彼の声50

2005年

9月30日

 まったく事態を把握できなくなる。狂気に支配されているのだろうか。やはりおかしいのだろうか。俄に述べている内容が信じられなくなる。完全にわけがわからなくなってしまったようだ。言葉はまだ続いているようだが、そんな意味不明はそろそろ継続を終わりにしなければならないか。空虚を体現している文章は、何らかの雰囲気に包まれているのだろうか。それは雰囲気ではないだろう。言葉を使う場所を間違っているように思われる。それらの文章が必要としている主語を思いつかないようだ。またそんなわけのわからないことを述べているのか。さらに内容が空疎で意味不明となっているのかも知れない。いったい文章とは何なのか。それらのどこから文章という言葉が出てくるのか。まるで話の展開がつかめていない。そんな文章の何を肯定したらいいのか。それらの何を気にかけているのだろうか。いくら述べても何を述べているのかわからない。述べれば述べるほど、意味不明に近づいているように感じてしまう。すでにかなりのわけのわからなさを体現しているのかも知れない。述べたくて述べているわけでもないのに、そんなわけのわからない内容なき無内容状態となってしまうのだから、もはやそれは手の施しようないところまで来てしまっているのだろうか。それらの文章を読みながら、君はどんな妄想を抱いているのだろうか。さっきから冷や汗をかきながら繰り返し読んでいるようだが、妄想はどこまで膨らんだのか。何を膨らましているわけでもないか。意味も言葉もどこか得体の知れぬ時空へ飛んでいるらしい。まるで何かが空中分解してしまったように感じられるが、膨らみすぎて破裂してしまったのだろうか。しかしそんな表現がそれらの文章のどこに当てはまるのか。まったく的を射ていないか。それは単なる思い違いでしかないだろうか。しかし何が違っているわけでもないだろう。違っていること自体がどうでもいいことなのかも知れない。これまでに違っていないことを述べた例しがあっただろうか。何をどう述べても違いすぎるような内容ばかりではなかったか。それについて何か思い当たる節はないだろうか。たぶん思い出そうとしているのはそんなことではあるまい。少なくとも成り行きそのものが違っているのかも知れないが、一時的にもたらされているその場の情景は、そのときの気分次第でいくらでも取り替え可能か。しかしどんな景色を選んでみても、それはいつもの成り行きにしかならないような気もするのだが、たどり着いたそこは静かな場所なのだろうか。なぜ唐突に静けさを求めるのだろうか。静けさが何の役に立つのか。わざとそんな風に述べている意図がわからない。それはわざとではなく、偶然にそうなってしまっただけなのではないか。別にそんなことを述べたかったわけでもないのだが、その場が静かならそれ残したことはないだろう。静かな場所でいくら言葉を並べ立てても、何の騒ぎも起こらないし、それで何を述べているような気もしてこない。それらの状況に何か問題でもあるのか。そんなことを述べている場合ではないか。しかしどんなことを述べる場合なのかわからないか。たぶんそれ以外のことを述べなければならないのだろう。なぜ急に何の理由も根拠もなくそれがわかるのか。ただ何となくそんな気がするだけか。だがそんなことが簡単にできるわけもなく、すでに半ばあきらめかけている意識は、何かから降りてしまっているのかも知れない。語るべきことを語っていないような気がする。なぜそれを語らないのだろうか。それがわからないのに、語らなければならないはないだろう。それでももしそれを語らなくても済んでしまうとしら、もはやそれは語るべきことなどではないのではないか。しかしそれによって何かを見失っているような気もしてくる。単に語るべきことを見失っているだけだろう。しかし見失っているのになぜ語っているのだろうか。それは語るべき内容ではないのではないか。ただ何も語れないのに無理に語っているだけなのか。要するにそこで行き詰まっているわけか。では行き詰まったらどうすればいいのだろうか。たぶん君は音楽を聴かなければならないのだろう。しかしそれとこれとはどういう関係にあるか、などということは考えなくてもいいのかも知れない。何となく面倒臭くなってきて、たぶん言葉も気持ちもそこからずれてしまっているのかも知れない。なぜそうなるのかはわからないが、別にそうならなくてもかまわないのではないか。それは君の勝手な思い込みなのだろう。ではそれらの何を批判しなければならないのか。間違ったことを述べていることに対して、何か批判するような状況にあるのだろうか。他人のやっていることをとやかく批判する筋合いはないか。君が他人なのだろうか。それが自分に及んでいると思い込んだ時、たとえそれが勘違いであろうと、何か批判しなければならないのだろうか。なぜ君の意識が自らに及んでいるのか。それを試みる勇気に欠けているのだろうか。何を試みているつもりなのか。わざと意味不明なことを述べることについて、そこにどのような勇気が必要なのだろうか。ただ単にそんな作り話はつまらないだけか。しかしそんな逃げ方はないだろう。だが逃げるに際して何を批判される筋合いもないか。しかしそれで批判をかわしたつもりなのか。君はそう述べて振り出しに戻りたいようだが、そこへ戻って何をやろうというのか。やろうとしているのではなく、何もやれないことを言葉で示そうとしているのではないか。たぶん実際に何もやれはしないのだろう。何もやれないからこそ、こうして無駄なことを語っているわけか。しかしそれが語る理由になるだろうか。そうやって何を語っているのだろう。少なくともそこでは何も語られていないように思われる。何を語ればいいのかわからなくなってしまったようだ。それははじめからそうなのではないか。どこかのドラマのように、そこに登場する人々がつまらぬ抗争に明け暮れていないと話にならないのだろうか。そこに醸し出されている意識同士が何らかの対決に至らないと物語にはならないか。適当に齟齬や葛藤がないと困るわけか。君はそんな成り行きが気に入らないようだ。しかしそれらの何が物語なのだろうか。そんな風に述べて何を否定しているわけでもないか。ではなぜ話にならないのだろうか。そんなことをいくら述べても謎が解けることはない。それは謎ではないからだ。それは簡単な答えか。ところで架空の話はどこまで進んだのだろう。そこで何を感じているのだろう。さっきから同じようなことばかり述べていないか。それに関して今は何も聞かなくてもいいだろう。何もないのだから何もあり得ないか。しかしそれで君は満足しているのか。あるいは何か思い出したのかも知れないが、それは気のせいだろうか。


9月29日

 とうとう何もできなくなってしまったようだ。意識と動作のタイミングが合っていないのだろうか。話の辻褄も合わないような気もするのだが、他に何が合っていないのだろうか。すべてがずれているような気もしてくる。しかしそれはいつものことだろう。他に何がもたらされているわけでもない。相変わらず馬鹿なことを述べているのだろうか。何かを語るには、気分が今ひとつ乗ってこないのかも知れないが、他に何もありはしない。何がないのではなく、何もありはしないわけか。それとこれと何がどう違うのだろうか。要するに他に何も述べられなくなっているのかも知れない。そこには他がないということか。言葉以外に何があればいいのか。しかしそれですべてが存在していると思っているわけか。すべての存在を求めているわけもなく、それどころか何を求めているのかもわかろうとしてないのかも知れず、そこで何を察知しているわけでもないのだろう。見上げれば夜空がどこまでも広がっているようだ。それらのどこに何が届くわけもない。君は何もわかっていないようだ。そして届けるあてのない言葉の連なりは、今日もそこで静かに増殖し続けているようだ。そこで何が見出されようとしているわけでもなく、それは執拗な問いかけの繰り返しでしかないのだろう。それ以上にそれらの試みを続けられるのか。語る内容を見出せない。それはどうにもならないことのように思われる。たぶん何かのきっかけがあったのかも知れないが、そこから何も見出せなくなってしまったのかも知れない。それでいいのだろうか。彼らは何を騒いでいるのだろう。画面上に映る光景を見ながら虚しさが募ってくる。世の中の流れに同調できずに取り残されてしまっているのだろうか。そんなことは君には関係のないことだろう。君は寝て起きて作業を執り行えばそれでかまわないのではないか。だがそんなことの繰り返しでは気が滅入ってしまうかも知れない。いったい誰の心配をしているつもりなのか。大きなお世話だといいたいわけか。モノローグで対話を再現するのは馬鹿げている。何が再現されているわけでもなく、見せかけの虚構があらわになるだけか。君はそれで満足しているのか。気に入らなければどうすればいいのだろう。どうもせずにそのまま続けるつもりなのか。しかし何を続けていることになるのだろうか。たぶん適当に文章が続いているのだろう。はじめはぎくしゃくしていたようだが、ここに来てようやくいつもの紋切り型的な表現に近づいてきたのか。しかしなぜそれを繰り返しているのか。飽きているのにやめようとしないのはどうしてなのか、要するにそれしかできないということか。それは何となくわかりやすいようなわかりにくいような成り行きになっている。そのどちらでもないのかも知れず、どのような成り行きにも当てはまらないのかも知れない。それは嘘だろうか。そう述べてしまいたくなる気持ちは本当なのかも知れない。本心からどうでもよくなっているのかも知れない。だがそのかも知れないと述べていることに対して、なぜはっきりとはわからないのか。はっきりしたことは何も述べられなくなっているのかも知れない。話的には誰が述べていることになっているのでもない。だがそんなことがあり得るだろうか。それがフィクションなら何の問題もないだろう。そして本気でそう思っているわけでもなく、そこにどんな内容を提示しようとしているのでもない。そんなことを述べているうちに、いつの間にか朝になってしまっているわけだ。近所の鶏の鳴き声がうるさく、それで目が覚めてしまって、こうして言葉を記す時間が生じているだけのように思われる。昨晩は腰の痛みに耐えきれずに、書くことをやめてしまったわけだが、一晩寝ればこうして復活することができたわけか。たぶんそんなのは嘘に決まっている。そんな作り話がおもしろいか。そこには誰もいないのに、誰に向かって問いかけているのか。別におもしろい対象を探しているわけでもないだろう。おもしろく思うことと、それを文章にすることの間には、そのようなつながりがあるのだろうか。そこにはどんな関係が打ち立てられているのだろうか、またわざとずれたことを述べようとしているらしい。どうも素直に語るのが面倒なのか。なぜそんなことしか語れないのだろうか。そんなこととはどんなことなのだろう。そこに何もなければ、何を述べることもあり得ないのか。それでも述べようとするなら、そこにはどのような想像力が働いているのか。そんなやり方は好ましく思われないか。誰に思われないのだろうか。そうやってすぐに何かを否定したいらしいが、否定しようとしている対象が曖昧なまま、否定しきれずに何を述べているのかわからなくなる。たぶんそれが君のやり方なのだろう。何かをまともに語るのが馬鹿らしく思えてくるらしい。本気になればなるほど、その反対にどうでもいいように思えてきてしまうようだ。どんどんそんな思いから現状が背離してしきてしまい、そんな思いなど無視してもかまわないような成り行きの中で、なおそんなことを思っていることが馬鹿らしく思われてくる。しかし思うことのすべてがどうでもいいことではないような気もするのだが、それをどう解釈しようと、どうでもいいように思えてしまう状況を否定することはできない。それでは済まないのかも知れないが、そのときはそれで済ましてしまい、それを忘れた頃になって、またそれと同じような状況が蒸し返されてくるように思われ、そこでまた以前と同じよう思いがこみ上げてきて、そんなことの繰り返しに虚しさばかりが募ってしまうらしい。はたしてそれ以外はあり得ないのだろうか。そこに君は何を見落としているのだろう。同じ轍をいくらでも踏んでしまうことによって、何がもたらされているのか。それらの文章における似たような無内容について、何をどう修正すれば以前とは異なった内容になるのか。そんなことを考えていると背中が痛くなってくるか。だいぶ外が明るくなってきたようだが、それでも何がもたらされているわけでもない。ただ焦りばかりがもたらされているだけか。何を焦ってもさらに焦るだけだろう。君はいつもそんなことばかりやっている。そんな状況に追い込まれて嫌気が差しているでもなく、何となく呆れてしまって、心は上の空なのかも知れない。今日はこれから何をやればいいのだろうか。やることは決まり切っているではないか。その決まり切ったことをこなしていけば、やがて夕方になり、作業も一時的に中断するだろう。そして寝て起きれば明日になり、明日もまた昨日と同じようなことをやればいいわけか。そんなことの繰り返しによって時が経ち、いつかそれをやめる日を夢見ながら、それでも同じようなことを繰り返しているのかも知れない。時間の経過などどうでもよくなってしまうわけか。


9月28日

 また眼には何が映っているのだろうか。心は何も見えていないとしたらどうなのか。どうもしなくはないか。しかしどうしたらそれが見えるようになるのか。そんなわけのわからないことをいくら述べようと、心は何も揺れ動かないが、たぶんそこで迷っているのは確かなのだろう。いくらでもそこで迷っていればいいのかも知れないが、そんな意味のない堂々巡りがいつまで続くのだろうか。いくら述べてもどこに出口があるとも思えない。まだいくらも述べていないはずか。それでもすでにわけのわからないことを述べているようだが、そこからどうやって戻ってくるつもりなのか。どこから戻ってこようとしているのだろうか。それを今から探しているところか。どこへも行っていないのに、どこから戻ってくるわけもないか。周りを見渡せば、果てしない地平線の向こう側に虚無の暗黒大陸が広がっている。それはどんなフィクションにつながっていくのだろうか。唐突に関係のないことを述べているらしいが、もはやそんなどうでもいいような妄想には飽きている。それに対して何を返答することもできずに、言葉に詰まって息切れ状態の君は、さっきから疲れを紛らすための深呼吸を繰り返している。深呼吸で疲労が取れるだろうか。しかし何をそんなに焦っているのか。今さらそんなことを述べても無駄だろう。何となく自らの述べていることがわからなくなってきたようだ。もとから何もわかっていないのではないか。だがわからないのに今は何を語っているのだろう。誰かはすでに語ることに嫌気が差して、意味もなく執拗に語り続ける君を見捨ててしまったのだろうか。なぜ影にそんなことがわかるのか。別に影が何を理解しているわけでもない。では誰がそんなことを述べているのだろう。心の内に巣くう虚無が語っているらしい。言葉以外の何を求めているわけではないが、虚無がなぜそんな風に語っているのか。なぜそれが虚無だとわかるのだろうか。ただそれを虚無と呼んでいるだけか。実際そこには誰もいないのに、誰かは何を語っているつもりなのだろうか。不在の誰かは何を語っているわけでもないと述べたいのか。だがそれはいつものパターンでしかないか。たぶんそうなのかも知れないが、それをそのまま続けてゆく気がしなくなってしまったらしい。その気がなくても続いてゆくのがそれらの成り行きなのではないか。そんなことは当然であり、無駄な言葉の連なりを無理に構成するのにも、もういい加減うんざりしてきた頃か。何かいつも現状に対してうんざりしているような気がするのだが、とりあえずそんな言動はとりとめがなさ過ぎる。君が存在しているつもりのこの世界は、いったいどういうことになっているのか。君はそこで何を求めているつもりなのだろう。そこからどうやって抜け出すつもりなのか。なぜすべてがつもりのままになってしまうのか。まだその機会はやってこないようだ。抜け出す機会を求めてどこかを彷徨っている最中なのだろうか。他の誰かは虚しさに打ち勝つ方法を求めているのかも知れないが、君はそれらの空虚が醸し出す虚しさに染まりすぎていて、そこから抜け出そうとする気力すら失ってしまったのかも知れない。いったい意志はどこで何をやっているのか。何が具体性の出現を阻んでいるのだろう。何も語ることがないという事実を、どうやって覆そうとしているのか。それを否定しようとは思わない。誰がそんなことを思っているのか知らないが、何を否定しようとしているわけではない。だがなぜそんなことが述べられるのか、不思議で仕方がないのかも知れない。たぶんそこで何を述べるにしても、まだその機会ではないのだろう。君は自らの意志を無視して言葉が連なってしまう現状が気に入らないようだ。別の誰かはそんな風には思っていないのだが、そこにそんな成り行きがあり、そのわけのわからない成り行きに従って、適当に言葉が連なってしまうことについて、別にそれを止める手だてを考えているわけではない。君が何を考えているわけもないことは承知している。しかしそれを誰が承知していることになるのか。誰が承知しているわけでもなく、ただ何も考えずにおかしなことを述べているだけなのだろうか。だがおかしなことを述べているのは誰なのか。そんな問いかけは見え透いている。単なる文章の引き延ばしでしかないか。そこから得るものは何もない。何を得ようとしているわけでもないが、そこから何かが見えてくる。それはそんな光景なのだろう。たぶん君が求めているのはそれではない。そんな心理状態はすでに経験済みのはずか。まるで雲をつかむような話だ。できもしないことをできるかのように装っているわけでもないが、すでに何を語るべきか迷いが生じていて、また何も語らないうちからそれを忘れてしまいそうになる。そこまで思いが届くだろうか。何を思っているのだろう。誰が何を思っているのか。そこから先が一向に見えてこないようだが、もはや何もかもわからなくなってしまったのだろうか。また同じようなことを述べているらしい。だが何がおかしいわけでもない。そういう成り行きの中では、何を述べてもそうなってしまうのかも知れない。だがそれでも何も述べられないわけではないか。それに少しはわかっていることもあるはずか。それでわかっていることにはならないのかも知れないが、とりあえずはそんなことを述べているようだ。しかしまだ何かやる気なのだろうか。もう何もできはしないだろう。それ以前に何を述べているのかわからないだろう。それはただ同じような言葉が繰り返されている現象でしかなく、それ以外の何を述べているのでもない。そしてそんなことばかり述べて何になるわけでもなく、どうでもいいことでしかないのかも知れないが、それでもやはりそれを繰り返して述べてしまう現状があるのかも知れない。他に何も述べようがないのかも知れない。やはり何もないのだから、そうなってしまうのは仕方のないことなのか。それはまったく承伏しがたいようなことになっている。いったいいつまでそんなことをやっているのだろう。何をいくら述べようとそうなってしまうわけなのか。それで何を述べていることになるのだろうか。何かを述べながらそんな述べ方を否定し続けているだけか。それ以外に考えられないようなことを述べている。現状ではいくら考えてもそれ以外には述べられないだろう。だがそれをどうしたいわけでもなく、そんな現状をひたすら放置し続けているような気がするのだが、なぜそうなってしまうのか。それを打開する糸口すら見つからないのだろうか、見つけようとして何を見つけているわけでもないか。何も見つけようとしていないのに、それが自然に見つかるとでも思っているのだろうか。そんな虫のいい話はないか。しかしそうせざるを得ないような状況に直面していて、そんな意味不明に自らの周囲を覆われているのかも知れない。


9月27日

 昨晩は何を述べていたのか。感覚が鈍ったまま、もう夜になってしまったらしい。昼の間は忙しかったのだろうか。誰かはかなり疲れているのかも知れない。だが今は君以外の誰に思いを馳せているのだろうか。暗闇に向かって何を問いかけているのでも、夜が誰のことを想像しているわけでもない。何も述べていないのであり、偶然に導き出されたそれはただの文章でしかない。ではそこに記されていることは何なのか。読んだとおりの内容なのだろう。また誰かがつまらないことを述べているのだろうか。話的にはそういうことになっているのかも知れず、今回もそれ以外の内容は見当たらないのだろうか。またそんなことを語りたかったわけではない、ということになってしまうのかも知れない。たぶん出だしから間違っているのだろう。なぜそうなってしまうのか、そんなことがわかるわけもなく、またそれがわからなければ、いつまで経ってもそんな話になったままになってしまうのかも知れない。しかし今はそれで十分なのだろうか。君はそこであきらめてしまうつもりなのか。何をあきらめようとしているのだろうか。少なくとも中身のない話の継続はあきらめていないのではないか。それはあきらめるとかあきらめないとかいう次元で継続していることではなく、ただ何かを語ろうとすると、自然にそうなってしまうのだから、要するにどうしようもなくそんな話にならざるを得ない状況となっているらしく、それをそのまま放置し続けている限り、それをどうしたらいいのかという展開にはならないような気がする。そうなるべくしてそうなってしまっているわけか。とりあえず今のところはそれをどうすることもできないようだ。だが他の誰かはそれでもどうにかしようとしているらしく、いつも無駄な悪あがきを繰り返しているようで、そんな往生際の悪さが、ここまで続ける原動力となっているのかも知れないが、やはりいくら語っても話の中身が見当たらないことに変わりはない。しかし積極的にどんな中身を求めているのでもなく、何も思い浮かばずに、そんな心に何もない状態を、そのまま述べているだけなのかも知れない。しかし本当に何もないのだろうか。いつまでも同じようなことを語りすぎているのかも知れないが、そんなことは先刻承知しているのであって、それがわかっていながらも、さらに同じことを語り続けている現状に、何の変化を期待すればいいのだろうか。それでも絶えず変わり続けていると強弁できるだろうか。少しは以前と違うことを述べているつもりなのか。だがそこで何を言い張っているわけでもないだろう。主張したいことは何もないはずか。では何を認めざるを得なくなっているのか。それは今述べている内容がつまらないことを認めているわけか。だがそんな成り行きに逆らって、そこから別の時空へ弾け飛んで、まったく別のことを思い描けるようになれるだろうか。しかし君は本当にそうなってほしいわけか。架空の本心はそうではないような気もするのだが、嘘でもいいからそうなってしまっているつもりになりたいのかも知れない。しかし何を述べているのかわけがわからない。要するにだめになってしまったのか。何を否定しているつもりなのか。否定できるような内容さえないのではないか。誰かはそれについてどう判断していいのかわからない。そもそも判断する材料に欠けた文章になっている。そんなことをいちいち否定していても何も始まらないだろうか。そこではすでに何かが始まっていて、その始まっている何かには、物語の構築に必要なすべての要素が欠けている。今さらわかりきったことを述べないでほしいか。しかしそれでどうしろというのだろう。やはりどうにもできないのにどうにかしようとして、無駄な努力を繰り返していることになっているのだろうか。ひたすらどうでもいいことを述べ続けているのかも知れない。たぶん君にはそれが似合っているのだろう。そしてそんなどうでもいいことを語っていることで、現実の何もなさと折り合いをつけているのかも知れない。何もないことに寄りかかりつつ、それを糧として言葉をつなげているらしい。だがそれでは何となく虚しくならないか。それは以前にも述べたことで、そんなことは言わずもがなでしかなく、今はそれ以外のことを語る必要に迫られているのに、それができないからそうなってしまっているだけなのだろう。そこから逃れる術が未だに見つかっていないようだ。だからいつまでも徒労の繰り返しに甘んじている結果となっている。そして気がつけば翌朝になっているらしい。まったく呆れてものもいえない現実に、返す言葉は何もないのだろうか。そこで君は何を見ているのだろう。明け方の冷気と闇の他に何があるのか。闇に向かって文章を引き延ばしているような感覚で、その先端に架空の感覚を配置しているらしく、そこから何かの触手が方々へ伸びているのだろうか。しかしそんな想像は荒唐無稽だろうか。空想までが君の意識に逆らっているように思われ、逆らいつつわけがわからなくなっているのかも知れず、何を述べていいのかもわからずに、それでも何かしら述べようとするから、おかしなことを述べてしまうわけか。そしてその述べたことについての感想らしき文章がその後に続く成り行きになっているらしい。それでいいのだろうか。それ以外に何を述べたらいいのだろう。耳を澄ませば遠くから何かが聞こえてこないか。それを文章にしてどうするのか。気休め以外の何ものでもないような文章ができあがるかも知れない。そうやってその場の感覚を否定しつつも、それとは別の言葉を見出せるわけでもなく、ついでに聞こえてくる虫の鳴き声をうるさいとも思わず、ようやく白み始めた空を見上げて、目はその鳴き声につられて烏の姿でも探しているのだろうか。何を追っているわけでもないだろう。その代わりに時間が追いかけてくるような妄想を振り払いたいか。どこにそうなるきっかけが潜んでいるのか。どうやったらまともな文章を導き出せるのか。そんなことを考えあぐねているわけでもないか。また冗談に逃げようとしているのだろうか。それらの何が冗談なのだろう。まだそんなことを述べていること自体が冗談以外の何ものでもないか。そこから立ち去りたい気持ちをかろうじて抑え込んで、さらに言葉を連ねようとしている。それでは無駄に文章を長引かせているだけだろう。素直にそれを認めがたいようだが、まだ何か語ることでもあるのだろうか。何も語りたくはないが、それでも何かを語っているらしく、そんな行為に嫌気が差しているようにも思われ、ならばそこでやめればいいのに、何かやめられない事情でもあるのだろうか。見え透いた嘘でもついているつもりなのかもしれない。そしてそれが苦し紛れにやっていることだとしたら、やはりそこから徒労感が生じてしまうのだろう。


9月26日

 それは思い違いだろうか。それこそ思い違いだろう。いよいよわからなくなってきてしまったのか。文章を読み返す気力が失せて、また今日になってしまったらしいが、昨日は昨日だったのだろうか。そして明日は明日になるのか。今日も昨日も明日も同じことを語っているようだ。たぶんそれは当たり前のことなのだろう。当たり前のように当たり前の現象が起こる。だがそれが何を意味するのかわからない。今日の日付には何の意味があるのだろうか。それに何か適当な意味を付与できるだろうか。意味はそれらの現象にもたらすことができるのか。はたしてそれらは現象なのだろうか。何に疑念を抱いているのかわからないか。何となくとりとめのないことを述べているように感じられるが、それがどうしたわけでもない。それらの何が悪いのか、あるいはそれでも良いのだろうか。たぶん心は何も思わないだろう。何か思うとすれば、それは文章には反映されない何かになる。心と文章は離れすぎているようだ。しかしそれでいいのかも知れない。君はそれらの文章が、自らの思いとは別の内容になってほしいと願っているのだろうか。そんなことを思っているわけではなく、ただそんな風に述べているだけなのだろう。思っていることと述べていることは違うわけか。だが本当にそんなことを述べていいのだろうか。何かが違っているような気がするが、それがわからないのか。君は違いのわかる人間ではないらしい。現実は何も変わらないのかも知れない。それはフィクションの世界でも同じことか。だが何がそこでのフィクションになっているのだろう。物語がどこにあるというのか。今さら何を物語ればいいのだろうか。何が今さらなのだろうか。今さらそんなことを述べる意味がないということか。またいつものはぐらかしなのか。まともなことは何も述べられずに、それらの言説は苦し紛れのはぐらかしになるしかないのだろうか。そこから遠ざかりたいのに遠ざかれない。その代わりに何が近づいているのだろうか。いかさま予言者風に終末が近づいているとつぶやけば様になっているだろうか。終末は誰もが望んでいる未来のあるべき姿なのかも知れない。終わりの時がやってこないと気が済まないか。君はなぜそんなに急いでいるのだろう。別に生き急いでいるわけではない。終末の話などしている場合ではないか。まだ何も語っていないのではないか。具体的に終末の何について話したいのか。終末の中に何があるのだろう。それはただの終末でしかないだろう。終末は終末でしかなく、終末以外の何ものでもないか。その中にも終末しかないわけか。しかしそれでは何を述べたことにもならないのではないか。それもはぐらかしの一種なのか。君は何も語らずにここまで言葉を並べてきたつもりなのか。何を先回りした物言いになっているのか。そんな風に語りながらも、これから語ろうとすることを前もって削除するつもりなのだろうか。だがそれをどうやって削除できるというのか。まだ語ろうとしていることを何も思いついていないのではないか。それとも何かしら思いついたところなのだろうか。まさかこれから言葉が果てしなく続いてゆくわけもないか。思いついたのはそんなことか。何を安心したらいいのだろう。そう語るのは大した技術ではない。わざとわけがわからないようにしているだけか。たぶんそうやってひたすら遠回りをしているつもりなのだろう。もちろんそんなことをやり続ける理由などありはしない。しかしそれではいつもと同じ展開ではないか。だがそのような毎度おなじみの展開の中に何かを感じ取っていないか。それは終わりの予感か何かか。何が終わろうとしているのかわからない。いつまで経っても終わらない展開が終わりを迎えつつあるのか。しかしどこへ向かっているかもわからないのに、そのまま終わっていいのだろうか。それともまだ終わるような気配はないか。終わっても終わらなくてもどちらでもかまわないだろうか。それはいつもの言い草でしかなく、ただの意味不明しかもたらさないだろう。またそこから逃げてしまうのだろうか。何となくそんなことを述べている状況ではないような気がする。心がどこで迷っているのかわからないか。まだ何も決めていないのだろう。なぜそこには何もないのだろう。それは君の台詞ではない。そんな述べ方自体が気に入らない。いつまでも勘に頼っていては何も考えられなくなってしまうか。なぜ言葉がつながらなくなってしまったのだろう。次の言葉が出てこない。いつの間にか何も述べられなくなっている。何を語っていいのかわからない。それはもとからそうだったのではないか。何もないのだから仕方がないのか、いつか読んだような話の展開になっているだろうか。以前と同じようなことしか述べられない。繰り返されているのはそんな言説でしかない。何かを語ることをあきらめているように感じられる。何も語れないのだからそれはそうだろう。本当の終末が近づいているのかも知れない。だが本当に終わってしまっていいのだろうか。誰が終わらせようとしているわけでもなさそうだ。自らの精神が瓦解しそうになっているわけか。そんなものはとっくの昔にうち捨てられている。それを語っているのは精神ではない。君自身は誰かの抜け殻に過ぎない。その空っぽの空洞の中から語っているらしく、空洞に適当な言葉が響いているだけかも知れない。それは荒唐無稽でおかしな表現でしかないか。いい加減な言い表しに頼らないとその先へ進めないらしい。そうまでして継続にこだわるのは愚かなことか。そんな愚かさを糧として続いているのかも知れない。わけのわからない夢から覚めて気づいてみれば、またいつもの朝になっている。昨夜は何を語っていたのか思い出せないようだ。何を語っていたのでもないらしいが、それでもここまで言葉が連なっていることに驚く。わざと驚いているのか。本当は驚いていないのに、驚いていると言葉を記さないと、その場の成り行きから外れていると思ってしまうらしい。誰がそれを思っているのかわからないが、そんな文章にしないと気が済まないのだろう。相変わらずそんなことの繰り返しなのか。まったく何の進歩もないような気がしてくるが、それでも継続を確保したつもりになっているのだろうか。それで自己嫌悪に陥らないのが不思議か。たぶん自己嫌悪もそれが続きすぎると何も感じなくなってしまうのだろう。自らの行いを批判しすぎて、それだけしかできなくなってしまったようだ。何かが繰り返され続けると、それとは違う展開を忘れてしまうらしく、ただひたすら同じことの繰り返しをやり続けてしまうようだ。今はそんな堂々巡りの最中なのかも知れない。しかしそれをいくらやってもきりがなさそうで、いくらでも続けられそうな気がするのだが、実態としてそればかりになってしまい、それでは何をやっているのかわからなくなってしまうだろうか。そんなことはわかりきったことか。


9月25日

 そんなことは時が経てば忘れてしまうだろう。何を忘れようとしているわけではないが、気がつけば何もわからなくなりかけているようだ。だがその何もが何なのかわからない。しかし語る内容がそんなものばかりでは嫌になってしまわないのか。何に対しても興味が湧いてこないのだから、それは仕方のないことだろう。何となくそんな現状がくだらなく感じてしまうわけだが、世の中には馬鹿げたことがあふれかえっているのだろうか。それだけではないような気もするのだが、今のところはそれに巡り会えていないのかも知れない。ありふれた日常に埋もれたまま、感性が磨り減っていってしまうのか。そんな理由で書けないわけではないはずだ。何かしら書いているのに中身がないだけか。中身はあるにはあるが、その中身が気に入らないわけか。そこで何が予定調和の展開となっているのだろう。何を戸惑わせようとしているのか。ありふれた成り行きに君は戸惑いを隠せないようだが、それが何の話になるのだろうか。たぶん別の時空では何かが語られているのだろう。それを知らない君は、未来のどこかでそんな成り行きになることを知っていたように思われる。わざとそんな風に思っているだけなのかも知れないが、それは予定調和だと思わないか。そこから先にどんな言葉を連ねるかは、君の出方次第になるだろうか。もう何もかも忘れてしまったというのなら、君に何を語る資格もありはしないか。いったい何を語るつもりだったのだろう。何も語る気がしなかったのではないか。そのときはそんな風に思っていたのかも知れないが、今は何か語る気になっているのだろうか。そこから語り出すためには何を思い出せばいいのか。道に迷っていたあの日のことでも思い出してみようか。しかしそれがそのまま文章になるわけでもなく、たぶんそんなことは何も語られないだろう。君は依然として何も語る気がしないようだ。君が語る気がないことを誰かが記しているわけか。そんなまわりくどいことを述べなくてもいいだろう。誰か不必要なことを述べているらしい。述べる必要のないことを述べ続けている。内容がないと思われる原因がそれだろうか。ではそんな状況から離れなければならないか。離れようとして離れられるわけでもないか。そんなことを述べている場合ではないのかも知れない。しかし何を述べようとしているわけでもない。述べようとしていなくても述べている現状があるらしい。君はその辺で躓いている。何かを述べること以外に何もできはしないのに、その述べている現状をも否定しようと試みている。それでは何も導き出せないだろう。それでもかろうじて導き出されているのは、誰の興味も惹かないような言葉の連なりだけか。それらの文章が気に入らないのだろうか。その有り様に変化の兆しはないようだ。何を変化させようとしているのかわからない。そんなことを述べているようでは何が変わるわけでもないだろう。だいいち何をどう変えようとしているのかがわからない。それがわからないから変わるとでも思っているのだろうか。見方や思いようによっては、以前と比べて確かに何かが変わっているのかも知れないが、それがどうしたというのか。依然として何を述べているのでもない状況に変わりはないようだ。その状況をどうすることもできはしないらしい。しかし述べていることはそれだけなのだろうか。気休めに何か違うことを述べる気にならないのか。述べる気になっても実際に述べられなければどうしようもないか。だがそれは嘘なのかも知れない。今そこで述べているそれは、本当に嘘なのだろうか。そこに不吉な響きでも宿っていると思われるのか。宿っているだけではつまらないか。何かを実行しなければいけないのだろうか。それに関して言葉の連なりは何を示しているわけでもない。ただいつものように語っているだけか。物語の不在が語り続けている。何も語ってはいけないように語り続ける。それで君は満足なのか。別に君が語っているわけではないのだろう。君以外の誰が語っているのでもない。誰も語っていないわけでもない。それがそれらの言葉の連なりなのだろうか。そんなことはあり得ないか。あり得ないから語り手が不在のまま存在しようとしているのだろうか。それらのどこにそんな意志が宿っているわけでもないか。それは誰も何も思わないようなことかも知れない。何かが連なろうとしているだけなのか。不在の何かが不在のままにあろうとしているわけか。それではただわけがわからないだけではないのか。要するに意味不明であり、そこに特定の意味が付与されていないということか。そんなことがあり得るわけがないか。そこには何もありはしないだろうか。何かがあろうとしていないのかも知れない。どうでもいいようなことがごちゃごちゃ述べられている。君はそれを止めることができないわけか。止められないから続いているわけだが、それは何かのごまかしでしかないだろうか。何も述べられないからそんな風に続いているわけだ。意味のない連続が止むことはない。意味があったらいつか止むはずか。そのいつかをいつまで待てばいいのだろうか。いつまでも待ち続けなければならないのだろうか。待っていなくても続いてしまうだろう。それは何か病なのかも知れないが、病という言葉に逃げるのは誰かの意志に反するだろうか。それをやり始めた誰かの意思を尊重しなければならないのか。意志と意思はどう違うのか。そんなところまで気を配る余裕はないか。ただその辺で適当に迷っているらしく、それは何ら本質を突いてはいないのかも知れない。ただそのとき誰かが何かを述べ始めてしまっただけか。それでここまで続いているわけか。曲の中では狼が吠えているらしい。どこかで犬の遠吠えでも呼応しているのだろうか。それは救急車のサイレンの音に違いない。何を連想しているわけでもない。ただそこから遠ざかれないのだ。そこから遠ざかる方法を誰も教えてはくれないが、誰が知っているわけでもない。そこに思想などあるわけもなく、思考はいつも虚無に向かって開かれている。本当にそこから遠ざかるべきなのか。なぜ続いているのか明らかにしないまま、なぜそこから遠ざかれるのか。いったいどんな義務感からそこにとどまり続けるのか。とどまっているのは君ではないのだろうか。誰かはそこで何を述べたいのだろうか。なぜいつまでもそんなことを述べ続けているのか。もういい加減にやめにしないか。今はいったいいつの時間帯なのだろう。それらの時間帯の中からどこを選んで述べているのだ。何か選択の余地が残っているのだろうか。そこで何を選べばそれを終わらせることができるのか。終わりたいのに終われない時はどうすればいいのだろうか。ただ自然の成り行きにまかせておけばそれでいいわけか。しかしそれで何を述べたことになるのだろう。


9月24日

 真夜中に目が覚めてしまったようだ。外は曇っているのだろうか。夜空に星は見えない。それは昨晩のことだろう。なぜ唐突にそんなことを述べてしまうのか。何も述べられないと張り合いがないのか。その意味を理解していないのかも知れない。それは理解を超えた状況なのだろうか。誰に理解してもらいたいのだろう。少なくとも夢にまで見た状況ではないらしい。あくび交じりに現状のやるせなさにでも気づいてみるか。そんな風には思いたくないわけか。別にそんなことを思っているわけではないのだろう。言葉の文とはどんな雰囲気の時に使われるべきなのか。どうも相変わらず意味を伴う状況からは程遠い文章となっているようだ。そこからどう述べればいいのかわからなくなる。何を目指しているわけでもないが、たぶんいつか目指していることが明らかになるのだろう。そのとき誰が何を目指していることになるのだろうか。そんなことを今ここで知りたいわけでもないか。何を知りたいわけでもないのに、そんなことを述べてどうするのだろう。もう少し意味のある話をした方がいいと思われる。だがそれは無理な話か。無理な理由はどこにあるのだろう。そんな台詞は聞き飽きたか。理由の話ばかりしているわりには何も理由が明らかにならないようだが、端から理由など語るつもりはないのかも知れない。そのわけを知りたいのか。何をそこで循環させようとしているのだろう。底の浅い思考形態が好きなのかも知れないが、そこであきらめてはまずいことになる。辛抱強く地道に言葉を並べてゆかなければならない。だが気が散って何もできはしない。何がそうさせているのだろうか。自らがそうしようと思っているのか。いったい君は何がやりたいのだろう。やりたくてもできないことをやってみたいか。ではその願いは聞き入れられないだろう。しかし誰が聞いてくれることになっていたのか。それで文章の意味が通っているのだろうか。君が神の存在を信じられないというのなら、他に誰もその願いを聞き入れてくれる者などいはしないか。それでもいるとすれば、それは悪魔の類になるだろうか。少年漫画的にはそんな成り行きなるのかも知れない。それは遠い過去の記憶になるだろうか。過ぎ去った未来はあり得ない。遠くから見つめているのは誰の眼差しでもない。その道をどこまで行ってもそんな成り行きなのか。やる気がしなくなるだろうか。やる気がしなくても言葉は連なってゆくだろう。もはや君は君自身ではなく、他の誰かでもなく、君が誰かなんてわかるわけがない。その言葉が誰に向かって発せられているのかもわからないのに、誰がそれに答えようとするのか。今のところ親切心を発揮して答える者が出てくる気配はないようだが、何をどう答えればいいのかわからないか。それに答えるためには心身共にリラックスしている必要があるだろう。だがなぜそういうことを述べられるのか。外はもう夜になっている。闇夜に包まれて何を考えているわけでもないが、そこからどんな言葉を連ねようとしているのだろう。なぜ何も述べずにそうなってしまうのか。そんな風に述べられる根拠を求めているわけでもないが、それはさっき述べたことと意味が重なっていることに気づく。君はそこから逃げ出したくなる。何もない状況に耐えられなくなっているらしい。しかしそこからどうやって抜け出せるというのか。それは以前にも述べたことではなかったか。そのとき何を述べていたのだろうか。君に未来などあり得ない。それは未来ではなく過去でしかない。ただ未来に向かって過去が繰り返されているだけなのだろう。しかしそれが過去であろうと未来であろうと、道はどこまでも続いている。そして過去を繰り返しつつもそこで生きている意識があるらしい。これ以上同じようなことを述べるのには耐えられないだろうか。何に耐えているのでもないか。なぜそうやって簡単に前言を否定してしまうのか。否定できることはとりあえず否定しておくべきなのか。それが君の信条なのだろうか。しかしそれで何を否定したことになるのだろう。何を否定していたかなんてとっくに忘れているのかも知れない。たぶんそれは空虚そのものなのだろう。そこが空虚で満たされていることを否定したいわけか。そんな風に思えば確かにそう感じてしまうのかも知れないが、なぜそう思ってしまうのだろうか。そんな風にしか思えないのか。何かの先入観がそうさせているのか。君はそこで何を感じているつもりなのか。そこにどんな油断が生じているのだろうか。何を油断して空虚に包まれてしまったのか。それ以外には何を思うこともないようだが、それでは何も導き出せないので、他のことを思うように意識をどこかに誘導しているのかも知れず、興味を空虚から逸らして、それとは別の方向へ歩み出すように仕向けているのかも知れない。だがそんなことをいくら述べてみたところで、まともな内容には結びつかないばかりか、さらなる空虚を心の内に呼び込むだけか。なぜそうなってしまうのかはわからないが、そこには虚しさばかりが蓄積されているのかも知れない。それでつまらなくなってしまうわけか。言葉を繰り出すたびに自己嫌悪に陥るか。しかしそれらの困難を乗り切ろうとするならば、そんな風には思わない方が身のためか。乗り切れるはずのない困難に直面しているのかも知れない。状況が悪い方へ向かうと考えがちになっている。わざとそんな悲観論に染まろうとしている。言葉を繰り出すためなら手段を選ばないのか。あらゆるやり方を総動員して、なおそれを完成させることができないのだろうか。なぜそうなってしまうのかはわからないが、そうなるほかないのかも知れず、それ以外の成り行きは考えられないのかも知れない。そんな風にして君はそこに行き詰まりを形成しているらしいが、それと同時にそこを乗り越える算段も欠かせないか。いつものように述べていることの意味がわからなくなっているのだろうか。行き詰まりを一時的に忘れ去れば、それで困難を乗り切れたつもりになれるだろうか。そんな安易なことで済むのなら、それまでに述べてきたことは何だったのか。それなりに暇つぶしにでもなっているのだろうか。そうだとすればどうなのか。どうもしないでそこでお終いになるだろうか。それともただ何を述べているのかわからなくなってくるだけか。なぜそうまでして継続を計ろうとしてしまうのだろう。意味のないことをそれほどまでに繰り返して、結果的に何をもたらそうとしているのか。やはりそこには空虚がもたらされているだけなのか。さっきからそんなことばかり述べていないか。他のことを述べる術を知らないのかも知れないが、それでも無駄に言葉を弄して、見せかけだけの危機を脱しつつあるのかも知れず、それで気が済むわけでもないが、何となく何かを達成しつつあることは確かなようだ。


9月23日

 いつまでもそんなことにこだわっていても仕方ないだろう。まだ何がわからないのかがわからないのだろうか。誰がわからないふりをしているわけでもない。君にはそれがわかっているはずか。なぜそこから立ち去らないのだろう。わかっているはずのことをさらにわかろうとしても無駄か。わかりすぎることはどのような結果を招くのか。わかっているのにわからないふりをしたいだけなのだろうか。それ以上に何を述べたいわけでもないらしい。会話において受け答えの方向がねじれの位置にある時、その会話はすれ違いに終わるだろう。しかしそこでそんな説明は無用か。そこは説明するために用意された時空ではないのか。そんな時空がどこにあるというのか。そしてそんな風に語れば少しは気分が落ち着くだろうか。まるで述べたいことを語っていないらしい。まだ蒸し暑い季節なのだろうか。その蒸し暑さを理由にして、わけのわからないことを述べていていいのだろうか。そんなことを理由にすること自体がおかしいか。別に語れないことを語っているわけでもないだろう。しかし語ろうとしているのはそんなことではないはずだ。何を勘違いしているのか。勘違いしているのはそんなことを述べている君の方か。君でないとすると、いったい誰が勘違いしているのだろう。そこには君以外の誰の意識も存在しないはずだ。しかし意識のある場所がそこでないとすると、いったい誰の意識がそれらの文章の構成に介在しているのだろう。それが君でない理由を求めているのだろうか。その根拠は希薄なのかも知れないが、それ以外の何を指し示そうとしているわけでもないらしい。君はそうやってあやふやなことを述べ続けているようだ。それはどのような技巧を使って構築されようとしているのか。どこかの誰かはそれを知りたくなるはずか。だが次第に知ろうとしても知り得ない内容になりつつあるのかも知れない。君の美意識はそんなところにはない。見出された何もかもが虚構である時、その虚構をどう活用すべきなのか、その辺で迷いが生じているのかも知れない。そのすべてを嘘として捨て去っていいものかどうか。しかしそれで何を否定しているわけでもない。それらすべてをいくらでも捨て去ってかまわないのかも知れない。それらは捨てきれないほどのすべてなのだろうか。だがそれで具体的に何を語っているつもりなのか。すべては言葉で示されている限りのことでしかないか。それらが無限ではあり得ない。疲労困憊していて無限の状態にたどり着けないのか。どこにたどり着こうとしているわけでもないのだろうか。それは無理な話でしかないだろう。そこからどうあがいてみても、どこへもたどり着けないだろう。君にはそんな定めがまとわりついて離れようとしないらしい。何をいつまでもまわりくどく語り続けているのだろう。いくらやってもそこから離れられない。虚無が言葉ごときに動じる気配はない。そして君はそれらの文章をまともに読めはしない。定めとはそういうことなのか。そういうこと以外に何がどうなってほしいのか。何を望んでみてもどうにもなりはしないだろう。そういう言葉遣いは好かないか。誰と誰が会話をしているわけでもない。そこには誰もいないことになっているらしい。ではもう理由を求める必要はないのだろうか。もはや何もかもが捨て去られて、存在しなくなってしまったのだろうか。そのときどこからかつぶやきが聞こえてくる。それのどこがおもしろいのか。またタイミングを逸してしまったのかも知れない。しかしそれが語りを見失うタイミングであるはずがない。そこで見失っているのはどんな風景なのだろう。言葉の連なりを断ち切る必要がどこにあるのだろう。終わるはずのない連続を忘れ去ることなどできはしない。だがそこで何が連続しているというのか。わけのわからない意味不明なことを述べているつもりなのだろうか。そんな文章でも継続可能なのか。君にできないことは何もありはしないが、それはすべてフィクションの中での話か。そんな光景を誰に見せつけているつもりなのだろう。何を語っているつもりもないのだろうか。ではそこから次第に遠ざかりつつあるのは誰の意識なのか。もうかなり呆れられているのかも知れない。少し前から精神の集中を保てなくなってしまったらしいが、そうなればいつもの破れかぶれしかないのだろうか。急に心臓の鼓動が激しくなり、何かを否定する仕草を繰り返している。おまえは何を述べているのでもないだろう。何かに見下されているような気がしてくる。何が揺れ動いているのか認識できずに、それが地震だと思うわけもなく、自らが小刻みに貧乏揺すりをしている事実に気づかない。それは誰かが焦っている証拠になるだろうか。君はその真相を知らないし、それを知り得る立場にはないのかも知れない。それらの文章に何が省略されているか、なんて知りたくもないか。そう思う以前に語っているのは君の本心からではないのだろう。その代わりにつかみ所のない話でもしているつもりなのか。だがそれで悦に入ることはできないだろう。はじめから筋の通った話にならないことは承知している。周りの状況と成り行きがそうさせてくれないのか。あるいは自分の側に責任があるのだろうか。どこまで述べても何か到来するわけでもないだろう。そこに見出されているのはそんなことばかりか。そんなこととはどんなことなのか。それをしらばっくれてどうするつもりなのか。何か他に嘘をつく理由がほしいところか。まだ何もないことの理由を求めているのだろうか。それはどこかずれた響きをもたらしていないだろうか。何がそこで外れているのか。そこにぶち当たった感触は何を物語ろうとしているのか。頓死とはどういうことをいうのだろうか。何は動乱でも起こればそういう現象が多くなるのかも知れないが、今の君では何に巡り会う機会ももたらされないだろう。ただ棺桶の中で動かなくなるだけだろうか。どこで間違ったのか気づく暇さえ与えられない。そこでどんな状況を思い描いているわけでもなく、文章がいつもの成り行きに収束しつつあるだけなのだろう。何とか辻褄を合わせたいのだが、君を取り巻く状況がそれを許さない。ただそんな風に思い込んでいるだけで、実際にはどういうわけでもないのかも知れないが、何となくそのままでもかまわないと感じられ、読み返して誤りを訂正する気力を失っているようだ。だからそのままわけがわからなくとも、それで何がどうなるわけがないだろう。そんなことにいつまでもかかずらっているのは時間の無駄か。何かに拘泥することはそれほどまでに厄介なことなのか。いったんできあがってしまったものを元に戻すには、否応なく嫌気の差すような徒労を覚悟しなければならないのかも知れない。そしてもうこりごりだと思いつつも、一夜明ければまた同じことを繰り返しているのだろうか。だがそれが単なる消耗戦だとは思いたくないらしく、無用な戦いを避けながらも、心は虚無の深淵へと誘われているのかも知れない。要するにそこには何もありはしないのだ。


9月22日

 またどこかで躓いているようで、徹底的につまらなくなる。だがそれで逆に何をおもしろがっているのか。特に何をおもしろがらせてほしいわけでもないらしい。意識はそれらの成り行きに乗り切れていないのかも知れない。それとは何の脈絡も感じられない曲は、君の心に何を訴えかけてくるのだろう。彼らはなぜそこで歌わなければならないのだろうか。それが退屈に思われるのだとしたら、それは毎度おなじみのとりとめのなさに由来しているのだろうか。ジャズにはそういう側面もあるのだろう。何が感じられているのかはわかっている。今さらなぜそんなことを語らなければならないのかわからない。だいぶ無為な時間を費やして、つながる見込みのない言葉と格闘しているつもりのようだが、それでも虚無の文章に囚われた心は、何も変わりようがない。変化を望んでいるのはそちらとは違う方面の人々なのかも知れず、それは君とは無関係なことに携わっている者たちなのだろうか。何かのざわめきが遠くから聞こえてきて、たぶんそんな状況を真に受けることができないのかも知れないが、どうもだらけているらしく、それから何をどうやればいいのかわからなくなる。どうしていいのかわからないはずがないだろう。君はそれらの文章についてどう思っているのか。何となく完成させることをあきらめかけているような気がするのだが、何事も為せば成るわけでもないらしく、そこに固定されている物事がそう簡単に変わるわけにはいかないようだ。それらの成り行きは、不動の道筋を通って空虚の谷底へと流れ落ちてゆくわけか。何が流れ落ちてゆくの不明のまま、そこに滝のようなものあることを誰が確認できるわけもなく、そんな妄想の輪郭を言葉によって浮かび上がらせるには、まだ文章を構成する能力に欠けているのかも知れない。なぜそこから言葉が出てこないのだろうか。どうしてその後に文章が続いてゆかないのか。だいぶ前から何も思い浮かばない状態がいつまでも続いているらしく、まだそんなことを述べている自らを訝しく思っている。いったいいつまで同じような内容を繰り返すのか。たぶんその場ではそんな成り行きなのだろう。いったいそこにはどんな意図が介在しているのだろう。そうすることについてどのような思惑があるのか。またそんなことを述べているうちに眠たくなってくるのだろうか。確かにようやく日付的に追いついたが、まだ何をやる気になっているわけでもないらしい。やるべきことは決まり切っているようで、実際にやっていることもあまり代わり映えがしない。なぜそこで言葉の配列が決まってしまうのか、いったいそこでどんな決定がなされているのだろうか。日付に追いついたら、後は遅れるだけということが決まり切っているわけか。誰にそんなことがわかるのだろうか。ただそう思っているだけだろうか。ただそれがわかりきっているというのなら、そんなことはどうでもいいことかも知れない。ではどうでもいいことを述べていることもわかりきっているだろうか。これからもたぶんそんなことを述べてしまうのだろうが、それはこれからやるすべてのことに当てはまるようなことだろうか。状況的にはそんなことしか述べられないのかも知れない。そしてすべてが遅れてしまうのだろうか。何をさっきからまわりくどいことを述べているのか。要するにその状態は長続きしないということか。外は雨が降っているのだろうか。虫の鳴き声がうるさい。実際にはうるさく感じないのに、それ以外の表現を思いつかないのでうるさいと記している。そんないい加減な意識が作用して、いい加減な文章が空白に記される。そんな言葉が繰り返されると、それを記している当人にもつまらなく感じられてしまうらしい。しかもそれしかできないというのだから、なおのこと苛ついてくるか。それを端から眺めている誰かにしてみれば、それでもかまわないのだろうか。どこの誰が困惑していようと、そんなことで継続を中断させるわけにはいかないか。いつの間にか言葉と言葉の間に生じていたらしいきしみがなくなり、緊張感が失せたからそういうことになってしまう。このままでは何も述べられなくなってしまうだろうか。すでに何を述べているわけでもないのではないか。しかしそれで過去に述べた無内容との整合性が保たれているのかも知れない。しかしなぜいつまで経ってもそれが無内容だと思われるのか。そこに何らかの内容が出現していることに気づいてしまうのが怖いのか。どこに何が出現しているというのだろう。君はまだその出現に気づいていないつもりなのか。それに気づかぬうちにまた翌朝が来て、明日になってしまったようだ。どうも日付に追いついたのはほんの一瞬だったらしい。結局はまた遅れてしまったようだ。遅れながらもかろうじてそこで踏みとどまることができるのだろうか。それはやってみなければわからないのではないか。実際にやっている現状がこれなのか。また何かの言い訳が始まっているのだろうか。うまくいかないことの恨み辛みが延々と続いてしまうのかも知れない。そんな状況に精神が耐えうるはずがないか。ではどうすればいいのだろうか。どうにもできずにまた元の木阿弥に戻ってしまうわけか。そうなってしまったらおもしろいか。どこの誰がおもしろがっているのだろう。他人の不幸に喜んでいる輩は許せないか。それが世の中というものだろう。それ以上でも以下でもないのがこの世界なのではないか。しかしそれでも君は等身大の自己を認められずに、肥大して膨張し続ける自らの妄想に付き従うことになるのか。それが君が望むことなら致し方ないだろう。具体的に何を望んでいるのだろうか。自らがどうなることを欲しているのか。ただそんな状態から抜け出たいだけなのか。しかしどうなればそこから抜け出られたことになるのだろう。いったいどのような結果がもたらされたら、それが望んで得られた結果になるのだろうか。そんな結果など現状ではあり得ないだろうか。自らが何を望んでいるのかがわからないか。どうなってほしいのだろうか。将来に向けて明確なビジョンなどありはしないのが普通なのか。ただ普通に生きているだけで、何ら特別なことをやっているわけでもない。それではなぜだめなのかわからない。理由など何もないような気がしてくる。たぶんそこに自らの意志は存在しないのではないか。絶えず何かをやろうとしているのかも知れないが、そのやろうとしていることが、結果を求めていることとは違っているのだろうか。何となくやっていることに結果などついてくるわけもないか。それはただの継続に違いない。ただ執拗に続けているだけなのかも知れない。それは結果にたどり着けない試みのようだ。それで良いか悪いかは判断を保留するしかないが、ともかくそんなことをやっている現状があるのだろう。


9月21日

 なぜ無理だとわかっていてもその先に言葉をつなげてしまうのか。これ以上ありもしない話をでっち上げたいわけでもないだろう。誰かは本当にあり得ないことを述べていたいのかも知れないが、それらの内容の何があり得ないのかわからない。執拗にそんなことばかりを述べていると、ただやる気が失せてくるだけだろうか。やる気がなくなったらそこで終わりとなってかえって好都合か。つまらぬことを考えるものではないか。やはり何を述べているのかわからない。そのときの気まぐれで、思いついたことを文章にしようとすると、とたんに別の心がそれに逆らってきて、それとは矛盾するようなことを述べようとしてしまうらしい。それが今日思いついた嘘なのだろうか。それは昨日も聴いた曲だろう。曲と嘘は関係ないか。それが嘘でないのなら作り話になるだろうか。作り話とは何なのか。意味不明なその中では何かが角張っているらしく、その角張った角に頭をぶつけてしまって、そこから意識が飛んでしまったのだろうか。さらにわけがわからないか。そんなフィクションではだめだろうか、まだ語りの端緒を見出せない状態であり、何がだめなのかまだわかる段階ではないと思うが、何となく誰かはそれとは違うことを述べようとしているらしく、今述べたことを取り消したいのかも知れないが、君はそれで何を述べているつもりなのか。それはいつもの無内容に違いないが、見上げれば相変わらずの曇り空のようで、本当に今日は日付的に今日なのか、それに関して若干の疑念を抱いているようだが、本当に今日は今日なのか。今日が今日であることが信じられないのか。たぶんそれ以上はやる気がないので、それらの文章の完成は明日にずれ込んでしまうのかも知れないが、今この時点では確かに今日らしい。それは驚くべきことだろうか。数週間前の段階では考えられなかったことかも知れない。しかしそこから何をそんなに努力してしまったのだろうか。取り立てて何か報いがもたらされているわけではないのにもかかわらず、平然と努力してしまうことが不思議に思われるか。無駄な努力もすれば気晴らしぐらいにはなるのかも知れず、馬鹿げたことを繰り返すだけでも気楽になってしまうのだろうか。そんな自らの愚かさを自覚することが、それほどまでに肝要なのだろうか。その愚かな状況から脱して賢くなろうとは思わないのか。それが世に蔓延っている愚か者の目標となっているのかも知れないが、その目標という言葉を使用しただけで、急にその目標に逆らいたくなってくるのは、自らがひねくれ者である証だろうか。では愚かなひねくれ者はさらに愚かになろうとしてしまうのだろうか。どうやったらもっと愚かになれるのだろう。それは賢人が冗談で思うことかも知れないが、とりあえず信じられないくらいに賢くなったら、その反動で救いようのない愚かさを身につけることができるのかも知れない。しかしそれはどういう論理なのだろう。単なるでたらめだとは思うが、賢い人ほど逆に愚かさに最も近い場所にいるのかも知れず、またその人の状態が愚かであったり賢くあったりすることが、その人にとってはかなり危険な状態にあるのかも知れない。あまり普通の状態からかけ離れてはいけないということか。しかし普通の状態ばかりでは退屈だから、人は絶えず愚かさや賢さのどちらかへ振れる傾向にあるのであり、要するに無意識のうちに人は賢さや愚かさを身につけて、それらの行き過ぎによって自らの破滅を求めていることになるのだろうか。自らの努力によって賢くなろうとしたり、逆に怠惰によって愚かになってしまうことで、人は絶えず自らの身を危険にさらし続けていることになるのかも知れないが、危険を冒さないと、それ以上の状態を身につけることは不可能なのかも知れない。そこで命がけの飛躍を試みないと、その状態にとどまり続けることになってしまうのか。そこで終わりとはそういうことなのだろうか。では終わらないためには絶えず何かにチャレンジし続ける必要があるわけか。何かそれはスポーツの論理に似ていないか。何となくスポーツという言葉を聞いただけで嫌な感じがしてしまうだろうか。ではやはりそういうやり方は避けて通るべきなのか。避けて通れるわけがないか。何かをやろうとすれば、必ずそれをうまくやろうとするために向上心が生まれ、その向上心に引きずられながらの無理な努力や、その結果として生じる、向上心に負けてしまう挫折を経験するしかなく、そうなって初めて、それが身を削るような消耗作用を及ぼしていることを思い知ることとなり、やればやるほど自らを死に近づけていることに気づくだろう。そこから逃れる術はないのだろうか。しかしその成果としてもたらされる富や栄誉に救いを求めることは、慎まなければならないだろう。それでは世の中を支配する制度の思うつぼなのではないか。富や栄誉という餌に飛びつこうとする人々を糧として成立しているそれらの制度は、そこで熾烈な競争を繰り広げる人々の激しい生き様を顕揚しつつ賞讃しながら、競争に敗れ去った者たちの犠牲の上に自らの繁栄を謳歌する、という恐ろしい仕組みを見せびらかしながらも、刹那的な衝撃力を求める浅はかな人々を魅了しているわけだが、それらの人々をいくら非難したところでどうなるわけでもないか。そこに言い訳など何もありはしない。それは人を魅了するために開発された動作なのだから、人々はそれを見て感動するしかないだろう。それらの人々がそこから抜け出ることは不可能なのであり、別にそれらの人々に落ち度があるわけではない。それどころかそれは当然の行為なのかも知れず、それに異を唱えること自体が間違いなのかも知れないが、ここは積極的に間違ったことを述べておかなければ、ひねくれ者の虫が治まらないだろう。何を述べてもかまわないのなら、結局は世の中の流れに逆らうようなことを述べるのが、当然の成り行きなのではないか。そうでなければ、なぜわけのわからないことを述べているのか、その根拠や理由が皆無となってしまうか。もちろんそんなものなどもとからありはしないのだが、何となく他人のやっていることにけちをつけなければ気が済まない性分なのかも知れない。しかしそんなことをいつまで続けられるのか。現にここしばらくは何も続けていないのではないか。すべてがどうでもいいことに思えてきて、何を語る気にもなれなかったのではないだろうか。なぜここに来て急に反社会的なことを語る気になってしまったのだろうか。単なる偶然にもたらされた気まぐれの一種だろうか。しかしそれで何かおもしろいと思ったか。中途半端に尻切れとんぼ気味な印象を受けるだけか。それでかまわないのかも知れない。それもすべては冗談の一種なのだろう。あり得ないことをつかの間述べてみただけなのか。


9月20日

 そこにどのような思想が隠されているのだろう。隠されているものを無理に探り当てようとは思わないか。隠されているのなら隠されたままでいいのではないか。そんな思想など知らなくてもかまわないか。誰がそれに興味を持っているのでもなさそうに思われるが、それを知るには様々な経験が必要なのかも知れない。ではいったいそれはどんな経験をした後でしか知り得ないのか。そこで言葉に詰まってしまうだろうか。すでに何か経験しているはずだろう。そして思想などありふれているだろうか。そう述べてさっさとそこから逃げ出そうとしているらしい。空が曇ってきたようだ。曇りがちな心にはうってつけの天気かも知れないが、誰の心が曇りがちになっているわけでもなく、空模様に逃げたつもりになっても、後から誰かの思想が追いかけてくる。そんなわけはないだろう。そして何から逃れようとしているのか不明確なような気もしてくるが、何を述べているのか曖昧なままにしておいていいのだろうか。曖昧にしておかなければその先へ進めないのかも知れず、何かを明確に断言したらそこで終わりなのかも知れない。では君はそれらの語りが終わらないように、あえて不明確に語り続けているわけか。しかしそうやってその場での状況を明確に説明しようとしているのではないか。だが話が矛盾しているはいつものことだろう。説明している内容が明確だろうが不明確だろうが、そのどちらでもかまわないのもいつものことか。そしてそれによって何を語ろうとしているのでもないのもいつものことだ。しかし何を断言しているのか。断言したらそこで終わりではなかったのか。それが終わりなら終わりと呼んでかまわないのではないか。終わった後からまた話を再開させればそれでいいことか。だがそれではそこで終わりと断言したことが嘘にならないか。嘘であってもかまわないか。語るに際して何を述べてはいけないかの禁止事項など何もありはしないのだから、それが嘘であろうが本当であろうが、どちらでもかまわないということもいつも通りなのだろう。どんなに工夫を凝らして言葉の配置を変更しても、結局は以前と同じようなことを述べているわけか。それで工夫を凝らしていることになるのだろうか。まだ工夫が足りないか。しかしそこからどうやって語りを続けていこうとしているのか。そんな心配など杞憂に終わってしまうのかも知れず、続ける意志さえあれば内容はどうあれどうにでも続けていけるのかも知れない。要はそのときの気分次第で、機会が巡ってきていることを感知できるかどうかということかも知れない。何かを述べる機会などいくらでもありそうだが、それを感じ取れないことの方が多いのかも知れない。そして何を述べるにしても、そのときの気分次第で内容はいくらでも変わってきてしまう。それは何を思うかどうかということよりも、どれほど思いもしなかったことを語れるかどうかで、それを記したり読んだりした後で感じる驚きにも差が出るだろう。なぜそんなことを述べているのだろう、と感じてしまうことが、少しは自ら述べたことに驚いている証となるだろうか。しかしそれでどうなるというのか。単に自らの記した文章に驚いているだけでは不満なのか。ではどうすればいいのだろう。面倒なのでどうもしなくてもかまわないか。しかしどうもしなければ何の驚きももたらされないのではないか。別に自らの記した文章にいちいち驚かなくてもかまわないだろう。驚いているだけでは不満なら、今度は驚かなければいいということになるらしい。そんな結論はごまかしに過ぎないか。しかしそこでごまかさないと、その先に話を進めていくことが困難になってしまうかも知れない。しかしそうまでして話を進めていく必要がどこにあるのか。そんな話ならもう結構か。くだらぬことを語っているうちに、呆れてものもいえなくなり、次第にその呆れも通り越して、あきらめの境地に達してしまうだろうか。そうなったらなったで、それも結構なことだろう。どのような結果に導かれようと、それは以前に至った道筋に過ぎないか。しかしすべての結果が想定の範囲内だとすれば、もう君は何に対しても驚かなくなってしまうだろう。何かを語ってきたことの結果として、そうなってしまったのだとすれば、それはそうなっても本望だとでも悟れば気が済むことか。はたしてそれでかまわないのだろうか。何がかまわないのか理解できないか。結果のすべてが想定の範囲内であるはずがないか。そう思い込むことは可能かも知れないが、現実にはそうはなっていないのであり、君はただそれらがもたらす驚きを無視しているに過ぎないのかも知れず、見て見ぬふりをしているがごとくに思っているのだろう。そんなことが可能ならおもしろいか。あるいはそれは見え透いた嘘で、それらの言説はすべて仮定の範囲内で、実際にはそうならないことは百も承知なのか。要するにそんな風に述べてしまえることも想定の範囲内なのだろうか。それらの言説のどこに真実があるわけでもないか。ではもう何を述べても無駄なのだろうか。なぜそんなことを思うのだろう。あるいは思っているのではなく、思いもしないことを述べているだけなのか。そのどちらでもかまわないし、どちらでなくてもかまわないのだろう。やはりそんなことはどうでもいいことなのか。どうでもいいこと以外に語れないのだろうか。まともなことを述べるだけの余裕がないか。ここは余裕などあった例しがないと嘘をついておこうか。なぜそうやって気まぐれに話の辻褄を合わせようとするのか。それでうまくいくような気がするだけか。何がうまくいくのかわからないが、とりあえずは言葉がつながっているらしい。しかしそれで満足できるだろうか。不満ならそこでやめてみないか。やめる勇気もないのに、満足も不満もありはしないか。だが勇気と満足か不満かとの間にどのような関連性があるのだろう。それは意味不明で驚くべき文章だろうか。誰が何に驚いているつもりなのか。君はそんなことでは動じない神経の持ち主なのか。今度は誰に問いかけているのだろう。君などいくらでも存在可能であり、その中の誰が本当の君であろうと、本当の君にどのような言葉を投げかけているのでもないような気がする。それらは他の誰にも向かわずに、ただ自らの内で循環し続ける言葉でしかないのではないか。それらの言葉の連なりは誰にも到達し得ない文章でしかないのかも知れない。だからすべてが予定調和に感じられてしまうのか。やはりそんな文章では気に入らないのだろうか。気に入らなければどうするのだ。意に反してそこでやめるつもりなのか。そんなことができたらおもしろいだろうか。おもしろければそれでかまわないわけではないか。ではその他に何が必要とされているのだろうか。それではつまらぬ台詞の寄せ集めになってしまうか。


9月19日

 それは何の比喩でもなくようやく目が覚めたようだ。しかし目が覚めたからといって何をやるわけでもない。ただ自らの目を覚ましたかっただけなのか。自らの意志で目を覚ましたわけでもないだろう。では偶然に目が覚めて、それに付随する意識を適当にねつ造しているだけか。その辺に自らの意志が作用しているわけか。だが意識にはそんなはずがないと思われるのはどうしてなのか。わざと話をこんがらがせて何かを語ったつもりになりたいのかも知れない。しかしすでにそう語ることがわけがわからなくさせている。そこからさらに述べると、何がわけがわからないのかわからなくなっているようにも思われてきて、結局話の内容を意味不明に導きたいのだろうか。別にそうしたいわけではなく、何となく思いがけなくそうなってしまっているのかも知れないが、なぜかそのような成り行きが予定調和に思えてくる。そんな風に述べながらも、まだ何も述べていないような気がしてきて、その場の即興で何か適当な話の内容をねつ造しようとするが、すぐには何も思いつかずに、結局その試みは挫折してしまっているような気になるらしい。気づいてみるともう朝が来ているようだ。それは何かの事実だろうか。いつの間にか意識は現実の世界に戻っているのだろうか。しかしさっきまでいた場所は何だったのだろう。目が覚めていたのだから夢の中ではない。どこかあり得ない場所について語ることができるだろうか。それは妄想の類になるのかも知れないが、例えば見ている映像の中にいるような気になれば、そのような気分でいられるかも知れない。では君はその場の気分で何かを語っていることになるのだろうか。そうだったら気が楽になれるだろうか。しかしなぜそこでリラックスしたいのか。君はその場に何をもたらしたいのか。それはいつもの文字列でしかないのだろうか。そんなものを誰が読みたいのか。君はそれを読みたいとは思わないのだろうか。読めない文字列を読もうと試みているわけでもないだろう。そんな難しい文章ではないはずか。それほど難しいことを語っているわけではない。誰がそう思うだろうか。まだ読みもしていない文章について何を思えるのか。本当に何を述べているつもりなのだろうか。そんなことがわかるわけがないか。では自分でもわからないことについて述べているつもりなのか。そうだとしたらおもしろいだろうか。しかし何がおもしろいのかわからないだろうか。わかるはずのないことがおもしろいわけがないか。ではそこからどうしたらいいのだろう。気分的にはそれで楽になるだろうか。わからないと気分が楽なのか。ではわかってしまったらどうなのか。未来永劫わかるはずがないと高をくくって述べているのだろうか。何となくそれがわからなくてもかまわないのかも知れない。かまうかまわないの問題ではなく、もとから問題など何もありはしないのだが、何か適当な問題をねつ造したくて仕方がないのかも知れず、何か事ある度に前言を否定したくなってしまうのかも知れない。それが実感として何も述べられない原因だろうか。ではそれにどう対処していくつもりなのか。それをそのままにしておいてかまわないのだろうか。そんなことを考えているうちに、君の思いとは無関係に勝手に文字が連なってしまうか。そんな風にしてそれは誰が記しているのでもない文章になってしまうのだろうか。本当にそうだとしたらおもしろいだろうか。また君はつまらない嘘をついていると言いたいのか。誰がそれを言いたいのかがわからない。それもいつもの嘘かも知れない。どこまで述べてもそれは嘘なのだろうか。案外それを読んで誰かは破滅に追い込まれているのかも知れないが、それはあらぬ想像の類だろうか。面倒なのでそこから先は述べずにおきたいのだが、たぶん嘘なのかも知れない。さっきから嘘ばかりついているように思われる。それで何を述べていることにもならないのかも知れないが、とりあえずそんな文章になりざるを得ないようで、それを受けいるかどうかはそれを読んでいる者に任されているのだろう。君にとってそんなことはどうでもいいことなのか。どうでもいいのならそれに越したことはないのかも知れないが、何となくそんな気分から虚しさが漂ってくるのはどうしたわけなのか。それが何の達成感ももたらされないような文章だからか。それでもかまわないと思っているのかも知れないが、誰がそう思っているのかはわからないままだ。ため息交じりに何を思うわけもないが、それでも何かの成り行きに従って述べているのかも知れず、そのよくわからない成り行きに身をまかせているうちは、そのままの状態で状況は推移してしまうのだろうか。それでよければ誰も苦労はしないか。だがそれではよくないと思ったとたんに、その先はどうなってしまうのだろうか。誰もついてこれないようなことを語ってしまえるだろうか。それは具体的にどういうことなのか。何をどうすればそうなれるのだろうか。そんなことがわかるはずもなく、それがわからない理由を求めようとはしないか。ことさらに何を述べたいわけでもないらしいが、では何を述べたいのかを問うなら、そこからは何も答えが導き定されないような気がしてくる。やはり何を述べているわけでもないらしい。相変わらず何も述べずに文章を構成しているようだ。そんな芸当がはたして可能なのか。現実にはそれが不可能だとすると、君はまた嘘をついていることになる。しかし何もかも嘘で片づけていたら、そういうやり方も嘘になってしまうような気がするのだが、本当のところはどうなっているのか。嘘だとか本当だとでは、そんな言葉からは実態が何も明らかにならないだろうか。ではどのように語ればいいのだろうか。もうすでにかなりの分量を語り続けているのに、今さらそれはないだろう。いくらそんなことを述べても語っている現状に変わりはない。そのままどこまでも語り続けてしまえるのかも知れないが、それでどうするのだろうか。本当にそのままでかまわないのか。もちろん誰にそんなことを問いかけているわけもなく、それはただ文章上での煩悶に過ぎないのかも知れず、それを述べている不在の本人が本当に悩んでいるわけでもない。要するにそういう述べ方が確立されてしまっているのかも知れない。何もないのにその何もなさについていくらでも説明できてしまえるわけだ。やはりそれでは何を述べていることにもならないのだろうか。そんなのもここではありなのだろうか。実際にそう述べているのだから、それはそれでそういうことでしかないのかも知れないが、たぶん君はそれが気に入らないのだろう。できることならもっと具体的な内容で語ってほしいか。だがいつまでも無い物ねだりをしていても仕方がないか。そこにあるものといえば具体性の不在だけなのかも知れない。


9月18日

 それらのどこに秘密があるのだろう。それを知っているのにわからない。知っていながらわかろうとしていないのかも知れない。いつまでそんな状態を保っているつもりなのか。何かが消え去ろうとしているのか。それはいつかの経験から生じている言葉かも知れない。何を覚えているわけでもなく、そこから何を知り得たわけでもない。ただそんな風に存在しているだけか。何を導けるわけもないか。そうなるには何が必要なのだろう。何が必要とされているわけでもない。それを知るためには知識など必要ない。ただ知っていることだけが知ることになるのだろうか。何を知っているわけでもないのに、知ろうとしているらしい。知ることは不可能なのではないか。そしていったんそれを知ってしまったら、何も知らないことになってしまう。またいい加減な嘘をついているのだろうか。誰が嘘をついているのか知りたくないか。嘘に関する言説をずらし続けようとする。あてもない道行きに導かれたいのか。それはどういうことなのだろうか。ただの迷路に過ぎないが、そこから抜け出ることができずにいるだけか。別に道に迷っていてもかまわないのかも知れない。今の君にとってそんなことは知ったことではないか。優先されるべきなのは、迷いから解き放たれることではなく、迷い続けながらも言葉を記し続けることか。しかしそんなことを述べても無駄だろう。それが何のためになるのかわからないか。たぶん何のために述べているのでもなく、何のために言葉を記しているのでもないのだろう。そんなことははじめからわかりきっていることか。また何を述べようとしていたのか忘れてしまったらしい。それはその場つなぎの嘘なのではないか。君はその先が見えていないようだ。それもその場しのぎの嘘か。何も見えていないわけではないだろう。見えているものに興味を持てないだけか。見たいものが見えていないのかも知れない。あるいは見たいものすらないのか。それでは何のために生きているのかわからないではないか。だからさっきから何のためでもないと述べているではないか。どうやらその辺で言葉が行き詰まってしまうのかも知れない。何のためでもない文章などあり得るだろうか。君には述べたいことがないのか。それがあれば苦労はしないか。明確な目的は何もなくなってしまったのかも知れない。だが今さらそんなことを述べてどうするのだろう。いくらわかりきったことを述べ続けても、同じような言説の繰り返しになるだけか。ではそこから何をどうしたいのか。それがわからないのならば、そうなり続けるより他になり得ないのではないか。それはおかしな言い草だろうか。何を述べているのでもないのだから、そんな風になるより他はない。それが嫌なら唐突に何を思いだしたつもりになれるだろうか。それでも道が果てしなく続いているつもりになれるか。だがそれが何の道なのかわからない。君は何をとぼけているのか。何か得体の知れない状況に到達したいのではないか。そこで何らかの達成感を得たいのではないか。しかしそれが何だかわからないことに変わりはないだろう。いくら述べても明らかにはならないのかも知れない。それをどこまでやってもそのままなのか。そこから何を語っている状況に持っていきたいのかも知れないが、それらの試みのことごとくは失敗に終わっているのかも知れない。そうなってしまう原因は、何も語りたくないのに語っていることにあるのかも知れないが、それ以外に何をどうしたいのかわからないか。それらのどこにも抜け道はないのかも知れず、通り抜けられないのに無理矢理通り抜けようとしているだけなのかも知れない。それはどういうことなのだろう。そんなことはすでに述べたことではないか。いつものように何を述べているわけではないらしい。それとも何か述べているつもりなのだろうか。気の利いたことを述べているわけではなさそうだ。またいつものつまらない冗談なのかも知れないが、まだその状態を保とうとしているのだろうか。いつものパターンにはまっているようだ。それで何をやっているつもりなのだろう。未だに何かを述べているらしいが、本当にやりたいことはそれではないような気がしてくる。どこかへ旅立たなければならなくなっているのかも知れない。そうする理由は何も何も思いつかないが、そこから遠ざからないと何も見えてこないのかも知れない。だいぶ以前から何となくそんなことを思い続けている。だが別にその理由を求めているわけではなく、そうなるきっかけを探しているわけでもない。たぶん忘れた頃にそうなってしまうのかも知れない。偶然に何もかも忘れ去ってしまうことを期待しているのか。そのきっかけは永遠にやってこないだろう。なぜ期待を打ち消すようなことを述べるのか。別の誰かは本当にそうなってしまうのが気に入らないのだろうか。何をそんなに恐れているのか。継続が途切れてしまうのは受け入れがたいのか。しかしそれは何のための継続なのだろう。そう述べてまた不在の目的に突き当たってしまうらしい。何のためでもなく、目的など何もありはしない。そしてそれが白々しい嘘だということもわかっているようで、その嘘を打ち消すためには、やはりそこから可能な限り遠ざからなければならず、そうしなければまともなことは何も述べられないのだろう。なるほど嘘を打ち消すためにそこから遠ざからなければならないのか。遠ざかるとはどういうことなのだろう。すでにそこから遠ざかっているではないか。かなり遠ざかっている。遠ざかりすぎて何から遠ざかっているのかわからなくなってしまったらしい。実際にそんなことがあり得るのだろうか。別にそれほど嘘をついているわけでもないらしい。いくら嘘をつこうと、そんなことはどうでもいいことか。それを真に受けることの方が馬鹿げている。だが冗談でそんなことを述べているわけでもないらしい。そんなことを繰り返して何になるというのか。君はいつからそんなことを述べるようになってしまったのか。立ち直る機会を完全に見失っている。そのタイミングを逸して、どこまでもそこから遠ざかっていってしまうだろう。時間を元に戻すことはできないらしい。では君はその後の時間をどのように活用すればいいのだろうか。そんなことを誰が知っているわけでもない。誰も知りはしないことを知りたいか。何を知ろうとしているわけでもないだろう。ただそこで何かを述べようとしているだけか。まだそんなところでねばっている。いくら言葉を連ねてみても、それ以上は何もできはしないか。そこから何ができるとも思わない。本当は何もやっていないのではないか。それでも何かしらやっているつもりなのか。今何かを思い出しているところか。急に何を語りだしているのだろうか。それはいつもの意味不明とどう違うのか。


9月17日

 まだあきらめてはいないようだが、いつまで経っても躓いてしまうのは仕方のないことなのか。また何も思いつかず、その代わりにどうでもいいようなことを述べてしまいそうになっているのかも知れないが、何となくそれでもかまわないように思われる。いくら述べてもまともな内容にはたどり着けそうもない。そしてでたらめな文章をまともに修正する気が起こらない。なぜいつもそこに戻ってきてしまうのだろうか。その状態はそれでもう終わってしまったはずなのに、何かこの世に未練でもあるのか。いったい何が終わってしまったのだろう。それはわざとらしい問いかけになるだろうか。わかるはずのないことを問いかけてみても仕方がないか。性懲りもなく嘘をつくとすれば、誰かは病を克服できずに死んでしまったのか。しかしそんな嘘が誰に当てはまるのか。つまらない冗談はもうやめにしないか。そんなわけでなぜそうなってしまうのかわからないが、とりあえずまだ堂々巡りは終わっていなかったようで、何が終わっていないのかわからないままに、ただそこには以前と同じような言葉が連なっているらしい。それでも日付的にはだいぶ今に近づいてきたようで、何となくそのまま続けていれば、遅れを解消できるかも知れないが、そんなやり方で時間に追いついてどうしようというのか。そこから何をやろうとしているのだろう。惰性で続けていることに何の意味があるのか。遅れを取り戻すのがそんなに急務となっているのか。その状態が気に入らないというのなら、いったい今後それらの文章がどうなれば気が済むのか。将来のことなどわかるわけがないが、君はそこからさらにいい加減な言葉を積み重ねて、さらに救いようのない愚かさをその身に纏うつもりなのか。だがそんな貧相な言語表現では歯止めにならないだろう。そんなことをやって何を阻止しようとしているのか。それが終わりであるはずがないが、そのような状況について何を思わないのか。何を思えばいいのかわからないのだろうが、なぜ何も思わないのに言葉を連ねようとしているのか。もうそんな述べ方はうんざりするほど繰り返されてきたような気がするのだが、まだその続きがあるのだろうか。まったく強情にも程があるが、その無表情からは何も読み取れない。しかしそれは昨日の話だろう。今は別にそんな話をしたいのではないし、またそこから抜け出ようととも思わない。賽はとっくの昔に振られていて、後は出た目の数だけ進めばいいだけなのかも知れない。しかし誰が双六をやっているわけでもない。そんなことを述べながらも、君はまだ至って正気でいるつもりのようだが、端から見ればどう思われているのだろう。誰がそのありさまを見ているわけでもないだろう。また別の誰かが見ようとしているのも、そんなものではないはずで、多くの人々はそれとは関係のない光景を眺めている。それはこの世に存在するものなのだろうか。それはその人なりに経験し続ける日常の光景なのだろうが、君はそんなものを取り去った後に出現する空虚に興味があるようだ。それは言葉では言い表せないような状況なのかも知れない。取り立てて何を思っているわけでもないのだが、それでも何かの存在を感じ続けているらしく、そんなわけのわからない思い込みに果てはないようだ。いくらそんな風に思い込んでみても物足りないのではないか。人間が感じ取ることのできるものは限定されている。その限定された存在に興味を持てないのはどういうわけなのか。それだけでは何も解決しないからそう思うのか。ではそんなことは思わない方が身のためか。身のために思うことなど何もありはしない。何かを思うことは、それによって気分を害することにつながってしまうのだろうか。もしそうなってしまったら、誰も幸せになれないではないか。では一方の心の内ではそんなはずはないと思い続けたらいいのか。しかしそんな風に思ったからどうだというのか。たぶん何をどう思ってみてもどうもしないのだろう。どうにかなってしまうのが面倒なのか。それが面倒なら何も思わなければいいだろう。そんな風になるはずがないか。何がどうなってほしいのかわからなくなる。そこで思考が瓦解して、言葉がどこかへ散らばってしまうようだ。文章が意味をなさなくなるように心がけているのか。それではまるで君の考えていることがわからない。影はそれについて何を思っているのだろうか。何かしら思っているのだろうか。それを言葉にして出力してほしいか。言葉を慎重に選んで、どうでもいいような内容にしなければならない。それが望まれた結果ならそうせざるを得なくなる。そこから話をずらそうとしているようだ。話をはぐらかそうとしているらしい。そうまでして嘘をつきたいのか。わざとらしく何をそうまでしているのだろう。さっきの話はどこまで進んでいるのか。さっきの話とは何なのか。すでにさっきとは別の話になっているのかも知れない。君がそんな成り行きが気に入らないことは承知しているが、予定調和的にまとめる以外に、話の出口が見つからなくなる。君はそんなやり方に我慢できないようだが、本当にそんな成り行きは許されざることなのか。誰も何も許してくれないような状況だと思われるのだろうか。それでもそのままの姿勢を保っていなければ気に入らないのか。しかし道はいくらでもあるだろう。それらの道をどのように進んでいこうと、それは誰かの勝手だろう。君はそこで何を述べているのだろうか。誰が道の話をしているのか。たぶんいくら試みてもそこを突破できないだろう。そこから強引に語ろうとしても、使える言葉には限りがある。その場の成り行きに沿った内容でないと意味不明になってしまうか。だから君は適当な言葉が思い浮かばずに困り果てているのか。しかしそうなることを悟ったのはいつのことなのか。そんな無駄話でもかまわないが、できることならもう少し素直に語れないものか。無理を承知で何を遠回しに述べているのだろう。それほど無茶なことを述べているとは思わないが、そういう語り方がかなり無茶なのではないか。これまでに何かを述べることで、嫌な思いを数知れず体験したようだが、だかといってそんなにひねくれなくてもわかることだろう。何を特権化したいわけでもないが、特定の出来事について語りたくはないようだ。そこで何を述べたいわけでもなく、ただ何かしら述べていたいだけなのかも知れない。もはや述べるために必要とされる対象などあり得ないか。君はそんな風に語りたいのではなく、そんな風に語っている現実がそこにあるだけなのかも知れない。君が何を意図しているわけでもなく、思惑の外で何かが述べられているだけか。しかしそんな無理なことを述べても何にもならないのではないか。普通に述べることができればそれに越したことはないだろう。


9月16日

 一度言葉に詰まるとその後が続かなくなる。さっきから何かの深みにはまっているのかも知れない。述べていることが意味不明になっているだろうか。わけがわからないのはいつものことだろうが、また闇雲に何を語っているつもりなのだろうか。時にはだるそうに何か述べているようでいて、何となくその場には投げやりな雰囲気が漂っている。やる気がないのもいつものことだろうが、今回はそれに上乗せして、無駄で無意味な問いかけが延々と続いているらしい。やりにくそうに言葉を操作しているようで、なぜそうなってしまうのかはよくわからないが、すでに何かを述べる前から話が破綻しているようにも感じられる。しかしいきなり君は何を述べているのだろうか。何かはじめから破れかぶれのような気がするのだが、そうなってしまう原因を今ひとつつかみ切れていないようだ。だが原因を突き止めたところでどうなるわけもないか。話的にはわけのわからない成り行きになっていて、それ以上は語る気がないようにも思われ、そこで語りが途切れようとしているのかも知れない。なぜ続けなければならないのだろうか。そんな風に思うようならもうだめなのかも知れない。だが何をあきらめかけているのだろうか。一方ですべて予定通りに話しにが進んでいるようにも思われる。それは本当のことなのか。何を疑おうとしているのか。バランスが崩れているのかも知れない。それは何のバランスなのだろうか。なぜやり直そうとしているのだ。せっかく書き記した文章を削除してしまっていいのだろうか。言葉のバランスを気にしているだけでは、文章の仕上がりからは程遠いか。いつまでも試行錯誤を繰り返している余裕はないのではないか。どこかへ散り散りに離れていったそれぞれの思いを、今さら寄せ集めて一つにまとめようとは思わない。ここには君しかいないわけではないはずだ。では誰を捜し求めているのだろう。それとともにどんな物を探しているのか。何を取り戻そうとしているのか。腕時計のメッキがはがれている。錆びついて汚れた表面を眺めながら、何を空想しているのか。なぜそこで挫折してしまったのだろう。わざと挫折を装っているわけでもなく、本当に挫折してしまったのだろうか。そんな嘘をついて何が楽しいのか。具体的にどんなことをおもしろがっているのだろうか。それについて何も語ろうとしないのはどういうわけなのか。もとからそんなものなどありはしないからか。だから嘘をついていることになるのだろうか。分岐点はまだ先になるのだろうか。君は迷路の中で分かれ道を探しているのかも知れない。さらに迷うために自らの方向感覚をわからなくさせて、さらなるでたらめな道を進もうとしている。どうしたらそんな成り行きへ持って行けるのだろう。なぜそこを抜け出そうとしないのか。今の君は迷うことしか知らないようだ。他に何を知ろうとしているわけではない。わざとわけのわからないことを述べようとしている。それが話をつまらなくしている原因かも知れない。もういい加減に目を覚ましたらどうか。今こそその場限りのごまかしから決別すべきなのか。確かにそこから立ち直るきっかけはまだつかめていないようだが、それは違うと思う。まともな文章にしようとすることの何が間違っているのだろうか。誰が何を求めているわけでもないのに、いったい君は誰に戦いを挑んでいるのか。まったく戦っているつもりになれないのに、なぜそんなことをやっているのだろう。やはりそんなことを述べても何もできはしないのか。別に真夜中に何をやろうとしていたわけでもないが、見上げれば夜空に月が輝いている。それは今から数時間前のことか。今は何を見ているわけでもない。確かフィクションの中ではまだつまらない戦いが繰り広げられており、それを見て誰かが感動しているのかも知れないが、それで誰が何を見ていることになるのだろうか。それはただの人畜無害な幻影だろうか。画面上の何に感動しようと、それだけでは人は動かない。言葉によって人を動かそうとする試みこそが有害きわまりない。そして有害であるからこそこの上もなく甘美なのかも知れない。そんな心地よい言説に騙される人々は浅はかなのかも知れないが、多数決を取れば騙される人の方が圧倒的に多いのかも知れない。何でそうなってしまうのだろう。そんなはずではなかったのに、結果的にそうなってしまうのはどうしてなのだろうか。しかし今さらそんなことを述べてどうするのか。君はまだ何も述べていないのではないか。君自身の主張は何も示されていない。君にしてみれば、どこかでタイミングを見計らって自らの考えを述べるつもりであったのかも知れないが、たぶんどこかで成り行きが変わってしまったのだろう。誰かは好きこのんで月の話やフィクションの話をしているわけではない。では話をそこで終わらせようとしているのか。なぜそこで終わりの話に近づこうとするのか。終わらせる理由など何もないはずか。確かにそこには夜明け前の薄暗がりがある。急に風が吹いてきて、それに気づいた誰かは、鶏の鳴き声とともに話をそこから逸らせて、またいつものパターンに持っていこうとしているのか。あるいは虚無に飲み込まれて何も語れなくなってしまうのか。別に言葉の装飾美を追究しているわけではない。何を飾り立てているわけでもないだろう。ではもう一度まともに語るチャンスを与えてくれないか。誰に語りかけているのか。別に今から何を語りたいわけでもないが、それでもそこから適当な文章が生み出されてしまうように思われ、そんな思い込みに突き動かされて、無意識のうちに何かを述べている風を装っているようだが、相変わらずそうなる理由は何もないようだ。今のところは理由が見つからないだけか。たぶんその辺が分岐点になっているのかも知れず、そこから逸脱するならば、ありもしない理由を利用しているつもりになって、今までとは微妙にニュアンスの異なることを述べられるかも知れず、現に述べようとしているらしく、まだ何を語り始めたわけでもないが、どうしても語り始められないわけはないだろうと思い込んでいるようだ。だがそんなことを語って何になるのか。ふと空を見上げれば、さっきより月が遠ざかっているように見える。あくびが出てくるがまだやるつもりなのか。あるいはまたいつものように何をやっていたか忘れてしまうのか。それでもう気が済んだのだろうか。ますます何をやっているのかわからなくなってくる。誰かの意識は気の向くままに、どこにでも行ってしまうらしく、話の内容もそれにつれて変わってくる。しかし何が内容なのかわからないか。そこからどう話の内容を修正していくつもりなのか。何もないのに内容をどうしたいのか。はたしてそれで困難を切り抜けたことになるのだろうか。


9月15日

 またそんなことをやっている。そしてそれがどんなことなのかわからない。ではそんなことを述べても仕方ないか。何も述べようがないのかも知れない。はじめから困難に直面してどうするのだろうか。君には何もわからないが、誰かにとってもそれは同じことか。そこにあるのは何もないという事実だけなのか。それはおもしろい状況ではないか。何をおもしろがっているのだろう。何となく頭痛がしてくる。ついでに吐き気を催せば、毎度おきまりのパターンに持ち込めるか。そんな風にして虚構をねつ造したい。何も述べたくはない。できることならそうしたいところだが、そうなってしまってはさらにつまらなくなるか。何を考えているのか。君は誰のことを思い出したいのか。もう動かなくていいのだろうか。何を動かそうとしていたのか。動かせない状況の中に何があるのだろう。それを動かそうとしている。何かが錆びついていて動かないはずか。それは機械ではない。目の前の物体が機械であってほしいのか。君はもうここにはいない。思い込みがそうさせているのか。本気になってはいけないのだろうか。何を思っているのかわからないのは毎度のことか。何を問いかけているわけでもない。答えを求めない問いかけは無駄の極みだろうか。何を目指しているつもりなのか。それは目指しようのないものだろう。何も目指さない意識をこれからどう保持していけるのか。誰がそんなことを思っているわけでもない。誰も思わないようなことを書き記しているのだろうか。だが表現の複雑さからは遠ざかっているらしい。それは誰かの勇み足に近い。策略を練っている暇があったら、偶然に身をまかせるべきか。だがそれで何を述べているわけでもない。そこへ近づくことは無理なのかも知れない。だがそれでも当初の目的を達しつつある。目的を忘れ去るには目的が必要なのだろうか。誰かはそんなことを考えているらしい。何かほころびが見受けられる。なぜ君は真正面から論争を挑まないのか。何かがバラバラに作用しているらしいが、そのほころびをどうやって修復したいのか。誰かの意図が偶然に作用している。君はそれを誰の意図とも思わず、自らの意識に含まれると思い込んでいる。何がほころびを見せているのだろうか。使えない言葉などありはしない。そこにあるのはただの空虚でしない言葉の群れか。それらのがらくたを使う人の気が知れないか。たぶんがらくたにもそれなりの活用法があるのだろう。だからそこに文章が生じているわけか。それ以外に何を生じさせているわけでもないらしい。ため息交じりに何を述べているのだろうか。まだ何も見出されてはいないのではないか。ではいくら言葉を弄してみても無駄なのか。短絡的に結論を急ぐべきでない。まだそこから先に道が続いているような気がしてくる。遅々と進まぬ作業に半ば愛想を尽かしながらも、それでもやり続けることからしか文章を見出せないのだろうか。しかし何を構成しているつもりなのか。なぜそんなに焦れているのだろう。貧乏人に希望は必要だろうか。貧乏人にも人それぞれに事情があるはずか。ではなぜ人は成長しなければいけないのか。いけないのではなく、現実に成長してしまうのだろう。では貧乏人は成長して金持ちになれるだろうか。そういうことを述べているわけではない。あって当然の格差を乗り越えることは不可能だ。希望を持てない社会がこの国にはふさわしい。だがそんなことを誰が述べているわけでもない。たぶんくだらない思考に染まり、そこから抜け出られない者たちが多すぎるのかも知れない。わかりやすい言葉に染まってはならない。論理のわかりやすさに騙されたらそこで終わりなのか。水準や次元の違う問題をいっしょくたにして述べているのかも知れない。その馬鹿さ加減に気づかない人が多すぎるのだろうか。誰もいい加減な論理に反論できずにいるらしい。君は具体的に何を述べているのか。そしてそれをわかってもらおうとは思わないのはなぜなのか。マクロ的にはその通りなのかも知れないが、なぜそんな甘っちょろいことを平気で述べられるのか。誰が誰に希望を持たせようとしているのか。そんな簡単に切り札を明かして何がおもしろいのだろうか。明かしたところで何が切り札なのかわからないか。何をやっているわけでもなさそうに思われる。ただつまらないことを述べている。感情はそれらの文章の中には見当たらない。意識はどこで何をやっているのだろう。誰が社会を作り上げているわけでもないらしい。フィクションの中では簡単なことか。可能だが手間のかかることかも知れない。そんな風には思わない人もいるようだ。そこから君が登場していいのか。登場するはずのないタイミングで何を考えているのだろう。それは語の用法的におかしいか。だがかまわずに話を進めてみよう。もう何を語ってきたのか忘れかけているようだ。それらの思い込みは誰の責任を示しているわけもなさそうだ。何の責任を取らなければならないのか。無為に語ることがそんなに罪深いことなのか。崩れ去るのは誰の責任でもない。そこに生じさせようとしていたのはフィクションではない。何も肯定できない気持ちがそうされるのか。説明を放棄している。何を説明しなければならないのだろうか。なぜそんな風には思わないのか。まともに語る気にならないのはどうしてなのか。君には鬱陶しい幻影がつきまとっているようだ。その影が君に従うはずもない。誰かはいつも他の誰かに見下されているような気になるらしい。それは背が低いからそう思うのか。君はその誰かではないはずか。そういう次元で話をしたいわけではない。高貴なこころざしはどこへ行ってしまったのだろう。何が高貴であるわけでもない。何も持ち合わせていないのに、握った手を開いてみれば、そこに芥子の実でも出現していたらおもしろいか。出現というほどのものでもないだろう。君の代わりに誰がそこに出現しているのか。そんなことは知りたくもないのが、そこでの解答となりうるだろうか。実際に見ている光景とはまったく違っている。言葉から何を想像しているわけでもない。まだそこにとどまり続けているようだ。なぜ離れられないのか。眠気を催す状況が好きなのかも知れない。まったくいつでもどこでも眠っていたいらしい。外部に向かって心を閉ざして内側で自足していたい。そんなことを思わせるのは怠惰のなせる業か。そう思えば気が楽になるか。そんな態度では何も解決しないだろう。だから解決しない状態を続けていられる。解決に至るのをいつまでも猶予されていたいのだろうか。それで済むのならそれに越したことはないか。だがやがて時が経ち、いずれ今まで送ってきたぬるま湯生活を清算する時がやってくる。そのときにいたって何を思えばいいのか。そんなことを今から考えておかなくてもいいだろう。


9月14日

 どうしてそれをそのままにしておくのか。そのままにしておけない理由が見当たらない。理由など何でもかまわないだろう。何かをやるのに理由など要らないか。そういう次元で何かを述べようとしているらしいが、それが話をつまらなくさせる原因となっているようだ。君はそれに関して何か決定的な証拠でもつかんでいるのか。そういうことを語りたいわけではない。誰が悪いとも思わない。気味が悪い文章になりつつある。それを自覚しているのなら、もう少し誰かの意識に気を遣うべきではないのか。何から遠ざかろうとしているのかわからなくなる。現実を捉えきれていないようだ。言葉はどこにあるのだろう。そこで空虚と戯れているのは君ではないのか。誰かの眼差しはどこを向いているのだろう。いくぶん目つきが悪そうに映っているが、別に鏡をのぞき込んでいるわけではない。脱皮を繰り返すのは蛇の類かも知れないが、その抜け殻の中から何かが這い出てくるように見える。そこで外部から邪魔が入ってしまうらしい。移りゆく季節の中で誰かが取り残されているのかも知れない。誰かは俳句が好かないのだろうか。その言葉は何かの季語を表しているのだろうか。ただいい加減に言葉を並べ立てているだけだろう。そして今日も何を述べているのでもないらしく、また何を眺めているのでもない。そして何を否定してるのかわからない。本当に何を述べているのだろうか。少し前までは正気でいられたようだが、今は違うと感じている。言葉に詰まって狂喜する。そんなことはあり得ないか。何を述べればいいってものでもないか。その辺を少しは考えたらどうか。考えてどうにかなるものなら、とっくに考えているだろうか。何をどう考えたら窮地を脱することができるのだろう。それが窮地かどうかもわからないのに、なぜ窮地を脱することができるのか。そもそもそれとはいったい何なのか。それはそれでしかないのだろうか。言葉としてのそれでしかないらしい。では窮地も言葉として繰り出された窮地でしかないわけか。フィクションの中の窮地とはそういうものなのか。その物語の中へのめり込めなければ、窮地を窮地と感じることはできないだろう。またたとえそれが現実の窮地であろうと、思い違いをしていれば窮地ではなくなる。何が窮地なのかわからないと述べていれば、たとえ窮地に陥っているとしても、そんなことはどうでもいいことなのかも知れない。しかし君は本気でそんなことを述べているのだろうか。君にとっては何もかもがどうでもいいことに思われるのかも知れない。要するに君はそこで嘘をついているわけか。そして君にとってはそんな嘘なら許せる範囲内か。だが許されないこととは具体的にどんなことだろうか。それらの継続をやめてしまうのが何よりも許されないことなのか。実際にやめてしまえば、それは許されないことかどうかわかるかも知れない。しかし許されなくてもやめてしまえば、そんなことはどうでもいいことになってしまうのではないか。そしていったんどうでもいいことになってしまえば、それは許されざることなどではなくなってしまうだろう。ではそれをいつやめてもかまわないのだろうか。やめるのはいつでもかまわないのになぜやめないのだ。実際にやめてみるまではそんなことはわからない。結果的にどうにかなってしまうまでは、それがどうかということは不確定のままなのかも知れない。そんなわけで君はまだ窮地に陥ったままなのか、あるいは窮地を脱して一息ついているのかは、まだもうしばらく様子を見てみないとわからないだろう。しかしなぜそれで通用しているのだろうか。どこで何が通用しているといえるのか。未だに何も語っていないような気がしてくる。それで良いのか悪いのかわからないが、ただ適当に言葉が連なっているだけのような気がしている。それでも一応は文章になっているのだろうか。そんなことを述べたいわけでもないのに、なぜそんなことを述べているのか。相変わらずいい加減なことを述べているらしい。そうやって何とかその場を取り繕っているようだ。なぜそうなってしまうのだろう。他に何も述べることがないからそうなってしまうのか。そうではないと思いたいところだが、述べていることさえも述べる必要のないことではないのだろうか。そう思うと何となく虚無の深みにはまっているような気もしてくる。ならばそれは窮地に陥っていることにでもなるのだろうか。そうだとしらどうなのか。どうもしないのだとしたら、窮地に陥っていることは何でもないのか。何でもないのに窮地に陥っているらしい。何かその辺で矛盾していないか。矛盾していても別にかまわないだろう。それでも何かしら述べる口実になっているのだから、それはそれで結構なことなのではないか。また君はわざとらしく嘘をついているつもりなのだろうか。それで嘘をついているといえるだろうか。ではなぜ嘘をついていることにならないのか。何をどう述べれば嘘をついていることになるのだろう。何が嘘で何が本当なのか。その辺の区別がつけられるとは到底思えない。では結果的に何を述べているのでもないことになってしまうわけか。だが何を述べていないわけでもなさそうにも思える。そのどちらでもかまわないというのなら、やはりそんなことはどうでもいいことになってしまうか。いったい何を述べているのだろうか。何も述べていないわけでもないだろう。そんなことはわかっているが、他に何を述べているのか。何を述べたらいいのかわからなくなっているのかも知れない。さっきまでいったい何を述べていたのだろうか。少なくとも何も述べていなかったわけではないはずだ。何かしら述べていたのだろうが、それを思い出せなくなってしまったらしい。それを思い出したければ、今までに記してきた文章を読み返してみればいいのではないか。思い出したくないのであれば、もうそこで述べるのをやめたらいい。しかしそれが誰に向かって発せられているのかがわからない。しかしそんなわかりきったことをとぼけていられるのはどうしてなのだろう。なぜそんな見え透いたことを述べていられるのか。それを述べているつもりの誰かの神経はどうなっているのだろうか。その精神構造がどのようなものであろうと、それだけではそんなことは述べられないか。そこにそんなことを述べざるを得ない成り行きがあるから、その成り行きに従ってそのようなどうでもいいことを述べているのだろう。それは意外と楽な作業なのかも知れない。決して行き詰まりを伴うような思考の深みにはまることもなく、淡々とどうでもいいような言葉を並べ立てているだけのような気がしてくる。それを後から読み返してみれば、何の中身も伴わない形だけの文章となっていることに気づくのだろうか。しかしたとえそんな結果に気づいたところで、何がどうなるわけでもない。


9月13日

 まだそこから逃れられないようだ。永久にそんなことをやっている最中なのかも知れないが、やっていることはいつも変わらない。相変わらず誰かが何かを眺めているだけか。たぶん何か勘違いをしているのだろう。過ちの中に誰かの意識が生じているらしい。それは過ちからしか生み出されないものなのか。そうだとすればそこから何がもたらされるのか。何か誰かにとって都合の良い状況でも到来するのだろうか。それは見込み違いになるだろう。何を予言しているつもりなのか。それも過ちの一種なのだろうか。そんな風に言葉を連ねてはいけないのかも知れない。またそこにあり得ない幻想が生まれ、幻想から毎度おなじみの妄想が滲み出てくる。そのとき君はどこかへ飛んでいってしまいたくなる。あらぬ方角へ矢が放たれてしまう。それはどこか別の世界なのかも知れない。もう我慢の限界が近づいているのだろうか。しかし誰がそこで我慢しているのだろう。また誰もいないのに誰かが我慢しているつもりで言葉を並べているわけか。そんな嘘はつまらないだろうか。誰がつまらないと思うのか。君はまだあきらめきれないのか。誰かは君に何をあきらめてほしいのだろう。だがあきらめきれないからそんなことを述べている。なぜそう思うのだろうか。どうしてすべての継続を保とうとするのだろう。時計はまだ動いているだろうか。そのうちのいくつかは電池を交換した。別に他人に自慢するために腕時計を収集しているわけでもないのだろうが、壊れたら買い、また壊れたら安いものを買い、そんなことを繰り返しているうちに、安物のがらくた腕時計がたまってゆく。そんな現状をどうしたいわけでもなく、捨てるのがもったいないから、修理に出したり電池交換をしたりして、そのほとんどが今も動いているようだ。そこからどんな教訓が得られるわけでもないが、そこで腐っているわけでもないだろう。何が腐っていれば誰かにとっては好都合なのだろうか。教訓と腐敗とは何の関係もないことではないのか。ただそんなことを述べている誰かの真意を測りかねるだろうか。それはさっき飲んだコーヒーに含まれているカフェインによる効果かも知れない。ではどのような効果によってそのような言説が生じてしまうのだろう。そんなことがわかるわけはないのだろうが、何となく何かのせいにしていないと、やっていられないようなことを述べているのかも知れない。何となくまた馬鹿げたことを述べているらしい。だが君は別に自らの趣味嗜好について語っているわけではない。それが他の誰かに関する内容なのかも知れない。なぜそんなことを思うのかわからないが、自らが述べている言葉に拘束されている気分とはどんなものだろうか。絶えず有言実行していなければ他人を裏切ることになってしまうわけか。しかしなぜそれが不言実行にならないのだろう。はたして造語はどちらなのか。わかりきったことを誰に問いかけているわけでもない。それでは誰も満足し得ないのかも知れない。少なくともそれで何を語っているわけでもないはずか。あれこれ述べる必要もないのだろう。その代わりに無駄なことをやりたがっているのか。だが現実にやっていることの何が無駄なのかわかりはしない。誰も何も思わないだろう。そこで誰かは何を思えばいいのか。話が何もないのだから思いようがないか。そこに何か台本らしきものが転がっていないか。よく探してみれば何か見つかるかも知れない。誰かはそこで何か告白したいことでもあるのだろうか。今からでも遅くはないのか。なぜもう手遅れだと思ってしまうのだろう。まだ何も明らかになっていないはずか。何を導き出そうとしているわけでもない。ただあらぬ方向へ流れていこうとしているだけか。ただ時が流れ去るだけなのだろうか。過ぎゆく成り行きをどう言い表せばいいのだろう。それについて誰も言葉を発しないのはどういうわけなのか。そこで仕組まれている策謀を見破ることはできない。きっかけは思わぬタイミングでやってくるものだ。それに乗り遅れたら死ぬまで後悔し続けたりするのだろうか。なぜあのときあれをやっておかなかったのか。しかし実際には何をやろうとしていたわけでもない。機会を逸してつまらぬこだわりを押し通そうとしているだけだ。ではその代わりに何がもたらされたのか。占い師の妄言に耳を傾ける必要でもあるのだろうか。理由の定かでない言葉を真に受けて、その通りのことを実現させようとしているらしい。それが浅はかな行為ではないとすると、他のどのような行為が浅はかと見なされるのか。何かを述べることがそれほど大切なことなのか。それらの言説はもはや君の思惑をはるかに超えて、誰かの心に作用を及ぼし続けている。気が狂うような体験を求めているわけではない。ただ単にそこから遠ざかりたいだけなのかも知れず、遠ざかったついでに忘れてしまいたいのか。そんな虫のいい話は通用しないか。忘れようとしても忘れられないのが、現実の世界で起こっている出来事なのだろうか。そんな述べ方も大げさすぎるだろうか。それらは本質的な問題なのではなく、枝葉末節ばかりを構成するような事象なのかも知れない。現にそれらのことごとくを跳ね返してきたではないか。今までにやってきたことはそれの積み重ねなのではないか。それを今さら否定することはできないはずか。完全に否定して捨て去ろうというのではなく、それらの言説に新たな言葉を付け加えたいだけか。そんなことをやって何になるのだろう。とりあえず利用できるものは何でも利用したいらしく、たとえそれがゴミくず同然のものであっても、そこから何らかの言説を構築しようとしているらしい。やはり君は誰もが納得するような意味を求めているのだろう。そしてそのような言説を構築した先に、今までに思いもしなかったような言葉と、それを基に構成された文章を獲得できると信じている。たまにはそんな前向きな嘘もついてみるものか。だが嘘という言葉によって何を否定しようとしているわけでもなく、何かを信じていると述べることが、一種の気休めになっているのかも知れず、それが気休めで終わらないように、あえて嘘と述べながら気を引き締めているのだろうか。だがそんなことをやって何になるのか。何にもならなくてもそれはそれでいいのかも知れず、とりあえず何かを述べていることを実感できて、何とか精神の均衡を保っているつもりになりたいのかも知れない。実態はよくわからないが、それをことさら知ろうとも思わないし、知らなくても利いた風な台詞などすぐに繰り出せるし、適当な言葉を導き出すことは可能なのかも知れない。君はそれが何かの思い上がりでないことを祈るべきか。そんなわけで心にもないことを述べるのは気恥ずかしさが伴うようだが、そこでの成り行きに沿うならば、おおかたそんなことしか述べられないだろう。


9月12日

 今眺めているのは何日後の風景なのか。誰かがわけのわからないことを述べているようだが、他の誰もそんなことには無関心だ。しかし誰がそこにいるわけでもなく、そこに現れているつもりの誰かたちは何かも亡霊なのだろうか。気休めに何を想像しているのか。何が気休めとなるのだろう。妄想を抱くことが気休めになるのだろうか。君はそう述べて、そこに展開されようとしている文章に逆らっているつもりらしいが、それも文章には違いない。では不可能なことを書き記そうとしているわけか。それが不可能だと思えるのだろうか。思いもしないことを書き記しているのではないか。しかしそれも不可能かも知れない。あり得ないとはどういうことなのか。ただそれはあり得ないと思いたいだけなのだろうか。それがあることを信じられないというわけか。信じられないのならば、どうすればいいのだろう。なるべく信じるように心がけることが肝心か。しかしそれでは宗教と変わらないだろう。宗教ではいけないのだろうか。神憑りで何が解決するのか。他でも解決しないから神憑りになってしまうわけか。君は神憑りの意味を理解していない。神に本質的な中身があるのだろうか。何もなければ神ではないか。たぶん君の中身は何もないのだろう。君は神ではないはずか。では誰が神なのだろうか。別に君は神を探しているわけではないし、その姿を見たいと思っているわけでもない。そこに醸し出されているのはそんな雰囲気からは程遠い。何の変哲もない日常が過ぎゆくばかりのようだ。しかしそれは誰の日常でもないらしく、ただ君がそんなことを語っているだけらしい。だからそれらのどこに救いがあるわけではない。そこでは誰も救われないのだから、神などいなくてもかまわないのだろう。君が神であるはずがないのも当然のことか。ではどこの誰が神を名乗っているのか。実際はそういう話ではなさそうだ。またわざと言葉をずらせている。そんな話でうまくいくはずがないだろう。ではどんな話ならうまくいくというのか。どのような結果を得られればうまくいったことになるのだろう。それに対する適切な返答などあり得ないか。わからないことを訊かれても答えようがない。いったい誰が答えればいいのか。誰もいないのに答えようがないか。無人の空洞にわけのわからない問いかけが、いつまでも響き渡っているのだろうか。そんな状況を空想してどうするのか。なぜ神は人の苦しみを放っておくのか。君は本音を語らない。何が神によってもたらされた試練なのか。乗り越えるべき試練などどこにもありはしないか。何に対処しているわけでもなく、どんな出来事によって窮地に陥っているわけでもない。君は絶えずそこから先へ語りたいらしい。しかし語ることによって何を顕揚しているわけでもない。それらの出来事は君とは無関係なのか。では何がそれらの出来事を構成しているのだろうか。言葉が循環しているだけなのかも知れない。苦しくなるとそうなってしまうようだ。またわざと誰かを困らせようとしているのか。それはそこだけでしか通用しないルールらしい。君に内在しているルールは君だけにしか通用しないのだろう。君は君一人で存在している。他に君を支えている者などいはしない。そんな話ならおもしろいか。それ以前に何の話なのかわからない。またとりとめのないことばかり語っているのだろうか。空疎と戯れながらいつもの展開を言葉でなぞっているようだ。今さらそんな見解は不必要か。不必要だというのなら、それらの語りのすべてが不必要だろう。しかしそれでは話にならなくなってしまうから、記す必要のない言葉で間に合わせの文章を構成しているわけか。それから辺り一帯は長い間沈黙が支配している。さっきまでは何を述べていたのか。もう秋が間近に迫っているのかも知れないが、そこには季節の話題など含まれていなかったはずだ。君が主に取り上げているのは視覚的な効果ばかりか。何かを見ているつもりにならないと気が済まないのか。そんな場所でのたうち回るのは、わざとらしい演技と映るだろうか。もがき苦しんで死にそうな風を装うのも嘘なのか。君はそこで何に騙されているのだろう。それが君が取り上げようとしている話題ではないのかも知れない。そのうち自らの過ちに気づくことになるのだろうか。心はそこから遠ざかっている。その奥底から響いてくるのは音ではない。君が見つめている地平からはさらに遠ざかる。何が遠ざかっているのか見えなくなるまで遠ざかってしまうのか。それをわかろうとしていないのだろう。それが何を指す言葉なのかを説明していないような気がするが、まだとどめを刺されたわけもないのだろう。まだ執拗に愚かな行為を繰り返しているのか。それは誰のことを述べているのだろうか。そんなことを知ってどうするのだ。どうもしないのなら知る必要はないか。それとも今まさにどうにかしている最中なのだろうか。そしてそんなことを述べていること自体が、結果的にどうにもならなくなってしまった証拠かも知れない。そんなことよりそろそろ眠気を催す時間帯だろう。最後の追い込みをやらずにそのまま寝てしまうのだろうか。天井に取り付けられている蛍光灯の明かりは、すでに消されてしまったようだ。ではもう再開させることはできないのか。それはできないのではなく、単にやらないだけなのであり、やらないからその結果としてできないことになってしまう。それで気が済むはずがないか。できないままにしておくのが気に入らないのか。ならばそのまま続けていればいいだろう。続けられる限り続けていれば、そのうち続けられなくなるだろう。そうなってしまうことが君のねらいなのか。本当にそうなってほしいのだろうか。どん底から奇跡的に立ち直る話に毒されていないだろうか。どん底とはどのような状態のことなのか。それも知らずにそんな言葉を安易に使うのは不注意か。だが少なくともその言葉から何かを連想していることは確かなようだ。浅はかなことを述べているらしい。浅はかなコメントを浅はかな人たちが真に受ける。昔から変わっていないのはそんなことか。では何が変わってきているのだろうか。それなりに時間が経過してきているはずか。時が経ち人も入れ替わるが、そんな風になるまで待っていられるのか。君にそこまでの辛抱強さは備わっていないだろう。では何かを変えるべく行動を起こさなければならないというわけか。しかし何を変えたいのかはここでは明らかにはならない。少なくとも何も変えたくないわけでもないのだろう。たぶん変えようと努力しているのかも知れない。そのためにこうして言葉を連ねているわけか。そんな目的をねつ造してどうするのか。どうもしないがどうにかなっているのかも知れない。確かにどうにかなってしまったように思われる。


9月11日

 何をトチ狂っているのだ。そんなことをやって何がおもしろいのか。何となくギャグっぽい成り行きになってきたのかも知れないが、ことの顛末はここでは明らかにはならないだろう。何となくそれいいのかも知れない。それ以外は何も思いたくないように思われる。誰が思いたくなくて、そう思っているのは誰なのか。それはいい加減な言葉遊びに違いない。誰がそんなことを思っているわけではなく、何も思ってはいないのかも知れない。誰にも見向きもされないことをやっていたいのか。それは神経衰弱の類だろうか。次から次へと奇抜な方法を思いつくわけもないが、それが愉快でたまらないような雰囲気になっているのかも知れない。やっていることが狂気じみているだろうか。でもおもしろいのだから許してくれないだろうか。誰に許しを請うているのかわからないか。別に許しもらうほどの罪を犯したわけでもないだろう。しかしそれを信じていいのだろうか。自らのやっていることを自らが信じていていいのだろうか。それは信じられないことなのではないか。ではなぜ自らの行いを信じられないと思うのか。何がそう思わせるのだろうか。何もそう思わせようとしているわけではないのだろう。それは見当はずれの思い込みでしかないか。別にそれでどうなるわけでもないが、どうにもならないなりに愉快な気分をもたらしてくれる。ただそれだけのことなのだろうか。何がそんなにおもしろいのだろうか。どうしてそんなことがおかしいのか。いったい何がもたらされているのだろう。それは見込み違いなのだろうか。何を勘違いしているのか。勘違いだけで済むことなのか。だが深刻ぶるには真剣さが欠けている。ほんの冗談のつもりでそんなことをやっているらしい。君にはそれが馬鹿げたことに思われるらしいが、そんなところで自足していて何がおもしろいのか。これが笑わずにいられようか。それは誰の台詞なのだろう。君は黙して何も語らないし、その件についてはそれで解決済みなのではないか。ではそのわざと語らない話題からはもう遠ざかるべきなのか。そこから遠ざかれば代わりに何がもたらされるのだろう。何ももたらされはしないことが信じられないのか。ならばきっと何かがもたらされるはずか。思いがけない出来事に遭遇して感動してしまうか。そんな妄想は打ち砕かれるべきか。しかしなぜそんなことを思いつくのだろうか。それは起死回生のやり方なのか、あるいは破滅を呼び込む悪手なのか。とりあえずしばらくは様子見の段階にとどめておくしかない。相手の出方はこちらの手に取るようにわかってしまう仕組みとなっているので、それはそれで安心して他人任せにしておけるか。だがそのとき君は嘘をついているらしい。本気でそんな嘘をついているわけではなく、冗談で嘘をついているわけでもない。真剣にも軽薄にもなりたくはない。要するに君は馬鹿なのか。どうしてそんな結論に達するのか、そうなる経緯がまったくわからないか。たぶんわかろうとしていないのだろうが、どうすればわかろうとする気になれるのか、その辺のやり方を是非教えてほしいか。しかし教えを請うふりをしながら薄ら笑いを浮かべているのはどういうわけなのだろう。わけがあるわけではない。ただわけもなく薄ら笑いを浮かべているだけか。呆れてものも言えないか。呆れているのは誰なのか。どこの誰が冗談を吐いているのだろう。げろを吐くよりはマシだろうか。そんな風に述べてしまうと、さらにやる気をなくしてしまうらしく、疲労感と脱力感がさらに深まってくる。もう二度と立ち上がれないほどの疲れ具合なのか。しかしまだその先に言葉をつなげたいのだろう。まったく無理なことばかりやっているようだ。仮にそこで意に反して終わってしまうなら、何をもってそれらの締めとすればいいのかわからない。終わりの言葉が見つからないようだ。だがそれ以上がんばっても仕方がないだろう。何のために眠気に逆らって言葉を連ねているのかわからない。わからないから言葉を連ねているのだろう。君が思っていることはその逆なのではないか。言葉を連ねているから何を思っているのかわからなくなってしまうのだ。自らが記した文章を読んでいるうちに、それらの言葉に引きずられてしまうようで、言葉を記す以前に何を思っていたのかわからなくなってしまう。しかしそれで何か不都合でも生じているのか。それらのどこまでが本当の意識なのだろうか。何をもってそれが意識だと言えるのか。それはただの書かれた文章でしかないか。誰の意識でもなく、誰が思っていることでもないのか。ただ文章の成り行きに従って、その状況に置ける最適な言葉が導き出されているだけなのだろうか。最適ではないだろう。絶えず文章がいわんとしたいことからずれているのかも知れない。だから意味不明になってしまうわけか。それにいわんとしたいことなどありはしない。それはただの言葉の連なりに過ぎず、そこから何らかの思考や思想が生じているわけではない。それでもそこに何かがあるように思えるとすれば、それはそれを読んだ者が抱く思い込みに過ぎないだろう。たぶん読者の思い込みから思考や思想が生じているだけなのであって、そこにもとから何かがあるわけでもないのかも知れない。そんな風に述べればそれを書く者の責任逃れになるだろうか。それでも一応は言葉の連なりなのだから、それなりに意味のあることが書かれていて当然であり、それを否定できるはずもないか。嘘ならいくらでも否定することは可能なのか。だが否定したところで何もないわけでもない。少なくともそこには文字が生じていて、その文字を読むことが可能なら、それを読んだ者の意識に意味が生じるのは当たり前のことか。要するにそれを読むことができる限り、それらの文章は他者によって何らかの存在として認められるわけだ。それを否定したければしてもかまわないが、その否定は何かの冗談としか受け取られないかも知れない。別に誰にどのように思われようとして、文章を構成しているわけでもないが、それらが文章として構成されている限り、それを読むことが可能となってしまうのだろう。読んで何を思うかは読んだ者の勝手なのか。それを書く者が制御しようと試みるのは傲慢すぎるか。そんなことが通用するわけがないか。だが通用しなくともそれを試みようとする者は後を絶たない。なるべく作者のいわんとしたいことを読者が理解してほしくて、作者はあれやこれやと策を弄しているわけか。しかしそれは実態として本当のことだろうか。君はそんな風に考えるのが嫌なのか。ではそれらの文章がどんな風に思われたいのか。ただの意味不明だと思われれば満足するわけか。そうだとするのならば、なぜ意味が通るように文章を構成しようとしているのだろう。何となくその辺が矛盾しているのかも知れない。


9月10日

 偶然性に寄りかかって何かを述べているのかも知れない。数日後の外は晴れて日差しが強いことも何かの偶然が作用してそうなっているのだろうか。だが出来事の中身が貧相に感じられるのは、どういうわけなのだろうか。安易にわけを求めても、どんなわけがもたらされるわけでもないだろう。また何をどう求めようと、気に入った結果がもたらされるわけでもない。しかしそれは何に対する返答なのか。誰が誰に対して何を問いかけ、結果としてどのような返答がもたらされたことになるのだろうか。そのすべてが不明確ではっきりしていないように思われるのだが、それがそれらの文章に内在している欠陥の一つなのかも知れず、他の様々な欠陥と連動しながら、そこで述べられていることをわかりにくくしているのかも知れないが、それがその文章を構成している誰かの思惑通りならば、それはそれで予定調和気味に当然の成り行きなのだろうか。そうだとすればそれはそれで仕方のないことかも知れないが、何かそれではつまらないような気がするので、誰かは絶えずそれとは違うやり方を模索しているのかも知れないが、今のところはそれらの予定調和の範囲内でしか、話を進められずにいるのかも知れない。要するに誰かが気に入らない原因はそういうことになるようだ。だがそんな風にしかやりようがないことも確かであり、いくらそれとは違うやり方を試みようとしても、結局は言葉に詰まり、もと黙阿弥的に以前と同じようなことを述べている自身に気づくことになってしまうのだろう。そしてそれがそれらの予定調和をさらに確固なものとしてしまうのかも知れない。そんなわけでそこから逃れる術はなさそうに思われてしまい、逆にだからそれらの文章をいつまでも継続することが可能となっているらしい。しかし何を語っているのだろう。そんなことを語りたくはなかったのもいつものことかも知れないが、なぜどうしようもなくそんなことを語ってしまうのか。その理由はすでに述べられているのかも知れないが、そんなことしか述べられないことも確かなようだ。たぶんそれは偶然ではなく、それらの語りの必然的な帰結なのかも知れない。偶然に言葉を繰り出しているつもりが、いつの間にか毎度おなじみの言葉の連なりを再現し続けているように思われてくる。いつまでもそんなことをやっていていいのだろうか。いいはずがないと思うが、たぶん語っている分量と時間的なゆとりのなさが、それを許さないのだろう。そのような分量と時間で語り続けるなら、そんなことしか語れなくなってしまうのかも知れない。ではそれを改めるにはどうしたらいいのだろう。もうやめた方がいいのか。やめられるならとっくの昔にやめているところか。やめられないからそんな結果を招いているのだとすれば、では他にどのようなやり方によってそれらの状況を改善できるだろうか。君はそうやっていつも冗談を述べているらしい。何が冗談となっているのか。それが冗談である根拠は何なのか。何かを述べているうちに、その述べている内容が馬鹿らしく思えてくるのは、それが冗談だからなのか。まったく冗談もいい加減にしてほしいか。いい加減に冗談を述べているわけではないのか。そんなわけでそれらの言説を冗談と思い込むことが、それらの言説からの逃げ道となっているらしいが、はたしてそんなやり方が通用しているのだろうか。どこで何が通用していると思われるのだろう。どこの誰に通用しているわけでもないのかも知れないが、とりあえずそんなことを語っている現状がそこにあるらしく、それについて何か適当なことを述べている現状もそこにあるようだが、そんなことを語り続けて何になるのだろうか。それはまったく無駄でどうでもいいことなのだろうか。どうでもいいことであり、しかしそれがそこでの言葉の連なりなのだろう。そんな風に語っている状況は変わらないし、容易には変えられないのだろう。だからそれによって言葉の連なりは文章として継続してゆくのだろう。それを語っているつもりの誰かは、それらの文章を構成することによってそこに存在している。その文章がなければ誰かの存在など他のどこにもありはしないか。他の場所に存在しているかも知れない誰かは、おそらくそれらの文章とともに存在しているらしい誰かとは別人なのかも知れない。それは名もなきただの一般人として、どこか適当な場所ににとどまっている誰かになるだろうか。その誰かにしてみればそれでは不満なのだろうか。その不満を利用して何をやっているのだろう。そして自らが不満とともに存在している環境を、何かを適当にやることによって、それを満足すべき環境に変えようとしているのだろうか。そういう水準で述べてしまえば、人のやっていることは大なり小なりそんなことばかりなのではないか。それが場合によっては他の人の不快感を誘発しているのかも知れない。君はその不快感をそのままにしてはおけず、それを解消させるために日々あれこれ策を弄しているはずだ。だがそんなことばかりしていては虚しくならないだろうか。ではそこから生じている虚しさをどうやって解消すればいいのか。たぶん何をどのようにやろうとある程度は虚しさがつきまとうのも仕方がないのかも知れない。絶えずそこに残り続ける虚しさに耐え続けなくては、その先への継続は立ち行かなくなってしまうのではないだろうか。もちろん実際に文章が継続されているのだから、誰かは自らが感じている虚しさに耐え続けているのではないか。しかしそんなことをやり続けているために、無駄でつまらない時を過ごしているのではないか。嫌ならやめればいいことでしかないが、嫌でも無駄でもつまらなくても継続させている現状があるらしく、そうまでしてなぜ続けなければならないのか、理由が何も見当たらない現状もあるようだ。もうだいぶ以前から嫌気が差しているのもわかりきったことだが、やはりその先に文章を継続させてしまうのかも知れず、そこには君とはまったく関わり合いのない無駄な言葉が、延々と連なっているのかも知れない。はたしてそれで何が語られていることになるのか。何も語られていなくとも、それらの文章が存在し続ければそれでかまわないのだろうか。しかし君には誰がかまわないのかがわからない。そんな相変わらずの展開に呆れを通り越して、もはや何をどう感じていいのかわからなくなっているのかも知れない。そんなことを感じても無駄なのか。別に君は君について語っているわけではないので、君の思いなど文章にとってはどうでもいいことか。そんなわけで君の思いも誰かの存在も、それらの文章から無視されているのかも知れないが、それで何がどうなっているわけでもないのだろう。たとえそれを記しても読んでみても、何もどうにもならないことが、それらの文章における唯一の存在理由なのかも知れない。


9月9日

 言葉に詰まると何がどうなってしまうのだろう。どうもまた矛盾したことを述べているように思われる。一方では何も知りたくはないと述べておいて、他方では何をそんなに知りたがっているのか。それはこの世界では何がどうなっているのか、ということではないのかも知れない。そんなことは知る必要のないことなのか。確かにその必要はないかも知れないが、絶えずそれを知りたがっており、時にはそんなことばかり知ろうと思っている。なぜ知る必要がないのか、その理由を知りたいのか。それは意識して知ろうと心がけていなくても、何かを知ろうとすることのすべてがそれなのだから、知ろうとすればそれは自ずからそういうことでしかない。しかしそれで理由になるのだろうか。理由にならないようなことを述べているのかも知れないか。君が日頃から思っていることはそんなことではなく、何かそれとは無関係なことで、それは知ろうとして知り得ないようなことではないだろうか。要するに思ってもみなかったことを思いつく瞬間に至りたいのかも知れない。だが意図してそんな瞬間に至れるわけでもないだろう。またそんな偶然を必然に変えたところで、偶然ではなくなることによって、それは違う種類のものに変化してしまい、知ろうとして知り得ないものではなく、単なる既知の事象でしかなくなってしまうだろう。それではつまらないのだろうか。誰がつまらないと思っているのか。それはいつもの悪い癖でしかない。だがそんなことを思いついた時に、それについて何をどう思えばいいのか。ただ驚いたり感動したりして、それで終わりにして後は忘れるにまかせておけば、また忘れた頃に思いもしない出来事に遭遇して、またそれに驚いたり感動することを繰り返せばいいわけか。しかしそんなことばかりでは虚しくならないものか。その時点では驚きや感動がもたらされるのだから、それはそれでいいのではないか。そんな風にそれを否定的に語ってしまうから虚しくなるだけか。では他に何か虚しくならないような語り方を編み出したらいいのだろうか。それを簡単に思いつけたらおもしろいか。何となくそれはおかしいと思われる。なぜそんなことを思うのだろう。それまでの文章の成り行きで、そんな風に述べるような状況になってしまっているのかも知れないが、それは意味のないことだろうか。何か納得がいかないようなことを述べているようだ。ではそんなことを思う以外に、何をどう思えば納得がいくのか。やはりいつものくだらないことしか考えられないのか。そのいつものくだらないこととはどんな内容になるのだろう。今述べているそれがそのものだと思わないか。今はわからないことにしておきたいところだが、その程度では暇つぶしにすらならないか。まだそれらの文章のどこにも具体的な事物が出てこないように思われる。なぜ何もないのに現実の事物にこだわるのかがわからない。そこには何か彼なりの計算らしきものが働いているらしく、何もないのに何を計算しているつもりのようだが、今さら何を計算したところで、それが言葉となって文章に反映されることはないか。そんなことを述べるのは今日は初めてではないはずか。それらのどこに立ち直るきっかけがあるわけでもない。そうすること以外は何もできないのなら、何かをやることのすべてがそうすることになってしまうのだろうか。だがなぜそんなつまらないことにこだわっているのか。たぶんそんなこだわりは一瞬のことで、それらのこだわりの中で後から思い出されることなど何もないのではないか。しかしそんな風に思ってみても仕方がないのかも知れないが、そう思うことの他に何も思い浮かばないのならば、それも仕方のないことになるのだろうか。だが仕方がなければ何も述べなければいいだろう。では何か他に付け足すことはないのだろうか。やはり具体的な事物にふれないような話ではつまらないか。つまらなければつまらないなりの話でかまわないだろう。そこ簡単に退いてあきらめるわけにはいかない事情でもあるのかも知れず、今はそこから何としても続けるきっかけを見出さなければならない状況になっているのかも知れない。ただそんな風に思い込んでいるだけで、またそんな風に思い込んでいるように見せかけるための言葉を記しているに過ぎない。しかしなぜそんなつまらないことしか思いつかないのか。今後どんなに努力したところで、その程度の段階にとどまるしかあり得ないのだろうか。それではまずいのか。誰がまずいと思っているのか。それでまずければ、そこから先にはどのような言葉をつなげてゆけばいいのだろうか。すでにそんなことを述べ続けている現状の中で、たぶんそれでも何らかの手順を踏んで言葉を繰り出している最中なのかも知れないが、その過程においてどうでもいいような何かを述べていることになっているらしく、その最中において若干嫌気が差しているのかも知れないが、そこを否応なく通過しないと、次の段階へはいけないのかも知れない。しかしその次の段階が一向に見えてこないように思われる。そんなことばかり述べているのだから、それはそれで当然の成り行きかも知れないが、とりあえず今の君には物を書く時の基準がないように思われる。常にそれが書くに値するかどうかの判断がつかないようだ。そこに立ち現れているらしき事物や出来事に対して、それについて書くべきか否かの判断が停止している。判断を停止させたまま、その状態に耐えきれなくなり、今度はただ闇雲にそこから遠ざかろうとして、そこから遠ざかるための言葉を延々と連ねようとしている。だからそれについてどう書いていいのかわからなくなってしまうのだろうか。いった君は何について語りたかったのだろうか。もうそこには何もないでは済まなくなっているのだろうか。そう述べているうちにも時間が刻々と迫っているようだ。では君はそこでやめたいのか。やめるつもりもないのにやめたいのかと述べてしまうことが、そこでやめることから遠ざかろうとしている証だろうか。何かをやっている途中で、その行為自体を否定したくなってくるのはどういうことなのか。そこにはどのような疑念が働いているのだろう。常にこんなことをやっていていいのだろうかと思いたいのか。あるいはそれは違うと思うことで、そこから逃れられるとでも思っているわけか。それらはすべて言葉の上での話でしかない。何かを述べていること自体は行為のうちに入らないのかも知れず、絶えず前言を否定しておけば、それはそれで済んでしまうのかも知れない。まだ何もやっていないうちから、何かいい加減なことを述べているだけでは、それで何をやっていることにもなりはしないだろう。だからその程度にとどまっていられるのであり、取り返しのつかないことをやるに至る成り行きを、言葉によって阻止しているのかも知れない。


9月8日

 そんな質問には何も答えようがない。君はいつそこへやってきたのだろうか。そして何しにやってきたのだろうか。そんなことがわかるはずもないか。それはいつものつまらない問いかけでしかない。では昨日は何をやっていたのか。それも答えるあてのない問いかけに違いない。ならば明日も何かをやらなければならなくなるのだろうか。明日になれば何かしらやっているかも知れない。しかしそれで終わるはずがないだろう。ではそんな意味のない問いかけをまだ執拗に続けるつもりなのか。まだ正気に戻るには程遠いか。それが通常の精神状態なのかも知れない。そんな風にして君は生きているのだ。それ以外にどう生きれば結果にたどり着くのか。結果が何も見えてこないはどういうわけなのか。今はそうではないと思いたい。まだ君にはやるべきことがあるらしい。やれることはすべてやったつもりでいるわけではないが、その他に何かやれることはないだろうか。まだその先があると思っているわけか。いつまでそんな無内容を繰り返しているのだ。そこにはまともな内容の他に何が足りないのだろうか。そういう話の展開には飽きている。そんなことをやっても何がどうなるわけでもないだろう。ただ無駄に言葉が連なるだけか。だがそこが君が登場する機会のようだ。しかしなぜ執拗に君という言葉を使うのだろうか。ただ君という言葉が個人的に気に入っているだけか。そんな風には語りたくないのだろう。もっと魅力的に語ってほしいのか。しかしさっきから誰にそんなことを問いかけているのだろう。問いかけている対象が不在なのだから、返答が何もなくても仕方ないか。そんなことを訊いているのではない。そんな論理は空虚の中では通用しない。しかし空虚を作り上げることはできないだろう。その文章でしかしの意味がわからないか。それはここに作り上げられているものとは違うのだろうか。それはどういうことなのか。なぜ自らがわからないことを述べてしまうのか。頭の中で整理ができていないうちに次々と言葉が繰り出されてしまうらしい。本当にそんな具合だったら苦労はしないか。どうも実際には文章一つ記すのにだいぶ手こずっているようだ。なんでそうころころと状況が変わってしまうのか。何か適当なことを述べている状況には変わりないのではないか。君はそこで何を述べているつもりなのだろうか。別にそんなことを知る必要はないだろう。そんなことはそれらの文章を読んでみればわかることか。読まなくても君が述べようとすることぐらいわかっているつもりか。つもりでもなく本当にわかっているのかも知れない。何も知らないわけがないか。何かを知っているはずだ。ではおまえはそれを知りたいのか。何も語らなければ知られるはずがないだろう。なぜ知りたいことを語らないのか。そういう話ではないからか。どういう話でもなくそんな話でもない。結局何かがずれていて、それを後から修正できずにいるということらしいが、それはどういうことなのだろう。それについて君は何を語りたいのだろうか。なぜ肝心なことを話さないのか。その話には肝心なことがないのか、あるいはそのどうでもいいような内容のすべてが肝心なことだと思っているのか。本当のところはその辺がよくわからないようだ。なぜ本当のことを話さないのか。よくわからないから話さないだけなのか。だがなぜそんな簡単に話さない理由を述べてしまうのだろう。理由がわからないのがここでの決まり事ではなかったのか。いつからそんな決まり事が設けられたのだろう。たぶんその場の思いつきは軽薄なのかも知れないが、それで話を長引かせているつもりなのか。やはりそんなことを述べたかったわけではないのだろう。だが何を求めているわけでもない。何を述べようとそれが述べたかったことにはならないのか。毎度のことのように同じようなことを述べていては、うんざりするのも当然か。そしてそんなうんざりするようなことばかり述べていると、さらにやる気をなくしてしまうか。しかし別に何をやる気になっているわけでもないだろう。だがやる気もないのに言葉を弄していていいのだろうか。そんな状態から何をどうするつもりなのか。何もどうにもできないとしたら、その先はどうなってしまうのだろう。それでもどうにかなってしまうのだとしたら、そこに何らかの作用が働いていて、適当な文字列を生成していることにでもなるわけか。それがそこにもたらされた結果なのだろうか。君がそんな馬鹿げた結果に満足するわけもないか。君はそこから遠ざかりたかったのに、何かを述べようとするとそうなってしまうらしい。誰かはそんな話はもうやめてほしいと思っているようだが、やめられない事情でもあるのだろうか。それは事情というほどのものでもなく、ただ惰性で続けているに過ぎないのかも知れないが、その惰性をいつまで続けられるのか。それを続けているうちは可能だということだろう。続けられなくなればそこで終わりとなるのだろうか。本当に終わってしまったらおもしろいか。それは子供だましのようなものだったのか。結局は何もしないで、何も終わらずに、そのうち意味不明のうちに消えてなくなってしまうだろう。そうなってほしいのだろうか。被害妄想の思い込みには際限がないようだ。誰のためにそんなことを語っているわけでもないが、誰がそこで歌っているわけでもなく、どこからかFM波でも混信しているのかも知れない。頭蓋骨の内側には音楽が響いているようだ。そんなことを述べながら誰を騙しているのでもないらしい。何となくそれらの音楽を聴いている。音楽を聴くのに理由など不要か。それと同じわけでもないが、生きているのに理由は要らないだろうか。ただそんな成り行きにしたがって生きているらしく、たぶんそれ以外でも生きて行けるのかも知れないが、何のために生きているわけでもないのだろう。それは暇つぶしなどではないだろうが、たまには生き抜きも必要なのだろう。だが必要だからといってそれを求めているわけでもなく、何も求めずに何かをもたらそうとしているのかも知れないが、そんなことは不可能だと思われる。しかし不可能だからといって、それをあきらめているわけではない。それは必要だろうが不必要だろうが、あるいは可能だろうが不可能だろうが、そんなことは毎度おなじみのように、どうでもいいことなのかも知れず、ただし善に言葉を繰り出して文章を構成していれば、それでかまわないのかも知れない。だが本当にそんなことをやっているとは思えないのも確かところか。そこで繰り広げられている何事にも本気にはなれないし、それが君の言葉で語られているとは到底思えない。どこかの誰かが気休めに何かを述べているだけなのか。


9月7日

 誰がそこに倒れているのだろうか。生死の定かでない表情には何も感じられない。君が考えていることは浅はかに思われる。何もかもがあやふやなままに推移していくように感じられ、はっきりしない意識をはっきりさせる術を忘れて、なぜ今さらそんなことを述べているのだろう。また話の具体性から遠ざかりたくなってきたのか。何となくそれでいいような気がしてくるが、それらの文章の中で何がおかしいのかわからないのか。気持ちだけが支離滅裂の状況の中で、何かを見なければ気が済まないのか。それは妄想から生じた幻影になるだろうか。何となくそれは決まり切った語り方だと思うが、そんな風にしか語れないのだから仕方ない。また焦りながらも、偽りの心に魅惑されて、たぶんいつものように何かがおかしいと思うが、何をはしゃいでいるのだろうか。この世界に未来があるとすると、まだ話にはその続きがあるのだろうか。だが君はごまかしだけで語り続