彼の声48

2005年

5月31日

 それは夢の中の話かもしれないが、状況的には夢に逃げるわけにもいかなくなってきたのだろうか。なぜか倒れそうになりつつあるらしい。遠くを眺めると地平線が脈打っているように感じられるのは、身体が小刻みに振動している証か。身体の動きとは別に何が揺れているのだろう。地震ではなさそうだ。まさか死期が近づいているのか。縁起でもないことを述べると怖くなるか。耳が遠くなってくる。通りを行き交う車の音を聞いているらしい。何が復活したのだろう。そこからどんな真理を演繹したいのか。演繹できる材料など何もないだろう。今のところ結論は何も導き出されていないようだ。そこに心があるとすれば、常にどこかへ移動し続けているのかもしれない。しかし何が見いだされているというのか。言葉がまとまりを欠いているように思えるのだが、わざと焦点をぼかして語っているつもりなのだろうか。体の震えはもう直ったのか。それらの時空からは何も得るものがないのか。それなりの言葉が抽出されているのかもしれない。君には関係のない言葉の群れだと思いたいのか。何をどう述べていいのかわからないか。すでにそんな風に述べているではないか。五官で何を感じ取っているわけでもないようだ。ただそれを言葉で表現していないだけだろう。何かしら感じ取っているが、それは言葉とは無関係な感覚なのかもしれない。ただ普通に生きているだけか。その普通という言葉がどのような基準を前提として述べられているのかわからないが、それでも普通は普通でしかないか。とりあえず雨を感じているようだ。午後にはやむだろう。やんでくれないと困るか。困った風を装いたいのだろうか。なぜそんな感性から抜け出ることができないのだろう。今さら何を反省したいのか。惰性の言葉はまだまだ続いてゆきそうだ。いつか倒れてしまうだろう。木の幹が朽ち果ててくる。虫に食い荒らされているのだろうか。だがそれが何のたとえなのかわからない。たとえでないとしたら、現実にどこかで起こりつつある光景なのだろう。しかしそれを誰が見ているわけでもなく、誰かがそんな光景を心の中で思い描いているだけか。現実にはそこに何がうごめいているわけでも生息しているわけでもないか。しかしそれをどうやって忘れられるだろうか。些細な戯れ言は時がたてば忘れてしまうだろう。その反面つまらぬ事はいつまでも覚えている。心のどこかに引っかかっているらしい。何もそれをことあるたびごとに取り出す必要もないか。いやになってしまう。それ以外に何も思い浮かばなくなってしまったらうんざりしてしまう。しかし何かが抜け落ちていないだろうか。君はどんな言葉を探しているのか。言葉を書き記すことに疲れているのではないか。そんな問いかけを誰に向かって述べているわけでもなく、問いかける対象が不在のまま、ただ記しているだけなのだろう。言葉が出現している。それは文字なのか。文字でないとすると何なのだろう。記されているのは文字の連なりでしかない。ではそれらの何を読めばいいのだろうか。何を読めると思っているのか。それは何かの勘違いか。しかし文字を読めないはずもないか。たぶん読んでいるのかもしれないが、読んで理解するまでには至っていないのかもしれない。誰が何を読んでいるのかもわからない。すべては理解できないことなのか。理解しがたいことなのかもしれない。べつに理解しようとしているわけではないのだろう。理解とは無縁の読みもあるようだ。ただ読んでいる。それが普通のことだと思われる。本当は読みたくもないのではないか。読みたくもないのに読んでいるわけか。そんなはずはないと思いたいか。それでも君は読み続けるだろう。はたしてそれらの言葉を書き記しているのは誰なのか。そんな分かり切ったことを問いかけないでほしいか。すべてはそれらのはぐらかしから始まったことなのか。何となく適当に紆余曲折を経て、またいつもの雰囲気に近づきつつあるようだ。それらの回り道には何が見受けられたのか。何か心に残る言葉の連なりでも見つけたのだろうか。何を見つけたわけでもないか。何かしら見つけたような気もしているのだが、それを後で読み返してみれば、それなりの言葉が見つかるかもしれない。しかしまだ限界を超えたわけではない。たぶん限界などどこにもありはしないのだろう。あったところで無視しているのか。回り道の途中からどこへ先回りできるわけもないか。先回りしたつもりが、言葉はとうにそこを通り過ぎている。しかし何を取り逃がしているのでもない。何を捕まえようとしていたのでもない。実際に幻影など見たこともないのではないか。あるのはそんな言葉ばかりのようだ。そこにあるはずのない情景を語りたいのか。まだ何を語っているわけでもないと思いたいのか。すでにもう無意味なことばかりを語りすぎていて、そこから醸し出される情景を取り逃がしている。はたして語ることによって取り逃がしているのは情景なのだろうか。それは語っているのとは別の言葉でしかないか。そこにどのような言葉が導き出される可能性があったのだろう。わかるはずのないことを考えてみても仕方がないか。いつの間にか雨はやんで、曇り空も明るくなってきたようだ。何かを思っているつもりの心にも、何か適当な光明でももたらされたらいいようにも思うが、それで気が晴れたとしても、現状がどうなるわけでもないようにも思える。それが思い違いであったなら、少しはおもしろいとでも感じるだろうか。この世界のどこにおもしろい出来事が生じているのか。それに遭遇したいだろうか。巡り会ったとしてもそれに気づかなければ、何ももたらされないかもしれない。様々な現象を素通りしながら現在に至っているのかもしれない。何を見逃しているのだろう。何も見逃さないわけにもいかないだろう。目は二つしかなく、見えていない方向に何があるかなんてわかりはしないし、目だけですべてを感じ取っているのでもない。


5月30日

 今日もつながらない言葉を無理矢理つなげようとして悪戦苦闘しているようだが、何がそれらのフィクションを構成しているのか。それが言葉ではないとすると何なのだろう。誰かはどこか遠くから声がしているような夢を見たらしいが、そんな作り話に阻まれて、本当の気持ちを心から取り出すことは困難を極めているのだろうか。なぜそれが困難だと思うのか。心はどこを向いているのだろう。視線は何を考えているのか。また何を冗談ではないと思っているのか。君はいつもの嘘をそんなに否定したいのか。その何かを否定したいという気持ちは、逆にその否定を乗り越えて、何か他に顕揚すべき物事でも認識しているのだろうか。それらの心境の実態を素直には認められないようだが、嫌気が差すとはどういうことなのだろうか。嫌気が差してどうしたいのか。それらのどこかに心境の変化を示す兆候でも認められるのか。単に否定の他に何も提示できないから、嫌気が差しているのだろうか。君は何をそんに嫌気が差しているのか。それは何かの勘違いか思い違いではないのか。前の言葉がその後に生成される言葉を浸食しつつあるのかもしれない。だが君は事実はその逆だと思いたいようだ。また誰がそこで何を思っているわけでもないように思えるらしいが、なぜかその辺に否定の感情が漂っているらしく、何を否定したいわけでもないのに、またそれほど大げさに事を荒立てるように、否定しなくてもいいような気もしているのだが、そんな否定に関するフィクションを読んでいるつもりいなって、現状の何も肯定しようとしないのはどうしたことなのか。それは心の病か何かの作用なのだろうか。しかしそれについては何も実感が湧いてこないし、たとえばそこでメロドラマ的に逆上して、何に逆上したのか知らないが、別に物事を肯定するすべての感情を焼き尽くしてしまいたいわけでもないのだろうが、ではそこに生じている何かを否定したい感情は、何の根拠もないでたらめのなせる技なのか。それをでたらめで片づけられたらどんなに楽なことかもしれないが、何かが危険な水域に達しつつあるのかもしれず、今はとりあえずその否定したい感情を断念した方がいいのだろうか。誰が断念した方がいいというのだろう。では断念できないのなら、それらの感情のすべてをいったんは認めざるを得ないか。何を今さら認めようというのだろう。なぜそうやって前言を否定しにかかるのか。それ以外に具体的に何を否定したいのかわからないのだが、誰かは何がわからないのかわかっているつもりなのだろうか。何をわかろうとしているのか。すでにわかっていることをもう一度わかろうとすることに、どんな意味があるのだろうか。少なくともこのままでは、否定したい事物に言葉の連なりがたどり着けないのではないか。なぜそうなってしまうのか意味不明だが、なぜか言葉が連なって行く先には何もないようで、実際にどこにもたどり着けずに、結局はいつもの苦し紛れのはぐらかしに遭遇するしかないだろうか。そしてさらにそんなごまかしに合わせて、意識的にも何が何だかわからなくなったつもりになれば、何となくその場はうまく収まるだろうか。しかしはたしてそれでいいのだろうか。もちろんそれで誰にとっても納得いくはずもなく、それらの不具合を無視し続けるなら、さらなるごまかしと忘却を経由しないと話にならないだろうが、とりあえずそこに生じているらしいそれらの困難は、それも一つの経験として通過していくしかなく、そんな風になってしまうことも、得難い経験として前向きに考えていかないとやっていられないか。しかしそんなことを述べてしまうこと自体が、何かを隠すための言い逃れとしか思えないのは致し方のないところか。そして隠しているつもりが、現実にはまったくの無内容をむき出しにしてしまっているわけか。それがそこのでの行き詰まりの正体なのかもしれず、そんな行き詰まりを眺めながらも誰かは、たとえそこで行き詰まってしまったとしても、それはそういうことでしかなく、どうしても納得がいかないのなら、納得がいかないなりの語り方でも模索していればいいことでしかない、とでも思っているのだろうか。また何もそれらの状況を、うまくいかないことだらけと捉えることもないだろう。ようは気持ちの持ちようなのだろうか。しかし気持ちの持ちようでまた何をごまかそうとしているのか。そんな語り方では、ごまかそうとしている当のものが丸見えではないか。だがそれは目で見えるものではなく、たとえば心で感じ取るような何らかの雰囲気なのだろうか。しかしなぜそれを見え透いた嘘でごまかさなければならないのか。要するにそんな風に語ってしまうことに、嫌気が差しているということか。では別の語り方を模索すればいいということになるが、それが簡単にできればそんなに苦労はしないだろう。だからさらなるごまかしを経由しないと何も述べられないことにも、嫌気が差しているというわけか。しかしそれではごまかし以外に何もわからないだろう。何もわからないから、何かをごまかしているような雰囲気が醸し出されているのではないか。またそうやってさらにわざとわけがわからなくしているような気がするのだが、そんなことではさらに嫌気が差して、その先に何も述べる気がしなくなるのではないのか。もういい加減にその嫌気とごまかしの繰り返しから抜け出た方がいいだろう。その方が身のためであり、心のためなのかもしれない。しかしそこで終わるわけにはいかないか。終わりたくても終わらせられない事情でもあるのだろうか。たぶんもう終わりたいという心境なのかもしれないが、その終わりがどういう終わりなのかわからないので、どう終わっていいのかもわからず、どのようにも終わらせられないということだろうか。それでは終わるはずがないだろうか。そんなわけでどうやらそれなりの困難に直面しているらしいが、誰かはその困難に打ち勝とうとしているのではないのかもしれず、結果的には困難の前に敗れ去ろうとしているようにも思われ、敗れ去ることと引き替えにして、それらの継続を果たしているのではないだろうか。


5月29日

 また性懲りもなく退屈な言葉の連なりが出現してしまうかもしれない。人は何らかの場所を占有しているつもりになりたいようで、君は言葉によってそれを実現しようとしているわけか。いったい君は何を批判したいのか。批判する対象などどこにもなく、唯一自分自身を批判せざるを得なくなってしまっているのではないか。しかし今の君に自らの何を批判できるというのか。どうもそこから言葉が続かなくなってしまったようだが、さっきから何を繰り返し述べているのだろう。それで本当に何かをやっているつもりなのか。そうは思わないが、それでも何かを述べていることになるのだろうか。人はなぜ何かについて述べなければならなくなってしまうのか。それはその人の都合と事情にもよるだろう。君にはどんな都合と事情があって何かを述べようとしているのか。それを述べられないから、いつもの空疎な言葉でその場を埋め尽くそうとしているわけか。それともまだ何も述べないうちから、また何も述べられないことのいいわけを語り始めようとしているのか。そしてひとしきりいいわけを述べた後で、自身でそれはくどいと思うわけか。そんなことははじめからわかっていることだろう。わかっているからそう述べざるを得ないのかもしれない。ではそこからさらに何を述べようとしているのだろう。述べてみないことにはわからないが、身勝手な意識はまだ何も始まっていないうちから、それらの語りを行き詰まらせようとしているわけか。やはりそんな空疎な話では行き詰まって当たり前だろうか。とりあえず何をやるにも、心に余裕がないとできないのかもしれないが、逆に余裕がありすぎても、何かをやる気力が乏しくなってしまうようで、他に何もできないような慌ただしさから逃げてしまっては、やはり何もできなくなってしまうものだろうか。すでにそこから逃げおおせていて、何もやらない単調な日々の中で、精神がだらけてしまっているのかもしれないが、もうそれ以上は何も言葉を繰り出せないとしたら、本当にそれは書くことから派生した問題なのか。それの何が問題なのかわからないが、それを知るきっかけはどこにでもあるはずか。だがそれを解く鍵を書物の中から見つけ出したいというのは、いかにも虫のいい話になってしまうだろうか。では現実に何が書物から見いだされているというのか。単にそれらの書物は君の読解力をまともには受け付けてくれないように思われる。だからいくら読んでも何もわからないわけか。君の方でも意地を張って頑なにわかろうとしていないのかもしれないが、その辺が君の限界なのか。ではそんな君を文章の中に記しているつもりの誰かの方はどうなのか。君と誰かは何によって分離されているのか。分離できるはずもなく、それらは一心同体の別々の側面でしかないのだろうか。そんなことを誰が知りたいわけでもないのだろうが、ではその中で他者とは誰なのだろうか。それともそれらすべては誰かの独白の中にしか存在し得ない幻影でしかないわけか。では何がそれらの独白を形成しているのだろう。それはただの文章を形成しているだけであって、君と誰かがその中で何かを述べ合っている、ということになっているわけか。だがそんな筋書きは聞き飽きたか。誰がそんなことをほざいているのか。それによって何を知りたいのか。それとは何なのか。まさか誰かはそれによって文章の中に存在するかもしれない隠された意図を探ろうとしているわけではないだろうし、何を疑いたいのでもなく、ことさら懐疑主義に染まろうとしているしているわけでもないのだろうが、たぶんそれは真の疑いではなく、その場に張り巡らされた間に合わせの疑いの一つだとは思うが、とりあえず何かを疑っている姿勢を維持継続していないと、そこから先へ文章がつながってゆかないのかもしれない。では君は誰かがそんな風に疑うことの何を批判したいのか。そんな批判ももはや聞き飽きたか。だがまだ何の批判も始まっていないではないか。意識はなぜそんな風に先回りをしようとするのだろう。しかしいったい誰がそれを述べているのか。あるいはただ沈黙の中で虚無が蔓延しているだけか。そんな嘘も聞き飽きたか。ではそれを書く目的とは何だろう。それに対して何か辛辣な意見でも述べておきたいのだろうか。しかし些細な皮肉はいつもグロテスクな情景を提供しようとして、それに呼応する者たちは、様々な利害にとらわれ殺し合う人々ばかりを顕揚したいらしい。そんな受け入れがたいことを述べることだけに精神を集中させる人々は、自らが放出する憤怒の炎によってその身を焼き尽くし、灰となり風に吹かれて大気の中に消え去ってしまうわけか。君は誰のことを述べているのだろう。批判の連続はやがて批判する者の存在すら許さなくなる。批判ばかりの現状に嫌気が差した人々は、批判よりも希望を求め、その異議申し立てを唱え続ける暗い執念を取り除くために、それを嘲笑しながらもやがて無視して忘れ去るための夢を求める。それは本当のことだろうか。そんな風に事が進んでしまえば、絶えず何かを批判し続けているつもりの君の立場はどうなってしまうのか。どうもなりはしないだろう。君にも君なりの夢と希望があるはずか。しかしそれを叶えるために批判を繰り返しているわけでもないのか。だが何がそこでの批判だと思われるのか。何かを述べているうちに、何を批判しているのかわからなくなって、そんな徒労に終わりかけている作業を今さら持ち出してどうするのか。だが心配は無用であり、退屈な日々がそんな記憶を簡単に消し去ってくれるだろうか。いつかつまらない言葉のあやから始まった批判などどこかへ吹き飛んでしまい、もう少しまともなことを述べられるような状況になるのだろうか。そうではないだろう。現状のどこかにこだわらなければ、何も語れなくなってしまうのは自明の理だろうか。しかしこだわるということと批判することはどこで結びつくのか。絶えず何かについて気に入らないわけでもないはずか。ではそのように思ってしまうことの何が気に入らないのか。どこかでその存在が浮いている。話がかみ合わないのは、存在が話から浮いてしまっているからなのか。しかしそこには何が存在しているのだろうか。誰かの息づかいでも文章の中に認められるわけか。


5月28日

 書かれた人が男であったり女であったりするのはおかしなことか。男であれば男であるように書かれ、女であれば女であるように書かれる。そこで何を説明しているのだろう。それではまともな説明になっていないか。まだ説明以前の段階なのではないか。君は自らが語りつつ話の中で、登場人物の性別を明らかにしようとしているのか。しかしそれが男であれ女であれ、それらの動物はすでに死に瀕している。動物とは人間の一種のことか。それともゴキブリの一種なのだろうか。ベッドに横たわったまま、君は何も語らなくなってしまったようだ。語らなくても起きあがるくらいのことはできそうだ。病院のベッドはそれほど退屈なのだろうか。誰かはその動かない人について、何か突拍子もない誤解を抱いているのではないか。現に目撃されつつある他の誰かの死から目をそらすことが、面倒な成り行きでも呼び込んでしまうわけか。いったいそれの何が誤解なのか。いつかそれが解ける日がやってくるのだろうか。しかしそれでも君は依然して動かない。君には呼吸をする機会が永遠に巡ってこないのだろうか。たぶん死から連想される情景は、その場限りのいい加減な冗談では覆い隠すことができないのだろう。しかし誰かはそんな風に思いながらも、それを無視しようとしている。それとは無関係に言葉がどこかで踊っているらしい。それを踊らせているのは君ではなく、君について書こうとしている誰かでもなく、たぶんどこかの書物の中で、それを読むと踊っているように感じられるのだろう。無視しているのは君の生死などではない。それはどのような発明に基づいているのか。君は自らに下された死の運命を迂回しながら、今になってようやく動き始めたようだ。それは誰かの幻想なのだろうか。作り話の中ではたいていの場合、そのような思いがけぬ出来事が到来するものだ。それはどのような誤解に基づいているのだろう。死を免れてやっとの思いでそこから逃げ出したのに、逃げ出した先には何があったのか。死んでもいないし生きてもいないという勘違いの実感だけか。そこで何かが変化しつつあるように感じられ、そんな実感を裏切りながら、何が裏切られたわけでもないようにも思えるのだが、結局はそんなことはどうでもいいことでしかないのだろうか。誰かの思いがそれらの文章によって裏切られていることは確かだろう。では何がそこで変化していたのか。それはその場での心境の変化か何かか。たぶんそのような迂回の過程で別の語句が必要とされていたのだろうが、それを文章として構成するには至っていないのかもしれない。そこで何を思いだしているのでもなく、ただその場でねつ造された空想の意識に従うならば、愛だの夢だのを旅の過程で思い出し、それを書き記せばそれなりの物語に近づき得たのかもしれないが、リアリティがそれらのどこに宿っているのか疑問に思われ、その夢の最中で旅路の果てに思い出すのは誰の姿なのかもわからず、子供はどこまでも無垢ではないことを知りつつも、そのほかに常識を越えて何が作用しているわけでもないことだけは承知せざるを得ないようだ。そのような感覚に至らしめているものは一冊の書物なのか。たぶん何かが違っていると思うが、その違いもわからないのに、わかった風を装うわけにはいかないか。しかし何に抗っているのだろうか。そこにはどのような状況が横たわっているのだろう。人は何に対して抵抗を試みなければならないのか。自らの価値観を押しつけてくる他者に対して、それが不当な要求だと感じたら、どのような行為によって立ち向かわなければならないのだろう。そこにはどのような計算が働いているのだろうか。やはりそのとき誰かは、避けて通ることの不可能な問題にでも直面しているわけか。人がそのような意識を持ち始めて現在に至る過程において、何がそれらを形成する要因となったのか。なぜ現状に抗わなければならないのか。それは先ほど述べたことだろうか。しかしいったんそんな風に述べてしまうと、結果として何に抗っているわけでもないような気がしてくる。ただ君は状況の移り変わる流れに沿って行動しているだけではないのか。それを今ひとつ信じ切れていないだけであって、後から思えばそのときの行動の確かさが理解できてしまうのだろうか。たぶんそれらの困難はまだ序の口で、これから先に何年も悩まされるような現象の前触れでしかないのかもしれず、今はそんな状況に慣れるぐらいしかやりようがないのかもしれない。しかし君には誰かの語っていることがさっぱりわからないだろう。誰かにもわからないのかもしれず、やはりわかるつもりもなく、ただ適当に言葉を連ねているだけなのかもしれない。それらはどこまで行ってもそのようなものにしかならないのだろうか。思いはそれらの言葉の連なりから遠く隔たっており、思い通りにいくいかないは別にして、絶えずそれとは違う言葉の組み合わせを試そうとしている節もあるが、未だ何か叶っているわけでもなく、意識はそんな思いが叶えられない状況の中を淡々と通過しつつあるようだ。そこからどこへ行けるというのか。要するにまだその先があるらしいということでしかないか。そのような言葉を繰り出す形式自体が、どこにでもあるようなマンネリ化を招いているのかもしれないが、それをすべて捨て去るわけにもいかないだろうし、そこで捨て去ったらすべてが台無しになってしまうような小心者の恐怖感とともに、そこからさらなる飛躍を願う心が一つの意識の中で同居することは困難なのかもしれないが、やはり結果的にそれらの相矛盾する願望や感情を同時に息づかせることしかできず、それがそれらの困難をさらに乗り切ることが不可能な障害として形成してしまっているのかもしれず、誰かの精神をそれ以上はどうにもできないような行き詰まりに追い込んでいるのかもしれない。それでもまだそこから抜け出す希望を捨てきれないところが、救いがたい勘違いをもたらしているのだろうか。


5月27日

 なぜ執拗に何かを述べようとするのだろうか。また同時にこれ以上いくら何を述べてみても無駄だと思っているのかもしれないが、まだほとんど何も述べていないうちからそれはないだろうか。それでも現実に何をどう述べてみても、それ以外には何も述べられないことのいいわけとしか見なされないような気がしているのだが、ではそこには他に何が見いだされているというのだろうか。他の話に逃げられるとでも思っているわけか。それは無理な話で、もしかしたらすでに何もない現実を言葉で支えきれなくなってきているのかもしれない。現にさっきから言葉を繰り出すきっかけが何も見えてこない。それを強引に否定して、苦し紛れに強がってみせるなら、それはそんな単純なことではないようにも思えるのだが、何かそこで矛盾していないだろうか。どこかに矛盾があるかもしれないが、それがどうしたわけでもないだろう。矛盾があろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいように思われ、またそれによって、何となくいつもの怠惰に流されそうな気配になっているのかもしれないが、何かそこで反省しなければならないことでもあるのだろうか。なぜ唐突に反省なのか。唐突ではないにしても反省とは何だろう。過去の行いの何を顧みて、何を省察しなければならないのか。またそこでどのような修正が施されて、どのような事物や精神が救い出されなければならないのだろうか。そんなものやことがどこにあるというのだろう。何かを救い出そうと考えること自体が大きなお世話か。そんな風に思えば楽な気持ちになれて、現実逃避を継続していられるわけか。それならそれで今のところ何を救うつもりもないことにしておいてもかまわないのだが、それでも現状の何が救われなければならないのだろうか。なぜそうなってしまうのだろう。それを執拗に続けても、それが何らかの話として成立するかどうか疑わしいように思えるのだが、とりあえずそんな何も救われない話はもういい加減にやめてほしいか。誰がやめてほしいと思っているのかも、また誰がそんな話をしてきたのかもわかろうとする気はないようだが、架空の存在でいるつもりの誰かは、それ以外に取り立てて何を語りたいわけでもなく、何も語らなくてもいいのかもしれないが、まったく何も語らなければ心が曇るか。しかし何が君の心だというのか。そこまで空疎なことを執拗に語ってきても、まだ一向に何を語りたいのかわからないようだが、やはりそんな現状から考えれば、そんな風に語りたくもないことを語っているらしく、たぶんそこから何が始まるわけでもないが、すべては何かが始まることへの否認から始まっているわけなのか。要するに君は何も始まらない状況を語っているわけか。そして語る対象を探し得ないと思いこむことが、それらの語りのすべてとなっているように思われる。そこにはないもありはしないという認識が、空疎な言葉を呼び込み、意識は自ら発したそんな言葉に巻き込まれながら、それまでに抱いていたとりとめもない思考から解き放たれたつもりとなって、どこか得体の知れぬ場所へ消え去ろうとしているようだが、思考か消え去ったつもりでいるその跡には、何を述べているのでもない言葉の連なりが残されているだけか。そんなことを飽きもせず続けていると、そのうち何が消え去ったのかもわからなくなるだろうか。時がたつにつれて、これまでに述べてきた何もかもが、どうでもよくなってしまうわけか。だが仮にどうでもよくなったとしても、他に何があるわけでもないらしい現状はそのまま残り、もはや他に何もありはしないのに、思考が消え去った空洞からも、言葉が相変わらず適当に繰り出され、いい加減にどこまでも連なっていくだけか。たぶんそこに救いようない欠陥が露呈していて、修正不可能な弱さがむき出しになっているのかもしれないが、それが生きていく上での障害となるはずもなく、時折思い出されるかもしれない思考の欠如は、無視すべき瑣末な欠陥として、うやむやのままに思い出されるたびに忘れ去られるだけか。ただそれなりに言葉が連なっていればよく、本当にそんなことは些細なことでしかないのか。たぶん以前と同じようなことを述べ、また以前と同じような結果を繰り返しているのは、何も今日に始まったことでもなく、そんなことを繰り返しながらも、それによってしぶとく生き残ることが何になるわけでもないとは思うが、それ以上に何がもたらされているわけではないにしても、やはり結果的には、そんな風にして生き残ってしまっていることは、確かな事実なのかもしれない。しかしいったいそこで誰が生き残っているというのか。そのほかには何も語ろうとしない君は、本当に文章の中で生きているといえるだろうか。また冗談交じりにそんな嘘をつくわけか。誰かはそこで誰が生きているとか死んでいるとか、そんなことを述べたいわけでもないのかもしれないが、現実にはそこで何を生かそうとしているのか。思考を取り去って言葉を生かそう、なんて抽象的なことをやろうとしているわけでもないだろうが、ではそこから何も救い出せないとあきらめてしまうわけか。その辺に救いようのない誤謬があるのではないだろうか。一方ではそんな考え方は最低だと思っているわけか。具体的な事物も問題も何も提示できずに、ただ無駄に言葉を連ねてゆくだけでは、それらの最低水準を抜け出ることなど不可能か。だがなぜそうやって分かり切ったようなことを述べようとするのだろう。本当は何もわかっていないくせに、それが分かり切ったことだと強がってみせているだけか。しかしそんな態度が毎度このことのように文章の中で繰り返されている現状をどうすればいいのだろう。当然のことながら本当は何もわかっていないということか。わかっているのならば、なぜわかっていることを堂々と述べようとしないのか。そうやってまた嘘をつきながら、文章をわけのわからない混乱状態に導いているつもりらしいが、現実には何を語っているのだろうか。


5月26日

 アメリカの夢を宣伝しているのはアメリカ以外の国の人々なのだろうか。アメリカの現状をそういう嫉妬まじりの色眼鏡でしか見られないことから、無用な誤解や勘違いが生まれてくるのかもしれないが、しかしもとホームレスが株で成功して億万長者になる話を聞いてそんなにうらやましいと思うか。街中がホームレスだらけなら、その中の一人ぐらいは宝くじに当たっても何の不思議もないか。どん底からはい上がって、栄光を勝ち取る話もありふれているかもしれないが、多くの人々がどん底の生活を強いられている状況を何とかするのがまずは先決なのではないか。確か当地では行政の積極的な介入やボランティアの活躍などもあって、その方面での改善はかなり進んでいて、一時期よりはだいぶマシな都市環境になったような話も聞いたことがあるが、やはりそういうどん底の生活を送っている人が少しはいないと、庶民を喜ばせるための大どんでん返し的な成功伝説が生まれなくなって寂しいか。他人の不幸を喜び、他人の幸福に嫉妬する、それが大衆社会に暮らす人々に生じているありふれた感情なのだろうか。もちろんそれとは逆の他人を思いやるような肯定すべき感情もあるのかもしれないが、そのような否定あるいは肯定的な感情を大げさに煽り立てるような話はごめん被りたいか。もちろんそれを求めて人々はテレビや映画を見たり本を読んだりするのだろうが、多くの人々が体験しつつある現実の生活の大部分は、それとはほとんど無関係の淡々としたものだろう。ただ普通に生きていることが欲求不満でも生じさせていて、それが何やらわけのわからない祝祭的な熱狂を衝動的に求めさせるのだろうか。お祭り騒ぎ的なイベントが定期的にないと息が詰まるか。あるいはその逆にたまには心がいやされるような雰囲気を味合わないとやっていられないか。日常生活を過ごしていくには非日常がなくてはならないということだろうか。そういうたまに遭遇する非日常をひっくるめたものが人々の日常生活を構成しているのだろうが、そう述べてしまうと何となくどうでもいいようなつまらない話になってしまいそうに思えてくる。ではそんな現状にいつまでも埋もれていないで、いつか訪れるかもしれない成功を夢見て、日々たゆまぬ努力をし続けなければならないのか。しかしそれが本当に成功を目指した努力になるのか。何のための努力なのだろう。それはいつの間にか当初の目標を大きく逸れて、どんな成功も望まぬ、また何者にもならないための努力になってしまっているのではないだろうか。しかしそんな努力があり得るだろうか。あり得ないなからそれらの話はフィクションとして語られてしまうわけか。だがそれがフィクションだというのなら、誰かは何のために語っているのでもないのかもしれない。君はそう思いたいだけなのであって、そのくせ内心ではいつも成功したいという欲望にさいなまれながら、どうしようもなくそんな空疎な内容を語らざるを得ない状況に追い込まれているのではないだろうか。しかしどうしてそうなってしまうのかがわからない。仮に社会的に成功したらどうなるのだろうか。自分のやりたいことをやりたいようにやっているつもりになれて自己満足に浸れるわけか。もちろんそれで満足するはずもなく、さらなる野望を抱きながら日々精進を重ねてゆくわけで、その行き着く先に限りはないか。たぶん死ねばそこで終わるのかもしれないが、その野望は次の世代の後継者にでもゆだねられて、野望達成の努力はさらに継続されるわけなのだろうか。だからそれこそがその手の成功物語の一種にすぎないだろう。そしてその後に待ち受けている、成功して繁栄を誇った一族の衰退と没落の挿話でも、話の結末に向かって語られれば、大河ドラマ的な愛と感動の物語になるしかないか。しかしそんな風にありふれた皮肉を交えながら語るのはいい加減に飽き飽きしていたのではなかったのか。たぶんそんな紋切り型を語らないと間が持たないのだろう。君はおおざっぱなあらすじばかりを述べる一方で、話の細部にはまったく踏み込めずにいるらしい。そして君が述べる内容はいつも大げさな物語のことばかりのようだ。それを皮肉を交えながら馬鹿にするのではなく、馬鹿にできないような何を顕揚できるというのだろう。君は物語を何も読んではないのではないか。何が物語なのかもわからないのに、何を読めばいいというのか。それは嘘で、そんなものにはもとから興味がないだけなのではないか。では君が語る内容は読みもしない物語を馬鹿にすること以外に何があるのというのか。きっと他に何かがあるはずで、いつまでもそれを否認しながらもそう思っていたいのだろう。君はそのような状況が許せないようだが、君の意識はそれへの否認の感情とともにそのような状況の中で息づいている。そしてそれをどうすることもできずに、ただひたすら無駄な悪あがきを繰り返しながらもがき苦しんでいるつもりらしいが、それこそがそこに提示されたフィクションの一部始終なのだろうか。しかしそんなフィクションにどんな魅力が宿っているというのだろう。やはり何かがおかしく何かがずれているだろうか。その中の一部分では真実を述べていて、他の大部分では嘘を述べているのかもしれない。そして真実を述べるための限界はいくらでもあり、そのためには結局嘘をつかなければならなくなるわけか。それも嘘の一部で、他に何も語ることがないという真実を忘れるための方便にすぎないか。君は無駄でどうでもいいような物事に囲まれながら生きているのであって、それについては語りようがなく、語るために必要な言葉を持ち合わせていないと同時に、語る必要も必然性も感じていないらしいが、それ以外に何を語れるのかといえば、やはり皮肉を交えながら大げさな物語を馬鹿にすることだけのようだ。それではつまらなくて当然だろうか。だからそれとは違う言葉を探し回っているわけなのか。しかしそれで本当に探していることになるのだろうか。


5月25日

 たとえば国家とは何だろう。あるいは資本主義とは何か。それらはいつ始まりいつ終わるのか。あるいはいつの間にか始まり、いつまでたっても終わらないようなものなのか。しかしなぜ国家と資本主義について論じる必要があるのだろう。これからそれらの何について語りたいのかわからないか。資本主義が国家を支えている。国が発行する通貨を資本主義が流通させ、その通貨によって労働力や商品などの有形無形の事物が売買され、その事物の売り買いによって人々は生計を立て、それによって生きていくことが可能となっているわけか。そんな説明で納得できるか。今後そのようなシステムが根本的に覆されるような事態が起こりうるだろうか。事物の売り買いに失敗して、それによって生計を立てられなくなった者たちは、死ぬか犯罪に走るかの二者択一を迫られる。それは国による生活保護制度は有効に機能していないということか。その辺から国家と資本主義が崩壊する可能性でもあるわけか。しかしそんな風にして生計を立てられなくなるのは、ほんの一握りの者たちで、大多数の国民がそのような制度のもとに、安定的に暮らしてゆける状況が続いている限り、国家も資本主義も安泰なのだろうか。それでも時がたつにつれて何かが少しずつ変化してゆくのかもしれない。状況の変化に合わせて国家も資本主義も変わってゆかざるを得ないということか。そういう述べ方はおかしいのかもしれず、ただ日々刻々とそれらをひっくるめたすべての事象は変化しているだけで、それは当たり前ことか。ならばそのような状況の中で暮らしている人々は何をしなければならないのだろうか。ただそれらの少しずつ変わりゆく制度に従って生きてゆけばそれでいいわけか。それではあまりにも受動的すぎないか。ではそれらの制度に対してどのような態度をとればいいのだろう。しかしそんなことを考える立場の者がどこに存在しうるのか。誰かがそれらの制度の不具合を指摘しなければ、いつまでたっても改善は見込めないだろう。だが制度を改善し、よりよい制度のもとで暮らしてゆきたい、というその場で作られた願望自体が信じられない。またそこで何か冗談でも述べたいのか。なぜそういうスローガンが信じられないのか。そんなことを指摘する立場にはないと思えるからか。なぜそのような制度が制度として成り立っているのだろうか。それは過去からの歴史的な成り行きと、その時々の偶然からそうなってしまっただけなのだろうか。今ある現状を受動的に解釈すればそうなってしまう。しかしそんな解釈では不満が残るというのなら、そのようにして成り立っている制度に内在していると思われる不具合を一つ一つ指摘し、それらをどう修正すればいいのかについて、自分なりの意見を述べなければならなくなるわけで、それが制度を維持存続させるには是が非でも必要なことなのかもしれない。要するにそのような行為も制度に従って生きてゆく者たちには求められているというわけだ。それは制度を改善しつつも支えてゆくという制度内で暮らしている者に課せられた使命でもある。またそれと制度を打ち壊してしまいたい、という願望とは相容れないことかもしれないが、仮に今ある制度を打ち壊したところで、その後に別の制度を打ち立てなければらなくなり、そうやって新た制度を打ち立てることも、制度内で生きる者に課せられた使命なのかもしれない。つまりいったん制度内に取り込まれてしまった者は、それに従うにしろ抗うにしろ、そのどちらにしても制度から課せられた使命を全うするために生きてゆくことしかできなくなってしまうわけだ。しかし本当にそんな風に思っているのだろうか。何がそこでの制度なのだろう。どんなシステムに従って生きているというのか。たぶんそれらを制度と見なせば制度なのだろうし、それを無視しながら生きていると思えばそうなのだろうが、そんな小難しいことは何も思わずに、ただ何となく生きているのがこの国に暮らす大半の人々に生じている実感なのではないか。そして何かをやってしまった後から、自らが制度の中で生きていることに気づかされる。たとえばその場の成り行きでかっとなって暴力をふるってみたら、それが後から暴行罪に問われてみたり、つきあいで酒を飲んで代行業者を呼ぶのが面倒くさくて、そのまま車を運転して帰る途中で人をはねたら、後から業務上過失致死罪に問われてしまったりするのだろう。とりあえずやりたいようにやってみて、それでまずかったら後から国家や行政が制度に従って適切に処理してくれるだろう、ということなのか。そういえば最近になって建設関連の大企業が公共事業の入札において、長年にわたって談合を繰り返していたことが発覚したが、それも個人か組織かの違いや規模の大小はあれ、やはりそのようなことの延長上でやっていることなのか。だがそれも制度内で生きる者たちに課せられた使命の一種と考えられなくもないか。ルール違反をすることは、かえってそういうルールが制度内にあることを、そのルールを忘れていたり知らなかった者たちに知らしめる効果があり、違反者が取り締まられて罰せられることで、そのルールを犯してはならないことをわからせる、という教訓的あるいは教育的な役割の一端をルール違反者たちは担っているのかもしれない。要するに制度を維持継続させるためには、制度に対する反逆者の存在も欠かせないというわけか。もちろんそれらのルール違反者が制度の構成員の中に占める割合は、ほんの一握りのごく少数でなくてはならず、それを取り締まる側が対応しきれないほどルール違反者の数が増えてしまうと、もはや制度が制度として維持できなくなってしまうわけだが、そうなればなったで、今度はその制度を改善しようとする者が登場しなければならなくなるわけだが、要するに制度を維持継続させようとする者と、それに従って生きてゆく者と、それに逆らおうとする者と、それを改善しようとする者たちの間の、互いの立場の微妙な力関係が釣り合っているうちは、それらの制度は続いてゆくということなのか。


5月24日

 別に長いトンネルを通り抜けつつあるわけでもないのだろうが、その先に何か可能性はないものか。しかしそれほど救われようとしているのでもないらしい。目下のところ救われるような要素など何もないだろう。文章としては相変わらずの無内容で、さらに行き詰まってきたような感もあり、ただ闇雲にトンネルを掘り進めているわけでもないのだろうが、とりあえず普通に述べていればいいような気がするのだが、なぜ唐突にそんなことを述べるのか。誰かはそんな冗談のような状況を受け入れようとしているのだろうか。受け入れられるような人格を文章の中で提示できるだろうか。しかし誰がそうしなければならないのか。何がそこでの冗談を形成しているのだろう。本当にトンネルを掘っているつもりになっているわけでもないだろう。ではやはり君は何を受け入れようとしているのでもないのか。それどころかそんな状況を頑なに拒否し続けたいのかもしれない。しかし拒否したところで無駄かもしれず、虚無は相変わらず到来し続け、一向にやむ気配すらないようだ。そして虚無の他に何を提示できるわけもなく、偶然にその場の成り行きでそれとは違う言葉を導き出せたとしても、それがすぐに文章の中に反映されるわけも役立つわけでもなく、それを何のために役立てようとしているのかもわからないうちに忘れてしまうのかもしれず、すでに多くの言葉を忘れ去っているのだろうか。それらの言葉のどこに救済が潜んでいたというのか。今となっては知りようのないことかもしれないが、意識が形の定まった対象を捉えていないのは確かなようで、それはいつもながらも漠然とした虚無感を形成しているわけなのだろうが、人はなぜそれについて思考しなければならないのか。そんなしなければならないような決まり事などどこにもありはしないか。それでもどこかでしなければならないことを探し求めているのだろうか。誰かは自らに課せられた使命というやつを知りたいわけか。いったい誰がそんな使命を課すのか。職場の上司か何かか。またたとえば教会の司祭ならキリストが課し、寺の僧侶なら仏陀が課し、回教徒ならアッラーの神が課すわけか。ではいったい君はそれらの何に帰依しているのか。何に帰依しているとも思えないようだが、まさか周りを取り巻いている虚無に帰依したところでどんな使命が課されるわけでもないか。虚無に救いを求めているわけでもないのだろう。救いがないからこそ虚無が出現しているのではないか。しかも出現しているというのは作り話の上でのことで、取り立てて何が立ち現れているわけでもないように思えるから、そこに虚無感が漂っているように感じられるだけの話だろう。ではそれがわかっているのなら、もう何もそれについては述べる必要はないのではないか。しかし安易に虚無という言葉を使いすぎている。虚無が何なのかはっきりした実体は何もないように思えるから、やはりそれを虚無という言葉で表現せざる得ないのかもしれないが、実際にところはそんな言葉では状況を正確に言い表せているとはいえないような気もしてくるのだが、君にはそれ以外で言い表すべき言葉そのものが欠けているのではないか。しかしそれはどんな言葉なのだろうか。それがわからないから欠けているように思えるだけか。ではわからないなりにも無理に言い表そうとすれば、それらの状況はどんな言葉で表現されるだろうか。たとえば救いの言葉とか気休めの言葉とかで文章を構成できるか。それでは嘘になってしまうだろうか。そんな言葉を安易に記すべきではなく、誰が必要としているわけでもないのに、それをねつ造するは倫理的ではないだろうか。しかし虚無も嘘なのではないか。では他にどんな言葉あるというのか。たとえばそれは欲望を煽り立ててそれを成就するための行動に駆り立てる言葉とか、読む者の精神に混乱をもたらし、その混乱状態に乗じて不意にその精神にとどめを刺すような言葉もあるだろうか。要するにそれでおまえは破滅か。なぜそれで破滅なのか。誰かの意識はそんな風に語りながら、言葉の否定的な側面ばかりに惹かれていくわけなのか。ではそれが破滅でなくて何なのか。たぶんおまえは破滅によって救われるだろう。それはノアの箱船の話の二番煎じにでもなるだろうか。いつの間にか強引に別の話へと意識の対象を移そうとしているらしい。気休めとはそういうやり方を通して出てくるものなのか。では君もいつか神のお告げでも聞いて、それに基づいて努力でも重ねれば、最終的に救われてしまったりするわけか。本気でそんなことを思っているわけでもないのだろう。それは話のあらすじ的な成り行きをなぞっているだけでしかなく、それらの話の正確な内容ついてはほとんど知らないし、知るつもりもないのだが、本当はそこにあらすじから逸脱するような驚くべき結末が用意されているのかもしれないが、想像力がそこまで至るほどの気力に乏しく、いったんそれらの戯れ言から意識が離れれば、そこには相変わらず何もありはしないのであり、いつもの虚無とともに、意識とは無関係なとらえどころのない物事が、外部に向かって無限に連なっているだけなのかもしれず、それがこの世界を構成しているわけか。そしてこの世界のそんなとりとめのなさを言葉で強引に表現しようとすれば、その場で偶然に導き出されたいい加減な言葉の配置から、意味不明を導き出すのはたやすいことだが、それが何らかのまとまった言説となりうるほどに、言葉を再配置しながら文章として構成するのは容易なことではないのかもしれない。そんなことは分かり切ったことなのだろうが、要するにこの世界は意味不明であると述べてしまうような怠惰な意識は、何かを述べるときに細心の注意を怠った結果から生じているわけだが、その一方でやはり怠惰に流されるしかないような状況に浸されている意識を、その外へ引き出してまともなことを述べられるようにするには、まだ相当長い年月が必要なようにも思える。


5月23日

 何となく受け入れられないようなことを述べている。それはつまらないということか。つまらなければつまらないなりにも、何かその状況に見合った言葉でも並べていればいいのだろうか。しかしそこに何があるというのだろう。空気があり水があり風景がある。大地も海もあるのではないか。しかしそこから先で理解不能に陥っているのかもしれない。何が理解不能なのだろうか。ただの自然に取り囲まれて生きているだけではないか。ではその中で意識はどこにあるのか。精神の断片がそれらのどこに存在しているのだろうか。精神などどこにもありはしないか。すべてが言葉のがらくたの中に埋もれてしまったのか。しかしそんな風に語りながらも、いったい何を見いだそうとしているのか。精神以外の何かか。だが存在する事物は数限りない。それらすべてについて語ることは不可能か。また語ろうともしていないことについて語るわけにはいかないか。しかしそれではその場の状況に何の変化ももたらせないではないか。変化させようとすることにどんな意義があるのか。具体的に何をどうしようというのだろう。それらの常套句や紋切り型を何とかしたいわけか。それは無理というもので、それらを文章の中から取り去ったら、後には何も残らなくなってしまうか。それが君の目指している虚無なのかもしれない。しかし毎度のことながら君とは誰のことなのだろう。その場でのいいわけを担わせるために君という言葉が使われているのか。分かり切ったことを語らないでほしいか。それはいいわけでもあり、真実でもあるだろう。君以外にそれらの文章が対象とする仮想の人格はあり得ないのかもしれない。しかし何がそれらのいいわけを構成しているのか。理解不能に対する答えがいいわけなのか。どうやらその辺で意味がつながらなくなってきているらしい。現実に生じている事物の何をつかめているわけでもないようだ。言葉は思考を通り抜け、ただ他愛のない文章として記されるのみか。何を考えているわけでもないことがそんなに気に入らないのか。では何を考えたらいいのだろうか。何を考えたらいいのかと考えているわけか。しかしそれ以外に何を考えられるのか。要するに何を考えているわけでもない状況を受け入れなければならないということか。誰が受け入れる必要があるのか。架空の君では無理なのだろうか。そんな風に述べながらも何かを避けていないか。それは避けられるはずもない現実だろうか。そこにはどんな現実が生じているというのか。無視されてしまうような、あるいは誰からも気づかれないような他愛のない現実でしかないか。しかしその他愛のない現実によって誰かは苦労を強いられているのではないか。つまらないことに時間と労力をとられてうんざりしているわけか。だがそうやって何もかも否定的にとらえても疲れるだけだろう。もう少し現実をいいように解釈しないと精神が持たないような気がするのだが、その辺で何か適当な気晴らしでも必要なのだろうか。どうも話があらぬ方向へと逸脱していきそうな気配がしてきたが、はじめから話の方向など定まっていないのではないか。たぶんそうやって否定を繰り返すことによって文章を生成させていることは間違いないか。それはどうでもいいような内容を呼び込んでいるらしく、そんな内容に何かを考えようとする意思が押しつぶされようとしているのだろうか。しかしそんな風に思うことも自己言及の悪循環を招いているだけか。そうやって次第に何も語れなくなってくるわけか。それでいいのだろうか。いいわけはないがそれでもそうなってしまうのなら、それはそれで仕方のないことなのだろうか。空は晴れ日差しも暖かく、何を考えているわけでもない意識は、そのまま眠りにつこうとでもしているわけか。そして誰もが思うようなことを思いながら、その思っている内容は一向に示されず、それではつまらないと感じながらも、それを改めようとする気も起こらずに、そのままの無内容に浸り続けるのか。たぶんそれではいけないのだろう。いけないからこそもがき苦しんでいるつもりで試行錯誤を繰り返しているのではないか。しかし現実に示されているそれが試行錯誤の成果だといえるのか。成果といえるようなものは何もあがっていないか。そんなことを述べるほど徐々に袋小路に追いつめられているような気もするのだが、それはどういうことなのか。何かそこから修正を施さなければそのままで終わってしまうのか。はたして終わってしまえるだろうか。君はそんなことを無駄に語りながらも、それとはまったく別のことでも考えているわけか。人はどこまでも人でしかなく、言葉はどこまでも言葉でしかないが、人と言葉はどこで結びついているのだろうか。そこで何かを語っているのははたして人なのか。なぜそんな疑問を抱くのかわからないが、何かを語ることがどこへも行き着かないように思えるのはどういうわけなのか。そして語ることの過剰さが空疎な文章として実現されている現状についてはどう思っているのだろうか。人はどう思っているのか。人でない君はどうも思わないのか。それらの文章はわざとわけのわからない謎を提供しているだけのように思える。それ以外には存在し得ないような文章なのかもしれない。役に立つはずのない、無駄で無意味なことが語られているわけか。そして簡単には受け入れがたい虚無を伴っている。それが危険だと思えるのか。何が危険なのだろう。何も危険を伴っていないように感じられるから危険なのか。戯れ言の集積だから、前向きな意見が何もないから危険なのだろうか。そしてそれらのすべてが冗談に思えるから危険なのか。だがそれでは何も危険が顕在化していないということではないのか。では危険は虚構であり嘘だったのか。それでも危険だと思うのなら、それらの文章を読まなければいいだけだろう。やはりそれらは他愛のない文章なのか。他愛がなければ一安心か。安心してどうするのか。


5月22日

 君は何かを知るのが怖いのか。だがそれで何を知ることができたというのか。それとはどのような試みだったのか。それでもう何も知りたくはないか。何も知りたくないのなら、虚空に向かって問いかけなければいいだろう。問いかけたところで何がわかるわけでもなく、自問自答の繰り返しが待っているだけか。それとは自問自答の繰り返しだったのか。ではその自問自答で何がわかったというのだろう。世の中に蔓延するありふれた構造か何かか。そして他の誰でも述べられることを君は述べているわけか。では何を述べているというのか。それが君独自の作り話とでも思いこみたいのだろうか。言葉の回りくどい言い回しならそうかもしれないが、その話の内容はありふれたことか。人間の欲望がどうのこうのとか、他の誰もがいくらでも述べられるようなことを、鸚鵡返しにただ繰り返し述べているだけなのではないのか。しかしそれ以外に何もないのなら、それを述べるしかないのではないか。それ以外に何があるというのだろう。たとえば何らかの修練によって、それを述べている者が見いだした独自の視点に基づいて述べる、などという幻想は信じられないのだろうか。なぜそれが幻想だと思われるのか。単に独創性という概念が疎ましく思われるだけか。ではいったい何がそこでの独創性なのか。そういう問いかけは避けて通りたいところか。それについては何も答えられないのか。そんな風には思いたくないか。ではその地点からは退いて、それとは別の方向で別の道を探すとしよう。君はそれ以上述べるのがいやになったらしく、さっさとそこから逃げだそうとしている。すでに逃げている最中かもしれない。はたして逃げおおせることができるだろうか。それができたとして逃げた先には何があるというのか。また言葉が先回りし始めているようだ。逃げた先のことまで考えていないのではないか。要するにただそこから逃げたい一心で行動しているだけで、それはその場限りの感情に基づいた刹那的な行動でしかないのだろう。ではそういう愚かな行動について、君は何を述べる立場にもないのだろうか。なぜ唐突にそう考えるのか。またなぜそれが愚かな行動だといえるのか。その根拠も理由も今のところ何も示されていないように思われる。ならばそれらは文章としてどこか欠陥を抱えているのではないだろうか。しかしそれを指摘してどうするのか。それらの欠陥こそがその文章の個性であり、それが語っている者の独創性だとでも言いくるめて、その場を都合よく取り繕いたいわけか。やはり冗談もいい加減にしてもらいたいか。それではわざとらしすぎるだろうか。しかしそれらのわざとらしさから脱却することがはたして可能なのだろうか。可能だとするのなら、どうしたら可能となるのだろう。他のことにでも関心を向ければそれが可能となるだろうか。たとえばそれは病気だとか災害だとか女優の恋だとかに一喜一憂していればいいわけか。そう述べれば何か皮肉でも発したつもりになれて、少しは気が済んだつもりになれるのか。それとも虚しさがよりいっそうましてゆくだけだろうか。たぶん君はその辺で限界にぶち当たっているのかもしれない。それがどういう限界なのか知るつもりもないようだが、とりあえずそれ以上は何も述べられない状態なのだろうか。そこから先は当人も理解不能なことを述べているのかもしれないが、そこで何と戦っているのでもなく、別に虚無と戦っているわけでもないのだろう。ただ自らに覆い被さろうとする沈黙の圧力に抗いながら、何か述べているつもりなのかもしれないが、現実はそんな格好のいいものではなく、要するに述べることが何もないだけか。そして述べることが何もなくてもさらに述べようとする、常軌を逸脱した行為に及んでいるのかもしれず、そこで待つことを知らぬ衝動を抑えきれずに、何をそんなにいらだち焦っているのか。語ることが何もない現状を悟り、それを認めざるを得なくなることが、そんなに受け入れがたいことなのか。そんな現状を否認しつつ何をどう述べてみても、そこから先はことごとく苦し紛れの感をぬぐえないのではないか。たぶんそれはそれでそういうことにしか結びつかないのだろうし、それをどこまでも推し進めてみても、ただ無駄に言葉を弄んでいるにすぎないのかもしれないが、この辺でやめるかまだ続けるか、いずれにしてもこれまでに何か印象に残るような画期的的なことを述べてきたとは到底思えず、たぶん今後どんなに努力してもそういう領域には到達できないような気もするのだが、その一方でそれが見え透いた嘘で、本当はかなりのうぬぼれ状態なのかしれないとも思われるのだが、そんな相矛盾する感情を内面で相互に戯れさせながらも、何となくそのままでもかまわないようにも思われてくるらしく、それが惰性や慣性と呼ばれるものなのかもしれない。そしていつの間にか意識は次第に収拾がつかない混乱状態を経ながら、それが一段落した後にとりとめもなく漠然とした思いに包まれ、これまでに何を述べてきたのか、またこれから何を述べたらいいのかわからなくなり、ついでそんな状態から逃れようとして、身の周りに広がる光景を眺めながら、日の光が見せる事物の色や輪郭について、利いた風な文章を用いながら述べようとするわけか。言葉に詰まった意識はそんな風にして、いつ何時でも自らを取り巻いている風景の中に逃れたいのだろうか。今の誰かにはそれ以外に逃れる場所が見あたらないのかもしれないが、いつかはそれでは済まないときがやってくるのだろうか。なぜそれでは済まなくなるのだろう。すでにそれらの言葉はそれとは違う内容を求めているわけなのか。あるいはそれを求めているのは、言葉を通り越して、それらの言葉から一時的に構成された架空の意識が文章の中で求めているのだろうか。そしてそんな風に思いこみたい欲望が同時に出現しているわけか。しかしそんな言説がいつ成就するというのか。やはり格好のつけすぎだろうか。


5月21日

 君はそこで何を知ろうとしているのか。それはいつもながらの問いかけであり疑問なのだろうが、誰に問いかけているのでもなく、何を疑っているのでもないような気がする。またそんな言葉を発しながら、この世の中がどうなっているかについて何か思いでも巡らせてみたいのか。すでにそれはわかっていることなのではないか。誰が何を求めているのでもなく、多くの人々がそのすべてを我がものとしたいわけでもないのだろう。そのすべてとはこの世の中のすべての富とでも考えているわけか。しかし富がどこにあるというのか。金の延べ棒や札束がどこかの銀行の地下金庫にでも眠っていて、それを盗人が虎視眈々とねらっているわけなのか。そういう話をしたいわけでもないか。だが富の不均衡などの世の中に蔓延している不具合を批判したいわけでもないのだろう。たぶんそのような不具合はこれからも放置されるがままなのだろうし、当たり前のことだが、相対的に富の多くを所有している者や組織にとっては、それは不具合などでは到底あり得ず、それらの者や組織にとっての長所であり利点であり武器でもあるだろう。有り余る富を活用して自分たちの思い通りに世の中を変えてゆきたいのだろうし、あわよくば世の中自体を自分たちで運営したいのではないか。だがそんな野望を抱いているのだとすれば、それは誇大妄想もいいところかもしれないが、またそんな風に述べてしまうのは簡単だが、現実にそれをやるとなると、うまくいかなくなるのは当然だとしても、それを映画や漫画の中のフィクションとして提示することなら可能だろう。その手の大げさな内容の作品は今までにも結構作られてきたのだろうし、それなりに人々の関心を集めてきたのかもしれないが、それを今さらどうこう批判する気にはなれないか。ではそこから何を導き出したいのか。人々の抱いている欲望が自らの思い通りになることでしかないのは分かり切っている。そして人々は絶えず自らが妥協を強いられている現状に抗っている。そこに戦いが生じていて、その戦いに勝つために膨大な労力が費やされているわけか。生存競争とはそんなものでしかないか。だがやはりそんな風に述べるのはやさしいが、現実にそんな状況の中で生きてゆくのは大変なことなのだろう。君はそれが馬鹿らしいとでも思っているのか。まあ自らの思いを押し通そうとして失敗してしまうところがおもしろいとでも思っているのだろうが、そんな欲望と妥協の狭間で揺れ動く人間模様でもテレビドラマにすれば、これまた世間の関心を集めるのだろうし、そんなテレビドラマに感動してしまう人々も世の中には大勢いるのだろう。ドラマの内でも外でも、思いをなかなか遂げられない自らの情けなさや滑稽さに、逆に救いを求めているということなのか。そしてどうせ世の中こんなものなどという陳腐な結論に達するほどに愚かではないにしても、そのような思いこみの中で抗いながらもそこにとどまることに居心地の良さを感じてしまうかもしれない。とりあえずすべてを手に入れられないにしても、その程度の心境ならその手のテレビドラマでも見ていれば容易に手にはいるということか。しかし君はそれで満足してしまうわけか。一時的にはそうかもしれないし、断続的にもそれを忘れたり思い出したりしながらそうなのかもしれない。しかし君がつかみ取ったつもりの現実とはそんなものなのか。それでは不満か。では他に何があるというのだろう。それ以外には何もない漠然としたとりとめのなさだろうか。そして何を知ろうとしているのでもない意識を抱えたまま、退屈な日々をただ時間通りにこなしていくだけか。そしてさらにそんな風に暮らしていながらも、決してそうではないと思い続けたいのだろう。また徒労であるかもしれないのに実り多い年月だとも思いこみたいのかもしれない。決して骨折り損のくたびれもうけだとは認めたくないのだが、仮にそれを悟ったとしても、そんな現状を茶化しながら、その滑稽さや情けなさを自ら笑い飛ばすことで、努めて正気であることを装っている。要するにそんな救いのない愚かさがやはり救いであるわけで、日々崩壊寸前に追い込まれそうになる精神を、持ち前の愚かさによってかろうじて持ちこたえさせているということなのか。しかしそんな風に思えるのだとしたら、そんな精神状態からは脱却した方がいいのだろうか。しかしもし脱却できたとして、そこから先にはどんな精神状態が待ちかまえているのだろうか。いったいそれ以上のどんな精神状態を想像できるのか。まさか自分が遭遇するどんな出来事も自分の都合のいいように解釈してしまう、いわゆる超ポジティブ型の根アカ(根暗の逆)人間でもなってしまうわけか。そんな物事の極端な単純化がどこまで通用するというのだろう。死ぬまで馬鹿でいられる根性のある人なら本当にそれで押し通してしまえるのかもしれないが、そんな人を端から見ていると哀しい気分になってしまうのはどうしてなのだろう。ただそういう人格を無理して演じているだけではないのか。そういう人は何か過去に耐えられないようなつらい出来事でも経験していて、それを忘れるためにひたすら明るく振る舞おうとしているだけのように見えてしまうところが、その場での哀しい雰囲気を醸し出しているのかもしれないが、たとえそれを察したところで何になるわけでもなく、そういう人は周りからそのままの精神状態で死ぬまで放置され続けてしまうのかもしれない。その辺に世の中の残酷さでもあるのだろうか。しかしそれをどう変えようとしてもさらに悲惨な状態になるより他はないのではないか。もちろんその超ポジティブな精神状態を持ち合わせている当人にとっては、それが悲惨な状態ではまったくあり得ないのだろうから、それを周囲の人々が変えようとすること自体が大きなお世話で、やる必要のないことなのだろうが、そんな風になってしまうなら、やはり情けなくも愚かしい現状にとどまっていた方がマシに思えてしまうか。


5月20日

 もういい加減に冗談にもほどがあるだろうか。そんな冗談を繰り返しているうちに、いつの間にか冗談が冗談でなくなり、正気ではないと思われるようになってしまうだろう。すでに正気ではないのかもしれない。とりあえず誰の精神が正気であろうとなかろうと、すでに生じているそれらの現象をどうすることもできはしないか。たとえそれが空虚な現実であろうとなかろうと、それをどう感じようと、どう解釈しようと、ただそのような言葉が連なっている現状をどうすることもできはしない。それでも誰かは状況を変えるべくどうにかしようとしているのだろうか。変えようとしているのではなく、終わらせようとしているのではないか。それについて君は危惧の念でも抱いているわけか。誰かが無理に終わらせようとしなくても、いつ終わるかわからないが、いつかは終わるだろう。しかしその現象を何と呼べばいいのだろうか。どのようにも呼ぶ必要などあり得ないか。また何と呼んでもかまわないし、呼び方についてどのような制限が加わっているわけでもないだろう。しかし何をどう呼ぶことについて語っているのだろうか。その現象とはどんな現象なのだろう。だがそんなことを述べてしまったら、また話が振り出しに戻ってしまうのではないか。だから冗談にもほどがあると述べていたわけか。では誰がそんなことを述べていたのか。そんな分かり切ったことを問いかけること自体がおかしいのではないか。わざとおかしなことを問いかけているのだろう。それに対してそんなことはないと誰かは応えるのか。そしてそんなどうでもいいような反応を繰り返すのが誰かの望みなのだろうか。だがそれが誰かの戦略だとか戦術だとか勘ぐるのは深読みのしすぎか。しかし誰が何を読んでいるわけでもないか。どうもそれらの文章は邪推に邪推を重ねているように感じられるのだが、誰かは何をひがんでいるのだろうか。たぶん何かをひがんでいるのだろうし、そのひがんでいる何かを知るつもりもないのだろう。何もかもが面倒くさくなってしまったのかもしれない。しかしそんな方向へ話を持って行ってその先が続けられるのだろうか。わからないがわからないからこそ継続が可能となるのかもしれない。もうあまり小さな不具合にこだわっていても仕方がないのではないか。それは意識してこだわっていたのではなく、状況によってこだわるようにし向けられていたのではないだろうか。そんなことはないと反論を繰り返すことで、逆にこだわらざるを得ない状況に追い込まれていたのかもしれない。反論にしろ肯定にしろ、それを強調することがそれへのこだわりを深めていくことになってしまう。そしてそんなことを繰り返していくうちに、おおよそ世の中に一件落着するようなことは何もなく、苦し紛れにそう思ってしまうときでも、そんな思いこみを裏切る形で、それから延々と形を変え場所を変えながら続いてしまっていることに気づいてしまう瞬間が、いつかは否応なく到来してしまうのだろうし、それに耐えかねてうんざりするような嫌気とともに、そこから逃げ出したつもりになっても、その逃げ出した先でもまた新たに同じような状況が待っているのかもしれず、そこからまたうんざりするような継続が延々と繰り返されてしまうのかもしれない。そんな風に考えると何か絶望的な気分になってくるだろうか。だからそんな状況に半ば呆れながら、冗談にもほどがあると思いたくなるわけか。それでもいつか終わりが到来することになるのだろうか。しかし君は何に決着をつけたいわけでもないのだろう。決着をつけられるはずがないとも思っているはずか。君は決着をつけるべく最後の言葉を探しているわけでもないのだろう。言葉で決着などつけられるわけもないとも思っているはずか。ではやはりいつまでも冗談ではないと思い続けながら、その場を放置し続けるしかないわけか。君に放置し続けられるはずもないだろう。君にそんな権限などありはしないし、権限という語句自体が架空の君には無関係な言葉だ。しかし誰かは何を当たり前のように述べているのか。なぜそこに見え透いた齟齬を差し込むのだろう。わざと食い違わせていることは一目瞭然ではないのか。それではまったく誰をだましたことにもならないだろう。だから冗談にもほどがあるといいたいわけなのか。それでそんな現実が揺らぐと思っているのか。別に現実が揺らぐようなことを述べようとしているわけでもないか。ただ当たり前で分かり切ったことを、それを語る上での文章表現的な欠陥を露呈させながら、わざと込み入らせてわかりにくく語っているだけなのだろうか。要するにそこには何も内容が見あたらないが、その代わりに空疎でわかりにくい文章が提示されているわけか。そんな風に思えばその通りなのかもしれないが、だからといってそれを終わらせることができるわけもなく、それはそれでそんな無内容に寄りかかりながら語ってゆくしか術がないのだろうか。それとは別の意識ならそうは思わないと思いたいところか。内心でそんな風に思わないことが、それらの継続を支えているのではないか。しかしそんな心理的な葛藤のような戯れをいくら提示してみたところで、それがまともな内容の形成に至るわけでもないだろう。しかしそこでまともな内容という概念の意味合いがよくわかっていないのかもしれず、よくわかっていないからこそ、今示されている現状の文章をしきりに空疎だと断じてしまうのだろうか。それはそれらの文章の内容に自信がないことの表れか。そうだとしてもそれを自信たっぷりに顕揚できるような機会が今後やってくるとはとうてい思えず、やはり現状では相変わらずわけのわからないことを語っているとしか思えないのかもしれない。それは誰が思っているのでもなく、君が思っているのでもなく、文章の中にそんな風に思っていると記されている現状が提示されているだけのことかもしれないが、それがそのような状況の中に存在していることは確かなようだ。


5月19日

 君はそこで何を空想しているのか。夢の中で誰かは宙に高く舞い上がり、夢から覚めたら地面にたたきつけられて墜落死体と化しているわけでもないが、そんな脈絡のないどうでもいいことを思い描いているうちに、再び記憶の中でいい加減な光景が再構成されて、死んだ誰かを悼んで、あの世での救いについて別の誰かが静かに語っている映像を思い出す。思い出しているのではなく、それも今回の作り話の一部に違いないが、それとは別にたぶんこの世での救いについては、また別の誰かがどこかで語っていることになっているのだろう。なぜ救われたいのか架空の君には理解しがたいか。しかしそれが物語の始まりではないようだ。そこに登場する誰もが同じ状況を共有しているわけではないので、まったくその先に話が続いてゆかないようだが、とりあえず何がこの世で救いを形成しうるのだろう。また誰がどこで救われたいのか知らないが、誰も知らない未知の領域で、また違う誰かが何か適当な研鑽を重ねれば、救われることの意味がわかったりするのかもしれないが、君はそれが気休めの宗教だと思いたいわけか。そう思うのなら宗教の中の何を信じれば人は救われるのだろう。その宗教の内容にもふれずに、そんなことが一概にわかるわけもないだろうが、どうも無神論者の君はそれらの救いとは無縁のようで、物語的にはこれまでに何をどうやってもうまくいった例しはなく、何かをやればすぐに話の内容が四方に飛び散り、まとまりを欠いて何を述べているのかわけがわからなくなり、そこに際限なく空虚が降り注ぐようなわけのわからない状況を引き寄せてしまうらしく、いったんそんな事態を前にしてしまうとその後が何も続かなくなり、ただ唖然としているしかやりようがなくなって、仕方がないのでそこから時が過ぎゆくままに、事態の推移をじっと眺めているだけになってしまうようで、誰かはそれが気に入らないようだが、強引に話を進めようとするとさらに事態は悪化して、そこから先はいつもの自己言及が繰り返されるのみとなってしまうらしく、やはりそればかりではつまらないと思われるようだ。実際につまらないから、そこでいったん意識がとぎれて、そこから現実の記憶はどこか別の時空に飛んでいるらしく、そんなわざとらしくもわかりにくい曖昧な展開をくぐり抜けて、意識は今までにに語ってきたそれらのすべてがいつ始まったのか覚えていないようで、しかもそれがすべてではないと思いたいのかもしれないが、客観的にはすでにわけのわからない話が始まっているらしく、そこに登場人物の君が出現しているようだ。とりあえず君はそこで何を顕揚したいのか。何もはっきりしていないのに顕揚も何もないかもしれないが、少なくとも意味のない話を持続させたいことは確かなようで、君の意識を含む誰かは、いつまでもそんな風にしながら言葉を連ねていたいらのかもしれないが、まるで意地になってやり続けているようにも思えるのだが、それを執拗に続けながらも、何かおかしいとは思わないのか。そこからどのような現実を疑えばいいのだろうか。現実ではなくそれらの言葉が生み出す虚構そのものの存在を疑ってみる必要があるのではないか。そしてそのような状況からいつかあり得ない出来事を起こすことを望みながら、今もそこに構成されている文章とともに、誰かが存在していることの意味も問いたいのではないだろうか。ただそんな風に言葉がこねくり回されている現実にも嫌気が差しているのかもしれないが、まさか君はそんな文章に嫌気が差して、文章の中からそれを破綻させると同時に、あらゆるものからその身を引いてしまいたいとでも思っているのだろうか。それは冗談だろう。そんなに深刻ぶる必然性も何もありはしないだろうし、今の君にそれらの文章から消え去る勇気などありはしないだろう。勇気があるなしの問題ではなく、文章は君の思惑を超えて記され続けている。では文章の中にいる君にできることは何もないのだろうか。できるできないの問題ではなく、何かができるように装うこと自体が見え透いた嘘か。そして文章は君に何を語りかけているわけでもない。では君を素通りして他の誰に語りかけているというのだろう。そんなことが文章にわかるわけもないだろう。だが誰がそんなことを文章に語りかけているのだろうか。それこそわざとらしい嘘に違いないが、それらの文章には実際に生じている状況が何も示されていないように思われ、ただ状況がこんがらがっているだけか。やはり誰かがわざと話を込み入らせているだけなのか。またそれではまずいとも思っているわけか。ではなぜ誰かはそこで現実に生じている疑いを晴らそうとしないのだろう。しかし何が疑われているのだろうか。何もないのに何かあるように語られている状況自体が疑わしいか。ではどうしていつまでも黙ったままでいるのか。黙っていては何もわからないではないか。黙っていることで生じるかもしれない気休めの意味でも欲しているのか。しかしそこから何が導き出されようとしているのか。それとも状況から何も導き出されないことを祈っているのだろうか。そうやって誰かを迷宮から誘い出そうと試みることが、かえってその迷宮の内部をいっそう複雑にしているのかもしれず、その中で誰かが存在している位置をつかみづらくしているのかもしれない。しかし君の方はそれとは無関係に、また別の何かを探り当てようとしているわけでもないらしく、そんなことには無頓着な風を装いながら、その場に何がもたらされているようにも思いたくはないのかもしれないが、たぶんそれでもすでに何かがもたらされているはずで、それは予定調和の空虚か何かか、空虚でないとするとあるいは風か何かか。しかし意識はそんな陳腐なものに逃げたくはないのではないか。外は相変わらず晴れ渡り、何を述べているのか定かでない意識も、窓の外を眺めていれば少しは気が晴れるかもしれないが、とりあえず迷宮は別の書物の中にもあるらしく、何か読者の興味をそそるような謎とともにそれらの文章の中に記されているようで、謎とはその書物のウリであり、読み進むうちにどこかで突然その謎が解き明かされて、読む者に生じていた好奇心を満足させてくれたりするらしい。


5月18日

 そんなやり方では君はうまく困難を切り抜けることはできないだろう。また誰かが何かいい加減なことをつぶやいているらしい。でも実際にはどうなるのだろう。たぶんいつかそれがわかるときがやってくるのだろうが、そのときがいつくるかは今の段階ではわからないということか。それは今から数時間後かもしれないし、数日後あるいは数年後さらにあるいは数十年後かもしれない。だがそのときになって何がわかるというのか。何もわからなければ嘘になってしまうか。嘘になってしまったら困難を切り抜けられないとでも思うわけか。そんなことを述べながらまた何か不快な言葉に回帰しつつあることを感じ取る。それがどうしようもない不安感でももたらしているのだろうか。この先がどうなるかわからないのはいつものことだろう。君はその困難を切り抜けたいとは思っていないのかもしれない。誰かはそんな言いぐさを待ち望んでいたのか。誰もがそのうちに欠陥を抱え込んでいるわけか。それは何の揚げ足取りでもなく、事実としてこの現状を構成しているのかもしれず、そこから何ら明瞭な結論を導き出せないことも、そのことに由来しているのだろうか。そんなことを述べた後ではそれらの文章をどう読んでいいのかわからなくなるか。そこで何かが突然はじけて、その衝撃でこんな場所までとばされてきたとでも思えば、誰かは納得せざるを得なくなるだろうか。目の前にある状況を把握できないのは何に原因があるわけでもなく、それでいいのであって、それをそのまま受け止めるしか手だてはないのかもしれないが、しかしそれは手だてとはいえないような精神作用だろう。君はそこで誰に刃向かっているわけでもなく、どんな運命に逆らっているのでもない。ただそのような状況の中でもがきながらうごめき、そこで思考しながら行動しているにすぎないようだ。そこから何らかの答えが導き出されるとしたら、それはやはり嘘になるだろうか。そこで君は真実を見落としているというわけか。何が真実かもわからないのにそんなことを述べることこそ嘘偽りではないのか。それともただ何となくそんな風に思えるだけか。たぶんそれが嘘であることがそこでの真実なのかもしれず、要するに君は何を見落としているわけでもないということなのか。もちろんそれが底の浅い気休めにすぎないことは承知しているつもりなのだろうが、そんな気休め以外に何を述べることができようか。何もできはしないと思うわけか。ではいったい何にうんざりしているのだろうか。それでは誰が何を求めているのかわかりようがない。それがそこでの欠陥となっているわけか。君は絶えずそこから逃げているが、そういうまでも逃げているわけにもいかなくなるだろう。ではそのときが来るまでは逃げていればいいということか。そんなわけにもいかなくなって時にどうするかが問題なのかもしれないが、どうするかはそのときになってみれば、実際にどうにかしている自身に気づくかもしれない。そしてどうにかなっているかあるいはどうにもなっていないかの、どちらかの結果を受け入れざるを得なくなっている自身にも気づくのだろうか。しかし何を先回りしながら述べているのだろう。将来に起こる出来事について何を述べてみても現状がどうなるわけでもないか。どうにもならなければ自らが行動に打って出なければどうにもならないのは分かり切っていることなのだろうが、それでどうにかなる保証は何もないことも分かり切っていることであり、それでもどうにかしたければ、そこで何の保証も求めない命がけの飛躍でも試みる必要でもあるのだろう。現状に安住しないためにはそんなことばかりが求められているのだろうか。ちょっとそれは馬鹿げているか。馬鹿げているからこそ、それが命がけの飛躍になってしまうのかもしれず、一か八か伸るか反るかの賭けとはおおよそそんなものなのだろうか。利口なばくち打ちならそんなことはやらないか。事前に勝算が見込まれていなければ、まかり間違えば身を滅ぼすような賭けはしないのだろう。しかし君はそこでどんな計算をしているわけか。まさか行き当たりばったりでなんとななるわけはないだろう。君が何を望んでいるのか、またどんなことをやりたいのか、そのためにどんな算段をしているのか、君自身の意識にはわからないらしく、わかろうとしていないのかもしれない。それで何かやっているつもりなのか。たぶんなにやらやっているつもりなのだろうが、その何やらが言葉では言い表せず、文章では表現できないようだ。しかしそれでは現実に述べているそれは何なのか。やはり何かの冗談のつもりなのだろうか。少なくともそれらの自己言及の文章が何でもないということではないのだろう。何でもないのならそれを続けるべきなのか否か、いつかわかる日でもやってくるのだろうか。その日がやってくるまでは続けられるということなのか。そんなことが今の時点でわかるわけもなく、わかろうとすること自体が意味のない無駄な試みなのではないか。要するに現時点でわかっていることは、それらの困難はまだ執拗に続いているのであり、まだそれを乗り切るには至っていないということなのか。きっかけが何も見いだせていないように感じられ、ただ黙って時が過ぎゆくにまかせているようにも思われ、何もしていないようでいて、誰かの意識が何かしら言葉を連ねている現状を眺めているだけなのかもしれず、そこに記された文章を読み返しながら、将来へ向けて空想を思い描いているように装い、そんな行為を肯定することができずに、その受け入れがたい現実を困難や試練だと思いこんでいるだけなのか。しかしそうだとしたらどうだというか。それを現実に生じている欠陥だと見なせばそれで気が済むのだろうか。そんなことで気が済むわけがないか。それでは気が済まないからこそ、そうやって君は長々と、他人にとってはどうでもいいと同時に、当人にとってはどうでもよくないことを、性懲りもなく述べ続けているのではないだろうか。


5月17日

 車が激しく行き交う通りを不意に猫が横切る。何がそれらの夢なのだろう。誰かが夢遊病者のように歩みを進めている間に、そこにはどのような幻影が現れているのか。暗闇は去り夜が明け、近所で始まった工事の騒音も次第に大きく激しくなる。現実とはどのような状態をいうのか。なぜそれほどまでに不愉快を装うのか。多くの人は仕事をしなければ生きてはゆけない。生きてゆけないのなら、死んでもかまわないわけでもないらしく、とりあえず少々の不愉快は我慢して仕事を続けるべきなのだろう。だがそんな現状をどうすることもできなければその先はどうなってしまうのか。どうなろうと君の知ったことではないか。たぶん誰かはたまったものではないと感じているのかもしれない。君の方はそんなことを述べながら、昨日よりも少しは遠くへゆくことができたと思いこんでいるのかもしれない。それはほんの少しの前進のように感じられ、しかしそのほんの少しが、同時にさらなる虚しさを呼び込んでいるようにも思われてきて、それが前進したという達成感を打ち消してしまうようにも思われてしまう。だから絶えず生じてくる虚しさを振り払うために、さらなる前進を試みなければならないのか。冗談ではないか。冗談であったならそれも救いとなるだろうか。何もありはしないのに、なぜ歩みを前方に進める必要があるのだろう。ではそこで機転を利かせて後方に退いてみるか。それでは過去の思い出に浸って自己満足を得ることになるだけか。しかし自己満足に浸れるほどの過去があるわけでもないだろう。ではその代わりに都合のいいフィクションでもねつ造して、そこから生じる幻影にうつつを抜かしていればいいわけか。そのどれもこれもがつまらないと思うのはどういうことなのか。どういうことでもなくそういうことにすぎないということか。何かを語ればそれが虚であっても実であっても、語るほどに虚しさが増してゆくのは当たり前のことかもしれず、虚しさを振り払うためには語るのではなく、実際に身体を動かしながら行動しなければならないということか。しかしその行動が労働だとしたらどうだろう。労働すれば金が入り、その金で余暇を楽しめば普通の人間になれるだろう。そういう次元の問題ではないのか。また本質から遠ざかりつつ技巧を弄して、うやむやのうちにそこから退散してしまうのだろうか。そして退散することが君にとっての前進になるのなら、それは偽りの前進だといいたいわけか。それはつまらないこじつけに属する述べ方か。退散を前進と結びつけるのには無理があるだろうか。ならばそれらの行動をどう言い表せばうまく述べたことになるのか。何がそこには実在しているといえるのか。それらの話の中に何を実在させたいのか。虚構の話の中に何が実在できるはずもなく、その実在させようとする魂胆自体も嘘であって、そんな見え透いた嘘から生じるものとしては、やはりそれは虚しさになってしまうのだろうか。しかしそんな堂々巡りのようなことを述べて何がおもしろいのだろう。たぶん途中で話が横道に逸れていってしまいそうになったかもしれないが、なぜかその場を支配しているらしい虚しさがそれを阻み、執拗に虚しさについて繰り返し述べるように強いているのかもしれず、意識はその力に逆らうことができず、さらにそこから先も同じようなことを述べていってしまうのだろうか。述べてみればいいではないか。述べれば述べるほど虚しさが増してゆくのなら虚しさの思うつぼであり、虚しさにとってはその方が好都合なのではないか。つまり君の正体とは虚しさそのものだったのか。そんな作り話だったらおもしろいか。しかしそんなことは君の関知するようなことではないだろう。君はただその場に虚しさが漂っていればそれで満足なのかもしれないが、虚しさにどんな満足感が生じるというのか。虚しいことと満足することとは意味的につながらないのではないか。ではつまらなければ虚しくなるのだろうか。それは当たり前のことで、つまらないから虚しいのではないか。しかし何をつまらないことを述べているのだろう。それではますます虚しさが増してゆき、結果として君の思うつぼではないか。だからさっき虚しさの思うつぼだと述べたばかりではないか。しかしそれは誰が誰に向かって投げかけている言葉なのか。何をそんなにいらだっているのだろう。どうやらまたいつものように同じような言葉の循環が始まってしまったらしく、何となくそんな現象に意識がついて行けなくなりつつあるように思われてきて、弱音を吐いて挫折してしまいそうになるらしい。それはどういうことなのだろう。今誰かは笑ってしまうような事態に直面しているのだろうか。どうも何かが足りないらしい。それは現実の出来事か何かか。それを体験しなければその先へ進むことはできないのだろうか。だがその出来事が何かもわからないのに、なぜそうやって話を先に進めようとしてしまうのだろう。これから体験するかもしれない未知の出来事に期待しながら、それを織り込み済みにしてその先を語ることにどんな意味があるというのか。さっきから君はそんな風に虚空に向かって問いかけることばかりに終始しているらしく、そんな偽りの行為がその架空の身に絶え間なく虚しさを呼び込んでいるように思われるのだが、やはりそればかりでは虚しくないか。だからさっきからそれを述べているのではないか。しかしなぜわざとらしくもそんな風に虚しい語りばかりを繰り返しているのだろうか。何かの冗談のつもりなのか。しかしすべてが変わってしまったわけではない。君はそれをやめてほしいのだろうか。君はいつ目を覚ましたと思っているのか。そこで何を思い、何を述べているつもりなのだろう。そして何を欲しているのだろう。誰かが思っていることは君には通用しないようだ。君はさらに先の時空へとその影を延ばしてゆき、その先でもまた同じようなことを語っているのかもしれない。


5月16日

 何か胸騒ぎがしているような気がするのだが、君は他にやらなければならないことでもあるのだろうか。あるとしたらそれは何なのか。昼に表を歩いたら、日差しの強さにめまいがしたわけでもないのだろうが、一瞬立ちくらみのようになり、何が何だかわからなくなってきたみたいだったが、しばらくして我に返り、そこは何とか持ちこたえて、かろうじてその場では立ち直ることができたようだが、さらに追い打ちをかけるようにどんなことが起こるのだろうか。何かこの身に災いが降りかかるような周期に突入しているのかもしれないが、それを止めることは無理のようで、次から次へと得体の知れない出来事が起こり、それによってわけのわからない状況に投げ込まれているのかもしれず、それが思い過ごしであればいいと思っているのだが、どうもそんなわけにはいかない予感がしている。すでに周りの状況も誰かの精神も崩壊しているのかもしれない。そんな作り話なら誰かの興味を引きそうか。それは何かの錯覚かもしれないが、錯覚であってもかまうことはないのだろうか。情けない人々が画面上に姿を現し、情けない即興芸で見ている者の笑いを誘っているが、それも何かの錯覚なのか。それとこれとは無関係であり、まだそれについては何も語っていないような気がするのだが、崩壊しかけた精神を持ち合わせているつもりの誰かは、頭の中でどんな光景を再構成しているのか。何を再構成しようと、それらすべては過ぎゆき、また性懲りもなく持続し続けるだけだろう。そんな光景はいくらでも繰り返され、もういい加減に飽きられてもまだ続けられる。要するに同じようなことが執拗に繰り返され、それが何度も繰り返されるので、過去に繰り返された同じようなことは次々に忘れ去られて、その繰り返しの光景に慣れ親しんだ人々は、いつの間にか目の前に展開されているそれが、以前と同じようなことだとは決して思わなくなるのだろうか。なぜそうなるのだろう。また途中で話を省いていないか。なぜそうなるのではなく、それを見ている者たちそのものが入れ替わってしまうわけか。それは世代交代か何かの自然現象というところか。人々は次々に消え去り、またどこからともなく次々に湧いてくるわけか。そのような現象は誰かが唱えている神秘主義とはどう関係するのか。何が気に入らないのだろうか。文章の内容そのものが受け入れがたいか。そこで崩壊しつつあるのは状況や精神ではなく、他に何があるというのか。何がわからないのだろう。ところで神秘主義はどこへ行ってしまったのだろうか。次第に何の話をしていたのかつかめなくなるような予感がしている。精神の崩壊とはどのような過程を辿ってそこへと至るのだろう。そこで誰が話しているのか。あるとき私は私に向かって私は嘘つきだと嘘をついてみた。それが神秘主義の内容になるだろうか。そこには何もないような気がするのだが、要するに誰かの精神の崩壊は君の幻想でしかなかったのか。そんなことを語っているうちに、もう何がそれらを語る上での障害となっていたのか忘れてしまったらしく、わけのわからないことを語りながらも、それでいいのではないかと思い始めているようだ。いったいこの世の中で人々は何をやっているのだろう。仕事で苦労した分を気休めの快楽で紛らしているだけなのか。なぜそんなつまらないことが飽きもせず繰り返されているのか。それをつまらないとは思わないから繰り返しているだけなのか。そうだとすればそこからどうなるわけでもそれがどのような状態に至るわけでもないのだろうか。いつかは自らの死に至るのかもしれないが、それ以外にどのような状態に至りたいのか。別にどこかに至ろうとしているわけでもなく、絶えずその場で自己満足に浸っていたいだけなのかもしれず、要するにそれは格闘家が、身をすり減らすような精進を重ねた末に試合に臨み、運良く相手を倒して恍惚の表情を浮かべる瞬間に至りたいのと、程度の差こそあれ同じようなことか。それは馬鹿な話かもしれない。ではそれを馬鹿ではない話にするにはどうしたらいいのだろうか。結果としての自己満足ではなく、そこへ至る過程に生じている努力を重ねた歩みに注意を向けるべきなのだろうか。しかしそんなことをやって何になる。勇気ある誰かの成功と挫折の物語でも語ろうとしているのか。そしてその物語が感動的であったりおもしろかったりしたら、他の人々が気晴らしに楽しむ読み物として有効に機能するわけか。そんな単純なことを語ろうとしているのではないとするなら、どんな複雑なことを語り得るのか。なぜ人々はそれらの物語に励まされたいのだろう。それらのフィクションを通して、現実に日々努力していることが無駄ではないと思いこみたいのだろうか。そしてそれが無駄ではなかったことの証として結果を求めたいわけなのか。またそれが自己満足に浸り得る結果であることも望んでいるわけか。そんなところに人々の目指している未来があるのだろうか。そうだとすればどうだというのか。そんなちんけなことを述べてみても仕方がないだろうか。結果を求めない努力などあろうはずがなく、目的のない行為や行動があるわけもないか。だからいくら何を目指しているでもないことをやっていると言い張ってみても、そのような言動自体がフィクションでしかあり得ず、現実にそれをやっているつもりだと思っているのなら、それは単なる思いこみであって、無意識のうちに何かを目指していることに気づかないだけなのかもしれず、あるいは意図的に目指していることを隠しているだけなのだろう。しかしそんな風に述べれば気が済むのか。フィクション的にはそういう述べ方もありなのか。途中でわけがわからなくなってしまったようだが、結局いつもの単純な図式にすがりつくことで、かろうじて正気を保っているだけではないのか。それで持ちこたえたといえるのか。だがそんな風にして我に返っても、それでは同じことに繰り返しにしかなっていないのではないか。


5月15日

 そこに何があると思われるのか。何もないと思うならそれで終わってしまうのかもしれないが、何もないのに何かあるように装いたいのなら、そこから先はフィクションの世界になってしまうわけか。そんな風に思いたければ思ってみればいいだろう。それ以上に何があるというのか。何もなければこれまで通りにフィクションでも語っていればいいのかもしれない。もうすでに夜が明けているはずで、どうということはないただの一日が始まっているらしい。遠くでカラスが鳴いている。たぶん勝手に鳴いているのだろうが、それにつられて勝手に文章も繰り延べられるらしい。まさにそれは全自動文章生成機構となりはてているのかもしれず、それについて意識が何を思ってみても、そんな思いは後回しにされて、さらに文章は遠くへと続いていってしまうわけか。しかしその行き着く先がどこにあるのだろうか。そうやってあたりをさまよっているうちに、あるとき不意に永遠の中断が到来して、それっきりの尻切れトンボに終わってしまうような予感がしているのだが、なぜか現実にそうなってしまった時を想定しながら、今から無意識はそのときに繰り出すいいわけでも考えているのかもしれず、そんな空想上の無意識に呆れながらも、誰が呆れているのかわからなくなっているのだろうか。やはり何を述べているのかわからない。たぶんそれは君ではないのだろう。君が何を思っているわけではなく、ただそんな言葉が記されているのか。そしてさらにそれについて君が何を思っているわけでもない。そしてまたそんなことの繰り返しによってそれらの文章が長引いていくようだ。カラスの鳴き声はいつの間にかやんでいて、その代わりに犬の鳴き声がこだまする。注意深く耳を澄ませば鳥のさえずりや道を行き交う車の音も聞こえてくるだろう。しかしそれはそれだけのことであり、それだけのことでしかない。それだけのことに何を思うでもなく、ただそれだけのことだと思うだけか。そんな思いからどんな思いへ至るわけでもなく、どこへも至らないとすると、後は虚しさがこみ上げてくるだけなのだろうか。だが虚しくなったからといってどうなるわけでないか。それでは何か不満が残るわけか。不満だからといってその不満を解消する術をすぐに思いつくわけでもなく、不満が募り続けるがままに時が過ぎゆくだけか。君はそれに耐えられるのか。耐えられないとすればどうにかなってしまうわけか。どうにかなったらなったで、そのどうにかなった状態を経験するだけではないのか。経験とはそのどうにかなってしまった状態が積み重なることでしかないのだろうか。ではそんな経験を通して何がいえるというのか。たぶんその時々の気分次第で何らかのことを述べているのだろうし、その述べている最中にも何かを述べているという経験をしている。そして後から過ぎ去った時間の中になにがしかの経験があったことを思い出すわけか。そんな風に思えば君は満足するわけか。何を満足しているのだろうか。ただ何か語っているような気がしているだけか。何かを語っているのではなく、君でも誰でもない何かが語っているような気もするのだが、そんなことをいくら述べてみても事態がはっきりするわけもなく、相変わらずそんな言葉が連なっていくだけなのかもしれない。そうやってそこに生じているつもりの空虚に合うような無内容の文章が生じるしかないのだろうか。それでは気に入らないと思うわけか。気に入らないのなら何とかしてみればいいだろう。それ以外に何も述べられないのなら、何か勘違いのことでも述べてみるか。それは嘘だろう。君は一向に何を思うつもりもなさそうだし、他の誰が助け船を出すような気配もない。だからそれらの文章はそのままのうちに継続されようとしているらしい。要するに誰かの意識はそんな状況に慣れきっているわけか。そこから外へ出ようとしないのは、そこが安住の地だからなのか。ではその安住の地とやらで何をやっているつもりなのか。つもりなのではなく、実際に何をやっているのだろう。そんなことが架空の意識にわかるはずもないとは思わないが、とりあえず何かをわかった風を装えば、その場を取り繕うことができるのかもしれず、それが何らかの心境の変化でも呼び寄せることになるのかもしれない。それは事件でも事故でもなく、ただの出来事でしかないのだろう。いつの間にか空は晴れ渡り、暇つぶしの散歩には最適な季節にでもなっているわけか。老人が川沿いの道を歩いているようだ。心は何を求めているわけでも何がもたらされているわけでもない。それが誰の心なのか知る気にはならないようだが、勝手に繰り出された言葉からは、どのような状況にも対応しようとする意志のような雰囲気が伺える。まだ執拗に述べていこうとしているのだろうか。それらの言葉は無限を目指しているようにも思われ、すでに無限を体現しているのかもしれず、無限に移り変わろうとしているのかもしれない。だが誰に頼ることもなくそんな風になれるのだろうか。なぜそこには文章を記す立場を担っている意識が不在なのか。文章は自立していて、誰がそこで踊っているわけでもないというのだろうか。しかしそれはまるでとってつけたような内容になっていないか。いったいそれは誰に影響を受けて構成された文章なのか。それは数年前の出来事だろうか。どこかで誰かの魂が消散しつつあるのかもしれない。誰がそれを受け継ごうとしているのでもなく、逆に何とか忘れ去ろうと必死なのかもしれないが、その必死さが消散しつつあった魂を一点にまとめ上げてしまい、そこから何か得体の知れぬ意識が形成されようとしているらしく、そして今やそれはおぼろげにその輪郭が浮かび上がるまでになり、そこから何かを語りかけようとしている気がするのだが、今のところ何を語りかけているのか、それを受け取る立場の意識が理解できていないらしく、そのせいで何とかかろうじて正気を保っているようだ。


5月14日

 ニュースを見れば相変わらずの事件や事故しかないようだ。何を想像しているのだろう。自らの思い通りにいくことがそんなに大事なことなのだろうか。たぶん危機感だけで何かを語るのは間違っているのだろう。それは危機ではないと思いたいわけか。危機感を抱いて語っている者はそれらの事態を危機だと見なしているのだろうが、語ることでなにがしかの利益を得ているのだとすれば、その者にとって危機ではあり得ない。またその者がそういうことだけに専従している者なら、危機感を抱けない状況が続いてしまう方が商売あがったりで、むしろ危機的な事態に陥っているのかもしれない。しかし物事の順序的にはそういうことではないのかもしれない。その手のメディアで危機感をあおることが恒常化した状況の中から、そういうことを生業とする者が出現してきたわけで、そのような状況が続いてゆく限り、そういう者たちは手を変え品を変えながら絶えず生じてくるのだろう。それはそれでそういうことが繰り返されてきた経緯があり、これからも大がかりであったり衝撃的であったりする事件や事故が発生すれば、ニュースで誰かが危機感をあおるようなコメントをせざるを得ないのかもしれない。それはある種の条件反射のようなものか。だがそこに真の危機感というものがあるのだろうか。真の危機感とはどのような危機感なのだろう。何かそれは人類が滅亡するような事態にでもなれば発生するものなのか。危機感に真も偽もありはせず、たまたまそのような状況で発せられたある種のコメントの内容を、危機感という語句で表現すれば、意味的に合っているような気がするだけか。だからそのような事件や事故が何を語りかけているわけではなく、ただその事件や事故について語る立場の者たちがニュースに登場しているだけなのだろう。もしかしたらシステム的にはそれで一件落着なのかもしれず、ひとたび事件や事故が起これば、まず警察関係者や消防関係者がそれの処理に当たり、怪我人が出れば医療関係者が、また死人が出れば葬祭業者が対応に当たり、それらの様子を報道関係者が伝え、それを起こした責任を問われるような者や組織が出てくれば、その件については司法関係者が対処する。またその過程で金銭的な補償問題が出てくれば損害保険関係者でも登場するわけなのだろう。多くの場合はそのように処理されて表面上は一件落着ということになるのかもしれない。そのようなシステムに何か問題でもあるのだろうか。別にそれはそれでかまわないのではないか。またそのようなシステムの中で何か不具合が発生しているようなら、ジャーナリストとか呼ばれる人たちがメディアを通してその不具合を告発するシステムも確立されているのだろう。そしてそのような告発が不具合を是正すべきだとする世論となって、それをメディアが大々的に報じるような事態にでもなれば、今度は政治家が不具合を是正すべく、関係する法律を整備したり改正したりすることに至るのだろう。一応そのような過程も慣習的に確立されたシステムには違いない。それで何か不都合でもあるのだろうか。それはそれとしてだからどうだというわけでもないか。たぶんそれらのシステムを維持継続するのがこの社会に暮らす者たちの役目だといえばそうに違いない。では君はそれらのシステムに対して何か異議でも唱えたいわけか。飽きもせずそんなことばかりが繰り返されるのはおかしいとは思わないか。そのようなシステムが必要とされる社会とはどんな社会なのだろうか。それはこんな社会でしかないか。では何か馬鹿げているとは思わないか。いったいそこで人々は何を夢見ているのか。何をやってもたかがしれているようなことに関わり合いながら生きていることが馬鹿げているとでもいうのか。それとこれとは違うことか。では犯罪者だとかその被害者だとか、そんな役割分担があること自体愚かしいとは思わないのか。それでは何となく予定調和でしかないような気がするのだが、ではそういうシステムとはなるべく関わりたくないと思うわけか。そんなことを思っていてもいったん事件や事故に巻き込まれてしまえば、否応なくそのようなシステムに引きずり込まれて、その手順に従って流れ作業のように適切により分けられて処理されてしまうのだろう。そして処理が終了すれば一件落着となって、どうというわけでもないことになってしまうのかもしれない。君はそういう処理物質になってしまってもいいわけか。ではそこに何が欠けているというのか。そんなこともどうでもいいことなのだろうか。ものは言い様で、それで当事者もその周囲も納得して丸く収まるのならそれでいいのではないか。それでいいに超したことはないのだろうが、何か違うように思われるのはどうしたことなのか。それは心情的なものではないとすると何なのだろうか。何か幻想でも抱いているのか。たぶんそれは今のところ幻想にすぎないのかもしれない。これらの社会にそれ以上の可能性はないのだろう。それはたとえば人口密度の問題で、人口が今の半分にでもなれば、欲望やら闘争心やらが和らげられて、もっとゆったり生きられるような世の中になるのだろうか。それも幻想の一つには違いなく、それでも役割分担的に劣悪な環境に生きなければならない者たちが必ず出てきてしまうのかもしれず、そんな貶まれた者たちの日頃の不満が爆発して、相も変わらぬ事件や事故が起こり続けてしまうのかもしれない。システムには不具合がつきものだし、皆が平等にその恩恵に授かれるわけでもない。そういう状況の中で過度に救われようとしても無理なのだろうし、自らの思いを強引に押し通そうとすれば、結局は事件や事故の加害者となってしまうしかないのかもしれず、しかしそこで我慢し続ければ何も報われないこともあり得るわけで、危険を覚悟で状況にぶち当たってゆかなければ何も得られないような仕組みになっているのかもしれない。要するにそこでは誰もが絶えずのるかそるかの賭けに直面しているわけか。


5月13日

 どうも言葉は表現に役立つものではなくなりつつあるようだ。何かを考える上での障害物となり始めているのか。だがそれによってどのようなやり方を遠くまで推し進めているわけでもない。表現は表現であり言葉は言葉としてあり続け、文章表現の中から言葉を引きはがすことなどで気はしないが、そこに埋め込まれた言葉にどのような働きがあるとしても、それらの言葉から何が形成されているわけでもないように思えてくる。それらは文章であること以外に何を表現しているのか。何も示しはしないと思いたいのか。それ以外に何を示しているというのだろう。そこには何かその文章の生成に介在した人格が醸し出した感情などが反映されているのだろうか。されているのだとしたら、読む者はそれをどう解釈したつもりになっているのだろう。そこには何もないのではないか。それは読む者の思い上がりなのだろうか。何か謎が隠されているという浅はかな魂胆が醸し出す幻想なのかもしれず、急いで自分の都合のいいように解釈してそこから身を引きはがしたい衝動に駆られているのかもしれない。しかしなぜ文章には言葉が必要とされているのだろう。それらの言葉によって何か伝えたいことでもあるのだろうか。伝えたいのではなく、伝えられないからその代わりに意味のない言葉を連ね続けているのではないか。そんなわけで君は自らの思いこみ以外に、何を見ているのでも読んでいるのでもないことになるのだろうか。たぶんそんな風には思いたくないのだろうが、それで少しは真実に近づいたことになるわけか。はたしてそれらの文章の中に真実など存在する余地があるのだろうか。ではそのすべてが虚構であるならば、真実が皆無だといいたいわけか。皆無ではなく虚構であることこそが真実を告げている場合もあるだろうか。だがそんな戯れ言の集積のどこに価値があるのだろう。それは何か現世利益のような効用でもあると思っているのだろうか。そんなやり方によって何を把握しようとしているのか。この世の中のとりとめのなさでもうかがい知って絶望でもしてみせれば、それで納得がいったりするのだろうか。なぜそこまで述べる必要があるのだろう。何を述べているわけでもないと思っているのに、なぜかそんなことを述べている者の気が知れないが、それでうまく物事が運んでいるとしたら、それはとんでもない大失敗をしている現実に気づかないだけか。しかしそんな逆接こそが読む者を物語の中に引き入れようとするための見え透いた嘘なのではないか。どうやら君は劇的な展開を好まない傾向にあるらしく、その辺に君の稚拙な感情が介在しているのかもしれない。わからないが君の口癖なのか。考えることを拒むとき、君はわからないというつぶやきを連発し始める。感情の発現を疎ましく思い、それを打ち消すようにわからないとつぶやき続けているようにも思われる。だからますます何を述べているのかわからなくなってくるようだが、どうもそうなってしまう展開を止めることは不可能なのかもしれず、ただ時が過ぎ去り、それを忘れ去るまで君のわからないはやむことを知らないようだ。やはり何を述べているのでもないらしいが、そんな風に述べながらも、何とかその場に醸し出されている現状を語っているつもりなのか。しかしそれを語ってどうするのだろう。今まさに現状を語っているのではないだろうか。どうするわけでもなくひたすら現状を語り続けているのではないか。だがそれがどうしていることになるのだろうか。どうもしてないことにでもなるわけか。ただ現状のありのままがそれらの文章として存在しているとでも思いたいのだろうか。何を思いたいわけでもなく、そんな風に思いもしないようなことを記して文章を構成しているだけか。たぶんそこから逃れる道は無限にあり、実際に様々な言葉を繰り出しながら逃れ去ろうとしているようだが、そんな行為が現状の文章を構成し続けていることは確からしく、それらの文章は絶えず現状から逃れ去ろうとする軌跡として示されているのかもしれない。そんな風にしてさらに文章は続いてゆくのか。それが現状だとして、いったいそこに存在しているつもりの意識は何から逃れ去ろうとしているのか。現状から逃れ去るつもりでやっていることが逆に現状を構成していることについて、現状の意識は何をどうしようとしているのか。やはり相変わらずの言葉を繰り出しながら現状のままにとどまっているだけか。それではつまらなくなってきたように思えるのだが、そのつまらないままをさらに推し進めようとでも思っているのだろうか。やはりその辺がわからない。わかりようがないことをわかるはずもないのだが、どうしていいのかわからない現状の中で、やはりわからないとつぶやく以外にないのだろうか。要するに現状はつまらなくてわからない状態なのかもしれず、そのほかには何が文章として示されているわけではないのかもしれない。そしてそのような現状に対して君はただ沈黙するしか術を知らぬようだ。もう何もいえはしまい、と思うことが沈黙すると同時に思いもしないような言葉を記すという行為を生んでいるのだろうか。しかしなぜそんな誰にも何の関心も抱かせないような狭い範囲でひたすらつまらないことを述べているのか。ならば他に何か述べるべきことがあると思うか。何に興味を抱いているわけでもない現状では、述べるべきことなど何もないわけか。たぶんそれは嘘なのかもしれず、何も興味を抱いていることが文章になるわけでもなく、それ以外のどうでもいいことを文章として記しながら、何とか思いの確信し至るような詮索を避けようとしているのかもしれず、あたかも何も思わないように装いながらも、その密かな思いが心の外部へ流出するのを阻止しているのかもしれない。しかしならばそれらの意味のない文章はそこに存在する必要があるのだろうか。密かに抱いている思いをおおっぴらに公開するのが本来の文章としての役割なのではないか。なぜそれをやらずに別のことで間に合わせようとしているのだろう。その辺もわけのわからないところだろうか。


5月12日

 何をどう思えばいいのだろうか。やはりわからないのか。わかるはずもないだろう。終わりようがないことをやり続け、精神的に耐えられなくなってから、さらに終わりようがないことを思い知る。終わらせようとしているわけではないのだから、終わりようがないのは当たり前のことだろう。またそこから何をどうしようというのでもなく、どうにもできずにさらに終わりようがない状況が深まるだけだろうか。そこに何か救いを見いだそうとしているわけでもなく、何の救いも見いだせない状況をそのままに放置し続けるだけなのかもしれず、そこから先に何を見いだそうとしているわけでもないらしい。もうすでに終わってしまったのだろうか。しかし終わってしまったのに何をやっているのか。何もやっていないような気はするのだが、自然と何かしら意味のないことを述べているらしい。だが何を述べていいのかわからない。何が完結したわけでもないだろう。ただ無駄に言葉を費やしながら終わりの前で足踏みをしているだけなのか。しかし終わらせられないということが何をもたらしているのだろうか。何となく暇をもたらしているのかもしれない。そしてもたらされた暇を利用して、さらに意味のない言葉を連ねているわけか。しかしそこには何が存在しているというのか。暇以外に何を見いだせるのだろう。それは暇ではなくしてなんなのか。どう言葉を連ねてみても暇以外では言い表しようのない状況なのかもしれない。それ以外のどんな状況の中に存在しているわけでもなさそうに思える。ではそこでどんな幻想に包み込まれているというのか。言葉を記す以外に何もやってはいけないのか。だがそれだけでは終わりを見いだせなくなってしまうのではないか。終わり得ないことについていくら言葉を費やしてみても、さらなる無意味な文章が継続されてゆくだけか。要するにそれは不毛な作業の連続かもしれない。しかしそんな作業によって言葉の連なりはどこへ引きずられていってしまうのだろう。どこへも行かずにこの空虚な場へとどまり続けるのか。あるいはとどまり続けているつもりが徐々にあらぬ方向へと移動しているのだろうか。たとえばそれは劇的に思わぬ結末でも用意しているわけか。仮にそうだとして、それについてどう思えばいいのだろう。それは今のところはどう思うでもないことなのか。どう思ってみても勘違いなような気がするのだが、思うこと以外になすべき事は何もないような気もするのであり、ならば勘違いを思い続けていればそれでいいのかというと、意識はそれでは気に入らないのかもしれず、気に入らないなりにしきりと別のことについて思いを巡らそうとしているらしいが、たぶんわかっていないのだろう。何をしようにも何を思うわけでもなく、わずかに後から反省気味に過ぎ去ったことを思うだけなのかもしれない。なぜその出来事を簡単に通り過ぎてしまうのか。まだ通り過ぎたわけではないと思いたいのか。そんな判断ができるような状態ではないか。ただ単につまらない日々が繰り返されているにすぎないわけか。そんな日々の中で何をするでもなく、淡々と時間が経過するのを感じているだけなのだろうか。たぶんそんな日々をどう思っているわけでもなく、つまらないと感じているのは単なる照れ隠しの一種であり、それの何が照れ隠しになっているのか意味不明だが、何となくそんな感じがするわけで、それについてさらに深く考えてみるつもりはないらしく、どうも自らが何を考えているのか言葉では正確に示せない状態が続いているのかもしれない。何を思っているのかはっきりしないし、何を述べているのかもわからなくなっているのだろうか。そんな風には思いたくないようだが、現状ではそんなつもりになりながらも、はっきりしないことをいつまでも述べ続けているような気がするのだが、実際に何を述べているのだろうか。それは見たまま読んだままの内容でしかないだろう。それをどう見てどう読むかによって感じる印象も違ってくるのかもしれないが、その見たり読んだりしている対象そのものは、その見ての通りの読んでの通りのものでしかない。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけのことなのか。それだけのことにどれほどの労力と神経を費やしたのか。それは大したことではなく、それほど長い歳月でもなかったのだろうか。歳月や時間は問題ではなく、何をどう述べてきたかが問題となっているのかもしれないが、どうも過去を振り返る気にはならないし、今思っていることを言葉にする気にもならないし、今後の展望が開けているわけでもないような気がする。では何をどう思ってみても仕方がないのだろうか。もしかしたら思わないようなことを述べているのかもしれない。そんな嘘が通じるとは思わないが、何となくそんな嘘でも述べていないと間を持たせることはできないのかもしれず、なぜ間を持たせる必要があるのかわからないが、それは不必要ではあっても、どうしようもなく生じてしまうようなものなのかもしれない。要するに無理なことをいつまでもやっていても仕方がないのであって、いつかは破綻を来して無理は無に帰す定めなのだろう。そしてその無に帰した状況の中から、また新たな試みが開始される場合もあるのかもしれないが、それも無理ならいずれはまた無に帰してしまい、結局は無駄なことをいつまでも繰り返して、何をやっているのか意識が把握できなくなり、それが行為としての紋切り型となり、無意識の領域でそれをひたすら守り抜くことに終始しながら、そのようなことをやっている人々にとって日常的な習慣として定着してゆくのだろうか。そしてそんな習慣が足かせとなって、それ以外のことが考えられなくなり、そんなことばかりに情熱を傾ける盲目の衆が形成されてゆくのかもしれず、それとは無関係な外部との隔たりがよりいっそう顕著になり、外部から見れば何をやっているのかわからない集団に思われてくるのかもしれない。


5月11日

 君はしばらく前から何を考えているのか。はっきりしないことを語り始めてどれほどの年月が経過したのだろうか。いつの間にか時事的なことは何も語れなくなっているようで、もはや大事故や大災害が発生して多くの人が死んでも何とも思わなくなってしまったのだろうか。今はそうだとしても、それ以前の過去においてはどう思っていたのか忘れてしまっている。昔からそんな具合だったのかもしれず、何を語っていたわけでもなかったのかもしれない。また元の木阿弥になってしまったのだろうか。それはどういうことなのだろう。言葉の意味もわからずに使っていることに気づくが、それがどうしたのか。どうかしているのかもしれないが、実感がわいてこない。疲れているのかもしれないし、疲れていないのかもしれない。先が見えていないことは確かで、先を見通す能力に欠けていることも確かなのだろう。先とはいつまで先のことをいうのか。先が見通せないのだから、そんなことがわかるわけもないか。ではわかっていることは何なのか。先が見通せないということだけなのか。日は沈み日はまた昇り、時がたてば明日になり、さらにたてば来年にでもなるのだろうか。ところで何を軌道修正をしているのだろう。先のことはわからないのに、何かでたらめな予言でもして気を紛らすつもりなのか。そんなことで気が紛れるわけもないか。しかしその物音の源は何なのか。なぜ予言とは無関係に物音が聞こえてくるのだろうか。君はそれによってどのような出来事から逃れ去るつもりなのか。何やらまたわけのわからないことを述べているらしく、それがどうというわけでもないのだろうが、そこから何をどうしようというのだろう。何もどうにもできないのかもしれず、いつまでたってもそのままの状況の中に閉じこめられているのだろうか。そんな状況をどうやって切り抜けるつもりなのか。切り抜けられるわけがないか。切り抜けられなければどうするのか。どうもしないでそのままでいられるのだろうか。たぶんどうにもできなければ自然にどうにかなってしまうのだろう。そのどうにかなってしまう状況に耐えられるのだろうか。そのときになってみなければわからないかもしれないが、転がる石を止めようもなく、転がっていった先で何か適当に振る舞うしかないのかもしれない。そのときの状況に応じて何かやっているようだが、今できることといえばそれが勘違いの空回りに終わってしまわないように祈ることだけかもしれない。そんなことを述べている時点ですでに勘違いの空回りの最中なのかもしれないが、それをどうしろというのか、誰に何を指示されているわけでもないので、何とも述べようがないだろうか。そんな風に思いながらも言葉は適当に繰り出され、当人はそれなりに当たり障りのないことでも述べているつもりなのか。その辺は客観的には判断できないのでよくはわからないが、その通りなのかもしれず、あるいはその通りではないのかもしれない。なぜそんな風に思ってしまうのかよくはわからずに、他に何を思うでもなく、別にどんなことを述べようとしているのでもなく、何をどう述べていいのかわからないながらも、何かしら述べている現状をどうすることもできないようで、その現状に浸りながらも、それが変化する予兆でも感じ取ろうとでもしているのだろうか。その辺で無意識がどう感じているのかわかりかねるが、何となくそれを信じていてもいいような気がしているし、他に何を信じているわけでもないので、何か一つでも信じられることがあれば幸いなのか、または何も信じられなくなって絶望にでも浸っていた方がその場の雰囲気に精神状態が合っているのか定かではないが、どちらにしてもそれでどうということはあり得ないような気がしてきて、そんなことを述べているうちに、やはりこの際そんなこともどうでもいいような気がしてきているのかもしれない。何にしろこの世界が退屈な状況を醸し出しているような気がしていることは確かなようで、それを自らの力では変えようがないと実感していることも確かなようだ。ではこれから何をどうすればいいのだろうか。気がついてみればまたそんな現実に突き当たってしまうらしく、何やらさっきから同じような思索と言葉を繰り返しているだけで、そんな状況から何の進展も見られないように感じられ、それ以外には何もあり得ないような気がしてくるのだが、はたしてそれでいいのだろうか。それについて事の善悪を判断する基準は何もないように思われて、それ以上に何をどうしようにも仕方がないようにも思われる。たぶんどうにもならないのかもしれず、そこでそのような言葉が循環するばかりのように感じられるだけなのかもしれない。それ以前にもそれ以降にもそれしかないのではないか。だから何かを述べようとするとそんな風になってしまうのかもしれない。考えれば考えるほど、そのことごとくがそんな言葉にとらえられて、それ以外に考える術を見失わせているのかもしれないのだが、そこからどうすれば抜け出られるのか、それを考えるとそうなってしまうのだから、やはりそれ以外には何もないように思われ、まだしばらくはそれを繰り返してゆかないといけないような気分になってくるのだが、では意識はそれを繰り返そうとしているのかというと、逆にそこから逃れようとして、結果的に意に反してそうなってしまうらしく、その辺が何とも歯がゆいように思われて、ならば意識してそれを繰り返した方がいいようにも思われるのだが、どうもそんなことの繰り返しには耐えられそうもなく思われて、やはりそこから抜け出ようとしてしまうわけだが、それがそれらの悪循環の原因になっているようにも思われ、やはりそれはそれとして最終的には受け入れざるを得ないような気にもなってくるらしく、ともかくそんなことで逡巡を繰り返しながらも、そんな風に語っている状況があるらしい。


5月10日

 誰かを取り巻く状況は何とはなしに落ち着いて物事を考える雰囲気に近づいたのだろうか。そんなはずがないと思っている意識はどんな根拠や理由から生じているのだろうか。わざと弱音を吐きながらも実際にも疲れているのだろうか。何の話でもなさそうに思われる。やはりいつものどうでもいい内容になってしまうのか。そこまでやる必要がどこにあるのだろう。正気の沙汰ではないような気がしているのだが、あまり本気になってもいけないのかも知れず、ほんの冗談程度でその場を取り繕って、さっさとお開きにしたいような気がしてきたのだが、当人は終わろうとはこれっぽっちも思っていないのだろうし、誰がそれを終わらせられるはずもなく、それ以外にできることはといえば、まるで他人事のように高みの見物を決め込むしか方法はなさそうに思われる。しかし君はなぜ他人事でいられるのか。本気になろうとするとあくびが出てきてしまうからか。それらの内容は眠たくなるような言葉の連なりになっているのだろうか。執拗に攻撃を受けているのにどうして眠たくなってしまうのか理解できないか。それは単なる強がりのポーズを文章にするとそうなってしまうだけか。日夜どうでもいいような攻撃にさらされて本当は疲弊してしまっているかも知れないのに、なぜか実感が何も湧いてこないのはどういうことなのか。要するに疲れているふりをしているだけなのに、それを忘れたつもりになっているということなのか。何をまわりくどいことばかり述べているのだろう。それで何か気の利いたことでも述べているつもりなのか。そんな風には思わないが、ここでそんなことをいくら述べても無駄なのかも知れず、そんなどうでもいいことに汲々としている誰かが馬鹿らしく思えるだけか。そんなことを一心不乱にやり続けていて何がおもしろいのだろう。いったんやり始めたら止まらなくなってしまうわけか。そんなことではなく、そうすることに何かこだわりがあって、そこに何らかの幻想を抱かせるような精神作用が生じているわけか。だが君はそんな状況から何を受け取っているのだろうか。そこにはどんな報いがもたらされているのか。何もかもが同じに感じられてしまうのはどうしてなのだろう。そこには様々な違いが露見しているはずなのに、それらをすべて無視して何が分かるというのか。分かっていることはどんなことなのだろう。誰かの思惑も含めてそのすべてが単なる自然現象でしかないということか。人はただ単に自らのやり方を押し通そうとしているだけなのか。しかしそれで何が分かるのだろう。なぜそんなことからさもしい目的が導き出されてしまうのか。君はそうではないと思っているわけか。何となくそれらの状況を受け流しながら、そこに目的などねつ造してはいけないと思っている。自らを状況の中で際立たせようとしてはいけないのではないか。そこが自己顕示欲の発露の場となってはならないような気がするのだろうか。どうも他人の自己顕示欲を利用しながら、自らのやり方では導き出せないことを実現しなければならないと思うようになっているらしい。それはそれでそれをやりたければいつまでもやってもらってかまわないのであり、それに対する対応もそれなりに続けていけばいいだけでしなく、そのことについてはそのままに推移させておけば、それなりにあたかも自然現象であるかのように進行していってしまうのだろう。要するにそんなことはどこまで行ってもそんなことの範疇を逸脱することはないのかも知れず、いつまでもそれをやっていたいのなら、それの範囲内で気が済むまでやってもらえばいいだけのことでしかないのだろう。しかしそんなことははじめから分かりきっていることだろうか。確かに分かりきっていることかも知れないが、それが時としてあらぬ幻想を抱かせて、そうではないような気になってしまうこともあるのかも知れない。それに対して何か有効な打開策があるとでも思ってしまうわけか。競合相手がこちらの意向を汲んで手加減でもしてくれるとでも期待してしまうのだろうか。そんなことはあり得ないからこそそれが幻想に過ぎないと後から気づくわけだが、一時的にせよそんな風に思ってしまうところに精神的な弱さでも隠れているのだろう。だから絶えず現実を感じていなければならないということか。そしてそんな思い通りに行かない現実を受け入れられないのなら、気休めに思い通りにいったときのことでも空想していればいいのか。だがそれは君が空想することではないか。たぶん今まさに自己顕示欲を成就させようと悪戦苦闘している誰かが妄想していればいいことでしかなく、君の方はただ黙ってそれを冷ややかに眺めていればいいのではないか。そうやって君が何を見下ろしているのか定かではないが、とりあえずやれるものならいくらでもやれる範囲内でやってもらえばいいだけのことでしかなく、感情の赴くまま馬鹿踊りを踊ってもらってかまわないのだろう。たぶんそんな仮想空間がネット上に妄想されているつもりなのだから、そのような場を信じられる者たちはいつまでもそれに囚われているより仕方がないのかも知れず、目覚めることなど未来永劫あり得ないのだろう。そこで目覚めてしまってはそのさもしい自己顕示欲を発揮させる場がなくなってしまう。だからこそ昨日と同じようなことを毎日情報発信し続けなければならないのか。だがそんなことばかりでは虚しさがこみ上げてこないだろうか。しかしどこの誰を気遣わなければならないのか。たぶん世界中にそれの虜になっている者たちは大勢いるのだろうし、そしてそれが世界の現状にどのような作用を及ぼしていようと、世界は世界のままで存在し続け、その中でうごめいている者たちの感情をどうするわけでもないように思われる。ただそんな風に漠然と推移しているだけなのか。近頃はため息ばかりの君にはそんな風に感じられるだけのようだ。


5月9日

 また否定の連続のようだが、それでは何となく話になっていないような気がする。それではまずいように思われるので、少しは話らしい話をしようと試みるなら、あるとき誰かに呼ばれているような気がして、なぜか深夜に目が覚めてしまったようだが、辺りを見回しても暗闇の他には何も見えず、それは気のせいなのかもしれないが、そんな出来事に何か深い意味があるわけでもなく、誰かがどこかで救いでも求めているのでもないだろう。たとえば暗闇の中で幽霊にでも出会えば、誰が救われるのだろうか。そういう話ではなのではないか。たぶん寝ぼけて無意識のうちに何を述べているわけでもないだろうが、無意識に思惑などありはしないだろうし、無意識が誰を呼んでいるわけでもないだろう。では架空の世界から君を呼んでいるのは誰なのか。誰も呼んでいないだろうし、そこで見ず知らずの誰かは何を思っているわけでもないだろう。そんな話もあり得ないかもしれないが、翌朝は静けさとともに到来したらしく、そこで何に感動しているわけでもなく、話の中身をつかみ損ねているようで、そこにどんな意向が働いているのかわからないが、とりあえず言葉に窮してしまうと、どこからともなく架空の君が登場してしまうらしいが、君が何を語っているわけでもないこともいつものことだろうか。そして君の意識の中では虚無とともに何が生成されているわけでもなく、ただ君の意思を無視しながら勝手に言葉が記されるようで、そんな機構が君の外部に構築されているのかもしれず、君の存在如何に関わらずそれらの文章が構成されつつあるらしいが、君はそんな君の外部の機構とはどのような関わりを持ちたいのか。あるいはすでに何か関係でも持っているのだろうか。そんなことが文章の中に記された言葉にすぎない君にわかるはずもなく、君は誰かの無意識のうちにそれらの機構と折り合いをつけながら共存しているのかもしれないが、なぜ君はいつまでも文章を記している誰かの存在に気づかないのだろうか。かなりの鈍感なのか、あるいはそこでの君は本来の君とは別人なのか。そんな見え透いた嘘はくだらないか。ではなぜ君はその件に対して本気になれないのか。その件とは何なのか。君を含んでいる誰かの無意識は、その程度では本気になり得ないのか。たぶんそれに関して誰かの無意識は相当暇なのかもしれない。なぜその状態が暇だといえるのか。確かにそれと意識を共有している他の誰かは、現状では相当な忙しさのただ中にいるのかもしれないが、それらの忙しさは個人的な範囲内に限られ、他の誰にもわからないような忙しさであり、部外者を装う暇な誰かの無意識にとっては理解できない忙しさなのだろう。誰かがその忙しさの中でどんな思いを抱いているのかなんて君には知りようもないが、それ以上にどこかでくつろいでいるただの傍観者にとっては、どこかでせわしなく働いている誰かのことなどあまり気にとめる対象とはなり得ないようで、ただ執拗に異議申し立てを繰り返すばかりのように見えるだけで、たぶんそんなことをやりながら人生を無駄に浪費しているとしか思えないのかもしれない。しかし草葉の陰から薄ら笑いを浮かべながら余裕ぶってそれを眺めているのはどこの誰なのか。別に本当に笑っているのではなく、それは仮面に作り笑いの表情を彫り込んでいるだけなのかもしれず、なぜそんな手の込んだことをやるのかよくわからないのだが、そんなことまでやって、仮面の裏で喜悦の感情を爆発させていることは確かなようで、何がそういう薄汚い衝動に駆り立てているのか皆目見当がつかないが、本当はわかりすぎるほどわかっているのかもしれないが、そのうすうす感づいているつもりの理由をここで述べる気にはならず、とりあえず本心を隠しながら別の間に合わせの言葉ではぐらかして、何か他に適当なことでも述べていこうとしているのかもしれないが、とりあえずそれについて誰かは他人の諫言に耳を傾ける気はさらさらないだろうし、どこまでもそんな見え透いた独りよがりを貫いていこうとしているのだろう。だからいつまでたっても進歩がないわけか。それがどういう進歩なのかわからないが、それは望むべき進歩ではあり得ないのだろうか。そんなことを思う以前にに何を望んでいるのかわからないか。そんなわかり得ないことについて何を想像してみても始まらないが、では始まる以前に誰かは何をどう思っているのだろうか。別に何を想像しているのでも空想しているのでも妄想しているのでもないようで、それでも暇つぶしに何か適当な思いを抱いているのだとすれば、それは君には関係のないことなのではないか。しかし君に関係のある思いなど他の誰が抱く必要があるのだろう。必要がなければ誰も何も思わなくてもいいのだろうか。それはいい悪いの問題ではなく、問題以前の問題にさえならないことなのかもしれず、要するに何でもないことでしかないのかもしれない。そこに仮想されている誰かには、ことの善悪の判断はおろか、物事に対する感情そのものが欠如しているのだろう。それではただロボットのようにそれらの行為を機械的に繰り返しているとしか思えないのだが、それについてどう思えばいいのかわからないのだが、何をどう思ってみても無駄であることは確かかもしれず、現実にそれらの行為に直面すると、それについて何とも思わない自分自身の存在に気づくだけか。だが本当にそれ以外には何も思うところはないわけか。やはりそれは嘘なのだろうか。話の途中から何を述べているのかわけがわからなくなってきたように感じられるが、なぜそれほどまでに語ろうとするのか。後から読み返そうにも目が疲れて途中で断念してしまいそうになる。だがそこまで述べても何を語っているのでもないとしたら、それらの言葉の連なりとはいったい何なのだろうか。


5月8日

 そこで調子に乗って語っているのは誰なのか。その手のドラマ上で演出される恐怖心は何を目標としているのか。何かがもたらされるを待ちながら、誰かは何に耳を傾けているのだろう。どこからか読経の声が聞こえてくる。だが言葉を繰り出す以外に何をやっているのでもなく、取り立てて何を思うでもなく、そうやって他人はいつまでも合法的な瞑想に耽っているらしいが、その一方で気に入らない誰かの意識に四六時中圧力を加え続けているようだ。そのとき君の心は何を思い、もはや屍となったその肉体は、どこで何をやっているのだろうか。死ぬまで無言を貫き、そうやって生きている間だけ、言葉の呪縛から一時的に解き放たれて、誰かの意識が正気に戻ってみれば、さらにでたらめな文章に直面している。偽りの死者は死後の世界で何を悩んでいるふりをしているのだろうか。それがフィクションなら何でもありだと思うわけか。神はそんな状況を無視しながら、人々の悪行を放置し続け、ただ黙って自然の風景をいつまでも眺め続けている。信心深い人なら、それは神ではないと思うところか。何も不条理をもたらしているのが神であるとは限らないだろう。何もかも神のせいにするのは誰かの責任逃れか。はじめから話のつじつまが合っていないだけか。神はただの傍観者であって、そこで何かをやっているのは人間の方だろう。もちろん相変わらずの馬鹿騒ぎに興じている人々は、そんな無駄話には興味がないようで、また何かから神の意識が遠ざかり始めているように思われるが、誰が神の話をしているわけでもなく、誰がそれを思っているわけでもない。ありふれた演技にだまされたふりをしつつ、本当にだまされつつ、それでもにわか探偵が語りたがる下らぬ推理話を超えて、忘れた頃に何かに気づいたふりをしつつ、そこで誰が空模様を気にしているわけでも、何が嵐をもたらしているわけでもなく、君ははじめからそれらの困難に打ち勝つつもりはないらしい。嵐はいつか見た画面に映った幻影だったのかもしれず、現実にそれらの意識が嵐の夜を体験したことなどありはしないのだろう。しかし今さらそんな付け足しのような虚構のエピソードではつまらないか。だが他に何が提示されているわけでもなく、脳裏にうごめいているつもりの君がなぜそんなことを思うのか不可思議かもしれないが、それも単なる付け足しでしかないのだろうが、それでもまだ本題となりうる話はどこにも見あたらず、そのすべてがとってつけたような間に合わせの言葉に思われるのは当然のことか。だが実際には日付的に間に合っていないのではないか。それとこれとは無関係かもしれないが、仮に間に合っていたとしても、さらにひどい状況になっていたのかもしれず、実際それらの言葉の連なりにはいつも落胆させられるようで、そんな満たされぬ思いが何をもたらすわけでもないが、そこから先に何をどう述べるべきかわかりかねるようで、わかっていないのにさらに述べるとすれば、それは退屈な世間話にでもなるのだろうか。君はそれで何か不都合でも感じているのだろうか。確かに世の中は不条理で充ち満ちているようだが、それで何か不都合でもあるのだろうか。不都合だからこそ不条理をなくそうとして、人々は日々の行いがうまくいくように試行錯誤を繰り返しているわけか。では何をそんなに焦っているのか。片方ではマスメディアなどが合法的に欲望を煽り立てていて、もう片方ではその欲望にいかれて犯罪に走る者たちを警察が取り締まっている。そんなマスメディアと警察の狭間で、身の程知らずの夢を見させて、その夢におぼれた者たちを地獄へ突き落とす仕組みができあがっているのかもしれない。だがそんなことは生身の肉体と感情を持たない君には関係のないことか。では君が述べているつもりのそれらの文章の中には、君が抱いているつもりのどんな感情が隠されているのだろうか。ところでそれを読んでいる誰かは、それらの文章に何か思い入れでもあるのだろうか。そこに醸し出されているように思われる自己満足とは何だろう。誰かはそれを読みながらどのような思いを抱いているのか。退屈しのぎに抱いているつもりの内容をうかがい知ることはできない。ではなぜ誰かが退屈をもてあましていると思われるのだろう。やりたいことは何もないつもりだが、なぜ他の人にはやりたいことがあって、自分にはないのか。それは誰が抱いた疑問でも疑念でもないだろう。人は大勢いるのだろうから、少なくともその中の誰かはやりたいことがあるのだろう。しかしそれはどういうことなのか。ある日ふとしたきっかけで何かを思いつき、その何かがやる気になっているわけか。風が吹き込んできて部屋の中の空気が入れ替わる。未だに目新しい知識も言葉も何も持ち合わせていないようだが、何を求めているのかわからなくなってきた。たぶんそうではないと思う。はじめから要求など何もないのではないか。それは誰の意見なのだろう。誰の意見でもなくフィクションとしてそんなことを語っているだけなのかもしれないが、やはりそうではないと思うか。ではそのことについて君はどう思っているのだろう。言葉の意味を見失っている。では文章の中には何があるのか。たぶん何か伝えたいことでもあるのかもしれない。しかしそれを伝えようとしていないのではないか。それでもまだ君はその先に語るべきことがあると思っているのか。それは思い違いだろうか。では君が知っているつもりの無駄な知識とはどのようなものなのだろう。話の内容が一向に見えてこない。見えているのは雨に濡れた周囲の景色だけか。それ以外に何もないことを願っているが、なぜそんなことを願っているのか。それらの文章には目的がない。伝えたいことがないのだろうか。伝えたいのではなくただ言葉を記したいだけなのではないか。それが何になるのか。何になるわけでもないが、ただそうしたいのだろうか。どうも言葉を記す理由が見あたらないようだ。


5月7日

 何が何もないように思われるのか。何かに埋もれているようで、言葉はそれとは無関係かもしれないが、どうもその先へ文章がつながらない。なぜ意識は後ろの方を気にしているのだろう。別に背中がかゆいわけでもないのだろうが、夜通し降り続けた雨上がりの昼は蒸し暑い。暑さにやられて疲れ気味の誰かは、木陰で休んで体内に新鮮な酸素でも取り込んでいるのか。そんな動作は使用説明書には載っていなかったかもしれないが、頭の中の記憶回路には呪詛のような言葉がまとわりついて離れないように思われ、それを取り除く手だてもわからず、ただ気の向くままに言葉を連ねながら、気が抜けるように自然とそれらが消え去るのを待つしかないのかもしれないが、どうもせっかちな別の誰かは待つことが苦手のようで、外部から強引に削除しようとして、その弾みに必要な記憶まで消し去ってしまったらしく、今は何を忘れてしまったのか思い出せずに焦っているようで、そんなことを思っている心のがどこにあるのかわからないが、別に心が見つからないことで思い悩んでいるわけでもなく、たぶん身体はそこから遠くへは行っていないだろうから、後で丹念に調べ直して、身体に合ったそれなりの心を言葉で構成してみようと思うが、それは冗談で述べていることかもしれず、意識はそれほど心について語りたいわけではなく、また他のどのような精神作用について語りたいわけでもない。ただ気まぐれで心という言葉を使ってみただけか。現状ではそれ以外にどんなことを語れるのだろうか。毎度のことのように中途半端に嘘を語っているようだが、そんな語りではフィクションとしての強度を保つこともできずに、はっきりした話の内容を構成できないようだが、現状では他に何を語ろうとしているわけでもないか。なぜ語る対象に巡り会えないのだろうか。それが冗談でしかないからか。ではなぜ本気になってまっとうな内容で語ろうとしないのか。本気になって語らなければならないような対象がこの世界のどこにあるというのか。君は世の中をなめきっているのではないだろうか。そんなはずはないと思いたいようだが、そこに連なっている言葉がそれを否定しにかかっているのかもしれない。何かそれについていいわけでも述べたいのだろうか。さらにわけのわからないことでも語りたいのか。気持ちがそこまでついて行けないかもしれない。何事も対処するには遅すぎるように思われ、すでに手遅れになってからあわてふためき、間に合わせの対応でその場をしのごうとしているだけのようで、まったく計画性というものが皆無のような気がしているのだが、そこからさらなる文章を付け加えるとなると、いったいその先はどうなってしまうのだろうか。先のことなど心配している余裕はないのではないか。今この状況を何とかしなければその先はあり得ないだろう。だがその先があり得なければどうするのか。もうやめてもかまわないということなのか。そう簡単にやめさせてくれるのだろうか。誰に向かってそんなことを問いかけているつもりなのか。いつもそうやって返答の期待できない問いかけによってその場を切り抜けようとする悪い癖が出てしまうらしいが、そんなやり口にもそろそろ飽きが出てきた頃だろうか。たぶんそこからまた違うやり方を模索しつつあるのかもしれないが、見たところまだそれが顕在化していないという感じのようだが、それを述べている当人も気づかないところで密かに進行中なのかもしれない。ゆっくりとであるが着実に変化しつつあるのかもしれず、ある日それに気づいたときにはすでに以前とはすっかり様変わりした文章になっていることに気づくのかもしれない。そこから徐々に離れようとしているわけなのか。もはや思いはどこへも届かないのだろうし、ただそんな風に述べているにすぎないのであり、そこには何もないようで、その何もないことが図らずもそれらの文章を生じさせているように思われる。だがそれは意外でも何でもなく、言葉の連なりを止める障害物が何もないということなのかもしれない。しかしそれで何を述べているのでもないのだろう。結局はそういうことでしかないらしい。闇の向こうには別の闇があるわけでもなく、ただの闇がつながっているにすぎず、闇は闇でしかなく、それ以外の何ものでもないのだろうが、それで闇について何を述べているのでもないということか。では闇の向こう側からは何がやってくるのだろうか。光明でも差してくるわけか。それは朝日か何かだろうか。夜が明ければ闇の世界ではなくなるわけか。だがそうやって当たり前のことを述べていると楽しいか。人は当たり前のことでは満足しないのかもしれず、絶えず何か目新しいことを求めているのだろうか。だがつまらないことにも興味を示す場合があるらしく、どうということはない現象や出来事を飽きもせず眺めていることもあるようだ。だからそんなものを見て何が楽しいのかという疑念がわいてくるわけか。それはただの一方的な思いこみにすぎないのだろうか。それは何かのゲームの一種なのだろうか。そしてそれを大勢の人々が金を払って眺めているのはどのような習慣に属する行為なのか。分かり切っているのにわざとそんなことを述べているわけか。そんなことを述べて何が楽しいのだろうか。昔と今とでは何が変わったのだろう。それに興味を持つことの何がおかしいと感じるのか。それはどういうことなのだろう。それと気づかずに見る者たちが演じている演劇の一種なのか。そこに居合わせた誰もがゲームをしている者たちを応援していると思いこみ、その応援自体が演技のような性質を持っているのかもしれない。たぶんゲームの主催者側によって応援する役を割り当てられているのだろう。要するに金を払って観客を演じながら楽しんでいるわけだ。それのどこがおかしいのか。


5月6日

 何となく偶然の巡り合わせから生じる成り行きに合わせて、それなりには対応できているように思われるのだが、さらに臨機応変な対応をするには並大抵の能力では無理らしく、そこに生じた状況に順応しながらも、その場の空気を的確に読んで無理なく行動できれば、とりあえずはうまくいくように思えるのだが、調子に乗ってそれ以上にうまく立ち回ろうとすると、今度は自らの能力を超えてしまって無理が生じ、ぼろが出て思わぬ失態を演じる羽目に陥ってしまうのかもしれない。しかしそんな風にそれを言葉で説明しようとすると、実態とは少し違うような気がしてしまうのはどういうことなのか。要するにうまく説明できていないということであり、まだまだそれらの意識は文章の構成力が稚拙であるのかもしれず、つまり能力がなく臨機応変に対応できていないということか。しかしそれでは先に述べたことと矛盾してしまうのではないか。成り行き的にそう述べてしまったのだから矛盾も何も関係ないのではないか。それについてあまり正確に言葉通りのことを思っているわけでもなく、ただその場の思いつきのようなことを場当たり的に述べているにすぎない場合もあるだろう。それ以上にはっきりしたことは述べられないのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいことか。また何を述べたいのかその内容を見失っているような気がしてきて、その述べている内容を後から読み返しても、それらの文章をどう解釈したらいいのかわからなくなる。やはりそれではいったい何を述べているのだろうか、といういつものフレーズで間をとらなければ、それ以降は何も述べられなくなってしまうだろうか。何を先回りしているのか。思い通りの結末に至る成り行きを求めてはならない。それでは予定調和でつまらなくなってしまうからそう思うのか。たぶん君はこれから語り出そうとする物語の内容を忘れているのかもしれない。それとこれとはどういう関係にあるのか。あるいはまたいつものでたらめなのか。そうやって誰かが君の心をだめにしている。突然そんな風に語り始めたら意表をついていておもしろいだろうか。まだ続けて何も語らないうちからおもしろいも何もないだろう。なぜそうやって茶化しながら逸れていってしまうのだろうか。わざと本筋から外れたことを述べたいようだ。まだ意味不明に耽りたいのか。そうしたいのではなく、思いとは関係なくそうなってしまうだけか。何をどうしようというのではなく、ただ言葉を記しているうちに否応なくそうなっているわけか。そうすることが目的ではないのに、結果としてそうなっているらしく、そんな結果を受け入れざるを得ないことが、精神的な負担とでもなっているのだろうか。別に受け入れているわけではなく、受け入れられないのにそれをどうすることもできないのか。それはどういうことなのだろうか。どういうことでもなくそういうことであるのは確かなのかもしれないが、その確かさを疑いたいのであり、もっとどうにかできないものかと絶えず思い続けているのかもしれないが、それでも現実にはどうにもできないものなのだろうか。ところでさっきから何を繰り返しているのだろう。たぶんその繰り返しの反復が無内容を呼び込んでいるのであって、それが意図的にやっているのか自然にそうなってしまうのかよくわからないのだが、そんなことをやっているうちに何を述べようとしていたのかわからなくなってしまうらしく、それは毎度おなじみの展開なのだが、今のところそれをやめる手だてが見つからないのかもしれず、そんなことは分かり切ったことでもあるのだが、やはりそれを繰り返している現状を打破するには至っていないようだ。やはりそれでいいのだろうか。少なくともそうやって物語的には何も語らずに何かを語っているらしいことは確かなところか。しかしそればかりでは虚しさが募ってくるように思われ、そんな状況に耐えながらも、他に何を語るわけでもなく、一晩中降り続いているらしい雨を感じながらも、その雨をどんな感情にたとえるわけもなく、その場の状況に応じて安易に涙雨だとか述べてしまう無神経を軽蔑している自らに気づいたふりをしながら、そんなわざとらしい紋切り型的な言語表現を誰が真に受けるのか、あるいは状況によってはそれもありなのか。だがそんなつまらないことに執着するのも馬鹿らしく思えてきて、それとは違うことを述べようとして、またさっきと同じような話の展開にしかならないような気もするのだが、やはりまだそれでも継続しようと試みているようで、それが虚しさを呼び込んでいるのではなかったのか。また言葉が一回りしてしまったのではないか。やはりそれでおもしろいとでも感じているのだろうか。そこで君はあり得ないことを述べているのではなく、現実に起こっている現象について語っているのだろうか。言葉の堂々巡りをそのまま表現しているわけか。そしてそれで何かを達成しているとは思えないようだが、何も達成されていない停滞状況から抜けられないことに安住してしまっているのではないか。いつもの言葉がいつまでも巡り続けている画面を眺めながら、挫折感と虚無感が入り交じったような気分に浸っているのだろうか。それがそこでの個性といえなくもないが、それは誰にも受け入れがたい個性なのかもしれず、そうやってただ無駄に言葉を弄しているとしか思われない状況を醸し出しているにすぎないのかもしれないが、いったいいつまでそんなことを続けているつもりなのだろうか。いい加減に踏ん切りをつけて気分転換をしたいと思わないのか。それができないからいつまでも続いてしまっているわけか。気がつけばまたもや無意味な言葉が循環しているようだ。


5月5日

 またどうにもならないような状況に陥っているらしく、いったんそうなってしまっては、何をどう修正しようとうまくいくはずもなく、もはやそれらのわけのわからない言葉の連なりを前にして、ただ呆れつつも途方に暮れるしかないようだが、なぜそ取り返しのつかないような状態になってしまうまでそれらを放置し続けたのか。放置し続けたのではなく試行錯誤を繰り返していたのではなかったか。その結果としてそうなってしまったのだから、もはやあきらめるしかないのかもしれないが、ところでいったい誰に向かってそれを問いかけているのだろうか。君は誰に向かって何を語りかけているのだろう。問いかけているのも語りかけているのも君ではないはずか。その何もない薄暗がりの中に誰がいるわけでもないらしいが、強引に誰かがいると仮定して話を進めていってしまうと、後から何か不都合でも生じるのだろうか。そんなわけでまた始まりにおいて苦労しているようだが、その程度の苦労など苦労のうちに入らないか。だが苦労を苦労とも思わないような人間に、そんな苦労などわかるはずもないのかもしれないが、苦労とはどのようなところから生じるのだろうか。だから文章の始まりにおいて生じているのではないか。何をとぼけているのだろう。その苦労ではなくもっと一般的な苦労全般について述べようとでもしているわけか。それはいつもの悪い癖であり、その悪い癖によってもさらに別の苦労がもたらされるのかもしれないが、しかしいつもの悪い癖とは具体的に何なのか。それを明らかにしないままに、何となくそれについて悩み抜いたつもりになっているようだが、なぜかそれで振り出しに戻ってしまうのはどういうわけなのか。だから悪い癖とはとぼけてみせることではないのか。なぜそれがわかっていながらわざとらしくとぼけてみせるのだろう。何をとぼけているのか分かり切っていながら、それでもよくわからないと述べてしまうのはどうしてなのか。確かさっきも同じようなことを述べていたはずだ。そうやって懲りもせず同じことを繰り返しているのなら、以前とは違うことを述べようとして、様々な試行錯誤を繰り返しながら、悩み抜いた甲斐がないのではないか。ついさっきは何について悩んでいたのだろう。別に甲斐などを求めているわけでもないが、先ほど悩み抜いたと述べたのは嘘なのか。気持ちだけでそんなつもりの雰囲気に浸っていただけなのかもしれず、それがどういうことなのかはっきりしたことは何もわからないが、自らもいつまでもわからないようなことを述べてい