彼の声49

2005年

7月31日

 たぶんそれらの画像は魅力的なのだろう。ストーリーも読ませる内容にはなっている。そんな見下した述べ方が憚られるほどに人々の心を捉えているのかも知れない。そこにはそれなりの技術の集積があるらしい。しかし君はそれの何が不満なのか。不満なのではなくそれらの見せ物に魅了されてしまっているのではないか。たぶんそれはそれでそういうことなのであり、そういうことでしかないわけではなく、感知している以上のものがあるのだろう。しかしそんなものに心を奪われているうちに何かを怠っていることに気づかなくなってしまうのかも知れない。人々は何を怠っているというのか。自分たちがありふれた世界に暮らしていることに気づかなくなる。ただ普通に暮らし普通に生きている現実を意識できなくなる。自らが単純な価値基準に依存していることを忘れている。単に無知であるのではなく、知っているのに知らないふりをしていることを忘れている。知っていながらそれを無視して、さかんに知り得ないこと知ろうとしているわけだ。そんなことはどうでもいいということを、わざと忘れたふりをして、自らの感性に嘘をつきながら、それがどうでもよくないことであるように思い込みたい。それがフィクションを形成しているのだろう。自らのやっていることや、魅力的に感じることが、何らかの価値を持っていると思っていたいのだ。そんな思い込みが何でもないことだなんて思ってもみないのかも知れないが、もし何かのきっかけで本当は何でもないことだと悟った時、それ以降は何をやればいいのだろうか。何もできなくなるのかも知れないが、何もできなければ死んでしまうだろうか。だが死ぬことさえできないとしたらどうだろう。いったいそこから何が生じてくるのか。まだ何かをやるつもりらしく、別にやり残したことがあるわけではないようだが、やる気もないのにまだやめるわけにはいかないらしい。それらの言葉の連なりが保持しているつもりの意識が、何を思っているのかわからない。君と意思疎通を図るには距離が遠すぎるのだろうか。別に実体を操っているわけではないが、何かしらそこには周りの時空から滲み出てくるものがあるらしい。それが言葉以前の雰囲気だとすると、それにはどんな意識が宿っているのだろうか。実体がないのに意識などあるわけもないか。しかしその場の成り行きに合わせて言葉を操っているように思われ、常に先を読むこともできるらしい。何がそれを構成しているのかわからないが、あるいは何ができるわけでもないように思われるが、実体を持っている意識に対して何らかの作用を及ぼしていることは確かなようで、その作用によって実体はそこにある事物の存在を感じ取ることができるのかも知れない。ところでさっきから何について述べているのだろう。なぜ君はそんなことを述べながらもそう思うのか。それを否定することができるだろうか。それは何かの妄想が言葉として出力しているだけなのか。君はそこで言葉と意味以外の何と何を近づけたいのか。またそんな風に述べてしまうことに関して、何かやむにやまれぬ事情でもあるのだろうか。何とか具体的な話題へと話の矛先を向けたいらしいが、なぜかそこから言葉がつながらないようだ。君は何かを見て見ぬふりをしている。話が破綻しているらしいことはわかっているつもりのようだ。どうやらその辺で限界に近づいているのかも知れず、現実に生じている虚無をどうすることもできずにいる。それらのどこにどんな精神状態を設定しようと、それが誰かの思い描いている架空の物語に影響を及ぼすことはないだろう。語りの対象がどんな話なのか特定されることを恐れているのかも知れないが、なぜそうするのかは不明だ。そこまでは誰かの意識が述べようとすることを、読み切れていないのかも知れない。たぶん読んでいるつもりのものに文字が記されているわけではなく、どのような言葉が生じているわけでもない。またそれ以外は取り立てて何を説明しているわけでもないらしいが、内面の空洞の中で虚無が膨らみ続けているようだ。そこで誰かが君の脳裏にささやきかける。そんな風に思うのはやめた方がいい。たとえこの先何が起ころうと大したことはないのだろうし、いつもと代わり映えのしない精神状態を保ちつつ、そんなことを思っていることの真偽を確かめられるわけがないとも感じている。そんな風に感じられるのはおかしいだろうか。まだ完全に頭がいかれているわけではない。これからさらなる言葉の襲来を受け止めなければならないが、どこで何をやっているわけでもなく、そこにどんな備えが整っているわけでもない。意識はまだ先月の時空を彷徨っているらしいが、いくら彷徨ってもどうなるものでもないだろう。そこに現れているのは取り扱い不明の言葉の束でしかないか。どう述べても何かが違っているように思えてきて、そこで彷徨っているつもりの意識を言葉が捉えきれていないようだ。やはり何を語っているわけでもないのだろうか。いつまで経っても語っていることの意味がわからず、そしてそれはいつものように決まり文句と化している。なぜそんな思考に凝り固まっているのだろう。そこから何を考え出そうとしているのか。すでに連ねられている言葉に先行して何を考えられるわけもない。できるなら思考より言葉の出現が先に起こる状態を改められないのだろうか。だが今さら時事的にどんな問題を導き出せるわけもないか。考えるべき問題などありはしないし、絶えず考えられないようなことについて考えざるを得なくなってしまっている現状を、どうすることもできずにいるらしい。架空の君にとってはそんな問いかけも想定の範囲内だろうか。今さら君に向かって何を述べても無駄かも知れない。何か途方もないいい加減さに取り憑かれているような気がしてくる。確かに何もないからそんなことを述べざるを得ないのだろうが、本当に何もないわけではなく、そこで意識が感知している事象に関心がないだけか。しかし意識以外の何が関心がないといえるのか。確か以前にもそんな言説が繰り返されていたように思われ、そうなってしまう理由がないわけではないが、ひたすら作業が遅れ続けている理由を、そこからどう説明できるだろうか。別にそんなことを説明したいわけでもないが、何を説明しようとしてそんなことを述べているわけでもなく、それがどうかしていることの説明になっているのかも知れない。そしてそこからさらなる続きをもたらそうとしているのかも知れず、ただ誰かは泥縄的に文章を長引かせていきたいだけのように思われ、その時点ではそんなことをやり続ける以外にやりようがなかったのか。だがそれも過去の話でしかないようだ。


7月30日

 この期に及んで何を断言すればしっくり来るだろうか。君に未来などありはしない。しかし未だにそんな時と場所でもがいているのか。その辺でもういい加減にあきらめたらどうか。何もないのに空白に言葉を並べる必要などありはしないだろうが、それでもそれをやるに当たって何か持ち合わせているつもりなのか。文章を構成するためには言葉以外に何が必要なのだろう。そこで経験はどんな邪魔を用意しているのか。誰が何を思い何を考えているつもりなのか。当然のことながら、まだ何も導き出されてはいないようだ。しかしそこに出現しつつあるのは導き出そうとしているものではない。何が出現しつつあるのか、また何を導き出そうとしているのか、そんなことを誰がどうやって知ることができるのだろうか。だが知る手がかりが何もないわけではない。ただの空虚ならすでにあるのではないか。しかし空虚から何がわかるというのか。君はそこに何もないことをわかっているはずだ。空虚以外の何が出現しつつあるわけでもない。言葉の連なりは空虚以外の何なのか。まだ意識は空虚に代わる肯定的な概念を見出せないでいるのだろうか。そんなものを見出すことは未来永劫あり得ないか。今のままではそうなのかも知れない。では今のままでなくなる状況を想像できるか。なぜその先に思考が及ばないのだろう。思考の代わりに内面から滲み出てくるのは決まって妄想の類か。例えばあるとき誰かは、バラ色の未来を思い描きながら現実から逃避したいらしく、しきりに人間一般の幸せについて論じているように思われるが、はたしてそれは冗談で述べていることなのだろうか。誰がそんなことを述べているわけではない。たとえ話には嘘がつきものなのだろうか。何もないのだから何を述べても嘘になるだろうか。それが嘘では誰が困るというのか。本当に何もなくて困り果てているのなら、やめてしまえばいいだろう。それはそんなことなどできるわけがない、と高をくくった言い草か。まさかそこで話すのをやめてしまえる勇気が湧いてきたわけでもあるまい。いったいやめてしまうことを前提としてそのような話を進めていいのか。そういう述べ方はまだるっこしくないか。そんな風に思っているのなら、どうすればそれをやめられるのか、それを示すことができるだろうか。どこかのアニメのように暴力でけりをつけたくなるか。誰もいないのに暴力をふるう担い手をどう出現させればいいのだろう。とりあえずその手の映像にはアクションが欠かせない。何もかもが絶えず動いていないと話にならないわけだ。静止画像だけでは間が持たないのかも知れないが、やはりそんな付け焼きのはぐらかしでは、話にならないだろう。しかし何を当たり前のことを述べているのか。どうもいつまで経っても話の核心へ入っていけないようだ。いったい何を語りたかったのか、あるいは何を忘れているのかわからないが、たぶんそれに関してひらめきは何もないだろう。何のアイデアも持ち合わせていない。だから何を述べているのかわからなくなる。君は何をやめさせようとしているのか。まさか君が神ではあるまい。そんな疑念がどこから生じてくるのかわからない。わかっていたらもっとマシな話の内容を提示できるだろうか。だいぶ無駄に語ってしまったらしい。しかしなぜそこに到達できないのだろう。近づくどころかなぜかどんどん遠ざかっているような気がするのだが、なぜそうなってしまうのか。そうなってしまう理由や原因を導き出せるだろうか。説明は無理かも知れない。説明できないからそうなってしまうわけか。逆に説明できたら文章が壊れてしまうのではないか。たぶんそれを説明しようとしているわけではないのだろう。だからどこまでもだらだらと内容のない文章が続いてしまうのか。とりとめがないとはこういうことをいうのだろうか。放っておけばいつまでも続いていってしまうから、どこかでそれを断ち切らなくてはならなくなるか。今がそのときなのか。そのときだとするとこれからどうなってしまうわけか。どうにもならないのかも知れない。どうにもならない理由がどこにあるのだろう。理由のあるなしはそれらの文章の継続には関係ないのか。そんなことを述べ続けていると、何となくじれったくなってくるが、それはそれで同時に心地よさも醸し出しているのかも知れない。それを続けるためには一時的な迷いも必要な通過儀礼なのかも知れず、今の状態はまさに避けては通れないところを、通り過ぎている最中なのかも知れないが、はたしてそれでいいのかどうか、それについてわざとらしく疑念を抱いているところなのか。しかしいったいそこには何があるというのだろう。ただ単に何かが繰り返し述べられているだけなのか。時計の針が数日前から止まっているようだが、そんな表現はありふれていて、退屈さを醸し出しているようだが、それをはじめからやり直すわけには行かないのかも知れない。だからそこで時間が止まっているように装いたいのか。それは言い逃れもいいところで、何が止まっているわけもなく、それらの言葉はこの世界の何を反映しているわけでもなく、そこからさらに嘘をつき通すならば、時間が止まる前の世界の中に、そんな現象を暴くためのヒントでも潜んでいるわけか。しかし今はなぜ時間が止まっていると感じるのだろう。何がそんな風に感じさせているのか。そんな風に感じていること自体が何となくおかしいとは思わないか。現実にそこで立ち止まることができるだろうか。立ち止まれなければどうなるというのか。何を顧みる必要があるのだろう。何も見出されはしないだろうか。逃れられない道筋を通っているのかも知れない。どうにもならないことをやり続けているらしく、そんな風に思ってしまうのにも理由がありそうだが、やはりそれを導き出せるわけもないように思われ、あきらめるのはまだ早いかも知れないが、そんな風に述べていること自体が、あきらめてしまっている証になるだろうか。しかしそれでも続いていってしまうのだろう。何が続いてしまうのかわかりかけているような気がするのだが、まだその続いている言葉の連なりを断ち切る勇気は湧いてこないようで、今やめるわけにはいかないように思われ、それでもかまわないらしい。たぶんかまわないからそうなってしまうのだろうが、そうやって同じ言葉が繰り出される状況の中に居続けることは、マンネリ化の危険を伴っているのだろうか。すでにそういう状態なのかも知れず、君にはそこから抜け出ようとする必死さが足りないのではないか。他に何がそこで抜けているのか。すべてが抜けているような気もするが、それでは大げさすぎるような気もしてくる。まだ耐えなければならない状況が残されているらしく、もしそれもなくなってしまったら、そのときはもはや何もできなくなってしまうだろう。まさかそんな状況になることを夢見ているのだろうか。それは実際にはありもしない状況かも知れないが、まったく叶わない夢ではないと思うのはどういうことなのか。何かその辺で矛盾していないか。たぶん矛盾を感じながらも、今はその成り行きに身をまかせている最中なのかも知れない。そしてそれはいつか恐るべき野望になってしまうかも知れない。


7月29日

 まだ何も始まっていないらしい。何かが氷漬けのまま中に止まっているように思えるが、それは嘘で何がそうなっているのか思いつかない。出だしからわけがわからなくなっているようで、どこかに妥協するきっかけを設けたいのだが、誰かはそれらのどこに差し挟むべき言葉を見出しているのだろうか。つながりのある言葉など何も見出されず、それでも文章を構成しようとして叶わず、何やら頭が壊れたまま意識も壊れ文章も壊れているのかも知れない。結局何がどうなっているのか意味不明だが、壊れたままで先を急いでもかまわないだろうか。それができればの話だが、別に君は病を患っているわけではない。ただ夜の間中投げやりな気分でいたいだけなのかも知れない。もう少し真面目なったらそれらの文章がまとまってくるだろうか。しかし君とは別の意識は、そんなことを期待しているわけではない。他人が何を期待しているかなんてわかるはずがないが、君でさえ他人なのかも知れないのだから、そんなことを述べていること自体がおかしいのではないか。ではこれから何かおもしろいことでも起こりそうか。なぜそうなってしまうのか。そんなことを述べても何も起こりはしないだろう。ところで君は何について語りたいのか。そんな問いかけを誰に向かって発しているわけでもなく、語るべき内容を見出せないのはいつものことかも知れないが、それでもそれなりに言葉をつなげようとしているらしく、そこにどんなシステムが作動しているわけでもないだろうが、ありふれたことを述べるならば、結果として導き出される文章は妥協の産物なのかも知れない。とりあえずうんざりするような言葉と言葉のせめぎ合いの中に、何か建設的な話し合いのきっかけでも見出されるのだろうか。見え透いた嘘をつかないでほしいか。誰と誰が文章の中で話し合っているのか。モノローグの中で話し合うことはあり得ない。だがそんなあり得ない話の中に君と誰かを存在させたいらしい。二つの意識を存在させて話し合っているように文章を構成すれば、それがありきたりのフィクションでもなるだろうか。今のところそれとは違う言葉を見出せないようだが、それでも自らの稚拙な文章表現が、壁にでもぶち当たっているのかも知れず、その壁を乗り越えて、何か利いた風な言葉の連なりを獲得しようとしているわけでもなさそうだが、それでも何かしら自然に言葉が湧き出てくるような成り行きに身をまかせて、それが誰を念頭に置いた嘘なのかわからないが、行く当てのない話の中身はおのれ自身で何かをやり遂げようとしているのかも知れない。しかしそれの何が嘘になるのだろうか。そこでは言葉以外の何が彷徨っているのか。未知の意識が言葉を繰り出すためには何を経験しなければならないのか。唐突に出現した未知の意識とは何なのか。それはその場限りのいい加減なつじつま合わせから導き出された意識かも知れないが、それでも辻褄が合っていないように思えるのはどういうことなのだろう。それらの何がつじつま合わせなのかわかっていないらしい。ではそれらのわけのわからない経験によって、文章はどのような領域へと至ることができるのだろう。現状ではどこへも至らずに、それでも言葉と言葉をつなげようと意識は強情を張って、無理を押し通してそこへとどまろうとしているだけか。しかし無理が無理でなくなるために、絶えず工夫しながらやるべきことを成し遂げなければならない。誰がそう思っているのかわからないが、誰かは確実にそこに無関係な言葉の連なりをねじ込んでいるようで、例えば想い出の中で夜通し降り続いた雨はすでに止んでいる。なぜそんなことを述べるのか。過去の時間において君は何を避けているのだろう。先が見えてくるとなりふり構わずやり遂げてしまいたくなり、いったんは避けていたやり方を試したくなるらしい。そしてどういうわけか作業を再開しようとしていた直前に、気が変わってしまったらしく、いつまで経ってもそれをやろうとしない。そんな見え透いた矛盾を楽しんでいるのだろうか。なかなか当初に抱いていたことをやる気にはならず、その結果として過去の意識の思い通りにはいかないようで、ここ数日はほとんど作業がはかどっていないらしい。だからなおのことをいい加減に振る舞いたくなるのだろうか。要するに自暴自棄を装いたいのか。すでに引き金を引いているような感じで、あとは意識が切れるのを待つのみか。そのときの意識はまるで衝動的な犯罪者のような気分になりたいのか。しかしそれで何ができるというのだろう。たぶん何もやれるはずもなく、君は君以外に誰もいない部屋の中で、ただつまらない作業を黙々と行っている。それ以外に誰が何をやろうとしているわけでもないが、架空の話の中では、誰かが興味深い何かを発見している最中かも知れず、その何かが何なのかを言葉で示してみたい、という妄想を抱いているのかも知れない。たぶんそんなまわりくどい表現の途中で言葉が滞っているのかも知れず、いったんそう述べてしまえば、それらの停滞は避けて通ることのできない成り行きだろうが、神はそこから何をどうしろというのだろう。信じていない神を信じられるきっかけでも巡ってきてほしいか。それはあまりにも馬鹿げたことか。宗教の崩壊した内面のそこにはまだ何かが残っているのだろうか。ここ数日の暑さで体力を消耗しているのかも知れない。それで何も思わないのは当たり前のことなのだろうか。体力など寝て起きればすぐに回復するだろう。それが原因や理由にはならないか。こだわりがないのだろうか。またつまらないことを述べてしまったような気がする。何をやるのにも積極性とは無縁なのだろうか。何もないことに焦りを感じて、どこかへ飛んでいってしまいそうになるか。君には翼がないが、翼は鳥類に備わっている。やはり何を述べているのかわからなくなるようだ。それの何が馬鹿らしいと思われるのか。何かあるように思われるのは気のせいか。書くべきことなど何もありはしない。何を述べているのかわからないのはいつものことなのだろう。何となく行き詰まりが長引いているようだが、長すぎるのは行き詰まりばかりではなさそうに思われる。無理なものは無理でしかなく、できないものはできないのだろう。それとは別にあきれ顔で何かささやいているのかも知れない。君はまだそんなことをやっているのか。だが言葉としての実体はそこにない。つぶやき声として発せられているように聞こえるそれは、言葉ではなく言葉以前の何かだろうか。それに関してわかっていることは、わからないことと渾然一体となって、文章の中に提示されているように思われるが、何を述べているのかわからなくなるようなことを述べているらしい。それ以上のことは何も述べられないのかも知れないが、その避けて通ることのできない意味不明を受け入れる理由がそれらの文章のどこにあるのか。


7月28日

 なぜそんなことを繰り返すのか、まだ何を述べているのでもないような気がするが、何事も否定的に捉えてはいけない。ひねくれて捉えようとするのはさらにやってはいけないことか。しかし何を捉えようとしているのか未だ定かではない。別にそんなことについて何を考えようとしているわけではない。まだ機会を捉えていないような気がする。あまりその場の気まぐれだけの思考を利用してはいけないのかも知れない。そのような雰囲気の中では何を思っても考えてもだめなのか。機会などやってくるはずがない。それが何をどうする機会なのかわからないが、案外今がその機会なのかも知れない。何もわからないのに、なぜそんなことを思いつくのだろうか。そんなこととはどんなことなのか、本当に何もわかっていないのではないか。わからないからそんなことを述べているのかも知れない。それがわかっていたらもう少しマシなをことでも述べているところか。何がどのようにマシなのかわからない。それについて何をどう思えるというのだろう。それについて何をどのように思うにしろ、とりあえず夏の暑さは著しく体力を消耗させるものらしい。その強烈な日差しの下にいると、何となく寿命が縮む思いがしてくる。幻影として死の影でも見ている感じか。そこで死という言葉が安易に導き出されているように思われるが、死について深く考えるのは危険な兆しだろうか。別にそれほど深く考え込んでいるわけではないが、自らの死について思考する者は自殺する危険性でもあるのか。死にたいわけでもないのに、死んでしまうことがあり得るだろうか。まさか疲れ果てている君の顔には死相が浮き出ているわけでもないだろう。だがここは疲労を回復させるためにももう少し安全なことを述べておくべきではないか。思考する意識をこわばらせている神経を解きほぐして、リラックスしているような気にさせておかないと、この先が持たないような気がしてくる。例えば死は死でもそれが他人の死なら、気楽に思考の対象とすることができるか。ただいくぶん無責任な気分にはなれそうな気配がするだろうか。しかしその後が続いてゆかない。何がそこでの死を構成しているのだろう。それはただの言葉が死を醸し出しているに過ぎないのかも知れない。そんな架空の死の世界には何らかの変容がもたらされているのだろうか。死を表現しようとする言葉の束が死を変容させている。そこには静寂が訪れているはずだが、それは具体的な誰かの死から来ているわけではない。誰も死んでいないのに、誰かが死んだように述べることは可能だろう。別にそこで現実の死を記述しているわけではない。今こそ決断を下さなければならないのかも知れず、どこかで妥協しなければならないのかも知れない。死に関する決まり文句とはどのようにしてもたらされるのだろう。それによって物事の上っ面だけかすめて何かを述べているような気になりたいのか。その唐突の変化は君の精神にどのような影響を及ぼそうとしているのだろう。誰かは今どこで何をしているつもりになりたいのか。たぶん何をやっているのか定かでないのだろう。やる気はどこかへ消え去ってしまったのか。そんなことを述べながら誰が忘却の彼方から登場しようとしているわけでもない。もう作り事の世界には飽き飽きしている頃だろうか。それでもまだその続きを何とかしなければならないのだろうか。君はそこで何を問いかけているのだろう。この世界には何がもたらされているのか。たぶんそれは死だけではなく、今までに見聞してきた物事をはるかに超えるすべてがもたらされているのだろう。人々はなぜそのわけのわからない事態に驚かないのだろうか。それがごく当たり前のことだからか。わけがわからないにもかかわらず、それらのすべては当たり前のようにもたらされているということか。それをわかりかけているのかも知れないが、まだ完全にはわかっていないのかも知れない。そのすべてをわかることなどできはしないのかも知れないが、無意識のうちにそれを悟っているのかも知れず、それが意識の表面上に昇ってくることはないだろうが、決して何もわかっていないわけではなさそうな気はしている。そんな風に語りながらも現実に作用を及ぼしている何かを捉えているのかも知れない。それは誰かがその言葉の連なりを読めば伝わるようなことだろうか。君は誰かが何を述べているのか理解できるだろうか。理解しようとする気がなければ何もわからないか。理解できないわけではないが、それが誰かが述べようとしていたことであるかどうか、それを確信するまでには至らないだろう。少なくとも何かを述べている気はしているのかも知れないが、相変わらずその内容について不可解に思われる箇所が多すぎるような気がしている。なぜそれを明確にできないのだろうか。ではそうすることによって、誰が利益を得たり逆に不利益を被ったりするのだろうか。それに関して人々は何を知りたがっているのだろうか。人々ではなく君は何を知りたがっているのか。君にそれを知る権利があるとは思えないか。誰がそう思えないのかわからないが、そんなことを述べているうちに知ろうとする意欲が著しく減退してくる。また何かをごまかそうとしているのか。しかしそうやって君は何を説明しているつもりなのか。それらの説明とはいったい何なのか。はたしてそれが何かの説明になっているのか疑問に思うが、説明になっていようといまいと、何でもないのかも知れない。何でもないから何の感慨も抱けないのか。しかしそこに生じているつもりの感慨とは何だろう。なぜ感慨に耽るような状況がもたらされているのか。君はできもしないことができると思うか。誰がそう思っているのか。また君は文章の中に架空の登場人物を紛れ込ませようとしているのか。それを架空ではなく現実の誰かだと思えるのはどうしてなのか。それ自体が嘘なのかも知れない。ではその場の偶然から生じた世界に存在しているらしい誰かは、どんなことを思っているのだろう。何を思っていることにしたいのか。いったい自分は何者として生きているのだろうか。もしやり方に過ちがあるのなら、もし可能であるならば、今後それの何を修正することができるだろうか。黙って自然の成り行きに従うべきか。自然現象を利用しつつ、それを介して文章が記されるのだろうが、未だにまともな内容が見当たらない。できることなら蒸し暑い夏の日の午後には何も起こってほしくない。季節の巡りが早まって、明日からでもすぐに秋になってほしいか。不快さのただ中で何を見出したつもりになれるのか。それらの成り行きに意識の介在を見出せるだろうか。とりあえず唐突に結論に至ろうとするなら、誰かの感覚を基に構成された文章によると、この世界は漠然とした雰囲気に包まれているらしい。そんなわけで君は今日も当たり障りのないことを述べようとしている。またそこに何が足りないのかはわかっているつもりだ。


7月27日

 冷静になろうとしているのかも知れないが、冷静にはなりたくない。平静を保つことは無理かも知れないが、平静でいられるような気がする。君にとって冷静と平静はどう違うのだろう。たぶんもうそこには何もありはしない。何かあるとしたらそれは感知できない何かだ。それでもなお何も導き出せないのはよくあることだとうそぶいていられるだろうか。それが平静を装っていることになるわけか。確かに冷静であるはずがない。いくら言葉を並べてもそのつながりが皆無のように思われ、いつものことだが何を語っているのかよくわからなくなる。それがわからないのに、さっきまで何を語ろうとしていたのだろうか。冷静でいられないのなら、どこかで休息を取った方がいいのだろうか。不安を感じているうちに、何やら自らが破綻しているような気になってくる。自らの何が破綻しているのかはわからないが、とりあえず君という言葉は不必要な存在かも知れない。だがもとから言葉などどこに存在しているわけでなく、それはいつ何時でも不在という形態をとり続けることしかできないのではないか。不意にそんなことを思うが、それは思うより前にどこかの文章の中で述べられていることか。いったい物語はどこへ行ってしまったのだろう。今さら物語があるはずがないか。では他に何を信じられるのか。君は言葉の他に何を求めているのだろうか。それは何かの実体なのか。実体なら誰かの周囲にいくらでもあるだろう。確かに周りを見渡せば実体だらけの世界に暮らしているはずなのだが、それでは不満なのだろうか。実体の他に何があるのか。君の心の内には空虚がある。だがそれは存在とは無縁の想像上の概念でしかないだろう。そんなことを思っている誰かの意識は、何かに囚われているようだ。安易に空虚という言葉を使ってしまったことを後悔しているのかも知れない。正体のわからない何かを言葉で表そうとしているが、それで何を述べているのでもないような気がしてくる。まさか空虚を利用して周囲を取り巻いている退屈な実体を覆そうとしているのか。それは何かの冗談ではないか。結果として何を覆そうとしていることにもならないだろう。何でもない何かによって何ができるはずもない。要するに無駄で無意味であり、それでもそうすることが何らかの気休めをもたらしてくれると思うなら、それは今までに述べてきたことのすべてであってほしいか。本当に無駄なことばかりをやってきたのだろうか。どんなに言葉を弄しても、それは求めていた文章ではないような気がする。それを認めてしまっては、もう何も述べられなくなってしまうのかも知れないが、それでも闇雲に言葉を弄しながら先を急いでいるように思われる。なぜか語っているうちにどこへもたどり着けなくなっているらしい。いったいおまえはどこにたどり着こうと欲しているのか。たぶんそれは神の声ではなさそうだ。誰がこの先の未来を見通しているわけではないが、そんなことをやりながらも、とりあえず君はいつか死ぬだろう。もはややることのなくなった誰かは死ぬ運命にあると思われるわけか。だが生きているうちはあまり死ぬ実感が湧いてこない。神はどこで何をやっているのか。神の話をしているわけではない。では君にとってそれは死に神であってほしいか。久しぶりに鏡をのぞき込めば、まるで死に神に取り憑かれたような顔つきをしている。そこから何かの物語でも生じてくるかも知れないが、そんなつまらない話は受け入れられないだろうか。神が君向かって何を告げているのでもないと思い込む時、何もない心の内側では何が告げられているのだろうか。そこで誰が何を告げているのか。それは君自身による終わりの宣告か何かか。そうやって君はこれからまた無理なことを述べようとしているのか。そこにはどんな状況がもたらされているのだろうか。終わろうとしてその終わりを長引かせているように思われる。そこに生じている脈絡のない言葉の束をつかみ損ねているようだ。それが文章となることはないのか。文章にならなければ終わりはやってこないだろう。それを構築できないから終われないのか。君はそこで何も見ようとせず、何も見えないから何も考えられないと思い込んでいる。そんな都合良く文章を終わらせられるのか。暗闇の中では何も見えなくて当然であって、君が終わりを拒んでいるうちは、絶えず話の途中から別の話が割り込んでくる。君とは別人の誰かが勝手に話しかけてきたように感じられるが、それは君自身の自問自答が文章に反映されているだけだろう。やはりそんな引き延ばしは見え透いているか。どんなに努力しても何も報われないことを悟った時、誰かは自らがそこに書き連ねつつある虚構の世界に、救いを求めているように思われる。報われないとそれによって救われるような気がするのはどういうことなのだろう。報酬を求めない無為の行為は無責任に思われるからか。無責任でいられるから救われたつもりになれるわけか。しかしそれが何もないことの言い訳になるだろうか。しかしそこで何もない虚無的な言葉にすがりついて、何を望んでいるつもりになれるのか。ただ救われたいだけだとしたら、それこそ出来の悪い宗教に染まっているのではないか。しかしそれ以外に何があるというのか。いったいどんな結末がお望みなのだろうか。要するに思い通りの結末に至りたいのか。なぜさっきから君はそれについては黙ったままなのだろうか。その沈黙のわけを知りたいか。君が黙っているのではなく、誰かが君を黙らせているのだろう。どんなにそこから外れようと君は何も思いはせず、何も思わないから何も言葉を発しないが、それでも君は何を思っている最中なのかと問い続けることはできる。そんな見え透いた問いは無効だろうが、そうやって誰かは何か目新しい言葉でも追い求めているのだろう。しかし新しい言葉を授かるには新しい経験が必要だ。誰もそんな風には思わないか。そこで何を疑っているのだろうか。利いた風なことを述べた後には、すぐにそれは何かの勘違いではないかと疑いたくなる。自分の述べていることに自信がないのか。自らがやっていることに自信を持つのは欺瞞につながるように思われるのか。それでは良くないから逆にそれで良いと思いたくなる。語調が強まった時は過ちを悟った瞬間か。それを認めたくないから、焦ってさらに言葉を付け足そうとする。そんな悪循環を好んで使いたいのだろうか。しかし皮肉だけでは何ももたらされない。頭の中が現実離れしているのかも知れない。だがそれを信じてどうするのか。皮肉がだめなら気休めだけでも何かもたらされないだろうか。それも無駄なら何を反省しなければならないのか。君はわからないことをわからないままにしておいて、しかもそのわからないことについて述べようとしている。それは無理なのではないか。


7月26日

 迷い続けるのはそれほどおかしなことではない。自らが何を語りたいのかわからないのは当然ことかも知れない。語る以前に意味の定かでないことを語りすぎていて、そこで無駄に言葉を浪費してしまって、すでに言葉は尽きているのではないだろうか。それが原因かどうかわからないが、ここ数時間はなぜかそこから先へ言葉をつなげられずにいるようで、何も語れない状態がいつもより長引いているような気がする。いったいそこで感性は何を躊躇しているのか。躊躇しているのではなく、案外本当に行き詰まってしまったのかも知れない。しかしどうして君はそんなことを述べているのだろうか。これから何かを語るはずの意識はどこで何をやっているのだろう。何をやっているわけでもなく、理由は定かでないが、知らないうちにそんなことを語っている現状があり、不意をつかれた君は一瞬焦りを覚えたようだが、すぐに平静を取り戻して、それでもかまわないように思っているふりをする。君の宿主はこれまでにも無駄で無意味なことをいくらでも語ってきてわけだから、あまり自己嫌悪的に気にするようなことでもないだろう。ならばついでにこれから述べようとしていることが、以前と同じことの繰り返しになってしまうのも素直に認めざるを得ないか。結局それらの文章は、手法的な行き詰まりとともに、内容的にも以前に記されたものと同じような状況について述べられているのだから、若干言葉の並びが異なろうと、語っている内容に新鮮味は感じられないだろう。そのすべてがフィクションではないのだから、そう都合良く思い通りに事が運ぶとは考えにくい。言葉は絶えず外界からもたらされる現実の作用を被って生成されるのであって、文章もその痕跡を多少はとどめているのだろう。しかしそれでも空を引き裂いて何か得体の知れない幻影が降りてくることがあるだろうか。単にわけのわからない妄想を利用しながらそう記しているだけだろう。そんな前後の脈絡を感じさせない文章の断片だけでは心は動かないか。君はその場の偶然から生じたいい加減さと戯れているだけか。何が空気以外に何もない空を引き裂くことができるのだろう。夜のうちに巨大な雲の渦は東の海に逸れてしまったようだが、それでもまだ大自然の驚異を利用して何か語れると思っているのだろうか。往生際の悪さは今に始まったことではない。終わりはそんな風にして訪れるのだろう。それが何の終わりなのか定かでないが、空想と現実が混ぜ合わされたそれらの光景をよく見ると、雲の切れ間から神が下界をのぞき込んでいるように見える。神話は人々の心にどのような言葉を響かせるのだろうか。たぶんそれらの光景が展開されている壁画は、もはやその役割を終えているのかも知れない。誰も気にもとめないその色あせた表面は、長年にわたる風雨にさらされ所々がはがれ落ち、全体に汚れがこびりついている。しかし何を君は空想している最中なのか。誰かの頭蓋骨の内側にはカビが生えているのだろうか。頭の中で再構成されたでたらめな空想をわざとぶつけて、触りようのない誰かの心の内を推し量ろうとしているのかも知れないが、その結果がどのような文章の中に記されるべきか考えあぐねている。誰かはそうやって架空の心理状態を言葉で表現しているつもりなのか。何やらさらに述べていることが嘘っぽくなってきたように感じられるが、例えば何がそこでの心理状態なのだろう。実際に考えあぐねている内容はそんなことではないのかも知れず、現実に感じている何かが、それらの文章からは抜け落ちているのかも知れない。それはすでに忘れ去られている何かだろうか。それらのすべてを忘れてしまったわけではなく、まだそれの残り滓のようなものは覚えているかも知れないが、それを素材としてこれからどのように言葉を連ねてみても、必然的にそうなってしまうだろうそのどうでもいいような語りは、あまり歓迎されていないことはわかっている。しかしそこから見え透いた嘘をつくかのようにメディア的な現象へと逃げるのはつまらないだろう。ではその逃げようのない袋小路から何を述べようとしているのか。そうやって話を勝手に切羽詰まらせるのはいかがなものか。自らを闇雲に追い込んでもまともな結果を得られるわけでもなく、必要もないのにすぐに背水の陣を引くのは浅はかなことかも知れない。しかし誰にとっても自らに危機感を煽るのは心地よいらしく、往々にしてそんな浅はかなやり方は乱用される傾向にあり、ときには馬鹿のひとつ覚えのように繰り返され、その有効性をうまく結果に結びつけられずに、行き詰まりを手の施しようのない状態までに悪化させ、そうなるともはや何をやっても無駄に思われてきて、無気力の蔓延を招くことにでもなるだろうか。現実にそんな停滞状況の中で多くの人々は暮らしているのかも知れない。だがそれが長引けば長引くほど、次第にその状況が当たり前のように思われてきて、それでもそれなりにやっていけていることから、それが的はずれな自信につながり、そうなった時点で行き詰まりはあまり問題視されなくなる。怠惰にかまけて同じことの繰り返しをやっている状況が、そこでの日常生活そのものとなるのかも知れない。そんな暮らしが続いてゆく限り、人は飽きもせずひたすらそれをやり続けるだろう。夢から覚めなければ、たとえ内心ではそれに飽きていても、日常の日々を送り続けることによって生じる経験的な堆積がもたらす惰性が、それをやめさせようとはせず、知らないうちにそれの虜になっていることを気づかせない。元来それが人間の生物的な習性なのかも知れず、社会的な安定とはそのようなところから生じているのかも知れないが、君はそれを繰り返すのが気に入らないようだが、たとえ気に入らなくてもそのような状況下においては、君の意思や感情を押し殺す形で、嫌でも状況がそれをやり続けさせてしまうのではないか。たぶんそこから心理的なストレスが生じ、有形無形のストレスによってもたらされる、解消しようない疲労感が蓄積され続け、それを放置し続けると病魔に冒されたりしてしまうわけか。それを避けるにはどうしたらいいのか。君は無意識のうちにそんな成り行きから逃れる術を探しているのだろうか。そのような作用から完全に逃れ去るのは無理なのだろう。たとえそうだとしても絶えず模索し続けることに気休め的な意義でも見出したいのか。それが求めていることのすべてではないはずだ。何を求めているわけでもないとさえ言い放つことも可能か。要するに君はまたそんなことはどうでもいいことだと嘘をつくわけか。そうであるならそれまでに述べてきたことは何だったのか。何でもないがそれでも少しは何らかの効果がもたらされることを期待しているのだろうか。


7月25日

 どうもまたわけのわからないことを述べているように思われる。まっとうなことを述べようとする意気込みは人一倍あったらしいが、やはり試行錯誤の結果としてのそれは、それほど大したことを述べているわけではないらしく、ごく当たり前の内容を稚拙な語り口でたどたどしく述べているに過ぎない。別に誰も聞いたことのないような画期的なことを述べようとしていたわけではないので、結果としてはそれでもかまわないのだろうか。とりあえず自らが抱いていた疑問を、なんとかそれに関連することを述べることによって、自分なりの答えを探し出そうとしていたのかも知れない。だがそれはどんな答えだったのか。未だ具体的には何も明らかになっていないか。明らかにしようと思えば簡単にできそうなことなのか。たぶん明らかにできない理由は何もない。ではただ明らかにしようとしていないだけか。何を明らかにしなければならないのか。簡単に明らかにできてしまってはまずいわけか。なぜかそんなことを述べていると虚しくなってくる。どうもそれは違うような気がしてくる。そんな風に述べてはいけないのではないか。やる気をなくしてため息と眠気が同時に襲ってくる。何を聴いているのだろう。君はその音楽の何に惹かれるのだろう。それについて感じている印象を自前の言葉で表現できるだろうか。自前では借り物の言葉しか持ち合わせていないか。ではオリジナリティの欠如は由々しき問題だろうか。たぶんそうではないと思うのだろう。オリジナリティばかりでは話にならないとさえ思われる。しかし誰がどう思ってみても話は一向に進展しない。進展させる気があるのかどうかさえわからない。虚無に覆われているつもりの意識は、稚拙でありふれた内容にはまったく引っかかってこないようだ。君は気位が高いのか。罠を仕掛けるのならもう少し工夫を凝らしてほしいか。しかし誰に向かって挑発しているわけでもない。実際には何もありはしないだろう。架空の話がどこかで展開中なのだろうか。見知らぬ場所で見知らぬ人々が、その場では不可思議に思われる出来事を巡って、適当に絡み合っているのかも知れない。しかしそれで争っているつもりなのか。互いに争わなければならない理由を見出せるだろうか。まだそれほど絶望的な状況でもないだろう。勝ち負けがはっきりしたら、負けを悟った側は絶望的になるのだろうか。しかし互いの意思疎通はどこへ行ったのか。意思疎通とはどのような状況下で行われるものなのか。別に対話の相手と同じ言葉を共有しているわけではない。迷っているのなら眠りにつけばいい。迷えば迷うほど眠れなくなるか。眠れないのなら言葉を弄して君なりの文章を模索すればいい。誰かの日常の中にその人なりの言葉が埋め込まれているのだろう。そうやって何が完成すると思うのか。日常の暮らしの何がそこでの作品となっているのだろうか。どうやらあり得ないことを語る気分にはなれそうもない。無理にそうする必要はないだろう。不可能を求めるのは幻想に感染している証拠か。苦労して無理なことをやっても長続きはしないだろう。それでも一時的に到来する達成感に酔いしれて、何となくその場に漂っている雰囲気を肯定してみたいか。それらの幻想はどこから到来するのだろう。物語の中から自然と湧き出てくるのだろうか。空想から導き出された幻影の姿を言葉で表すことがそれほど有意義だとは思わないが、言葉で構成された幻影そのものに投影されている誰かの感情を、少しは文章の中に取り込んでみたいような気はするが、それで何を述べていることにもならないか。しかしそれでも何かを語っているような気分に寄りかかりながら、そこから一種の気休めを取り出したつもりになり、何かをやり終えたつもりになってリラックスしたい気になる。しかしそんなややこしい言葉による迂回を経てなお、何を語っているのでもないように思われてくる。どうもそれだけでは居心地の悪さを感じてしまう。そこに出現している虚無の正体を見極められないことからくる不安感を抑えきれていないのか。すぐにそんな不安は別の言葉で打ち消したくなるが、それができるはずがないと思いたくなるのはどうしてなのか。まだ自らの負けを認められないのだろうか。もうとっくの昔に勝負はついているのではないか。この期に及んで何を強がって見せようとしているのだろう。できもしないことをやろうとして、試行錯誤の末にそれができないと悟ったら、今度ははじめから何もやろうとしていなかったと嘘をつく。そんな嘘は無視されて当然か。それまでの語りを台無しにしたくてしょうがないか。ならばそれを実行してみるがいい。誰に向かって言い放っているのでもないらしい。すべてをぶちこわしにする前に、まだやらなければならないことでもあるのだろうか。誰かはぶっきらぼうにギターを弾いて、淡々と歌っているつもりらしいが、それらのどこに演奏技術の確かさが隠れているのか。意図的に隠されているわけではなく、隠れているような気がするだけか。そこで君は言葉遣いを間違えているのかも知れない。言葉遣いだけでなく語り方も間違えている。互いにまったく無関係な別々の趣旨をひとつにまとめることなど不可能か。では他にまともなやり方があるのだろうか。何をやろうとしているのかがわからない。ではそれ以上は何もできないと思われるのはなぜだろう。そこからどうやって言葉をつなげようとしているのか。それで何を述べていることになるのだろう。たぶん何かが見出されているのだろう。それをそのままに放置して、またそこから新たに語ろうとしている。だが相変わらず同じような調子で言葉が連なっているのは、読み返すまでもなく一目瞭然か。だから昨夜のことは何も思い出せず、そのときの記憶がリセットされてしまったように感じるのか。そこで起こったつまらない出来事をもう忘れてしまったらしい。すでに傷口がふさがってしまったのか。時が経つにつれて少しずつ思い出されてくるのかも知れないが、君はそこで何を賭けていたのか。しかしその後が続かないのはどうしたわけだろう。賭けに敗れたからそうなってしまったのだろうか。ではそのときの状況が意識にどんな作用を及ぼしているのか。敗れ去ったからにはもう何もやらなくていいのだろうか。雨雲が上空を通り過ぎている最中なのかも知れない。それ以外に何がもたらされているわけでもなく、君は賭け事の勝敗には関係なく、相変わらずつまらないことを続けている。どれほどの精神的な圧迫を受けようと、未だにそれを終わらせられない。君一人では終わらせることは不可能なのだ。それらのどこに区切りをつけていいのかわからない。ではまだどこまでも続いていってしまうのか。なぜそうなってしまうのだろうか。そんな思い込みから生じている先入観を抜けきれていないようだ。君は実際には何をやっているのかわかっていないようだ。


7月24日

 どうも迷いが生じているらしい。それについてどう述べればいいのだろう。何を戸惑っているのか。夢の中での君は、何かの宗教性についてしきりに語りたがっているようだが、夢から覚めたらなぜそれが資本主義なってしまうのだろう。その理由を別に時間帯の中で必死に探しだそうとするが、焦る心とは裏腹に、君はそれについて何も語ることができないようだ。資本主義という得体の知れない主義にさえならない主義について、何をどう述べればいいのかわからない。例えばそれを拝金主義というと、完全に否定的な意味を伴い、それ相応にわかりやすくなってしまうが、そんな言葉を用いて資本主義を批判しても無駄なことはわかっている。否定的な側面ばかり強調しても、現実にそれでうまくいっている状況がある限り、あまり説得力を得ることはないだろう。それらの仕組みから来る制度に従うならば、自らが保有している資産を増やすことが肯定されるのは当然であるが、資産を増やすことが目的化すれば、誰もがそればかりを追及することによって、この世界はどうなってしまうのだろう。それと宗教性とはどう結びつくのか。誰もが莫大な富を我がものとできるわけではない。実際に金持ちになれるのはほんのひとにぎりの人たちだが、それでも誰もが贅沢三昧の暮らしを夢見ているとすると、それらの妄想と現実とのギャップから不満が生じるのは当たり前のことか。だが世の中のすべての人が大金持ちになってしまった状況を誰が想像できるか。なぜそうならないといえるのか。経済学は必然的に貧乏人が生まれてしまう原因を解明することができるだろうか。例えば国家がどのような政策を実施すれば貧乏人が生まれなくなるのか。まさか貧乏人を片っ端から殺してゆけば貧乏人はいなくなるだろうか。そんな理不尽なことができるはずもないだろうが、では資本主義にとって貧乏人の存在はどのような役割を担っているのだろうか。とりあえずありふれたどこかの宗教指導者が、神を信じていれば誰もが救われるといくら説いてまわっても、実際はそうはならないのと同じように、いくら頑なに資本主義を信じていても、それだけで誰もが金持ちになれるわけではない。少なくとも大金持ちの家に生まれたとか、何かのはずみで高額な宝くじにでも当たらない限り、金持ちになるためには日々努力を重ねなければ無理なことはわかりきっているが、それはいくつかの宗教が救われるための修行を前提としているのと同じことか。では努力すれば救われるというごくまっとうで当たり前の教義には、それなりに少しは信憑性があるだろうか。中にはそうやって金持ちになった人もいるだろう。実際に貧乏な境遇から這い上がって金持ちになった人に尋ねてみれば、ほとんどの人が日々の努力が欠かせないと答えるかも知れない。だが中には日々の努力を欠かさなくても貧乏人のままの人もいるのではないか。それは神をひたすら信じていても不幸のままの人がいるだろうことを想像できるのと同じことか。とりあえず宗教信者にも幸福になれる人と不幸になってしまう人がいるのと同じように、資本主義を信じている人にも金持ちになれる人と貧乏人になってしまう人が出てくるということか。そして宗教も資本主義も信じているだけではだめで、そうなるために努力しなければならないというのもごもっともなことかも知れないが、中には努力しても思うようにいかない人も出てきてしまうのも当然のことかも知れないが、それは努力の仕方に問題があったということにでもなるだろうか。そこで努力が結果に結びつくように、努力の仕方についてそのノウハウを伝授する指導者の役割を担う人々が登場してくるのかも知れない。例えばそれは財テク本の著者であったり、株式投資におけるファンドマネージャーであったりするわけか。だがしかし指導者の言うことを聞いてその通りの努力をしたとしても、なおそこから成功するケースと失敗するケースが出てくるだろう。失敗してしまったのは運が悪かったことにでもすれば、それで一件落着するだろうか。とりあえず宗教にしても資本主義にしても、それらを推し進める人たちが喧伝していることといえば、その大抵は自分たちの言うことを聞いて、言った通りに努力すればうまくいくはず、という内容でしかないが、彼らの言う通りにやっても、うまくいく場合とうまくいかない場合がある、という結論も前もって用意されているような気がする。そこから運が良かったとか不運だったとかいう言い訳が導き出されてくる。たぶんそこにその場の成り行きや出来事の、不確実で偶然性を伴った絡み合いが考慮されなければならないのだろう。要するに客観的には確実なことはほとんど何も言えない状態で、それでもなおのことそこで、確実に儲かるようなことを述べて、自らの信者を勧誘しなければならなくなるということか。そんな風にして浅はかな人々を嘘や詐欺によって誘い込んで虜にしなければ、それらは立ち行かなくなってしまうのだろうか。もちろんそれで失敗してしまう人に対しては、前もって自己責任という言い訳が用意されており、その辺の言い逃れは用意周到なのだが、それでも儲かるかも知れないという甘い期待に胸を躍らせて、それらの宗教もどきにはまってしまう人は後を絶たないのだろう。だがそうであるならばなおのこと宗教も資本主義も否定されるべきものなのか。そんなものをいくら否定しても無駄かも知れない。それが否定されたら別の宗教が出てくるだけか。たとえば二十世紀的成り行きからは社会主義や共産主義とかいう時代遅れの宗教が出てくるだろうし、二十一世紀的には科学やメディアやインターネットとかいう宗教も出てくるはずか。しかし何でもかんでも宗教に還元してしまっても話に説得力がなくなってしまうだろう。とりあえず現時点でもっとも強力でもっとも広まっている究極の宗教が資本主義であることは確かなようだ。それは否定するのも憚られるほどの力を持っているのかも知れないが、それに対抗できるようなものがはたしてあるのだろうか。何をもって宗教に対抗しても無駄で無意味か。そんなことはイスラム過激派にでもまかせておけばそれで済むことかも知れないが、現代において資本主義の次に成功している宗教がイスラム教なのだろうか。少なくとも自らが信じている宗教に対する思い入れの強さは、他の宗教の信者よりかなり強いのではないか。なぜそうなのかといえば、欧米中心の世界支配に唯一対抗しているのがイスラム教徒であるという自負でもあるのだろうか。あるいはかつての栄光をヨーロッパ諸国に海賊さながらの略奪行為によって踏みにじられた過去に対する復讐心がそうさせているのか。


7月23日

 心が渇いているのは誰のせいなのか。何を渇望しているのか。君に心当たりは何もない。いつもはそれで切り抜けてきたはずだ。似たようなことを述べてしまう体質が染みついている。いつもと同じ想像力はいつもと同じ行程を経て、いつもと同じ文章を導き出す。それについてどう思おうと、それを否定したい思いを無視して、相変わらずそんな問いかけを発している。いったい君は何を求めているのだろうか。そこからどうやってはみ出ることができるだろう。たどり着いた場所には何もない。それはまだたどり着いていないということか。そこに何かなければたどり着いたことにならないとしたら、いったいどうすればたどり着けるのだろう。そこにはいかなる試行錯誤が用意されているのか。そこから逸脱しようとする試みが何に結びつくというのか。なぜ君はあらゆる言葉からずれたことを述べようとするのか。本当にそんなことをやろうとしているわけではない。またその場の成り行きから導かれてしまった嘘を述べているわけか。言葉の組み合わせ的にそんな風に述べてみたかったのかも知れないが、過去に何をどう述べたかったのかなんて、この際どうでもいいことだろう。気がつけば蝉の鳴き声がうるさい。そこから強引に語る対象を見出すことなどできはしないか。そんな状況をどうやり過ごせばいいのか。それで何を避けているつもりなのか。真夏の日差しを避けられるわけがない。それは今から数日後の出来事になるらしい。だがそんな些細な出来事だけが、言葉を文章上につなぎ止めるための手段だとしたら、それはかなりくだらない状況なのではないか。しかし世の中にはさらにくだらない状況が蔓延していると思っているのか。それがまたどうしようもない思い上がりを形成しつつあるらしい。だが意識はさらにその先へと進んでいかなければならないようだ。そうしなければそこで何かが終わってしまう。君はそこで何を信じているのだろう。なぜそこでお終いにすることができないのか。そんなわかりきってことを誰もいない虚空に向かって尋ねないでほしいか。問い求める対象もないのに問い続けるのはおかしいのではないか。おかしかったら試しに笑ってみればいい。それに対する反応が何も返ってこなかったら、やはりそこには誰もいないということだ。しかしそことはどこのことなのか。虚空に誰かいたらその方がおかしいのではないか。そもそも虚空とは何を指しているのだろう。それは自問自答の果てにたどり着いた何もない空間か何かか。誰がそんな説明で納得すると思うか。そもそもそこには誰もいないのだから、納得するしないの問題ではなく、君の他に誰が納得しようとしまいと、そんなことは君にとってはどうでもいいことなのではないか。そんなことより君が君である理由がどこにあるかを知りたい。またずいぶんわけのわからない展開になりそうな言葉が出現したようだ。そんなことを述べながら君は何をあきらめているのか。何となく先が思いやられてため息をつきたくなってくるが、それをこらえて何かしら言葉を繰り出そうとしているらしい。君はあきらめてしまったようだが、誰かの意識はまだ継続をあきらめきれないでいるようだ。展開のわけのわからなさに嫌気がしながらも、そんな自己言及によってかろうじて文章をつないでいるわけか。そうしているうちにも微かに見えていたものがだんだん鮮明に見えるようになる。それは何か折り返し点だろうか。そこを通り過ぎれば峠を越えたつもりになれるだろうか。たぶんそこで何かが見えているのだろう。何が見えているかは誰かの想像にまかせるとしようか。本当は何も見えていないのかも知れないが、とりあえず文章の中に存在しているつもりの意識には何かが見えているらしい。しかしそんなでたらめのごまかしのようなことで誰を納得させるつもりなのだろう。また納得という言葉が出てしまったらしい。君は納得が嫌いなのか。納得がいかないから延々と言葉を費やして、それでも納得からは程遠い現状について、何をどう思えば納得すると思うか。そうやって何が見えていたのかが見過ごされてしまったらしい。もうそんなことはとっくの昔に忘れてしまったことにしておこう。そんな風に述べているうちにだんだん投げやりな気分に染まってきたようだ。なぜそうなってしまうのか。それは自らのいい加減に寄りかかった君の自業自得というものだ。今度はすんなり答えが導かれたようだ。たぶん一見何もないように思われるが、そこにあるのは紛れもなく空疎な言葉の連なりなのだろう。今度は月並みな結論が導かれた。思考は今どこで彷徨っているのだろうか。何もなさそうに思われるそこで何を考えればいいのだろう。くたびれた意識はいかにしてそこへたどり着いたのか。くたびれてしまったから何も見出せなくなり、何も見出せないから何もないと思い込み、何もないからそこは虚空だと思われるのかも知れない。そんな論法が通じると思うか。常にその場のいい加減な思いつきに言葉の成り立ちを依存している。だから嫌になってくるのだろう。できることならそこから遠くへ飛んでいってしまいたくなる。現状では地べたをはいつくばりながら、かろうじて言葉を繰り出し、それで文章らしき連なりを維持継続させているだけで、その上に語るべき対象を求めるのは無理もいいところか。しかしそこから思考とそこから導き出された言葉を、飛翔させるきっかけがなかなかつかめない現状があることも確かなところか。だからいつまで経っても意識は、下層階の狭い部屋の中で同じ場所を動き回るにとどまり続けている。そこからどうやって抜け出られるのかを知りたいか。それは誰にきいてもわからないだろう。誰もそこにはいないのだからきけるはずもないが、それでも意識はそこで立ち腐れる覚悟ができているわけではないらしく、絶えず抜け出す可能性を模索する毎日を送っているようだ。いつか空は晴れ渡り、そんな空を見上げながら鼻歌交じりにどこかを散策する日々がやってくるだろうか。またくだらぬ幻想に逃げている。それとこれとは関係ないだろう。もちろんあえて何を述べているのでもないと述べざるを得ない現状をどうすることもできず、そんな現状の中に存在し続けていることに、はっきりした自覚があるわけもなく、そこで何かが起こるかも知れないとも思わず、そんな架空の胸騒ぎの無効性を認めながらも、それでも何かが起こるかも知れないという期待感を断ち切ることにはためらいを感じつつ、そんなくだらぬ感覚を利用しながら、これからも何かしら述べていくことしかできないのだろうか。そうだとしたらどうだというのか。もしその状態を抜け出たら、それ以外の何ができるというのだろう。また同じことをやっているようなら、抜け出ていないことになってしまうのだろうか。


7月22日

 たぶんそれは冗談だろう。冗談でなら何を述べてもかまわないのか。しかしなぜ人は争うのだろう。なぜそんなわかりきった問いを発するのか。それについて何を述べようとしているわけではない。たとえそこから嫌な思いが生じようと、争いを避けようとは思わない。避けられないものをそのまま受け止めなければ、そこを通過することは叶わぬらしい。抑えきれない感情を抑えたつもりになって、誰かは必死に無表情を装っているようだが、そう見えてしまっている時点で負けを認めざるを得ない。平静を保つことができずに、わかりやすい成り行きに身をまかせ、あとは予定調和の結末を呼び込むだけか。しかし何を予想しているつもりなのか。架空の眼差しは安易な暴力が世界の隅々にまで蔓延っている様を眺めているが、そこに予想しなければならない状況は何もない。すでに世界中かそんな状況になっているようだ。もはやあり得ない状況などどこにもありはしない。別に誰もが平和を望んでいるわけではないのは明らかになりつつあるようだが、誰かがそこで主張しようとしているあり得ない平和とはいかなるものか。それは日本国憲法が目指している、理念の中に埋め込まれている恒久的な平和だろうか。そんな平和にどんな力が宿っているというのか。それは力ではなく平和という言葉そのものかも知れない。だがそれで何をはぐらかした気になれるだろうか。君は誰が何を目指しているのかを知り得る立場にあるのか。君は君のことで精一杯で、他の誰が何を目指していようと、そんなことにまで関心が向かないか。今も自分が何を述べようとしていたのかを、必死に思い出そうとしている最中らしい。現状では何も思い出せず、煩悶が長引いているかも知れない。だが別に記憶喪失を演じているわけではない。何のふりをしているわけでもなく、その場の思いつきを一掃しようとしているのかも知れない。即興的な言葉遣いに頼るばかりでなく、少しは物事について深く考えを巡らせてみたらどうか。しかし考えるべき対象が物事なのだろうか。それは具体的にどんな物事なのか。どのようにして文章を構成すべきか悩んでいる。それでは埒が明かないだろう。唐突にわけのわからぬことを述べるべきではないか。君は自らの運命に従わなければならない。それらの映像は発想が貧困だと思われる。だがもう後戻りはできない。後戻りできなければ早送りでもしてみようか。だがそんなことをやって気が済むのだろうか。やれないことをやろうとするふりをするのは、欺瞞以外の何ものでもないか。無駄な悪あがきは控えるべきで、君は黙って画面の前で何を見定めなければならないのか。そこにはどんな光景が広がっているのだろうか。ありふれた人間模様の中に興味を惹く出来事でも展開されているのか。誰かが世の中で成功を勝ち取ろうしているらしい。自らの死に様と引き替えにして、多くの人々の関心を惹きつけたつもりになっている。死につつある自己をさらけ出して、それを感知した人々から励まされることを拒否しつつも、それを糧として文章を書き、同情を誘いながらも同情を拒否して、自らはそれに勇気づけられながら、それを利用して何かをやり遂げたつもりになっている。そんな風にして死につつある者を批判してはいけないのだろうか。彼は自ら死に商品価値があることに気づいて、それをいかにして売り込むかに残り少ない生のすべてを注ぎ込んでいたわけだ。作家幻想に身も心も毒されている。やはりそんな悲惨な生からは目を背けたくなるか。とりあえずそれは自分とは無関係なことであり、これからもそうであり続けたいと願わずにはいられない。それはどういうことなのか。自分は至って健康であり、不治の病などを利用して大衆に媚びなくても済む状況にあるということか。だから幻想の虜にはならないらしく、今もかろうじてありふれた真実の側に属しているようだ。たぶんこの世界に語る対象など何もありはしない。だが何もないから語らなければならない、なんて思うのは傲慢すぎるか。病気になれば病気について語るのが、ごく自然の成り行きなのだろうし、無理に病気を隠す必要もなく、それに無関心な者にとっては、誰が病気であろうとどうでもいいことでしかない。そんな当たり前のことに感動してどうするのか。他人の不幸や幸福な状況に感動するのが、感動という概念の使い道のひとつなのだろう。だがそんな感動とともに誰がその時代を生きていようと、そんな誰かはすぐに忘れ去られてしまうだろう。その時代に適合してしまった人間は、次の時代には忘れられてしまう宿命なのか。すべてがそうとも言い切れないが、君はどの時代とも適合できないだろうから、その架空の存在ははじめから無視されているだけだろう。だがもうその手の格好だけの虚無的な言い草はたくさんか。不幸でも幸福でもないのに、誰がそれを思い出す必要もなく、また誰に忘れ去られることもない。実際に経験しつつある不幸あるいは幸福な状況を書き綴った文章に、ありふれたコメント寄せるその他大勢の人々こそが、忘却の対象となりうるのかも知れず、感動的な文章とともに時代の彼方へと消えゆくのかも知れない。いくら死にかけている当人がそれを望まず、それに逆らうようなこと述べ続けても、それを取り巻く周りの状況と、そんな状況を構成している人々が、そんな強がりを受け入れるはずもなく、当人がネット上で見せびらかしている文章に、月並みな感動しました勇気ももらいました的な文章で、返答することしかできないのは当然の成り行きだが、それがごく当たり前の反応であり自然現象だとすれば、君がわざわざそんな自然の摂理に逆らってまで、それを批判するには及ばないだろうし、一方でそれは情けない状況なのかも知れないが、人ひとりの死がいかに情けなく見えようと、くだらぬ虚飾を廃して、それはそれとしてそのままの形で受け止めるしかないだろう。人が惜しまれつつ死んだら、もっと生きていてほしかったと述べる以外にあり得ないのであり、そんなことを述べている連中は紋切り型の言葉によって人の死を弔いつつ冒涜しているのかも知れないが、それ以外の言葉はその場面ではあり得ないのだろう。そして恥知らずな人々は死ぬ前から死ぬまでの、死につつある状況を援用しながら、人の命がどうのこうの語りたがるのかも知れない。ところで君はそんなことを述べてそれで気が済んだのか。嫌なものを見せられて憤慨しているだけか。どうあってもそれらの思いをまともに受け止めるわけにはいかないようだが、それでも人の運命とはそういうものなのだろう。そんなことをやってしまう人間が存在したことは確からしい。自らの生き様と死に様を言葉で見せびらかすのがそこでの文学なのだろうか。そんなやり方が多くの人々の共感を呼ぶらしいが、そんな現象を否定してみても始まらない。それでその手の商売が成り立つのなら、それはそれで結構なことだと思うだけであり、それ以外にどう述べてみても仕方のないことかも知れない。


7月21日

 渡りに船とはこのことか。このこととはどのことなのか。やはりこのことについては何も述べないつもりなのだろうか。しかし何がやはりなのだろう。どうもはじめから壊れているのかも知れない。誰かはどこからどこへ渡ろうとしているのか。渡るべき海や川などがあったらおもしろくなるかも知れないが、たぶんそんなことを述べようとしているのではないのだろう。それは何かの罠なのだろうか。何を用心しているのか。何も述べていないうちから、また無理なことを述べようとしている。意識的にはそんなはずはないと思うが、何を述べても結果は同じかも知れない。やる気が出ないのはそういう事情があるのか。結果が同じなら何を述べても無駄か。虚無感に覆われた心はさらに乾燥しているらしいが、それは違うのではないか。わざと違うと述べている。違う根拠が見当たらないだろう。やはり言葉はどこへ至りそうにもないようだ。なぜそうなってしまうのか。理由などいくらでもねつ造可能か。そこに何が隠されていようとそれは秘密ではない。何かを隠蔽することによってかえってそれを際立たせる、そんなやり方に感動する筋合いはないだろう。冗談でそんなことを述べているのならまだしも、本気でいつまでもそんなことを信じていていいのだろうか。それは詐欺か何かの類なのか。何を信じていいのかわからなくなる。本当は何も信じていないのかも知れない。あるいは何か些細なことを信じているのかも知れないが、そんなことがそれほど重要だとは思えず、何を信じていようといまいと、やはりそんなことはどうでもいいことか。だがそう述べてしまうと、今度は別の意識がそれに反発して、何かを頑なに信じたくなり、生活の大半をそれへの信仰に費やしたくなるか。宗教とはそういうものなのだろうか。だがそれで宗教を馬鹿にしているつもりか。何かを信じていなければ生きて行けない人々を批判する必要があるだろうか。しかしそれが資本主義なら現代的には願ったり叶ったりなのではないか。資本主義を信じることに誰も疑念を抱かないだろう。資本主義が宗教だなんて誰にとっても信じられないことかも知れない。君は資本主義の宗教性をどうやって説明するつもりなのか。それはまだ批判にさえならない代物でしかない。そんなことを述べてはいけないのかも知れない。まだ何も述べていないのではないか。これから述べることにたがをはめようとしているわけか。前もって何を述べておこうと、それは無視されるか裏切られるかのどちらかにしかならないか。実際そんな結果になるとは思ってもみなかった。それはまだ述べていないことに対する感想か何かか。君はそこで何を裏切ろうとしているつもりなのか。そんなどうでもいいことをこれから思いつけるだろうか。もし思いついたとして、はたしてそれで意味をなすような文章になるだろうか。それがどのようになるにしろ、文章が何らかの意味を持つことは間違いないか。しかしそれが気に入らないようだ。何かを語ろうとすると眠くなる。たぶん本当に眠いわけではないのだろうが、偽りの眠気を振り払っているわけでもない。だがなぜそんな見え透いた嘘をつく必要があるのか。それほど見え透いていないのではないか。とりあえずそんなことを述べていくほどに、なぜか何らかの束縛から解き放たれているような気がしてくる。たぶんそれは気のせいに違いない。しかしその気のせいがとんでもない誤解を招き寄せたらおもしろいか。それは偶然のなせる業かも知れない。しかし何の偶然でそうなってしまったのか。まだ水分が足りないのだろうか。あるいは背中が痒いか。それとこれとは別問題か。それでは理由になっていないのはもちろんことだが、では水分の不足や背中のかゆみに換わる言葉を見出すことができるだろうか。何も理由が見あたらないから、そうやってわざと間違ったことを述べているのではないだろうか。そして君はそれでかまわないと思っている。どうもおだてられるとその気になる性分なのかも知れない。話的には誰におだてられていることになっているか。誰がその気になっているのかも明らかにできないのか。たぶんそれが誰だか思いつけないのだろう。あるいは君は単にそんな人物を知らないだけか。ならばそこからどうすればまともな文章に移行できるのか。もはや手遅れかも知れないが、まだ完全にあきらめてはいないようだ。何をあきらめきれていないのかわからない。あきらめる必要があるのだろうか。今さら何にしがみついているのか。それはどんな希望であり願いなのだろうか。冗談で何を述べているのだろうか。冗談にさえならずに、意味不明になっているだけだろうか。だが何が意味不明なのかわかりようがない。何をどのように語ろうと、それが勘違いのように思えるのはどういうわけなのだろう。別にわけなど何もなく、語っている内容と語っている意識の間にずれがあるだけか。当初は何かを語ろうとしていたのに、語っているうちに何も語っていないように思われてくる。それでも語っていることは事実かも知れないが、やはりそれでは何も語っていないのと同じことのように思われ、要するにそこに内容を見出せなくなっているのかも知れない。しかしそれでもそんなことの繰り返しによって、それなりに言葉が連なり続けているように思われ、それが何かを語っているような幻想をもたらすわけか。語ろうとする意識は語りつつある意識に食らいつき、それについて語ろうとして、絶えず自らについて語る無限の循環を形成しようとする。それをどこかで断ち切らないと内容には至れないのかも知れず、自分以外に語る対象を見出せなくなってしまうのだろう。そんな自己言及ばかりではつまらないが、君はそれ以外の何について語ることができるのか。そんなことばかり繰り返しているから、内容はいつも無内容の虚無に至ってしまうのだろうか。それは文章の生成に関して不可思議な成り行きを示していて。要するに何もないのに無理に語ろうとすると、語っている自らの内に巣くう虚無に行き着くしかないということか。はたしてそれで良いのだろうか。それで良いか悪いかは悪いに決まっているのかも知れないが、それでも執拗にその状態にとどまろうとしてしまうのはどういうことなのか。ただそういう成り行きの果てには、そうなるしかない必然性でもあるのだろうか。やはりそれで何を述べているのでもないように思われるのだが、やはり結果として何かしら述べていることになってしまうのか。それをさらに継続させてしまってはまずいのだろうか。まずいと思うのならやめればいいことでしかないが、それでもなぜか続けてしまうのはどういうことなのか。続けられるから続けてしまっているだけか。ではそれを続けられるうちは続けなくてはならないのか。しかしそれを続けてどうするのか。どうするもこうするもなく、続けるならただそんな風に続いてしまうだけでしかないだろう。それ以外の選択肢はあり得ず、選ぶ選ばないの問題ではなく、実際にそうやってしまっている現状があるらしい。


7月20日

 今日は何が気に入らないのだろう。それは冗談で述べていることか。いつまでも同じような言葉をひねり出そうと姿勢が目障りか。だがもはや目障りなことをやる気力が残っていない。しかしそんな現実を単純に否定することはできない。それについてしばらく考える時間が必要か。考えても結論など出るわけもなく、どのような行動に結びつくこともないだろう。頭ごなしに否定するのは生産的でないか。何もかも投げ捨ててどこかへ飛んでいってしまいそうになる。それは以前と同じ状況だろうか。そんな風に思われてしまうことについて、何を考慮に入れて考える必要があるのか。何が君の能力を構成しているのだろうか。人ひとりが持っている能力はたかが知れている。だがそれは能力とはいえないのではないか。言葉を繰り出して文章を構成する能力に欠けている。そんな嘘をつくと気分がいいか。たぶん誰が過激なことをやっているわけでもないのだろう。君とって過激なことはつまらないことか。思想や行動の過激さにあこがれるのは、若者特有の幻想だろうか。だがいつまでも非常識のままでは心身が持たない。彼らが過激でなければならない理由は、現状に不満を抱いているからか。気に入らないことに囲まれていると、いつかそれを破壊したくなるのかも知れない。衝動的な暴力への渇望を抑えきれなくなり、そんな思いをなかなか果たせないことから、次第に虚無感が増してくる。彼らを地域社会に拘束しているしがらみにも鬱陶しく思えてくるか。退屈な日常からの出口を求めることが、暴力による憂さ晴らしに結びつくのだろうか。それをやればやるほど憂さ晴らし程度では済まなくなるか。過激であることを維持継続させるには、絶えず暴力をエスカレートさせていかなければならなくなる。だから過激であり続けようとする思いは破滅に至るわけか。しかしそんな結論のどこがおもしろいのか。別におもしろくなくてもかまわないだろう。君はその程度のことを記すのに四苦八苦している。暴力ばかりが問題ではないのかも知れない。しかしそこにどんな問題があろうと、今の君には関係のないことではないのか。問題について語る立場にはない。それの何が問題なのかわからないのだろう。今それを考えている最中か。何といい加減な場当たり的な対応なのか。その場の雰囲気に合わせてあやふやなことを述べ続けると、また何が何だかわからなくなり、気がつけば迷路の中に逆戻りか。言葉に詰まるとやはりそんなくだらぬことを述べてしまうのか。何がくだらないことなのだろう。現在の日付からだいぶ外れてしまい、どうでもよくなって気が抜けているらしい。だいぶ前からしきりに抱いていた幻想の場所には何があるのか。偽りの対決の中に誰かの物語でも介在させたいのだろうか。それ以前に本当にそこは場所なのか。それほど晴れがましい場所ではないだろうが、そこで誰が調子に乗っているように語らなければならないのか。そうやって誰かはまた君とは無関係なことを語っているらしいが、何かを語ることによって、そこに構築されつつある架空の世界が揺れ動いているわけではない。確かに世界と君とは固く結びついているわけではないが、その世界に晴れがましいと思える場所があるだろうか。そんな場所を誰が探しているのか。たぶんそれは場所ではないのだろう。本当の場所ではなく言葉として記された場所か。そんなわかりきった嘘がいつまでも通用するわけもなく、たぶん今この時点でも通用していないのだろう。さっきから何が晴れがましいのかわからないままに、語り続けているような気がするが、そんなことはどうでもいいことで、ただ語りを継続させるきっかけにさえなれば、それでかまわないのかも知れない。状況の晴れがましさに意味があるわけではない。では君はそこから何を得ようとしているのだろう。簡単に結論へ到達しないでほしいか。気まぐれに哀しい気分になりたいとは思わないか。そんなはぐらかしにも意味はない。その言葉に何が併置されているわけでもない。まずは何を語ろうとしているのかを明らかにしなければならないのかも知れないが、そんなことが簡単にわかったら苦労はないだろう。まずは何を語っているのかわからなくなり、次いでわかることを断念する時期がいつ到来するのだろうか。そんなことが予定調和的に到来するはずがないか。いったい世界はどこを中心にして回っているのだろう。君の意識に中心はあり得るのか。中心があろうとなかろうと、世界はそれを無視しながら変動し続ける。それはまるででたらめな軌跡を描くとでも思い込みたい気分か。しかしそれで何か述べている気になれるだろうか。誰かは気分次第で適当なことを述べているつもりなのか。しかしその中に語られるべき物語はどこへ行ってしまったのだろう。架空の物語の成り行きはどうなっているのだろうか。そんな風に語ることが、その場の成り行きに従っていると思われるだろうか。誰が何を語ろうと、また言葉を弄しながらどうあがいても、そうはならならないような気がするが、まだ君はそれがどんな成り行きに従って語り進められるのか、それを事前に考えていなかったようだ。そこで何が起こっているかも知らずに、いったい何を語れるというのか。いつもの嘘ならもうたくさんか。ゲップが出そうになり、何かそれとともにこみ上げてくるものもあるらしい。そしてそろそろそれの実体を確かめる時が近づいているのかも知れず、君の頭がどれほどいかれているのか、それをどうやって知ろうとしているのか知らないが、はたしてそれが誰にわかるというのか。君は誰にもわからないことを語っているつもりなのだろうか。ならばそんな風に語りながら何をはぐらかしているつもりなのか。ない頭をどうひねってみても、首の骨と筋肉が痛くなるだけだろう。とにかく君には休養が必要なのかも知れないが、休養できない時に限って休養が必要となる。そんなことはありふれた状況だろう。切羽詰まって何を語ればいいのかわからなくなるのもありふれた状況か。そのとき君は怠惰以外の何と闘っているのか。そういえば近頃は虚無が姿を見せなくなってきたように思われる。では今や懐かしくなってしまった感のある虚無にはどんな姿がふさわしいだろうか。そこにあると思われるのは言葉としての虚無でしかなく、はたしてそれが虚無であるかどうかは疑念を抱かざるを得ない。そしてそれはおかしな言語表現かも知れない。たぶん言葉としての虚無は実体としての虚無を求めているのだろう。本当にすべてが虚無に染まってほしいのだ。いつもそれがあり得ないだけでは済まなくなる事態に至って、本当の虚無が到来してもらいたいのかも知れない。しかしそれがどういうことなのか。何か想像を絶する光景の中に存在してみたいのか。


7月19日

 また述べていることがいつもと同じ内容になっているかも知れない。それは語れば語るほどつまらない言い訳に終始するようになるだろうか。しかしなぜ君が君について語らなければならないのか。君は文章の中に君の意志を反映させたくないのか。はたして君に意志らしい意志があるのだろうか。なぜ君は君の意志を自らが記しつつ文章の中で明らかにしないのか。君が何をどう述べようと、それがどうしたわけではないことは承知しているが、君がいくら何を述べようとそれは同じことなのか。何と同じことなのだろう。何も述べていないのと同じことか。確かに君が何を述べていようといまいと、ありふれた現象はいつでもそこに生じている。例えばそれは風が吹き雲が流れ鳥がさえずり人が動き車が動く。それの何が不満なのだろう。それらの現象の中にに意識が入り込めないことが、どうしようもないもどかしさを生じさせているのかも知れず、そこでどのように語ればいいのかわからなくなる。それ以前の問題として語る必要がないのかも知れない。語らなくてもいいのに語ろうとするから、そこに無理や困難が生じてしまう。君はそんな風に語りながら何をどうしたいのか。どうにもできないからそれについて語らざるを得なくなっているわけか。繰り返されているのかそんなことばかりだろうか。いったいそこでは何が繰り返されているのだろうか。それはすでに語ったことだろう。そのどうしようもなく何かが繰り返されていることが気に入らないのはわかっている。わかっているが君にはどうにもできはしない。目の前にはそんな光景が広がっていて、ただそれを言葉で表現すればいいだけのように思われるのだが、見たとおりの光景を言葉にしただけでは、何も述べていないのと同じことか。しかしそれは見たとおりの光景とは似てもにつかないただの文章でしかない。そこに記された言葉のどれひとつとして、それらの光景から導き出されてはいない。世の中の慣習がそれらの文章を構成しているに過ぎないか。君はその文章の中に何ひとつオリジナルな表現を持ち込めないでいるのだろうか。ならば君の文章から導き出される結論としては、この世界は同じような出来事ばかりが連続しているように思われる。それがはたしてありのままの現実からかけ離れた結論になってしまうだろうか。同じような出来事の連続が現実を構成しているのでは、何か不都合でもあるのだろうか。それが嘘だと思いたい理由は何なのか。あまり同じようなことばかり述べていると、あるとき唐突にそれとは違うことを述べたくなるだろう。だが君はそんな風には思いたくないようだ。何かが途中から劣化していくように感じられて、それ以上同じことは続けられないような気がしてくる。しかし誰かはそうではないと思っている。君はそれが気にくわないらしい。そうなっている現実を認めるわけにはいかないようだ。なぜそれほどまでにこだわるのか理由がわからないのだが、なぜそれを認めたくないのだろうか。もう終わってしまったそれらの出来事を覆そうとでも考えているわけか。言葉によって覆そうとすれば、それは嘘になるだけだろう。もはや何も言葉がないことを忘れてしまったのか。なぜ繰り出す言葉が尽きてしまったことを認めざるを得ないのか。ならば今さら何を付け加えたいのだろうか。どんな言葉を欲しているのか。欲しているのは言葉ではなく実体ではないのか。しかし言葉もないのに実体もあり得ないか。何もないからそれを言葉で表現できないのだろう。では今こそ何もないことを認めざるを得ないのだろうか。また否定が連続しているそうだ。漢字仮名交じり文に変換するとき、否定が連続していてはまずいわけか。それは文法的に禁止事項なのだろうか。またわざとらしく横道に逸れようとしているらしいが、なぜ君はそうは思わないのだろうか。自らの誤りを認めたくないのだろうか。認めたくないのに誰がそれを認めさせようとしているのだろう。どういう意味においてそれを認めさせたいのか。いったい君は誰に何を認めさせたいのだろうか。そんなことの繰り返しによって飽きていることかもしれないが、それは意味のない繰り返しだと思いたいわけか。では何か他に繰り返しにならないようなことを述べることが可能だろうか。例えば昨夜の記憶を手繰り寄せて何を語り出すつもりなのか。背景と話の内容に不一致が見出されるだけかも知れない。そのことについてどう語ればいいのかわからない。面倒なのでそんなことは見過ごしてしまったことにしておきたいようだが、はたしてそれをそのままにしておけるだろうか。たぶんそこにはあからさまに力を行使する者に対して、それに逆らうのではなく、力の行使をかわしながらもそれを利用し、自らの糧として吸収しようとする者の存在を見出せるのかも知れない。対決が成り立たなくなるようなねじれの位置関係を描き出そうとしているのかも知れず、今ひとつ描ききれていないことは確かだが、お互いの視線が交わらないようにするための配慮は、この世の中の至る所で行われていることであり、それは生き残るために必要なひとつのテクニックなのだろうか。無用な対決を避けるために自然とそうなってしまう傾向にあるのかも知れない。争いごととそれに伴う破壊行為から変化が生じてきたとするなら、互いの方向性の違いによる無視の関係からそれが生じてきたのだろう。それは人間がやっている様々な生き方のバリエーションが維持されていることの証だろうか。そんなことを考えていると眠くなってくる。眠気によってその先に思考を巡らせなくなる。何を考えなければならないのかわからなくなり、そのまま眠ってしまったらしく、寝て起きたらまた別の用事を済まさなければならなくなり、さらに言葉を記す状況ではなくなり、作業は遅れに遅れてしまうらしい。そんなことはどうでもいいことか。しかし正々堂々の直接的な対決ではなく、なぜ互いをかわしながらのねじれの関係を維持継続させなければならないのか。対決によって強引に関係を断ち切るのが怖いのか。しかしそれが長続きするだろうか。長続きさせようと意図などさらさらなく、とりあえずつかの間の措置に過ぎず、それにいつまでもこだわっている気はないようだ。それどころかそのような関係の継続をうやむやのうちに忘れ去ろうとさえしているのかも知れない。ねじれの関係を忘れたついでに、対決に至ろうとする可能性も忘れ去ろうとしている。そうやって危機をやり過ごしたつもりになりたいのだろうか。いつの日かその先へ一歩を踏み出していることに気づく機会が訪れるのか。たぶんそのときその先の状況の中へ投げ込まれようとしているのだろう。とりあえずそんな風に思っているうちに、可能性として想定されていた対決の局面ははるか彼方へ遠ざかってしまったのか。今はどうなってしまったのだろう。誰かが横たわって寝息を立てているが、それは昨晩のことだろうか。夢想の時が通り過ぎようとしているらしく、その先に夜明けの時が到来してしまうわけか。それについてわからないのにわかったつもりになり、君は何を考えようとしているのだろう。どうも話の内容的には誰かは力による支配へ到達できないようだ。誰も知らないうちに状況はそこから大きくずれて、現状では大げさな言葉ばかりが先行するばかりのようだが、もはや忘れ去られた人々が予言した、その言葉通りの危機が訪れるはずもなく、現実はいつも期待外れのはぐらかしを用意しているようで、それらの状況が告げているのは、思い通りにいくはずがないということでしかないらしい。ところで誰かはそれらの状況がもたらす何に悩み苦しんでいるのだろうか。そんなことが君にわかるはずがないか。


7月18日

 なぜ当たり前のことが当たり前のように繰り返されるのだろう。話の中で死ぬべき人間は死に、生き残るべき人間は生き残る。それの何が不条理だと思われるのか。記憶は多くの者たちが闘争の最中の映像を捉えているが、そこで何が流行っているのかわからない。いったい架空の人々は何を求めているのだろう。これから見ようとするスペクタクルについて誰かは偏見を抱いているのかも知れない。たぶん意識はまだそこからあまり遠くへ離れていないだろう。否定的な感情が視界から完全に見えなくなってしまうことを恐れているのだろうか。あるいは感覚の目新しさを求めて、絶えず好奇心を作動させていたいのか。それでも何かが変わりつつあるのだろうか。意識は変わるかも知れないが、状況はそのままだろう。このままでは身体の増殖が長続きしない。また苦し紛れの意味不明らしいが、それらの症状は少しずつ転換点に近づいているのかも知れない。しかし予感は思い過ごしの可能性もある。そんな簡単に前言を否定してもいいだろうか。そんな風にしか思うことができないのは、心が不自由であることの証かも知れないが、それでもどこかに事態を改善させるきっかけがあるはずか。でも何かを探している感覚ではない。昨日のことはもう忘れてしまったのか。もうそこから二日も時間が経過してしまっている。それを見ることから何がもたらされているのだろう。たぶんやるべきことはわかっているつもりだが、それをやって何が見えてくるのか。たぶん君には批判することしかできないだろう。何もしなくてもいいのなら、それに越したことはない。しかし見出されたのはそんな感覚を受容できる状況なのか。いったいそれらの袋小路はいつまで出現し続けるのか。君はそれでも何もわからない風を装えるだろうか。どうしてそれがわからないわけがあろうか。わかっていながらわからないふりをするのもおかしな話か。ではもう前方に何か見えてきてもいい頃か。何が見えているのかわからない。まさか盲目を装うわけにもいかないか。見えているのではなく感じているのではないだろうか。では何を感じているのだろう。いつものように誰かが破滅する予感でも感じているのか。誰がどこでいかにして破滅するというのだろう。君に他人の破滅まで予言する義理はないか。なぜかそれはフィクションの一部であるような気がしているのだが、そこから状況がよくなるきっかけをつかめるとは思えない。たぶん破滅は破滅であって、破滅以外の何ものでもないだろう。また以前と同じようなことを述べている状況に変わりはなさそうに思われる。どんなに同じ言葉の繰り返しを回避しようと試みても無駄だろうか。無駄にならなければ破滅に結びつくしかなく、それを回避できないからこそ、誰かはそこで破滅してしまうわけだ。要するにどちらにしても誰かはそこで破滅してしまう定めのようだ。目下のところそれ以外の選択肢はあり得ない。しかし何が選択肢として眼前に浮上しているのかわからない。宿命とは選択すら許さない運命のことをいうのかも知れない。そこからどこへ行けるわけでもなく、どこへ逃げようと運命は後からついてくるだろう。もはや運命から逃れる術はない。それは何かの脅迫だろうか。誰が誰を脅迫していることになっているのか。その辺の話の筋書きが今ひとつつかめていないらしい。君はそうやって決定的な方向へ突き進んでいってしまうのを、すんでのところで食い止めているつもりなのか。そんな見え透いたはぐらかしによって、誰かの破滅を回避させたつもりなのか。つもりではなく現実に食い止めているように思われ、誰かは君の心変わりによって破滅の危機から救い出された気になっている。誰かは運がいいのだろうか。しかしそんな作り話の中で、誰の運命が変節を被っているというのだろうか。またおかしな話の成り行きに、飽きれを通り越してあきらめの境地に近づいているようだ。いつの間にか誰かの宿命が話の筋から取り除かれて、筋のない話になろうとしているわけでもないが、それとは別の筋を導入できずにいるらしい。そんな話がもとからあるわけがないだろう。なぜそうやって話を否定しようとするのか。それはどういう話なのか。それ以上に何かを話すのが面倒になってしまったのだろうか。面倒で話さないのではなく、話がないので話すことができないだけなのではないか。似非ジャズ的な即興がもはや通用しなくなっているのかも知れない。そして何を通用させようとしているでもないと述べてしまうだろう。何も通用させることができないから話にならないのか。かろうじて話になっている部分を捨て去っているようだ。それはどのような話になろうとしているのか。映像の過剰さにはついて行けないものがある。視覚的かつ聴覚的な効果を極限にまで引き出そうとすれば、肝心の話が空疎な内容となってしまうのはどういうことなのか。状況的に混乱を極める背景がまったく見えてこない。過度な映像と音響によって何かが覆い隠されている。例えばジャーナリストは戦争の惨状を伝えようとする自らの行動に疑念を抱いていないのだろうか。そこにどのような意味も意義もありはしない。隠されている何かを白日の下にさらすことが、誰の役割となっているわけではない。たぶん事実を伝えようと欲する感情は、そうすることによってそれを覆い隠そうとする意志に対して復讐心をかき立てているのかも知れないが、現実にはそこに誰の意志が反映されているわけでもなく、結果的にそうなってしまう成り行きがそこでの慣習となっている場合が多い。その慣習に逆らって秘密を暴き立てようとする者は、慣習に従って暮らしているその他大勢の人々には受け入れられないだろう。だからそれを封じ込めようとする保守主義が優勢となってしまうのか。しかし君はそんな結論には満足できない。秘密を暴き立てる側にもそれを守ろうとする側にも、そのどちらの側にも属したくはないのかも知れないが、そうなってしまうと自ずから居場所が社会のどこにもなくなってしまうのではないか。では居場所のない者はどうなってしまうのか。居場所がないから君はいつまでも架空の存在であり続けようとするわけか。そんな論理は通用しがたいか。別に通用させようとしているのではなく、居場所を求めているわけでもなく、ではどうしたいのかといえば、どうにかしようとする意図はさらさらないと述べるしかないか。もちろんそんなごまかしが通用するとは思っていない。この世の中に何を通用させたいのでもなく、何をやっているつもりになりたいのでもない。何ができるとも思わず、そうかといって何もできないとも思わず、ただタイミングを計りながら、適当に言葉を並べているに過ぎないのかも知れない。それで何かをやっているとは到底思えないのだろう。


7月17日

 そんなことは認められないし、認めようがないだろうか。この世界には容易には感知できない仕組みがあるらしい。そんな仕組みなど知らなくても生きて行けるだろう。大げさな見せ物に心を奪われている感性では、何も感知できなくて当然かも知れないが、君はそれ以外の感性を知らず、そのような感性を変えようとも思わない。何も知らないことは喜ばしいことであり、何かを知っていると思い込むのは危険な兆しだろうか。なぜそこから話が広がっていかないのか。不吉な予感とともに不可思議な印象を抱いている。それ以上その件について語ることは叶わぬように思われるが、まだ何も語っていないではないか。語りようがないから語れないのだろうか。いつもながらの理由になっていない見解を述べているらしい。確かに使われなくなった事物は博物館に展示される。観光化されてしまった都市は廃墟と同じだろうか。ただの見せ物には魂が抜き取られている。気休めの娯楽を見物している者は死んでいるのと同じだろうか。しかしそんな挑発が何の役に立つのか。何かを見て感動してしまう感性は人畜無害でしかないか。ではいったいどうしたらいいのだろうか。それに対する答えを求めること自体が間違っているのではないだろうか。人が生きているとはどのような状態をいうのだろう。あり得ない状態を想像できるだろうか。すべての人間が死んでいるわけではない。すべての人間が死にゆく定めだとしても、とりあえず今のところは生きている人間も微かに存在しているらしい。微かではなく何十億もの人々が生きているのではないか。それが微かだといえるだろうか。数の問題ではないのか。生きている人々は人間ではないのかも知れない。人間とは見なされないとしたら、それらの生き物はどのような定義を受け入れる必要があるのだろうか。そんなことは君の知ったことではないか。君が知っていることといえば、自らが架空の存在であるということぐらいか。そんな嘘は聞き飽きただろうか。たぶんそこから遠ざからなければならないのだろう。そんなことはわかりきったことかも知れないが、わかっていながら未だにその状態を抜け出るには至っていないようだ。そんな風に述べること自体が意味不明な印象を振りまいている。やはり疑わしいことを述べ続けている。何がやはりなのだろう。映像にはくだらぬ力が満ちあふれている。ニュースにはありふれた過ちが満ちあふれている。そんな風に思われる感性が気に入らないのだろうか。彼らは何に気づこうとしていないのか。そこにどんな落とし穴が待ちかまえているわけでもない。気に入らないと思われるのは何かの勘違いなのではないか。単純で早急な断定こそが信用できるだろうか。ではどんな断定が君のお望みなのか。死人をよみがえらせる術でも会得したいのか。それはどんな奥義なのだろうか。そうではないとすると、では何におびえ、どんな事態に危機感を募らせているのだろう。誰も振り向いてくれないのがそんなに怖いことだろうか。たぶん死人は振り向かないのかも知れない。文章の中に黄泉の国があるとしても、そこに至るのは選ばれたひとにぎりの人物しかいないだろう。だが何に選ばれて黄泉の国に入れるわけもなく、その場の成り行きで文章に記されるには限りがあるということでしかない。そして別にその黄泉の国がどうというわけもなく、そんな文章を読んだ人がいるとしたら、それは何かの偶然からそうなっただけだろう。その場の成り行きとはそういうことでしかなく、やはりそれがどうしたわけでもない。そこから君は冗談に逃げ込もうとしているらしいが、そんな見え透いたやり方では何ももたらせないか。何を述べようとしているわけでもないのはいつものことなのだろうが、何かしら言葉を繰り出さないと気が済まないのもいつものことだ。だからそれがどうしたわけでもなく、どうにもできない状況のただ中に言葉の連なりが現前しているらしいが、それもまたどうしたわけでもないようだ。文章からもたらされようとして、それがすんでのところで挫折してしまう内容も、それほど画期的な内容ではないのかも知れない。だから君は高をくくってくだらぬ冗談で時間稼ぎをしながら、ひたすらそれが忘れられ去られてしまう時の到来を待っているわけか。なぜそうまでしてわざと挫折を呼び込みながら、結果的に文章を破綻させてしまうのだろう。本気になってしまうのがそんなに怖いか。あるいはそうやって自ら記した文章に踊らされてしまうのを防いでいるわけか。馬鹿げた感性の持ち主にはなりたくないのか。それらの文章によってもたらされようとする感性のどこが馬鹿げているのだろう。現実の出来事と身も心も同化してしまうわけにはいかないらしい。そこに存在している事物の有様を伝えようとして、不用意に感情移入してしまったらお終いか。そこに醸し出されている状況に絡め取られてしまったら、それらの事物から語られようとする言葉奴隷となってしまうだろう。いったんそうなってしまえば、それについてひたすら語り続けなければ気が済まなくなってしまう。できればそんな状況はごめん被りたいか。空疎な語りによって滅びたくはないか。だがすでに架空の存在となってしまったのだから、君はとうにその身を滅ぼしているのではないだろうか。しかし別に誰かは君のことを語っているわけではない。それでも君について語っていると受け止めるならば、それはすべて勘違いになるだろうか。そんな風に思いたければ思うがいい。だが誰がそう述べているのでもなく、誰もそんなことは述べていないことにしておこう。ついでに冗談には際限がないということにもしておこう。やはりそんなこともどうでもいいことだろうか。君にとっては何もかもがどうでもいいことなのかも知れないが、それでもまだその先へ言葉をつなげて行かなければならない。そうする理由が何もないわけではないが、やはりその理由もどうでもいいことなのか。しかしそのどうでもいいことの繰り返し状態から抜け出ようとする気にはなれそうもない。そうすることにどのような理由を見出したら気が済むのか。さっきからだいぶ無駄なことを述べているようだが、それをやりだすと止まらなくなる。そこにも何らかの理由があるらしい。理由があるのにその理由を述べようとしない。そこにそれらの文章の欠陥があるのかも知れない。というか文章を記している意識そのものに欠陥があるようだ。君はその欠陥をそのままにしておいて平気なのか。平気も何も君という存在自体がその欠陥からもたらされているのではないか。欠陥を放置しながら無責任なことを述べるために、君という言葉が利用されているのだろう。君自身はそんなあり方では気に入らないのだろうか。


7月16日

 少しは頭を冷やしたらどうなのか。何もない場所で何を思い浮かべられるだろうか。何かしら思い浮かべられるかも知れないが、そのことについてあからさまに何を批判しても無駄かも知れない。人々はそこで何を求めているのだろうか。たぶん現実に求めているそれらは宗教の一種なのだろう。思い浮かぶのはいつもそこにはないものだ。それを思うたびに人々から感覚が奪い去られていく。だがボロ雑巾をいくら絞っても泥水以外は何も出てこない。では今こそ何かに気づかなければならないのだろうか。資本主義という宗教の性質について、どこかの偉い学者の意見にでも耳を傾けるべきか。経験も体験も心身から遠ざかって行くように思われるが、今はそれについて考えている暇がないのか、あるいは心の内でそれに代わる何かが練り上げられているのだろうか。たぶんそれは違うのだろう。はじめから心が壊れているのかも知れない。ではもうお遊びはその辺で終わりにした方が良さそうか。君は何もないのに何に驚いているのか。そんなことを述べてしまうこと自体が驚異的なことだとでも思うわけか。誰かの意識はこの世界から徐々に遠ざかっているのかも知れない。身体のどこかから危険信号が発せられているのだろうか。それはどんな幻想なのだろう。例えば天空に浮かぶ島々から音楽が降ってくる。だがそんな虚仮威しの言葉は長続きせず、その時々に気分次第で抱く言葉は、どこまでも分散していってしまう傾向にある。夕暮れ時になっても空が赤く染まっているわけではないが、誰かの近くから遠くを眺めている意識に気づく。そこからどんな幻想が導き出せるだろうか。君が求めているのは映像から生じる幻想ではなく、現実の出来事なのではないか。風景の中に雲が浮いているように見える。風景は空の中にあるらしいが、そんなことが求めている出来事ではないのだろう。気休めに文章の中に気まぐれでも導入したいのか。何を述べたいのかわからないが、暑さに負けて心がよろめいて、何でよろめいたのかわからなくなる。それは暑さのせいではないのだろうか。そんなつまらないことはすぐに忘れようとするが、それでも言葉の連なりはつまらないままに推移して、それ以降は何が何だからわからないふりをしつつ、後からわざとらしく気がついてみると、何がつまらないのかわからなくなっている。いったい君は何に気づいたつもりになっているのか。それは間違った言葉の用法だろうか。別に誰がそんなことを述べたいわけでもないのだが、フィクション的には意識の感度がいかれていることにしておきたい気分か。だがそのいかれた頭脳が感知しているのは、いつ何時でもどこまでもおかしな世界だ。それらのどこに現実の出来事との接点があるというのか。そのとき君はどんよりした空気に包まれて、生彩を欠いた希薄な意識は、どのような現実感を探しているのだろうか。何を探知できるはずもなく、ただの日常の中に埋もれたまま、そんな状況自体が現実そのものであることを思い知る。そんな現実を体験しつつある状況の何が気に入らないのだろう。今さらわかりきったことを訊かないで欲しいか。誰が誰に尋ねているのかわからなくなってしまうか。そこで言葉の配列に狂いが生じているのだろうか。そんな風に述べること自体がだいぶおかしな成り行きになっているように思われる。誰かは架空の自己をもてあそびながら、そんな自己について何を述べているのだろう。ただいい加減に意味のあやふやな言葉を弄しているだけか。そしてそんな風に思われる現状の何を肯定したいわけではなく、ただ時間をかければかけた分だけ、時間から取り残されてしまうだろう。そしてそのような成り行きによって置き去りにされてしまった意識にとって、自らが属している過去のどんな出来事も、賞賛するに値しなくなってしまうのだろうか。なぜ過去の体験を賞賛する必要があるのか。たぶんそんな風に述べること自体に嫌気が差して、そこからできるだけ遠くへ離れてしまいたいのかも知れない。だがそこには意識を遠ざけている実体が何もないように思われ、その実体に関して確かなことは何もわかっていない。しかしどうして体験や出来事に実体がないのか。それ以外には何もないのに、いったい何を遠ざけようとしているのか。自らが述べていることの意味に気づかないようだ。君はどうしてもそんな風に述べてしまうことを許せないらしいが、なぜ許せないのか、その理由を知り得ない自らに腹を立てているように思われる。そんな風に語っているつもりの自らが滑稽に感じられるのか。何かそう述べていることの中に、誤りが潜んでいるように思われ、その誤りを利用してさらに文章をわけのわからないものにしようとする魂胆が透けて見えてくるか。冗長さを求めるのは今に始まったことではなく、昔から自らがもたらしたわけのわからない感覚に酔いしれているつもりになって、そこにわかりやすく述べようとする善意が欠けているのはいうまでもなく、一方でそんな風に自己言及気味に語ることに飽きているのかもしれない。いつになったらその賞賛しがたい成り行きから抜け出ることができるのか。しかしなぜそこから抜け出ようとしなければならないのか。またもやそうする理由が欠けているわけか。読解力不足で理由を語るところまで持って行けないだけなのかも知れない。結局それを語ることができずに、それを無視しつつそこから逃げ出してしまい、次いでそれとは無関係かつ脈絡の感じられないことを、苦し紛れに述べてしまうようだ。例えばその場の気まぐれで思い描いた架空の窓には、蜘蛛の巣が張り巡らされているように思われ、蜘蛛の糸に絡め取られてもがいている虫は、生物学的には何も考えていないことになっているらしい。そうやってわざと無理矢理無関係な言葉を弄している意識は、やはり他のどのような状況を体験しているわけではない。そんな意識が記しているつもりの文章から、はたして君はどれほど遠ざかることができたのか。見ている事物と感じていることとの間に、どれほどの隔たりが形成されているのだろう。言葉が先行し続けるのとは裏腹に、何を感じ取っているのでもないらしい。それでも眠たいのなら眠ってしまえばいいのだろうか。夢でも見れば別の何かがもたらされた気になるかも知れないが、それでは今までに語ってきたことのすべてが水の泡となってしまうだろうか。どうしてそんな嘘を簡単に述べられるのか。何をどんなに語ろうと、そこには語っている実体が何もないように感じられてしまい、誰が何を語っているのでもないように思われる。そしてなぜそんな風に感じられてしまうのか、その原因や理由を探る気になれないわけか。何となく馬鹿らしく思われるのかも知れない。


7月15日

 君はそれをやり続けることによって、この世界に何をもたらしたいのか。そんな大それたことではないだろう。では何を見極めたいのか。世界の形状を見定めたい。たぶん本気でそんなことを述べているのではない。それで何を主張したいのかわからない。すでに嫌というほどこの世界のありのままの姿を見てきているはずだ。しかし見てきた範囲は限られて、世界のすべてを見てきたわけでもないし、一人の人間がすべてを見ることなどできはしないだろう。それでも安易に現状を否定するのは簡単なことだろうか。なぜ否定しなければならないのか。君は何に興味があってそんなことを述べているのか。君たちには気休めや気晴らし以外に何があるのだろう。現状の何が気に入らないのか知り得ないが、もう君の言動には何も期待できない。だが今さらそんな嘘をついてどうするのか。どうもしないがそれでもどうにかするつもりのようだが、それとは関係なく一通り雷が鳴り終わった後に夜の静寂が訪れる。しかしそんなどうでもいいことを述べても無駄だろう。何が無駄なのかわからないか。誰かの意識はいつものように何を求めているわけでもなさそうだ。いつまでも言葉を弄して文章を記し続ける。しかしそれは求めていることではなさそうだ。例えばそこで求められているのは疲れを癒やすための休息だろうか。それで素直さを言葉で表現しているつもりなのか。だがそれでも何を思っているわけでもない。では言葉を繰り出すことで思っていることを振り払おうとしているのだろうか。いったい誰がそんなことをやっているつもりになれるだろうか。もういい加減につまらない文章の外へ出たいとは思わないか。外から書きかけの文章を眺めていても、何がもたらされるわけでもない。しかしそうしていると何か気づかないか。そこには何が見あたらないのだろうか。そんなことに気づこうとしているわけではない。何を思っているのかわからなくなる。やはり何もできないと述べるのは無理なのだろうか。何かやっていながらそう述べるのはおかしいか。何もできないはずがないと思われてしまうだろうか。それは何かの勘違いだろうか。またしばらく映像に見とれていたらしい。どうということはない風景がどこかに映し出されている。思っていることを忘れさせるきっかけが、それらのどこかに醸し出されている。本当にそう思っているのか。そう思うことに何か不都合でも感じているのだろうか。今すぐ軌道修正しなければ、また何も導き出せなくなってしまうかも知れない。だがそんな風に思っているのは君ではない。それは何も語らせまいとして、語る代わりに構成された文章なのだろうか。どうやら君はまだ過去の出来事のすべてを思い出したわけではないらしい。しかし君がいつ記憶喪失になったわけでもない。何かを健忘症気味に忘れたつもりになっているだけか。では今こそ何を思い出せばいいのだろう。あるいは何も思い出すべきではなく、何をやろうとしなくてもいいのかも知れない。やるべきことは誰か他の者がやってくれるはずか。君は何も直接に手を下す立場にはない。一定の時間内で物語が完結するように映像が構成されている。だがそれではだめなのかも知れない。時間や文字数に制約された物語では気に入らないのか。人は絶えず何かを感知して、それについて考え、その考えに基づいて行動していれば、それで人間らしく振る舞えるはずか。なぜ唐突にそんなことを思うのだろう。それは他の誰かの受け売りかも知れない。わざと前後の文章の食い違いを生じさせているのか。述べたいことを言葉でわかりやすく示せないのだろう。それはどういうことなのだろうか。どういうことでもなく、そういうことでもない。そこに何か象徴的な症状が現れているだろうか。ただやる気がしないだけなのか。やはりいつまでたってもそれではどうしようもないだろう。君はその辺であきらめかけているのかも知れない。何も語れない状態を抜け出すことができないのか。もはやこの世界に語るべきことは何もないのだろうか。そんな傲慢な思い込みがいつか打ち砕かれてほしいようだが、未だその兆しや気配すらないのはどういうことなのか。別にどうもこうもなく、それはもうあきらめて沈黙してほしいという誰かの願いが実現しつつある証拠だろうか。実際に沈黙しているのではないだろうか。内容が何もない文章を書き記しながら、ひたすら沈黙を継続しているではないか。誰かはそれの何が不満なのか。苦悩とは無縁のケセラセラでは気に入らないか。被害妄想の誰かにはそんな風に感じられてしまうらしい。だから今さら何を述べても無駄なのか。無駄だからこそひたすらそんな文章が生じているのだろう。誰が生じさせているわけでもなく、君もその件については無関心を装い、一向に責任を取ろうとしないようだ。だからさらなる誰かの憤りを呼び込んでいるわけか。突っつけばたちまち過剰反応の雨あられとなってしまうのだろうか。そんなに痛いところをつかれたわけでもないだろう。まさか君はそれを楽しんでいるのだろうか。叩けばちりもほこりも出てこない体質なのかも知れない。その架空の人格には誰からも無視されていることを逆手にとって何かをやる気力すら失われている。もはやリベンジなどという言葉は聞き飽きただろうか。それはゲームの世界での話に過ぎず、世界の外から誰かをめがけて撃ち込まれる弾丸には対処できない。対処できるような武器や防御機構は、内部の世界には何も用意されていないようだ。内面は脆く傷つきやすいのが相場だろうか。至って何も述べないことで、それらの内面がどのように傷ついてしまうのか。それらの存在に外部からの視線もいい加減に気づいてほしいか。何もなくても何かを語っている事実を認めてほしいか。ないものをあるように見せかけるのが言葉だとは思わないか。そんな見え透いた意見には賛同できないか。何が見え透いているのだろうか。そう述べることにどんな意図が透けて見えるのだろうか。そこに何かがあるように見せかけたい思惑が、見え透いた嘘を生じさせているわけか。それが嘘でなければ何になるというのだろう。それ以外の何が醸し出されたら満足できるだろうか。すでに連ねられている言葉の中から何を見出したつもりになりたいのか。例えばその中に希望のごとき気休めでも見つけられるだろうか。君は君が事ある度に批判しているつもりの夢や希望に寄りかかりすぎているとは思わないか。絶えず何かに寄りかかっていないと何も述べられなくなってしまうだろうか。四六時中メディアがばらまく餌に飛びついていたら疲れてしまうか。それらの大半は飛びついても得ることができない幻影でしかないか。だがそれで何を批判しているつもりもないだろう。


7月14日

 何もできないことの腹いせに、解けない謎でも提示してみようか。気がつけば爪がだいぶ伸びているようだ。君はそこで何をやっているのか。何もやっていないとすれば、それは君ではないのかも知れない。周りを見渡せば石材の欠片があちらこちらに転がっている。よく見ればその他にも何かが転がっているようだが、たぶんそれは人の生首ではないだろう。誰かの首塚の傍らに手向けの花が供えられている。それはいつの時代の話なのか。本当はそんなことなどどうでもいいことだと述べたいところだが、そうやっていつまでも冗談にすがりついているのは良くないことかも知れず、どこまでも本気になろうとしていないのは、それが君の述べていることではないからか。しかし本気でそんなことを思っているわけではない。だがどこまで冗談を口走れば気が済むのか。そんな台詞は聞き飽きただろうか。現実に聞いているのはそんな言葉ではない。相変わらず何を語っているのかわからないが、君の性格について誰が興味を抱いているのだろうか。たぶんそれも違うと思う。気まぐれに繰り出された言葉はすべて間違っている。しかし間違わない言葉など誰も使わないだろう。それでは今日の出来事に結びつかない。霊柩車は今日も走り続けている。君の言動と霊柩車は関係ないだろう。ただわけがわからないだけだろうか。何かを見失ってからひさしい。いつものことだが何もできなくなっているのかも知れない。何をしているのかわからなくなる。とうとう君はだめになってしまったのか。ただまとまりを欠いている。それらのどこに意識があるのか。正攻法で攻めてもだめのようだ。何がだめなのかわからないだろう。君は遠くからつまらない光景を眺めている。まだ何が始まろうとしているわけでもない。そこからどうやって抜け出せるだろうか。暑さに耐えられないようだ。全身を襲うかゆみにも耐えられない。どうかしているらしいが、さらにどうにかなってしまいそうにもなっている。気がつけばおかしなことを述べているようだ。脳みそもかゆいのか。それで終わりまで行けるはずがないか。今はそんなことを思っているらしいが、別の今ではどんなことを思っているわけでもない。そこでわざとらしく何かが矛盾しているのだろう。そんな見え透いた嘘はどんなタイミングで発せられるべきなのか。これから言葉で説明しようとしている何を把握しているわけでもない。まだ体調が戻っていないのかも知れないが、最近は健康という概念が意味をなさないような状況なのかも知れない。それは心の病という言い訳で説明できるだろうか。やはりそれを本気で述べているわけではないようだが、戯れで適当なことを語っているだけなのだろうか。そんな状況を外から眺めていると、だんだん虚しくなってくるか。誰が窓越しにのぞき込んでいるわけでもない。夜の暗闇の中で猫が鳴いている。数時間前には昼の日差しの中で烏が鳴いていた。切羽詰まれば人も何か適当な叫び声でも発するのだろう。例えばスポーツの中でそれらの叫び声は共鳴しあっている。怒鳴らないと意思疎通がおろそかにでもなるのか。奇声を発しているのはそれを見ている観客の方か。静かな部屋の中でテレビを消してエアコンのうなり声に耳を傾ける。それが静かであるはずがないか。それは君の思っていることではない。まだやる気になるには程遠い精神状態なのだろうか。それでも何もできないわけではないらしいが、心は無駄に言葉を弄して何を探求しているつもりなのか。探求していることの意味を知りたいか。知りたいのではなくすでに知っているのではないのか。意味が何ももたらされないことを証明しようとしているのではない。実際に意味ではなく疲れやだるさがもたらされている。この世界には他に何もありはしない。それでもそこに何かがあると思われるのは、何もないと思うと寂しいからなのか。実際に何もないわけではないだろう。確かによく探せば何かがあるかも知れないが、それでも心の中には何もありはしない。意識はその何もない中に何かが存在していることを突き止めたいようだが、そこに何かがあると思われることから何かが生じるわけではない。そんな風に述べていることの意味や理由がわかりづらいか。あるいはまるっきりわからないわけでもないということなのか。そんな風に言葉を繰り出しながら、何かを知り得る状況に持っていきたいのかも知れないが、そこからどのような結論が導き出されるべきなのか。たぶん何が存在しているかがあやふやなままに言葉が先行しすぎているのかも知れない。それで意識はわけのわからないことを述べている気になっているのだろう。その結果としてそれらの存在は出現できなくなっているようだが、それでも君はそこから強引に何を出現させようとしているのか。具体的に何を生じさせようとしているのか。はたしてそれで何が生じるのだろうか。それをまともな言葉で表すのは無理と思われる。しかし君は無理を承知でそこまで述べてきた。それはつまらないことなのだろうか。ただわかりづらいだけかも知れない。それほどまでに無理を積み重ねても、相変わらず何をやっているとも思えないし、何が語られているとも感じられない。ただどうでもいいような言葉が執拗に繰り返され、意味を伴う言葉以前の何かが行ったり来たりしているだけみたいだ。やはり継続が無理なことは当人にも痛いほどわかっているらしいが、そんなことをやりながら結果的に何かが達成されているとでも思いこめれば、それで救われた気になるのだろうか。儀式とはそういうものなのだろう。君は内容のない現実を真の現実として受け止めるために、ただひたすら言葉を繰り出すことをやめないのかも知れず、無意識のうちにそれを生き残るための手段として利用している。そうすることがせめてもの罪滅ぼしとでも思い、それを継続させることで、すでにやめてしまった人や忘れられてしまった人を、故人と見なして偲んでいるつもりになりたいわけでもないのだろうが、君もそうなってしまうのを食い止めているつもりになっているのかも知れず、要するにまだ生き残ることをあきらめていないらしい。たぶん君にはあきらめきれない理由があると思っている。いつの日か言葉の連なりが意味を持つようになって、そこで語られている事物の存在を浮き彫りにしなければならない。それが言葉の真の役割なのではないか。はじめからそれを放棄してしまったら、やはり何を述べているのでもないことになってしまうだろう。だが今のところは何を述べているのでもなく、またいつもの誤りを言葉でなぞっているだけのようだが、言葉を連ねていくに従って、次第に何を述べているかが明らかになり、それがまっとうな文章としての体をなすような具合に持っていきたいのだろうか。本当にそうなったらおもしろいだろうか。


7月13日

 君は自分自身の力を疑っているのか。いったいどんな力が宿っているというのか。それは漫画に出てくるような超人的な力だろうか。たぶんその手の漫画やアニメや映画のすべてが間違っていることは、世界を征服しようと欲している者たちのことごとくが、超人的な力を身につけようとしていることだ。人一人が神秘的かつ超人的な力をいくら身につけようと、世界がどうなるものでもないだろう。しかもそれが暴力的な力である限りにおいて、そのような力を有した者は、支配者になるのではなく、そのせいぜいが支配者の傭兵程度の役割しか与えられないだろう。破壊的な力を授かった者が支配するのではなく、そうした者たちを利用する者たちが支配するのであり、次いでそうした支配者による支配という概念自体が変質を被ることになり、あからさまな支配とはならないような支配形態が、世の中の主流となっていくことだろう。性的な倒錯者でない限り、支配という形態自体から利益を得られるとは思われない。経済的な利益を望むならば支配よりは自由を推進するだろう。とりあえず支配されているつもりの人々が圧迫を感じていて、精神的に萎縮してしまっているならば、そこから得られる利益はたかが知れている。そういう人々にはあまり利用価値がないのであり、もっと伸びやかに自由を謳歌し満喫しているように思わせないと、生産効率も上がらないだろうし、支配者気取りの人たちについてこなくなってしまうだろう。そのような意味での真の支配形態とは、人々に欲望や幻想を追い求めさせて、支配されていることに無自覚にさせなければならないということになるだろう。要するに人々を支配したければ、逆に人々を支配から遠ざけなければならない、という矛盾を受け入れると同時に利用しなければ、真に人々を支配したことにはならない。しかしそれにはどうしたらいいのだろうか。魅惑的な映像でも繰り返し見せて幻想の虜にしながら、現実に対して盲目にしてしまえばいいのだろうか。とりあえずそれらの映像に見とれているうちは、それらの映像の支配を受け入れていることになるだろうか。そのようなパートタイム的な支配なら、喜んで受け入れる人は大勢いることだろう。たぶんそれが支配の今日的なあり方のひとつなのだろう。そしてそこに紛れもなく超人的な力が現前している。映像の中にそれらの力がフィクションとして息づいているわけだ。要するにその手の映像の制作者たちが、幻影として存在する超人的な力の体現者たちを利用しながら、パートタイム的にそのつかの間の映像に見とれている人々を支配していることになり、そしてさらにその映像を見る人の数が多ければ多いほど、映像の制作に携わった者たちに利益がもたらされる仕組みになっている。支配によって利益が出なければ、どんなに強力な支配体制を構築しようと、そのような支配が成功しているとはいえなくなってしまう。そんなわけで直接人々に暴力をふるいながら支配するのは、大した成功には結びつかず、そこでひとひねりを利かせて、その暴力をふるっている光景を人々に見せて、暴力から恍惚を得るということにおいては共犯関係を構築しながら、それを見ることの虜にするような支配ならば、古くは古代ローマにおける剣闘士ショーでも実証されているように、より広大な範囲での支配に役立つのではないか。現代ではその手の映像は大衆を支配するための道具になっているのだろう。そして映像による支配は支配される者に快楽をもたらすという意味において、従来から思い込まれている支配に対する固定観念を変容させているのかも知れない。今日では例えば北朝鮮などで行われているような、あからさまな圧政的な支配はあまり流行っていないように思われ、絶えず観客という無責任な立場をあてがわれ続ける、支配されているという実感を伴わないような支配形態が、世界の隅々にまで蔓延っているのではないだろうか。そこで観客は見ている光景に直接介入することはできず、できることといえばスポーツで顕著になっているように、ただそこでやっている人々を応援することだけだ。多くの人々にはそれを支持するから支持しないかの二者択一しか残されてない。それが嫌なら見に行かなければいいだけでしかない。実際に見せ物の舞台の上でパフォーマンスを許されているのは、過酷な競争によって篩を掛けられて、その中で勝ち上がってきたごくひとにぎりの人々だけだ。それを見るかそこでやるかの間には大きな違いがあるのだろう。彼らはそれを催す興行師や制作者の商売道具であり、絶えず心身をすり減らして命がけのパフォーマンスを求められる奴隷のような境遇なのかも知れないが、そこでの奴隷という概念も昔ながらの奴隷からは隔絶した立場や役割を有しており、やはり今日的な支配が支配という言葉から遠ざかっているように、今日的な奴隷も従来の奴隷という言葉からはほど遠い位置に存在しているのであって、何よりも今日にでは奴隷は人々の上に立つ存在となっていて、またマスメディアからもたらされる作用によって、人々の尊敬を一身に集めるヒーロー的な存在にもなっている。そんなわけで今日では支配が支配ではなくなって、奴隷が奴隷ではなくなってしまっているわけだ。支配も奴隷もそれらの言葉から連想される悲惨さから解放されて、支配は映画鑑賞やらスポーツ鑑賞やらに成り代わり、奴隷は俳優だとかスポーツ選手だとかに変容していて、要するに暇つぶしの娯楽の対象となっているわけだ。それは単なる言葉による言い換えに過ぎないのだろうか。実質的にもそこからより多くの利益を生み出すために改良を施された結果がそれなのかも知れない。確かに圧政で苦しむよりは、幻想の虜になっている方が楽しいし、自由を奪われ死ぬまでこき使われるのと、高額の収入を得て世間の注目を浴びているのとは天国と地獄ほどの落差があるだろう。しかしはたしてそれでいいのだろうか。君は奴隷による見せ物の支配を甘んじて受け入れることができないわけか。テレビをつければ嫌でも目と心を奪われて、それを受け入れてしまうだろう。それが気に入らないなら、何をどうすればいいのだろうか。すでにやっていることが、それに対する拒否の姿勢を示しているのかも知れない。しかし拒否するからといって、その拒否は支配や奴隷と同じように、従来からある拒否とは少々趣が異なっているのかも知れない。拒否しつつも受け入れ、受け入れつつも拒否しながら、つまり拒否も受容も同時に行わなければならない。片方の立場だけを貫けば、それについて硬直化したことしか述べられなくなってしまい、同じ言葉の繰り返しによって疲弊し先細りになるだけだろう。だから絶えず立場を移動しながら、以前とは違うことを述べ続けなければならないということになるだろうか。


7月12日

 今の君には何が欠けているのだろう。過去の君にも何かが欠けていて、未来の君にも何かが欠けていることだろう。そんな語り方が気にくわないか。ではどこで何がどうなっているのだろう。この世界について何を述べればいいのだろうか。君はそんな長すぎる前置きに嫌気が差してくるかも知れないが、前置きだけで終わってしまうかも知れない。曇り空の下でそんな空模様とは無関係なことを思う。相変わらず自分が何を思っているのかわからないようだ。少なくともこれから曇り空について何を述べようとするのでもないらしい。語る前からわかりきっていたことかも知れないが、たぶんそんなことはどうでもいいことなのだろう。自分が何を思っていて、この世界には何があるのか。そんなことをわかろうとしているわけでもないらしい。自意識と世界とのつながりについて、お互いが作用を及ぼしあっているように感じられる微細な地点で、それらの構造が何となくわかりかけてきたように思われるのだが、それを簡単に述べようとすると、奇をてらっているように思われるだろうか。奇をてらっているか否かではなく、今はそのわかりかけてきた世界の構造について語る努力をすべきか。だが努力は絶えずそこからずれていってしまうだろう。言葉への意味不明な渇望と、そのわけのわからない衝動を理解しようとする異様な精神状態が、それらの言葉の連なりには反映されているのかも知れないが、自意識はそんな風には思いたくはないのに、そこで誰かが発したつもりのどんな言葉を聞き逃しているのだろうか。何を聞き逃していようと、探求しようとする事柄はそれとは別のところにあるのではないか。それについて何か語ろうとしているのだろうか。それは的を射ていないと思われる。たぶん文章と文章の間に差し挟むべき説明が省かれているのだろう。正確には省かれているのではなく、そのように思われるだけで、実際にはそれらの間に説明不能に陥ってしまうような作用が働いているのかも知れない。だからそれについて語っているうちに、次第にわけがわからなくなって意味不明に思われるようになる。それが誰かの狙い目なのだろうか。何を狙っているというのか。誰かはそこにどんな効果が発揮されることを期待しているのだろうか。自らの説明不足に対する言い訳として、この世界には意味不明に思われることが充満しているように思わせたいのか。誰がそんなことを思うだろう。ただの支離滅裂としか思われないような気もするのだが、いったいどこの誰が何を読んでそんなことを思うのだろう。それも君の勘違いのひとつになるのだろうか。意味のないことに意味があるように思えるのはよくあることであり、また信じがたいことを信じがたいと思うことに、何らかの勘違いが生じているのかも知れないが、それを信じていないという実感が、ある種の負い目をもたらしているのだろうか。しかしそんなあり得ないことをことさらに顕揚してみせることが、それがあたかも重要な出来事であるかのような誤解を生じさせているのかも知れない。実際のところそこで君は何について述べているのか。ちゃんとしたわかりやすい説明を介在させないことには、やはりそれはいつものように何も述べていないことになってしまうように思われ、少なくとも適当に言葉が連なっている事実は認めなければならないが、それでも何も述べていないと思われてしまうと、例えば結果的にそれらの言葉の連なりが、誰の意識から生じているのでもないということになるだろうか。ただそんな風に思われたいだけなのかも知れないが、そんなことがあり得るはずがないか。しかしそこでそれらの文章を記した人物を特定することに、どんな意味があるのだろう。特定するまでもなくそんなことはわかりきっていることではないのか。それでもそれが誰かが記した文章であるかということに、どのような価値や意義を設定できるだろうか。別に価値や意義を文章に伴わせたいわけでもないだろう。そしてはじめからそんなことを述べようとしていたわけではない。やはり最初に掲げた問いが、言葉を弄するにつれて忘れられ、次第に見えなくなっている。言葉の連なりが先へ伸びるにつれて遠くなってしまうわけか。そんな風にして何かを執拗に述べていくと、述べている内容が最初に述べていた内容からどんどんずれていって、ここに至って最初に述べていたことなどどうでもよくなってきたように思われて、その代わりにその時点で述べている内容が、そこでの話の中心に据えられていることに気づくが、その内容自体が最初に述べていた内容とどのような関係にあるかといえば、もしかしたらまったく無関係なのかも知れない。またそれは始めに述べていたこととの間に、修復不可能な矛盾を形成しているかも知れず、そこでそれらの文章は破綻を来しているのかも知れない。それは文章を記している者の把握力が不足している証か。もう一度自らの記した文章を読み返して、話の始めから終わりにいたる流れの中で、全体的な内容の整合性を維持確保しなければならないだろうか。だがはたして限られた時間の中でそんなことができるだろうか。気がつけばだいぶ雑なことを述べているようで、そのいい加減さにそれを読んでいる意識が耐えられなくなりつつあるらしい。やはりその辺で言葉を繰り出す能力に限界が見えているのかも知れない。だからいつまでたってもその先へ進むことができないわけか。しかし言葉を連ねつつある自らにそんな風に思われてしまうのはどういうことなのか。しかしなぜそうやってわざとらしく自己言及に逃げ込んで、語っている対象について語ることに簡単に挫折してしまうのだろうか。それで何に挫折したつもりになれるのだろうか。冗談でならそこからさらにおかしなことも述べられるかも知れない。しかしそんな風にわけのわからない話を進めていっていいのだろうか。それ以外にどうしろというのか。そこで間違っているのかも知れない。他に何も述べることがなくなってしまったように思える時、それでもその先にさらなる言葉をつなげていこうとするならば、やはりそれまでに述べてきたこととは逆のことを述べていかなければならないのだろうか。逆のこととはどういうことなのか。精神の集中を切らしてだいぶいい加減なことを述べているようだ。言葉をつなげていくことが目的と化してしまうなら、そこにまっとうな内容を求めることは不可能となってしまうだろう。だからさらにそれに対する言い訳によって言葉をつなげていかなければならなくなる。要するにそればかりになってしまうと虚しい作業の連続になるだろう。だがそれ以外にどうすればいいのかわからない。


7月11日

 なぜそれほどまでに言葉と言葉をつなぎ合わせようとするのか。それはまるでパッチワークのような作業になりつつあるらしく、そこでは何もかもが日常とは違って見えているのかも知れない。しかしたぶんそれは嘘だろう。相変わらずそんな風には思わないと述べたいのか。実際そんな風に述べつつそこから無理に遠ざかろうとするが、遠ざかろうとすればするほど、ただ無駄に言葉を弄するばかりで、なかなか始まりの言葉が出てこないようだが、あきらめて何もせずにじっとしていると、眠気とともに立ちくらみがしてくる。要するにそれ以外に何もできないのか。しかし何もできない状態でなぜそこまでやる必要があるのか。そこまでとはどこまでのことなのか。そこまでもどこまでもなく、何もできないのに何をやっているつもりになることもないということか。しかし何もやらなければそこで終わってしまうのではないか。また君は終わりという言葉に逃げ込もうとしている。もういい加減そんな嘘は放っておいて、それとは違う展開に活路を見出すべきではないのか。しかし積極的にどんな話をねつ造する気にもなれないようで、一向に中身が何もない状況から抜け出ようとはしていないらしい。それでも何かしら語っていることは確かかも知れないが、ところで我々は今から何をやろうとしているのか。なぜ唐突に我々という言葉を使わなければならないのか。それにもっともらしい理由がなければ気に入らないのか。適当な理由を導き出せなければ、そこから先の話の展開がわからなくなってしまうだろうか。理由を導き出すのが面倒なので、ついでに理由もなくありふれたことを述べるとするなら、我々はどこから来てどこへ向かおうとしているのだろう。苦し紛れにそんないい加減なことを述べている誰かは、どこをどう通ってどこを歩んでいるのだろうか。別に歩むことが歩むこと以外の喩えとして歩んでいるわけではなく、ただ地上に張り巡らされた現実の道を、過去においてはその場の成り行きに合わせて、それなりに歩んできただけかも知れないが、今誰かが歩んでいるのはそれらの歩みではなく、たとえばフィクションに登場するような、劇的で何か重要な意味を担った道だろうか。そこで出会いがなければフィクションの道としては説話論的に失格だろうか。そんな道ばかりがフィクションの中に出てくるわけもないが、誰かと誰かが出会うために道という存在が設定されている場合が多いだろうか。要するに何らかの出会いがなければフィクションは成り立たないのかも知れない。まさか君はそんな当たり前のことに今まで気づかずに、それらのフィクションを構成しようとしていたのか。そうだとするとそこから俄然話がおもしろくなってくるだろうか。そんなわざとらしくも意味のない嘘もおかしい。別に今さら何をおもしろがっているわけでもないか。すでに話的にはお手上げ状態なのに、まだ無理矢理言葉を繰り出そうとして、やはり今回も何を述べているのか把握できなくなってくる。理解しようとする意識を無視して暴走しようとして、それで暴走していることになるのかもわからず、どういうわけかもうそれ以上は為す術がなく、そこに立ち現れている状況に見合った言葉を導き出せぬままに、何となくそこからどこかへ向かって退いてしまいそうにもなるが、それは誰かが目指していた行き先とは別の方角へ向かっていることになるのだろうか。あらぬ方角などに目指すべき言葉を関係づけることはできない。方位の意味するところとそれらの話の成り行きとは無関係なのではないか。そして当然のことながら、話が向かう先に何があるわけでもないらしい。ただ誰かは適当かついい加減に語っている。そこにどんな主張が展開されているわけでもないが、どのような知識によってそれらの主張なき主張を正当化できるわけもなく、そんなに高慢ちきな知ったかぶりを目指しているわけでもないだろう。たぶんいつものように何を述べようとしているわけでもなく、そこに何があるわけでもなく、その場の成り行きまかせに言葉が連なっているに過ぎないのだろう。それはどういうことなのか。そんないつものワンパターン的な問いかけに引っかかるような言葉の連なりではなく、ごく自然にどういうことでもなく、それらの文章が形成されつつある経緯から見れば、その存在はそれほど不可解なことではないが、それ以前にそれについて何を把握しようとしているのでもない。やはりそこには何もありはしない。あるいは何かがあるとすればそれは空虚だろうか。しかしそれもいつものことでしかなく、いつものこと以外に何があると問うならば、そんな問いかけを無視して誰かは雨空を眺めながら何を思い出そうとしているのか。もはや言葉を繰り出す動作が限界を超えているのだろうか。それを認めざるを得なくなるような状況とは思えない。容易には認めがたい成り行きを、なぜ簡単に認めてしまう必然性があるだろうか。いったい何がざるを得ないことになるのだろうか。認めがたいその状況がそこでのすべてなのだから、それを認めざるを得ないと述べることは欺瞞か。ではそんなことはどうでもいいことだと述べていれば、それで事態は丸く収まるだろうか。だがそこではどんな事態が進行中なのだろうか。それが見ての通り読んでの通りの事態であることに、誰かは何が不都合でも感じているわけか。たぶん大いに不都合なのだろうし、どんなに言葉を弄してみても、それ風の話にならないことが不快なのだろう。つまりそれが現時点での限界なのか。そこでの限界とは何のことなのか。限界について現時点では何もわかっていないのだから、それがわかるまでそれを継続させなければならないと強弁したくなる。それを継続させる理由などもとから何もありはしないが、気休めに誰かはそこに表されているすべての言葉を否定するような言葉を求めているのかも知れず、それが逆説的にそれらの成り行きを肯定していることにでもなるのだろうか。だがその辺で述べていることの意味がよくわからなくなる。面倒なので思考の対象となる何かがずれてしまっていることにでもしておこうか。焦点がぼやけて何を述べているのかわからなくなる。そんな風に述べてしまう誰かは馬鹿なのかも知れないが、何がそこで問題となっているわけでもないらしい。何もしなければ言葉を繰り出す理由もなくなってしまうだろう。それで済むのならそれに越したことはないが、たぶんそれ以外にはあり得ないのだろう。君はそんな風には思わないか、と誰かに問いかけられても、やはりそこで誰がそう思っているわけでもない。そんなわけでどんなわけでもないが、とりあえずだんだん嫌気が差してきたので、さっきまで何を述べていたのか忘れてしまったことにしておこう。たぶんそれが嫌気の原因ではないのだろうが、それについて相変わらず無関心を装う君は、それらの結果から何を推測しようとしているのだろうか。


7月10日

 どうにもならないことをどうにかしようとして、頭の中では何か適当な出来事が起こりつつあるらしいが、また架空の話をでっち上げようとしているのだろうか。何かが巡ってきたように感じられるが、それは君のための機会ではない。そこで出会うべきなのは他の誰かかも知れない。できればそんなことは忘れたままの方がいいのかも知れないが、いったい何を忘れてしまったのか。何について述べるべきなのか。できれば何も述べたくないか。またできることならそれ以外のことを知りたいか。誰かは何のために生きているのか。雨の中で何かを見ているつもりだが、現実には何を見ているわけでもないらしい。しかしどこをどう修正したらまっとうな内容になるのか。もはや何も修正できないのではないか。では無理に語ることによって何がもたらされているのだろうか。そこで終わることを恐れてはいけないようだが、どうも思惑が外れてしまったらしい。言葉を繰り出すタイミングが思いの外遅れてしまっていて、今さらどんな修正を試みようと、すでに手遅れなのはもちろんのこと、君はその遅れていることについて、どんな感慨を抱いているのでもないらしい。どう考えてもそれを命がけでやる気にはならない。誰かはそこで何を思っているのだろう。またどんな希望を持ち合わせているのか。ありふれたことを訊かないで欲しいか。ただ作業が遅れに遅れてやる気が出ないだけだろう。そういえばまだ死者に対する鎮魂歌を聴いていなかった。まだ生きているのだから、歌を聴いて魂が鎮まるはずもないだろう。ではその代わりに誰かは意表をついたことでも述べたいのか。しぶとく生き残っていることについて、何か気の利いた感慨でも抱けないだろうか。別にそこまでやる気もなく、君にはできないようなことが実現されているわけでもない。とりあえずそこであくびでもすれば天井が見えるだろう。上を向けは青空が見える。今は昼なのだろうか。それが君の限界か。そこに存在しているのはどうでもいいような事物ばかりか。他に何がもたらされれば満足するのか。すでに退屈な言葉の連なりがもたらされている。この世界に対する要望など何もない。何かが壊れているのかも知れない。そこで何が壊れているのか想像できるだろうか。何が壊れていてほしいのか。何が壊れていても君には関係ないだろう。それを修復するつもりもない。壊れたままでいられるような気がしている。本当に壊れているわけではないのではないか。壊れたふりをしているだけか。それ以上に何がどうなっているわけでもない。そんな風にしか語れないのだとしたら、それはただの戯れ言にしか過ぎなくなる。そしてそれもかまわないのだとしたら、それはそこで終わりなのではないだろうか。終われないのに終わってしまうわけか。本当にそれで君はかまわないのか。現実にそうなってしまったら、そこから先にどう話を展開させればいいのだろうか。終わってしまったのだとすれば、その必要はないということになるだろう。だが必要がないのにそこから話を続けようとしているらしい。無茶なことをやるのが性分なのか、はたまた終わってしまってもなお、そこから何かに導かれているような気がしてならないのか。そんな風に思われるのはどうしてなのだろう。現実に続けようとしているから、それらの終わりを実感できないだけなのかも知れない。それについての言い訳は何もなさそうに思える。それが生き残る道なのだろう。いくら無内容になろうと、そこでやめるわけにはいかないようだ。その先に内容のある文章が続くことを願いながら、さらに無駄を承知で言葉を繰り出すつもりらしい。それが誰かの宿命なのかも知れない。そんな風に述べていること自体がおかしいのだろうが、おかしなこと以外に何を述べているわけでもない状況のただ中で、さらに言葉を弄してそれを推し進めようとしているのか。しかしそれが同時に気に入らない状況を招いているのかも知れず、その気に入らない状況こそが、すでに終わっているのに終われない矛盾を形成しているのだろう。だがそれは本当に矛盾なのか。そもそも悪あがきとはそういうものなのではないだろうか。それ以上に何がどうなっているわけでもないだろう。断続的に雨が降り続いていることを利用して、その雨を言葉にたとえながら、まるでごまかしの文章を構成しているみたいに思われる。またそんなはずがないと思いながらも、それが間違いや勘違いであろうとなかろうと、そんな意味のないことを利用しなければ、それらの継続を図ることは不可能であるような気がしてくる。たぶんそれが君のやり方なのだろう。言葉につまった時には自己言及でごまかそうとするわけだ。そしてそれらのわざとらしい自己言及に終始した後から、今度は予定調和的に自己嫌悪が頭をもたげてくる番だ。それでいいのだろうか。良くなければ他に何をやろうというのか。そこからどうやって逸脱させるつもりなのか。やる気があるうちに先を急いでみよう。本当にやる気があればの話だが、やる気があろうとなかろうとすぐさま前言を遮り、それとは違った無関係なことを述べてみたくなる。それがそこでの乗り越えなければならない壁になっているのかも知れない。冗談でならそれもありだろうか。何がそこでの冗談を形成しているのだろうか。ただ投げやりにその場しのぎの言葉を繰り出すばかりか。わざと駆け足気味に同じような言葉を並べて、その場を取り繕っているだけのようだ。しかしそれがいかなる結果をもたらそうとしているのだろうか。それはそれでその場でのパフォーマンスの一種でしかないのか。そこから先で何か違う展開に至るのは無理なのかも知れず、いくら言葉を弄してみても、それは相変わらず自己言及の範囲内で推移しているに過ぎず、そこから逸脱しようとしているにもかかわらず、そうしようとすればするほどかえってその場の宿命に絡め取られてしまう結果になっているのかも知れない。たぶんそこでの自己言及は、出るに出られない蟻地獄のような構造になっているのだろう。そしてそんな状況をふまえた上で、なおもそこから出ようとして、盛んに逸脱するための策を弄しているつもりのようだが、はたしてそれが成功しようが失敗しようが、それをやっているうちはそれで継続が図られているような気がしてしまうらしい。やはりそれで良いのか悪いのかわからないのだが、そうなってしまうこと自体は止めようがないのかも知れず、それはそれとしてそのまま提示する以外に他はあり得ないのだろう。そう思ってしまえばそれを認めざるを得なくなり、いったんそうなってしまった流れに乗って、現実にそのような文章を構成しているような気がしてくる。それが誰かが現に述べている話の中身なのか。要するにそれがここに現前しているのだろうか。


7月9日

 安易に自らを律しようというのではないが、誰かは今さら心身を鍛えて何をやろうというのだろう。そんなことをやっても何がもたらされるわけでもない。やる前から何を否定しているつもりなのか。それを行うことによって、何かから解き放たれなければならない。解き放たれるのではなく、自らを律するということは、自ら定めた規律によって束縛されることだ。理由もなく心身を鍛えるということは、独りよがりに従うということか。自らが自虐的な笑いを容認するということか。そんな精神状態のただ中で必死に耐えている自らとは何なのか。君はそれを何でもないことにつなげたいようだが、それだけでは微笑みはどこからももたらされない。しかしなぜそこで微笑みたいのかがわからない。君のしたいことが誰かにはわかっていないのかも知れない。確かにわかっていないのだろうが、別に微笑みをもたらしたいわけでもないのだろう。体調を崩して以来、何かが狂っているような気がしてならない。誰かは近々死ぬ運命なのだろうか。縁起でもないことを記すと本当にそうなってしまうかも知れない。それは誰の運命でもないことを祈ろう。人の死が微笑みとともに到来したらおもしろいか。それは到来するのではなく、逝ってしまうのではないか。死は訪れるのことの逆の現象だろうか。だからといって死について語りたいわけではない。死のターゲットとなっている人は、まだ過去の時間帯で彷徨っている。そのついでにまた話の始まりにおいて躓いている。それはカフェインの力ではどうにもならない状況なのだろうか。そこで何を否定しているつもりなのか。君が述べたかったのはそんなことではない。これから語ろうとしていたのはそんな話ではなかったはずか。まだ話の方向が定まらないようだが、はたしてそれは必要なことなのか。方向などどこを向いていてもかまわないのではないか。しかしなぜそこから複雑に言葉を組み合わせようとするのか。そうしないとその先に文章をつなげられないように思われるからか。だがその一方で、そこで行き詰まってやる気が失せているのは誰なのか。それは誰でもないように思われる。自らは自らのことを誰でもないように語りたいらしいが、そんな嘘は君自身にはどうでもいいことなのか。頭の片隅でありふれた意味とともにそれを表す文字が躍っている。現実にはそこで滞っているような気がするのだが、架空の君はそこで何を思うことになっているのか。たぶん何も思わないことにしておきたいのだろう。その方が話の都合上手間が省けるか。そこに何の都合があるわけもないだろう。ただ翌日の夜に適当でいい加減なことを記しているだけのようだ。そして気がつけばまた誰かは夜空を眺めている。今は本当に夏なんだろうか。いつまでたっても同じようなことばかり語り続けていると、話に季節感が伴わないのはもちろんのこと、定まらない視線と結びつかない言葉との間で、具体的には何を語っているのか、そんなことも余り重要ではないように思われてくるが、なぜかおかしな雲行きを感じている。何を想像しているのだろうか。それが何になるのかわからないが、何かつまらないフィクションでも読んだのだろうか。読んだのではなく映像を堪能したのではないか。架空の誰かはまさか嘘で身を滅ぼすことになろうとは思ってもみなかった。病状はごく短期間のうちに深刻な状態に陥り、それに関して決定的な宣告を受けてなおも、まだ死ぬと決まったわけではないと思いつつも、現実に死に直面している衝撃から、そんな作り話も虚ろに放棄されてしまいそうになる。それがだいぶ以前から飽きているのはわかっていたはずか。同じことを繰り返すとだんだんつまらなくなってくるのはわかっていたが、それ以外には何もできない現実をいかんともしがたく、気を紛らすためにテレビ画面に見とれているだけで、何もしていないようだが、それでもまだ継続をあきらめていないのだろうか。何もできずに焦っているだけのようだ。そんな焦りから生じる行動様式は幼稚に見える。最善のことをやろうとして、出来うると思われることしかやろうとしない。善悪の判断がつくような話には興味を持てないか。いつもはそれとは違う内容を求めているのかも知れないが、今生じつつあるそれらの作り話は、現状では何を裏切っているのだろうか。少なくともそれが真実に近づくことはないだろう。真実を語ることに価値を見出しているわけではない。目で見た風景をそのまま描き出そうとしているわけではない。ではそこには何が広がっているのか。何も求めずひたすら何もやろうとしていないだけなのか。単に寝て起きてすぐにまた寝て起きる毎日だろうか。そんなことを繰り返しながら何を求めているわけでもないが、それを語っているつもりの君は、そこで意味もなく言葉を求め、文章を形成しようとしているらしい。そして意味もなく無表情を装い、現実にはどんなにわけのわからないことを述べていようと、怪訝な顔つきになることはないらしい。今はそれ以外に何もないのだから仕方がないのだろうか。何もないはずがないと思いたいところだが、何かあると面倒なので、何もないことにしておいた方が無難な気がしているようだ。しかしまだその先で述べておきたいところがあるのではないか。未だ君には内容がもたらされていない。だから途方に暮れているのではないか。だが何もしていないとは思えず、何かしら述べているつもりになり、それでノルマをクリアしているような、または義務を果たしているような気になっている。それでは気に入らないか。君は死の直前かも知れないのに、まだ何もやり遂げていないかも知れないこの現状について、いかなる説明を施そうとしているのか。もはや架空の死などに興味はないか。もちろん本物の死を体験するような事態に陥ってしまうのは避けなければならない。だからそうやって終わりを引き延ばしているのだろうか。何も見出せないのに何かを見出したつもりになり、空疎な話についての説明を別の言葉でごまかしながら、それをひたすら遅延させながら述べ続けている。だがそんなことははじめからわかりきっていたことだったのではないか。わかっていながらそれとは違うことができずにいるだけか。しかし違うことができないから、そればかりやっていられるのかも知れない。その状態はそれを継続させようとする意思からすれば喜ぶべきことであり、それとは違うもっとまっとうなことを述べようとしている意思からすれば呪うべき状況なのかも知れない。しかしそれらの意思とは違い力が作用して、それらの文章が構成されようとしていることについては、どちらの意思も認めようがないし、それは思考の範囲外から及ぼされる力なのかも知れず、その何だかわからない力がそれらの作業を継続させていることを、君は否定しながらもそれに依存してしまっている現実を、隠そうとして隠しきれていないようだ。


7月8日

 まだ何も述べていない。さっきからまったく作業がはかどっていないようだ。それでは埒が明かないだろう。しかしなぜ言葉を弄するほどに眠たくなってくるのか。それは眠気を催すような作業なのだろうか。眠気が思考を鈍らせ