彼の声452004年11月30日意識は何を知りたいのだろう。あらゆることを知りたいわけではないが、あらゆることが知られているわけでもない。ではまだ知られていないことを知りたいのか。知りたいが知らなくてもかまわない。知りたくても知り得ない場合もあるだろう。とりあえず何を知りたいわけでもなく、知っていることを記述しようとしているだけか。君はまだ過去の時間の中でもがいているのか。もがいているのではなく嘘をついているのではないか。あるいは嘘をつきながらもがいているのか。何が嘘なのか知りたいか。君には何も知り得ないだろう。作り話の中ではそういう設定になっている。だがいつものようにそんなことはどうでもいいことか。しかしどうでもいいことしか述べられないだろう。誰がそんなことを思っているのだろうか。少なくとも君はそうは思わないか。だが何が見出されているわけではないが、何を見出そうとしているわけでもないらしい。大騒ぎするようなことなどどこにもありはしないか。誰もがプロ野球選手の去就に興味を持たなければいけないのだろうか。今は野球の季節ではない。野球の季節であっても興味がないのかも知れないが、その手のスポーツニュースを見ていることは多い。なぜそれを見ているのかわからない。たぶん一般の人々はそれを見て楽しまなければならないのだろう。本当にそんなことを思っているのだろうか。君はスポーツを馬鹿にしているのではないか。少なくとも話題の野球選手は君よりは稼いでいるのだろう。だがそれがどうしたわけでもない。スポーツネタではつまらないか。ではそれよりも過去の意識は、テレビで座頭市の映画を見ながら何を思えばいいのだろうか。苦し紛れに映画評論家的なことでも述べられるだろうか。少なくとも上映されていた当時はそこそこの話題作だったのだから、チャンバラシーンにすごみがある、とでも述べておけば事足りるわけでもないか。どこかの映画評論家ならもっと気の利いたことを述べているところか。だが今の意識はそんなことを述べたいわけでもない。とりあえず映画の中では人々が殺し合っているように見せかけられている。刀で斬られて鮮血が飛び散ったように見せかけられている。そんな光景は西部劇での決闘シーンよりは迫力があるだろうか。迫力があったからといってどうなるわけでもないか。今の意識はそんなところにこだわっているわけでもない。内戦状態のイラクでは本当の殺し合いが行われている。しかしイラクと座頭市はつながらないだろう。別にリアルな殺し合いが見たいわけでもない。ではいったい映画の中の何が見たいのだろう。見た当時の意識はそんなことは思いもしなかったはずか。映像なら何でもよく、ただそれを見ながら暇をつぶせればよかっただけか。娯楽の用途とはそんなものだろうか。それ以外に何を望むのか。感動できれば満足か。そんなことはわからない。感動できなくてもかまわないか。芸術という使い古された概念が映画について語る上で必要となってくるのだろうか。はたしてそれが思考の対象となりうるだろうか。ただそんなものだろう、と意味不明な高をくくっていたことは確かだ。本気になれるわけがない。なぜ人は画面を凝視しなければならないのか。別にそうしなければならないわけでもなく、そんなことをやっている人などどこにもいないか。文章とは関係なく何を感慨に耽っているのか。映画を見ることが馬鹿らしいと思っている君自身が、映画から必要とされていないのだろうか。ドラマの中で何かを演じている筋書き通りの人物にリアリティを感じないからといって、感情移入してはいけない理由にはならないか。ただそれをおかしいと思いながら、そのおかしさを放置している人々には欺瞞の臭いがする。ではそこにはどのようなおかしさが潜んでいるのだろう。他人の仕草を眺めているだけでしかないのに、それに関して利いた風な言葉を付け加えようとしていること自体が、かなりおかしな行為なのではないか。中にはその役者の演技がどうのこうの、と演技論のごとき話をできる者もいるらしく、それを真に受けてもっともらしく拝聴していいものかどうか、にわかにはどうしていいのかわからなくなる。それが暇つぶしの娯楽となっているならそれでいいのではないか。だがそういう水準を超えて何を述べても、内容のもっともらしさに反比例して滑稽さが増してゆくばかりだ。何を利いた風なことを述べているのか。たぶんそれらの娯楽に関しては、あまり深みに入り込まないはようにして、その表層で戯れながら、時の経過とともに話題から遠ざかってゆくのを待っていればいいだけのことか。そんなわけで何となくやり過ごしていたい気になってくる。11月29日誰かは恐ろしい結末に近づいているのだろうか。結末とは何か。それは誰の結末になるのだろうか。誰かが死ぬのかも知れない。すでに死んでいるのか。だが死ぬことが恐ろしいことだとは限らないか。世のため人のために死んでもらった方がいい人などいくらでもいるか。それは具体的に誰のことなのだろう。差し障りがあるのでここでは述べられないか。別にわざわざ死んでもらわなくても人はいつかは死ぬだろう。だが結末とはそういうものではない。人の生死に関わりのない結末もあるだろう。どんな結末になって欲しいのか。無理はできない。無理に結末にしなくてもいいのか。結末になりようのない話になっているのかも知れない。別に結末を求めているわけでもないだろう。何に至ろうとしているのでもないか。言葉はどこから来てどこへ行くわけでもないらしい。何を考えているのか。何も考えていないのだろうか。少なくとも考えてようとしているのかも知れない。しかし結果的にはどのような考えにも至らないようだ。いつものようにただ時間だけが過ぎ去ってゆく。たぶんそれは求めていない状況なのだろう。もっと充実した時間を送りたいか。思い通りにいくはずがないだろうが、思い通りにいくように努力すべきか。今そうなるようにやっている最中か。無駄な努力だと思われる。少なくとも有用だとは思えないか。何をやっているのかわからない。なかなかまともな内容には至らない。どこにまともな内容があるわけでもなさそうだ。薄暗い朝の空は曇り気味のようで、あまり冷え込んではいない。そんな風に同じようなことならいくらでも述べられるだろうが、それではつまらないように思われる。しかしそれを避けようとしても、それ以外は何も得られずに、結局は同じ内容になってしまっているのかも知れない。本当に何もないのだろうか。何もないのならどうすればいいのだろう。だが誰に助けを求められるわけもないし、毎日が同じような体験の中に埋没している現状をどうすることもできない。たぶんそれが通常の日々であり、極めて順調に推移しているのだろう。だから何も述べることができなくなっているのか。もっと不幸にならなくてはいけないのか。冗談だろう。今さら何をどうやろうと、不幸になったり幸福になったりするわけがないか。そんな単純なものではなく、それ以前の段階で、決められたこと以外は何をどうすることもできない状況にはまりこんでいる。それによって不幸にも幸福にも至らない仕掛けになっているようだ。くだらない誘いは馬鹿らしく思われるし、しかもそれ以外には何もないので、何もやらずにいつも通りの日々を送るだけになってしまうようだ。その手のあからさまなものには魅力を感じないのかも知れない。何を求めているのかわからないが、少なくともそんなものは求めていないのだろう。仮想空間に浮遊している情報はすべてそんなものでしかないらしく、現実を変化させるような力を感じられない。しかしそれ以外を求めている暇はない。そんな日常を超えて求めようとする気にはならないようだ。また何を受け取ってもしっくりこないのかも知れない。それを真に受けることによってどうなるとも思われない。どうやら何かを見聞することによってはそれを超えるような体験には導かれないようだ。何をどうやっても超えることなどあり得ないか。それらの画面から何がもたらされているわけでもないか。情報が飽和状態になっていてそれ以上の入手が困難というわけでもないようだが、すかすかであっても何も入ってこない。要するにつまらないのだろう。おもしろいと思うことができないのかも知れない。おもしろくなければつまらないということになるのだろうか。そんな当たり前のことを疑問に思ってどうするのか。そう思えばおもしろくなるのだろうか。それはおもしろいのではなくおかしいのではないか。おかしいことはおもしろいか。おかしさはおもしろさにつながることもあるかも知れないが、おかしくてもおもしろくてもつまらないことには変わりがないか。おかしさとおもしろさとつまらなさが渾然一体となっているわけか。一体となっているわけでもなく、おもしろおかしく思っていることは事実だが、その一方で馬鹿らしくもつまらなくも思っている。何となくしらけているのかも知れない。醒めているのだろう。熱狂とは無縁なのか。熱狂することが馬鹿らしくもつまらなくも思える。喜ぶこととも無縁かも知れない。何に喜んでいいのかわからない。確かにつまらないことに狂喜することは不可能か。だから普通の感覚でいられるのかも知れない。普通であること以外はあり得ない日々を送っているだけか。11月28日何かが蜃気楼のように見えている。今は夢の中か。現実にどう対処していいのかわからない。意識を包み込んでいる空虚は何を求めているのか。それらのどこに意識があるのだろう。それらとは何なのか。相変わらず何を述べているわけでもなさそうだ。そこに誰がいるわけでもなく、記述しかけの文章が放置されているだけか。少しうとうとして気づいてみれば、決まって夜明け前になっている。いつ眠ってしまったのか定かでない。しかしそこから大きく時間が飛んでしまい、結局またいつもの夜になっている。昼の間に何もやっていないわけもなく、何かをやったおかげで、疲れ果てて眠気を催しながら作業を再開しなければならなくなる。しかしそれらの文章はがらくたのような惨状だ。そこで求められているのは空虚ではなく、何らかの意味を伴った言葉の連なりだろうか。そんなことはわかりきったことか。しかし何者にも出会わずに見ず知らずの何者かについて語ることは可能か。語るにはその者についての情報が必要だろう。その者に関する情報を収集して、それらの情報を分析して、それを基に何らかの判断を下す必要に迫られているわけか。いったい何を推理したいのか。その者とは誰のことなのだろう。誰でもかまわないか。何となく何も述べないうちから面倒臭くなってきたらしく、何かを述べようとしたとたんに挫折してしまうようだ。また意志薄弱になった振りをしているのか。本気でそんなことを述べているわけではない。ただ何か適当なことを述べてしまう予感がしている。述べざるを得なくなるのだろうか。何を述べているのかよくわからない。頭の中がリセットしているらしい。だんだん破れかぶれになってきているのか。何が何だかわからなくなってくる。今はいつなのだろうか。さらなる停滞の時か。別に膿がたまっているわけではない。いつの間にか夢の中の蜃気楼は遠ざかってしまったらしく、またいつもの夜明け前に引き戻されている。今はあれから何日後なのか。意識が言葉からどんどん離れてゆく。それを食い止めることができないらしい。しかし意識とは別の動作がかろうじて言葉をつないでいるのかも知れない。それは何かの惰性なのか。はたして目覚めているのだろうか。鶏の鳴き声が聞こえてくる。月はどの辺に出ているのか。今の状況はどうなっているのだろう。やらなくてもいいことをやっている現状だろうか。無意味なことを継続している。何かに頼らなければどうにもならないのか。なぜそんなことをやっているのか。君はいつまで経ってもその者になれないようだ。語る対象になっていない。いつまで経っても何を語っているのでもない。文章の中には行動が不在だ。虚構の中で行動する必然性はないか。しかしどんなフィクションでもそこで誰かが動き回っているではないか。人々が右往左往している風を言葉や映像が装っている。人々はどこへ行けばいいのだろうか。どこへも行かずに文章の中にとどまっているだけか。そこで生まれそこで成長しそこで死ぬ。それは大河ドラマか何かの幻影か。カインとアベルは何をしていたのか。誰が何をしようとそんなことは二の次であり、今はただいい加減な気分でいたいだけか。君から遠ざかっているのは誰の記憶でもない。遠くの地で誰が抑留されているわけもないか。誰かの墓が朽ち果てようとしている。もうすでに後退局面なのだろうか。それでも言葉にしがみつき、そこから継続の可能性を探っているわけか。無理だろうか。無理を承知でさらなる無理を重ねようとしているのか。そんな風に思っているはずがないか。不安を打ち消すために強がりを述べているわけか。それが努力といえるだろうか。努力していることは確かかも知れないが、何のための努力なのか不明か。視点がどこに定まっているわけでもなく、老人が利いた風な台詞を読んでいるわけでもない。かといって雰囲気が自ずから言葉をしゃべっているわけでもない。果てしなく何もない空間が広がっているように思え、そんな幻想に浸っている意識が何を可能としているわけでもないように感じられるだけか。現状では具体的な事物が何も引っかかってこないようだ。どこまでも通り過ぎてしまう。立ち止まることを知らず、すり抜けることしかできないらしい。何を見聞してもそれがどうしたになってしまうのか。いったい何がどうしたのか。なぜそこには思う対象が見あたらないのだろう。何を思えばいいのかわからないか。そんな状況について何を思えばいいのだろう。ただ何も思わずに適当な言葉を連ねていればそれでいいのだろうか。それでいいとは思わないが、そんな風になってしまっている現状がそこにあるわけか。やはり何を述べているのか、それをどうすべきかわかりかねる。11月27日何か気にくわないことでもあったのか。何に納得しているわけでもないが、そんな状況に嫌気が差しているらしい。できることならもっと建設的なことを述べてみたい。何もやらないうちから誰かはすでに黄昏れてしまったようだ。だが何も述べられない原因はどこにあるのだろうか。語彙に限界がある。少なくとも豊富ではない。わざとらしいことを述べているのかも知れない。すでに述べてしまったことを繰り返したくはないようだ。そんなことが可能だとは思わない。もっと簡単なことを述べられないものか。簡単に述べようと思えばそうしているはずか。しかし何を簡単に述べたらいいのだろう。豊かな社会には詐欺がつきものだ。そこはごまかしのあらゆる形態が試される場かも知れない。インチキ商売の正否はいかに他人を騙すかにかかっている。それをやっている者に良心の呵責など感じるはずもないか。しかしそれと何も述べられないこととの間にどのような関係があるのだろうか。詐欺が横行するような世の中は堕落しきっているということか。そこで堕落しているのは具体的に誰だろうか。堕落するしないという基準自体がいかなる効力も発揮していないような気がする。いつものようにそんなことはどうでもいいことの部類に入ってしまうのだろうか。たぶんそれでは何も問題は解決しいないのだろうが、未だかつて言葉によって問題が解決した例しがあっただろうか。別に問題を解決しようとして言葉を繰り出しているわけでもないだろう。いったい君はどんな問題に突き当たっているというのか。なぜそれを言葉で具体的に言い表せないのだろう。それが冗談だからか。それが嘘だと思えるのはどうしてなのか。昔はそれについて本気で思考していたのか。では昔と比べて何が進歩したといえるのか。何となくわかりかけてきたことが見失われてしまったらしい。だがそんなごまかしは通用しない。わかりかけてきたことを示せないのだから、それでは嘘になってしまう。わざとらしいごまかしを見せびらかすような行為は嫌がらせ以外の何ものでもないか。だがいったい誰に向かって嫌がらせをしているのか。たぶんそれも嘘かも知れない。ではそこには何が顕在化しているというのか。なかなか具体的な内容が出現しないのはどういうことだろう。とりあえず逡巡の繰り返しによって、無用な言葉が積み重なっているようだが、ためらい続けている必然性がどこにあるのだろうか。別に何をためらっているわけでもない。やはりそれこそが嘘なのか。しかしその場しのぎの嘘では何も解決しないだろう。うんざりするような停滞状況がさらに長引くだけか。もういい加減にあきらめてしまったらどうか。どこかからそんな声が聞こえてきたふりをしてみる。それが停滞から抜け出る手段なのか。本気で述べているわけではないが、どうも何も述べないうちから馬鹿らしく思えてきて、やる気をなくして何かに流され続ける。しかしそれでも言葉は適当に連なっているらしい。適当であるはずががないか。では何が間違っているのだろう。要するに自問自答を繰り返しているだけか。そんな状況に呆れ返っているのかも知れない。近頃は利いた風なことですら述べられなくなってしまったらしい。荒んだ雰囲気になるような仕掛けが蔓延しているのかも知れない。これでもかこれでもかと無理を押し通そうとする人々が増殖しているのだろうか。中にはネット上ではやりたい放題できると錯覚している人もいるかも知れない。そういう人が蔓延る一方で我慢を強いられている人も多いだろうか。何をどうすることもできはしないとあきらめるべきなのか。別にどんな攻撃を加えられているわけでもないだろう。もしかしたらそれに気づかないだけなのかも知れないが、気づいたところで嫌な気分になるだけだろうから、気づかないままでいた方がいいのかも知れない。精神衛生上はそれでいいのではないか。下手に仕返しなどを試みたら、それこそそんな人たちの仲間入りをしてしまうだろう。もっともいちいちいやがらせメールに仕返ししているほど暇も技術もあるわけでもないか。そういうことをやりたい人はそれなりに病んでいるのかも知れないから、それはそれでそっとしておいた方がいいのかも知れない。それにこちらが自意識過剰の被害妄想に陥っていることもあり得ないわけではないか。とりあえずそれはそれでそんなものでしかないのだろう。どうもそれに関しては関わり合いにならない方が良さそうだ。11月26日意識はそこから遠く離れたところに生じているようだ。誰かは何を感じたいのだろう。誰の意識を認めたいのか。いい加減な感性に頼らずに、たまにはいつものと違う気分になりたいが、具体的に何をどうしているわけでもないようだ。誰かにとってはそんな気分では物足りないか。だが気分はまだどうにもなっていないだろう。しかしそれの何が問題なのだろうか。解けない問題を放り出して、それが夢だと気づかぬままに、ありふれた風景の中に溶け込んでゆく。それは少し違うと思うか。夢を見たのは昨晩のことだ。昨晩見た夢のことなど覚えていないか。たぶんそこから遠ざかっているのは、誰かの意識ではなく、その思考を経由して導き出された文章の内容だろう。その文章を通して、誰かは幻覚の到来を感じている。幻覚作用は夢の中に現れているのではなく、それらの文章を読むことによって生じているのかも知れない。しかしそこで誰が何を読んでいるわけでもない。文章の中にその文章の読者がいるわけではない。君はそこに誰かの意識が構成されていると思い込みたいのか。架空の意識にはその辺で勘違いが生じているようだ。いったい何が間違っているのだろうか。言葉の用法以外の何に悩まされているのだろうか。繰り出された言葉が現状から大きく外れているのかも知れないが、その外れ方にでも何か問題があるのか。不可視の世界で暮らしていると想像力が豊かになるそうだ。具体的な事物から遠ざかり、そこで何も見ようとしていないのかも知れない。それでも何らかの事物が見えているはずか。少なくとも君は画面を見つめている。ではそのとき脳裏をよぎったのは何だったのか。用法的には不安が胸をよぎるらしいが、不安の内容を具体的に特定できないようだ。この道を行けばいつか行き止まりにたどり着くだろうか。道半ばで何を迷っている振りをしているのか。困り果てるとすぐに冗談に逃げたくなるのは悪い癖だろうか。君は君自身が考えていることを認めようとしない。そんな限られた思考から逃れて、思考を超えた偶然によって繰り出された言葉の連なりに驚いてみたいらしい。だが実際にそれを読んでいるわけではない。文章の中に存在している架空の君にはその文章を読みようがないか。だからそれが冗談だと思いたいわけか。別に何に驚いているわけでもないだろう。今ひとつ本気になれない原因はそんなところにあるのだろうか。君はそれ以上の存在になりようがないし、文章の中では誰が何を思っているのでもない。誰かが何かを思っているように記述されているだけか。では読者はそれを読んで、誰かが何かを思っているように感じなければならないわけか。あたかもそこで何かが演じられているように思いこめるだろうか。そこまで仮想の世界に入り込む必要がどこにあるのか。どこかで何かがずれているような気がしてくる。たぶんわざとずらしているのだろうが、それをわかっていながら知らない振りをするのはいかがなものか。架空の世界はこの世界が崩壊した後から始まるのかも知れない。崩壊しなければリアリティを得られない。だから誰かが構成する物語の中では崩壊したことにしたいわけか。そうでないとこの世界の現実に負けてしまうだろう。現実の方が物語より遙かに複雑怪奇で魅力的に映るだろうか。そうではなく、魅力的に思う意識を遙かに超えているのかも知れない。意識では完全に捉えきることが不可能なのか。限定された言葉や概念では言い表しようがないか。だから人は物語の心地よい幻想の中に逃げ込んでしまうのか。現実の断片を組み合わせた不完全な構成物に憩いを見出し、それらの構造的な欠陥に魅力を見出すわけだ。それが過ちであるが故に愛おしく思われるのだろうか。現実とは比較にならない思い通りの世界に退いて、思い通りにならない現実を一時の間だけ忘れたいのか。あるいはそこから現実を思い通りにする術を見出したいわけか。まさか現実を物語のように見なしたいのだろうか。感動のドラマを現実の中に見出して、それが紛れもない真実であることを語りたいのかも知れない。それはどのようなこじつけになるのだろうか。そこに滑稽さを見ないようにすれば何とかなるだろうか。はたしてそのように意識を制御できるか。たぶん鉄アレイや金槌で家族を殴り殺した人は滑稽に映るだろう。誰かはそれを悲劇的なドラマ仕立てで語りたいだろうか。冗談ではないか。殺した人も殺された人も間が抜けているとしか思われない。倫理的には笑い話にはしたくないらしいが、その人殺しの光景を思い浮かべていると、何となく冗談のようにしか感じられないのはなぜだろう。あまり本気でそんなことを語りたくはないか。親から罵倒されればその親を殺したくなるのは当然のことかも知れない。たぶん子供などに本気で接してはいけないのかも知れない。それは間違った述べ方かも知れないが、積極的に間違わなければならない状況もあるだろう。自らの正しさを押し通すには、時には人殺しをもせざるを得なくなるか。ブッシュ氏のように何万人もの人を殺めなければならない場合もあるか。11月25日どうもまともなことを述べられない状況が続いてるようで、しかも何もないのにまだそれを継続させたいらしい。いったいいつになったらまともなことを述べられるのか。そもそも何がまともなことなのだろう。そんなこともわからずに意識は無理なことばかりやろうとする。どうやらまた出だしから躓いているらしいが、空っぽの意識は何を考えているのだろうか。空っぽであるわけでもないか。何を考えているのでもないが、他に何があるわけでもない。その状態を意味不明な言葉を用いて表現するなら、空虚の表層から滲み出てくるある種の感情は、なぜかその感情とは裏腹の相容れない言葉を思い浮かべながら、その言葉を基に構成された文章を、感情とはまったく別の内容に構成しようとするが、結局は果たせず、思惑を外れたふがいない結果とともに生じた架空の挫折感が、中途半端な記述を通して表現されようとしている。だがそんなことを記述しながら笑ってしまうらしく、何を述べているのかよくわからないが、それでもそんなわけのわからない感慨を振り払って、意識は思考によって絶えずこの世界の断片をつかみ取ろうとしている。しかしつかみ取ってどうするのか。つかみ取れないのではないか。それは無理で無駄な試みなのだろうか。それとも冗談の一種か。冗談以前に嘘かも知れない。あるいは嘘でありながら冗談なのか。やはりおかしなことを述べているようだが、そんな不可解な感想とともに揺れ動いているあやふやな人格は、この世界のどこに何を見出せば納得するのか。何を見出しても納得するわけがないか。たぶん意識はこの世界には存在し得ないものを見出したいのかも知れない。そんなものは見出せないだろう。要するに君はありふれた不可能を目指しているわけか。そんなわけで、何がどうなっているのかもわからずに、それでもどういうわけか、どこかで無い物ねだりが横行しているような気配なのだが、どこかとはどこなのか。そんな場所など現実にありはしないだろうが、その手の無い物ねだりは空想すれば事足りることだろうか。空想だけでは満たされないことは言うまでもないが、いったいどんなことを空想しているのか。ただ思い通りにいった時のことを空想しているだけか。それが理想と呼ばれるものなのかも知れないが、理想とは何だろう。あるべき姿や状況が理想だとすると、そんな理想はどこにあるのだろう。どこかの誰かはなぜそれを求めようとするのか。求めようとしてもやる気が持続しないだろう。そんなことはやってみなければわからないか。しかし目指すべき理想像は常に不鮮明で、決してはっきりした像に結実することはなく、何も形あるものになるはずもなく、何も定まらないまま、わけのわからぬ流動的なあやふやさのただ中に、不在の幻影として、それに付随して生じる不特定多数の勝手な思い込みとともに、ただの影としての痕跡を残すだけなのか。実態のない影が痕跡を残すはずがないか。別に影に関してその性質までも実体化したいわけではない。それは雰囲気としての虚構の影でしかないのだろうか。誰が何を述べているのかわからないが、それによって何を投げかけているわけでもないらしく、そんな否認作用ばかりが強調されてしまうと、時間の経過とともに思索に耽った日々の痕跡すら言葉として表現できなくなるか。要するに何も見いだせなくなるわけか。それでも人は絶えず現状から飛躍したいと願っている。今とはまったくかけ離れた、現状とは明らかに違う有り様の中で生きていたいらしい。今より快適な暮らしを求めているわけか。自らの思いが隅々にまで行き渡った世界に住まうことを欲しているのか。冗談としてはそんな願望もありだろうか。しかしそんことを述べている顔がこわばっているのではないか。だんだん疲労の色を隠せなくなり、うろたえあわてふためいて、顕在化している誇大妄想を打ち消すのに躍起となっている。緊張が持続しない体質になっているようだ。しなやかさを忘れていないか。たぶんでたらめなことを述べているのだろうか。知らず知らずのうちに、途中から冗談になっているのかも知れない。どうも簡単なことを述べられない思考回路を有しているようだ。だがいくら言葉を弄しても、それらの嘘は真実にはなり得ないだろう。真実になるにはすべてが欠けている。それらの嘘は途方もない負債を抱えているわけか。なぜマイナスの状態から脱することができないのか。言葉だけでは具体的な出来事に遭遇し得ないからか。君自身にはまったく関わり合いのない言葉の連なりが、君とは別の人格を通して、どうでもいいことを夢想しているらしく、その人格を纏った幻影が、君自身を飛び越えて、闇の彼方へと遁走している最中なのか。君にとってそれは見え透いたフィクションと映るようだが、現実の網膜はそれらの幻影からどんな光を感じ取っているわけでもないらしい。11月24日いつまで経っても無駄なことを述べているようだ。余裕もないのに何もしていない。せわしない振りをしているだけか。いつものように眠気に逆らいながら何かを思い出そうとしている。だが思い出してどうするのか。少なくとも何を極めようとしているのでもないことは確かなようだ。極めてしまったらそこで終わりだろう。何かつじつまの合わないことを述べているような気がする。思い出そうとしているのはそんなことではないか。そんなこととはどんなことなのだろう。このままでは何を思い出そうとしているのかわからないだろう。ただそうではないような気がするだけか。妄想の世界はとどまることを知らないらしい。しかし何を妄想しているのでもないだろう。他の誰かが構築しつつある妄想の世界に欠陥を感じている。それらの光景には何が欠けているのだろう。たぶん映像の中では時間が止まってしまってはいけないと思われるのかも知れない。だからどうしても人や物が動き回らなければならなくなり、それらの行動が全体として関係し合わなければ話が成立しなくなる。要するに話に無関係な動きが存在し得なくなってしまうわけだ。無関係な人々はどうでもいいような通行人として画面を通り過ぎるだけであり、話に関係する人だけに台詞が与えられて、それらの人々の間だけに通用する共通の話題しか存在できない時空が出現する。たとえ異なる話が同時進行していても、必ずそれらの話は同じ登場人物を介して関係し合うようになり、筋書きの中でアクセントを生み出す小波乱や大波乱を経由しながら、一つの話に融合する傾向にあるようだ。そして見る人に思いがけない驚きをもたらす波乱の原因は決まって暴力は担うことになっている。性急さは暴力に結びつく。それまでの穏やかな雰囲気は突然の暴力によってかき消され、そこから不安や怒りや悲しみなどの否定的な感情が導き出され、話に飽きさせないように配慮されているようだ。その辺がいかにもとってつけたような印象を受け、わざとらしく感じる要因となっているのだが、そのような暴力の行使は抗うことのできない欲望を伴って実行されるらしい。どうしてもそのような展開にしないと気が済まなくなるのだろう。しかし暴力が話の停滞を打ち破る突破口でしかないのはくだらなすぎるか。その手の話の何を見聞しても、そんな風にしか感じられないのはどうしたことか。言葉で表現しなければならないのは、そこから生じる強烈な印象ではないはずか。それを求めている意識は浅はかなのか。それらの奇妙奇天烈さばかりに心を奪われていると現実を見失うか。ドラマチックな展開というのもわざとらしいか。たぶんそんなこけおどし的な代物では心が動かないのだろう。しかし何を馬鹿にしているのでもないらしい。幻想の産物はそんなもので飾り立てられている。ただの現実はそれらを無効にしているようだ。あらかじめ仕組まれた成り行きを超えて偶然が作用するが、そうなる理由はどこにも見あたらない。そして何が感動的なわけもない。そこにはただの現実がある。物語の時空に支配された意識にはそれが気づかない。たぶん誰もがそれを自分勝手な物語に押し込めようとして果たせず、また試みのことごとくが失敗に終わっている事実を認めたがらないのか。はじめから無理があるのに、それをわかろうとしないらしい。わかっていてもそれを認めるわけにはいかないのか。漫画やアニメーションの中では人目を引きつけるための安易な効果や展開や仕掛けを多用しすぎているのだろうか。テレビドラマの中でもその手の事情は変わらないか。いつの頃からかそういうものが嘘っぽく感じられるようになってしまったようだが、あれらは人目を引きつけるために制作されているのだから、そうせざる得ない必然性というものがある。そういうわかりやすさから外れては存在し得ないのかも知れない。それ以外を求めてしまうことはおかしいのだろうか。たぶんそれらを積極的に見たいとは思わないだろうが、人目を逃れ去るものを捜し出そうと試みるのが、批評家の類がやることかも知れない。言葉の力によってそれが新たな魅力だと喧伝したいわけだ。だがそんな試みはもはや廃れているのだろう。世論調査的な多数決の論理が世の中の主流であることはいうまでもないことか。とりあえずそこにあるものはあるものとして認めなければならないか。そこから何を探し出そうとしているのでもないらしいが、探し出す前に認識している意味や概念だけで語るのは物足りないようだ。しかしだからといってそれ以外に何があるわけでもなく、新たに何を見つけ出そうとしているのでもないか。11月23日いったい彼らは何を述べているのだろう。例えばそれは株式相場が上がったり下がったりする話か。今の君には関係のない話だろうか。たぶん世の中にはそれに関係のある人も大勢いるのだろうし、そういう人々がそういう話を求めているわけか。では関係のない君は、そういう話には今ひとつ本気になれないか。本気になるならない以前に興味がないか。興味がないわけではないが、それに関して何を語ろうとしているわけでもないだろう。そんな話題はどうでもいいことか。どうでもよくはないが、関係のない人がそれについて何を語っても、何がどうなるわけでもないだろう。だがそう述べてしまっては何も語る必要がなくなってしまうだろうか。そもそもその必要がないのだからそれは仕方のないことか。ではどうすればいいのだろうか。それについてはどうしようもないが、代わりにそれ以外のことでも語ればいいのだろうか。だが今はそれ以外のことなどあり得ないか。今とはいつのことなのか。今が今でないことがあり得るだろうか。たぶん今はすでに今ではなくなってしまったのかも知れない。では今は過去の今からどれほどの時が経ってしまったのか。今からいくら時が経とうと、そんなことはどうでもいいことであり、ついでにそんな話は退屈きわまりないだろうか。それ以前の問題として、ただ興味が湧いてこないだけか。別に時間としての今について語りたいわけでもないが、何かを語るには何に対しても興味を持たないわけにはいかないのだろうか。別に何を語ろうとしているわけでもないのだから、無理にそうする必要ないか。語ろうとしていなくても語っている現実があるだろう。しかしそれでは何を語りたいのか目標が定まらない。語る対象がなければ何を語っているのかわからないか。要するに語る対象を積極的に探し出す必要に迫られているわけか。だがそれと同時に探し出す気力が失せているのかも知れない。それではどうしようもないだろう。またどうしようもなく迷っているのだろうか。何を迷っているのだろう。それが迷いといえるだろうか。しかし何を迷っているのかもわからない状況で、それでも何かしら語っているらしく、だが別に何について語っているわけでもないが、たぶんそれは語ることについて否定的な内容となっているのかも知れない。確かに語っていながらその行為を否定的に捉えているようだが、意識は語ること自体を完全に否定するつもりはないようだ。実際に語らなくてもいいのに語っている現状を継続させているのだから、そのこと自体は否定しようがないだろう。それを否定するならやめなければならなくなるはずか。しかし明白に否定しているわけでもないのに、結果としては否定的なことを語っている状況があるようで、それでも語っていること自体は否定する対象とはなりがたく、何やらさっきから同じようなことを繰り返し述べているだけのような気がしてくる。ではなぜそれをやめられないのだろう。何となくその辺は微妙なところかも知れないが、そこにどうしようもなく迷いが生じているようで、意識はためらいと逡巡のただ中でもがいているらしい。だがそんな風に思っているのは誰なのか。それらしい思いを有する架空の人格がそんな文章を構成しているだけか。それではまた嘘になってしまうのか。実際には嘘ではないが、架空の人格が嘘だと見なしたいわけか。何をわけのわからないことを述べているのだろうか。またいつものように苦し紛れの言い逃れを実行しつつあるのだろうか。文章を構成しているのは現実の意識であり、架空の人格を文章の中に醸し出そうとしているのも現実の意識に他ならないか。しかしそれで都合が良いとは思っていないようで、どうも思い通りにいかずに、その結果がわけのわからない言葉の連なりとして、画面に生じてしまっている。はじめから無理なことをわかっていながら、ごり押しで言葉をつなげてきたような節もあり、何となく至らない状況の中で虚しさだけが降り積もって、精神がその重圧に耐えられなくなってきているのかも知れない。現に意識は意味もなくまどろんでいて、何も思いつかないままとなっているようだ。刺激を得るために何か強烈な光景を見たいところか。そんなものは妄想以外の何ものでもないか。別に妄想を求めているわけでもない。どんなに苦労しても、またうんざりするような話になっているのだろうか。冗談ではないか。わからないが、わかるわけがないだろう。どうもどこかの作り話のようにはいかないようだが、その手のわざとらしい作り話にはリアリティがないことも確かか。11月22日簡単に自殺する人々が世間の注目を集めているらしい。ネット上で知り合い、意気投合して一つの場所に集まって、全員で自動車に乗り込み、車中で七輪を焚いて一酸化炭素中毒で死ぬ。昔よりは死にたい人が手軽に死ねる世の中になったということか。生きていてもつまらないなら、自殺してしまった方がいいのだろうか。しかし自殺するのは面倒臭いだろう。自殺する気力もない者は生き続けるわけか。まあ死にたければ死ねばいいし、死ぬのが面倒なら生き続ければいいということか。そういう述べ方は強がりの一種かも知れない。ならば本当は死ぬのが怖いということにしておこう。とりあえずこの先も生き続けることが前提となって、それらの文章は構成されているのかも知れない。生きているうちはそれを継続させなければならないようだ。生きているのも仕方がないが、死んでしまっても仕方がないだろう。どちらにしてもどうしようもないらしい。それでも別に望みを絶たれているわけでもないのか。絶望したければしていればいい。絶望自体が判断の対象外だ。そんな言葉では感性が動かない。はじめから何を望んでいるわけでもない、と嘘をついているのだろう。どうも君の思考から自殺という動作は出てこないようだ。それは今のところ選択肢としては存在しないらしい。しかし他にどのような選択肢があるわけでもなく、ただ生き続けているだけだ。それでいいのだろうか。良いか悪いかなんてどうでもいいことか。ただ何となく生き続けているということでしかない。それ以上の状態を望んでいるわけでもないか。自殺はそれ以下の状態なのだろうか。そんなことはわからない。生きている理由も死ぬ理由も知ろうとしていないのかも知れない。そんなことは知る必要のないことか。そこになぜという言葉は馴染まない。なぜ生きているのでもなく、なぜ死ぬのでもない。ただ人は生きて死ぬだけか。どうもいわんとしていることからずれてきてしまったようだ。何を述べようとしていたのだろう。この段階ではわかりかねるか。実態としては何を述べているのでもないらしい。それは自殺に関する世間話程度の内容か。なぜ君は死にたくないのだろう。生きたくもないし死にたくもない、と架空の君なら答えたいところか。別に君は生かされているわけでもないか。生かされていなければ死ぬ必要もないということか。しかしそれは嘘くさいか。生きている人の気持ちもわからないのに、死ぬ気でいる人の気持ちなんてわかるわけがないか。だが気持ちがわからないからといって、自殺者の思いを理解できないわけでもないか。遺書でも読めば何となくわかるだろう。だが世間の人々にとって自殺はかなり迷惑なようだ。ただ自動車の中で見ず知らずの人たちが集団で死んでいる光景を気味悪がっているだけか。そんな暗い話題で世間話しても盛り上がれないか。ならばとりあえず諸悪の根源をインターネットにでも押しつけておけば一応の収まりがつくだろうか。君にはそれがわからない。インターネットにもいろいろな用途があり、その一つが集団自殺を行う上での連絡手段なのかも知れない。電話や手紙ではなかなかできなかったことが、インターネットを介すれば可能となったわけだ。インターネットは自殺願望の人たちにとっても便利なメディアなのだろう。同じ志の人たちが簡単に連絡し合うことができて、共通の目的を早急に実現することができる。ためらう期間を省略して一気に自殺へとなだれ込めるわけだ。それは自殺のファーストフード化とでも呼べばいいのだろうか。何でも便利になればいいってものでもないかも知れないが、何をやるにも便利になるようにしたい目的でインターネットが活用されていることは確かだろう。そんな風潮についてどんな思いを抱いているわけでもないか。ただそういうことについて行けないような気がするだけか。誰かの感性はそんな状況から遠く隔たっているのかも知れない。要するに時代遅れということか。しかし今では時代という概念自体が無効なのかも知れず、何らかの状態を時代遅れと見なすこと自体が時代遅れなのかも知れない。たぶん現代は時代とは呼べないような期間なのかも知れない。とりあえず自殺する人々が無名の存在ならすぐに忘れ去られ、有名人が自殺すれば、あれやこれやメディアが自殺に至った経緯を詮索するだけのようだ。そんな話題で一般の人々は世間話を繰り返す。やはりそんな世の中はつまらないと思うか。だが何がつまらなくても、大半の人々は生き続けようとしているらしい。自殺者にとってそれは驚異的なことだと思わないか。11月21日誰かは願いが叶って何かがどうにかなってしまう。気が触れる一歩手前なのか。それはほんの些細な願いでしかないのだから、驚喜するほどのことでもないだろう。単に今の日付に近づきつつあるだけのことか。それがどうかしたのだろうか。何もしない傍観者にはわからないことかも知れないが、何かをやっている当事者にとっては疲労と迷いの産物でしかないだろう。迷ったついでに何を迷っていたのか忘れてしまったらしい。今さらこそくな手段は使いたくないか。ごまかしはいつまでも利いていない。いつかは事実を事実として受け入れなければならなくなる。何もない事実をどうやって受け入れることができようか。そんなことは言葉が許さないか。つかの間に繰り出された敗北宣言はあっさり否定されてしまうらしい。そもそも敗れ去る対象が不在なのだから、何も自意識過剰気味に空虚に対して負けを認めることはないだろう。何をどう問いかけてみようと空虚は何も答えてはくれない。答える術が元々存在しないのだから答えようがないか。いったい空虚に対して何をどうして欲しかったのか。何をもたらして欲しかったのだろう。それはどのような状況なのか。ただ何もないなんて絶対にあり得ないことか。例えば目に映っている景色には何かがあるはずか。そこには当たり前のように光と闇がある。その当たり前さに飽きたら、何か適当なことを空想すれば済むことか。それで済まないならどうすればいいのか。実際に行動に出たらいいだろう。妄想に忠実な行動は犯罪になってしまうかも知れないが、その辺は現実と妥協しながらうまく切り抜けるべきなのか。うまく切り抜けられたら満足できるだろうか。それとも別に失敗してもかまわないか。ところでいったい何を空想しているのか。その手の空想にはきりがないか。きりがなくてもやがて飽きが来るだろう。空想に飽きたら何をすればいいのか。別に何もやらなくてもいいだろう。何もやらなければ自然と言葉が湧き出てくる。君にとっては無用な言葉かも知れないが、他の誰かの気晴らしになっているかも知れない。しかしそれでいいのだろうか。だが言葉に有用性を求めたらどうなってしまうのか。運が良ければ何かの商売と結びつくだろうか。誰かは言葉で金儲けがしたいわけか。そんな者はいくらでもいるのだろうが、ではそれらの金儲け専用の文章でも読んでみるか。別に金儲けだけが目的なわけでもないか。金儲けする前に何か多くの人々に見せびらかしたい内容があるはずだ。まず君はそれを読んで感動しなければならないはずか。別に無理に感動しなくても、書物を買ってくれさえすればそれでいいはずか。それを著した当人にとっては、そんなはずはないと思いたいところか。なぜ近頃の君は書物を読もうとしないのだろう。読めば影響を受けて、そこから語る対象を授かるかも知れないのに、何ともったいない日々を送っているのか。読む気がしないのは現実に読む暇がないからか。読む時間を作ろうと思えば作れるだろうに、そこまで気が回らないらしい。疲労と迷いがそれをさせてはくれないのかも知れず、意識は現実に対処するだけで手一杯なのかも知れない。もはや成り行きはそういう段階に至ってしまっているようだ。だから何もないのに何かを述べ続けている現状があるわけか。しかしやはりそれがどうしたわけでもないらしい。気まぐれに繰り出された言葉にとっては、意識がどう思ってみても知ったことではなく、そんなのは無視を決め込んでいるらしい。だが言葉にそんなことができるだろうか。誰かは言葉に意識が宿っているとでも妄想しているわけか。それが本当ならおもしろいところだが、いつの間にか作り話に突入している可能性もなきにしもあらずか。虚構の中で何がどうなっていようと、そんなのはすべて嘘だと見なせるか。だがそれに対して嘘の中に真実があるとでも反論できるだろうか。誰が反論したいのかわからないが、それらの内容が嘘であれ真実であれ、そんな風に語りたかったわけではなかった。誰が語っているのか。それは曖昧な話者と話の対象を掛け持っている君のことなのか。どうも結論に至りそうもないので、わざと話をこんがらがせようとしている節がある。そして語っているうちにその内容がつまらなく思えてきたようだ。やはり安易に切り抜けてしまってはいけなかったのかも知れない。もう少し悩み迷う必要があったわけか。しかしそれは面倒だしうざったいから、適当なところで見切りをつけたい衝動に駆られているようだ。だからこんな風になってしまっているわけか。まあ、こうなってしまったのだから、済んでしまったことを後悔してみても始まらないか。どうやら終わろうとして始めて、終わり間際にまだ始まっていないことに気づいてしまったらしい。11月20日それを饒舌と呼んでいいものかどうか迷うところだが、あまり中身のあることを述べているのではなさそうだ。別にしゃべっているわけでもないか。しゃべっているとすれば独り言がほとんどだろうか。しかしそれがどうしたわけでもなく、そんなことは誰が知ったことでもないだろう。そこにどんな雰囲気がもたらされているわけでもない。なぜそれが雰囲気なのだろう。何を活用したらいいのかわからなくなる。やはり本当に言葉が出尽くしてしまったのだろうか。今さら世界情勢も何もあったものではないか。不具合は世界の至る所に噴出しているかも知れないが、一方ではそれが利益の源泉でもあるわけだから、積極的に改めなくても、それほどの不都合は感じていないのかも知れない。それはこれまでもそうであったし、これからもそうなのだろう。そんなわけで命が助かりたいなら、一刻も早く紛争地域から逃げた方がいいということか。もちろん逃げても生活の基盤がなければ野垂れ死にか。そんなわけで経済的・政治的・民族的理由から逃げられない人々がそこにとどまっていて、毎日が死と隣り合わせの日々を暮らしているわけか。一方、平和な地域でも犯罪が蔓延り、凶悪事件が毎日のように起こり、メディアから流れてくる事件の詳細な情報を受け取って、人々はそれをネタに世間話で暇つぶしをする毎日を送っているわけか。しかしそんな状況がおもしろいと思うだろうか。そんな風に語れば気が晴れるか。どうもつまらないことを述べているように感じられてならない。テレビをつければお仕着せの感動にうんざりして、皮相なユーモアに薄ら笑いを浮かべている。そんなに否定的なことを述べなくてもいいだろう。君にはそれ以外があるはずか。しかしそれ以外でわざとらしく行き詰まっているのではなかったか。別にわざとらしいわけではなく、それは構造的に避けられない状況なのではないか。何かを述べ続ければ、自ずから述べるべきことがなくなり、それ以上は何も述べられなくなってしまうのではないか。しかしそんな風に思えば気が晴れるか。そういう当たり前の成り行きでは気に入らないのか。ではどう述べたらいいのだろう。何をどんな風に述べても、それは気まぐれや流行り廃りの一種にしかならないだろうか。やはりそれでは気に入らないのか。では気分次第でその場の成り行きに合わせて、落ち込んだり立ち直ったりしている状況を、そのまま述べていればいいだろう。またもや否定的な結論に至ってしまっているだろうか。本当はそんな風には思っていないはずか。君にとって戦争や凶悪事件などは、実質的にはどうでもいい他人事にしか過ぎないのかも知れない。実際に巻き込まれてみないことには本気になれないのかもしれない。だがそれについて語れば、間接的にでも巻き込まれていることになるのだろうか。それについて意見を述べなければならない状況とは、どのような必然性に基づいているのだろうか。それについて語る者には、傍観者的な立場以外に、どのような立場が用意されているのだろうか。君は傍観者ですらない。傍観する暇さえないのだろうか。何を傍観しているわけでもなく、ただそれについて述べているだけか。様々な利害関係の上に、様々な立場をとる者や、それが属する国々や、それらの国家を束ねた連合体などがひしめき合っている現状が、そこにはあるらしい。そんな状況についてどう述べたらいいのだろう。それらの状況は君には関係のないことなのだろうか。実質的な変化を促すような発言をする立場にはないということか。そんな風に思うと、何となく述べることが馬鹿らしくなってくるか。それでも無駄を承知で述べ続けた方がいいのだろうか。どうなるわけでもないのに、何を述べ続けようとしているのか。さあ、そんなことはその場の気分次第でどうにでも述べてしまうことか。どうにでも述べている現状そのものがそれの無効を宣告しているのかも知れないが、別におもしろおかしさを醸し出そうとしているわけでもないのだから、それでもかまわないのかも知れない。ウケねらいは卑しい行為に思われるか。そんなことはどこかのお笑い芸人にでもまかせておけば、君よりはよほどうまくやってのけるだろう。しかしそれも現状を変えるには無効な行いかも知れない。だがなぜ何かを述べることによって現状が変わるのか。そんな風に思うことがそもそも間違っているのだろうか。ではどうすればいいのか。そもそも現状を変えようと思って何かをする必要があるのだろうか。たぶんその必要があると思っている者は、現実に何かをしているのだろう。思っても思わなくても現状は絶えず変化し続けるとは思うが、それと語りとは直接つながっていないのかも知れない。11月19日不意に意識がどこからか戻ってくる。それは自分には関係のないことなのか。いくら執拗に続けようとしても、もう終わりの季節なのだろうか。年度末には後数ヶ月あるだろう。別にそれがどうしたわけでもないだろうが、狭い範囲内で意識は何を思っているのか。そして意識とは関係のない誰かは何をやっているのか。誰かは何かをやっているらしいが、どうもおかしな展開になりつつあるようだ。たぶん何もできなくなっているのだろう。やろうとして実際に何かをやっているにもかかわらず、やはり何もできなくなっているようだ。やっていることが気に入らないらしい。ならばもはやこのまま言葉を繰り出すことができなくなってしまうのだろうか。まったくやる気が出てこない。どうしたらやる気が出てくるだろうか。何かおもしろいことを思いつかないものか。今がつまらないから思いつかないか。つまらないと思うからつまらないのであり、おもしろいと思えばおもしろくなるだろうか。何をつまらないことを述べているのだろうか。なぜか馬鹿らしいことしか述べられないようだ。今はいつの明け方なのか。今はもう翌日の夕方か。それらの文章はすでにだいぶ過去の時間帯に属しているようだ。いったい外界はどうなっているのだろう。さっき見てきたとおりなのかも知れない。いつものように状況は、君の思いとは無関係に推移しているようだ。何事も思い通りにはいかないらしい。なぜそれらの作業は意識から消え去ろうとしているのだろう。言葉の断片が音の欠片と結びつくことはない。だからどうだというわけでもないが、気乗りがしないのは聴いている音楽がマンネリ化しているせいにしたくなる。本当はそんなことよりも、もっと本質的な原因があるらしいが、それを述べたらそこで終わりとなってしまうような気がする。しかし何が終わろうとしているのだろう。終わりは安易な選択肢か。終われないのにどうして終わろうとするのだろう。誰が終われないと思っているのだろう。ただそうやって終わりをもてあそんでいるに過ぎないか。ならばもはや言葉を続ける必然性はないと思うわけか。成すべきことはすでに果たされたと思っているのか。何を成したのか記憶にない。しかしそこからどのようにも言葉をつなげない現実があるだろう。そんなのは嘘か。嘘だと思うなら確かめてみればいいだろう。今が確かめている最中なのか。メディアは連日のように少女殺害事件を報道しているだけか。それとこれとは無関係なのだろうか。これとは何だろう。何も述べることがないように思えることか。それ以外のこれがあるだろうか。しかしそんなことはどうでもいいことだろう。気晴らしに紅葉の写真でも撮ってみようか。気晴らしになるはずがないか。そんな些細な思いを否定しても始まらないか。何が始まらないのかはわかっているつもりか。そんなことを思っているうちに、憩いの時は瞬く間に過ぎ去り、せわしない毎日に埋もれて何も思わないようになってしまうだろう。日常はどこまでも続いていて、それらのどこに結節点や転換点があるわけでもなさそうだ。些細な出来事が鱗状に連なっていて、意識はそれらについて思うことを拒絶しているようだ。ただ頑なに何も思わないようにしているらしい。いったい何を思えばいいのか、そんなことを誰に尋ねているわけでもなく、苦し紛れにそんな問いかけが生じてしまうだけなのか。何となくため息が出る。君はこれからどうなるのだろう。ところでなぜ君は架空の人格を有している設定になっているのか。そんなややこしい前提を利用して何を回避したいのか。それは終わりか。そこで終わりはどのようないいわけとして機能するのだろう。もはや述べることが何もないから終わってしまったことにしたいのか。そんな終わり方では気に入らないのか。気に入らなくても終わるときは終わるはずか。何となくそんな雰囲気になりつつあるようだ。本当にそれで終わってしまったらおもしろいか。別におもしろく終わろうとしているわけでもないだろう。何か大々的に派手なフィナーレでも準備してみたらどうか。それは空疎な仕掛けにしかならないような気がする。要するに思っているだけで、実際には何もせず、ただ素っ気なく尻切れトンボ気味にフェードアウトするだけか。それはある種の音楽を聴いたときの高揚感と重なり合う部分もあるかも知れない。何を述べているのだろう。そんなことを述べているうちに少しはやる気になったのか。やる気になったら何をやればいいのだろうか。何をやる気になっているのか不明か。11月18日気晴らしに何もできなくなってしまう。それ以上は言葉が続かないようだ。彼らはつまらない事件に群がっている。彼らとは誰なのか。最近はそれらの物語とは無縁に暮らしているらしいが、架空の君は何も思わない。では架空ではなく現実の君は何を思っているのだろう。本当に何も思っていないのか。思いたいことは何もないわけか。本当にそうなのだろうか。それが嘘であったらおもしろいだろうか。別におもしろいわけでもないか。嘘の内容にもよるだろうか。何となく何も述べられない状況のようだ。そんなわけで、どんなわけでもないかも知れないが、またもやそこには何もないことになっているらしい。なぜそうなってしまうのだろう。昨日の事は何も思い出せないのだろうか。あのときは何を述べていたのか。今日もあやふやなことを述べていたいのか。そんな風には思わないか。別にそれは求めていたことではないだろう。だがそれ以外には何も述べられないのかも知れない。さっきからまるで言葉がかみ合っていないようだ。まだはっきりしたことは何も述べていないのではないか。どうもしっくりこない。それは以前と同じような気持ちなのか。昨日はそんなことを述べていたような気がする。何かがおかしいのかも知れない。何がおかしいのかわからないが、ただそんな気がするだけか。何を探ろうとしているのだろうか。それらの状況にはつまらない部分が欠けている。状況をただおもしろく見せようとしているのだけか。言葉を錯綜させてわけがわからなくなりたいのか。そこで行き詰まっているのか。なぜそんな風に状況を捉えてしまうのだろう。仕事がメインではないのかも知れない。多くの人々は仕事そっちのけで探偵ごっこがしたいらしい。誰もが退屈しているのかも知れない。謎を求めて推理を働かせてみたいのか。世間を騒がせるような事件について利いた風な意見を述べてみたいのだろうか。そのとき君はどんな立場を占有しているのだろう。被害者でも加害者でもなく、ただの傍観者でもなく、やはりそれについて一言物申したいらしい。では何を君に申し上げたらいいのだろうか。この世界は何でできているのだろう。うわさ話か何かか。それとも世間話でできているのだろうか。一部分はそうかも知れない。そのすべてが何でできているかなんてどうでもいいことか。どうでもよくはないが、そんなことには無関心だろうか。無関心であるなら何も述べられなくなってしまうか。またもや何もなくなってしまい、ただ状況に流されている自分に気づく。調子に乗ってつまらぬ事を述べるわけにはいかないのか。そんな風には思わないか。それは以前と同じ台詞か。それで君は満足してくれるだろうか。誰を満足させたいのかわからない。そんな白々しい展開には飽きてくるだろうか。別に調子に乗っているわけではない。ではどんな風な精神状態なのか。そんなことを知りたいわけではないか。君が知りたいのは事件の真相であり、そのときの犯人の心境なのだろうか。そんなものでは本気になれないか。しかし娯楽と無縁でいられるはずがないだろう。ではまだ何か述べていないことがあるだろうか。何もないならどうして述べ続けているのか。それにはそれなりの事情でもあるのか。やめられない事情とはどんなものなのだろう。ひたすら同じようなことを述べていたいだけなのか。そんなくだらないことをやり続けていていいのか。どうやらそれが限界らしいが、限界の先に言葉を連ねていたい。そんな風には思わないか。何も思わないことはないだろう。何かしら思っているのかも知れないが、それはさっきから述べていることとは無関係なのかも知れない。たぶん君は興味のないことを述べているのだろう。それで気晴らしになると思うか。気晴らしのためにやっているのではないのか。それが気晴らしであったなら、どれほど救いになることか。それで救われるわけがないか。ただどうにもならないだけなのかも知れない。とりあえず君のやっていることは救いとは無関係なのだろう。誰も救われないだろうし、誰を救うつもりもないわけか。そこにあるのはただのつまらない言葉の羅列になっているわけか。そうかも知れないが、そうであったとしても、それ以外にやりようがないのだから、それはそれである種の真実には違いない。もはやどうにもならない状態に近づいているのかも知れない。それでもいつかはどうにかなるだろうと思い続けている。それは無駄な思いになるのか。何を思ってみても無駄だと思いたいか。本当に何を思っているのだろう。11月17日それは違うような気がする。どう違うのかわからないが、何となく違うと思われる。そんな述べ方では納得できないか。別に納得しようとしているわけでもないか。どのような結果を求めているわけでもない。ただ生きているだけか。別に生きているわけでもないだろう。死んでいるわけでもない。何かが邪魔をしているのかも知れない。わかろうとすることを放棄するように操作されている。しかし何をわかるまいとしているのだろう。常に葛藤と共に生きているつもりなのか。すべての感情の発露を封鎖している気でいるらしいが、それがどういうことなのかわかっていない。もっと簡単なことをやるつもりはないのか。すべてを見通せるわけもないだろうが、そのための努力を惜しんでいるわけでもないだろう。ではなぜそれが無駄だと悟らないのか。そんなことを考えているうちに頭痛がしてくるか。もっと無欲になった方がいいだろうか。心にもないことを述べているようだ。そんなことを思っているわけではない。なぜそうやって否定を繰り返すのだろう。まだ何ももたらされてはいないようだ。この世界を美しいとは思わないか。ある面においてはそうかも知れないが、別の面では違った感想を抱かせるか。そんなありふれた答えを期待していたわけではない。答えなど初めから期待していないのではないか。それを誰が述べているのかわかりかねるか。たぶん何かを述べるような人格を設けていないのかも知れない。それはどういう嘘なのか。それとも嘘ではないと述べておきたいのか。要するに醒めていると言うことだろうか。この世界のどこに興味を抱く対象があるわけでもない。たぶんそれは安易な判断だろう。本当はそんなことなどどうでもいいことか。では本当でなければ興味深い現象なのだろうか。何を述べているのだろう。何をどうやって説明しているのか。だが何もわからなくてもそれらの語りは継続されているらしい。そんな風に思いたいのではなく、何も思いたくないのでもなく、本当のところはよくわからないのだが、何となくそういうことにしておきたいようだ。君は心を閉ざしているようだが、君の心はそれを裏切っている。そんな風ならまだ少しは救いがあるのだろうか。雨音を聞きながら何を述べているのだろう。実際には何も述べていないのかも知れないが、言葉が適当に連なっているのだろうか。それは言葉なのか、それとも何なのか。何でもなく、ただの文章でしかないものなのか。意識はそれを読み返したいとも思わないか。しかしそれでいいわけはないだろう。何とか他人にわかりやすく思っていることを伝えたい。そんな善意がそれらの文章のどこにあるのだろう。わかりやすく語るためには善意が必要なのか。単に技術的な問題で済ますことはできないものか。事を簡単に考えては本質を見逃してしまうだろうか。だが今はそんな段階ではなく、それ以前の水準で行き詰まっているのではないか。何を述べているのかわからない。何をどのように述べるべきかわからない。そんなことがわかるはずがないと思っている。それでは何も述べられなくなってしまうかというと、そんなわけにはいかないらしい。ただ何も述べずに言葉を連ねている状況がある。そんなことがあり得るだろうか。何か君は勘違いをしていないか。別に勘違いであってもかまわないか。それが勘違いであるならば、それがそのままであっても何ら不都合を感じないだろう。勘違いであるがままに言葉を連ねているだけか。それが紛れもない現状なのだろうか。それ以上考えるのが面倒なので、そんな風に思い込んでいたくなるか。それで済むならそれに越したことはないか。なせそれで済んでしまうのか。現状をどう思おうともそれは君の自由か。だが自由という概念はとりとめがない。どこからどこまでは自由なのか自由と不自由の境界が不明確だ。そういう言葉の欠陥を突いて適当に文章を構成しているわけか。ただあやふやなことを述べているだけなのかも知れない。どこまでも意味不明を装いたいのか。わざとそうしているわけではなく、ただ自然とそうなってしまっていて、それ以外にやりようがないのだろうか。あるいはいくらでもやりようはあるが、それ以外のやり方に魅力を感じないのか。それはその場の都合でしかないのかも知れない。その場の都合に合わせてそんなやり方が選択されているだけかも知れない。要するにその場ではそんなやり方が適当だと思われるわけか。しかしそれを誰が思っているのでもなく、誰も思わないような文章が自ずから生じているに過ぎないのではないか。そんなことがあるだろうか。やはりそれは嘘なのか。しかしたとえ嘘であったとしても、そんな風にしか思えないのだから、それはそれで仕方のないことなのかも知れない。11月16日なぜつまらないことを考えているのだろうか。現実とはそんなものか。そんなものでなければどんなものなのか。ここは漫画の世界ではない。興味深い出来事が頻発するわけでもない。それを認められなければ、現実は幻想の産物にでもなるか。別に幻想を求めているわけでもないが、やはり興味深い出来事の頻発を期待しているわけか。しかしそうなればどうなるというのか。いつもおもしろいと思うわけか。常に楽しい気分でいられるわけか。何を想像しているのだろう。それはどのような出来事なのか。現状がつまらないからそんなことを想像しているのだろうか。何かを想像していれば楽しくなって満足か。いつもそうとは限らないか。現状との落差を感じて虚しくなってしまうだろうか。何もない現状に落胆しているわけか。どうすれば何かが生まれるのだろうか。それらのつまらない作業ををやめれば、その後から必ず何かが生じるだろうか。それが信じられない。やめたくはないのに、いずれはやめなければならなくなるだろう。本当にやめるつもりなのか。そのつもりはないので、今はやめるときではないだろう。ではいつやめればいいのか。やめるときはいつやってくるのだろうか。いつかはやってくるのだろう。だがいつまで経ってもやってこない場合はどうしたらいいのか。そんなことまで心配までする必要はないか。必ずいつかはやめてしまうのだろうから、それがいつなのか知る必要はなく、それは実際にやめたときにわかることだ。だから今からそんなことを考えても始まらないか。今は何を始めようとしているのでもなく、ただ現状に埋没しているだけか。そこからどうやって抜け出せるだろうか。そんなことは今さら考えるようなことではないか。空想上に構成されている別の時空では、誰かがもうやめてしまっているかも知れない。それでやめたことになるのだろうか。やめている誰かを空想することがやめたことになるわけがないか。何となく嘘をついているような雰囲気を感じているらしい。そしてなぜかやっていられない現実に直面しているようだ。どうあってもやり続けている現実をどうすることもできない。それ以外にどうしろと言うのだろう。何を空想しているのだろうか。何かそうあるべき世界でも思い描いているわけか。そして理想と現実の落差に驚いているのか。別に驚くべきことでもないだろう。どこに理想があるわけでもない。では空想の世界も虚無に浸食されていて欲しいか。すべてが虚無感に満たされたとき、それ以外の出来事に驚くことがあるだろうか。別に驚きたいわけでもないだろう。どんな出来事に遭遇しても驚かないような気がするのは、まだ驚くべき出来事に出会っていないからか。それはまだ予定調和の範囲内で生きている証拠か。いつかそれを知るときがくるだろうか。真の驚異に直面して茫然自失となることを期待しているわけか。しかしそうやってすぐに想像を絶するような出来事を期待するのも、いつもの予定調和の思考なのではないか。それはどういうことなのか。現実にはどんな出来事を体験しているわけでもない。ただ想像をふくらませて現状の空虚を満たそうとしているだけではないのか。そういう欲求は一般的には何らかの娯楽へと向かうのだろう。どこかへ出かけていって何かをやりたくなり、それを満たすための用途に応じた様々な施設が営業している。結局はそういった娯楽施設が栄えるほど、世の中には空虚が蔓延り、中にはより危険なスリルを求めて犯罪行為に走る者も出てくるだろう。ただ普通に生活するだけでは満足できない者が多いほど、荒んだ事件が増えるのだろうか。やはりこの世界には虚無が蔓延しているわけか。そんなありふれた結論では満足できないか。もっとわけのわからないことを述べたいのか。そうやってそれらの現実から逃げたいわけか。だがここに至っても何について考えを巡らしているわけでもない。では意識はどこへたどり着こうとしているのだろうか。何を目指しているわけでもない。どこにも目指すべき目標などありはしない。到達しつつある地点はいつも出発点にしか過ぎない。しかし誰がそんなことを思っているのか。それは漫画の中に登場する主人公の台詞か。誰かはそんな風に思いたいわけか。誰でもない誰かならどう思うだろう。つまらぬ言葉遊びだと思うか。緊張が持続せず、すぐにふやけた言葉を並べてしまうらしい。空虚以外に何を語っているわけでもないらしい。常に何もない状態から何かを見出そうとしているが、何が見出されるわけもなく、苦し紛れにわざとらしい雰囲気を醸し出しているだけかも知れない。11月15日何かを語ることによって何をどうしようというわけでもないのに、また何やらわけのわからないことを述べているようで、その場での雰囲気だけはやる気のようだが、肝心の言葉がついてこないらしい。この時期の蚊は執拗だ。明かりを消すと蚊の羽音が近づいてきて寝ていられない。夏でもないのに顔を蚊に刺されるのは腹立たしいか。どうやら今日は寝不足気味になりそうだ。それに体調も優れないか。何となくそんな状況が馬鹿らしく思われてくる。なぜ深夜に起きているのだろう。今は眠ってしまえばいいことか。しかしすでに時間帯は翌日の昼になっているようだ。テレビでは毎度のことながら拉致被害者の家族が北朝鮮の対応に怒っているようだが、やれるものならもったいぶらずにさっさと経済制裁でも何でもやってみればいいだろう。アメリなどは日本からの輸出に対して、事ある度にダンピングの疑いをかけて、すぐに経済制裁に踏み切っているのだから、日本だってこの際、大国気取りで調子に乗ってやってみればいいだろう。とりあえず北朝鮮も、アメリカとは違った意味で軍国主義的な体質なのだから、人の命などいくら奪っても、そんなことはどうでもいいことなのだろうし、日本からさらってきた数十人だか数百人だかの拉致被害者の安否など、今さら調べろと言われても、自国民が飢餓で脱国したり、数百万人が死んでいたりする現状から見れば、どうでもいいことだろうし、そんなことまでいちいち丁寧に対応していられないのではないか。日本だってかつての軍国主義時代にやった朝鮮人の従軍慰安婦だの、朝鮮・中国人の強制労働だのの問題を、うやむやにしてきた過去があるのだから、いくらそれとこれとは別問題だと言い張ってみても、何となく大同小異のような気がする。北朝鮮がもはや拉致問題など解決済みだと主張するのと、日本の右翼系政治家が、南京大虐殺などなかったと言い放つのと、それほど言っていることに変わりはないのではないか。まあ北朝鮮も現状では東アジアのお荷物国なのだから、あんまり意地など張っていないで、さっさと韓国と一緒になってしまった方がいいだろう。南北が統一されてしまえば、核問題も拉致問題も一挙に解決してしまうような気がする。また以前にも述べたことだが、とりあえず統一してからの数年間ぐらいは、朝鮮労働党に統一議会の三分の一の議席を配分して、残りの三分の二には現在の韓国議会の議員をそのままスライドさせて、大統領には韓国の大統領が就いて、旧北朝鮮国内には中国軍とロシア軍を駐留させて治安維持に当たらせれば、在韓米軍との釣り合いもとれるし、それで丸く収まると思うのだが、どうなんだろうか。そして数年経って政情が安定した時点で統一議会選挙と大統領選挙を実施すればいいだろう。はったり男の小泉氏も一度はそんな提案を大々的にぶちあげてみれば、実現するかしないかの次元とは無縁になってしまうかも知れないが、ウケねらい的にはそんなのもありだろう。まあ無理とは思うが。馬鹿の一つ覚えのようにテロとの戦いに凝り固まっているどこかの国の大統領とは、そろそろ一線を画してみたらどうか。たぶん以上に述べたことは、利いた風な意見の範囲内での戯れ言でしかないのかも知れないが、何となくどうでもいいことに多大なエネルギーが注ぎ込まれているだけのような気がして、例えばイランの核疑惑を穏便に済ませようとして尽力しているヨーロッパの国々と比べると、著しく思考や言動に柔軟性が欠けているように感じられる。何かこれでもかこれでもかと報じられる拉致問題などは、それについて語っている人々の語る方向性が、どうしようもなく一つの方向に凝り固まっていて、何か問題が解決して欲しくないかのような印象を受ける。まさか言論統制でもされているわけでもないだろうに、ただひたすら感情的になって、同じようなことを繰り返し訴えかけることしかできないようだ。そんなものを見る度にうんざりした気持ちになって、もういい加減あきらめたらどうか、と思ってしまうのは自分だけだろうか。もちろんそう思うのと同時に、あきらめることなど絶対にできないのだろうとも思われるのだが、どうもこうにもできないことを繰り返し要求し続ける人々が哀れに感じる。そうやって善意のさらし者になっている人々を批判してはいけないのだろうか。そういうものを繰り返し見てしまうと、何となくやりきれない気持ちになってくる。11月14日どうにもこうにも始まりのきっかけがつかめない。何かやろうとすると眠気を催してしまう。すでに他の仕事で疲れているらしい。なぜいつもいつもそうなってしまうのか。定まらぬ気持ちをそのままにしながら、何となく漠然とした思いに覆われているうちに、また翌日の夜になってしまったようだ。今から何を始めようとしているのか。そこから何が始まるわけでもないが、まだ何も始まっていないのかも知れない。始まりの語りが面倒臭いので、いつも途中から語っているように思われるかも知れないが、それでもそこには何らかの思考が反映された文章が構築されているのだろうか。たぶんそれらの思考のどこかに解決の糸口があり、また出口のない迷路が存在しているのかも知れない。あるいは何を考えているとも思えないようなことが述べられているのかも知れない。いったい他人はそれらの文章に何を求めているのだろう。どこかの誰かは怠惰にまかせてまた同じようなことを述べてしまうらしい。何を迷っているのだろう。この世界のどこに迷路があるのか。無限に広がっているようで、実は閉じているこの世界に、出口を探そうとするのは無駄な試みか。それは誰のことでもないかも知れないが、いったい君たちはどこを彷徨っているのだろう。彷徨う人々は彷徨い続けるだけで、この世界に積極的な価値を見いだせない。それらの意識はさらに怠惰になり続けているのかも知れない。君はどうにかなるかも知れない機会を見送り続けている。なぜチャンスをみすみす逃しているのか。怠惰な意識は何を認識しているのだろう。たぶん君にはこの世界を他人がするようには認識できないのだろう。ではそれをどのように認識しているのだろうか。誰かが認識しているように認識できれば少しは気休めになるだろうか。どんな風に認識すればうまくいくのか。うまく言葉がつながらないようだ。そのときの気分はいつもと同じようなものか。別にその存在を認めようとは思わないが、魂という言葉を唐突に思い出し、その言葉に積極的な意味を付加しようとするが、そのための文章を構築できない。そこにあるのはいつものまなざしか。いったい何を見つめているのだろう。何が存在しているわけでもないだろう。どんなに思考する理由を探しても無意味には太刀打ちできない。眠れない日々を乗り越えたいから、もう投げやりな態度はやめにしようと思うが、それができたら苦労はない。ひねくれた感情はそれ以上の何を求めているのでもなさそうだ。死ぬまで苦労していればいいと思う。どういうわけか突き放されてしまうらしい。しかしこのままでは立ち直れないので、気晴らしに無駄なことを思いたくなる。いつこの世界に平和な時が訪れるのか。平和という言葉自体に欠陥がある。未だにそんなところで立ち止まっているのか。何を述べてもやる気に見放された心には、怠惰が蔓延ってしまうようだが、このままでは日付がさらに遅れ気味になるのだろうか。そんなことはどうでもいいことか。それともまだ体勢を立て直すチャンスが訪れるのを期待しているわけか。今がその機会なのか。だが機会を捉えて効果的に言葉を繰り出すことはできそうもない。意識はそれとは違う雰囲気に浸っているらしい。何を述べても無駄なような気がするだけか。ではどんな風に述べれば無駄でなくなるのだろう。無駄でなくなるはずがないと思われるのに、さらに述べようとするのはどうしてなのか。何も思いつかないのに、なぜそれを語ろうとしているのだろう。そこからどうやって話のつじつまを合わせることができるのか。話の内容を知りたいか。紋切り型の羅列ばかりで、内容など何もありはしないか。語る前からあきらめてしまうようだ。本当に何もないのだろうか。何かがあると思えば何かに出くわすだろうか。つまらない文章に出くわしているわけか。それをつまらないと思わないようにするにはどうしたらいいのか。すでにどうにかしようとしているではないか。そこから飛躍しようとしている。無謀なことを述べようとしているようだ。どこかに突き抜けたいとでも思っているわけか。だが迷路の方はどうなってしまったのだろう。迷路の壁を突き破って無理矢理直進してみたらどうだろう。そうすれば今より軽薄になれるだろうか。わざとらしい迂回をやめて、単刀直入にものを述べられるようになるか。そんな風になったら、さらにつまらなくなってしまうか。君は短い文章が嫌いなのだろうか。たぶんそうしたら、何も述べることがなくなってしまい、それらの試みが台無しになってしまうのだろうか。そうなってしまってもかまわないような気もするが、やはりまだ現時点では、いつまでも無駄なことを述べていたい、という思いの方が優先されているのだろうか。しかし誰かは何について語っているのだろう。誰かとは君のことではないのか。そんなことはどうでもよくて、それについては何をどう語っても無意味であり、文章上では誰かと君に区別などないのかも知れない。しかしどうしていちいち無駄なことを語ってしまうのだろう。そんなことばかりが繰り返されている。11月13日いつの間にか沈黙が間延びしているように思われる。言葉をを忘れかけている。ありふれたことを語りたいのに、何かがそれを許さないように感じられ、そこで作業が立ち往生しているようだ。また始まらなくなってしまったらしい。やる気がしないのか。それは毎度のことかも知れないが、何もやらずにいる振りをしながら、気晴らしに馬鹿げたことを考えている。馬鹿げたこととは何なのか。まさか世界征服とか叫んで笑いをとりたいのだろうか。そんなことで笑うような状況でもないだろう。何となく呆れを通り越して、その後にどんな言葉をつなげたらいいのかわかりかねる。どういうわけか心がよどんでいるようで、何かが停滞したまま沈殿しているらしい。それはヘドロか何かの類か。さっきから何を笑っているのだろう。微笑している余裕はあるようだが、なぜ微笑んでいるのか、そのわけをうかがい知ることはできない。うかがい知るようなことではないだろう。ただわけもなく笑っているだけか。壊れているのかも知れない。何が壊れているのかを考えている暇さえない。別に忙しい時間帯ではないだろう。意識は気まぐれに廃墟を思い浮かべて、その中で空虚がくつろいでいるようだ。意識はどこにあるのだろう。それは意識ではないのかも知れない。またいつかと同じ言い回しになっているのか。いつものようにくだらぬことを思っているようだ。しかし思っているのは誰でもなく、文章のつながりを保つ上で、誰でもない誰かがくだらぬことを思っていることにしたいらしい。それはとんでもないご都合主義だろうか。今はそれ以外にあり得ないのだから致し方ないか。そうやって雑でいい加減な内容を呼び込んでいるのかも知れないが、今回はそんな風にしか語れない成り行きになっているようで、それをどうやって軌道修正したらいいのかわからないらしい。いくら何を思っても、それが言葉の連なりに反映しないこともあるようだ。言葉の連なりは誰の思いとも無縁のままでいたいのか。そこにそんな意志があるわけでもないのだろうが、文章から構成される架空の人格は、他人の思惑にその思考や行動を左右されたくないのだろうか。なぜかさらにあり得ないことを述べているようだ。しかしそんな戯れ言もいい加減にして、どこか適当なところで妥協しなければならないのだろう。妥協しなければ孤独のままか。架空の君はそんなはずはないと思いたいのか。現実の誰がそれを許してくれるだろうか。別に他人の許しを請うようなことではないだろう。ただ君が何を思いたいのかわからない。ならばさらに無理を重ねなければならなくなるだろう。それがどんな無理なのか知りたいか。たぶん無理をしてみればわかることかも知れないが、君はそんなことには無関心を装っている。なるようにしかならない状況の中でいくらもがいてみても、やはりなるようにしかならないだろう。そんな状況に対してどうすればいいのかわかるはずがないだろう。では思い通りにならない状況に失望し絶望してみたいか。あるいはもはや一縷の望みも捨て去るほどの悲壮感を漂わせたいか。しかしそれはどのような冗談なのだろう。架空の人格が何を望んでいるわけでもないか。元から絶望するほどの希望を抱いていたわけでもないか。また何に失望しているわけでもないだろう。別に思い通りにしようとしているわけでもないか。どんな理想があるわけでもないか。だがそうやって何を否定しようとしているのか。この世界のすべてを否定できるだろうか。今まで語ってきたことはいきなりそんな誇大妄想的なことにはつながらないだろう。何も思い浮かばないから、苦し紛れに安易な方向へ進んでしまう傾向にあるようだ。それではまともなことを述べるのをあきらめなければならなくなる。またそうやって逃げ道ばかり探していると、さらに無内容に拍車がかかってしまう。もはや意識にはそれに歯止めをかける力が残っていないのかも知れない。気がつけば戯れ言ばかり述べている現実のただ中に存在しているらしい。しかしそれは逃れようのない状況だろうか。たぶんそうやって何とか気が狂わないようにしているのかも知れない。平静を取り繕っているわけか。放っておけば本当に何かが砕け散ってしまうのだろうか。あるいは砕け散ってしまいたいのだろうか。歯止めとなっている何かが崩れて感情の防波堤が決壊して欲しいか。しかしさっきから何の話をしているのだろう。話の内容が今ひとつ不明かも知れないが、それが気に入らないのか。気に入らないのなら、たまには利いた風なことを語ってみたらいいか。すでに語っているような気がする。ありふれた内容をありふれた言葉を用いて述べているらしい。しかしもはやそんな嘘は通用しない状況を招いているのか。何が招いているのだろうか。それらの言葉の連なりが招いているのかも知れない。11月12日何も思わないうちに季節はもう冬になっているのだろうか。一夜明けたら寒くなっていた。風のない冷えた朝に何を思っているのだろう。今日も朝からつまらないことを思っているらしい。しかし今はもう朝ではない。それから何時間も経ってから、なぜそんなことを思うのか。君は第二次世界大戦におけるスターリングラードの攻防戦を知っているだろうか。何気なしにテレビをつけたらニュースをやっていて、イラクのファルージャがスターリングラードと化しているようだが、それでもアメリカ軍は当時のドイツ軍のように負けることはないようだ。誰がそんなことを思っているのだろう。現時点では誰もがそんな風にしか思えないだろうか。だがあのような惨状が泥沼状態でないとすると、そう思わせる原因は何なのか。大統領選でも勝利したし、兵士が数十人が戦死したぐらいではまだ余裕なのだろうか。戦力に差がありすぎるか。しかしそんな状態がいつまでも続いていく可能性はある。決着は永遠につかないような気がする。アメリカは絶対に負けないし、いつ何時でも勝利することができるようだが、それでもテロリストたちは生き延びるだろう。もはや国と国の戦争ではないのだから、片方の国がいくら勝利を宣言したところで、それで決着がついたことにはならない。勝利する対象が自らの負けを認めるわけがないだろう。テロリストたちには降伏する必要も必然性もありはしない。生きているうちはひたすらテロ行為を継続させていればいいだけだ。金と人材の供給が絶たれない限り、いつまでもそれを続けようとするだろう。そこにアメリカ軍やアメリカの民間人やアメリカに追随する人々がいる限り、テロを行う理由が生まれてしまうわけだ。もちろんテロ攻撃がなくならない限り、アメリカも軍隊を退かせることができない状況になっている。それどころかテロの脅威があるからこそ軍隊の存在理由があるわけで、簡単にテロをやめられたら、かえって軍隊の活動が支障を来すことがあるのかも知れない。テロのおかげでアメリカ軍は世界中に進駐していられるのであり、今やテロの脅威はアメリカ軍にとってはなくてはならない必要不可欠な要素なのかも知れない。そんな風に考えると、ある側面においては、この世界はテロリストとアメリカ軍に支配されている、といえるかも知れない。ではそこで支配されているのは、何らかの気分か精神的な何かか。そんな風に思いたければ思っていればいいだろう。大半の人は戦争ではなく、MLBやNFLやNBAなどを見ながら暇をつぶしているだけか。スポーツ娯楽に心のある部分を支配されている。それは支配とは言わないか。もうそんな話には飽きてしまったのか。いったいどこにアメリカ軍がいるのだろう。テレビ画面の向こう側で戦争ごっこをやっているではないか。それはごっこではなく本当の戦闘なのだろうか。実際に敵やそれに巻き込まれた民間人を殺害していれば、本当の戦争なのだろうか。それよりはNFLの方がおもしろいか。戦争は娯楽にはならないのだろうか。娯楽で人が殺されたらたまらないものがあるか。ブッシュの娯楽や息抜きのために殺されているイラク人は悲惨なのかも知れない。それは息抜きや娯楽ではなく、れっきとした商売だろう。では彼らは何を売っているのだろうか。自由と民主主義という名の死そのものを売りさばいているのかも知れない。もちろん自由と民主主義を売り込んだついでに、憎悪や反感を買いながらテロとの戦いを遂行しなければならないアメリカ兵も悲惨か。たぶん君はそんな風には思わないだろう。生身の君にとっては、ここから遠く離れた地域で、赤の他人が適当なことをやっているように感じているだけか。そしてその適当なことが人殺しなのかも知れない。それらの行為が適当でないとすると、何が間違っているのだろう。何かが間違っているのかも知れないが、その間違いを改めることができないからこそ、彼らはそうやって執拗に過ちを繰り返しているわけか。しかし君がそんな説明で納得するわけがない。そこにもっともらしい理由など何もないのかも知れない。ただ単にやられたらやり返しているだけなのかも知れず、そのやり返すこと自体に攻撃の正当性が宿るわけだ。もちろんそんな単純な思考は排除される傾向にあり、その辺の事情通に言わせれば、何やら世界戦略のごとき壮大な野望やら計画やらを有していることになっていて、それに基づいて戦争を遂行している風を装っているようなのだが、そんなものとは無関係な傍観者にとっては、そういうまだるっこしい概念はどうでもいいことだ。ならば君が求めているものは何なのか。気休めの音楽か何かか。それを意識せずに商売できる環境を求めているわけか。だから君の意識はそこから遠ざかろうとしているわけか。11月11日気まぐれに余計なことをしてしまったらしく、その副産物として思わぬ出来事に出くわして、さらに作業が遅れてしまっている。しかし誰かの意識の中では、そんな嘘を口実にして毎度おなじみの怠惰が頭をもたげはじめたようで、やる気のない投げやりで散漫な態度が、わざとらしい遅延行為にさらに拍車をかけている。しかし実態として何が遅くなっているのだろうか。また本当にそれは嘘なのか。何が嘘で何が本当なのだろうか。いったい君はそこで何をやっているのだろう。実際には何もやっていないから、作業が進まないのだろうか。誰かは何をどうやって進めようとしているのだろうか。語っている当人は誰でもないのに、そんなことを述べるわけにはいかないか。誰が何を語っているわけでもないとすると、それらの文章はどこから生じているのだろうか。語っているうちに何となく飽きてくる。だがただ何もやらずにテレビばかり見ていると、まぶたが重くなってくる。しかし昨日の夜中に眠気を振り払っているつもりの意識は、今では何を求めているわけでもない。そんな意識など存在するはずがないか。そのときには確かに心地よい眠りの時が近づいていたのかも知れないが、何もやらずじまいでは不安に駆られてしまい、おちおち寝ていられないか。だから蛍光灯の明かりをつけておいて、まぶしさに気づいて目を覚ませるようにしているわけか。それは意味のないことかも知れない。やっていることと思っていることが矛盾しているようだ。やるべきことをやり終えて安心して眠りにつきたいのに、それができないので、とりあえず眠りについて、目が覚めてから何かをやろうという魂胆らしいが、現実にはそんな成り行きになるはずもなく、何もできずに、しかも寝不足気味になり、苦し紛れに繰り出された粗雑でせわしない言葉が、いい加減な意味を伴いながら、うわべだけ脳裏をかすめて、ただどうでもいいような時空に吸収されてゆくばかりか。言葉を弄するだけの暇がありながら、その暇を活用できないでいるようだが、そのじれったい焦燥感に突き動かされながら、気の遠くなるような作業を進めているらしいことは、紛れもない事実のようだ。しかしそれで進めているつもりなのか。いつまで経っても以前と似たようなことしか述べられない気がするのだが、それは気のせいなのだろうか。たぶん気のせいではなく、それは確かな事実なのかも知れないが、それ以外のやり方を見いだせないのだから、それをやりざるを得ないらしい。そんなわけで結局それらの言説空間は、誰かの意識に何ももたらしはしないだろう。ただそれとは無関係な架空の風がどこかへ吹き抜けているらしい。いったん記述された文章など、読まれた後はどうでもいいものでしかないのかも知れず、思うがままに言葉を操れない意識が、焦りとともに繰り出した稚拙な言い回しを、文字として定着させようとしているわけだが、結局はその試みが常に失敗に終わっている現実を、むき出しのままさらしているだけでしかないようだ。要するに何を述べているのでもないのだろう。そんなことはわかりきったことか。あるいは致し方ないことか。それが明白になったとき、誰かの意識はどこかへ退いているようだ。だが何をためらっているわけでもないのだろう。ただ架空の意識が作業を続けているだけか。やはり誰が何を語っているわけでもない。またこれから意識はどこへ向かうわけでもない。さらに付け加えるなら、どこから来たわけでもなく、どこへ何しにいくわけでもないか。雨が降っているらしい。それ以外に何も見いだせないのだろうか。またどこかで大雨状態のようだ。雨の中には何があるのだろう。そこにどんな概念や意味を紛れ込ませたいのか。やはり誰が何を問いかけているわけでもないらしい。誰かはただ何も考えずにそれらの光景を眺めている。雨は明け方に止み、早朝から近くの国道を行き交う大型車のうなり声が聞こえている。また雨が降ってきたようだ。何となく誰かの思いとは関係なく、それらの状況は推移しているらしい。何かが断続的に続いているようだが、意識がそれに追いつかない。別に無理して追いつこうとしているわけではなく、また完全に状況を無視しているわけでもないらしい。追いつこうと必死に努力すると、逆に遠ざかってしまうのか。こちらから遠ざかろうとすると、向こうから近づいてくる。両者の間には一定の距離があるようで、また別の視点から眺めると、完全にそれらの姿が重なり合っているようにも見えてしまう。しかし相変わらず何を述べているのでもないらしい。いったいそれはどういうことなのだろう。そんな問いかけはわざとらしいか。11月10日今日も何となく意味不明のようだが、何の意味が不明なのかわからないか。とりあえず昨日と比べて何か変わったことはなかったか。ところで誰かはそれからどんな心境に至ったのか。ネット自殺でもする気になったのだろうか。自殺したければすればいいことでしかないか。たぶんそれは冗談の一種なのだろうが、冗談で死なれたら周りの家族や友人や職場関係者はたまったものではないか。もっとも中にはうっとうしい奴がいなくなってせいせいしている者もいるかも知れない。しかしそれはあくまでも架空の話の域を出ない内容でしかない。他人がどうしようと君には関係のないことかも知れない。君は君で相変わらず停滞気味の毎日を過ごしている最中か。少なくともそれで満足はしていないのだろうが、何となく何も思い浮かばないようで、たまに深夜に寝汗をかいて気分が優れなくなる。ここ数日はこの時期としてはかなり暑い方かも知れない。明け方に目が覚めた直後に、意識がもうろうとした状態の中で、さっきまで体験していたはずの、夢の中で起こった出来事や、そこで行動していた幻覚の記憶が、何かが退いてゆくように徐々に忘れ去られてゆく。それからしばらく経った今はもう何も覚えていないようだ。しかしその今からもさらに数時間が経過している。当たり前のことだが今は絶えず過去になりつつある。たぶん意識の中では何がどうなったわけでもないのだろうが、それでも時間の経過が早すぎるか。どうも言葉を連ねようとしている意識は、それをやれるだけの時間から置いてきぼりを食っているようで、文章を記述している日時からも完全に見放されようとしている。それはどういうことなのだろうか。要するに遅れているということか。それは以前に経験したパターンだろうか。あるいは今度こそ本当にお終いになってしまうのか。そうなったらなったで仕方ないだろうが、今はそうならないように、何らかの工夫を施さなければならない事態に直面しているわけか。だが今さら何をどのように工夫できるのか。工夫という言葉からは程遠いことを述べているのかも知れない。いったいそれらの実態はどうなっているのだろう。つまりもう語ることが何もないということか。そう述べてしまえばお終いにすることができるだろうか。執拗に言葉を連ねることに飽きているのか。飽きているのではなく、ただ疲れているだけではないのか。とりあえずここには何もなくはないが、それを言葉に結びつけることができないのかも知れない。しかしここに至って本当にまだ述べるようなことがあるのだろうか。そんなことがあるはずがないか。ではあるはずのないことを述べることならできるか。それではフィクションになってしまうだろう。フィクションでもかまわないか。もしかしたらこれから適当な内容に巡り会うかも知れない。そんな風に期待するのは安易で無責任きわまりないか。たぶん何かをやろうとすれば、それに伴って周囲から思っても見なかった作用が働き、やろうとしていた意識が変容を被ってしまうのかも知れない。それはしばしば出鼻をくじかれるような成り行きになり、結局はやる気を失い、何もできなくなってしまう。しかし次第にそれが嘘であることに気づき、何もできないどころか、何か利いた風なことを記述している自分自身の存在がうっとうしく感じられるようになり、そんな自己嫌悪に抗いながらも、何とか気持ちを奮い立たせて強引に述べようとすると、当初において述べたかったこととはまるで違うことを述べてしまっている現実に直面する。適当にいい加減に思い悩みながら、あるいは悩んでいる振りを装いながら、様々な試行錯誤や紆余曲折を経ながらも、結局は述べたくもないことを述べてしまっているのであり、しかもそれをやめることができなくなっているわけだ。それはあたかも自分の意志に反してやっているように思われ、さらにそれをやり続けることによって、結果的にやっていることに沿った新たな意志が生じて、それ以前の意志を乗り越え駆逐してしまっている現実に驚愕することとなる。自らの意志が内面ではなく、自分とは無関係な外部から供給されていることに気づいてしまうわけだ。だがはたして自発的でない意志が意志といえるのだろうか。それも形態としての意志の有り様なのだろうか。自らがどんな意志を持っているのかわからなくなる。そんなわけで誰かは気休めにシェーンベルクの狂ったような音楽を聴いている。それでどうなるわけでもないか。しかしどうにもならなくともかまわないわけか。気晴らしや暇つぶしになってさえくれればそれでいいのだろうか。11月9日またどうにもならないような状況になってしまうのか。そして結局はどうにもならないのにどうしてどうにかなってしまうのだろう。まだどうにかなっているわけでもないか。では何かを思えばいつもそれを裏切るような成り行きになってしまうのはどうしてなのか。それはそんな思いが浅はかだからか。それについて何を問うわけでもなく、何も問えないわけでもないらしい。そんな問いに対する答えは無用なのかも知れない。ならば答える必要のない問いも無用か。それでは何をどう問い、何をどう答えていいのかわからなくなるか。はじめから無用なことを述べているのかも知れない。それでも自然とそこから問いが生じてしまうと思われるのは、何かの勘違いだろうか。思い違いならまだ救いがあるのかも知れないが、それは単なる思い違いではなく、思い違いであって欲しいと思いたいのであり、そこには必ず何らかの原因があると思い込みたいのか。だからそんな思い込みこそが浅はかなのだ。無理に何かを生じさせようとしているだけではないのか。それはただ単にとりとめのない行為なのかも知れない。そして漠然とした思いにとらわれているだけなのか。だいいち何が問いなのかはっきりしない。さっきまでの問いは問いではなかったのか。それでも白々しくまだどんな問いが発せられているわけでもないと述べたいわけか。それとも強引に別の問いを繰り出したつもりになりたいわけか。何も問われていない状況で、どうしてそうなってしまうかを問いたいのだろうか。それでは虚しい解答しか期待できないだろう。そんなことははじめからわかりきっていることか。たぶんそれについてはどうにでも答えられそうで、しかもそこから導かれる答えはすべて間違っているような気がする。要するにまたしてもただそう思い込みたいだけなのか。ではそんな思い込みに嫌気が差したときにはどうすればいいのだろう。とりあえず何をどう思ってみても、人はいつか死ぬだろうし、またいつか生まれてくるだろう。しかしそれが何の解答になっているのだろう。唐突に不自然な解答が導き出されているだけか。それは何に対する解答でもないような気がする。漠然としたとりとめのない問いから逃げだそうとして、どうでもいいような当たり前のことを述べているだけか。それらの何に興味を抱けるのだろうか。確かに人は死んだり生まれたりしているが、それらのすべてが何か興味深い出来事だと思われるわけでもないだろう。ただそんな出来事が頻発している世界がここに生じているに過ぎない。実際にそこから何が生まれてきたわけでもなく、誰が何を生み出そうとしているのでもない。もしかしたら何も生じてはいないのかも知れず、ただ既存の物質の様態がめまぐるしく変化しているに過ぎないのかも知れない。原子的なレベルでは確かにそうなのだろうが、それよりも大きなマクロ的な視点に立てば、そこから生まれてくるように思われるものは様々にあるようで、さらに言葉的な水準においては、たとえそれが人でなくても、特定の固有名を持って生まれてくる者もいるらしい。者なのに人でないとすると、いったいそこで何が生まれてくるように思われるのだろうか。例えば君にはどんな名前が必要なのだろう。そんなことは人ではなく意識もない君にはわからないか。それは君に問うような質問ではないか。本当はそこに君などという者はいないはずか。真夜中の時間帯にはほとんどの意識は眠りにつき、闇はどんな思考も受け付けない。それは誰の思い込みなのだろうか。暗闇の向こう側には何があるのだろう。それは誰の意識がねつ造した問いだろうか。そこに誰の意識が働いているのだろう。何もないのに何を述べようとしているわけか。何もなければ何も述べられないはずか。そこには何があるというのか。誰が何を焦っているのだろう。何も見いだせずにその場しのぎの言葉を模索しているらしいが、そのような態度に分別があるようには思われないか。ではどのような成り行きで誰かは行き詰まっているのだろう。時間に追われているわけか、あるいはすでに見放されてしまったのか。それとは別のことをやっているうちに、またいつものように夜が明けてしまったらしいが、それは毎度のことなのだから仕方がないだろう。結局はすっきりしない意味不明な言葉を繰り出すだけか。どうやら誰かは毎日に同じようなことを述べているようだ。たぶんそうなることは述べる前からわかっていたはずか。きっと未来の誰かも性懲りもなく同じようなことを述べているのだろう。いったい彼はどこで何をやっているのか。何をやっているわけでもなく、何を述べているわけでもないらしい。ただそんな風に嘘をついているだけなのか。しかしもうすぐ翌日の昼の時間帯になろうとしている。車窓から遠ざかる風景を目で追いながら、この世界の部分的な有様を眺め続けている。やはり意識には何がもたらされているわけでもないらしい。晴れた空には雲一つなく、どこまでもありふれた世界が広がっている。そして意識は相変わらず何を思っているわけでもないようだ。11月8日そんな風に思うことの何が勇み足なのだろうか。それらの出来事はだいぶ演出過多な儀式になっているようで、それに沿って繰り出された言葉も人々の感情に訴えかけるような内容になっていて、出来事の悲惨さに見合うような同情を誘う雰囲気を醸し出そうとしているらしい。報道機関が注目する誰かの葬儀もどきとはそういうものだろうか。不特定多数の人々に見せびらかすために、音や映像がわざとらしく調整されているように感じられる。なぜそんなものがニュースになるのだろうか。そこには見る人を特定の心境に導くための仕掛けが施されてあるのだろうか。別に何を勘繰っているわけでもないか。誰もそんな風に思うわけがない。では何をどう思っているのだろう。そんな思いなるように誘導されるがままに思っているわけか。そんなものを眺めているとあくびが出るか。きっと寝不足で眠たいのだろう。土砂崩れで亡くなった子供をネタにして、くさい芝居のような代物が演じられていることに憤っているわけか。他人のやることをとやかく批判すべきではないか。たぶんそれは述べてはいけないことなのだろうが、誰かはそんな風に思っているらしい。思っているうちに何となく許せないような気がしてくる。しかしそんな風に述べるべきではないか。無用な反感を買うだけか。災害に対応した虚偽の慰めなど無視していればいいだろう。無視できないからそんな風に述べてしまうのだろう。それが誰かの欠点であり、他の誰かに精神的な弱さを悟られてしまうだろうか。おかしなことを述べているのかも知れないが、何が導かれているわけでもなく、そこで言葉が中断されているわけでもない。たぶんそれはそれだけのことなのであり、別に誰がそれを求めているわけでもないが、報道とはそんな風に状況を演出しなければ気が済まない制度なのだろう。どのような出来事も人々の都合に合わせた儀式に変形することによって、そのような人々を構成員とする共同体の中で解消されなければならない。そうやって自然現象を人間の論理に組み込んでいるつもりになるわけだ。そうしなければいたたまれないのだろうか。そんなものを批判しても仕方がないか。それ以上に何も述べようがないか。なぜ君はそういう行為を軽蔑しているのだろう。何をとやかく言ってもどうなるわけでもない。人は自らに都合の良いこと以外は何も述べられないのかも知れない。わざとその身を破滅に追い込むほど倒錯することもないか。何とか生き延びなければならないらしい。そしてできることなら繁栄を謳歌したいのだろう。そのためにはあれこれ工夫を施さなければならなくなる。それは間違ったことではないのかも知れない。それらの人々にとっては正しい行いなのだろう。だがどうやってそれを受け入れられようか。どこの誰が受け入れなければならないのか。それが君でない理由がどこにあるのだろう。そんな理由などどこにもないと思いたいか。本当にそう思うなら、君は人非人になってしまうのだろうか。しかし人でなければ君は何なのか。何でもないのかも知れない。やはりそんなことはどうでもいいことなのであって、ただ思ったことをそのまま述べているように装えば気が済むことか。本当は違うのかも知れないが、そんなことをどう述べていいのかわかりかねる。述べることは装うことでしかないのかも知れず、それは必ずしも本当の気持ちを反映しているわけではないのだろうか。たぶん本当に述べたいことはほとんど述べられていないのかも知れない。その場の間に合わせに何かしら述べている場合がその大半なのか。だがそう述べてしまうと他に何を述べていいのかわからなくなってしまう。そのような方向で突き詰めると何も述べられなくなってしまうだろう。別に何も述べなくてもかまわないのであり、取り立てて述べるようなことは何もないのかも知れない。ただ気分次第でその場の雰囲気を適当に取り寄せて、本気になれないままにいい加減なことを語り続けているだけなのか。そんな風に状況を語ることができれば、気楽な気分になれるだろうか。そんなことを述べているうちにまた地震のようだ。まったく性懲りもなく何を述べているのでもないらしいが、それでも何かしら言葉が連なっている。誰かはそんな成り行きを容認できるだろうか。認められないというのなら、それとは別のやり方を模索してみればいい。そうするにはまた別の偶然と遭遇する必要があるのかも知れない。すべての可能性は偶然の中にあるらしい。しかし偶然は偶然にしかやってこない。それを必然だと見なすにはどのような勘違いが必要なのだろう。11月7日何もやる気はしないが、それでも今日は通常の労働を経験したらしい。ここ数年間は毎週そうなのだから、それがどうしたわけでもないだろう。今日は世間的には休日だったらしいが、どんな具合だったのだろう。何の具合なのか。面倒なので誰かがどこかで黙っているらしいが、どうやったらその沈黙を破って適当な言葉を引き出すことができるだろうか。秋なのに気候的には暖かいようだ。そんなことに興味はないか。興味はないがそう述べることしかできないらしい。それは言葉の残骸か何かなのだろうか。それ以外の何になるのだろうか。植物の残骸は腐葉土になるらしいが、虫の残骸が何を語りかけているわけでもないか。鼠の死骸はどうなるのか。どうにもならないだろうが、人は死んで灰になるらしい。火葬された場合はそうなるのだろう。君の死んだまなざしは何を見ているのだろう。今日も誰かは何を見ているわけでもない。それではらちが明かないだろう。ではそれとは別の視線の先には何があるのだろう。苦痛で顔がゆがんでいる。誰かがそこで敗れ去ろうとしている。勝敗はどこにでも至る所にあるらしい。なぜ君はそこから顔を背けているのか。意識はそんな世界からどこかへ立ち去ろうとしているらしい。またどこに思いを馳せているわけでもなく、現実にはまったく歯が立たないようだが、争点は何もないわけだから、何を争っているわけでもないか。いつもの否定力はどこへ消えてしまったのか。何を否定したいのか。そんな問いかけに答える対象はない。存在しない意識を構成しようとしているわけではない。たぶんどこかにあるのかも知れない。あり得ない出来事が起こったときに何を思えばいいのだろう。今はそんなことを思いたいわけでもないか。いつものように何も思いはしない、と嘘をつきたいだけか。しかしなぜ執拗に次から次へと試練が到来するのだろう。なぜ疲れ切っているのか。誰がそんな風に思っているわけでもなく、そこでは誰もが安らぎを得たいような気分に近づいている。たぶんそれはありふれた物語の中でのことだろう。それでも君は絶えず何かを求めている。新鮮な感覚を得るにはどうしたらいいのだろう。これから何をやりたいのかわからないが、新しいことを述べるには新しい体験が必要なのだろうか。必要であるかも知れないが、必要と思われるときは何も到来せず、必要とは思わないときに、不必要な出来事が洪水のように押し寄せてくる。そんな風に思えたら楽しいか。何が楽しいわけでもないか。ただ疲れるだけだろうか。そうは思いたくないか。そこで何を経験しているわけでもなく、そこ以外でどうでもいいような出来事に遭遇しているだけかも知れないが、そんな経験によっても、何かが着実に蓄積しているようだ。それは君にとってまったく無駄なことなのだろうか。無駄であるかないかは将来においてわかることか。それとも経験が無駄にならないように努力しなければならないのか。それは何かの勘違いかも知れないが、たとえ無駄な努力であってもかまわないだろう。あるいは努力しなくてもかまわないか。しかし何をどう努力しようとしているのか。すでに無駄な努力をしている最中なのか。そうかも知れないが、そうでないかも知れない。そんなことがわかったところで、あるいはわからなかったとしても、そこから何が導き出されるわけでもないか。それでも何かが導き出されているとしたら、それは疲労以外の何ものでもないか。そんなにそれらの状況を否定したいのか。誰が否定しているわけでもなく、文章のつながり的にはそう述べなければならないのかも知れない。しかし何を述べているのか意識が理解していないようだ。それを理解できなければ何を否定する必要もないか。ただ否定的な文章を構成しながら、何を否定したいわけでもなく、否定する対象を見いだせずにいるらしい。それはどういうことなのか。ただ虚構のまなざしは何を見ているわけでもないということか。そんな風には思わないだろうか。そこにははじめからまなざしなどありはしないだろう。何を見ているわけではないと述べていたではないか。そのついでに何を語っているのでも、述べているのでもないと思いたいわけか。そんな風になれば満足するだろうか。誰がどんなことに満足するのだろう。もし満足できないのなら、はじめからやり直せばいいことか。何をまとめようとしているのか。そんなやり方はわざとらしいか。もしわざとらしいと思うなら、他の誰かがそれとは違うことをやればいいことか。そんなことを繰り返してもつまらないだけか。もしそう思うなら、繰り返すのをやめればいい。11月6日どうも始まりがしっくりこないようだ。さっきまで何の話をしていたのだろう。話をしていたのはどこかの司祭だったかも知れないが、君はキリスト教には興味がないらしい。はたして宗教が娯楽になるのだろうか。誰かがどこかでしらけているようだが、気晴らしの話はまた善と悪のせめぎ合いなのか。それでは話が単純すぎるだろう。別の場所で誰が何を語っているわけでもないようだが、それについて語ってしまうと、何となくくだらない話になってくる。何かが行ったり来たりしているらしい。それはどんな思いなのか。何を逡巡しているのだろう。いつまでもためらい続けているようで、そこから先へ一歩も踏み出せずにいる。要するにそれは毎度おなじみの現象で、以前に語ったはずの話を飽きもせず繰り返していることに意識が気づかない。同じような言葉が同じような状況の中で、繰り返し出てきてしまう。そんなわけでまた以前と同じようなことを語っているらしいが、それらの悪循環を断ち切ることができない。なぜそうなってしまうのだろう。それが悪循環だからか。そう思っているほど悪循環でもないだろう。気休めを述べている場合ではないか。しかし本気でそれが悪循環だなんて思っていないか。別に悪循環でもかまわないか。悪循環を経験しなくては悪循環を克服することはできないか。しかし何を克服しようとしているわけでもないらしい。またそれ以上に何を述べているわけでもない。世の中は矛盾だらけかも知れないが、そんなことはどうでもいいことであり、同時にどうでもよくないことなのか。あるいは冗談なのかも知れない。何が冗談なのだろうか。たぶん何かが冗談なのだろう。冗談で語っているようでいて、たまに本気になる場合もあるらしい。その場の成り行き次第でどうにでもなるのだろうか。何がどうにでもなるわけでもないか。とりあえずそんなことを語りたかったわけでもないのだろう。どうも悪魔は話を込み入らせながらも、結局は自滅する運命のようだ。それが映画なのだから仕方がないか。最後に善が悪に打ち勝たなければ、映画としてのオチにはならないか。そんな話はうんざりか。君が悪魔だからうんざりしてしまうわけか。別に君が悪魔であるわけがないか。では君は神なのか。それではあまりにも安易であり、冗談にすらなり得ないか。誰が悪魔で誰が神であろうと、そのどちらでもなく、そんな自覚とは無縁の君には関係のないことか。まんざら無関係というわけでもないか。ついさっきまでそんな大げさな映画を見ていたはずか。これから先もそんな話が目白押しかも知れない。やはりそれは悪循環なのだろうか。そんなことは君の知ったことではないか。どうしても無関係だと思いたいわけか。どうも今日は悪循環という言葉が悪循環しているらしい。わざとそうしている嫌いもあるようだ。だが君は偶然がそうさせているのだと思い込みたいのかも知れない。まさかそれが神の意志であるはずがないだろう。何を笑っているのか。今度はどこかで悪魔が笑っていることにしたいのか。何を述べているのだろう。何が冗談なのかわからなくなるか。それはどんな冗談でもないのだろうか。そんな風に思うのはおかしいか。では唐突にこの世界について何を考えればいいのだろうか。それもおかしな成り行きだろうか。偶然にそんな歌を聴いている。世界の子供たちを守らなければならないらしい。歌っている彼はユニセフに協力しているわけでもないだろう。なぜ世界を守ることが子供たちを守ることにつながるのか。誰かは、未来を担うことになる子供たちを守らなければならない、と歌に託して訴えかけているわけか。今さらそんな歌詞は白々しいか。そんなことを語りたかったわけではないか。単に歌っているだけか。ではわざと支離滅裂なことを語ってみたいか。そんな風に見せかけたいらしい。しかしいったんそこで立ち止まってみる必要があるだろう。君はいつから投げやりな気分になってしまったのか。どうも話に無理があるような気がする。何とか主人公を話の最後まで生かしておかなければならないという義務感がその無理を生じさせているのかも知れない。それは圧倒的な力で主人公を殺そうとする敵に、不自然な手加減を加えさせる結果を招いている。そこで見ている感性をしらけさせる。笑ってしまうシリアスな場面を醸し出しているわけだ。アホくさいと思わせてしまうらしい。やはりそれは冗談の一種なのか。画面を通して見ると、この世の中はどこまでも滑稽に映る。なぜそんな話にしなければならないのか。なぜ人は自らの都合に合わせて何かを物語らなければならないのか。それでも感情の赴くままに語っているつもりなのだろうか。あるいは無責任に語っているのか。11月5日状況は何もさせてくれないようだ。それも冗談の一種か。しかし時間が止まっているわけではない。また明日になってしまったらしい。どうも言葉を繰り出すタイミングがワンテンポ遅れてしまっている。それで深夜に拍子抜け状態になっているわけか。ただ漠然としているだけか。近くの国道も交通量が多くなってきた。県境を越えた付近の通行止めが解除されたのだろう。肺癌の素となる大型トラックが頻繁に通っているいるらしい。しかしまだ地震は収まらないようだ。余震の回数はだいぶ減ったようだが、気がつけば忘れた頃に揺れている。いったいあの辺の地下はどうなっているのか。要するに群発地震というやつなのか。最初の揺れを超えるものはもう起こらないのだろうから、その点では少しは楽かもしれないが、依然として避難している人にとっては、この状況はたまったものではないのだろう。だが君には関係のないことか。君は何もできずに途方に暮れているだけか。またいつもの嘘をついているらしい。それでも何とかするつもりらしいが、本当に何とかなるのだろうか。この世界はどうなっているのだろう。どうにかなっているわけか。そんな風には思わないか。君の世界観はよくわからない。なぜそこには規則性がないのだろうか。意識はすべてから遠ざかろうとしている。別に何に支配されているわけでもない。誰がどこの国の大統領になったからといって、何がどうなるわけでもないと思う。それはただの出来事なのであり、直接君の生活に影響を及ぼすことはない。君は相変わらずいつもの区間を行ったり来たりする毎日を送るだけだろう。なぜそこから逸脱できないのか。自分から逸脱しようとしていないからか。そんな生活に甘んじているのは楽しいか。楽しくはないがそれが君の領分なのか。今はそれで満足しているように感じられる。そうやってまた嘘をついているらしいが、それ以外にあり得ないことを知っているつもりのようだ。それは冗談ではないか。何となくそうなってしまっているらしい。もう何も思わないのだろうか。そんなことまではわからない。どこかの誰かのように脳死に至っているわけではないか。しかし何を譲歩しているのだろう。何をやめようとしているのか。やめられるはずがないだろう。それこそ冗談ではないか。何を述べているのかわからないか。だんだん無気力になってくる。これからどうすればいいのかわからなくなる。君は地震の被災者でもないのに途方に暮れているわけか。自由が欲しいか。世界中を歩き回って野垂れ死にでもしたいのか。それの何が自由なのか。ただ欲望に引きずられているだけか。どこかの国の大統領は野望に引きずられてその地位まで登りつめたわけか。中には夢に引きずられて行方知れずになった者もいるらしいが、いったいそれらの何が自由なのだろう。別に自由を求めているわけではないのかも知れない。ただそんな風に生きている姿が自由に見える場合もあるのだろう。要するに自由な雰囲気を想像しているわけか。不自由な現実と自由な空想を比較するのは虚しいか。想像しているうちに馬鹿らしくなってくるか。しかし自由に生きるために何を犠牲にしているわけでもないだろう。自由に生きていないのだから何の犠牲も払う必要はないか。それでも何かが犠牲になっているとしたら、それはやはり自由に生きようとする欲求だろうか。それでは循環論になってしまうか。そこで何が足りないのかわからなくなる。あるいはわかりきったことをあえて述べずにいるだけか。君はそれが何だか知っているはずだ。知っているがそれについてはわざと言及しないつもりなのか。わざとではなく、現状では言及することが不可能なのかも知れない。なぜそうなってしまっているのだろう。理由など何もないような気がするが、それでも理由を導き出そうとしているようだ。ただ続けるために言葉を繰り出しているのか。それが目的なのだろうか。そう思ってしまったら終わりか。何が終わりになるのだろう。たぶん何かが終わりになってしまうのだろう。君はその何かをわかろうとしていない。わかろうとするのが面倒なのかも知れない。わかりたくないのか。夜明け前の空は曇っているが、晴れ渡ったらわかる気になるのか。そのときになってみればわかることなのか。たぶん忘れているだろう。何となく馬鹿らしいことを述べているらしいが、気分はすこぶる良いわけでもなく、そんな述べ方がわざとらしいように思える。たぶん何もないのだろう。何もないから無駄に言葉を弄しているわけか。しかしそれであきらめがつくだろうか。あきらめきれないから、執拗に続けようとしているわけか。11月4日話題は果てしなく続くようだが、話題にばかりかまけていてはいけないらしい。だが別に何に心を奪われているわけではない。どこかの誰かは何もないのに書かなければいけなくなる。何を書けばいいのか思いを巡らしているうちに、何もない状況の中で次第に嫌気が差してくるようだが、それでも深夜に目が覚めてしまうわけか。それはどのようなフィクションなのだろう。もうその時間帯にしか言葉を繰り出すいとまがなくなってしまうほど追いつめられているのか。所詮は本業でないわけだ。何かの合間にかろうじて続けようとしているだけか。それでもやり続けようとしているだけマシかも知れないが、気を抜けばすぐに遅れがちになり、時の流れに対応できなくなる。過去の時間帯で悪戦苦闘している状況になってしまう。今もそんな成り行きのようだ。どうにもこうにも疲労と眠気に打ち勝つことはできないようだ。無理なのはわかっているつもりか。やっていることが果てしなくとりとめもない。何について述べようとしても、何となく飽きてくる。そんなことを述べようとしているわけではないことに気づいてしまうわけか。それでも強迫観念の虜になっているように見せかけて、無理矢理心にもないことを述べてしまうのか。自然とそのような言葉が繰り出されてしまうわけか。そしていつものように嘘をついている。どのように述べてもそうなってしまうのだから、それを避けることはできないようだ。だからやり続けることが可能となっているわけか。不可能なことが可能なように、見え透いた嘘をついているらしい。だが本心からそんな風には思っていないのかも知れない。いつもやり終えればしてやったりとでもほくそ笑んでいるわけか。それほどうぬぼれているわけでもないか。何もない空虚でしかない思いをどんな言葉で飾り立てているわけか。それほど大げさな振る舞いではないはずか。ではすべては戯れ言の域で演じられているわけか。何かを演じるほどフィクションに浸っているわけではない。陶酔には程遠いろくでもないことが述べられている。誰かと誰かがどこかで待ち合わせをしているわけでもなく、どこかに用意周到な仕掛けがしてあるわけでもなく、ただ何を述べているのか手探り状態で進もうとしているだけか。どこへ進んでいるのかさえはっきりしていないようだ。なにやらいいわけめいたことを語っているようだが、それが何だかわからない。唐突に言葉つながっていないような気がする。意識はどこかへ流れ去ってしまったらしく、行方知れずの意識を現実の引き戻すことが困難になりつつある。本当にそんな状況なのか今ひとつ確信できないようだが、やはり誰が何を述べているのでもないような気になってくる。意識はどこへ行ってしまったのだろうか。それが無の境地というやつか。冗談もほどほどにして欲しいか。たぶんそんなことを述べていると、気が軽くなったようなつもりになるのかも知れない。軽い気分で軽いことを述べているように錯覚できて、本当な深刻なのかも知れない状況を一時忘れたような思いになれるのか。それで済むのなら好都合なのだろうか。気持ち的にはそうかも知れないが、状況的に追いつめられていることには変わりないか。意識はそうでもないと思いたいようだ。さらにどちらでもかまわないと思いたくなる。とりあえず気晴らしに言葉を連ねられれば、それで満足しなければならないのだろうか。今の状況はそんなところか。限られた時間内ではそれでもかまわないのかも知れない。無限の時間が与えられているわけではないのだから、それに沿った語りになってしまうのはやむを得ないか。やむを得ないがそれでは不満なのかも知れない。できればしてやったりの満足感に浸りたいのだろう。いつもあきらめてばかりでは精神衛生上よくないか。たとえ満足からは程遠くても、少しでも明日につながる希望を見出したいところか。そんな無い物ねだりもいい加減にして欲しいか。別にそれの何が不都合なわけでもないだろう。夢や希望とともに前向きに事態を捉えていないと精神的に参ってしまうだろうか。すでに降参状態なのではないか。何に降参しているつもりなのだろう。つもりではなく本当に参っているのではないか。だいぶ以前から行き詰まっているはずか。それなのに何で続いているのだろう。行き詰まっているのは嘘なのか。単なる誰かの思い違いなのか。君はそうやって何を述べ続けているつもりなのか。それは何でもなく、それらはただの冗談なのだろうか。そうであったなら、少しは救いになっているのかも知れない。たまには本気になっている部分もあるのかも知れないが、その大半は君の思いから外れたことを述べているらしい。たぶんそれらの語りは君個人の所有物ではないのだろう。誰のものでもあり得ず、その場が醸し出す雰囲気を捉えているだけかも知れない。11月3日誰かはそれらの結果に少し驚いている。でもある程度は予想していた結果だし、そうなることはうすうす感づいていたようだ。でたらめな社会がそれにふさわしい誰かを再び指導者として選んだ。形式的にはそういうことなのだろう。平和を愛する人々にとっては信じられないことかも知れないが、それは紛れもなくこの地球上で起こった出来事であり、それは許し難い暴挙に思われるかも知れないが、受け入れざるを得ない現実なのだろう。多くの人々はそれが気に入らないようだが、選ばれた人物にとっても恐ろしいことなのかも知れない。その人物は何のために存在しているのだろう。彼がすべてに責任を背負っているわけではないだろう。とりあえず恐ろしいことを遂行するためには欠かせない最重要人物なのかも知れないが、結果的には誰でもよかったのかも知れない。ベトナム戦争で勲章をもらったことを自慢する一方で、帰ってきて反戦活動をしていた過去を隠していた、ケリーのような中途半端な馬鹿より、親のコネを利用して兵役逃れをしていた馬鹿全開のブッシュの方が、こいつが大統領なら仕方がないか、とあきらめもつくし、そういう人物が大統領に選ばれた方が、かえって平均的なアメリカ人の本音がむき出しになっているように感じられるから、ある意味では潔いのではないか。アメリカ以外に住んでいる人々は嫌な感じがするかも知れないが、アメリカ人なら彼を選んで正解なのかも知れない。彼こそが現在のアメリカを象徴する人間なのだ。そんなわけでそれらのうんざりするような制度はいつまでも維持継続されるらしいが、できることなら誰もがそこから逃れたくなるだろうか。だがそこから逃れようがないことは誰もが承知しているはずか。君はいつまでそれを無視している風を装えるだろうか。無理にそんなことをやろうとしているわけでもないか。それについてどのように語ろうと、否応なく逃れようがないことに気づいてしまうだけか。テロとの戦いという正義が人殺しを正当化するとき、それに異を唱えることがはたして有効なのだろうか。それでどうにかなるとでも思っているのか。また石油を利用した金儲けを優先させることで、人々を死に追いやっている現実についてはどう思っているのだろうか。貧しき人々が小銭を稼ぐぐらいなら人畜無害なのはわかっているが、豊かな人々がさらに豊かになろうとすることが、どうして有害なのか理解できないわけか。それをやればやるほどこの世界がどうにもこうにも救いようがなくなることが、明白になってくるのかも知れない。貧しき者と豊かな者がわかりあえるはずがないだろう。両者の立場の違いは直接の利害関係から生じていることだ。それを生ぬるい愛や平和から変化させようとすることは、現実をわかろうとしないことが現状に適合した態度なのであり、助ける者と助けられる者の関係を固定化して維持継続させる制度なのである。そのようにして愚かになりきることが、この世で生きていく上では有利に働くのだろうか。誰もが愚かならそうなのかも知れない。愚かになりきれない者は絶望と結びつくか。そんな絶望などたかが知れているか。本当にこの世界に見出されているのはそんなことなのか。なぜそんなことを肯定しなければならないのだろうか。何を信じればそうなってしまうのか。たぶんそれを押し通した結果は数年後に明らかになるかも知れないが、明らかにならなければ数十年後には忘れ去られているかも知れない。これからは人々がどれほど愚かになれるか、それを競い合わなければならない時代に突入しているわけか。だが君は本当にそれを実感しているのだろうか。それともそれは何らかの戦略的な意志に基づいたイデオロギー的な思い込みか。君はこれから何をしたいと思っているのだろうか。すでにそれは明らかになっている。誰かはそれを知っていながら無視している。積極的にそんなことを知りたいとは思わないか。知りたいことは宇宙の彼方にでもあるのか。そんなことはわからないが、たとえ現状をどのように解釈しても、これまで通りの世の中が続いてゆくだけかも知れない。誰もそれについてはどう思っているわけでもなく、本当にそれが恐ろしいことだなんて絶対に思わない。歴史上それよりも残虐な出来事などいくらでもあったはずで、誰もがそれに気づいているわけではないが、何かがこれから終焉を迎えつつあるとしても、終わりの時はいつまでも先延ばしにされるだけか。本当にテロとの戦いはまだ終わらないのだろうか。そう思っている人は、嫌な世の中だと感じるだけか。現実にはこれからが本番なのかも知れず、まったく終わる気配さえ感じられないのかも知れない。当事者の誰もがこのままで終わらせようとは思わないだろうが、何となくこのまま続いても仕方がないような気がするのは、傍観者の無責任な感想に過ぎないか。11月2日何を見せつけられているのでもない。どう述べていいのかわからないが、ただ見せかけの姿が見せかけられている。しかしそれを見ようとしているわけではない。だが見えないわけでもない。見えているものはすでに見てしまったらしい。そしてそれを見てどう思うこともなく、やがて時は流れ、今はもう別の時空の中に移動して、何を見ているのでもない。興味はどこにあるのだろう。何を見たいのか。強引に見たいものを思い浮かべようとは思わないか。想像力はどこへ働いているのだろう。何を想像しようとしているのでもないか。何も想像できはしないか。何もしていないようだ。いったい何について語っているのだろう。そんなことはわかっているつもりか。それともわかりようがないか。それを見ることによって何がわかったのか。何かがわかったはずか。君はそれをわかっているはずだ。わかっていなくてもわかっている風を装っている。それが何なのかわかりたいか。あるいはわからなくてもかまわないか。無理にわかろうとしなくてもいいだろう。わかりたいはずがないか。わかりたくなければ何もわからずじまいだろうか。別にわからずじまいでもかまわないか。そんなものには興味がないか。元から何もないのだから、興味も何もありはしないか。その辺がよくわからないか。よくわからないがやはり何も述べてはいないようだ。何を述べたらいいか迷っているわけか。それを肯定的に解釈すればそういうことになるだろう。しかし何を肯定したらいいのだろう。はたして肯定できるものを持ち合わせているだろうか。何かを肯定できるとしたら、それは以前に想定された範囲内での肯定なのか。以前とはいつ以前のことなのか。本当にそれを肯定していいのだろうか。例えば虚無に包まれている現状を肯定してどうするのだろう。なぜそれが虚無だと感じられるのだろう。そんな風にしてどこへ逃れ去ろうとしているのか。現状を捉えきれずに、苦し紛れにそれを虚無だと見なして否定しているだけではないのか。虚無という言葉の使用は現状を否定的に捉えていることになるのだろうか。それを肯定するには、虚無ではなく少なくともそこに何かがなくてはならないのか。そこに何かがあることを言葉で示さなければならないか。しかし何もない現状をどうやったら肯定できるだろう。何もなくはないだろう。必ずそこには何かがあるはずか。例えばそこには空気があり、ある種の雰囲気が漂っている。それはどのように感じられるのだろうか。あるいは何の気配も感じられないか。現状はどのような精神的境地を導いているのだろう。本当に何もなければそれは無の境地ということか。無の境地とは仏教的には虚無ではないはずか。別に仏教を信じているわけでもないが、無の境地に至ればどうなるというのか。何らかの悟りを開けるわけか。それで何を悟っているというのだろう。万物は流転し変化し続け、決して一つの場所に思いがとどまることはないということか。そんな言葉で何を悟っていることになるのだろうか。悟りとはそういうものではないのか。何となく冗談のように思えてくるが、それの何が間違っているのだろう。どうもまだ何も述べているわけではないような気がしてくる。何かを述べるに至ることを避け続けているようだ。なぜそうなってしまうのだろうか。ボブ・ディラン風に答えは風の中にあるからか。そんな決まり文句で満足できるはずもないか。まだ風の中にあると決まったわけではないだろう。例えばそれは心の中にあるのかも知れず、また人の意識が及ばない外部にあるのかも知れない。だがそれでも何を述べていることにもならないか。結局はそれがどこにあるのかわからずじまいになろうとしている。言葉だけではどこに至ることもできないか。それはどのような境地でもなく、ただ物事の表面をそれ風の言葉でなぞっているに過ぎないのか。それで何がわかるのだろう。わかるはずがないと思いたいわけか。それは当たり前のことで、言葉はそれをわかるためにあるのではなく、事物の前に障害物を打ち立て、それが何だかわからないようにしているだけのようだ。言葉を弄してわけのわからない迷路を作り上げようとしているわけか。あるときはそれを大げさに見立て、またあるときはそれを隠蔽し、さらには肯定したり否定したりする。要するに絶えず事物を都合に合わせて歪曲しようとしているのか。しかしそれ以外に物事を表現する手段があるだろうか。たとえそれに音や映像を付け足しても、それの延長上にあるのに過ぎないのではないか。では何となく本当らしく見せようとしているそれらの行為をどうやって肯定したらいいのだろう。現状では肯定するのも否定するのも言葉を用いてするしかなさそうだ。しかしそれでは現状から逃げていることになりはしまいか。そんなことはわからないか。11月1日どこかの誰かは批判することは否定することではないと述べたいようだが、意識は当然それとは違うことを思っている。感情的には他人のやっていることを否定したいわけだ。確かに理性によってもたらされた虚構の思いは否定する行為を拒絶しているかも知れないが、はたしてそれを続けることができるだろうか。それでも理性に逆らって否定しようとするなら、今さら何を否定したいのだろう。要するに何でもいくらでもあらゆることを否定したいのだろうか。そのような思いを君はどうやって押さえ込んでいるのだろうか。本心から押さえ込んでいるはずがないか。理性などという概念はまやかしに過ぎないか。そんなものは嘘に決まっているだろうか。ところで君はそこから何か変化するきっかけを見つけたのだろうか。意識はそれにふさわしい言葉を探しているようだが、今のところは何も見あたらない。では今の気分はどうなのだろう。何かを否定したくて仕方がないのだろうか。だが否定する対象がどこにあるのだろう。それを見つける気はないようで、また他に何もやる気もしないようで、何となくいつもの性懲りもない無気力な精神状態が続いているらしい。まるで自分のことが他人事のように感じられるのもいつものことだろう。そうやって誰かはまた同じようなことを述べているのだろうか。それは誰かではなく君のことなのではないか。何を執拗に問いただしているのだろう。別に執拗というわけでもないか。架空の君のことなど誰も知りようがないのかも知れないが、それを強引にねつ造すれば、相変わらず君も誰かと同じように何を求めているのでもないらしい。さっきまでは変化するきっかけを求めていたのではなかったのか。それは気まぐれなその場の思いつきに過ぎないのであって、たぶんそれが嘘であることは言うまでもないか。ねつ造しているのだから嘘に決まっているだろう。ところで君は何をねつ造しているのだろう。確か君に関して知り得たことをねつ造していたはずか。架空の君の思いを言葉によって構成しようとしていたのだろうか。それら作業はそんなことに過ぎないのか。とりあえずそれに関してそれ以上はどうにもこうにも何も述べる理由はなさそうで、実際には適当にそれ風の言葉が連なっているだけのようだが、現実には意識は何を述べているのでも語っているのでもないようだ。しかし何かを述べたり語ったりするということはどういうことなのだろうか。今さらそんな問いはないか。それについて強引に述べるならば、気まぐれにわざとらしいことを語るならば、昨今の相次ぐ台風や地震などによってもたらされた災害や、またテロとの戦いという名のむごたらしい戦争の泥沼状態などからわかることは何だろう。人々がそこで何を訴えかけているのかといえば、やはり命の尊さということになるだろうか。確かに一般的には命は尊いものなのかも知れない。そんなことは当たり前のことだろうか。しかしそういう述べ方は悪意に満ちているかも知れない。本心に逆らってわざとありふれたことを述べようとしている。また君はくだらぬやり方で他人の気持ちをもてあそぼうとしているのだろうか。とりあえずどうあってもひねくれたことしか述べられないらしいが、本当にそんなことを実感しているわけではない。ではそこからいったい何を語りたいのか。今のところ何を語ろうとしているのか不明のままか。いったい君は何を述べたいのだろうか。おまえらみんなおかしいぞ!と叫びたいのか。本当にそんな風に思っているのか。しかしこの世界に暮らす人々がおかしくなかったら、何も思うことはなくなってしまうか。それ以外に何を思えばいいのだろう。そんなことがわかるわけはないか。何をわかろうとしているのか意味不明か。そんなことはわかりきったことだ。ひねくれ者の君は冗談で命の尊さを実感しようとしているらしい。そのような語り方は嘘っぽい響きを伴っている。どうしても本気になれない。本当は何を実感しようとしているわけでもないのだろう。何の実感も伴わずに言葉だけがいい加減にうねっているだけか。それらの文章は適当な揺れとともに振動している。そんな風に語りながら心は何を動揺しているのだろう。何も導き出せずに困惑するばかりか。だがそれでも命があるだけも儲けものなのだろうか。誰もそんな風に思うことはないだろう。平和なのだから仕方がないか。だがわざと嘘をついている状態では何をどう述べても冗談になってしまうだろう。本当はそのような環境に暮らしているわけではない。どこまでも果てしなく出来事が連なっているただ中でどうしようもなく生きているだけか。この世は次から次へと矢継ぎ早に予定や予期せぬ事態が目白押しなのかも知れない。命がどこにあるかなんて誰も知りはしない。それはどこかにあるようなものではないか。10月31日それは何かの映像だろうか。枯れ葉が舞っている。それは絵かも知れない。いつまで経っても何も思いはしないか。そんな状況に浸っているだけか。なぜ妄想を言葉にできないのだろう。何に執着しているわけではない。偶然がそうさせているのかも知れない。しかしそれが幸運であるわけがないか。奇跡が起こることを望むのはよくないらしい。偶然は偶然にしか起こらないものだろうか。それを偶然と見なすならばそういうことになるだろう。なぜそれを奇跡だと見なしたいのか。だが依然として偶然は偶然でしかない。なぜそれは偶然でしかないのだろう。偶然に何が訪れているのだろうか。たぶん何も訪れてはいないのだろう。それは偶然ではないような気がする。何となく必然的な成り行きに思われる。それが偶然であることを信じられないのか。何らかの原因を探したくなってくる。何かを取り違えているのかも知れない。ただそれはそうかも知れないというだけで、本当のところはわからないが、そんなことはどうでもいいことなのだろう。それは単に信仰の問題なのかも知れない。要するに怠惰な意識は思考することを怠り、それを信仰の問題として片づけたいわけだ。では何をどんな風に信じれば満足するのだろう。その偶然を奇跡だと信じていれば幸せになれるか。幸せになってどうするのか。どうにもなりはしない。ただ幸せになるだけか。だがそんな風に思いを簡略化していいのだろうか。ただそう思うだけのことなのか。現状を幸せに思ったり、不幸せに思ったりしていれば、それでいいのだろうか。本気でそう思っているわけはないか。ただ部分的に、とりあえずの思いとして、あるいは戯れに、間に合わせの思いとして、そんな言葉を用いてそのときの思いを表現しておけば、それでいいのだろうか。それでいい場合もあるだろう。そんな言葉で気が済む人もいるはずだ。それらの感情を愛だの恋だのと呼んでいれば間に合ってしまう人もいる。ではどうしてそんな言葉を平気で使ってしまう人を馬鹿にしようとするのか。誰が馬鹿にしようとしているのだろう。またそこに架空の人物を設定しようとしているのか。誰が設定しようとしているのだろう。何となく本筋から逸れてしまっているように思われる。もうそこで話は終わっているのではないか。しかしそれで何がわかったことになるのか。何もわからずじまいだろうか。それとも何かしらわかった気がするだろうか。誰に尋ねているのだろう。確信には至らない。それははじめから欠けているものだ。何らかの試行錯誤によって確信に至ろうとしているわけではない。自らの現状を幸福だと思うことはある種の勘違いなのかも知れない。盲目になっている自らに気づかないだけではないのか。しかしそれでも人は進んで盲目になろうとするだろう。現状を肯定するということは、そこで思考を放棄することなのか。歩みを止めて、そこで眠りにつき、自分勝手な夢を見続けようとすることなのか。だが現状の不具合をいつまでも無視し続けることができるだろうか。不具合から必死になって目を背け続けることが本当に幸福なのだろうか。それは幸福であると同時に不幸でもあるということかも知れない。幸福でも不幸でもどちらでもかまわない。その状況に浸っている当人には何らかの確信があるのかも知れないが、それはただ信じて疑わない姿勢を賢明に維持しているだけなのかも知れない。無理に作り笑顔を絶やさないようにしているのと同じことか。確かにそうやって自己満足に浸っていれば幸福でいられるのだろう。しかしなぜそれが欺瞞に思われるのだろう。なぜそれらの幸福が不快に感じられてしまうのか。何となく悩むことを怠っているだけのように見えてしまうのはなぜなのか。悩んでも仕方がないだけか。誰に不平不満をぶつければいいのか。そんな対象などどこにもありはしないではないか。誰が何をやってくれるわけでもないだろう。今さら何に頼るわけにもいかないはずか。そんな状況の中で無理に自己正当化する必要があるだろうか。何をやってもどうにもならないのに、その上どんな自己を顕示すれば気が済むのだろう。どうして認められたいのか。認められる対象がどこにあるのか。だがそれらを否定すればきりがなくなってしまうか。ならば適当なところで妥協して、幸福になった方が得だろうか。しかしそれが幸福といえるだろうか。そんな幸福などいらないか。幸福も不幸もどちらもいらないか。いらなくてもどちらかの状況になっているはずか。他人からどう思われようとどうしようもないか。別に何を求めているわけでもないのだから、積極的にどのような状況に至ろうとしているのでもない。たぶんいくら言葉を連ねても何を獲得することもないだろう。ただそうしているだけなのかも知れない。10月30日たぶん翌日の空は曇っているだろう。すでに翌日になってしまっているようだ。それは架空の君には関係ないことかも知れないが、これから何を語ろうとしているわけでもないが、とりあえず今日も世界の片隅で人が死んでいるようだ。だが別に君が死んでいるわけでもないか。なぜ他人の死が君に関係あるのだろう。死んだ人が君と同じ国民だからか。たぶんそんな関係で他人の死に興味を持つのかも知れないが、仮に君が死んだからといって、誰が騒ぎ立てるわけでもないか。それは君の死に方にもよるだろう。他人が注目するような死に方なら、興味を持たれるのかも知れない。というよりニュースで取り上げられるような死に方なら、その死は大げさに騒ぎ立てられるのだろう。別に騒ぎ立てられれば死んだ甲斐があるというものでもないだろうが、無視されるよりはマシなのだろうか。死人が何を思うわけでもないか。その死人はもう君のことなど忘れてしまったか。君は気まぐれで死人のことを思い出そうとしているようだが、死人は君のことなど何も覚えていないはずか。だいいち君は死人とは面識がないだろう。ただニュースで死人が生存中の映像を見ただけではないか。何か囚われの身で助けを求めていたような気がするが、記憶はそれ以上のことを覚えていないらしい。おそらくあと何十年も経てば誰が何を覚えているわけでもなくなってしまうのだろう。それでも誰かが何か覚えているはずか。死人は自らを忘却の対象として語られたくはないか。いつまでも自らの死を覚えていて欲しいだろうか。いったい誰が覚えているのだろう。覚えている人も死んでしまったら仕方がないか。では死ぬ以前に有名人にでもなっておけばよかったのだろうか。今さらそんなことを述べてみても後の祭りだろう。たぶん君は死人を題材にして何を語ろうとしているのでもない。他人は何を覚えているのだろう。君は死んでもあの世で強引に語っているのかも知れないが、誰がそれを語っているようにも思えないか。生きている人間には何もわかりはしないだろう。架空の人物がそれを語ってしまったら、生身の話者は他に何も語れなくなってしまうか。なぜそんな風に思うのだろう。案外今がそんな状況なのかも知れない。誰が語っているわけでもないのに、なぜかつまらない話が進行中のようだ。その中で誰が生きているのだろう。すでに誰かが死んでいるのではないか。そんな話は嘘に違いないか。それらの物語の中では誰も生きられないと思いたいのか。では君はなぜこれ見よがしなことを語ってしまうのか。それが商売だからか。そんな商売はごめん被りたいか。ちょっと待ってもらいたいか。君が何を語っているのかわからないだろう。それはいつものことなのではないか。それはいつの講演での話なのか。詳しいことは何も伝えずにそんな風に話を進めてしまうのは卑怯か。そのようなやり方でしか言葉を繰り出せないのだから、それはそれで仕方のないことか。しかしそれでは意味不明だろう。では意味不明のついでに、いつも待ち合わせ場所は夢の中にあるらしい。しかし昨晩はどんな夢を見たわけでもないのだろう。まだ夢の中には何ももたらされていないか。深夜に目が覚めたら、ただ雨音が激しくなってきただけのようだ。それは昨夜の記憶だろうか。覚えているのはそんなことでしかないが、それがどうしたわけでもないか。それで何が変わるわけでもないだろう。何を変えようとしているわけでもない。雨水で何かが浸食されているのかも知れない。それで何を捉えていることになるのだろう。いったい何を述べているのか。そのわけのわからなさが誰かの限界を露呈させているのだろうか。それは限界ではないのかも知れない。何かの可能性だと思いたいのか。例えばそれは心が虚無に浸食される可能性か。すでにそんな状態なのだろうか。ではそれを誰に見せたいのか。それは何かの舞台なのだろうか。舞台の上から何を見せびらかしているのか。意識は何も述べられずに空腹感が増して行く。そんな飢餓状態がもたらされているのだろうか。ただそう思いたいだけか。どうやってその思い込みを捨てられるだろうか。どんな風に語れば満足するのだろうか。たぶんそのときの意識はおかしなことを述べていたいのだろう。だが文章になっていないのかも知れない。そのときの気分は言葉にはならない。しかし言葉にならない思いは歌になるわけでもない。崩れたままさらに崩れ去るだけかも知れないが、何を崩そうとしているわけでもなく、それはただ自然の作用なのか。もたらされているのはそんなものでしかないのだろうか。少し息継ぎが必要かも知れない。だがそれ以上の生存は不可能だろう。すでに誰かの首は切断されていたらしい。10月29日何となくわからないが、どうやら無駄なことを述べようとしている。それの何が気に入らないのか。なぜ夢の中で追われていたのだろう。いきなり夢の中はないかも知れないが、思うように終われないから、終わりから追われていたのだろうか。現実には時間に追われている。なぜか筋肉痛で目が覚める。さっきまで夢を見ながらあえいでいたようだ。振り払っても振り払っても何かが追いかけてくるのだが、その夢は何を暗示していたのか。両腕がしびれている。しびれている理由はわかっているが、別にこれからそれを述べようというのではない。どうもこれから作業を再開しなければならないようで、机に座れば当たり前のことだが画面が傾いている。傾いた画面をしばらく眺めながら、まだ何を述べているのでもないらしいことに気づく。そこから文字以外に何が見えているわけでもなく、別に開き直っているわけでもないが、君はそこに書かれた嘘を無視している。この感覚は何だろう。何が感覚なのか。腕がしびれている感覚が何を呼び込んでいるのだろう。未知の冒険か何かか。それが冒険とは言い難いが、冒険とは何だろう。何が冒険なのか。でまかせに何を述べているのでもないが、ただ繰り出された言葉が現状に合っていないだけか。だがこれからどんな言葉が提示されようと、そんなことは感知しない。別にどんな言葉が提示されるわけでもないか。どうもまたいつものパターンにはまっているように感じられるだけか。当たり前のことしか述べられない状況下では、それ以外に何も述べる必要はないのかも知れない。だから不要なことを述べようとするのか。何がだからなのか。そういう状況が気に入らないからそうなってしまうのだろうか。何となく述べていることが馬鹿らしく思われるとき、そんな思いに逆らって別の何を述べようとしているのだろう。しかしまだ何も述べられないのか。苦し紛れにいい加減なことを思いつく。誰が輝ける太陽なのか。それはどこかの詩の一節かも知れないが、そんな思いに至るはずがない。なぜそうやってすぐに否定するのだろう。今が夜だからか。もうすぐ夜明けだ。だがそんなことを語りたいわけではない。無言の君には輝ける太陽が必要かも知れないが、まだ夜だから夜明けを待てばいいだろう。夜が明けてしまったらまたいつもの日常が始まるだけだが、それとは別の太陽が、架空の人格を伴って、文字と文字の境目に出現しようとしている。そんなのは嘘か。醸し出されているのは人格ではなく、暗闇の雰囲気でしかない。太陽は暗闇ではないだろう。そこに出現しているのは単なる文字の羅列か。羅列とは何か。暗がりの中でその意味を調べるのは面倒か。何が太陽であるわけでもなく、面倒なのでとりあえずどう述べていいのかわからないと述べておこう。しかしそれでも述べている。突然なぜ太陽という文字が出現するのか。それがわざとらしくも意味不明に思われ、だんだん投げやりな気分になってくる。太陽などどうでもいい言葉に過ぎないか。そんな現状が馬鹿らしく思われ、無理矢理文章を構成しようとしている現状に突き当たる。疲れているのかもしれない。何もなければ疲れるはずがないが、それでも疲れている。そんなことはわかりきったことか。なぜ当たり前のことを当たり前のように述べなければならないのか。そんな風にしか述べられないのだから仕方ないだろう。ここで焦っても仕方がない。何かが変わろうとしているように思いたいが、繰り出された言葉は一向に変わる気配がないようで、誰かの思いはことごとく裏切られているらしい。文字を読むたびに脱力感が増していくだけか。しかしそれに苛まれているわけでもないか。たぶん結果的にはそんな成り行きによって意識は生きながらえているのかも知れない。架空の意識がいい加減な思いとともに文章の中に存在し続けているわけだ。それを可能としているのがそれらの無駄や無意味なのだろうか。もちろんそれで満足しているわけではないが、そのような過程を経ながら言葉が繰り出されている現状があるだけか。それを否定したければ、別の述べ方でも模索すればいいのだろうか。そんな風には思いたくないが、その状況から逃れられないことは確かなようだ。やはりそれ以外にやりようがないのか。そうとしか思えないのはどうしてなのか。それはどういうことなのか。そんな問いは無意味かつ無駄であるだけか。ならばそこから何をどう展開させればいいのだろう。何を苛立っているのだろう。どうやらまだあきらめの境地には至っていないらしいが、そんな境地に到達してはまずいだろうか。ではどうすればいいのか。例えばそれが何らかの病に関連づけられたら少しは救いになるか。だが今さら気の病もないか。10月28日君が何をどう語ろうとしているかはわかっている。だがもうその語り口は飽きているかもしれない。いつまでも変化するきっかけをつかめずに、また同じようなことを述べようとしている。そこからどのように変わりたいわけでもないらしい。また何が見出されるわけでもないようだ。つかの間の時間はもうそこで終わっているはずだ。過ぎ去っているのは時間だけではなく、そこにあるのはどのような見解でもない。たぶんまだ何も見出されてはいないだろう。ただ無駄に時間は費やされ、同じような言葉がどこまでも循環しているだけのようだ。そしてまたいつものように否定的な感慨に突き当たっている。もたらされているのはそんなものでしかない。だがそんなメッセージはもう忘れている頃か。あれからだいぶ時間が経っている。忘れられるはずがないだろうか。別に忘れようとしているわけでないが、その忘れられない出来事を誰に向かって語っているわけでもないらしい。また何が語られているわけでもないようだ。それもいつものことなのだろうか。いったい何を否定しているのだろう。何事も都合よく考えなければ息がつまるか。都合よく考えられないから息がつまるしかないようだ。では息がつまれば窒息してしまうわけか。それは架空の出来事かも知れない。頭の中がこんがらがっている。わざとそのように語っているだけか。しかしまだ何も見いだせないのか。とりあえず正気の沙汰ではないらしい。支離滅裂に言葉が散らばっているようだ。それはいつもの嘘だろう。以前からそうなのかも知れない。それでも何かしら述べているわけか。誰かが何か適当なことを述べている。別に君が述べているわけではないのか。君はこれからどうなることを求めているのだろうか。相変わらず何も語れずに迷っているだけか。何を語ろうとしているわけではないのだから、それは仕方のないことだろう。取り立てて何かを語るような状況にはなっていないのかも知れない。その何かがないのだから語りようがないか。ないのではなく見いだせないだけか。見いだせないのではなく導き出せないのだろうか。どちらにしろそれができないのだから仕方がない |