういう話でもないのかも知れない。大地にへばりついているのは誰の屍でもなく、それは腐葉土の類なのかも知れない。人々は本音ではそこに森が生い茂ってほしいと思っているようだが、実際には森の屍の上に街が広がっている。それは大地が望んでいた風景なのかも知れない。しかし大地とは何だろう。それは冗談の類だろうか。あるいは本末転倒かも知れないが、言葉が大地という概念を作り出す。その大地の上を車が走り続けている。四つのタイヤで大地に接しているらしく、乗り心地はそれほど悪いわけではない。君はそこで何を述べたかったのか。述べたかったのではなく、言葉を並べることによって沈黙を守りたかったのかも知れず、何も語らない沈黙によってその場を覆いたかったのかも知れない。ひたすら静寂を好み、静寂から文章を生じさせたかったのか。そんなことはあり得ないだろうか。


3月7日

 何をわかろうとしているのか。わからないことはどこまでもわからないのだろうか。希望が見失われているようだが、いつかわかる時が来ると期待するのは間違っているだろうか。わからないことの内容にもよるだろう。何がわからないのかをわかろうとしてないのかも知れない。そんな状態では何を述べても無駄かも知れない。うまくいかない状況はどこにでも転がっている。この世界は何のための世界でもなく、どこに何があるわけでもないらしいが、それでも何か適当なきっかけを探し出さなければならないのだろうか。それは思い違いに決まっているか。しかしきっかけとは何なのか。すべてが決まっているわけではないが、何もかも決まっていたら苦労はしないか。それ以前に決められたことが守られないのだから、この先何を決めようと、決まりを守れない状況はいくらでもあるだろう。だから何を述べても意味不明になってしまう。それをわかりたくないのだから仕方がない。わからないことはどこまでもわからないと思いたい。確かにそんなことをわかりたいとは思わないが、だからどうしたわけでもない。そんなこと自体を知り得ないのだから、わからなくて当然か。だが世の中にはわかりたくなくてもわかってしまうこともありそうだ。それについてどこから語り始めたらいいのか。この状況はそういうことではないような気がする。たぶんいつものようにどういうことでもないのだろう。そう思い込んでその場をやり過ごしたいのか。そういう言葉の繰り出し方ではいつまで経っても無内容だ。それらの言葉の連なりは内容など何も求めていないのであり、ただそこから果てしなく連なってゆけばそれでかまわないのかも知れない。だがはたしてそんな推測が成り立つのだろうか。それは何についての推測であり、それらのどこに意思や思惑が存在しているのか。何が存在しているわけでもなく、今の君は無内容の他に何の述べられないのではないか。ではそれらの文章は誰からも見捨てられた存在になってしまうのか。ここはそういうことを述べたかったわけではないはずか。いつものように何かが違っているような気がする。何がそこでの限界なのだろう。どこかの崖があるのかも知れず、その崖めがけて走り続けているのかも知れない。だがそれらの文章は走り続けている存在を知らない。君も自らが崖から転げ落ちることを知らない。しかしそんな話ではなかったはずだ。誰が崖っぷちに立たされているわけでもなく、そこへ向かって走り続けているわけでもないが、少なくとも誰かしら走り続けていないと、崖の存在理由も明らかにはならない。何が存在しているわけでもない。ではなぜ唐突に崖という言葉が思い浮かんだのか。無意識のうちにそこから飛び降りてみたい衝動に駆られているのだろうか。そういう逃げ口上はいただけないか。それの何が逃げ口上なのだろう。そうやってわざと文章をわけのわからない内容にしたいのかも知れない。何となく破綻しているような気がしてくる。心が破れて中からどす黒い膿がしたたり落ちる。それが言葉の連なりであるはずがない。見出された内容はそんなものではないはずだ。何かの成り行きからそんな文章が構成されて、そこで何かが揺れ動いているようだが、どこかに風穴でも空いているのだろうか。何を期待しているのだろう。どこかに水脈が走っていて、それを正確に掘り当てるつもりはないらしいが、めくらめっぽうに辺りを掘り返しているわけでもないはずか。誰かの感性が何を欲しているのかを知りたい。しかし誰がそれを知りたいのでもなく、言葉の連なりが誰かの感性を求めているのかも知れない。だがそこに決まった人格が介在しているわけではないらしい。意識の複数性などどこにもありはしない。そういうことを述べたいのではなく、自らが何を述べているのかを知りたいだけらしい。そんなわけで君はあり得ないことを欲している。それはかつてあり得たかも知れないことではなく、ただあり得ないことを想像したいだけのようだ。単にそんなことはあり得ないだろう。一息ついている暇はない。そこからどこかへ飛んでいかなければならなくなり、そんな嘘をつかなければ間が持たないのかも知れない。わざとらしくもおかしなことを述べているようだ。まとまりの欠ける意味不明な言葉の断片が不規則に連なり続けているだけか。たぶん読む気がしなくなる。


3月6日

 黙っていても時は流れ、いくら言葉を弄しても、すべては忘却の彼方へと消えてしまう。それは誰の記憶なのか。君はどこまでも君でいられるだろうか。すべての前提は崩壊する宿命にあるのだろうか。何がすべてなのかわからない。何が違っているのかわからないが、どこまでも違っているような気がしてくる。それらの食い違いを理解できずにいるらしい。そこで何を証言しなければならないのか。何が存在していることになるのか。批評とは何だろう。何を批評しているつもりなのか。忘れてもかまわないことなど山ほどあるが、忘れられないことが思い出せない。そんなことはあり得ないか。しかし矛盾したことを述べたいのかも知れず、そんな誤りを放置したいのかも知れない。全体として確固たる枠組みを構想しても無駄だ。考える糸口にたどり着くには至らない。しかし個人で何をやろうとたかが知れている。たかが知れているが、何かを述べてみるより仕方がないのかも知れない。文章はどのようにも解釈可能だろうか。何かを勢いづかせてはいけないのかも知れない。自ら繰り出した言葉が君から離れていってしまう。そして何も見出せないことを認めざるを得なくなる。その場の雰囲気に流されて、何かを見失っているのかも知れないが、一度見失ってしまったものを再び見出すには何が必要なのか。忘却の彼方から何を引き寄せてこなければならないのか。それは君にとって本当に必要なものなのだろうか。何が必要なのかわからず、それをわかろうとする気力に欠けている。努力を怠っているのかも知れず、そこから遠ざかれなくなっているのかも知れない。見つめているものが違うのだろうか。何を見つめているつもりなのか。それを見つめてどうしようというのか。ただそうではないだろうと思いたいだけなのか。考える対象が向こうからやってこない。それらは思考すべきものではないのかも知れない。考えなくて済むのならそれでかまわない。何も考えることなどありはしない。時はいつでも止まっていると見なしていればいいだろう。そうやって時間から取り残され、時代から取り残されているわけだ。もはやそれでもかまわないと思いたいのか。たぶん他の誰かに追い越されつつあるのだろう。不確定な人格から凝り固まった個性へと変貌を遂げてしまったらしい。いったい誰がそうなってしまったのか。君が語ることのすべては他人事にすぎない。君は自らについては何も述べられないようだ。君は自分が考えていることが理解できないのだ。なぜそんなことを考えているのかわからず、どうしてそんな風に述べてしまうのか理解に苦しんでいる。生き残ろうと努力することを拒んでいるらしい。自らの立場を説明できない。それをどのような文章として構成するのか。残り時間に追われる毎日では何の進歩もあり得ないか。心に余裕がなければ、過去を顧みることもままならないか。まだ必死さや切実さが足りないのだろうか。焦ってみても何も出てこないことは承知しているが、不必要な回り道ばかり経験してみても、何の認識にも至らない。まともな思考を用意する間がないらしい。気がつけばそれから数日が経過しているわけだ。考えていた内容が置き去りにされていて、粗雑な言い回しばかりで、誠実さを醸し出す機会がなおざりにされている。そして何もできぬまま、襲ってくる眠気に敗れ去ってしまう。その間に言葉はいくらでも連なり、文章はどこまでも続いていってしまうが、それで何を述べていることにもならない。たぶん君が述べたかったのはそんな内容ではないのだろう。泣き言や寝言とは相容れないことを述べたかったわけだが、それがどこにあるのかわからないし、どこからやってくるのかも知り得ない。結果的に出てくるものは期待していたそれとは似てもにつかない代物でしかない。要するに無意味で不必要なことを述べているわけか。そう思いたいのなら思っていればいいだろう。それでは気が済まないのかも知れないが、気が済むような文章を導き出せないのだから、自業自得もいいところか。君はそんな認識から遠ざかれないらしく、いつまで経ってもそれらが醸し出す虚無の周りでうろうろしているようだ。それで何がわかったつもりになれるというのか。この世界はどのような仕組みで成り立っているのだろうか。どこをどうやれば世界の本質を取り出すことができるのか。


3月5日

 いったい何を主張しているのか。おかしいからやめたくなるが、何をやめようとしているのか。何を述べてもそれは違うと思われる。たぶんどこにも声は届かないだろう。それが声ではないから届かないわけか。声ではない声とは何のことなのか。それは何かの翼だろうか。声に翼が生えてくる。そんなことがあるはずがない。何かのイメージとしてそんな言葉の響きを好んでいるのだろうか。それとも単にわからない雰囲気をわからないように語っているだけか。どこへも行き当たらないだろう。漠然とした思いは言葉からかけ離れて、起源の定かでない文章を形成しようとしている。誰もそんな風には語らない。そうやって何から逃げているのか。それで何がよみがえるわけもないだろう。誰かの期待はどこかで雲散霧消してしまったらしいが、それは誰が残した遺産なのだろう。特定の固有名を持たない群衆が話の中で揺れ動いている。そうやって君は世間の話題とは関係のないことを延々と記すつもりなのか。それが何かの勘違いでないとすると、いつかその文章に宿っている意味を明らかにしてほしい。気が向いたらそれに関して何かを述べるかも知れない。何がそれらの限界なのだろう。紅茶の渋みがどんな思考をもたらしているのか。そういうことではないのだが、それが偶然の作用だと思いたいのは、つまらないご都合主義を生じさせているのだろうか。きっかけはそんなところからやってこないか。何を賛美しようとそれは偽りの賛美としか思えない。何も肯定できなくなるだけのようだ。そんな否定作用から何が生まれようとしているのか。いつものようにそれは違うと思いたいのか。またそうやってくだらないことを述べている。言葉がどこかに散らばっているのかも知れない。それが誰の思いと結びつくわけもなく、そこから何を利用する気も起こらない。それとは違うことを述べたい。たぶんくだらないことを述べているのかも知れないが、何がどこから出てくるのか、そんなことを知り得る立場にはないのかも知れない。それが文章となる可能性があるのだろうか。ただわけがわからないことを肯定しなければならなくなるような文章だ。そしてそれが何に対する感想なのかわからなくなる。どうもまた勘違いの内容を述べているらしく、まともな内容を目指しているとは思えない。たぶん何かが違っているのだろうが、そのすべてが違っている可能性もありうるかも知れない。君には感情という精神作用が理解できない。無理にそれを理解する必要はないのかも知れないが、自らの思いを貫こうとする過程で生じてしまうごり押しが、それらのすべてなのかも知れず、そこからどうやって冷静さを取り戻すことができるのか、そんなことをして何になるのかも理解できないか。やはりそういうことではないのだろうか。それ以前に何がどういうことなのかわからなくなる。つまらないこだわりが文章の継続を阻んでいるのだろうか。社会に適応する能力があったりなかったりするわけがわからない。社会は何を求めているわけでもなく、どのような種類の人間を求めているわけでもない。誰がそんなことを求めているのだろう。君はどのような状況に適応しなければならないのか。なぜ個人が歯車として機能しなければならないのか。そういう話ではないはずか。機械の普及は人間を疎外するわけもなく、人間が機械化しているのは昔からそうなのであり、人々は常に他人の行動や言動に機械的なわかりやすさを求めてきたはずだ。何とか自分の理解できる範囲内に他者が存在してほしいのだろう。そうでなければ他者との意思疎通は困難を極めるだろうか。お互いに腹の内を探り合うのは面倒か。そこからどうやって結論にたどり着くのか。君が期待しているのはそういう結論ではないのだろうか。だが誰もが納得するような結論を導き出すことはできない。話し合いはいつまで経っても平行線を辿り、互いに今の状態を保ち続ける方便と化している。それはそれで一つの安定的な関係であり、そこから一歩も足を踏み出さないことで、消極的な良好状態を維持しているわけだ。今はそれも肯定的な結果として受け止めなければならないようで、それによって自らが生かされていることを理解しなければならないのだろうか。そこからどうやって飛躍できるのか。論理的な飛躍ばかりで実質が伴わないことばかりのような気がする。


3月4日

 まとまらないことを無理にまとめようとしてはいけない。だがそれの何を批判すればいいのだろう。何の対象もありはしない。いったい何が批判の対象なのか。何もわからないわけではないが、わかっていることもあるにはある。少なくとも何かをわかろうとしていることは確かなようだ。しかしそれでまともな文章になっているとは言い難い。好奇の心は誰にでもあるものだが、何を興味深い対象と見なしているわけでもない。またつまらないことにこだわっているのかも知れない。そう述べるのが君の性分なのだろう。この世に何か興味深い対象があるとは思えないか。そう思っても別に気が狂っているとは言い難いだろう。いつものように怠惰をそのままにしているだけか。心の中に何かが生じているかも知れないが、それについて何をどう思ってみても仕方がないように思われる。なぜそう思うのかわからない。言葉では空腹感を取り除けない。しかし飢餓状態であるわけがない。だが満ち足りているわけでもないだろう。何をどう思ってみても、すぐにそれは違うと思ってしまい、それに関していくら言葉を弄してみても、何がどこから出てくるわけもなく、何を出そうとしているわけでもない。だがそんな状況から逃れたいわけでもないだろう。どこから解き放たれているわけでもない。ただまともに言葉がつながらないだけか。いったい誰がこの退屈な世界を変えようとしているのか。誰の計画がどこで頓挫しているのか。君はそこで何もわかろうとしないだろう。フィクションの中では、どこかのイスラム教徒がイスラムの教えを広めることによって人類を救いたいと思っているようだ。だが別に誇大妄想がここに極まっているわけでもなく、そんな風に思い込んでいる者がどこかにいるとしたら、それはそれで高貴なこころざしなのかも知れず、そういう人はがんばってほしいと思う。そんな嘘をつくにはそれなりの理由があるはずか。何がそれの理由なのだろうか。心の貧しさはどこへ行き着くのか。世界を把握しようとする精神の持ち主には何が宿っているのだろう。神が宿っているはずがない。たぶんそれも嘘の一形態なのだろう。おおよそ君には関係のないことかも知れない。どこからともなく日差しが射してくるが、それが神の仕業であるはずもなく、今は夜なのだから、何となくいい加減なことを述べているだけかも知れず、君が見ている風景はそれではないような気がする。君はそこで何を思いだしているのだろう。まだ何も食べていないことを思い出したか。それは過去の話だろう。何を困惑しているのか。それとも困っている風を装いたいのか。ただそうではないと思いたいだけのようだ。まだ迷っているのだろうか。何を迷っているわけでもなく、迷っている振りをしているだけのようだ。君はそれでも言葉の力を信じているわけか。しかし映像の助けを借りて言葉の力を信じているつもりのどこかの新聞社のCMは見苦しい。それとこれとは無関係なのか。そう述べて何を準備しているわけでもない。まさにその通りだとも思わないだろう。君には表現形態を理解する能力が欠けている。だが何が欠如していようと、それが文章に影響を及ぼすことはない。それがどんな内容を伴っていようと、君には何ももたらされない。うわべだけの調和を君が受けつけるわけがない。実際にどんな調和がもたらされているわけでもなく、あるのは空虚な言葉の並びだけか。それ以外に何があるのだろう。そこにはない内容をどうやって語ればいいのか。なぜそんなに苦しんでいるのだろう。何を苦しめばどうにかなってしまうのか。どうにもならない苦しみなど苦しみのうちに入らないか。そういうことを述べたいわけではない。何もないことが苦しみをもたらしているわけではなく、苦しんでいるふりをすることによって、何となく苦しいような気がするだけだ。君が語ろうとしていたのはそんな簡単な話になってしまう。いつの間にかそれで一件落着となってしまうわけか。だが何が落着したのか知り得ない。そういう話ではないのだろう。ただどこかに誰かが語っていた痕跡を見出すことができるかも知れず、それについて君が語ろうとしても、それは君自身には関係のない内容になるしかない。どこかで誰かが君とは関係のない人生を送り、それについて君が語ろうとしている現状があるだけなのか。それがフィクションなのだろうか。


3月3日

 たぶん何もない状況を楽しまなければならないのだろうが、他人の楽しみを皮肉ることの何が気に入らないのか。誰かの思い込みはそんな内容ではない。それで何もできないはずがない。まともなことを述べようとしている。何か他に目的があるのだろうか。何もなければそれが目的なのか。誰かの意識は言葉から解放されたいと願っている。またずいぶんまわりくどいことを述べているではないか。反省すべきことではないのかも知れないが、文章の中に特定の固有名を記すのをためらっている。まだ四月にはならない。誰が何を待っているのかわからない。何もわからないのに待っても無駄だろう。黙っていれば目の前を出来事が通り過ぎてしまうだけか。なぜそれでいいと思わないのか。未来の時空において何をわかろうとしているのだろう。未知の衝撃などを求めているとは思えない。一時的な驚きを通過すれば、すぐに平静を保とうとする。結局そこで何を思うわけでもないらしい。意識は絶えずどこかへ移動したいだけのようだ。はやる心などすでに置き去りにされていて、顧みられることはほとんどない。それが言葉の迷路であるわけがないだろう。そこにあるのは意味を伴った普通の文章でしかない。読む者に適当な解釈を許してしまうありふれた文章が構成されている。それの何が不満なのだろう。何が不満なのかわからないが、それでも不満であることに変わりはないようだ。何が違うのかわからないが、何かが違っているらしい。それは気のせいかも知れないが、それだけではないような気もしてくる。苦い思いがどこからともなく湧き上がってきて、何かが脳裏をかすめたような気がするのだが、それが何を意味するのかわからない。少なくともそれは現実の体験ではないのだろう。ちゃんとした文章にしなければならない。安易なイメージに心を奪われているのかも知れない。そこからどうやって意味に至れるのか。具体的に言葉の連なりは何を示そうとしているのだろう。もはや虚無だけでは物足りないはずか。知らないうちにそんな段階に突入しているのだろうか。何が突入しているのか。時空はまだ以前のままだろう。そこに何が構築されつつあるわけでもない。過去から連綿と連なっている文章には、何かを示そうとする意志が感じられない。具体的な内容は何も示されずに、言葉だけがその場の雰囲気に合わせて適当に組み合わさっているだけかも知れず、それに対していくら不満を抱いてみても、現状は何も変わらないような気がする。今の君には現状を変えようとする意思が感じられない。それどころかどこかへ流されていってしまうような成り行きに直面しているらしい。文章を構築する場が閉じられようとしているのかも知れない。それが何もできない原因になっているのだろうか。終わってしまうことに対する不安と焦りでがんじがらめの心理状態なのか。そして気がつけば画面がフリーズしているのかも知れない。それは夢の中での出来事なのか。何も見出せない文章の中に夢がある。そこでは具体的な出来事が消失しているようだ。夢は何ももたらさない。たぶんそれが夢の本質なのだろう。だから夢は夢で終わってほしい。夢は夢以外にはならない。現実の成り行きは夢とは無関係に推移しているようだ。現実の時空では何も起こらない。意識は眠りの中にとどまろうとする。今日の夢はどんな内容なのか。誰かがどこかを登っている。集団で何かの建物の壁をよじ登っている。それは登山か何かの予行演習だろうか。しかしどこまで登ってもきりがなく、一向に屋上へたどり着く気配も感じられない。ぼやぼやしていると眠りから覚めて朝になってしまうのではないか。朝になったどうしよう。どうしようもなく目が覚めて、見ていた夢のことはさっぱり忘れてしまうだろうか。しかし建物の壁をよじ登ることが忘れてはならない重要なことなのか。目的がなければ意味がないか。ではたどり着くべき屋上には何か得られる宝的な報酬物でも待っているわけか。貴重な何かを得るために努力するのが、人間が天から課せられた目的なのだろうか。しかし天とは何だろう。それは神であり宇宙であると思えば何となく納得するのだろうか。だがなぜそれを馬鹿な話だと思わないのか。なぜ人間には目的が課されなければならないのか。何かをやる必要を感じさせる原因が目的だとすれば、それを受け入れる気になるのはどうかしている。しかし何がどうかしているのか。そういう成り行きに逆らってはまずいわけか。


3月2日

 なぜそれができなくなってしまうのか。何のことやらさっぱりわからない。事情をまったく知らないのか。そこにはどんな事情があるのだろう。知り得ないことを知ろうとしているわけでもなく、知っていることを述べようとしているわけでもない。誰かがどこかを通り過ぎ、空気がどこかへ流れて行き、水は地べたへ吸い込まれてゆく。世界は広いと思う。どこかにおもしろい話が転がっていないか。それでは以前と何が違っているのかわからない。静かな瞳は遠くから文字の連なりを眺めている。まぶたを閉じれば暗闇になる。文字が言葉と結びつかない。誰かが想像しているそれが、見たこともない象形文字であるわけでもなく、また古代の楔形文字であるわけでもないが、どこの誰がそれを興味深い文章と思うだろう。そのとき君は何を読んでいるわけでもない。ただだいぶ粗雑なことを述べているようだ。それもつまらない範疇に入るだろうか。誰が何をつまらないと思うのか。まだ正常な感覚を取り戻せていないようだが、どんな嘘も狂気のせいにするわけにもいかないだろう。たぶんそうではないのかも知れない。そうではないと思いたいだけか。面倒なので他の誰かが何かを思っていることにしておこう。しかしそれで何が解決するというのか。君自身は現状では何も思わないようだ。本当に何も思えないのかも知れない。窓際の雑草は枯れる瀬戸際でかろうじて踏みとどまり、まだしぶとく生き残っている。放っておいたらまた別の雑草が生えてきた。そんなことを述べている状況ではないだろう。よくわからないのはそういうことではなく、たぶんどういうことでもないのだろう。変化を求めているのは誰でもなく、君でもないのかも知れない。空気が乾くと背中のかゆみが我慢できなくなるが、興味を抱いているのはそんな話でもないらしい。どんな話でもないのかも知れない。ではいったい何に対して無関心になりたいのか。少なくともそういう話ではないのだろう。時の流れに逆らっているわけか。時流に乗ることはできない。だが何が流行っているわけでもない。すべては無効なのかも知れず、そんな風に思っていること自体がおかしいのかも知れない。話の筋が通らなくなる。他に何か通りそうなことがあるだろうか。何を思いついているのか定かでない。何を論じようとしても無駄なのか。なぜそれが物語になるのだろうか。ただ無駄に言葉を連ねているにすぎないことが、どんな結果に結びつこうとしているのだろう。やはりそういう話ではないのかも知れない。しかしなぜやはりだと思うのか。以前にもそれと同じような成り行きを経験しているのだろうか。そういうことではないような気もしてくる。何の根拠も見当たらない。それはまったくの見当違いのようだ。ただ前述を打ち消したいだけか。何をどう考えれば結論にたどり着くのだろうか。何の結論もありはしないと述べることならいつでも可能か。やはりそういうことではないのだろう。たぶん何をどうしたらいいわけでもないのかも知れない。どうにもできないからそんなことを思っているだけか。いったい今の君に何ができるというのか。何もできはしないと思い込みたいのだろうか。たぶんそんな言葉によって現実から逃避したいのだろう。まったくいくら述べてもどこにも行き当たらないらしく、絶えずそこに連ねられた空疎な言葉の並びを目で追い、意識はその範囲内で行ったり来たりしているだけのようだ。その無意味な反復によって疲れ果て、思考も衰え、自らが何を考えているのかわかろうとせず、次第に何も考えていないように振る舞いたくなってくる。君はそんな風に述べることによって、自らの言動から抽出されつつある目的から逃れたいのかも知れず、その目的を意識するのをかろうじて阻止しているつもりなのだ。しかし目的とは何なのか。それらの文章を継続させることが目的ではないのか。なぜそんなわかりきっていることを意識したくないのだろう。無駄に言葉を弄して文章を継続させていることが後ろめたいのだろうか。そう思って何が悪いのか。何をそんなに開き直る必要があるのだろう。何も導き出せないことがそんなに嫌なら、もうやめてしまえばいいとは思わないのか。たぶんそうならないところがおかしな成り行きなのかも知れず、わざとそうしているのでなく、自然とそうなってしまうことが釈然としないのかも知れない。


3月1日

 意識は何かの狭間で喘いでいるのだろうか。放っておくとやる気と眠気が同時にやってくる。そこで何を見聞しているのか定かではないが、何かしら情報が入ってきているようだ。しかし処理速度がまったく上がらない。どうも誰かの頭脳はやる気がしないようだ。何をやるのかわかっていないのかも知れない。何をやれるわけもない。君は無駄な言葉の価値に気づかない。ひたすら何もやれるわけがないと思い続ける。それが君の戦術なのだろうか。自らがその周りを取り巻いている虚無と戦っていると思い込みたいのか。たぶんそれは冗談ではないのだろう。笑い疲れて正気に戻る。それはほんの一瞬の間でしかないが、別に見知らぬ光景に見とれているわけではない。無反省な老人はよく喋るらしい。頭が壊れているのだろうか。何か知らないことは語ってはいけないという決まりでもあるのか。それが知識といえるだろうか。たぶん知っていることを喋っているつもりなのだろうが、そこからどこへ行けばいいのかわからない。それらの行程のどこに落とし穴があるわけでもない。どこまで行っても終着点も目的地も一向に見えてこない。どこへ行きたいのかもわからず、言葉はまったくつながろうとせず、いつまで経っても文章を構成するには至らない。そんな状況では何を述べているのかわからない。すべての批判は無効になるだろう。何を批判しているのだろうか。文章を再構築しなければならないが、今の段階では修復の見通しがまったく立たないようだ。何を修復しようとしているのか。それに関して偉そうなことを述べる立場にはないが、それとは何なのか。頑張りが利かないらしいが、睡眠時間を削ってやるほどのことでもないだろう。寝て起きれば自然とこれまでとは違うことを述べたくなってくるが、それがおもしろい内容になるとは限らないだろう。しかしなぜそこで黄昏れてしまうのか。外は無風状態のようだ。空気がまったく動かない。時間が止まっているのだろうか。心臓が止まっているのかも知れない。そんな嘘をつくと虚しい気分になるかも知れないが、今の民主党の現状は幕末の頃の長州藩に似てなくもない。確かその頃の長州は軍事的に、京の都では禁門の変で薩摩藩や幕府に敗れ、下関では欧米列強に敗れ、ほとんど壊滅状態だったのではなかったか。その危機的な状況は、偽メール問題で無様な姿をさらしている今の民主党の比ではなかったように思われる。もちろんその後長州は薩摩と手を結んで倒幕に成功し、明治維新の原動力となったわけだから、現時点ではぼこぼこに叩かれている民主党も、そこから急激に立ち直って、近い将来政権交代を実現させ、自分たちが主導の政府を打ち立てるかも知れず、その辺は小泉氏もわかっているらしく、あまり執拗に非難するのは控えているようだ。叩けば叩くほど、そこから這い上がってきた時は強くなっているものか。しかしなぜマスコミは馬鹿な民主党議員に偽メールを渡した人物の正体を明らかにしようとしないのか。情報提供した自分たちの仲間内のジャーナリストもどきの行為は不問して、馬鹿な国会議員と議員が属している民主党を目の敵のように非難し続けているように感じられる。とりあえず今叩けるだけ叩いておけば、民主党の馬鹿な体質も少しは改善されて、政権交代が可能な政党に成長してくれるだろう、という愛のムチ的な思惑でもあるのかも知れないが、今の時代に報道機関の一員になっているような輩が、馬鹿な民主党を罵倒するような立場なのかどうか、偉そうに政治家を非難できるようなことをやっているのか、その辺がよくわからないのだが、何となく実感が伴っていない。予算委員会で疑惑追及をたきつけるようなことをやっておいて、やれ質問が迫力不足だの、追及が足りないから国民を馬鹿にしているだの、無責任にどうでもいいことを言いたい放題のような気がするのだが、その辺の毎度おなじみのワンパターン状態の方がかなり馬鹿に思えてしまうのだが、普通の人々はああいう物言いを本当に支持しているのかどうか、どうもまったくの勘違いのような気がする。とりあえず予算委員会がなぜ疑惑追及の場なのか、そこが根本的によくわからない。まず第一に予算委員会では政府が提出した予算を国会議員が審議すればそれでいいのではないか。たぶんそうならないところに国会のわけのわからない伝統やら慣習があるのだろう。そういう馬鹿げたものをそれを報道する者たちは無批判に受け入れているのかも知れない。


2月28日

 また数日前で止まってしまったようだ。ところで今の彼は何をやっているのか。一向に読み返す気が起こらない文章を脇へ追いやって、いつものようにありふれた音楽を聴いている。それで生きていることを実感したいらしいが、命脈を保つとはどういうことなのか。この時代の錬金術師は拘置所の中で生活しているようだ。わずか数年で数千億の資産価値を形成したまでは良かったが、そのやり方があまりにも正しすぎたが故に、今や行動の自由を奪われた存在と成り果てたらしい。そこでエイドリアン・ブリューを聴いてどうしようというのか。何がどうなろうとその正しさが覆るわけではない。金儲けという目的に向かって突き進むことは正しすぎる行動になってしまう。それこそがこの時代に生きる人間に課せられた究極の目的となっている。それは疑う余地のない事実だろう。では不条理とはどういう意味なのか。彼とその取り巻きの錬金術師たちはどうすれば良かったのだろうか。要するに成功しなければ良かったのであり、金儲けが失敗に終われば良かったのか。それで良いわけがないことは誰もが認めるところか。失敗したら彼も彼の会社も、ごく一部の関係者以外はまったく知らない無名の存在でしかなかったはずだ。彼らが成功するにはあのようなやり方しかなかったのかも知れない。そしてああなる以外の結末もあり得なかったのかも知れない。誰かが夜の街を徘徊している。それは四月のパリでの出来事だろうか。クロノスとは何だろう。神の名前にそんなのがあったかも知れない。腕時計にもそんなのがあったかも知れない。何のことやら文章のつながりがさっぱりわからないが、それで何を述べたいわけでもない。たぶんあとで読み返してみれば、何かしら述べていることがわかるだろう。要するに冗談を述べている場合なのだろう。結果的には何を思ってみても仕方のないことかも知れない。それ以外のいいわけは何もない。何事もやりすぎるのは良くないことかも知れないが、過ぎたるは及ばざるがごとしとはならないかも知れない。たぶん何事も及びすぎているのだろう。あらゆることに騒ぎ立てなければならないのがこの時代の特質なのだ。考えることを免れるために、何でもかんでも娯楽だと思い込みたいのかも知れない。ほとんどの人々がイベント中毒なのだろう。何か四六時中出来事が起こっていないと気が済まない。だがそれ以外に何があるというのか。何もやらないわけにはいかないのだろうか。何をやるかは誰かの勝手だろうか。君はそれらの出来事に気づかない。気づくのが面倒臭いのかも知れない。考えがまとまらずに言葉が出てこない。しかし泣き言はいっさい受けつけないはずだ。何もできないのに何かを語るわけにはいかないらしい。それに何もできないわけでもないだろう。絶えず何かをやろうとしているはずか。目の前に突きつけられた現実に甘えているのだろうか。そこから逃れたいのかも知れないが、どこへ逃げればいいのか。逃げ場がどこにも見当たらないわけか。しかし誰が逃亡を企てているのだろうか。なぜそこから逃げ出さなければならないのか。逃げ出す必然性を感じ取れないか。ところで遠ざかろうとすることと逃げだそうとすることはどう違うのだろうか。現実の何もかもが馬鹿らしいと思われるのはどうしてなのだろう。何を感じ取っているのか。考え方がまるで違っているのかも知れない。そこまでやる必要がどこにあるのだろうか。君はできないことをやろうとしているわけか。誰がそんなことをやれるのか。無理なことをいつまでもやろうとするのは時間の無駄か。しかしそれ以外に何があるのだろう。自業自得気味に何を悟っているのだろう。たぶんそれをやるのもやめるのも無理なのだろう。それではどうすればいいのかわからなくなる。どうにもならないということはそういうことなのか。都市そのものにあごがれるのは狂気の沙汰に違いない。それは構築物の集合体だ。巨大なシロアリの巣に似てなくもない。それらの構築物はどこかで破綻している。破綻していなければおかしい。人々はそこで見栄を張りたいのだ。虚栄心という言葉しか思い浮かばないのはどういうわけなのか。それ以外に何をどう語ればいいのだろう。自分たちが作り上げた構築物の中で何を誇っているのか。どうもそれに関してまったく考えがまとまらないようだ。それが遅れてしまう原因か。


2月27日

 それは一昨年の出来事に違いない。まるで砂糖に群がる蟻の大群のような光景を眺めている。乾いた風が吹いているが乾燥した土地ではない。君はどこで雨を経験したのだろう。人は人のことを気にしているようだが、他人はどこまでも他人のように振るまい、決して親しみやすさを醸し出すことはない。それがそこで育まれた風土なのだろう。たぶんそこには説明が欠けているのかも知れない。木目が浮き出た板張りの床には光沢があり、まだ使い古されるほどの年月を経ていないのだろう。それが何に関する説明になるのか。誰かにはわけのわからないことを述べる癖がある。それは誰に対する説明になるのだろう。明日はだいぶ早起きをしなければならない。まだ目が覚めているとは思えないうちから行動を開始しなければ何かに間に合わないような気がしてくる。心は間に合わせの説明には興味を示さない。その場限りの好奇心には無視で対抗するつもりなのか。楽園から追い出された人物に出会ったつもりになって、その楽園についての説明を求めているつもりにもなるが、途中から興味を失い、尻切れとんぼ気味にそれらの語りを打ち切りたくなってくる。たぶんいつものように何を述べているのでもないのだろう。そういうつもりで語り始めているわけか。それらのどこからどこまでが君の領分なのか。それらの言葉に続けて、決まり文句的に何を付け足したらいいのだろうか。それはさっきまで記していた文章の断片だ。見出された時間帯は一昨年のそれではなく、いつか経験するだろう未来の時かも知れない。だがそこから先が消失している。それは土地ではなく中空に浮いている空間かも知れない。誰かはそこから虚無を抽出したいらしいが、発せられた言葉はそれを裏切って、誰かの心に巣くう本音を暴露してしまう。それで何が裏切られたわけでもない。気がつけば胃の中が空っぽのようだ。だから空腹感に苛まれているわけか。君は早急に何かを詰め込まなければ気が狂ってしまうだろう。どこに何を詰め込めるというのか。言葉と言葉の間に別の言葉があるようだ。見出された時は足早にその場を立ち去ろうとしている。次第に意識からやる気が退いてゆくような感覚を味わいながらも、何か転調につながるような言葉を探り出さなければならなくなる。それですべては終わりを迎えられるだろうか。それが何を終わりを語り始めているのか。文章にさえならない感情を吐露しているわけでもないだろう。それらの文章は君とは無関係に生成している。だからそこから遠ざかろうとしているのではないか。何が遠ざかりつつあるのか。ただそこでまともな感覚をつかみ損ねているだけなのか。その代わりに君が手中に収めたのは何なのか。砂時計の砂が何を語っているわけでもなく、重力に逆らって位置エネルギーを増大させようとしているわけでもなく、あるいはそこから減少しつつある時間について、または君が立ち直る可能性について、何を説明しているわけでもない。要するに説明を要するような現象は何も起こっていない。ただそこで起こりつつある現象には、誰かの意図を感じないわけでもなく、そこから想像される思惑には、どんな未来もあり得ないと言い放ちたい衝動が宿っているのかも知れない。しかしそれで何を説明したことになるのか。説明を要さない説明について、実際に君はどんな言葉を連ねているのか。そこにはただ何となくわけがわからないでは済まないような趣がありそうだが、やはり相変わらずそれで何を述べているのでもないような気がする。意味を見出せずに煩悶している意識の存在を言葉によって暴き出すことはできない。そこに醸し出されている雰囲気には冗談しか含まれていないように感じられ、それに対してはまったく本気になれないのだが、それでも奇特な人々はそんな現象に興味を持ち続けることができるらしく、そこからいくらでも言葉を導き出すことが可能のようだ。しかし政治家がマスコミやジャーナリストの代弁者のような役割を演じている現状はかなりおかしい。なぜ疑惑を追及しなければならないのか。本来ならそれらの報道機関に属する者たちと敵対関係にあることが政治家の本分なのではないか。何を血迷ったか素人探偵のような真似をして、それが高じてまるでウケねらいのごとくに爆弾男を演じてしまうのは滑稽きわまりない。それで何が明らかになったのだろう。


2月26日

 君に内容は似合わない。他人と心の交わりを求めているわけではない。訴えかけるには必死さが足りない。切実に他人の理解を求めているわけではない。君に欠けている内容はそんなところか。茶室で誰かが語っているようだが、それをどう語ればいいのか。気がつけば迷っている。いつから迷いが生じ始めたのだろうか。いつも迷っているからそんなことはわかりようがない。そこで君は何をやるべきなのか。やるべきか否かにかかわらず、すでにやり続けていることに何の感慨もありはしない。いったい何をそんなに迷っているのか。誰の迷いについて語ろうとしているのか。たぶんそれに関して何も語るつもりはない。何となく何も語る気がしない。分かれ道には何が立っているのだろう。それは誰かの影だろうか。見えているのはそんなものではない。辻説法に感動しているほど暇ではない。調査とはどのような手法のことを言うのか。何となくまわりくどいことを述べているのかも知れない。どこにも真実がない。そう思うと気が楽になり、より一層いい加減な言葉の組み合わせを試行することができる。好奇心はどこから生まれるのか。信じられないことを信じたつもりになってみたいが、その先に繰り出すべき言葉を思いつかない。何を修正しているのだろう。君には休息が必要なのか。心が病んでいると思われる。この世界のどこかで眠れない日々が続いているのだろうか。報道陣は何に群がっているのか。そこから何を伝えようとしているのだろう。人々が無責任に抱いている好奇心を満たそうと、大げさな言葉と映像が日夜世界を駆けめぐっている。誰がそんなことを思うだろう。それは誰の妄想から生じている見解なのか。見解ではなく光景なのではないか。では妄信に囚われた愚か者はどんな光景を眺めているのか。思い浮かぶ光景は何もない。誰が愚か者なのだろうか。数限りない失敗をくぐり抜け、それでもさらなる失敗に直面している者が愚か者でないはずがない。それはいったい誰なのだろうか。あるいは不特定多数の人々がそれに該当しているわけか。だがそんなことを述べても何がどうなるわけでもなく、知らぬ間に首がぐるぐる回り続け、コルクの栓が抜けるように、顔のない人形から誰かの魂が引き抜かれ、それとこれとは無関係な言葉だと気づかされる。それはただのウケねらいにすぎない。まったく冗談にさえならない行き詰まり状態だ。誰か何を語り始めているわけでもなく、それ以上進むには片側交互通行を余儀なくされる。それでも冗談でそんなことを述べているつもりなのだろう。この世からどんなに遠ざかろうと、君はこの世の片隅に暮らしている。この世とはどの世なのだろうか。過去と未来が今この時に混じり合っている。今さらそんなことを認めるわけにはいかないだろうか。何から遠ざかろうとしていたのか。記憶はどこで途切れているのだろう。時間の経過を感じ取れない。歯を磨いたのは今朝のことだったかも知れないが、そんなことを思い出さなくてもいいはずだ。手のひらの上に空気が漂っている。あくびが出ているのは何かの偶然ではない。瓢箪から駒が出るわけもなく、将棋の駒をまっぷたつに割ってみても、中から何が出てくるわけもない。その場の空気をつかみ損ねて、自分も他人も見失い、誰が何を述べているのかわからなくなるが、君はまだその先をのぞいてみたいのだろうか。万華鏡をのぞいてみれば、ありふれた光景が心の中から這い出てくる。心を病んでいる人々がどこかの施設から脱走してくる。そのときターミネーターのターゲットが動き出す。話が続かず言葉がつながらず、枯淡の境地に至らないのは君のせいではない。それとこれとは無関係であることが何よりの救いなのかも知れない。文章は決して自らについて語らない。悲惨な境遇ではないのだから、身の上話が真実味を帯びないのは当然のことか。どこの誰が波瀾万丈の一生を送ったというのか。雨が降った翌日は強風が吹き荒れている。考えるようなことではないのかも知れない。どうにもならない状況に陥っているのだろうか。馬鹿げた文章が誰かの意識に流れ込み、そうではないと現実を否定させるらしい。嘘をもとにして真実が再構成され、何でもないようなフィクションが空白に記されようとしている。そういう成り行きは無責任きわまりないだろうか。陶器のひび割れを眺めながら君は何を思うのだろうか。


2月25日

 誰かが物語に関していい加減なことを述べている。つまらないことに腹を立てている輩は死んだ方がいいそうだ。そんなことで誰が死ぬはずもないだろうが、別の要因で他の誰かが死んでしまう場合もあり得る。他人の死について君はどう思っているのか。何とも思わないか。耳が遠くて何も聞こえない。まるで生きている気がしない。感覚がまったくない。それは誰の死でもありはしないだろう。そこでは誰も死んではいない。ただ言葉がつながらない。砂糖の甘さに耐えかねている。空気が乾いているのだろう。それらの言葉には互いに何の関連性も感じられない。すでに脳死状態なのだろうか。交通事故でそうなってしまった人を知っているわけか。そういう方向での語りは感心できないか。何がどういう方向へ動いているのか。君はそれに関して何を知っているのだろう。だいぶ投げやりなことを述べていると思われる。たぶんどこまでも何かが連なろうとしているのだろう。新たに付け加えた言葉の並びが気に入らないらしい。そこからどこへも至れないだろうが、それでもどこかへ至らなければならない。君はまだ死にたくはないのだろう。死にたくなかったら何をすればいいのだろうか。そこで何を感知できるのか。誰を倒したら雌雄を決することができるのか。即興でそんな台詞を思いつく。すべてはフィクションの中での出来事か。嘘かも知れない。かも知れないではなく、それは本当の嘘なのだ。今こそつまらない言い訳の全貌が明らかになろうとしている。たぶんそれも嘘だろう。幻視の対象はそんなところにはない。何にうつつを抜かしているわけでもなく、夢中になっているのは夢の中の出来事についてではない。冗談が綿菓子のように生じてきて、それを見知らぬ誰かが食らおうとしている。どこかで話が飛んでいるようだ。あるいはまだ話になっていない段階で、言葉があらぬ方向へと暴走している。そんな風に思っていると楽しいか。自家撞着とはどのようなニュアンスを含んでいるのか。矛盾が美しい響きを伴っていると感じるのは、誰の勘違いがなせる業なのか。それともわざとそんなおかしな表現を用いているだけか。どこかで何かが弾けているのだろう。馬鹿げたことを述べるのが楽しいのかも知れない。冗談の行き着く先には何が待ちかまえているのだろう。黙っていると頭がへこみ、脳みそが変形してしまいそうになる。頭蓋骨が言葉によって打ち砕かれることがあろうか。それはこの世の話ではあり得ない。それでも意識は正気を保っていられるだろうか。そんな大げさな話ではない。気まぐれで何かいい加減なことを述べているにすぎない。そして緊張などいつまでも持続するはずもないから、ここらで正気に戻ったふりをしなければならない。今世界は何を求めているのだろうか。それは何かの冗談だろう。冗談で人が死んでどうするのか。笑い死にする人々はきっと毒キノコでも食べたのだろう。君はそこで何かの漫画でも読んでいるわけか。週刊誌では物足りないか。気が狂った人々が何をやろうとしているのか。それがどんな物語の内容なのか見当がつかない。到底正気であるとは思えない。突然床が揺れ動き、それが地震でないとすると、気が動転してしまうだろうか。誰かが死の間際にふと思う。そんな話ではなかったはずだ。横たわった屍はみるみるうちに腐敗して、悪臭を放ちながらやがてどうなってしまうのだろう。そんな状況を実際に体験しているわけでもないが、やがてどこかのアパートの一室で繰り広げられる光景かも知れない。つまらない想像力ではその辺が限界らしい。感性の何かが貧困状態なのかも知れない。そこで弾けているのは言葉ではなく、散弾でもなく、他の何に思い当たるのだろうか。無責任な行動と言動がどこかで炸裂しているらしい。嫌なものは嫌に決まっているはずか。嫌いなことにいつまでも耐え続けていると顔面が変形してしまうらしい。誰かその見分けがつくだろうか。それが見分けられる者は嫌なヤツに決まっている。誰かがそんな決めつけを押しつけようとしているらしいが、君には何のことやらさっぱりわからず、まったく意に介さないような素振りで、その場を立ち去ろうとする。強引にそこから遠ざかる必要に迫られているのかも知れない。しかしいったい何を見破ったつもりになれるのか。知ったかぶりをするのはまだ早すぎるだろうか。


2月24日

 依然として見え透いた嘘をつき続けている。何となく言葉がつながらないふりをしているようだが、君はそれの何が気に入らないのだろう。反発するならそれらの文章に関する批判でも記してみてはどうか。それが誰の提案なのかわからない。誰もない時空から架空の誰かの姿を想像してみる。昨日のことはもう忘れてしまったらしい。別に昨日のことを述べたいわけではないが、言葉を弄するに際して、何をいとわないわけではない。時には気まぐれに面倒な設問にも答えてみたくなるが、事前にどのような設問をたてたのか忘れてしまったらしい。それではただわけのわからないことを述べてみたかっただけなのか。なぜそれが過去形になってしまうのか。不特定多数の好奇心に向かってわけのわからない文章を見せびらかす前に、何か他にやるべきことはないのか。やるべきことは罠にはまることか。自ら進んで破滅することなのか。なぜそういう結論に至るのか理解できない。君はそこでどんな兆しを感じ取っているのか。このままではいけないと思っているらしいが、今後行き詰まり状況が好転する気配を感じ取っているとは思えない。何をどうすればそうなるのだろう。今こそいつかの記憶をよみがえらせなければならないが、なぜそうしなければならないのか。例えばそれはフィクションの中に記されている。述べていることが意味不明だろうか。どこでどう辻褄を合わせるつもりなのか。基本を無視しているのかも知れないが、それが何の基本なのかわからない。それでも何かしら述べているのかも知れないが、そんなことを述べてしまう理由に至ることは決してない。思い当たる節は何もありはしない。霧の彼方に虹が架かり、曇り空を通して夜の星々を眺めているわけではないが、要するにわけのわからないことを述べているらしい。猿の浅知恵とはどのようなものなのか。そう述べながらも何に見切りをつけようとしているのだろう。世の中には見切れない事象ばかりがまかり通っている。そうは思えないと感じるならば、技巧を弄して何を語りたいのだろう。何を問いかけようとしているのか意味不明だ。コーヒーの飲み過ぎで胃が痛むか。では何が煩わしいと思われるのか。君は内容の意味不明を利用してどこへ至ろうとしているのか。それをやり通せるとは到底思えず、見る見る間に反抗の火の手が方々へ上がり、気がつけばそこいら中が火の海だ。がせネタをつかまされた国会議員のような心境になれるだろうか。今はそういうことを述べたいわけではない。言葉があらぬ方向へ暴走しているような気がする。たぶんそこには何かが省略されているのだろうが、この際そんなことはどうでもいいことか。誰かの意識はそこから何を見出したいのだろう。少なくともどうでもいいような冗談を述べたいわけではないらしい。少しは本気になっていることを言葉で示したいのなら、それとはまったく違う言葉の並びにしなければならない。今の君にそれが出来ると思うのか。誰がそう思っているのだろうか。いつまで経っても本気ではあり得ない。意識を一点に注させているわけではなく、方々へ希薄に分散させているように感じられ、現時点ではっきりしたことは何も述べられないようだ。そしてそんなことはわかりきったことで、それ以外のことを述べられないのもわかりきっている。そんな状況を何にたとえればいいのか。真空状態の中に適当な印象を抱いている。適当とは適当でないことであり、それは適当とはいいがたい言語表現かも知れないが、それでもそれが適当なことなのかも知れない。要するにそれこそが真空状態なのであり、そこには何もないわけだ。はたしてそれが何かのたとえになっているだろうか。なっていると思えばそう感じなくもないが、それで何を言い表しているのでもないことが致命的な欠陥を構成しているような気がする。それは無意識の計算が働いていることから来る結果かも知れず、何も述べようとしないという頑なな思いがそこに反映されている証だろう。だがそんなごまかしがいつまでも通用するはずもなく、それをごまかしとしか見なさない意識によって、それらの文章は黙殺の憂き目