彼の声52

2006年

1月31日

 冗談でそんなことを思っているようだが、なぜ神は願いを叶えてくれないのだろう。神には何が君の望みなのかわからない。しかしいつから君は神を信じるようになったのか。そのときの君は無神論者の君ではないらしく、作り話の中では、君の思想信条などいくらでも取り替え可能だ。別に神が存在するなどとは思っていないが、戯れに神という言葉を使ってみただけかも知れない。またそんな子供だましの水準で話が推移している。たぶんそこから何か気の利いた言葉を継ぎ足さなければならないのだろうが、そのとき何かが架空の架け橋から落下する。何がどことどこの間の架け橋になるのだろうか。誰かがパレスチナとイスラエルの架け橋にでもなろうとしているわけか。冗談でそんなことを述べるのは誰かの倫理に反している。では何と何をつなぎ合わせるつもりなのか。まったくその辺が意味不明だが、それでも話的には致命傷になっていないと思っているらしく、そういう話ではないのかも知れないが、ではどういう話をしたかったのか。例えば翌日の空も曇っているだろうか。昨日はどうだったのか。今日は翌日ではないはずか。夕方には雨が降り出してきた。それは昨日の話だったのではないか。たぶんそういう話でもないのかも知れない。では昼の日差しの中で君は何を思っていたのだろう。明日になれば何を忘れ何を思うだろう。そういうことでもないような気がするのだが、そんな思いには関係なく、不在の誰かは写真の表面で黙っているらしい。そこに君の言葉があるわけでもなく、たぶん舞い落ちる枯れ葉でも眺めていたのだろう。他に何が舞い降りてきているわけでもないが、それでは物足りないと思うならば、気休めに新たな作り話でもでっち上げればいい。いったいそこから何が見えているのだろう。時折暗がりの中でライターの炎が光るが、闇はどこまでも闇でしかなく、文章的には暗闇の中で何かがうごめいてほしいのかも知れないが、実際には何の出来事にも遭遇しない。気晴らしの営みにはなりたくないようだ。そこには何が回帰しているのか。苦しみは快楽でももたらしているわけか。何事も君にとって都合の良い成り行きにはなりがたい。もうしばらく待っていれば、遠くから何かがやってくるのかも知れないが、君はそれを見過ごしてしまうらしい。君は疲れている。疲れているから陽気な気分でいられるのかも知れないが、そういう陽気さはいつ狂気に変わるとも限らないので、これからも注意深くそれらの成り行きを見守っていく必要があるだろう。だが誰が見守らなければならないかわからない。現状から導き出されるのはそういう話ではないはずか。狂気という言葉は安易に使われすぎている。要するに狂気という言葉が現実の狂気を無効にしているのかも知れない。それは実際の狂気とは無関係なのかも知れない。君はそこで何を見つけたつもりになっているのか。何を見つけたことにもならないかも知れないが、それでも心を覆う空虚の正体でも突き止めたつもりになれるだろうか。くだらぬ作り話もいい加減にやめてほしいか。やめてほしければそれとは違う話を思いつくしかないだろう。思いつけなければそれを続けるしかやりようがない。だがそういう方向での努力はしたくない。ではどうすればいいのか。そんなところで行き詰まっていても、誰も助けてはくれない。要するに自力で何とかしなければならないということか。だからそれを成し遂げるために言葉があるわけだ。そして君がそれについて何を思う必要もなく、言葉がそれとは無関係に連なってくれるだろう。君の影はそうなることを期待しているようだが、それではあまりにも他力本願すぎるだろうか。虹の架け橋の話はどこへ行ってしまったのか。虹の話などではなく、架け橋など冗談にすぎないことだ。ではそのとき君は何を眺めていたのか。記憶が文章に結びつかない。結びつけようとしていないだけかも知れず、それよりもさっきまでの作り話の方に興味があるらしいが、それはどんな内容だったのか。別に枯れ葉が降り積もった雑木林に踏み入っているわけではなく、別にそこで煙草を吸っているわけでもない。煙草の煙が目にしみるのと、それらの言動が胡散臭いのとは、何の関係もありはしない。そんなわけで作り話の方もそろそろネタ切れに近い。それが何を意味するかはわからないが、別に何も意味しなくてもかまわないことに変わりはないだろう。何となく言葉を連ねるうちにどうでもよくなってきたようだ。人は人でしかなく、神は神でしかない。神と人がどう関わっていようと、神が人になろうと、人が神になろうと、それはただの文章にしかならないだろう。そこで唐突に神について語りたいわけでもないらしい。


1月30日

 何かが投げ売り状態となっている。たぶんそれらは君の言葉ではないのだろう。しかしそれもそろそろ力尽きる頃のようだ。別に他人の揚げ足取りをしているわけでもなく、誰の足下が掬われているわけでもない。波に浸食された砂浜には波消しブロックがよく似合う。まだその段階ではそうなのだろう。ここに至ってなお本気で述べているのではないらしい。どこかでホームレスが生きる権利を主張している。誰にもそこで生きていく権利は持ち合わせているらしい。君もどこかで生きていることになっているのだろうか。まだ死亡通知を受け取っていないはずだ。どんな嘘に満たされているわけでもない。そこに充ち満ちているのは、架空の闇だ。君はホームレスにさえなれない。どこに暮らしているわけでもないのかも知れない。足取りなど辿っても無駄だろう。どこまでも地平線が続いている。藪の中からはうかがい知れぬ光景に違いない。別にそこで気が狂っているわけではないのだろう。気が狂うほどの高尚な精神など持ち合わせていない。ただ物について考え、それに対応した言葉を探り出す。それだけのことにどれほどの労力を注ぎ込んでいるのか。対立が決定的になってしまってはそこでお終いか。そうならないように、君なりに言葉を操っているつもりらしいが、それが時として要らぬ誤解を生んでしまうようだ。君は結局そこから遠ざかろうとして、逆に近づいてしまったらしい。さらに今の時空へ近づいている。自らが発したとりとめのない言葉が君をそこへ導いている。それも君の計算の内なのか。何を計算していたのか覚えはないが、たぶん無意識のうちに計算が行われていたのだろう。しかしまだ目覚めているのは奇蹟に近いか。どんなドラッグを使用したのか知らないが、何もそこまでやる必要はどこにもありはしない。とりあえず今の君にはビタミンCと睡眠が必要かも知れない。たぶん少し寝て起きれば、またいつもの日常に戻れるだろう。今さら過去の時間に戻りたくなったのか。戻りたければ何もやらなければいい。何もやらないわけにはいかないだろうか。まだやる気になっていると思われてはいい迷惑か。地平線の向こう側から微かに明日の足音が聞こえてくるか。明日になれば何も思い出せなくなるだろうか。もう明日は今日になってしまったらしく、案の定何も思い出せなくなる。今さらそんな嘘は通用しないか。そうではないと思うなら、それはどのような理由によるだろうか。明け方にどんな夢を見たのか。なぜかすっきりしないのだが、そこにどんな理由があるわけでもないらしい。そう述べるより仕方がないような気もする。そして何もかもが思い出されているのかも知れない。なぜかこだわりが消えてしまっていることに気づく。何にこだわっていたのかわからなくなる。意味不明だろうと意味があろうとどちらでもよく、ただそこに文章が記されていればそれでかまわないのかも知れない。たとえ読めない文章でも一向に気にならない。何かの表出を阻んでいた何かが氷解してしまい、その何かと共に自我も溶け出してしまったのかも知れない。今ではそれらのこだわりのすべてが消え去ってしまった。今こそ過去を振り返らなければならないのだろうか。そういう話ではないような気もするが、何も語ることがなければ、過去の記憶を手繰り寄せて、そこから言葉を紡ぎ出すしか方法はないのかも知れず、そんなやり方では退屈に思われるが、とりあえずやれるだけのことはやってみようとも思う。そのとき君は何を思っていたのだろう。何を感じていたのか。まだ夜が明けきらない。闇の中へ誰かの視線が分け入り、そこにある何らかの事物の存在を認識しようとしているらしい。迷っているのに迷いがないと思いたくなり、迷いを消し去った言葉の連なりを導き出そうとするが、一向に具体的な事物が現れてこないのはどういうわけなのか。何がそこで見えているのかを言葉で示せないのは、やはり心が迷っている証拠だろうか。何かが行ったり来たりしているようだが、それは君には関係のないことかも知れない。そこに示されているのは事物ではなく何かであり、いつまで経ってもその何かから抜け出ることができないようだ。そんな手探り状態が長引いているようで、さっきから同じような言葉が繰り返し出現し続けている。まだ外は闇に包まれたままらしい。


1月29日

 昨日のことなどもう覚えていないか。だが作り話にも飽きてきて頃だ。それでは話にならないではないか。全速力で駆け抜けているつもりなのか。時間は待ってはくれない。しかしアメリカ産の牛肉でも食いたくなったわけではないだろう。そんな話をしたいわけでもない。今は何らかの時空の中にいるに違いない。まわりくどいことを述べないでほしいか。別につまらなくてもかまわないのなら、そんなことを述べていればそれで気が済むのかも知れない。ニュースなどいくらでもありそうだ。きっと毎日がニュースの宝庫なのだろう。ならばそこで枯れ草は何を考えているのか。冗談ではないらしい。冗談にさえならないことを述べている。だが決まっているのはそんなことではない。何も決まらないから迷っているのだろう。だがそんなところで道草を食っていても仕方がない。まだ決定的な結末には至っていないはずだ。もう少し真面目に現状を考察してみたらどうか。何を検討したらいいのかわからないか。そこに至る道筋を詳細に検討してみたらいい。飽くなき闘争心がどこから湧いて出るのか知りたいか。時間と言葉と格闘して、それで最終的な勝利を収めようとしているわけではない。何のために闘っているわけでもない。できることなら暴力とは無縁でありたいが、何とか言葉で決着をつけようとしているのでもない。決着などつくはずもないだろう。その前に寿命が尽きてしまうような気がするが、それが誰の寿命なのかわからない。やはりこの世界については何も思わなくてもかまわないのかも知れない。そんな思いとは無関係に、勝手に言葉が連なってしまう。だからそこから遠ざからなければならないのか。そことはどこなのだろう。それはマスメディアに支配された領域だろうか。誰かがイラクで大けがを負ったらしい。身内の人間が戦闘に巻き込まれたりするらしい。ホリエモンとかいう競走馬はその後どうなったのだろう。それはどうでもいいような事件について語っていることなのか。馬刺しにあたると死んだりするわけか。いつか株で大もうけする夢を抱いている者がいたとしたら、そういう人物にはどんな人格が宿っているのだろうか。人格がどうあれ、何かをやろうとする積極性を見習わなければならないのか。君の知性はどんな水準で停滞しているのだろう。それはどういうレベルの知性なのだろうか。永眠している故人のことを思っているわけではない。友愛をどこにも見出せない。今の状況を端的に示している言葉を未だ知らないだけか。まだ見ぬ風景についてあれこれ想像してみても、未来が向こうからやってくるわけがない。まだそこまで至っていないだけのことでしかない。道が遠すぎるのかも知れず、そこに至る前に力尽きてしまい、行き倒れの屍を烏が啄んでいる。そんな光景がこの世界のどこに出現しているのか。それ以外にまだ語るべき光景があるだろうか。誰かはまた肺ガン検診を受けるのを忘れてしまったようだ。死のはるか手前で迷っている。言葉の他に何も出てこないが、無理に出てくるのはくしゃみだけか。何が体内から這い出てくるわけもなく、どこから闇が迫ってくるわけでもない。ただ遠ざかろうとしているだけだ。言葉も物も遠ざかろうとしている。それで正気を保てるわけがないだろう。虚無の前では焦りさえ遠ざかろうとする。眺めているのは無名の画家の絵か。コマーシャルの類かも知れない。何の推理も働かせていないのに、向こうから謎解きを迫ってくる。そこに現前している状況を無視したいが、またニュースの時間のようだ。今度は誰が主人公に仕立て上げられるのだろう。誰について語ってしまうのか。生け贄に捧げられたのはどんな人物なのか。すべては言葉でしかない。そしてすべては物でしかない。さらにすべてに精神が宿っているわけもなく、それを何かの精神作用だと見なす者は、どこかで足下を掬われているのだろう。まだ終わりには程遠い。これからが正念場かも知れないが、そんなことなど誰が知ったことでもなく、誰にそれが当てはまるわけでもない。とりあえず君はその影と共に何かを見つめているらしい。見つめられたら見つめ返さなければ石化してしまう。まだ不動の存在になるには早すぎるだろう。不在のままの方がマシなのか。公園に設置されている銅像には鳩の糞がこびりついているではないか。それが名誉の証なのか。


1月28日

 もう用意はできているだろうか。別に自殺する準備を整えているわけではない。甘美な瞬間の到来を願っているわけでもない。何か抽象的なことでも述べようとしているのだろうか。この世には分相応の領域というものがあるらしい。人にはその能力にふさわしい地位と待遇が与えられているのだろうか。拘置所の人物にもそれは当てはまるだろうか。有名人とは何だろう。有名になるとはどういうことなのか。それにふさわしい危険が待ちかまえているということか。何をやりすぎればそうなってしまうのだろうか。窓際の枯れ草にもそれが当てはまるとは思えない。枯れた雑草が辺り一面に横たわっている。どこまでも続く荒野を空想しているのかも知れない。実際にやったことは大したことはない。誰から金を巻き上げたわけでもないらしい。多くの人々は喜び勇んで金を貢いだわけか。結果的に儲かったのだろうか。今は何曜日なのだろう。たぶん今の二日か三日前になるのだろう。今から遠ざかろうとしていたのに、逆に近づいてきてしまったらしい。いつの間にかそういう事態になっている。ところで彼はエリートだったのだろうか。何をもってエリートと定義すればいいのだろう。高学歴ならそういうことなのか。ここ半月ほどメールを見るのを忘れていた。だがそれは誰宛のメールでもない。数種類あるメールアドレスの一つに過ぎない。映画の話はその後どうなったのだろう。何かおもしろい映画が上映されていたりするのだろうか。たぶん昨日の話の内容はそんなところだったのではないか。窓際の枯れ草も心なしか傾いている。君が眺めているのはそんな風景でしかなく、そこには荒野などありはしない。部屋の中に荒野が広がっていたら、それはテレビ画面上に映る幻影に違いない。それでも君には荒野がふさわしいだろうか。まったくこじつけにもならない意味不明か。そこから何を抽出しようとしているのだろう。虚無以外に何があるというのか。そういう思いはゴミ箱にでも捨ててしまえばいいだろうか。レトリックでもないのにそんなことができるわけがないか。何がそこでのレトリックだと思われるのだろう。レトリックとは何のことをいうのだろう。正確な意味もわからない言葉を使用していい加減なことを述べている。遠くに見える光の束は何を形作っているのか。それは何かの現象だろうか。何がそこでの出来事になるのか。今さら何を否認しても始まらないと思う。何を始まらせようとしているのでもないらしい。始まっているのはテレビドラマの類かも知れず、それを見ながら暇つぶしをしている余裕があったらそれで満足なのかも知れない。そうやって怠惰に流されながら、君は現実の時間から取り残されようとしていた。だからその状態から立ち直る必要があったわけか。しかし立ち直って昔と同じようなことを述べていても何の進歩もありはしない。誰が文章が進歩することを願っているというのか。内容が何も伴っていないのは相変わらずか。何が劣等感をもたらしているのだろう。卑屈なことを述べているのだろうか。いつの間にかそこで立ち止まっている自らに気づく。たぶんいつものようにすべてはフィクションであるということで片づけられてしまうのかも知れない。実際にその通りなのだから仕方がない。まだ夏には程遠い。雰囲気的にも落ち着きのなさがその場の空気に反映されている。いくらでも過ちを犯してもかまわないのかも知れない。それが愉快ならかまわないのだろう。何か冒険でもしているつもりなのか。そういうわけでまだ死ぬには程遠い環境の中で遊んでいる。遊んでいるつもりなら本気になることもないだろう。それは仕事から遠ざかろうとしている。もはや作業であるはずもなく、労働などではなおさらない。苦役であったり懲役であったりするわけもなく、ただふわふわと浮ついた文章の中に誰かの意識が出現しているらしい。言葉の連なりはその先へ向かって進んでゆくのだろうか。まともな文章を構成しようとして果たせず、砕け散ってしまった心を再構成させる暇もないままに、ただ前進させているだけのように思われるのだが、その原動力となっているのは、やはり虚無のなせる業なのか。いつまでもつきまとって離れない君の影にどんな思惑があるのか知らないが、空虚な衣装を纏って辺りを徘徊しているその影に、どんな思いを託しているわけでもない。


1月27日

 誰かは言葉を見せている。それらは読む必要のない言葉だ。今さら自らのやっていることに意味を求めても無駄だろう。すでに言葉を繰り出した時点である意味が付与されている。その意味が無意味だと思いたいのか。そんな都合良く世の中の仕組みができているわけがない。そうなってしまうのが鬱陶しいので、そんな仕組みとは無関係になりたいわけか。人はこの世に生まれてきた時点から世の中に組み込まれているのであり、人によっては生まれる前から、あるいは死後もそれらが醸し出している制度に拘束されているかも知れない。しかし制度とは何のことなのか。制度は制度としか呼ばれないものだ。それを制度と呼べばそれが制度と見なされる。ご都合主義的に何を述べているのだろう。君は制度の何たるかをわかっていないようだ。わかっていないことを利用していい加減なことを述べている。たぶんそれでもかまわないのだろう。何をどう述べようと君の勝手だが、君が何をどう述べても、それらの制度が揺らぐことなどあり得ない。そんな言動も織り込み済みなのであり、そんな行為も含めてそれらの制度は成り立っているわけだ。すべては制度の許容の範囲内に収まる。そんな制度の中で君は生きている。しかしそれで制度について説明したことになるのだろうか。その辺はよくわからないのだが、何となくそれを利用して言葉を連ねることは出来たと思われる。結果的にはその程度で満足しなければならないのかも知れず、それ以上のちゃんとした説明を望むなら、その手の専門家の書物でも読めば、文章のわかりやすさと読解力の程度にもよるだろうが、制度に対するそれなりの認識を得られるかも知れない。たぶん君はそんなものなど読む気がしないだろう。いい加減な知識のままでもいいと思っている。君が得たいのはそんな知識ではなく、どんな知識でもなく、さらなる空虚を得たいのだろうか。空虚と知識はどう違うのだろうか。知識も知識だけに終わるなら空虚と変わりないか。ではそこでどんな実践が可能だと思うのか。すでに並べている言葉の連なりが実践の一形態だと思いたいのか。君にはそれがわかっているはずだ。わかっていながらとぼけているのも実践の一つなのだろうか。しかしそれで何がもたらされるわけもない。ただそう思いたいだけで、誰かはそこに空虚がもたらされていると感じているらしい。それが君が求めていた空虚なんだろうか。有用性を欠いた言葉の連なりは、空虚そのものになれるだろうか。使い道のない言葉の並びにどんな意味を当てはめればいいのか。意味が君を求めている。それらに意味をつけてほしいそうだ。何らかの意味がないと文章ではなくなるのだろうか。それらのシステムに魅入られているのは君自身の不在だ。そこに特定の意図や思惑などあり得ず、何も見出せないように見せかけているのは誰の意図でもありはしない。あえて間違ったことを述べるなら、それも自然現象の一種なのだろう。言葉は自然に導かれて、わけのわからない文章として構成されるらしい。自然は君の不在を通して何を理解させようとしているわけでもない。誰の理解とも関係のないところでそれらの営みは行われているようだ。君はそれらの文章の中に出現するのをためらっている。だから君の身の上話など語られるはずもなく、君はただ君という言葉のみでそれらの文章の中に刻まれているに過ぎず、文章が君について何を述べようというのでもないらしい。あるいは何も述べられないというのでもないらしく、述べていることは何かの説明の類なのだろう。いつまでも無用な説明がつきまとう展開となっていて、無用であるからいつまでも続けていられるのかも知れない。言葉の有用性には限りがあり、有用であるなら、そこには必ず終わりがある。とりあえず何かを語り終えなければ、何の役にも立たないだろう。いつまでも語り続けられていれば、そこから実践へは移行できない。しかし役に立つ文章というものがこの世の中のどこにあるのだろうか。例えばどんな文章なら役に立つのか。それに関して思い当たる文章を具体的に示せない。たぶんそれを示してしまえば、すぐにそういう文章を馬鹿にしにかかるのかも知れない。他人の文章をこき下ろすのが君のやり口なのかも知れず、そんな常套手段の上にあぐらをかいて、いつまでも進歩から見放されている自らの愚かさに気づかないわけか。


1月26日

 そこで何か反省すべきことでもあるのだろうか。馬鹿げた思い込みを貫き通しても、それなりの結果を得られることがあるらしい。では具体的に何が得られたのか。それが空虚でないという証拠がどこにあるのだろう。それ以外の何を求めているわけでもない。いつもそうやって嘘をついてきたはずだ。多くの人々が楽しみや癒しを求めていることはわかっている。君もそれを求めているはずだ。何も好き好んで暴力を求めているわけではない。なぜそこで暴力なのだろう。他の誰かの闘争本能にでも火がついたわけか。単なる文章上の誤りなのかも知れない。では他に気づいた誤りを述べられるだろうか。そういうことを述べたいのではない。述べたくもないことを記してどうするのか。そこに何を記そうと誰かの勝手だったかも知れない。無論誰かとは誰でもない誰かだ。だがそうむやみやたらと開き直る理由はどこにもない。空虚も読む者にとっては行く手に立ちふさがる暴力の一種かも知れず、頼むから興味を惹くような内容を述べてほしいと願っているのかも知れない。だがそんな頼みを誰が聞かなければならないのか。現状はそういう水準で推移していない。何もない現状では何も推移しない。しかし以前はそこから遠ざかろうとしていたはずだ。遠ざかれないことを知りながら、遠ざかろうとする仕草ばかり繰り返していた。無駄なことをやるのには慣れている。もしかしたら君は千回に一回ぐらいは真実を述べられるのかも知れない。だが本当のことを述べるのに九百九十九回も嘘をつかなければならないとしたら、それはかなり骨の折れる作業となるだろう。だがそういう前提そのものが嘘だとしたら、そんなくだらない言葉遊びのパラドックスについて何を述べればいいのだろうか。眠気と共にあくびが出てくるが、例えばそこでどんな感慨を抱けばいいのか。抱く必要のないことを抱かなければならないわけか。別に無理に感慨など抱く必要はなく、そういうふざけた成り行きには逆らわなければならないだろう。君が逆らえるはずがないか。逆らってしまったら、それこそ嘘になってしまうだろうか。本気で逆らっているわけではない。逆らうにはそれなりの理由が必要なのかも知れず、理由を見出せない君に逆らう資格などありはしない。だが何も理由だとか資格だとかいう言葉を持ち出さなくても、そもそも逆らう対象がわからないのだから、そういう言説自体がはじめから無効なのではないか。それでもそれなりに言葉を連ねているつもりになれるだろうか。いくら言葉を連ねても、真実などどこにも示されはしないだろうが、そう述べて何を否定したいのかわからない。はじめから真実など示すつもりもないのに、どうしてそういうことを述べてしまうのか。やはりそう述べる理由など何もなく、ただその場の偶然からそんな言葉の連なりが記されているだけなのか。仮にそうだとしても、それについて何か述べたくなるのはどうしてなのか。答えの返ってくる見込みのない疑問をいくら並べても無駄なだけではないか。だがはじめから無駄なことを述べているのだから、それは当然の成り行きに違いない。それらのどこに否定すべき内容があるのか。ではそれらの何を肯定すればいいのか。無駄で無意味なことをいくら肯定しようと、それはどこまでも無駄で無意味であるだけで、それ以外に何がもたらされるわけでもないか。君はその辺で何か勘違いしていないか。たとえ心を虚無に覆われていても、それでも何か肯定的な幻想を抱いていたいのか。ではそこから何がどうなってほしいのか。目の前の視界が突然開けて、何かすばらしいアイディアがひらめいたりすれば、それはそれで気晴らしぐらいにはなるだろうが、なぜそれ以上を望まないのか。気晴らしを超えるような出来事に遭遇したいとは思わないのか。君はすばらしいという言葉を軽んじている。前もってすばらしいという意味を減じた上で、それを肯定できないような文章の中で、その気もないのにすばらしいと述べている。適当に言葉をはめ込んでいるような気がする。要するにそれを本気で述べていないのだろう。述べている最中に、どこからか空気が抜けているような文章に思われる。それで何について述べている気になれるのだろう。どんな気になろうと、そこには君の意思とは無関係な言葉の連なりが記されているだけか。


1月25日

 これから何と闘うつもりなのか。無意味な言葉と格闘しても無駄なだけか。しかしそれを見極めなければならない。それとは何だろう。それはそれという言葉以外に何を指しているのか。君には物の価値がわからない。物とは具体的に何を指しているのだろう。言葉も物もそれ自身が示している以外にどんな意味を持っているのだろう。それについて何か気の利いた見解を述べようとしているのではないらしく、ただそんなことを述べてみただけなのかも知れない。まだその程度では本題とはなりがたいが、何が本題だろうと、そんな本題などすぐに無視されてしまう。言葉の連なりは本題など求めていない。求めているのは空虚そのものの到来か。だがそうなる理由など何もありはしない。では理由以外に何があるというのか。そこで見過ごされているものは何なのか。君はそれが真実だと思いたいのだろうか。それらの何が真実なのだろう。ただそこに真実という言葉が記されていることが真実なのだろうか。それ以外の何が真実なのだろう。真実など探せば他にいくらでもあるだろう。どのような真実を探しているのでもないはずだ。要するにそこに示されている何もかもが真実なのかも知れない。嘘でさえ真実なのだろう。そんなわけはないか。どんなわけでもない。何のわけも述べられないのか。そういうわけではなく、どういうわけでもない。君の心は嘘を述べる方向へ傾いている。それを今さら修正できるはずがない。何をどう修正すればいいのかわからない。すでに何かを述べているらしい。それが架空の世界であるわけがないだろう。それについて何をどう述べようと、君の勝手なのではないか。君以外の誰の勝手であるはずがない。何もかもを語るつもりもないのに勝手も何もないだろう。君は何かのしがらみに囚われていて、そこから抜け出せずにいるだけか。だがそれは言葉とは無関係だ。君には何かを述べる時間も場所もあるはずだ。だからそうやっていつまでも無意味なことを述べているわけか。無意味なだけでなくまったくの無駄なのかも知れない。わかりきったことを述べないでほしい。では何が何かを述べる邪魔をしているのだろう。意味のある無駄ではないことを述べたいとは思わないのか。それを誰が思えばいいのかわからない。それはどういうことなのか。たぶん君には自らが何を述べているのかわからないのだろう。しかしそんな根拠の曖昧な憶測が真実であるはずがない。そう述べて何を指摘しているつもりなのか。誰がそう述べているのだろうか。自らが何を述べたいのかわからなくなるのだが、自らとは誰のことなのか。誰が自らである資格があるのだろう。彼にも私にもその資格があるとは思えない。では架空の存在である君が自らを語ることができるだろうか。言葉でしかない君にどんな内容を語れるというのか。それでも君が語っているとしたら、それはフィクションとなるしかない。君が何かを語っていると言葉で記されるに過ぎない。しかしその言葉を記しているのはいったい誰なのか。そこから先は読んでいる者の想像にまかせるしかないのだろうか。それ以前にわかりきっていることではないのか。なぜそこで事実を曖昧にして真実を隠さなければならないのか。要するに本気で語る気がしないということか。何を語っても嘘になってしまうような気がする。君の存在さえ架空なのだから、君について何を語っても嘘になることはわかりきっているはずだ。だから君には何の持ち合わせもない。物語に結びつくようなエピソードは何もない。ではそこから何を語るつもりなのか。それ以降に何を語ろうとしているのだろう。誰が何を語ろうとそれは君には関係のないことだ。そんな風に述べている当人にも無関係かも知れない。ただ言葉は言葉自身について述べている。それ以外に語る対象を見出せないらしく、そこから別の対象に移り変わる術を知らないかのように、ひたすらそれ自身を語りたいらしい。そうとしか思えないような無内容を示している。まったく呆れを通り越して、勘違いの感動をもたらすほどの無意味と無内容だ。なぜそうなってしまうのかはわかりきっているつもりだが、わかっていてもやめられないのはどういうことなのか。やはりどういうことでもなくそういうことでしかないわけか。だからそれがどういうことなのかがわからない。


1月24日

 何となく無理な雰囲気になりつつある。まだ精神的に立ち直れないようだ。いったい誰が立ち直れないのだろう。語りたいのはそんな話ではないはずか。何も語りたくないのかも知れない。予想はことごとく外れ、心の動揺を隠しきれなくなり、そのうち何を予想していたのかも思い出せなくなり、自らが何を語りたいのかもわからなくなる。そんな成り行きになるはずもないと思いたいが、それは君が決めることではない。君は何も選べないのであり、ただなるようにしかならない成り行きのただ中で、自らの意思とは無関係に動き回るだけだ。その場の雰囲気に動揺して、空気を読めずに、ひたすら勘違いの内容を語り続ける。そんなことが本当にあり得るだろうか。馬鹿なことを口走ってはならない。誰に対して口走っているのだろう。口走る対象が不在だとすれば、それは単なる独り言でしかない。では君の独り言の内容はどこにあるのか。そこに書かれている内容が独り言だとは思えないが、君はまだ沈黙を守っているのだろうか。どこからそれをうかがい知ることができるのか。たぶん君が記そうとしているのは沈黙の言葉なのだろう。無論本気でそんなことを述べているわけもなく、とりあえずの内容ばかりが延々と連なっているに過ぎない。取り立てて何を示しているのでもないのかも知れない。ではそこに示されている内容は何なのか。ただの無内容が言葉で示されているわけか。しかし無内容とはどんな内容なのだろう。文章に内容がないということは何を意味するのだろうか。それが無意味な文章といえるだろうか。しかしなぜそんな当たり前のことを改めて述べているのか。そこには見え透いた理由がありそうだ。理由などあとからいくらでもねつ造できるが、そんな理由に説得力が宿ることはないだろう。別に理由にこだわっているわけではないが、何かが狂っていることは確からしい。そこに理由を見出す以前に、そこで明らかとなっている不具合を修正すべきではないか。いったい何が明らかとなっているのだろう。文章の内容のなさか。情念は何もない。いきなりその言葉は何だろう。ではいつになったら朽ち果てるのだろう。何が朽ち果てようとしているのか。万物は常に変転している。流転した先で何が待ちかまえているかを知ろうとしているのではない。そういう話ではないはずだ。話の筋はどこへ行ったのだろう。沈黙を破っていきなり口走った内容は何だったのか。誰がどこで無口なふりをしていたのだろう。言葉がさらにずれている。何もかもがわからずじまいではいられない。その中の何かをわかったふりをしていないと、自分が馬鹿にされたような気になるらしい。誰かが君の噂をしているようだ。そんな気にさせるようなことをした覚えはない。話の内容はそんなことでもないらしい。では何か約束をした覚えはないか。誰に何を約束したのだろう。確約できることは何もないだろう。君は心を空虚に囚われていればそれで満足なのかも知れない。君の他には誰もいない時空で、何を思うでもなく、何を考えるでもない。それが君の不在を示しているのだろうか。他に何か覚えていることはないか。そのとき何を思っていたのだろう。何も思わないとすれば、何か思っていた時を思い出すことができるだろうか。なぜ何かを思わなければならないのか。思わなければ話にならないのだろうか。君はそこで何を話しているわけでもない。それは君の話でさえないのかも知れない。だがそれとは何のことなのか。君はそこで何かを知らなければならないが、知り得ないことまで知るつもりはない。たぶん語っているのは君ではなく、話したいのはそういうことではない。ただそこで何が足りないかを示したいだけなのかも知れず、その足りない何かが言葉によって示される時、話はそこで終わるのだろう。だからその足りない何かを探り出さなければならない。しかし探り出すのは君ではなく、そこに連ねられている言葉自身がそれを示さなければならず、君にはそれが不可能に思われるらしい。君とは無関係な言葉がそれらのどこに示されているのか。それらのすべては君自身について語っていることではないのか。だが誰がそんなことを指摘しているのだろう。話がそこに至ると必ずそんな言葉が出現してしまい、話の方向をはぐらかしにかかってしまうようだ。やはりそれで何を述べているのでもないのかも知れない。


1月23日

 本末転倒になりそうだ。何かがおかしい。閉じたまぶたの裏側で、光が射してくる位置を確認している。君はそこで他人の目を気にしていたのかも知れない。それが旅であるわけがない。すでに過去の話になってしまったようだ。心はどこかを移動し続けている。ごみごみした地帯を抜けると、そこには何の変哲もない風景が広がっていた。目的がそこにあるわけではないことはわかっている。それからしばらくして、わけのわからない成り行きを通過して、そこでの問答とは関係なく、どうでもいいようなトンネルをくぐり抜け、せっかく視界が開けてきたのに、どうやらその辺で眠気の限界に達してしまったらしく、あとのことは何も覚えていない。深夜に言葉を連ねようとして力尽き、夢の中でそれらの惨状を目の当たりにして、もはやごまかすことすらできなくなってきた。何をごまかせばいいのかわからない。どうしてもその続きが思いつかない。しかし何を切羽詰まっているのだろう。意図的に状況を無視したいらしい。君はそれらの結果からそれにふさわしい言葉を選ばなければならず、何もわざと難しいことを述べなくてもいいはずか。ただそれについて語ればいいことでしかないが、それともまだその時期ではないと思いたいのか。そんな思い込みが何をもたらそうとしているのだろう。現状の他に何がもたらされてほしいのか。他とは何だろう。他者の言葉の中にどんな意味が宿っているというのか。空疎な言葉の他に何があるのか。目の前の空間には何があるのだろう。物質的には空気がありそうだ。空気には窒素と酸素が含まれている。たぶん呼吸するには酸素が必要なのだろう。いわんとしていることとは無関係な言葉が連ねられる。疑り深いのは今に始まったことではない。ことさら事実を述べようとは思わない。何か事実なのかを見極めようとしているわけでもない。そんなでまかせも今に始まったことではないだろう。ただひねくれているだけのような気がする。ひねくれすぎて首が一回転してしまったらしい。わざと嘘をついてもつまらない。だがわざと真実を述べてもつまらない。心が感じている本当のことは、それらの語りには馴染まない。真実はどこまでも真実であろうとして、それについて語ろうとする意思を打ち砕くまで、真実であろうとすることをやめない。何も語れなくなるまで真実は嘘をつこうとする。それは嘘にはならないはずだ。語っている者が行う安易な自己正当化が許せないのだ。間違ってもおまえの語りであろうはずがない。誰がそれを語っているのでもなく、ただ真実がその場に出現しているに過ぎないことを、語り手は言葉でごまかそうとする。自らが語っていることが真実であるかのように見せかけてしまうわけだ。そんな偽装が許せないのだろう。だから真実は語り手をすり抜けて、それについて語っているつもりの言葉から限りなく遠ざかろうとしてしまう。もはや真実がどこにあるのか判別できないような無限の距離が必要になる。しかしそんな嘘が何になるのか。嘘ではなくそれが真実なのではないか。そこであっさり自らのでまかせを認めて何になるのだろう。そんな風に述べながら君は、真実から限りなく遠ざかろうとしているのではないか。それは無意識のなせる業かも知れない。君の心はすでに打ち砕かれているはずだ。気味悪いほどの静寂に包まれた偽装空間の中で、薄ら笑いの貼り付いた顔がそうなってしまった証となる。君はそれとは違う結果を求めていたのではなかったか。ただ単純にそれらの真実を知りたかっただけなのかも知れないが、それではあまりも簡単すぎるような気がして、それを認識しようとせず、結果的にいつもその場に立ち現れている真実を取り逃がしてしまう。真実を真実とは思いたくないのかも知れない。何とかそれが嘘であるように語りたいのだろう。そして他の誰かが真実を語るのも許さないのかも知れず、ひたすら自らが嘘について語っていると思い込みたいのだろう。だがなぜそれが嘘そのものなのではなく、嘘についてなのか。それらの偽装された嘘とは何なのか。どうもその辺から話の内容を把握できなくなりつつあるようだ。わざとそうしているのかも知れない。そうなるように意図的に話の筋をずらしている。たぶんそうしなければ話が続かないのだろう。それらの語りを継続させるために、わざとこんがらがったことを述べているのかも知れない。今さらわかりきったことを述べないでほしいか。


1月22日

 君は何を利用してそこにとどまるつもりなのか。昨日から話がまったく進んでいない。作り笑いにはもう飽きてきた頃だろうか。君はそこで誰について語っているのか。架空の話の中では、誰かはもがき苦しむことに慣れてしまったようだ。思わぬ結果に首をかしげながら、思い通りにならない成り行きの中であえいでいる。それが慣れた証なのか。それらの語りは誰のことを述べているわけでもなく、ただ架空の話の中に適当な苦しみが散らばっているだけか。君はそうやっていつまでもいい加減に語りたいのだろうか。それがいつまで持つのかわからないが、どこかで何かが狂っているのかも知れず、それらの狂乱騒ぎについては、誰のせいでもありはしない。誰もが責任のある立場から逃れているように思える。自らの立場を正当化する者にとって、いったんそのような状況になれば、そういった責任逃れの言葉を繰り出しざるを得なくなるのは、必然の成り行きだ。君にはそれが不可解に思われるようだが、それについて物事を単純化して文章を構成するのは愚かなことか。何が正しくて何が間違っているかを指摘する立場の者には、どんな責任が生じるのだろう。漫画は漫画の世界だけに起こりうる現象を扱っていて、映画は映画特有の映像と音響効果の上に成り立つ見せ物だ。君はそれらの何を許せないのか。そこから君独自の論を展開させなければならないようだが、そんな論を誰が知るわけもない。何がそこでの論となるのだろうか。そもそも論とは何なのか。すでに何かしら述べていることになっているらしいが、その何かしらという言葉がある種のごまかしなのだろう。ただ漠然とした対象を何かしらという言葉で示しているだけか。しかしいったいそれがどうしたというのか。そんな風にしか述べられないのだから、そんな風に述べるしかないだろう。他にリアリティを感じさせる言葉を知らない。誰もが見てきたことについて誰かが解説していて、適当に類似点を指摘した後に特異点を指摘したりする。すべての解説がそんなことの繰り返しなのだろうか。だが君はなぜ解説の中身について触れようとしないのか。それらの解説の中では具体的に何が述べられていたのか。そんなことなどすでに忘れてしまっている。時間の経過を考慮に入れていなかったらしく、解説の中で何が述べられていたかを忘れた頃に、それらの文章を記そうとしているように思われる。だから中身が何もないわけか。そんなごまかしは卑怯か。その辺で真意がわからなくなってくる。言葉を連ね始めて半日経ったそのときから、何をごまかしていたのかを忘れてしまったらしいが、そこから何をどう述べていいのかわからない。たぶん言葉が天から舞い降りてくるのを待たなければならないのだろう。だがなぜそんな表現に至ってしまうのかわからない。いったい誰がそこで待っているのか。誰が架空の夜空を見上げているのか。それは即興の演技に違いない。待ち受けていたのはいつもの夜の到来に過ぎないだろう。そして今日も結局何もわからずに、目を閉じて明日の朝を待ち続けなければならないのか。朝になって何が起こるわけでもないだろう。朝になったら死んでいたらどうしよう。何か心配事でもあるのだろうか。切り抜けなければならない困難とは何なのか。はたして今経験しつつある成り行きが困難なのだろうか。困難と思うなら困難なのだろう。だがその困難は終わりに近づいているとも思われる。あと数行で終わってしまうような困難が困難といえるだろうか。たぶん困難なのだろう。内容のなさに胸が張り裂けそうか。そんなことで胸が張り裂けるわけがない。困難はもっと別のところにあるのではないだろうか。言葉をいかに並べるかについては、気分次第でいかようにもできるが、その言葉の並びに誰が納得するかについては、誰も納得し得ないような気がする。何となく馬鹿らしく思われてくるしかないようだ。それについて何をどう解釈すればいいのだろうか。つまらない結果の提示に逃れようとしているようだ。だが誰の本心からそうしたいわけでもなく、誰もそれでいいとは思っていない。では仕方なくそんな成り行きの中に身を投じているに過ぎないのだろうか。そう思ってもらって一向にかまわないが、それでうまくいくはずがないとも思っている。どうにもならないことを、どうにかしようとしてはいけないのだろう。自分一人でどうにもならないのなら、他人の力を利用する以外にやりようがないのだろう。


1月21日

 何も思い浮かばないわけがないだろう。ただ精神的に疲労困憊しているだけだ。誰もがそうなのかも知れない。地縁血縁によって成り立っている社会なのだろう。一部ではそうではないのかも知れない。では友情とは何なのか。一方では友愛などと呼ばれる現象もある。君はそれらの何がわからないのか。それらの文章は何を示そうとしているのだろう。記している者さえわからない曖昧なニュアンスだろうか。それはカフェインから影響を受けた作用かも知れない。わかりやすい性格とはどのようなものなのか。それらの何がわかるわけがない。のめり込んでいる対象を明らかにすることができない。ついでに何を否定しているのかわからなくなる。すべてを否定しているわけではないはずか。この世に否定できないことなどありはしないが、そんな否定などすぐ無効になってしまう。すべてを否定した後には何もかもを肯定しなければならなくなる。そういう状況に追い込まれた人は気が狂ってしまうらしい。だがそれはその場しのぎの嘘かも知れない。ではいつか必ずこの世のすべてを肯定する時がやってくるだろうか。そうなった時に何も思わないことをやめる決心がつくかも知れず、肯定が作り出す美しい情景に感動することだろう。今はそれも嘘かも知れない。では嘘が本当になる日はいつやってくるのだろう。いつやってこようと、そのときになったらわかることでしなく、案外そのときにはそんなことは忘れているかも知れない。肯定や否定などという判断はその場の気まぐれでどちらにも振れるものだ。同じような現象が時空が違うだけで肯定されたり否定されたりする。人々はいつも馬鹿らしい現象を肯定してつまらない現象を否定するだけだ。要するに馬鹿らしいことがすばらしいわけだ。ではそれに反抗したい君はつまらないことに感動するわけか。それ以外に何があるのだろう。何もかもがあり、どこにも何もない。あると思えばいくらでもあり、ないと感じるならまったく何もない。何もなければ何もないと思うだけだ。他にどんなことを思えばいいのか。何がそこで麻痺しているのだろう。何が麻痺しているわけでもなく、すべてが麻痺しているのかも知れない。そんな風に思えば楽しいか。それがつまらないことの真相かも知れず、それの何が真相なのかわからないが、たぶん真相という言葉の使い方が間違っているのだろう。そんなやり方が楽しいわけがないか。その辺で君と誰かの見解が異なってしまうかも知れない。いったい誰が内容の楽しさを求めているのだろう。そしてつまらないから感動的なわけもない。ではすべては嘘だったのか。嘘なのではなく、単に意味不明なだけだろう。ただ何をやってもその中のひとにぎりの人々が成功する仕組みになっていることは確からしい。そういう成功者にメディアが焦点を当てて、みなが競争するように煽り立て、ますますひとにぎりの成功者を輝かせようとしているわけだ。たぶん成功へを夢を絶えず振りまきながら、それによって大多数の敗残者を盲目にしているのだろう。自らの愚かさを気づかせないようにしているわけだ。そんなゲームに喜び勇んで飛び込んでいく者の気が知れないか。誰もが機会さえ巡ってくればそうしたいのかも知れない。そんな状況で何を述べても無駄だろう。それがまともなやり方だとは思わないが、ではそれらのすべてがまともでないやり方なのかといえば、そうではないような気もする。まともなやり方など無効なのかも知れない。絶えず他人を出し抜かなければ自らが浮かばれない。まっとうなやり方にこだわり続ければ、どんどん沈んでいってしまい、いつも貧乏くじを引くことになってしまうわけか。それも違うような気がする。別に沈んでいっても貧乏くじを引いてもかまわないだろう。成功しようと失敗しようと、最終的にそんなことはどうでもいいことなのかも知れず、人はただ生まれて生きて死んでゆくことしかできはしない。その過程において言葉や物で身の回りをいかに飾り立てるかを競い合っているだけでしかない。そう考えてみれば、すべての人間が愚かしくもはかない人生を歩んでいることに気づかされるだろう。要するにそれらのすべては馬鹿らしいと同時に魅力的に思われてしまうようだ。だがそんなものに感動してどうするのか。そんなことを追求してどうするのだろう。


1月20日

 なぜか急ブレーキがかかったような状況に追い込まれている。興味がないということは、それを無視してもよいということか。いかに無視しようと君はそれから逃れられない。そこから遠ざかれないわけだ。君を取り巻くそれらの環境は君の存在を認めない。その空虚な意識は何を目指しているのでもないらしい。誰がそこにいるのだろうか。誰もいないはずがない。誰かの意志が介在して、それらの環境が構築されていることは確かだ。君はその場を覆う不可視の存在を知りたいのか。この世界以外に何があるわけでもない。存在するすべてがこの世界の一部でしかないことはわかりきったことだろう。しかし君はこの世界を知っているといえるだろうか。そのすべてを知ることはできない。それは存在ではなく不在ではないか。君は他人の空想や妄想の内容を知りたがっているのか。その辺で意味をぼかしてあやふやなことを述べようとしている。どうもそれは違うような気がする。君はつまらない話には興味がないのかも知れず、もしかしたらしゃれでおもしろおかしなことでも語りたくなったのだろうか。まさかこの期に及んで気が変わったとか述べるつもりなのか。しかしそれ以前には何を話す気になっていたのだろう。それらの言葉はいつもの逡巡と果てしない迷いをもたらす。何を躊躇しているのか。躊躇する理由など何もないはずだ。何がそんなに気に入らないのか。どうも言葉の並びに拭いがたい暗さを感じる。たぶん他人の立場や思惑など知ったことではないのだろう。ごり押し姿勢を貫き通せば、いつかは自分の主張が通るとでも思っているのかも知れないが、そんな単純なやり方でうまくいくのだろうか。それが世界中に広まっている一般的なやり方だとすれば、やはり最終的には暴力の応酬に発展するしかないのだろうか。他にどんな解決法を導き出すことができるのか。話し合いは果てしなく続き、決して解決に至ることはないだろう。解決させるために話し合うのではなく、互いの主張の違いを際立たせるために話し合っているのだろうか。そのまま話し合いは平行線を辿ってしまうらしく、何の歩み寄りももたらされないようだ。この世は和解することの困難な問題だらけなのだろうか。たぶんそのほとんどがだめなのかも知れない。誰もが他人の行為を許せない。それが弱肉強食社会の本質なのだろうか。作られた話にはどんな意味が内包されているのか。つまらない話なら空虚が宿るかも知れない。そんな空虚に踊らされて、人々は身の程知らずの夢でも見るのだろう。だがそんなことを述べている君にも夢を抱くような成り行きが待ちかまえているのだろうか。君は今どんな夢を見ているのだろう。何か得体の知れない者にでもなろうとしているわけか。そしてついに化けの皮が破がされる。それはいつの日のことになるのだろう。君はそこで何か特定の人物について予言しているわけではない。ただその場に漂っている言葉の雰囲気に流されながら、何かわけのわからないことを口走っているだけのようだ。だがいくらその先に言葉を弄してみても、話が先に進むはずがない。話を進ませないように言葉を弄しているのかも知れず、そこに限りなくとどまりたいのだろうか。いつまでもそこから動かないつもりなのか。すでにかかとまで地面にめり込んでいるのかも知れない。どうやら身体が重すぎるようで、その重さに膝が耐えきれなくなり、まともに歩けないような状態になってしまったらしい。そんな嘘ならおもしろいだろうか。お粗末なフィクションの断片を恥ずかしげもなく披露して何がおもしろいのか。たぶん君には事の真相が理解できないのだろう。何の事情も把握していないようだ。要するにいつものごとくわけがわからないだけか。わけがわかるような言葉の並びではないらしい。そんなわけで君はそれらの文章を本気で読む気がしなくなる。全身に行き渡っている脱力感に抗ってまで、まともな精神状態に戻ろうとは思わない。その辺でもう終わりなのかも知れず、終わらない話をいつまでも繰り返していても仕方がないとさえ思うだろう。だがそれで終わりようがないことに変わりはなく、終わらせられない話など話ではないのかも知れないが、そんな根も葉もないいい加減なことを述べていていいのだろうか。誰が何を述べているのかわからないだろうか。おそらく誰も何も口走っていないのだろう。


1月19日

 そこから何がわかるのか。原因を知らず理由も知らず、何も知ろうとしない心の内側を、どうやって明らかにするつもりなのか。何も明らかにできないと思い続けることから、わけのわからない言葉の連なりが構成されるのだろうか。それを見出して何を思うつもりなのだろう。何も見出されないと思い込み、何も思わないと思い続けるつもりなのか。そんな無意味なことを思い続けてどうしようというのだろう。無意味だと思われるから思い続けられるのか。何だかそれでは原因と結果が逆転しているような気がしてくる。しかし何が原因だろうと結果だろうと、そんなことはどうでもいいような気もするのだが、それでは何を述べているのかわからなくなる。やはりただ言葉を弄しているだけに過ぎず、結果的には何も述べていないのだろうか。君はそれでもかまわないと思うわけか。考えていることと思っていることと記していることに関連性を見出せない。そんな嘘は通用しないだろうか。どこで通用させようとしているのだろう。それらがどこにも通用しないような文章であるとすれば、それはそれで無意味なことを述べている証なのだから、願ったり叶ったりの展開なのだろうか。そうやって何を強がっているのか。強がりや痩せ我慢ではつまらないと思われ、それが気に入らない原因になっているのかも知れないが、では君が気に入るような展開がどういうものなのかについては、何の心当たりもありはしない。たぶんそれらの文章を記している誰かにとって、そんなことはどうでもいいことであって、君が何を思おうと知ったことではないのかも知れず、ただその場の状況に即した無内容を自然体で記しているに過ぎないのかも知れない。何となくそれでしっくり来るようなことを述べているらしく、そのことについては何の意図も思惑も感じられないようだ。だから自らが何を述べているのかわからなくなる。はたしてそれでいいのだろうか。よくてもよくなくても、現実としてそういう状況にあるわけだから、それを受け入れるにしろ受け入れ難いにしろ、君にはどうすることもできないことだろう。何となく呆れてくるようだが、唖然とするほどのことでもないだろう。たぶんそこでは何かが繰り返されていて、その繰り返しの中から誰かは継続への糸口を絶えず探り続けているのかも知れない。そしてそれが困難であり得るはずがなく、まるで不可能なことでもないのだろう。だからそれらの文章は続いている。そんな風に述べて自らを納得させるつもりなのか。たとえ誰が納得できなくても、続いてゆくものは続いてゆくしかない。続かなくなった時点で、はじめてそれらの困難さが浮き彫りにされるだけで、そうなるまでは続いてゆくしかないらしい。それで何を述べていることにもならないのかも知れないが、とりあえずはそんなことを述べている現状があるらしく、そこから遠く隔たることはできないようだ。君はそれでもかまわないと思っているのだろうか。誰がかまわないと思うだろう。誰も思わないなら、そこから何らかの変化が生じてくるかも知れず、その変化に沿った内容が導き出されるかも知れない。ならば君はそうなってほしいと思っているわけか。思ってみたところでどうなるわけでもないか。それらはどうにもならないような無内容を伴っているわけか。誰かは冬晴れの空を眺めながら、それについてどんな感慨を抱いているのだろう。雲は流れ上空の風の流れを感じさせ、風景の移ろいゆく様を眺めている自らが、何を見定めようとしているのか。できることならそんなはずがないと思いたい。何も思わない方が気楽かも知れない。何も思っていないふりをしているだけかも知れないが、何となく他人にそう思わせようとしたいらしく、いつもわざとらしく無表情を貫いているように思われる。それで現状を変えようとしても無理な話だろうか。いかんともしがたいことは他にいくらでもあるはずか。それについてどのように言葉を弄してみても仕方がないのか。しかし無駄だとわかっていても、何かしら言葉を弄さずにはいられないのが、誰かの特性なのかも知れない。しかし内容が何も見当たらないのはどうしたことだろう。現状を変えるには具体的な内容を伴わなければならず、それなくしてはいくら言葉を弄そうと、過去の繰り返しに堕するしかなくなってしまうだろうか。本気でそう思っているのか疑わしいか。


1月18日

 ルールとは何だろう。たぶん何かルール違反があったのかも知れないが、なぜほとんど寝ていないのか。それの何が間違っているのだろうか。眠れないのとルール違反は無関係かも知れない。しかし眠気とは何だろう。眠たいの眠れない場合、それは眠気を催していることになるのだろうか。それに関して空っぽの心は何も思わない。それが誰の心なのか君に心当たりなどあるはずもなく、また何も思わないような心が心であるはずがない。もしかしたら何も思わないというのは嘘かも知れず、そんなどうでもいいような嘘をつくような心なら想定可能だろうか。しかし心を想定してどうするのか。何かそこから話を構成するつもりなのか。そんなわけで誰かの空想の中に偽りの心があるらしい。そんな設定ではつまらないか。つまらないと思う以前に、まだ話が始まったばかりの段階で、つまらないか否かの判断を下すのは早すぎるような気がする。なぜ簡単に話から脱線してしまうのか。そうやってわざとらしく話をはぐらかすのはいつものパターンのようだが、もはやそんなやり口にも飽きてきた頃か。それでも誰かの意思に従うなら、その先を述べなければならないようだ。またいつものように無駄な文章を付け足さなければならなくなる。義務感からそうしているわけか。何も思わない君にどんな義務が課されているのか。君にはまだやらなければならないことがあるらしい。それは漠然とそう思っているだけのことかも知れないが、できるだけ今日の日付に近づきたいらしい。それが偽らざる本音であることを願いながらも、すかさず君はそうではないと述べたくなる。そうするのが嫌なのか。どんな理由があるのか知らないが、あるいは何の理由もないのかも知れないが、とりあえず君は誰かの意思を尊重する気にはなれないようだ。それも何かの義務感からそうしているのだろうか。君はそこで何をしなければならないのか。それも現状の煮詰まり具合を示す文章に違いない。それらのわけのわからない問答もその場の時間稼ぎに映ってしまう。しかし誰がそんな認識に至るのだろう。常に思っていることとは逆の内容を記したくなってくる。そしてそれに成功しているとは到底思えない。そんなことをいくらやっても無駄だろうが、無駄を承知でやらずにはいられないこともあるらしい。今がそれをやっている時なのかも知れない。まったく冗談にも程があるか。君は無駄な言葉を連ねながら、移りゆく時の流れと状況の変化をどう感じているのか。何も変わらないと思いたいのか。それとも少しずつ何かが変わり始めていると思うわけか。あるいはそのどちらでもないと思い込みたいのか。そうやって常に前述を否定したくなる気持ちは変わらないようだが、それで何を述べているつもりになれるのだろう。つもりではなく実際に何かを記していることは確かなようだが、それを読み返す気になれないのはどういうわけなのか。どういうわけでもなく、そういうことでしかなく、それについて何をどう思ってみても無駄なのかも知れず、要するにまたつまらない思考の逡巡にはまってしまっているだけなのかも知れない。だがそうなることも予定調和でしかなく、想定内の成り行きでしかないのだろう。今のところ馬鹿げた言葉の並びがまっとうなものに変化する兆しは感じられない。未だに君はそこから遠ざかる術を見出せないでいる。たぶん君には書くに値する出来事が欠けているのだろう。どうでもいいようなことならいくらでも書けるかも知れないが、それでは誰かの意思が許さず、そこで言葉を記そうとする意欲をそぎ取ってしまうのだろうか。だが現状ではそういう意図的な精神作用が有効に働いているとは思えず、読み返す気が起こらない文章が断続的に生成されている事実が、誰かの精神の無効性を物語っている。しかしそれが君の意図する事態だとすれば、現状にはどんな効用があるのだろう。要するに気が済まないから終われないということか。しかしそうやって終われない状態を続けることに何の意義があるのだろう。もとから自らのやっていることに意味や意義を見出すことは放棄していたのではなかったか。君には空虚という友人がついているはずだ。架空の存在であることに何の意味も見出せないことは、君にとって好都合だったはずだ。だから無責任に無意味な言葉を弄して、わけのわからない文章を構成できるのだろう。


1月17日

 誰かは何もできないのに何かできると思っているようだが、それの何が思い違いなのだろう。そもそも何もできないと見なすことが間違っているわけか。そんな前提で誰かの試みを否定するのは間違っているだろうか。たとえ間違っているとしても、それらの状況からはそんな言葉しか導き出せない。君にもできることとできないことがあるらしいことはわかっているつもりだが、できることでもできないことでもないことをやれるはずがない。それをやっているもしくはやろうとしているのは、君ではない。それどころか誰もそれをやっていないのではないか。やろうともしていない。それとは何だろう。そんなことがわかるわけがないか。それが何かもわからないのに、それをやるも何もあったものではない。また途中でひねくれてしまったらしく、まっとうな話にはなりがたい展開になろうとしている。なぜそうなってしまうのだろう。君に初めて出会ったのはいつのことだろう。君という言葉は何も答えない。なぜそれが彼でも彼女でも私でもないのか。誰か他の人格を思いつかないものか。気休め程度では何ももたらせない。そこには何かの力が働いていて、それは精神作用の一種なのかも知れない。深刻に受け止めるべき状況を知らず、思い込みには空疎な戯れ言がつきまとい、人はいくらでも死に、いくらでも生き返る。そんな話がどこに存在しているのか。空想にも限りがあるのかも知れない。新たに構成される文章には死臭が漂っている。そんなはずはないか。それは口からでまかせの類なのか。確かにこの世に口という言葉はあるらしいが、それは君という言葉が存在するのと同じ程度の意味をもたらすだろうか。そこでの意味とは何だろう。要するに雰囲気だけの文章に誰かの精神が染まっているわけだ。その程度ならやろうと思えばいつでも構成可能だ。それが君の作品でない証拠がどこにあるだろう。誰がそれを作り上げているわけでもなく、言葉の連なりが醸し出す雰囲気は君のものではない。だがあり得ない文章でもないはずだ。君はどこかで迷っている。それを続けるべきか否かを尋ねる対象を探しているのかも知れない。だがその対象が人としての人格を伴っているとは限らない。心に巣くう空虚に何を問いかけても、返ってくる答えを意識することはできないだろう。それは返答ではなく、問いかけに対して再度なされる問いかけのようなものだ。どこまで行っても問いかけにしかならない問いかけが繰り返されているだけのようだ。それに対して君は何も答えようがなく、その代わりに執拗な問いかけが繰り返される。なぜこの世界はそういう仕組みになっているのだろう。そういう仕組みとはどういう仕組みなのだろう。何となくわかっているようでいて、その実何もわかっていないのかも知れない。それは仕組みとは認識できないような仕組みなのかも知れず、その仕組みの中で言葉を弄すれば、みな同じような文章として出力されてしまうような具合なのだろうか。もしかしたそれは君特有の事情に基づいた仕組みかも知れない。この世界ではなく、君自身が言葉の病のようなものにかかっている可能性もある。そして言葉の病は予言をもたらす。その予言は高い頻度で的中するかも知れないが、誰もそれを知りながらも無視してしまうような予言であるらしい。おそらく君ごときに予言されてしまうと困ってしまうのだろう。予言とはしかるべき立場の者がしなければならないもので、関係のない者がいくら予言したところで、それは予言とは見なされないのかも知れない。だから近頃の君は予言するのを控えている。予言したところでどうなるわけでもなく、その予言が的中したところでどうなるわけでもない。要するに君が何を述べても無駄なのだ。そんな事情から君はさらにわけのわからないことを述べるようになってしまったらしい。そしてもはや何を述べているのかわからないことしか述べられなくなってしまったようだ。そんなわけで君の心は完全に空っぽで、何もない空虚に支配されている。それでもそれは嘘であって、その場の成り行きに沿ったフィクションなのだろうか。しかし作り話としては少し粗雑な構成になっているような気がする。もう少し気の利いた話をもたらせないものか。誰がそう思っているのか明らかになっていないだろう。そんなことはいちいち指摘しなくても、読んでいる者にはお見通しか。


1月16日

 夜になり空を覆う闇の中に転々と光が瞬いている。誰が下界を見下ろしているでもない空の下には、家々の屋根があり、屋根の下には当然天井があり、天井に付いた蛍光灯に照らされて、誰かの姿が浮かび上がる。そんなはずがないだろうか。誰の視点に沿ってそんな風に述べられるのか。架空の視点から文章を構成しているだけのようだが、それ以外にどんな語り方が可能だろうか。滑稽な手法を取り除いてしまえば、また以前と同じようなことを述べてしまうのだろうか。結果がどうなるかは述べてみないとわからない。君はそれについてどう思っているのだろうか。君は何も思わない。君の影なら無理矢理場違いな言葉を連ねて文章を構成しようとするが、まともな文章になったためしがない。そんなわけでまたいつものつまらない内容に終始してしまうようだ。語る前からそんなことを述べていていいのだろうか。すでに何かを語り始めているようだが、語っている内容に興味はない。尽きかけている言葉をかろうじてつなぎ止めているようだが、心が淀んでいる。それは誰の心なのだろう。君に心などあろうはずがない。そういう根拠のない決めつけはどこからなされているのか。心がない根拠を示す必要があるだろうか。心とは何だろう。精神とは何なのか。答えはすでに示されている。辞典で調べれば済むことでしかない。だがそんな意味を誰が信じているのか。辞典の中に示されている意味を否定しても仕方ない。客観的な意味とはそういうものなのだろう。君はそこから君独自の主観的な意味を再構成することができるだろうか。なぜそんなことをやらなければならないのか。別に今から何をやろうというのでもないらしい。すでに適当な言葉を並べて文章を構成しようとしているではないか。君はそれらの文章には興味がないのか。興味のあるなしにかかわらず、それらの文章の中に君という言葉が存在していることは確かだ。ではその君について君はこれから何を述べようとしているのだろう。君と君とは無関係ではあり得ないが、君はそんなことを述べたいわけではない。たぶん何かを述べるには君の根気が続かないのかも知れない。精神の集中が長続きしないわけだ。その辺に君の心の弱さが見え隠れしている。そして心の弱さを突いて、君とは無関係な文章が君の存在を浸食し始める。そうやって君自身を架空の文章の中に押し込めようとしているのかも知れない。それでもすべては虚構だと言い放つことができるだろうか。誰が言い放とうとしているのか。言い放つには何か勇気でも必要なのだろうか。何となく誰かがそこで嘘をついているらしい。嘘をつきながら何を考えているのか知らないが、考えがまとまるはずもなく、そこで何を考えているかなんて誰にもわからないだろう。そしてそんなことを述べているうちに、話の内容もかなりずれてきてしまったようで、それが何に対してずれているのかは誰かの想像にまかせるとしても、それらのずれが何を明らかにすることもないだろう。それはどういうことなのだろうか。それはいつもの決め台詞なのか。たぶん記している内容と当初に思い描いていた話の筋がずれているのだろう。君はそこで何を忘れているのか。忘れているのではなく、思いつかないのではないか。どちらも似たようなことだろうか。当初において君はそれらの文章を何に似せようとしていたのか。何かまともなことを述べているように装いたかったわけか。文章がまともになるには、語る対象が必要か。そんなこともわかりきったことで、ここでも度々指摘されてきたことかも知れないが、いったい何について語ればいいのだろうか。それもこれまでに数限りなく抱いてきた疑問だろう。同じことをいくら問い続けても、問い続ける限り答えに至ることはない。君はそうやっていつまでもどこまでも問い続けることしかできない。問い続けることで無駄に文章を継続させているだけだ。それが無意識の狙いなのであって、意識しないことによって、マンネリに対する良心の呵責から逃れている。本当にそうであったならどれほど救われていることか。何が救われているというのか。どんなに言葉を弄しても、架空の存在である君を救うことはできない。それらの文章は救うべき対象を間違えている。では君でないとすると、本当はそれによって誰を救い出さなければならないのか。文章で人を救えるはずもないか。そう述べながらもそれに対する反論を期待しているのかも知れない。


1月15日

 無言と沈黙の狭間で、意味不明が揺れ動いている。意識がそこから動かない。身体はどこで何をやっているのか。架空の話の中ではゆっくりと何かの毒が回り始めている。誰かの亡霊が他の誰かに取り憑いている。そんな作り話がどこから出てきたのか。作りかけの作り話を放棄するタイミングを見失う。そんなものはどこにも存在しないのかも知れない。それでも今さら何を語ろうとしているのか。たぶんそれは今ではないのだろう。その時はこの時ではなく、どの時でもないのかも知れない。要するに何も語れないのであり、何もないのに強引に語ろうとすると、まるで催眠術にかかったかのように次第に眠くなってくる。誰かはすでに眠ってしまったのかも知れない。眠っている場合ではないか。まだ話の続きが残っているはずだろう。これから話の続きを思いつかなければならないが、君にそんなことができるわけがない。しかし誰にそんなことがわかるのか。少なくともそれは君ではないのだろう。ではそうだとすると、誰か他に話のできる人物を捜した方がいいのかも知れない。もはや君にはやる気と根気が欠けている。そんな嘘は聞き飽きたか。もとからそんなものはありはしないか。だがそんないいわけも以前から繰り返し述べてきたことだ。ならばもう新しい言葉を導き出すのは不可能なのか。今からそれをどうやって否定すればいいのだろう。今さら自らの言動を否定できるわけもない。否定したらそこで自己崩壊してしまうか。何が自己崩壊するというのか。君はその時何を宣言したのか。もうやめると述べたかったのだろうか。そんなことはすでに忘れてしまった。思い出せないということは記憶にないということだろうか。たぶんそれも架空の話の一部に属する内容なのかも知れず、それによって何がどうなるわけでもないが、そんなことを述べながら話を続けようとしているらしく、それを続ければさらに話の無内容に拍車がかかり、もはや何を述べてもどうでもいいことになってしまうような気がするのだが、はたしてそれで話になっているのだろうか。君はそのとき何の話をしているつもりになっているのだろう。たぶんそうやって難局やら困難やらを切り抜けているつもりなのかも知れない。そしてそれが現状認識を誤らせ、大きな勘違いを生じさせているのだろう。まだ自らが生きていると思い違いをしている。なぜ生きていると思い込みたいのか。本当に君は生きているのだろうか。生きている証拠がこの世界のどこにあるのだろう。どうやったら生きていることを実感できるのか。死んでなければ生きていることになるのだろうか。では自らが死んでいない証拠がどこにあるのだろう。生や死の感覚がないとすれば、それはどういう状態で存在していることになるのか。何かそこから結論らしき言葉を導き出すことが可能だろうか。真面目にそんなことを問うているわけがない。そして真面目という言葉からは何も出てこないだろう。要するにはぐらかしているのだ。次いで馬鹿らしいと思いたくなる。また冗談もいい加減にしてほしいと述べたくなる。そういう水準では、生も死もフィクションの中で繰り広げられている言葉遊びの範囲内にある。現時点ではそれ以上のことは何も導き出せないだろう。だがもちろんそれがどうしたわけでもなく、相変わらず何について語っているわけでもないような気がしている。ところで君は何日前の日付でそれを語っているのだろうか。そんなこともこの際どうでもいいことか。その場で思いついた内容はそんなつまらないことだけか。昼の日差しに暖められながら、軽く眠気を催して、君はまた何かを忘れようとしている。できることならそれを二度と思い出したくないようだ。それとは何のことなのか。もうすでに忘れてしまったので、それは何のことでもなくなってしまったのかも知れず、それが何のことなのか探る気力も失せて、完全に気を失ってしまったらしい。はたしてそのときの君は生きているのか死んでいるのか。死んでいるとすれば、その死者は何を思いだしているつもりなのだろう。無理に矛盾したことを述べたくなってきたようだ。そして君は自らが生きる場所がないことを知っている。この世のどこにも居場所がなく、かといってあの世の存在を信じることもできずに、そこで何をどうしたらいいのかもわからず、自分が何を迷っているのかもわからない。


1月14日

 どこでどう間違ってしまったのかわからないのだが、今のところ何を間違えたのかはっきりしていない。ではなぜ間違っていると思われるのか。文章として意味がこんがらがっているだけなのかも知れない。あるいは言葉の並びそのものがおかしいわけか。結局ただ無駄に言葉を弄しているだけなのかも知れず、そんなわけで誰かはまだ架空の成り行きにしがみついているようだ。誰かの意識はまだ妄想のただ中にあるらしい。では君の実体はどこにあるのだろう。真実はどこにあるのだろう。それはどうのような真実になるのか。誰も真実など求めているわけがない。たぶんその代わりに当たり障りのないフィクションの到来でも望んでいるのだろう。だから依然としてそれが何の真実なのかわからないわけだ。だがそれが何の理由なのかわからない。真実という言葉だけが一人歩きしているような感じがする。たぶん事の真相や真実が明らかにならなければ話にならないのだろうが、それらはいったいどこに提示されるべきなのか。ここに示されている文章には何が含まれているのか。何がそれらの真実になるべきなのだろう。ここには何もないということ以外に何が示されているのか。別に誰がそれの真相を究明しようとしているわけでもなく、その場の気分に沿って適当な言葉を繰り出している他に何をやっているわけでもない。要するにわけがわからないだけなのかも知れず、たぶんそんな行き詰まりの状況に困り果て、誰かに弱音を吐かせたいのかも知れない。そこで何かをあきらめさせたいわけだ。だが何かとは何なのか。文章の継続ならすでにあきらめているような気もするのだが、そんな心の内を誰に見透かされているのだろうか。事の真相を知りたい誰かは、それらの語りの中に何を求めているのか。そこで未練がましくしがみついている当のものが、何の実態もない文章だとしたら、その後にどんな言葉を継ぎ足せばいいのだろうか。単に述べていることが意味不明なだけなのか。また何かのパラドックスにはまっているのかも知れない。もはやそうするしか言葉をつなげることは可能ではないらしい。無論本気でそう思っているわけではない。なぜ本気になれないのだろう。たぶん本気になるような状況ではないのだろう。その程度のことでしかないのかも知れない。不具合を抱えたままの機構がまかり通っているのだろう。君はそんな制度の不備を指摘するのではなく、不備を利用して何らかの利益を得たいだけなのかも知れず、その辺から人間的な弱さが浮き彫りになってくるのだろうか。話的にはそうなってしまう方がおもしろいわけか。はたしてそんな見え透いた嘘で他人をだませるのだろうか。ちなみにそんな嘘とはどんな嘘なのだろうか。誰かがだまされたふりをしてくれるかも知れない。だが君は誰をだまそうとしているわけでもない。また誰かはだまされることを楽しんでいるのでもないらしい。たとえだまされていることを悟ったとしても、怒りや憤りなどの表現がどこから湧いてくるのか。それは表現などではなく感情そのものなのではないか。だが君はそんな感情を抱いている人物の所在を突き止めていない。だからいつまで経っても一向に何もわからないままなのかも知れない。そこでまるで狐につままれたようだと述べるのは語法的に誤っているだろうか。では何をどう述べたら納得がいくのか。どう述べても納得などいくはずもない。はじめから納得しないつもりで話を進めてきたのかも知れず、それについて何をどう述べても君は気に入らないのだろう。だから未だに無駄なことをやり続けている。納得いくまでやり続けるつもりのようだが、どうなれば納得がいくのか、そのような状況をまったく想定していないのかも知れない。ではどうしたらいいのか。納得のいかぬまま、そのまま限りなく無駄に言葉を浪費して、わけのわからない無意味な話を継続させて、さらに虚無の深みにはまりこんでゆくしか道はないのだろうか。しかし君にはそれが虚無だなんてとても思えないのだが、それらの文章の何が虚無を連想させるのだろうか。君以外の誰がそんな印象を抱いているのか。それも今のところは何も明らかになっていないような気がするのだが、いったい君はそこから何を明らかにしようとしているのだろうか。誰が明らかにしようとしているのか。どうしてそれが君ではないといえるのか。さらに意味不明だろう。


1月13日

 もう無理なのかも知れないが、そこから何をやり直そうとしているのか。何もやり直せないわけでもないだろう。では希望の光がどこに瞬いているというのか。そういう語句の使用は不自然に思われる。だが何かをやろうとすると不具合が続出することになる。たぶんそんなことはわかりきったことなのだろうが、ふざけすぎで騒ぎすぎの世の中は相変わらずのようだ。この世におもしろおかしいことばかりがあふれかえるのは、誰もがつかの間の気休めを求めている証拠かも知れないが、それもわかりきったことでしかないか。しかし何がわからないのか。何もかもがわからないと感じられるのはどういうわけなのだろう。その辺で何となく不可解な雰囲気を感じるのだが、そんなすっきりしない状態がいつまでも続いていくのかも知れない。何もかもが信じられない心境のまま、他人を信じるとはどういうことなのだろうか。信用がなくなるのはどのような時なのだろう。そんな時がいつ訪れるのか。今がその時なのか。誰かにとってはそういう時なのかも知れない。脳天気な気分にはなれそうもない。君は何もわからないだろう。わからないことをわからないと述べるのはつまらない。そしていつものように知り得ないことを知ろうとしている。それが君の弱さかも知れない。知るつもりもないことを知ろうとするふりを繰り返している。本当はそんなことなど知りたくもないのではないか。また思考する対象を失っている。悪意の存在を疑うのはよくないことか。今の君にはそうする以外に仕方のない状況なのかも知れない。いったい何を説明すればいいのだろう。何も説明できなければ、何を語っているのかわからなくなる。もう何も語れないのかも知れない。何も語らずに言葉を並べている。おかしなところに変な噂が渦巻いている。そんな話の展開ならおもしろいだろうか。そこからさらに投げやりな語調になってしまうわけか。何もできない時には何をやったらいいのだろう。とりあえず呼吸を繰り返して生をつなぎ止めるべきだ。食事を取って栄養も補給しなければならない。だがそれで何もやっていないことになるのだろうか。それとこれとは違う次元の出来事かも知れない。もう君は語ることをあきらめてしまったらしい。だが君が語らなくても言葉は勝手に連なるだろう。誰が何を語っているのでもない。何も語らないから無意味な言葉が並んでしまうようだ。それはどういうことなのだろう。そう述べることが無意味な言葉の連なりになってしまうらしい。気分的にはそんなことしか述べられない。たぶんそれはごまかしやまやかしに違いないだろうが、そう述べている事実を否定することはできない。否定できないからそれを消し去ることができないのか。そんな理由もまやかしに違いない。それが悪循環を生じさせているのだろう。わけのわからない不快感を増幅させている。要するに否定的に消極的な出来事を引き起こしている。なぜそんな現実を認めようとしないのか。自らが何も語れないことを認められないらしい。認められないからこうして無駄に言葉を弄している。何か悪い夢でも見ているのか。それは誰の夢なのだろう。だが夢の中でも話には何の進展もないらしい。だからそれは何の話でもないのだろう。君は今さらどんな話をしているつもりなのか。それは自己言及以外の何ものでもないようだが、言及している自己がどこにあるのかわからない。きっとどこにもありはしないのだろう。今語っているのは君ではないのだろうか。それらの言葉は誰の持ち物でもなく、誰かの語りが行き詰まったところから、それらの言葉は連なってきているのかも知れない。だから内容が何も見出されないわけか。具体的にはどんなことが示されているのか。自らの思考力が低下していることが明らかとなっている。たぶんはっきりしていることはそれだけかも知れず、他はすべてあやふやなままなのだろうか。もう一度読み返してみれば何かが見えてくるかも知れないが、それが何を意味するのかを知ろうとする気になれない。やはりそんなことはどうでもいいように思われてくるらしく、それらの投げやりな語調について、どのように修正する気も起こらないようだ。君はそんなところで躓いていて、転んでよろけながらも、何かを述べるための努力をやめる気配はないようだ。だがそれで何を述べていることにもならない。


1月12日

 つまらないこだわりの中に誰かの意識がつなぎ止められている。文章を読み返すほどにうんざりしてきて、仕方なくもう一度やり直さなければならなくなる。それは些細なことでしかない。もはや学ぶものは何もないように思われてしまうが、それが間違いである理由を言葉で示せない。人々は何に興味を持っているのだろう。人それぞれで違うのではないか。そんなことを知りたいわけもないが、そんなこととはどんなことなのか。どんなことでもなくそんなことでもないのだろう。それでは何のことなのかわかりはしない。わからないからつまらなくなる。そんな文章を読み返すほどにうんざりしてくるか。何をそんなに苛立っているのか。冗談ではないと思っているのだろうか。それほどまでに嫌気が差しているわけか。そこからどうやって立ち直れるのだろう。もとから立ち直るつもりなどありはしないか。今の君に何ができるはずもない。手も足も出はしない。しかしそういう話ではなかったのではないか。いったい何が目的の文章なのだろう。人々は何を見ているのだろう。人々ではなく君は何を見ているのか。君の周りを取り巻いている風景の中に、風景とは無関係な出来事が含まれていると思われる。それはどのような出来事なのだろう。何も見出せないと思い続けることが、心の中に生じている空洞を想像させるらしい。被害妄想も妄想の内なのだろう。最悪の事態を想像することが、それに対するいいわけを考えさせる。いつも仕方がなかったでは済まないことかも知れない。君はそれらの無表情の裏に何を読み取ったつもりなのか。何か他人から馬鹿にされていると思いたいわけか。それについてどう思われてもかまわないのではないか。たとえ馬鹿にされようと、それをどうすることもできないのであり、結果的にそれに関する文章がどこかに提示されるだけだ。そしてそんな文章を今さら読み返す気にはなれない。だから何もかも忘れたふりをしているわけか。何を忘れたふりをしているのか。はたしてそれで忘れたことになるのだろうか。何も思い出せないから忘れてしまったのかも知れない。たぶんそこで何を予言していたわけでもないのだろう。ただそんな気がしただけで、今から思えばそれは大したことではなかったようだ。しかし何を思っていたのか思い出せないのはどうしたわけだろう。それは想定されていた状況ではなかったのかも知れない。出来事から意識が遠く隔たっているのかも知れない。だからそれらの出来事について何も感じないのだろうか。それらの内容に興味があるのではなく、出来事からもたらされた結果を利用したいらしい。そこから何らかの利益を得たいわけか。とどのつまりがそういう話になってしまうようだ。そこから先は面倒なので省略したくなってくる。そして何事に対しても本気になれなくなってしまう。この世の中にはくだらぬことしかないらしい。そんなふざけた思いがいつか打ち破られる日が来ることを期待しながらも、期待外れの毎日にうんざりしてくるようだ。だが誰がそんな日々を体験しているわけでもなく、それらの文章は誰でもない誰かに関する内容でしかない。要するにそれらのすべてはフィクションなのか。そんな文章を記している当人には、何のことやらさっぱりわからず、そこに生じている不可解な事態を理解できないらしい。それは誰を納得させるための文章でもなく、他者によるどんな理解も期待していないのかも知れない。その程度の内容を理解してほしくないのだろうか。まったく勘違いにも程があるか。だが誰がそこで勘違いしているのか。君は何を勘違いしているのだろう。別にそれほどやりたくないことをやっているわけでもないはずか。ただ無駄に言葉を弄しているはずもない。たぶんその場に生じているそんな思いこそが大きな勘違いなのかも知れない。実際にそれを読み返してみれば、内容を何も伴っていないことが明らかになるはずだ。そこから遠ざかろうとすればするほど、そんなことを述べている自身の存在に気づくことになる。だからそこにもたらされているものは空虚しかない。他に何も見当たらないのだから、それは限りなく真実に近い勘違いなのだろう。しかしそれはどういうことなのか。やはりどういうことでもなく、そういうことでもない。だがそんな嘘がいつまで通用するのか。通用してないから嘘がばればれなのではないか。


1月11日

 やる気を失ってからどれほどの月日が流れたのだろう。それは誰のやる気なのか。またそれらの妄想はどの辺で挫折してしまったのか。妄想とは何を指しているのか。誰に何を尋ねているのか。それでは話になっていないのではないか。要するにまたつまらないことを述べているらしい。なぜそれがおもしろいとは思わないのか。それで奇をてらったことを述べているつもりなのか。まだ何も述べていないのではないか。適当に言葉を弄した後ではそんな嘘は白々しいか。だが一方でそうではないような気もする。まだ何もわかっていないのかも知れない。君は何も持ち合わせていないようだ。そこには何もありはしない。それはいつもの決まり文句でしかない。君には何もわからないだろう。何かが葬り去られようとしている。何もやらなくても消え去ってしまうわけか。君はそこで何を目指しているのか。霊柩車で運ばれている死体がよみがえるわけがない。棺桶の中身は空っぽのままだ。なぜ話の中身を作り出せないのか。無から有を創造することは不可能だ。そこにはもとから何かがあるから、消え去る運命なのかも知れない。意識が消え去り、次いで身体も消失する。感情など制御できなくてもかまわない。もとから何もないのだから、猜疑心などが生まれる余地もない。それはただの矛盾でしかないようだ。これ以上大げさなことは述べられない。それの何が大げさに思われるのだろう。君の死体はどこへ行ってしまったのか。生きているのに死体も何もあったものではないか。死に神は架空の魂などほしくないのかも知れない。心も体も存在しないのに、そこに君がいるはずもないか。そして何を語っているのでもないらしいが、なぜそんなことを語らなければならないのか。もう飽きているのだろうか。何も語っていないのに何を語っていることになるのだろう。すべてを求めることはできない。すべての内容を知らないのにすべてはないだろう。どこで邪魔が入っているわけでもない。邪魔が入らないとやる気にならないのか。それも必然的に陥っている矛盾かも知れない。この世界から何の刺激も受けないならば、何もやる気が起きないのは当然のことだ。だから困っているのではないか。何に困っているわけでもなく、何不自由なく困っていないから困ってしまうわけだ。何かに困っていないと気が済まないのだろうか。それはつまらない逆説だろうか。だから無から有を生じさせようとしているのかも知れず、何もないのに何かがあるように見せかけたいのだろう。要するに見栄を張っているわけだ。たわいないことを述べているらしい。何を嫌っているのでもなく、何を好んでいるわけでもない。何かをやるきっかけを見失い、気力を削がれて死んでいるのかも知れない。だがそこで誰が死んでいるのかわからない。誰も死んでいないわけでもないだろう。しかし誰が死ぬ理由もない。ではなぜ君は死なないつもりなのか。文章の中で安易に死という言葉を多用しているだけのようだ。別に他意はない。不明確な語り方で誰かの意識をごまかしている。いつまでもそんな馬鹿話にはつき合っていられないか。たぶん誇大妄想的な話にはリアリティを感じないのだろう。それは誰の心象風景でもないが、それ以外に何も残っていないのかも知れない。そして説明が足りないようだ。何を説明しているのでもないとさえ思うようになる。だから呆れられてしまうのか。はじめから間が抜けているのだから、何もわざと被害妄想を装うこともないだろう。まだリラックスしきれていないらしい。完全にそうなる必要も感じられない。何か適当な緊張感が必要だろうか。誰かの思いはどこにも届かない。届いているのは意味不明な言葉の連なりだけのようだ。それは何の代わりでもなく、それ自身がすべてを言い表している。要するに存在そのものなのかも知れない。何の意味も伴わずに言葉の存在そのものが顕現しているのだろう。またそんなでまかせを述べているらしいが、それが真実だとはとても思えない。それは話の内容がもともとフィクションなのだから当然のことだ。要するに君はいつまで経ってもそこから遠ざかれないわけだ。遠ざかろうとすると、視界からすべてが消え去り、何を述べていいのかわからなくなってしまうらしい。そして途方に暮れていると、虚無の方から助け船をよこして、いったんそれに応じてしまうと、何やらわけのわからない言葉の連なりを記すことになるようだ。


1月10日

 何となくまた間違ったことを述べてみたくなる。例えば映画のどこが夢なのか。平面上を人影がうごめき回ることのどこにおもしろみがあるのだろう。冗談で何かを述べているらしい。たぶんそこには込み入った話が語られているのかも知れない。言葉は音声となって空間を伝わってくる。その時君は可視光を見ているはずだ。紫外線や赤外線を見ることはできない。だが別に日本経済がどうのこうの述べることに気恥ずかしさを覚えているわけでもあるまい。わざと文章を不連続に構成しているようだが、それでは毎度おなじみの意味不明だろう。だがそうなることがはじめからわかっていたわけでもないらしい。気休めに突飛なことを述べているわけでもない。君の言動には余裕が感じられない。どことなくぎこちない言葉遣いに感じられ、絶えず焦りながら言葉を発しているような気がしてならない。そこには読む気がしなくなるような馬鹿らしさが認められる。そこでやる気を失っているのははたして君なのだろうか。興味はどこを向いているのか。今の気分について何か気の利いたことを述べられるだろうか。今のことを語っているわけでもなく、少し前の気分について述べているのかも知れない。枯れてひからびた樹木は何も語りかけないものか。誰に向かって語っているわけでもなく、その場を覆っている虚無からも無視されているらしい。他人がどうあれ、自分に関して何も語ることがないのだとすれば、それはどのような状況に陥っていることになるのか。別に謎解きを行っているわけでもなく、どんな推理を働かせているわけでもない。ただ話の中身が何もないだけか。なぜ他の話の中には出来事が含まれているのか。他の話とは何を指すのか。そうやって無駄に言葉を弄しながらも、じわじわと何かの核心に近づいているのかも知れない。どこで話が途切れてしまったのだろうか。そこにはどんな思惑が渦巻いているのだろう。誰かがその辺でおかしくなる。別に精神に支障を来すような内容でもないだろう。それもほんの冗談のつもりらしく、でたらめに言葉を並べているような雰囲気を醸し出したいだけなのかも知れない。どんな話が語られているわけでもなく、何を述べているわけでもない。そしてそれによって何を否定しているわけでもない。それは文章以前の文章でしかないのかも知れず、その中でどんな主張が述べられているわけでもない。しかしそう述べることによって何を否定しているつもりなのか。ただ人の意識が空間や導線や光ファイバーの中を行き交い、その身体も電車や車や飛行機や船に乗せられて移動している。それについて何を思えばいいのか。人の歴史とは何のことなのか。文化とは文明とは何のことなのか。考えさせられるが考えられない。過去から何を学ばなければならないのだろう。なぜ世の中には教訓とかいうどうでもいいような言い伝えが蔓延るのか。そういうことではないような気がする。つまらない話のねつ造すべきではないらしい。誰かと誰かが別れたりくっついたりして、それで話になるのだとすれば、それはありふれたつまらない話に属することなのか。だがたぶんそんな風にして歴史が成り立ってきたのだろう。しかしそれの何がおもしろいのか。そう簡単に語ればつまらなくなるだけか。話の中に人おもしろがらせるエピソードをちりばめなければならない。俄には信じられないような偶然の重なりが人を感動させるのかも知れない。また同情やら反感やらの感情移入を許す出来事がなければおもしろくはない。だがそんなありふれた話にいつまでもつき合っていていいのだろうか。何の進歩もないような気がする。進歩がないからこそ馬鹿になれて、いつまでもそんな話に興味を持ち続けることができるのかも知れない。ではいったんそこからずれてしまったら、後はひたすらつまらなくなるだけか。興味を失ったら、そこから離れればいいことでしかない。そんな話から距離を取っている者など世の中にいくらでもいるはずか。だから君もそうしなければならないわけか。今さらそんな話を馬鹿にしている暇などありはしないはずだ。ならば君はそこから別の話に移行しなければならないわけか。しかし別の話とはどんな話なのか。そこに提示されているつまらない話がそうだと主張したいわけか。だがそれはおもしろいだとかつまらないだとか判断する以前の、まったく話になっていない話なのかも知れない。


1月9日

 確か今から数日後には雨が降っているのではないか。まだ過去の時空に属しているつもりなのか。いい加減にあきらめてしまえばいいのに、なぜこうもねばるのか。つまらない作り話につき合っている暇はなく、君の知ったことではないらしい。では何に興味があるのか。この世界の事象に興味を持つことは無理なのかも知れず、心はすでに妄想の海の中へ沈み始めている。そこで君という言葉は消滅してしまうのだろうか。君はどんな人格を有しているのだろう。すべてがうまくいかないことに関して何か思うことはないのか。うまくいっていないのに、経済的には至って順調なのはどうしてなのだろう。高望みしていないからか。何をやってもうまくいった例しがない、というのは嘘なのか。そんなのはものの感じ方でしかなく、端から見ればうまくいっているのかも知れない。それは何に関してうまくいっていることになるのだろうか。それも主観的な見解でしかない。本当はそんなことはどうでもいいことでしかなく、うまくいっていなくてもかまわないのではないか。感覚的にはどこにもこだわりが見当たらない状態らしい。意識がそこで途切れている。そこから先へ進めないようだ。疲れているのだろうか。そんないいわけは通用しないだろう。記憶が失われているのかも知れない。それはただの記憶ではなく歴史認識ではないのか。過去の歴史を忘れているつもりらしい。迷っているようだ。だが何を迷っているのかわからない。何もかも忘れてしまってもかまわないのではないか。しかし忘却作用を意識的に操作することなどできはしないだろう。何もしなくても忘れる時は忘れてしまう。その時何を忘れてしまったのかなんて覚えていない。過去の何が問題だったのか。何を信仰していたのか。書物はすべて過去の残骸か。それは君が思っていることではない。そしてそれは思い出せないこととは無関係だ。それはなぜだろう。まったく疑問の余地はない。それを認めなければならないようだ。だが何を認めたつもりになっているのか。何もできないことを認めなければならない。もはや手も足も出ない。その代わりに言葉を出しているつもりらしいが、やはりそれで何を述べているのでもないらしい。なぜ何も述べられないのか。その理由は現時点では知り得ないことではないのか。理由があって何も述べられないわけでもない。だが理由も意味もないわけではない。目標がないのかも知れない。何もやる気が起こらないが、何もやっていないわけではない。ただ仕事に勤しんでいるだけか。それが仕事なのだから仕方がない。それがすべてではないような気がするのだが、たぶんそれがすべてでもかまわないのだろう。馬鹿げているとは思えない。当たり前のことなのかも知れない。やって当たり前のことをやっているだけなのかも知れない。それで何か困ることでもあるのか。何も困らないから困っているのかも知れない。それはどういうことなのだろう。やっていることに幻想を抱けないということか。夢とは何だろう。夢を抱いて何を勘違いしたいのか。何におもしろがらなければならないのか。娯楽がおもしろいと思うか。ただテレビを見ているだけではつまらないか。刺激はどこからやってくるのだろう。何がそこでの感性なのか。例えば芸術作品と見るのと、それの制作に使われた道具を見るのとでは、どちらが感性に刺激を受けるだろうか。あるいは実際にそれらの道具を使って芸術作品を制作した人物を見れば感動するだろうか。君が何に感動しているのかわからない。そしてそれは何のための問答でもないような気がする。そこで何をやっているわけでもないような気がする。君は何と戯れているのだろう。何がそこで繰り広げられているのか。人々は何もやっていないような気がする。まだ何も結果に結びついていないようで、答えは何も出ていないように思われる。意図的に答えが出てしまうのを避けているのか。目の前に答えが突きつけられるのを恐れているわけか。有無も言わさぬ状況になってしまうのを避けているわけか。だがそれで何がわかるのだろう。答えが出ているのに何もわからないのでは話にならない。それは答えではなくなってしまうだろう。ならばいったいそれは何なのか。まさか答えが問いに転化されるわけでもあるまい。歴史上毎度のことにように繰り返されてきたその手の見え透いた予定調和にはうんざりしているはずか。


1月8日

 この世界には何がもたらされているのだろう。空虚の他に何がもたらされているのか。何もない空間がどんどん広がっているらしい。しかしそれが真空といえるだろうか。それらの言説では真空の定義が曖昧だ。科学者でもないのに真空について何を述べることができるのか。そういう言葉を安易に使うべきではないか。君の意識はそれらの言説からすぐにはみ出てしまうようだ。その空虚な心は真空中には位置していないらしい。空虚であっても、その中には何かしら思いが残っている。それが何でもないわけがないだろう。その述べている内容には適当な言葉がつまっているらしく、それを誰かは読まなければならないようだ。それは何かの義務感からそうしているのだろうか。まったくおもしろくないと思っているようだが、それは空間が真空であることとどのような関係があるのか。意味不明なこと以外は何の関係もありはしない。そこから何を探ろうとしても無駄だろう。何を取り返そうとしても無意味なのかも知れない。心の空虚感をつかめるわけがない。いくら空腹を装ってみても、詰め込むべき言葉などどこにも見当たらない。誰かのどん欲さは空振りに終わるしかない。そしてそんな必然をいくら否定しても、何がどうなるわけでもない。では何を黙って受け入れなければならないのか。今こそ何もないことを認めなければならないか。そんなことはとうに認めているはずで、今までに何度も述べてきたはずか。だがだめ押し気味にいくら述べても、それが嘘になってしまうのはどういうことなのだろう。それを嘘だと見なす理由は何なのか。その虚ろな目つきはどこから生じているのか。また話を逸らそうとしているらしい。それは現状を正視できない証拠か。偶然にもたらされた言葉の正しい意味を把握したくないのかも知れない。だがそんなに残酷なことを述べているわけでもない。ただつまらないと思われたくないだけか。ならばもっと冗談を多用すべきか。繰り出された言葉の裏側に気味の悪いぬめりが生じているのかも知れない。たぶんそんな表現もでまかせには違いないが、そういう粘着質的な体質は文章にはそぐわない性質か。とりあえず意味が流れ去り、そこには空虚だけが残っているのかも知れない。何を述べているのでもないと思わせたいわけか。何かを述べている風に装うことに失敗しているのかも知れない。そしてそんな失敗も予定調和の内なのだろう。何もかもが思惑通りだとは思わないが、文章から意味がはじき出され、何を述べているのかわからない状態しか構成できないのだろう。そして何を語っているのでもないらしい。それについてのそれがどこにも存在しない。だからそれらの文章はそれではなくなってしまう。どうしても焦点が定まらず、ある特定の内容に結実できずに、絶えずどこかへ流れ去ってしまうらしい。読むそばから消え去ってしまい、内容がまったく記憶に残らない。それはあり得ない文章なのだろう。要するに君は架空の文章について述べているわけか。もっとも君自身が架空の存在なのだから、それは仕方のないことか。要するにそこではいつもそんな予定調和の語りが繰り返されている。そんなことではつまらなくて当然なのであって、おもしろくするつもりもないのかも知れず、そこには話のおもしろさには一向に無頓着な意識が設定されているのだろうか。だが君が何を設定しているわけでもなく、そんな設定を誰が求めているわけでもない。無論それが何の冗談であるわけもない。たぶんいつものように嘘をついているだけなのだろう。君という存在自体が嘘の塊か。なぜ君ではなく私と言わないのか。文章の中では誰も何も言わない。そこにはただ言葉が記されていて、何かが述べられているだけだ。それで気が済まないのなら、さらに嘘を述べ続ければいいだけでしかなく、実際に君は自らが架空の存在であることを利用しながら、そこに君という言葉として存在し続けている。だが今さらそんなわかりきったことを述べてどうするのか。どうもしないからそう述べるより仕方がないのではないか。それ以外に君に関するどんな表現が可能なのだろう。君が君でなければはたして私になるのだろうか。私と君は違う言葉であり、君はどこまでも君であり、私もどこまでも私だ。それが嘘だと思うなら、それが嘘であることをどのように証明すべきなのか。証明する気もないのにそんなことを述べるのは欺瞞もいいところか。


1月7日

 たぶん何も思いつかないだろう。今はどんな状況なのだろうか。何について述べているのか。これ以上は何も思い浮かばないと思っている。この世界がどうなろうと君の知ったことではない。知ったことではないが、何かを知ることになるのかも知れない。そこに張り巡らされている掟のどこかにほころびが生じ始めている。掟とは何だろう。何が定められているとも思わないが、自由であるはずもないだろう。語りには限りがある。それらの語りは何に対して自由なのか。飽くなき努力などありはしない。努力にもいずれ飽きが来るということか。聴いている音楽にも飽きが来る。だがそれがどうしたというのだろう。そこからねばり強く言葉を繰り出さなければならない。しかし誰がそれを求めているのか。求められていることははっきりしていない。忘れていることや見失っている対象を明らかにできるわけもない。だからもっと外の世界に目を向けなければならないだろう。そこで何が行われているのかを見極めなければならない。だが君に見極められるはずがない。別に何を見ているわけでもない。なぜそこから降りてしまうのか。考えることを怠っているのかも知れない。答えなど何も導かれないからか。どこから何を導こうとしているのか。そこには何があると思われるのか。考えるきっかけがあればそれで十分だろう。では何を考えさせられているのか。努力して報われてしまったら何も叶わない。それでは何も叶ったことにはならないのだ。たぶんそこで痛い目に遭わなければならないのだろう。何度も挫折を経験しなければならず、不遇を耐え忍ばなければならないのだろう。それはどういうことなのか。君はそこで試されているわけか。しかしそれの何が試練なのだろうか。どんなに試練をくぐり抜けようと、何の結果ももたらされないことを望んでいるのではないか。努力が徒労に終わることが楽しいわけか。そうやって決まり文句を得ることから脱落したいわけか。結果を求めないとはそういうことかも知れない。安易な成功願望はくだらない。どうもそれでは間が抜けているような気がする。生きているとは結果に至らないことなのかも知れない。結果とは死を意味するのかも知れない。しかしそうまでして生きたいわけでもない。そうまでとはどういうことなのだろう。要するに本気になれないということか。それでは何のことやらさっぱりわからない。何を述べているつもりなのか。何も述べていないと思いたいのか。簡単に救いを求めるわけにはいかない。救われないことが生きている証なのかも知れず、救われてしまったらそこで終わってしまうが、別に終わってしまってもかまわないだろう。終われるものならさっさと終わってほしいか。結果に至れば終わりになるかも知れないが、それは君の努力程度でどうにかなるものではないのかも知れない。君一人の力ではどうにもならないような状況の中に身を置いているのだろう。だからこうしてひたすら語り続けているのかも知れないが、それが何を述べていることにもならないとしたら、それらの語りは徒労そのものになるだろうか。そうなることが君の狙いなのか。そこから予定調和的に大団円を迎えたいのか。そんな言葉を使う意図がわからない。ではその場面から遠ざかろうとしているのは誰なのか。それは誰でもなく言葉でしかない。言葉以外の何がもたらされているのだろう。それが言葉によって示されるものなら、それは事物ではなく、事物の影でしかない。語りの中で言葉は事物の影としての役割を担っているようだが、言葉以外に何もあり得ないのなら、そこには事物そのものは存在し得ないのではないか。だがそんな軽薄な哲学もどき的思考は好ましくない。もっと簡単に述べられることでしかないだろう。君は何について語っているつもりなのか。そんなことを知りたいわけもなく、それが嘘だということも知っている。だが嘘ではない言説がどこにあるのか。急に遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。たぶんそれが具体的な語りの内容なのだ。しかし具体的な内容がそれだけなら詐欺もいいところだ。ではフィクションとは何なのか。そのすべてが詐欺の類であるはずがない。フィクションの中でどんな真実が示されているのだろう。そんなどうでもいいことを突き止めるつもりもなく、今さらフィクションについて何を述べるつもりもない。


1月6日

 その辺が君の限界か。たぶんそれは違うと思う。思うことのすべてが違うような気がする。実際には何となく煮詰まっているだけなのかも知れない。はっきりしたことは何もわからない。だがそんなことを述べようとしているわけではない。すでにそんなことを述べているではないか。では何に呆れて何を思わなくなったのか。何も思いつかないのは誰の仕業なのか。誰のせいでもなく君のせいでもない。そんな風に考えるべきではないが、君にもできることとできないことがあるらしい。言葉が万能であるはずがない。述べていることの意味が理解できないのは毎度のことか。わざと理解しようとしていない。無理に理解すべきではないのかも知れない。それでも君はそれらの無表情のわけを知っている。そこには感動がないらしい。感動するような状況ではない。いったい何に感動すればいいのか。感動する必要のない状況の中で何を信じればいいのだろう。たぶん何も信じられないのだろうが、逆にそれを簡単に理解したい。何が逆なのかわからない。信じられない現実を信じようとするのではなく、信じようとしない意識を理解したいようだ。それは単にそんなややこしい心情をねつ造しているだけではないのか。それの何が心情なのだろう。君はそこから逃れたいらしい。そんなわざとらしい言葉が渦巻いている状況が気に入らないのだ。何を述べているのかわからなくなる。いったい君は何を述べているのか。述べているのは君ではない。君ではないと思いたい。君はそんな成り行きに反抗しているようだが、それで何に逆らっているのかさっぱりわからない。逆らいつつも逆らえない状況に追い込まれているのだろうか。しかしそれでは何もできはしないだろう。だが取り立てて何をやろうとしているわけでもなく、何かをやろうとする気力が萎えているのかも知れない。何かをやるにはそれをやる機会が巡ってこなければならない。せっかく巡ってきた機会を取り逃がしているのか。それを感知できなければそうなるしかない。しかしそれは誰にとっての機会なのか。そんなことを君が知るよしもない。過ぎ去ってしまった機会についてあれこれ推測してみても無駄だ。無駄だからこそそれが言葉の連なりを生じさせる原因となる。そんなでたらめでは何を述べていることにもならないだろう。まだ述べている何もかもが遠すぎるのだろうか。それに関して遠くから乾いた笑い声が響いてくる。笑いの主は照れ隠しに意味不明を装いたいらしく、やりたくてもやれないことについて、適当ないいわけを考えているようだ。何かそこから後戻りできない事情でもあるのだろうか。後戻りして何を得られるのか。それはよくわからないが、また遅れが生じてきていることは確かなようだ。語ること自体に興味をなくしているようで、それにつられて気力もなくなってきている。相変わらずきっかけがまったくつかめないが、これ以上書くために工夫を凝らすことはできない。なぜそこであきらめてしまうのか。どうしてそうなってしまうのか。それに対する批判の糸口を見出せない。だがそれが解決の糸口になるのではないのか。批判に値する現象を何も見出せなければ、それですべてが解決するとは思わないのだろうか。無理に批判するようなことは何もない。しかし何かを解決させるために書いているわけではない。本当はそんな行き詰まりの状況から逃れたいのではないか。内容のないことを書けば書くほど、さらに行き詰まりが深まるだけだ。そんなわかりきっていることをどうすることもできはしない。だから今は行き詰まるより仕方がないのだろう。だがそんな馬鹿げたことをいつまでも述べ続けられるだろうか。誰も助けてはくれないだろう。助けてほしいとも思わないか。誰が何を思っているわけでもなく、文章の背後にどんな意識が存在しているわけでもない。ただそんな風に装いたいだけで、本当は何らかの人格を有した意識があるのかも知れないが、それを明かしたところで何が解決するわけでもない。そしてそんなどうにもならない現状の中でしか、何かを述べることができないらしい。それで楽しいのならそれでかまわないのだろう。楽しいわけがないか。ではそれは苦しみの産物なのか。それとは何だろう。空想上の意識とそこから生じている文章がそれなのだろうか。そんなことがあり得るわけがない。


1月5日

 常識はずれの理由を考えているとは思わない。言葉の限界はどこにあるのだろう。君は戦略を軽視している。何をどうすれば戦略になるのか。誰がそんな風に見せかけているのだろうか。そこで誰と誰が戦っているわけでもない。では何を優先すべきなのか。それはどういうことなのだろう。どういうことでもなく、そういうことでもなく、何のことやら意味不明に思われる。それの何が戦略なのか。ただ無意識を装っているだけではないのか。何を意識しているのかを知りたい。それは誰でもない誰かについて知りたいことなのか。架空の意識は知り得ないことを知ろうとしているようだが、それが何になるのかわからない。君は何も求めていないことになっている。まだ理由を思いつかないらしい。気が長すぎるのかも知れない。そんなことは思っていないようだが、なぜかそんなことを述べているようだ。思っていることと述べていることが一致しなくなっている。しかしそれがどうしたわけでもなく、何を述べているとも思えないような成り行きになっているようだが、それは虚構の成り行きなのだろうか。現実が見えなくなっているわけか。それはどのような現実なのだろう。始めからやり直さなければならないのだろうか。今さら手遅れに思われるのはなぜなのか。まだ理由に心当たりはないらしい。ならばもう少し具体的に述べてみたらどうか。このままでは夜はますます深くなり、精神的な重圧に耐えられなくなってくる。要するに話ができすぎているのだろう。それが退屈な気分を誘発しているらしい。人はそんな風に動けないものだし、演劇的な展開には何らかの思惑や意図が偶然性に勝っていて、そこには常に不自然な話の成り行きが認められる。それがリアリティを感じられない理由になるだろう。しかしそんな理由で何を批判しているのかが不明のままだ。そこで何かがうやむやのままに語られている。そういうやり方が気に入らない。たぶん現実には意図しない意図や無意識の思惑が介在していて、そういう不可思議な部分からリアリティを感じ取れるのかも知れない。実際にそこで何を感じているかなんてわかるはずがなく、文章となった感じていることは、ほとんど虚構に属する実感だろう。君の感覚はその辺で足踏みを繰り返している。一定のわかりやすい結論へ至ることができずに、不分明で明確さを著しく欠いた霧の中に自らの感覚を置き忘れてきたように感じられてしまう。要するにたわいない感覚を大げさな言葉でまわりくどく飾り立てているのだ。やはりそれで何を述べているのでもないと思われる。それが勘違いだとしたら、他に何を述べていいのかわからなくなる。勘違いでもいいから述べておかないと、他に述べることなどありはしないだろうが、そんな風に述べてしまうとくだらなく思えてくる。そしてくだらないの反対語が俄には思いつかない。すばらしいとはどのような状態なのか。そこにどんな驚きがあるのだろう。何が精神に宿っているわけでもなく、それらが何を示しているとも思えない。生じてはすぐに消え去ってしまう一瞬の思いにどんなすばらしさが宿っているというのか。君の意識はそういうまわりくどい言葉には宿らない。どこに何があるわけでもなく、その精神が指し示している当のものは、やはりいつもの空虚そのものなのか。まるで出がらしの番茶のような味がしてくる。少なくとも紅茶ではあり得ないだろう。要するに遠回しに紅茶が飲みたくなっただけのようだ。それ以外に何も思うところはないが、そこにたどり着くまでにいったいどれほど言葉を要したのか。短い断言では嘘になってしまう。何を言い放ってもそれは嘘になり、そんな嘘からそれらの文章は構成されているらしく、たわいない戯れ言の集積が深刻な行き違いでも生じさせているのだろうか。今そこで思っているのはそんなことでしかない。そしてその思っていることも嘘になってしまう。瞬く間に時が過ぎ去ってしまうようだ。今までに何を語ってきたのか。どうやら心の病が言葉に乗り移ったらしいが、そんな嘘にもあまり説得力はないようで、どうでもいいことを述べつつも、それが何かの戦略なのだと思っているのだが、それは誰の戦略でもなく、どんな思惑が介在しているわけでもないのだろう。それでうまくいくとは思っていないが、結果的にうまくいかなくとも、それはそれで誰にとっても仕方のないことなのかも知れない。ただそこに複数の意識が渦巻いているだけのようだ。


1月4日

 何がおかしいわけでもなく、それは誰のせいでもない。誰の仕業でもなく、そこで誰が何をやっているわけでもない。仕事は仕事でしかなく労働も作業も仕事の一部なのだろう。どうもこの世界がすべてではないらしい。この世界において、すべてということはあり得ないのかも知れない。言葉が現象を捉えきれていないのか。では今はどのような世の中なのだろう。どんな言葉が現状にフィットしているのか。誰かは自分を信じれば道が切り開けるなどという幻想を抱いている。何を見ているわけでもない。何を思っているわけでもない。何を感じているわけでもない。それでは何を考えているのだろう。何も答えになっていないのではないか。現状についてどんな言葉を当てはめてみても、これ以上は言葉の連なりに幻想を抱くことができない。何もやっていないのにこれ以上はないだろう。ではこれ以上語るのはやめた方がいいのだろうか。それが君の物語ならやめた方がいい。やめられないのなら破滅するしかないだろう。それ以外はあり得ない。しかしそれで誰が破滅するわけでもなく、誰も破滅させないようにすることが破滅そのものなのだ。そんな嘘ではつまらないだろうか。ではどんな嘘なら現状に適合するのか。君が何を述べようと何がどうなるわけでもない。それで何を説明しているのでもなく、誰が破滅しているわけでもないらしい。君が体験しつつある現実が破滅そのものだと思う。虚無の深みに底はない。たぶんそんな破滅では何とも思わないだろう。君はこれまでにもいつもどうにもならないところで持ちこたえてきたと思っている。それがどのような自負に結びついているのか知らないが、君自身はそれを理解できない。願いはどこで成就されるのか。すでに気がつかないところで成就されてしまったのかも知れない。しかし言葉が離散しているようだ。つまらないことに腹を立てていても仕方ないか。仕方のないところで何を述べているつもりなのか。何かを説明していることは確かなようだが、それだけではつまらないだろう。だが考えることや思うことのすべてが幻想ではないはずだ。またすべてという言葉を使っている。それの何が性懲りもないと感じるのだろう。なぜそれ以上を目指しているのか。それを超えることなどできはしないが、何を超えようとしているのか。そんな馬鹿げた成り行きの中に何を見ているのか。何も見当たらないから話の成り行きが無内容に推移しているわけだ。だからうんざりしてくるのだろう。そこで何を見ているわけではない。それらのどこからどこまでがこの世界に属しているわけでもなく、そのすべてを含めると世界からはみ出てしまうような気がしてくる。どこかに余分な事象があるらしいが、その取るに足らない事象に言及できるだろうか。君は物語の世界に入り込めずにいる。それを読む気がしないようだ。いつも眺めている映像にも飽きが来ている。では聴いている音楽はどうだろう。心はそこから遠く離れたい。そしてそれが現実逃避だとは認めたくないらしい。何となくおかしな雲行きになってきた。そう感じること自体が勘違いかも知れないが、まだそこまでたどり着いていないのかも知れない。そことは底のことだろうか。漢字変換に気に入らない部分でもあるわけか。まだ眠たくなるような時間でもないはずだ。さらにそこから離れようとしている。無理なことを述べようとしている。大げさな葬送曲に送られながら、どこかの霊柩車が火葬場に向かって動き出す。誰もそんな場面に出くわさずに、ただ現状を淡々とやり過ごそうとしている。僧侶の読経がどこかで響いている。この世の無常は嘘に違いない。平家物語等のフィクションの中でだけそうなのかも知れず、現実の世界では常に何かを思い続けている。なぜそれで無常観から遠ざかれるのか。常ならざるものを認識できないわけか。誰もがその場にとどまろうとしており、無常観に至るのを押しとどめ、そんな思いを心の内にしまい込もうとしている。気が狂いたくないのかも知れない。何もなければ気が狂うだろうか。君にとってはそれがつまらないことのように思える。それで急場をしのいだとは思いたくないのだろう。唐突に馬鹿げたことを述べているだけのようだ。意味など何もありはしない。それで気が狂うのを回避しているわけではなく、ただそこから遠ざかろうとしているだけのようだ。


1月3日

 君の目は節穴か。誰かの意識の中では、何か幻想的な光景を目にする機会でも巡ってきているようだが、それについて君は何も語れない。誰かは何を夢見ているのか。夢の中ではどこまでも何が続いているのだろうか。それは君の道ではない。それらの時空では誰が何を求めているわけでもなく、またどこに誰がいるわけでもなく、そこで何があったか知らないが、それからあまり話に進展はなさそうだ。それは何の話でもないような気がするのだが、何か気がかりなことでもあるのだろうか。もとから何について語っているのかわからず、そこに言葉を重ねるほど、さらにわからなくなってきたようだ。それらの話の何が気に入らないのだろう。世間に対して警鐘を鳴らしているつもりの輩を、安易に軽蔑するわけにはいかない。君もその手の輩なのではないか。しかしなぜそこから無責任になれないのだろう。それこそが大きなお世話の要らぬお節介であり、逆説的に無責任そのものなのかも知れない。その手の言説は何に逆らっているわけでもなく、それで何を否定しているのでもないような気がする。メディアは常に何かを流行らそうとしている。ひたすら騒ぎ立てたいのだ。そこに特定の意図や思惑などありはしない。しかしそれを見聞している君は何を思うわけでもなく、ただ見聞きした何もかもを忘れようとして、実際に忘れてしまうだろう。君は忘れることによって精神的に楽になりたいのかも知れず、忘れながらもさらにそれらの馬鹿騒ぎを眺め続けている。理由や目的は何もない。何を望んでいるわけでもなく、世の中がどうなってほしいとも思わない。だが別にそのような状況に絶望しているわけでもなく、また何をあきらめているわけでもない。ただそうやって要らぬ言葉を並べながら、早く時が過ぎ去ってほしいと思っているのかも知れない。自らが何に関心を持っているのかよくわからないようだ。そんな風にして無責任を装いながら、そこから先に何を述べればいいのだろうか。近頃はどうも世の中に行き渡っている話題から隔たっているらしい。意識が世間の関心から遠のいているようだ。しかし本気でそんなことを思っているわけではない。戯れに無関心を装っているだけかも知れず、そんな偽装に心を奪われているのだろう。それはどういうことなのか。本当はどんな思惑を有しているのだろうか。何が君の狙いなのだろうか。本心ではこの世がどうなってほしいのか。個人の力で世の中を変えようとしているのか。冗談としてならそんなのもありだろうが、ただ何がどうなってほしいとも思っていないことは確かなようだ。自らが日頃どんな仕打ちを受けているのかわかっていない。いったい誰がそんなことを述べているのだろう。そこには誰もいないのではなかったか。そんな嘘があり得るだろうか。では誰か適当な人物を話の主人公に据えなければならないか。それはおかしな成り行きだ。実際に君が語っていることは代わり映えがしない。たぶんそれらの世界では同じような事件が切れ目なく起こり続け、同じことが際限なく繰り返されているだけなのだろう。そして人々はそんなことの繰り返しに嫌気が差している。君はそこで何をあきらめようとしているのか。興味を抱く対象が何も現れなくても、それでもまだあきらめるわけにはいかないのだろうか。いったい何をあきらめなければならないのか。あきらめる対象まで存在していない。あきらめるにはそれ以前に何かをやろうとしなければならない。ではそこから何かやらなければならないことが導き出せるだろうか。いったい何をやらなければならないのか。そして何をあきらめて、その代わりにまた何をやり始めなければならないのか。今日もテレビ画面上では訳知り顔で何かが語られているようだ。そんな風にして説明し見解を示さなければ、その先へは進めないらしい。しかしそれで君が満足するはずがなく、何よりもそういう話の展開が気に入らないらしく、何となくその辺で見物している対象に対する興味を失ってしまうらしい。話のターゲットはもっと別のところにあるのではないか。ではそれについて何か差し障りのない範囲で述べられるだろうか。またどこかへ脱線しようとしているわけか。ただそんなことを述べている現状があるらしい。


1月2日

 人は誰でも歳月を過ごすことによって、何か適当な幻想を抱くようだ。老いの自覚を否定すべきではないが、誰にも一応はプライドというものがあるらしい。くだらぬこだわりを心のうちに秘めながら、必死でつまらぬ言葉を並べている。今はある日の夜で、そこで君はある文章を読んでいる。それは自らが記しつつある文章で、言葉を連ねながらそれを読んでいる。そんな当たり前のことが不可思議に思われる。それからしばらくして眠たくなり、気がつけばまたいつもの現実に引き戻されている。さっきまで何を説明していたのだろうか。それはいつもの冗談かも知れないが、それらの文章では現状を説明しきれていないような気がする。今ひとつわからないことがあるようだ。なし崩し的に現在の日付に近づこうとしているらしい。最終的に何を望んでいるのか知らないが、そんな見通しは甘すぎる。では何をうろたえているのだろう。言葉は何の効力も発揮しない。そこで何をあきらめているのだろうか。試みは無駄であることを自覚している。君は何によって鍛えられているのか。無駄な試みを繰り返すことによって何を得ているのか。わかっているのにわからない風を装い、疲れていないのに疲れた風を装い、何を述べているかもわかっているはずか。そうする意図がわからない。自らの存在を否定すること以外に、まともな主張を述べたことがあるだろうか。それがまともでないことはわかっている。今日は何曜日なのか。今年は西暦で何年になるのだろう。この世のすべてが滅び去るのはいつになるのか。その時が来るまで死は待ってくれない。今から何十年か後に誰がその死を迎えるのだろうか。明日は誰が死ぬのだろう。誰も死ぬつもりはないらしい。君はまだ生きようとしている。生きようとしているから言葉の連なりの中に自らの名を探し続けている。しかしそんな嘘が文章のどこに記されているのだろうか。それで何を否定しているわけでもなく、否定できないことを否定しているわけでもないらしい。君は何を否定できないのかを知らないから、平気でその手の嘘を見過ごしてしまう。それがどんな嘘であろうと、つまらない嘘をわざわざ記すほど面倒なことはない。そしてさらに気分的にはどうでもよくなってくる。今はもう夢の中かも知れないが、明日の天気を占うつもりはない。投げやりな言葉が連なっているだけか。それでも馬鹿げた幻想に浸りながら、前向きな人生を歩んでいる。たぶん冗談で皮肉交じりにそんなことを述べているのかも知れない。何がそこで衰えているのだろうか。若くして獲得されたアイデンティティは、年月の経過にともなく摩耗作用によって、次第にそれを保持するのが困難になってきて、何となくそういう状況に危機感を抱くようになるらしく、それを紛らすために時として突飛な行動に出る者もいるようだ。それが今この時なのだろうか。それが冗談でないとすると、何を本気になって今からやろうとしているのだろう。誰もが好き勝手なことをやりたいらしいが、それが本当にやりたいことだったかどうかは、当人の思い込み次第だ。君はそこで思いがけない効果が発動することを期待している。やりたいことがやりたくなったことだという真実を認めがたいようだが、どこで心変わりしたかは、誰の知るところでもないらしい。本当にやりたかったことなどどこにもありはしない。夢を叶えようとする傲慢さがもてはやされている今、それが思いがけない軋轢を生じさせていることを知っておかなければならない。たぶんそういうごり押しによって迷惑を被り、嫌な思いをしている人が多数存在していることが忘れられていて、他人の夢によって好き勝手に生きることを断念されられている人が大多数を占めている現状が、社会を荒んだ状態にしているのかも知れない。ひとにぎりの成功者を崇め奉るような風潮が続いてゆく限り、人々は自らの夢を追い求めて好き勝手に振る舞おうとするだろう。そして夢に破れ挫折した者たちが、ひねくれたり復讐心をたぎらせたりして、他人に対する嫌がらせのようなことをやりたがるわけだ。しかしそんな単純な論理だけで生きて行けるのだろうか。


1月1日

 それらの試みには計画性がない。なぜいい加減に言葉を求めるのだろう。それはおかしな状況ではなく、通常ではありもしない状況だろう。どんなに文章を記してみても、君が気に入るような言葉はどこにも見当たらないようだ。言葉のゴミが大量に廃棄されている。あともう少しでやり遂げられるのに、そこでまるで図ったかのようにいつもの邪魔が入る。少しタイミングがよすぎるようだ。だが見えているのはそんなことではない。そこに何か適当な意味がもたらさせるが、物語は始まる前から終わっている。何かを語り始めようとする意欲に欠けている。君では役不足なのか。そういうことを主張したいのではない。今から数時間前には何を眺めていたのだろう。樫の木に絡まっていた蔦は、根元から切られて枯れてしまったようだが、窓際の雑草はまだ枯れずに残っている。文字がどこかに記されているらしい。影はそこからどんな展開を望んでいるのか。無意識をどう活用できるだろうか。そこで何を予知していたのか。そんなことはどうでもいいことだろう。いつどこで地震が起ころうと、過去の時空に存在している限り、君にはまったく関係のないことだ。自意識と何も関係を築けないのは虚しいことかも知れないが、そこから未来の時空に移動して、誰の気持ちを推し量ろうとしているのか。年が明けても何の展望も開けない。去年の段階でまだやり残したことがある。だが今さらそれを未練がましく蒸し返すつもりはなく、そんな成り行きを無視して、真昼の空を見上げれば、相変わらず雲は西から東へ流れ、日の光が作る陰影を刻々と変化させている。たぶん君は何かを語りたいのだろうが、思いつくことは何もなく、退屈な日常に埋もれながら怠惰に流され、そんな状況を無理矢理肯定しようとして、もう何も思うまいと心に固く誓っている。そんな虚無的な日々も終わりが近いようだ。そんな根拠のない予感が思い違いであることを肯定できず、苦し紛れの助け船も出てこないようで、結局どうにもならない現状を悲観して、どこか遠くへ行ってしまいたくなる。そこから逃げられるわけがないだろう。逃げるつもりもないのに、逃げるふりをするのは欺瞞もいいところか。逃げ込むあてなどどこにもありはしない。相変わらずの退屈なテレビ画面の中へ、気晴らしの意識を向けさせるのにも飽きてしまったらしい。言葉を連ねるのが嫌になってしまったのだろうか。気を取り直してそこから逸脱しようと試みるが、壊れたままの頭脳が回復する兆しは見えず、それでも強がり痩せ我慢的に振る舞うのにも疲れたらしいが、また同じようなことを述べている自らを見放すことができず、なぜそこまでやる必要があるのかわからないが、結果的に何をやっているわけでもないことにしたいらしい。それで何を打ち消そうとしているわけでもなく、ただ何かしらつまらないことを述べているようだが、やはり何を述べているわけでもないような気がするだけだ。だがそこから何も述べられないわけでもないだろう。何となくそんなことを述べているのであり、そんな君は意味不明に毒されているといえるだろうか。たまには意味のある文章を構成してみたいか。だが依然として何を述べたいのかが明らかになっていない。それは無理だろう。何も述べたくないのかも知れないが、何かしら述べている事実を受け止めなければならない。なぜ君はそんな風に述べてしまうのか。何となくそこからわけがわからなくなってくる。つまらないことを述べているのだろう。つまらないから嫌気が差す。やりたくもないことをやっているのではないか。やりたいことが見つからないのか。そんなことを述べている場合ではない。では老いて朽ち果てるのがそんなに嫌なのか。当たり前の現象に逆らうのは馬鹿げている。それは誰の興味を惹くような現象ではない。それが無理なことはわかっている。何をどうすれば無理ではなくなるのだろうか。黙っていては何もわからないが、沈黙に支配された状況の中で、言葉を発することが苦痛であるのは当然だ。だからそこで沈黙せざるを得ない。どうも何も変わっていないらしい。何か不具合でも発生したのだろうか。ようやく今年になったのに、また足止めを食っている。そこからいくらでも語りたいのなら、さっさと語ればいいだろうが、語れないのに語れるわけがないだろう。


2005年

12月31日

 どこかで泡を食っているらしい。蟹ではあるまいに、そんなに泡を吹いてもてんかん発作を装うこともできず、ただ洗濯機のふたを開けてのぞき込んでいるだけか。別にそこから遠ざかろうとしているわけでもない。精神状態が危ぶまれるかも知れないが、どうあってもそれをやり遂げなければならないらしい。それは馬鹿げたこだわりだろうか。何となく割り切っているようだが、その程度のものなのだろうか。何に目覚めたのかわからない。やる気とはそういうものではないはずか。そういうものではないとすると、どういうものなのか。そんなことを知ろうとは思わない。なりふり構わずに言葉を記しているつもりらしいが、そこにどんな計算が働いているのか。どうせ忘れ去られてしまうのなら、せいぜい適当に現実と戯れた方がいいわけか。君はそんな現実を知らないのだろうか。わけのわからないふりをするのもわざとらしい。寝たふりをしているわけでもなかったようだ。影はまだ長い。それが何を意味するかは誰の想像にまかせればいいのか。君は本当に何もわかっていないようだ。わかりようのないことを知ろうとしているわけでもない。冗談からは程遠いそれらの言い回しを、どのように受け止めればいいのだろう。感性はとうに擦り切れて、何の出がらしでもなく、残滓さえ残っていないような気がしたのだが、まだ紅茶でも飲むつもりらしい。君にはそれがわからない。どこで語り方を間違えてしまったのか。そんなわけにはいかないだろう。初心を忘れべからずといっても、何を忘れてしまったのか覚えていないではないか。他に何を思い出そうとしているわけでもなく、それはそのときの成り行きと運命が定めるところのものか。ただわけがわからない。そこから遠ざかりすぎているのかも知れず、そこへ近づきすぎているのかも知れない。しかしそんな矛盾はありふれている。いわんとしていることが不明確だ。それで一通り何かを述べたつもりになっているようだが、まだ何も述べていないような気がするのはどういうわけか。それが実感なのだから仕方がない。決して紛れもない嘘だとは思わない。ほんの少しでも事実の欠片を感じ取ったら、それを限りなく膨らませて、ありふれたフィクションでも構成してみたいのか。しかしそこからどうやって戻ってきたのだろうか。まだ夢の中でもがいている最中ではなかったのか。誰がそうしているのか。誰も見当たらないのは君が闇の中にいる証拠だろうか。まだそんなことを述べている。いい加減にまともなふりをしてみたらどうか。正気を取り戻したことを高らかに宣言してみたらどうか。それこそ狂気の沙汰か。言葉遊びに限りはないようだ。有限の言葉を使って無限であるように見せかけているつもりらしい。何がそこでの無限なのか。冗談も有限の範囲内にとどまっている。君の愚かさが無限大だと自身を卑下してみたいか。つまらない冗談はやめにしよう。どうやってもそれを超えることは不可能だ。言葉を超えて文章を構成することはできない。それは何かの勘違いに違いない。そんな言い草はないだろう。誰と誰が対話しているのかわからない。本気にならなくてもその程度のことは可能だ。君は本気という状態を知らないだけか。そんなことを述べているうちにもう飽きてきた。次第に眠たくなってくる。ではそれで今回はお終いになってしまうのだろうか。わけのわからないことを述べすぎている。いい加減に振る舞いすぎている。馬鹿げたことを述べすぎている。だがそれがおもしろいのだから仕方がないだろう。そういうやり方は好ましくないが、それでもまだ嫌気が差していないとすれば、それは恐ろしい忍耐力を想像させる。たぶんそれらの精神は狂っているのかも知れない。君はそう述べて誰を脅しているつもりなのか。それともまだ先が長いことを暗示させたいわけか。そんな嘘は聞き飽きたか。まだ何も聞いていないような気もするが、そのとき何を思い浮かべていたのか忘れてしまったらしい。意識のどこかがおかしいのかも知れないが、それでもそれを利用しない手はないと思いつつも、それらの文章が誰に利用されているのかは、君には知りようのないことかも知れない。たぶん知らない方が身のためだろう。


12月30日

 無理してかなり粗雑なことを述べているようだ。馬鹿げていることに変わりはない。冗談にも程があるが、本気で冗談を述べるほど野暮でもないつもりらしい。本当のところはわからない。よみがえってくるのはゾンビなどでなく、不死身の肉体でもない。何がそこでよみがえっているのか。本当のところはよくわからない。どうでもいいことをわかっても仕方がない。肝心なことを忘れてもらっては困るらしい。はたして君の目的は何なのか。知りたいのはそんなことではない。それは何なのだろうか。忘れた頃に過去の記憶がよみがえるが、それはゾンビなどではない。同じことを何度述べれば気が済むのだろう。もったいぶらずに君に教えてほしい。それは君ではない。何かがこんがらがっているのかも知れない。もう二度と過ちは犯すまい、と心に誓ってもそんなことはすぐに忘れてしまう。それは誰のための犯罪でもない。フィクションの中でつまらぬ出来事が繰り返されているだけだ。しかし本当に知りたいのはそんなことではない。わざと間違えているのだろう。そんなに過ちが続くはずがない。誰に脅しをかけてくるのだろうか。電話の主を知りたいわけではないが、そこでにやけているのは君ではないらしい。無言電話は執拗に繰り返され、やがてそれが直接的な暴力にでも発展するのだろうか。現代人の行動パターンにはそういう傾向があるようだ。それでも君の匿名性は保たれる。やはり冗談ではないのだろうか。今こそ目を覚ますべきなのか。目を覚まして何をすればいいのだろう。夢でも見てみたらいいのか。そんな冗談が誰に通用するはずもなく、伝達すべき言葉をなおざりにしてしまう。だからまともな文章が必要なのか。だが今さらそんなことを述べても無駄だろう。予定調和を目指して言葉を構成することに、えもいわれぬ快楽を見出そうとすれば、それは自らが正気でない証になるだろうか。それこそ言葉の無駄だろう。何を出し惜しみする必要があるのか。まさかそこであきらめてしまうわけにもいかないか。だからこうして言葉を連ねているのだろう。だがそんなわかりきったことを今さら述べないでほしい。また背中が痒くなるだろう。それこそ意味不明の最たる表現だ。言葉の単調さを何で紛らわせばいいのか。次第に虚無が重さを増してきて、支えきれなくなって発狂したらおもしろいか。誰のことを述べているのでもないらしい。何をおもしろがっているわけでもなく、それらの言葉を誰に捧げようとしているのでもない。ただそこには何もないだけか。何もないからつまらなくなり、たぶんその辺で苦しくなってしまうのだろう。何かがスピンしているらしく、そこから正気がはじき出され、残っているものを認識できなくなり、要するに何も述べられなくなるというわけだ。かなり馬鹿げているだろうか。君にはそれが認めがたい。そんな成り行きは嫌いだ。だがそこで空虚な爆発を繰り返しても仕方がない。わざとらしすぎることはやるべきではない。しかしやるべきことをやってきたわけでもない。ならその先にどんな展開を用意すればいいのか。夢見る瞳に虚無を垂れ流すわけにもいかない。夢想の妨げになるようなことは述べるべきでない。幻想の丘から転げ落ちるように駆け下りてくるのは、誰のリアリズムでもなく、その逃走の道筋を示しているのもリアリズムではない。誰が指し示しているのでもない領域へ飛翔できるはずもなく、説明に値するような現象のただ中に存在するわけでもない。やはりそれはどうでもいいような出来事なのか。骰子を転がして、それをどんなきっかけにしたいのか。見えているものを違う見方に従わせようとしているようだが、そんなことがはたして可能だろうか。単なる言葉の言い換えになってしまうような気がする。成功という邪念を振り払い、結果的に何が見出されるわけでもない領域に踏みとどまることができるだろうか。誰がそれをやろうとしているのか。ため息交じりに暗澹とした未来を想像する。来年の今頃はどうなっているのだろう。まだ正気に戻っていないかも知れない。そんなのは嘘だとは思っているようだが、どんな精神状態が正気を体現しているのか疑問に思う。君はそこから何を導き出そうとしているのだろう。


12月29日

 何がそうさせるわけでもなく、ただ言葉を連ねているだけだ。言葉は無限にあるらしい。根拠など何もない。見つめている先にはブラインドが降りているだけだ。偽りの暗闇は蛍光灯の明かりに滅ぼされる。そんなはずがない。足もとがおぼつかないのは老いた証拠かも知れないが、それは誰のことを述べているのでもない。何を承知しないのか。そうなってしまうことを認められないようだ。禁止薬物の力を借りているわけでもない。正気のふりをするのに疲れただけだろう。君の意識からはまともな言葉を見出せない。そうなってしまうことに嫌悪感を抱いているのかも知れない。他人は何を糧として生きているのだろうか。別に他人の心配をしているわけでもなく、自分の心配を怠っているわけでもない。そんな言葉がどこにあるのか。基本的な構文を忘れている。ただ怠けているだけだろう。意味不明な怠惰に流され、ろくでもない他人のこだわりに振り回され、それが何かの妨害工作であるような気もしてくるが、本気になれるわけがない。それはあり得ないことかも知れない。先を急いでいるつもりが後戻りをしている。わざとそうしているのだから救いようがない。なぜそんなことにこだわるのか。そうまでして続けたいのだろうか。君はまだそのときのことを覚えているのだろうか。いきなり過去に戻ってどうするのだろう。何の感慨もないのに、何か適当な感想でも求められているらしい。まだそこから話をつなげようとしている。もうその辺でその話はやめた方がいいだろう。まだ何も話していないではないか。様々な色が押し寄せる。それはどんな夢なのだろう。そこで想像力が尽きている。正気に戻ろうとしているのは君ではない。精神の集中を保っていたいらしいが、何かに邪魔されて、言葉を記している感覚を一瞬失う。その感激をついて様々な色が押し寄せる。まさかそこから絵を描かなければならないのか。切り立った断崖から落ちてゆくような感覚を味わう。唐突に不連続なのかも知れない。文章の不連続を利用して話の転調を図っているつもりのようだ。意味がない無駄な試みに思われる。無意味な試みは嫌いだろうか。無駄だから魅力があると勘違いするのではないか。すべてが機能的なら無味乾燥になってしまう。要するにそこでのおもしろさはわけのわからない思い込みから生じているわけだ。だが何をおもしろがっているわけでもない。本気で語りかけるには間が空きすぎている。その気もないのに本気も何もあってものではない。はじめから本気で語ることを断念しているような節もある。言葉の使い方がぎこちない。ただ無駄なことばかり述べているだけのようだ。過ぎ去った文章からは何ももたらされない。今さら何を読み返そうとしているのか。無理に遅れを取り戻そうとすれば、何か馬鹿げた成り行きでももたらされるだろうか。しかしそこから遠ざかっても何もない。君は虚無に近づきすぎているのだろうか。それを虚無だと思うこと自体が大きな勘違いか。それはそれでしかなく、それという言葉でしかない。そんなわかりきったことに疑問を差し挟むのはおかしい。それともわざとおかしなことを述べようとしているだけか。そこで何か忘れているとすれば、それは皮肉を述べることだろうか。それの何が皮肉な成り行きなのか。それでしかないそれについて何を述べているつもりなのか。画面に映る自らの姿を見たことがあるだろうか。何も映っていない画面に日の光が反射している。謎解きには飽きているはずだ。うんざりするような推理ゲームにも飽き飽きしているようだが、何がそこでの紋切り型なのか。みんな刑事コロンボのような台詞を多用している。知能犯気取りは死んだ方がいい。現に死んでしまったことになっている。それが暇つぶしの感想だとは思えない。とても脚本が粗雑だなんて夢にも思っていないのだろう。尽きかけたやる気をかろうじてつなぎ止めているのは、そんな馬鹿げた話でしかない。やはりそこで死んだ方がいいかも知れないが、そんなのも偽りの演技のうちでしかなく、他に何も思うところはなく、役者のわざとらしい言い回しに辟易しながら、それでも文章のネタを提供してくれたことに感謝しなければならない。しかしふぬけた人格はさらにすかすかになっているようだ。


12月28日

 述べたいことは冗談ではないのか。手抜き工事もいい加減にしてほしいか。わざとそうしているのだから呆れてものもいえない。そんな題名の曲が過去にあったかも知れない。まだ君は笑っているのだろうか。どこからどこまでが君の領分なのだろう。領域を区切る境界線がどこに引かれているのか。冷たい視線を感じるのはどこまで踏み込んだ瞬間なのだろう。踏み入るべき地域を取り違えている。山奥深く分け入って遭難したいのか。今は冬だろう。冬山で遭難するほどの蛮勇は持ち合わせていない。それらの無鉄砲さは別人のものだろう。だから中途半端なままなのかも知れない。何をどう表現したらいいのかわからない。何も言い表せないとしたら、それらの言葉はどこから生じてくるのか。足下から忍び寄る寒さに負けてしまいそうだ。だからその辺で妥協しなければならないのか。真昼の空は何も語らない。真空ではないから何かしら物質が漂っているのかも知れないが、意識の中に入り込んでくるような執拗さはない。冬の日差しを浴びて何を思うでもなく、流れる雲にどんな感慨を抱くこともない。すべては君には関係のないことだ。それがすべてでないと思うなら、いったい何がもたらされているのだろう。見え透いた嘘をつかないでほしい。状況を見誤っている。まだそこまでいっていないだろう。感じているのはそんなことではない。失われた感性は二度とこの身には戻らないが、そこからさらに何とかしようとしている。何を覆そうとしているのか。何か斬新なアイディアでも思いついたのか。見透かされた魂胆をどういう具合に変更しようというのだろう。それほど思いを遂げようとは思わない。無理に言葉を求めているわけではない。思いの強さは挫折を味わうためにある。それが方便だとは思わない。何が自然と湧き上がってくるわけでもないらしい。雲は風に流されて視界から消え去ってしまう。はるか遠くに見えているのは蜃気楼であるわけがない。どうも現実を把握できないようだ。事態は悪い方向へ推移しつつあるのだろうか。まとまりを欠いた言葉の群れに埋もれて、いつものように何を述べているのかわからなくなっているようだ。君はそこで自らの限界を悟り、どうにもならない現状に疲れて自暴自棄になり、戻るべき大地から遠ざかり、宙に浮き頓挫した計画を懐かしむばかりか。本当に何を述べているのかわからなくなる。戻る術を知らぬ意識は夢遊病のように辺りを徘徊し続け、ひたすら意味不明かつ複雑怪奇なことを述べようとしている。そんな意識がどこから生じてくるのか。それでもまだ正気に戻った時のことでも心配しているのだろうか。可能性はまだ残されているような気がするが、それがどのようになる可能性なのかわからない。変化の度合いが想定外の値を示している。だからそこからさらに違うことを述べようとしているわけか。そんなはずがあるわけがない。どこまで行ったらあきらめがつくのだろうか。文章の内容が正気に戻るには、何らかの生け贄などが必要かも知れないが、そんな思い違いにも笑ってしまえるだろうか。明らかに常軌を逸して何かを述べているらしい。思い描いていた結末を見失う。暗闇の中で指をかみ続け、何か適当なことを考えているふりをし続けているようだが、考えがまとまることはあり得ない。今は真昼ではない。いったいいつからそんなことを述べていたのだろうか。途中で何度か中断したようだが、気がついてみれば、またいつもの闇の中だ。暗中模索ばかりで、誰かはそんな成り行きの単調さを呪っているらしい。何をどう考えてみてもおかしいと思われる。現実に経験している状況は、どこかで言葉を纏うことを夢見ているのかも知れないが、忘却の彼方から妄想が襲来してきて、つまらぬ現実などすべて流し去ってしまうらしい。今はそんなおかしな言葉遣いを容認しなければならない。これが貧窮の時を形成しているわけだ。言葉の連なりに肯定的な意義を見出せず、何もかもを否定した衝動に駆られつつも、かろうじてそんな現状の中に自らの意識があることを認めなければならない。それが君自身を構成しているのだ。文章はこれからもそんな君を活用しながら、適当にいい加減に記されてゆくだろう。君がどこまで耐えられるだろうか。


12月27日

 ねじがねじ切れて使い物にならなくなってしまった。錆びついているのを無理矢理力ませにねじればそうなって当然だろう。だがそれで何を述べているわけでもない。それでも何かしら述べていることになるのだろうか。偶然に生じた空白の時を利用できない。言葉は何も語らない。身体が言葉についてこない。要するに身動きが取れないということか。冬に鳥がさえずることもあるだろう。うまくかみ合っていないようだ。地面が揺れ動いているように感じられるのは、地震のせいではなく、足下から何かが突き出る前兆だろうか。何を述べているつもりなのか。這いつくばって誰かがにらんでいる。にらんでいる対象をにらんでいるのではなく、画面の向こう側から誰もいない部屋の隅をにらんでいる。そんな嘘を信じられるはずもなく、嘘を信じるには言葉が足りないようだ。まだカレンダーを貼るタイミングではないだろう。それは何かのポスターだったかも知れない。そこで何が矛盾しているのか。壊れかけた精神を立て直すつもりはなく、言葉も意味不明のままに連なってもかまわないような気がする。それが冗談だと思うなら、たぶんそれは何かの勘違いなのだろう。勘違いであってもかまわないだろうか。誰に許しを請うわけもなく、ただ勝手に壊れたままの文章をそのまま放置し続けている。それで何がわかるわけもなく、何を知ろうとしているわけでもない。それらの無責任を放任するしか、その先に続ける方法はないのだろう。それが馬鹿げていることは確かだが、真面目になるのはさらに愚かなことか。何となく文章がよろけている。足下ばかり見ていても視界が開けるわけもない。何かの感覚がなおざりにされているのかも知れない。君はここから何かについて語らなければならない。唐突に何を述べようとしているのか。何を微笑んでいるのか。要するに何もないのだろう。そんな意味のない言葉につられて髭面の男も笑っている。君が見ている画面上には何が映っているのか。聴いている音楽が楽しそうなのか。まだ足下が揺れている。まるでトランポリンの上を歩いているようだ。まだ何も意味を見出せない。顔をしかめて困ったふりをしている。無理に遅れを取り戻すのは気が進まないようだが、今はそれを実行する時なのかも知れない。これから消化試合をやろうというのか。相手は誰なのだろう。相手もいないのに試合も何もあったものではないか。わざと間違えているつもりなのか。そんな簡単に事が運ぶわけもない。手許が狂っているのかも知れない。だが修正など利くわけもない。何か肝心なことを忘れていないか。まだ時間稼ぎが足りないらしいが、それも計算のうちか。何の計算なのかわからない。それはこれからほざく冗談の数でも計算しているのかも知れない。それとは君のことなのだろうか。成り行きまかせの言葉もそろそろ尽きかけている。もっと簡単にきっかけをつかめないものか。それは何のきっかけだったのか。無理なことを述べている。無理をしなければ時間の経過に追いつけない。何かそこで矛盾していないか。笑っていられるのも今のうちか。誰がそんな冗談にもならない言葉で笑えるのか。運もつきもないのだろう。どちらも同じ意味を有しているが、そんな意味に用はない。用があるのは無意味だけか。それで用を足せるだろうか。そこからどうするつもりなのか。何をどうするつもりなのか。今さら策を弄するわけもない。何が幸運を呼ぶことになるのか。それらの文章の馬鹿らしさに呆れてくれるだろうか。それで何がわかるのだろう。気が抜けてやる気も失せている。それほど本気になっているわけでもなく、無理に何を語ろうとしているわけでもない。ではもう終わりなのだろうか。あきらめるのはまだ早いか。あきらめてもかまわないが、どうやったらあきらめたことになるのか。言葉を連ねるのをやめたらいい。無駄な悪あがきをやめたらいい。だがそんな言葉を吐いたとたんに足下の床が揺れ始める。それは目眩の一種かも知れない。たぶんそれらの言葉をなかったことにしたいのだろう。もうそんなことは忘れてしまっている。ただ馬鹿げた感覚だけが微かに残っているようだ。そこから何をどうしたら気が済むのか。そんなことを誰が知り得るだろうか。君はさらにろくでもないことを述べている。


12月26日

 わざとらしく驚いてみせるのは馬鹿げているだろうか。これはいったいどういうことなのか。どういうことでもなく、そういうことでもないのだろう。ただ意味のない言葉が連なっているに過ぎない。他に何もありはしない。どうでもいいような情報に溺れているのかも知れない。まともなことを述べるのは無理そうだ。そんな馬鹿げた思いのままに、何を述べているわけでもないらしい。冷静でいられるはずがない。そんな風に述べている意味がわからない。他がないのだからそんな成り行きでもかまわないのではないか。君には先を見通す能力が欠けている。ただ成り行きまかせにおかしなことを述べているだけだろうか。おかしいとは思わない。つまらないと思っているだけのようだ。何かの暗示にかかっているのかも知れない。話の筋が見え透いている。勘違いにも程があるだ