彼の声43

2004年

7月31日

 そこに理由などありはしないだろう。それは理由にはならない。別に理由を探しているわけではない。しかしそれが理由になりうる条件とは何か。ただ小難しいことを述べたいだけなのか。それのどこに言説の連続性があるというのか。どこからか寄せ集めてきた言葉をただ適当に組み合わせて文章を構成しているに過ぎない。はたしてその文章の中にやめる理由や続ける理由が隠されていたりするだろうか。何やら的外れでわかりにくいことを述べているのかもしれない。目の前に存在しているものについて何を述べたらいいのかわからないか。何が現前しているわけでもないだろう。現れつつあるのはそれらの現実か。それらとは何か。君は何を求めているのだろう。それは逃げ口上の一種になるだろうか。わかりやすく説明しなければならない義務から逃げているわけか。面倒なので義務は果たされないかもしれない。面倒なのではなく、単にできないだけだろう。何かが出来損ないつつあるように思われる。出来損ないも一つの結果なのだろう。その逸脱の仕方が毎度おなじみになっているのかもしれない。それらの言葉の連なりが演じようとしているものは文章の出来損ないなのだろうか。それが一定の技巧として確立されているかは不明だが、なんとなく底が浅いやり方だと思われる。それは見え見えのやり口なのだろうか。魂胆は何なのか。ただ継続を企んでいること以外に何があるというのか。君はそれらの出来事から何を学んだのだろう。具体的な事件が欠如しているのにも関わらず、その不在の事件について述べることができるということか。しかし相変わらず何を述べているわけでもない。何も述べずに言葉を繰り出すやり方が確立されているわけか。そんなことはあり得ないかもしれないが、あり得ないからこそ、それが不在の事件になりうる。だがそんな表現はまやかしだろう。常識に馴染んだ意識にとっては、ただ粗雑なことを述べているだけのように思われる。論理的整合性を備えた思考に照らし合わせれば、稚拙な論理で取り繕っているだけのようにも思われる。要するに何をどう述べてみても、ごまかし以外の何ものでもないということか。そう思いたければ思っていればいいだろう。思うことならいくらでもできるか。ただ思っているだけでは何もできないだろう。思っていることを実行に移さなければ、何もやっていないのと同じことか。だが何もやらなくてもそれで済むなら、無理して何かをやろうとするよりは楽かもしれない。では思っているだけで何もやらなければいいだろう。やってもやらなくてもどちらでもかまわないであり、やったらやったでなにがしかの経験になるだろうし、やらなければやらなくても、それも一つの判断であり、経験なのかもしれない。しかしどちらでもかまわないなら、それ以後は何をどう述べればいいのだろうか。ただわからないということ以外に何を述べられるだろう。君はそんな状況を虚しいと思うわけか。君にとってはまったく肯定することの不可能な状態なのだろうか。だからどうだというわけでもないだろう。またいつもの決まり文句に到達してしまうのか。そして疲労感とともに虚無に包み込まれて、途方に暮れてしまうのがいつものパターンとなっている。そこまで述べたらそれでおしまいなのか。それではあまりにも安易だろうか。やはりそこから先へいかなければ倫理的に許されないか。何が倫理なのか。誰が君を許さないのだろう。それについて何か心当たりでもあるのだろうか。動揺を隠せないふりをしている。あえていつもの決め台詞で述べるなら、何を述べてもそのすべては冗談なのかもしれない。それでは身も蓋もないだろう。そしてそこまで述べる理由などどこにもありはしないか。


7月30日

 別に気晴らしを求めているわけではないが、気を紛らす暇がどこにあるのだろう。何もないのに何かがあるように装っているのは手品の類か。それでも何を述べているのでもなさそうだ。そこに何があるわけでもないが、それでもそこにあるのは何なのか。そんな問いに誰が答えられるというのか。どうやら何も求められてはいないようだ。求められてもいないものを誰がもたらしてくれるというのか。読んでもいない文章について何を述べればいいのか。その気があればこれから読んでみればいいだろう。もちろんその気もないのに読むことはないだろう。誰が読んでも誰が読まなくてもかまわない。すでに読み始めているとすれば、そこで読むのをやめてみよう。やめたからといって誰が困るわけでもない。それを読む読まないはその人の勝手にまかされている。面倒なので読ませようとする気が起きない。どんな誘惑の種を用意しておけば読んでくれるのか。そんなことをしようとしているわけではなさそうだ。ただ言葉を繰り出すだけで精一杯か。そんな方向に語りたいわけではないが、そうなってしまうのだからどうしようもない。そこら何をどうしようというのか。これが漫画なら適当な戦いが用意されていて、読む者の気を紛らしてくれる仕掛けになっているのだろう。またこれがテレビドラマなら、適当な感情のぶつかり合いが暇つぶしのネタとして提供されているわけか。いったい誰がそれを望んでいるのだろう。だが君はそれの何を批判しようとしているわけでもない。それ以外に何があるというのか。それは君の決まり文句でしかないだろう。たぶん君にもそれ以外は何もないのかもしれない。そういった見せ物にそれ以外を期待するのは筋違いかもしれない。では君はそれ以外には何を見ているのか。画面以外に何を見ているのだろう。日常の風景にはそれ以外の何があるのだろうか。ただつまらぬ諍いが連続しているだけか。それはそう思いたいのなら思っていればいいことでしかないか。人は人とは別のものを見ている。そして見るのが飽きたらやめればいいだろう。詩的な雰囲気でも醸し出したければ風の音でも聞いていれば事足りるだろうか。そんな回りくどいことなどやりたくはないか。実際に言葉で文章を構成しているではないか。現実には何を聞いているわけでもないだろう。ただ音楽とエアコンの音以外に何を聞いているのだろう。エアコンはさっき切ってしまったはずか。風はだいぶ前からやんでいるらしい。それでも何かの音を聞いているふりをしているのは君とは別の人格を持った人か。やはりそれは回りくどい文章表現かもしれない。途中で破綻しているように感じられるが、始めからおかしなことを述べていたかもしれない。たぶん何を述べようとしていたわけでもなかったのだろう。それらのどこかに何らかの告白が含まれているかもしれないが、意識にはそれを捉えることができずに、いつもの空虚をつかんで、何もないことを嘆いているだけなのか。それで事足りるのならそれに越したことはないか。たぶんそれで済まそうとは思っていないのだろうが、それ以外に何もないのだとしたら、どうするべきなのか。どうしようもできずに行き詰まってしまうわけか。それでもかまわないだろう。それ以外に何もできないのなら、それをひたすらやり続けていればいいだろう。気が済むまでやっていればいいと思うが、気が済むことなどあり得ないか。とりあえず気が済んだときが終わりの時なのかもしれない。そしてだいぶ前からその終わりの時を執拗に先延ばししているような気がする。なぜそうしているのかはわかっているのかもしれないが、わかっていながらわからないふりをしているわけか。あえてその件については触れないようにしているだけか。それに触れて、それについて述べれば、そこで終わりなのだろうか。それは実際にそうなってみればわかることか。


7月29日

 終わりの時が近づいているかもしれないのに、何をぐだぐだ言い訳を続けているのだろうか。何が終わろうとしているのかわかっているのにわからないふりをする。なぜか不思議なことを述べている。たぶんここからが腕の見せ所なのかもしれないが、期待は裏切られるために存在するらしい。もちろん何を期待しているのかわかっているのにわからないふりをする。やり方を変えなければ、マンネリからは抜け出られないような気がしてくる。しかし何をやればいいのだろう。そんなことを述べているうちに眠くなる。眠気に打ち勝つことはできないのだろうか。やはり何をどうやっても同じことしか語れないように思われてくる。今回もまともな内容には巡り会えないままに終わってしまうらしい。だいぶ前から間違っているのかもしれない。わかりきったことを今さら述べてみても何も始まらないだろうが、それでも強引に始まっているような気がする。何かを始めているつもりなのだろう。だが誰が何を始めても放っておかれるだろう。そんなことには興味がないと思われるだけか。君の思いは誰の思いでもないが、誰かの思いを真似している可能性もある。おそらくマンネリを脱することはできないだろう。マンネリの中で自己満足に陥っているのだ。急に頭が冴えてきたと感じるのはたぶん思い違いだろう。その何気ない仕草に意味も意図もありはしない。ただ何気なくそれを繰り返していることに何の目的もない。君が他の文章から抽出してきた言葉は、それらの意識には馴染まない類のものだ。それらはほとんど固有の意識を持たず、機械的な動作を繰り返す人々かもしれない。日常生活を送るだけなら意識などいらないのだろうか。却って意識や思考が生活の邪魔をしている場合もあり得るかもしれない。ただ何も思わず何も考えずに生きていけたら、どんなに楽な人生が送れることか。それは何かの冗談だろうか。気楽な思いはそれらとは決別すべきなのか。それらとは何なのか。決別すべき理由がどこにあるのだろう。決別すれば肩の荷が下りてさらに気楽になれるかもしれない。それらの思いを同じ状態に保つことはできない。感情はどこまでも意識を引きずってゆき、とりとめのない心理状態に自らを追いやってしまうだろう。何をやっていても、そのやっていることなど何の価値もないような気にさせる。何がそうさせるのか知らないが、何かそうなる必然性でもあるわけか。絶えず試行錯誤を繰り返しているように装い、試みに繰り出す馬鹿げた言葉の暴走には歯止めが利かないようだが、別に意識の内部が欲望で煮えたぎっていることなどあり得ないか。なぜ突然そこで欲望が出てくるのだろう。そんな風に述べれば、冗談で述べているつもりになっていることに気づくだろうか。ただ単に言葉に詰まって意味不明に逃げようとしているらしい。いつも君はそんなことを述べているのか。それらの言説には何らかの規則性でも見いだせるだろうか。では戯れにそれを導き出してみればいいわけか。その気もないのに、戯れにそんなことを述べているだけのようだ。しかしそれ以外に何を述べればいいのだろうか。そんな問いにも飽きてきた。何がそれを要求してくるのだろう。ではもういい加減にやめて欲しいと誰が思うだろうか。たぶんどこかで誰かが思っているかもしれないが、その思いがここへ届くことはないだろう。ここには誰もいないので、意識も思考もありはしない。それでもそれがあると思われるとしたら、それは君の意識でも思考でもないということだ。しかしそれはどういうことなのか。君とは関係のない誰かの意識や思考がここ以外のどこかにあるかもしれないが、それらについて何を思い、何を考えればいいのだろう。


7月28日

 君の思いとは関係のない言葉が散らかっている。そこで君は何にこだわっているのか。つまらない話はどこまでもつまらないだけか。何を語ろうとしても無駄か。相変わらず何を語っているわけでもなさそうに思える。どこで何をやっているのかわからない。それでも地道な努力はどこかで実を結ぶはずか。そんな信仰に興味はない。確か誰かはそんな展開が大嫌いなはずだ。だから繰り出される言葉に君のものはない。夏の空には積乱雲が立ち並ぶ。たぶん今は夜だろう。夜空は雲に閉ざされている。今にも雨が降り出してきそうに思える。誰かの眼は曇り空を見ているようだ。だが君にとってそれは架空の話のように思える。空を見るには何か理由が必要なのか。ただきれいだから見ているだけだろう。何をやるにも理由が必要というわけでもない。理由がなければ、ただ何となくやっていることばかりのような気がする。やっていることに現実感がない。しかし現状に対して何を思えばいいのだろう。誰が何を思えば君は納得するのか。たぶん誰かが君の思わないようなことを思っているのだろう。だがそれが何もやらないことの理由にはならないだろう。ただ何もできないだけなのかも知れない。理由がないなら勝手に作ればいい。ではそこにどんな理由を捏造できるだろう。仮にできたとしてどうなるというのか。仮の理由ではなく本当の理由を知りたい。理由を知れば何となく安心するかも知れないが、それが本当の理由にはなりそうもない。知りたいのではなく、切実な理由を求めているのかもしれない。だがどうやってもそれがもたらされる状況には至らないようだ。なぜそうなってしまうのか。そのとき君は何を思い出しているのだろう。思い出しているのではなく、適当な記憶を捏造しようとしているだけだ。人影のまばらな通りを抜けて、誰かの車はいずこともなく去ってしまう。別に車に用があるわけではないだろう。たぶんそれは思い出された情景などではなさそうだ。ただ今日も君の意志とは関係なく中途半端に言葉が連なろうとしているだけか。それらの現状は予定調和の成り行きになっているだろうか。予定調和だと思いたければそう思われるかもしれないが、どう思ってみても、誰も君の思いにまでは介入してこないだろう。もちろん影は何も語らない。なぜ語る必要があるのだろう。老人は遠い日々を思い、黄昏れた現状は言葉から見放されている。現状とは何か。現在の状況が現状なのだろうか。それが何なのかわかりかねるが、他の誰かにとっては何でもないと思われる。誰に老人の気持ちがわかるだろうか。わかろうとすればわかるかもしれないが、わかったからといってどうなるわけでもない。いつの間にか夜を通りすぎて、晴れた時には午後の日差しを受けて影ができる。それが君の影の正体か。正体は君自身だ。影は何色に見えるだろう。そんな問いに意味があるとは思えない。では薄暗い物陰から何を出現させれば現実になるだろうか。何を出現させてもそれは現実にはなり得ない。そんな断言を誰が信じるのか。現実にはそこで誰かが言葉を記述しているだけか。その誰かとは君のことなのか。しかしそれが本当の現実なのだろうか。記述しているのは文字だろう。では文字は言葉なのだろうか。文字の組み合わせによって言葉が生じ、言葉の組み合わせによって文章が生じる。もちろんそれで何を述べているのでもない。ただ適当に文章が構成されるだけだ。しかしそれが構成されているといえるのだろうか。構成からは程遠いバラバラな状態かもしれない。たぶんそれでも何らかの構成なのだろう。


7月27日

 いつの間にか多様な言葉はどこかへ去ってしまい、文章が朽ち果てようとしている。歳月は気ままな境遇を許さない。何かに追い立てられて、気がつけばどうにもならない状況のただ中でもがき苦しんでいる。しかしそれでも身勝手な期待を抱いているようだ。誰かはいつまで経っても悪あがきをやめられないらしい。あきらめの境地にはどうやったらなれるのだろう。いくら努力しても何がどうなるわけでもない、とは思いたくないのだろうか。突き詰めればどこかに突破口が開いているような気がするのは幻想か。ただ漠然とした思いに囚われていて、気持ちにめりはりがない。それは何かの悩みなのだろうか。何をどう述べてみてもしっくりこない。やはり何を述べればいいのかわからないが、何がやはりなのかもわからない。ここしばらくはまともなことを述べていないような気がする。繰り出された言葉が文章を構成していないような気もしている。そして何かがおかしいと感じられるが、それはいつものことのような気もする。なぜ夏は暑いのか。それは幼稚園児のような疑問か。おおざっぱに考えるとすれば、地球の半分が夏ならもう半分は冬だろう。それでは疑問の答えになっていないだろう。何を述べているのだろうか。別に夏が暑くても何の不思議もありはしない。そこには何か記号論的な目論見でもあるのか。いったい何が記号論なのか。確か薔薇の名前は記号論を扱っていたはずだ。そんな書物とは関係なく、ばらばらな思いはばらばらな言葉を導き出すだろうか。そこで助けを求めても助かるとは限らない。誰が助けを求めているのでもなく、誰が助かるわけでもない。簡単なことを難しく考えようとする傾向にある。修行僧は荒行の最中に空耳を求めているらしい。キーボードを叩けば集積回路上を電流が流れ、木霊はどこか遠くへ去ってゆく。闇の中には誰もいないが、抑揚のない声で何かを語りかける。ここでいい加減な嘘をつくとすれば、君には貪欲さが足りない。蛇口をひねれば水が出るが、何かを思えば言葉になるわけでもないだろう。そんなことはわかりきったことだろう。相変わらず何もないので当たり前のことを述べているようだが、それはくだらないことかもしれない。どこかで人が疲れているらしい。疲れているのは君ではないのか。真昼に洗濯機の音を聞いている。白昼夢の意味がわからない。とっさには思いつかないが、辞書で調べればすぐにわかるだろう。冬は晴れて寒く、夏は晴れて暑い。秋晴れの時期には紅葉が見られるか。山道で迷い、誰かが行方不明になる。夏山には魔物が棲んでいたりするのだろうか。テレビ画面の中では俳優が演技をしている。それがどうかしたのか。外では蝉が鳴いている。蝉と一緒に鳥も鳴いている。風はどこへ向かって吹いているのか。雲の流れを眺めながら何を思うだろう。どこかにいい加減な言葉が埋もれている。夏でもシベリア辺りへ行けば涼しいかもしれない。いつかマンモスの骨でも探しに行くつもりなのか。誰かはすでに出かけているのだろう。蚊に刺された腕がかゆい。夏のシベリアでは蚊が大発生しているらしい。いつかそんな映像を見たことがある。別にそれが衝撃的なことでもないだろう。野良犬が樹海から人骨を食えてくる。それもありふれているか。わざと違うことを述べているらしい。その手の小説の読み過ぎか。浮浪者が木の葉をちぎって明日の天気を占う。そんな占いがあるわけがない。想像力が無駄に浪費されているようだ。意味のない言葉の羅列に呆れているのかもしれない。何を読んでそう思うのだろう。意識は首が曲がった誰かの姿を想像する。そこで君は死んだふりをしているわけか。誰が気を失っているわけではない。まだ微かに意識があるようだ。夕暮れ時ににわか雨を額に受けて正気に戻るかも知れない。


7月26日

 やはりきっかけがつかめない。やめるきっかけもつかめない。では何かしら言葉を弄してみればいいだろう。だがこのままでは同じようなことしか述べられないだろう。はたして今の君は窮地に陥っているのだろうか。では過去の君はどうなのか。未来において君の存在は不明確だ。百年後に君は存在しているだろうか。それは今の君にとってはどうでもいいことか。昨日の君はそこで何を見ていたのか。君が読んでいる物語の中に君はいない。その代わりに誰かが何も考えずにどこかを見ている。だが虚構の眼は何を見ているのでもない。君は部屋の中にいるようだが、部屋の中には誰かがいるようだ。君がいる部屋と誰かがいる部屋は別の部屋なのか。別々の部屋に別々の意識が存在する。だが君が考えているのはそれとは無関係なことだ。誰かは君とは無関係か。そんなことを述べながら、物語はつまらない展開に陥っているらしい。ただそれを無視しながら、余白にはいつもの言葉が適当に連なっている。君は何を考えているのだろう。まだこれといって大したことは考えていないのに、すでに考えられることはすべて考えたつもりになっているわけか。そんなわけはないが、これ以上無理に考えてどうなるというのか。無理なら考えなければいいだろう。それでも考えているのだとしたら、結果的に無理ではないということか。そうやって未だに誰かはつまらないことを考えているようだ。考えているのは誰かではなく君ではないのか。では君は何を考えているのだろう。それはつまらないことなのであり、ただそう思いたいだけか。いったい君は何を考えているのか。考えている当人には分からないことなのか。そんなことはあり得ないか。意識がそれを捉えられないのなら、たぶん何も考えていないのだろう。考えられないのかもしれない。考えられないので、いつものように考える対象を探しているわけか。だが何も見当たらないので、なにげなしに遠くを見ている。思考の対象とはならないそれらの風景をただ眺めている。では具体的に何を見ているのだろう。意識は何を見ているのでもないと思いたいようだが、眠っているのでもない限り、網膜には何かが映っているだろう。ならば目に見えている何かについて誰かは語るべきなのか。見上げれば夏の空を雲が移動して行く。そんな何の変哲もない空を眺めながら、とりたてて何も思いたくはないが、心ならずも何かしら思ってしまうようだ。実際には思う前に言葉を連ねている。言葉を連ねてから、それを読んで、それらの文章について何かを思う。やっていることはそれだけか。今さら何をやるまでもないとは思うが、それでもさらに言葉を連ねようとしているらしい。いったい何をやっているのか。それに対して誰かが月並みなことを思う。無駄な悪あがきはやめた方がいいだろう。別の誰かはそれが無駄であるとは思わないか。そんなことを思っているうちに、窓の外では風景が目まぐるしく移り変わる。たぶん時間設定を間違えているのだろう。それはどういうことなのか。その動きに眼が対応しきれない。何かが早送りで動いているように思われる。それは何かの映像だろうか。別にテレビ画面を見ているわけでもないだろう。見ているのは車窓の風景か。そうであったとしたらどうだというのか。風に流されて移動する雲を目で追いながら、偏西風の存在でも確認しているつもりか。何を心にもないことを述べているのか。夏の暑さで頭がぼけてしまっているわけでもあるまい。だが君の心はどこにあるのだろう。心があろうとなかろうと、何も思わないわけには行かないようだが、必ずしも思っている内容が言葉や文章になるとは限らないか。そんなことを思っていると、眠気とともにため息が出る。そのため息の意味は何なのか。なぜそんなことまで述べなければならないのか。他に述べることがないから述べているだけなのか。そこで行き詰まる。そうではないと思いたいが、別の時間帯ではそうであってもかまわない。たぶん明日にはどちらでもいいと思うのだろう。


7月25日

 君はこれまでに何をやってきたのだろう。過去を振り返るにはまだ時期が早すぎるだろうか。振り返れば何がわかるというのだろう。確かに誰かはその時点で適当と思われるやり方を用いてここまでやって来た。しかし言葉を繰り出せば繰り出すほど、言葉を弄する対象について何も肯定できなくなる、というジレンマに直面してしまう。何をどう述べても、最終的には批判になってしまうようだ。それは当初に抱いていた思惑とは違う結果なのだろうか。ではそんな気に入らない気分を鎮めるには何を想像したらいいだろう。想像するだけでは不十分か。何をどう思ってみても、この世界は見たとおりの世界でしかないか。はたして君の見ている世界がこの世界なのか。別に本当の世界が別のところにあるとは思わない。これはこれであり、あれはあれでしかないだろう。もちろんそんな風に述べてみても、いつものようにとりたてて何を述べているのでもない。何かをやりすぎて何もできなくなってしまっているようだ。そうやって変化しようとする可能性の芽を摘んでいるわけか。様々な試行錯誤を経てここに至り、それでも何も変わったようには思えないが、それは気のせいだろうか。いったい君は何について述べているつもりなのか。繰り出されるのがそんな問いばかりでは何も変わりようがないだろう。それでも何かしら変化していると思いたい。たとえそれが肯定できない変化だとしても、そこからさらに変わる可能性があるかもしれない。そんなあやふやな可能性にかけてみようとは思わないが、とりあえずやり続けることしかできないらしい。前向きにも後ろ向きにも思いたくはないが、その時々の状況によって前向きになったり後ろ向きなったりするだけだ。どうもこれといった解釈や考え方を示せないようだ。ものの見方や考え方に一定の方向性を打ち出せずにいる。こうすれば良いということはあり得ないように思われる。良かれと思って何かをやると、必ずそれに対する反作用が起こって、思わぬ結果がもたらされてしまう。そしてその結果が良いのか悪いのか判断することができない。仮に判断したところで、そんな判断などお構いなく、状況はさらに予想外の推移を見せる。そんな展開に翻弄され、迷ったり悩んだりしているうちに、そのように思っている意識自体が過去の遺物と化すように、環境は更なる変化を被り、いつまでもそこにとどまっていたら置いてきぼりをくってしまうような事態となっている。そうだとすれば世の中が何も変わっていないどころではないだろう。要するに繰り出された言葉が世の中の変化に対応できずに、時代遅れになっているということか。そんな風に述べれば、それがそれらしい結論のように思われるが、はたしてそれで何かを語っていることになるのだろうか。やはりそんな語りを肯定することはできないか。何かを語っているうちに、絶えずそうではないと思いたくなってしまう。利いた風な意見にはすぐさま反発してしまう。わかりやすい内容には、そのわかりやすさゆえに、わかりにくい部分が省かれていると思いたくなる。わかりやすければわかりやすいところが欠陥なのであり、反対にわかりにくければわかりにくいところが欠陥なのであって、どちらにしても何か特定の方向で述べれば、それ以外の方向が省かれているところが欠陥となってしまい、それを避けるために全方向で述べようとすれば、今度は不可能に直面してしまう。どのように述べても欠陥や不可能を避けては通れないのではないか。ならばそれを受け入れる以外に方法はないのだろうか。何かを述べれば、必ずそれに対する肯定や否定が可能だということは、その対象が述べていない部分を、肯定したり否定したりすることによって述べることが可能であるということなのかもしれない。


7月24日

 すでに終わっているようだが、今から何を考えたらいいのだろう。そこで何も考えられずに困り果てているのは誰なのか。それでも誰かは無理に考えようとしているらしいが、今のところは考える対象を見いだせずにいるようだ。何も考えられないのはどうしたわけだろう。それが嘘だからか。もしかしたらもう何も考えなくてもいいのかもしれない。すでに考えられることはほとんど考えてしまったのではないか。では過去において何を考えてしまったのだろう。たぶん何かを考えてしまったのだろう。考えてしまった内容を簡単には思い出せないか。あるいはそんなことは改めて思い出すまでもないか。過去に何を考えていようと、そんなことは今の君には関係のないことか。あるいは関係があろうとなかろうと、今の君には関知しないことでしかないのかもしれない。過去と今では君を取り巻いている状況がまったく異なるだろうか。しかしそれが考えないための言い訳になるだろうか。そうやって何を無視しているのだろう。思考を無視することはできないが、意識的に無視しているつもりにはなれるだろう。だがそんなことを述べても無駄だろう。無視を装う行為自体が、今の君の敗北を認めていることになる。もちろんそんな敗北など認めるわけにはいかない。何に負けているのか不明か。わかっているくせに、しらを切っているだけか。何をどう考えても勝利からは程遠い状況だろう。始めから勝とうとしていないのだから、そんなことはわかりきったことか。いったい何に向かって勝負を挑んでいるのか。勝負を挑む対象はどこに存在しているのだろう。それは過去の時空に引っかかったままここまでやって来れないのかもしれない。それが何であれ、忘却の彼方から勝負を仕掛けてくることなど不可能だ。意識はもはやそれらの対象から、時間的にも空間的にもだいぶ遠ざかってしまったようだ。そんなわけで今は思考の俎上に上がるような対象は何もないということか。それ以前に積極的に対象を探そうとしていない。だから何も考えられないのか。そんな状態で何を考えたらいいのだろう。何も考えようがないか。考えるきっかけをつかめないらしい。そんなことでは過去に行われた自らの思考に敗北を喫している。そんな風には思わないか。誰がそんなことを思うだろう。仮にそう思ったとしたら、唐突に自らの敗北を悟ってしまうわけか。そんなはずがないと思うか。またはそれは馬鹿馬鹿しいと思うか。何を思っても無駄だろう。今の意識は依然として何を思考しているわけでもない。その代わりに、そうやってまた嘘をつく。思考しているわけでもないことが嘘なのか。では思考しているのだろうか。どちらでもないなんてあり得ないことか。たぶん何に負けているわけでもないだろう。そんな気休めを述べる暇があったら、もう少しまともに考えてみたらどうか。そして考えがまとまったら、その考えをもとに、何か気の利いた意見でも述べてみればいい。しかしそれ自体が気休めにほかならないだろう。では本当にどうすればいいのか。たぶんそこから架空の話でも始まるのだろう。もちろんそうしたところで、やはりそれも気休めにほかならないか。ただ何かが繰り返され、それに合わせて適当に言葉が循環するばかりか。たぶん君はそれでいいとは思わないだろう。だがそれ以上はあり得ないし、それ以下もあり得ない。それは過去の出来事でも未来の出来事でもなく、現時点での現状でしかない。意識は何もないことをいいことに、ただ気休めを求めるだけなのか。何もないから求めているのではなく、何かあるとすれば、それが気休めであり、気晴らしの娯楽なのかもしれない。それを避けて通ることはできないような気がする。もちろんそれを超えることもできはしないだろう。できることといえば、その延長上で言葉を弄することだけなのかもしれない。それでも誰かが何かを述べているとすれば、それはそういうこと以外にはあり得ない。ところで君は本当にそう思っているわけか。あるいはそれはまたいつもの嘘なのか。いったい君とは誰なんだろう。それは意識にとってはわかりきっていることであり、君にとってはわからないことでもある。


7月23日

 何を詮索しているのだろう。考えるのが面倒だから、わからないことをそのままにしておきたい。そんな感性がわからない。気になることを気にしないようにしたい。話の前後で別の意識になっている。少し飛ばしすぎて何を述べているのかわからなくなる。いつものように後戻りしなければいけない状況に近づきつつあるのだろうか。また何かを思い出したふりをするわけか。月下の庭で猫がじっとしている。動きようがないのだろうか。なぜそう思うのか。ただ横になって寝ているだけだろう。そんな光景を誰が眺めているわけではない。誰かの空想が言葉として余白に記されるだけか。では他に思うところはないのか。どこに空想の源泉があるのだろう。それは歌の中にある。あるいは弦楽四重奏の中にあるかもしれない。でまかせにも限度があるか。語りの自由度が増しているように思えるのは見せかけに過ぎない。実際に何を見ているのでもない。見せかけの光景ですら見ていない。月が傾いているが、そこに眼があるわけではない。では月を見ているのは誰なのか。そんな問いかけに誰も答えようとは思わないか。何も思わないのに、何かしら思っているつもりになって、誰かに適当な思いを告白しているつもりになれるだろうか。その内容はいつか見たテレビドラマの中で俳優が発した台詞の受け売りになるだろうか。そんな簡単に紋切り型を取り込める者はいないか。たぶんそこに至ろうとする過程で、疑念が生じてしまうだろう。いったいそれは誰の言葉なのか。そんな風に問いを設定すること自体に無理がある。そこで誰が何を告白しているわけでもない。過去において誰がテレビドラマを見ているわけでもない。さっきから君は何も見ようとしないではないか。それは君の話ではないだろう。夜の庭を徘徊する猫の話でもないか。わざと関係のないことを述べている。では月のどの辺に眼が存在するのだろう。月は何を見ているのか。月が見ているのではなく、君は夢を見ているのかもしれない。それは夢ではなく、画面上に映し出された文字の連なりだろう。しかしそれで技巧を弄しているつもりか。それらの行間から何が漂ってくるのだろうか。それは見え透いた過ちの範疇に入るような文章かもしれない。過ぎたるは及ばざるが如し、なんて今さら述べても無駄か。案外それとは別の意味を担っているのかもしれない。それらについて君はどのような見解を持ち合わせているのだろうか。しかしそんな見解などに興味はないか。まだ何も聞いていないうちから、見解の内容を無視しているらしい。そんなことがあり得るだろうか。文章上では何でも可能か。結局は何を述べても嘘になってしまうようだ。それが嘘だと思うなら嘘なのだろう。別に嘘でなくてもかまわない。ただ嘘をついているふりをしているだけだとしても、それでかまわないだろう。それ以上述べるのが面倒なのか。乗り越えることの不可能な問題に直面しているわけでもないだろう。あり得ないことを語っているわけでもなさそうだ。ただ単に帳尻あわせに至ろうとしているだけか。そう思われても仕方がないか。君は途中で月の話をしたかったのか。ではそのとき月はどこにあったのだろう。どこにあろうとかまわないか。月の話ではなく、庭に寝そべっていた猫の話か。どちらも本題から外れている。やはり本題に至らないうちに、本題をないがしろにしながら、不在の本題の周りに、どうでもいい言葉がちりばめられているだけか。そんな説明ではわけがわからないか。いったい君は本題をどこに置き忘れてきたのだろう。そんな嘘は見え透いているか。では他に何を述べようとしたのか。すでに述べているそれらを述べようとしたわけではないのか。しかしそれでフィクションになっているのだろうか。それでもフィクションには違いないか。どうでもいいようなことを述べながら、何かに流されている自らに気づかないのか。そんな精神状態で気づきようがないだろう。もしかしたらそれも嘘かもしれない。


7月22日

 なぜか逡巡ばかりの内容になっている。何をためらっているのだろうか。それを明かさないのはどうしてなのか。それでは以前と同じ状況にしかならないのではないか。音楽は何も語らない。ただ声楽家が歌うだけか。それは音楽ではない。何を奏でているのだろう。語っている内容に飽きているのかもしれない。意味がわからない。間違っているのだろう。説明できないことを述べている。わざと関心の薄い対象を選んでいる。要するに嘘をついているわけか。自らを欺いているのだろう。そこに何らかの規則を見つけ出そうとしている。そしてその規則から逸脱したくなる。結局は堂々巡りを繰り返すばかりで、具体的なことは何も語られない。そんなことをいつまで続けられるのだろうか。別に続けようとは思わないが、結果的に続いてしまうのだとすれば、心ならずも続いてしまう状況をどうすればいいのだろう。別にどうしようとも思わないか。何をどう思うかは君の勝手に任せられている。そんな思いはただ無視されるだけだろう。もちろん誰が無視しているわけでもない。少なくとも君とは面識のない誰かが君の思いを無視するだけだ。君の思いが万人に伝わるはずがない。君のことを知らない人には何も伝わらないかもしれない。もちろん伝わらないからといって君がどうなるわけでもない。そんなことは君には関係のないことだろう。それは何でもないことなのか。そこから得られるものは何もない。それは当たり前のことだ。しかしその当たり前のことをどうにかしたいらしい。そんな状況を打ち破って、何かよく分からないことを伝えたいようだ。それは誰が誰に伝えるのではない。勝手に伝わってしまう場合が多いことを期待している。何がどうなろうと、何もどうならなくてもかまわない。結果は君のものではない。ただそれが結果であるに過ぎない。わけがわからないのならそういうことでしかない。内容が空疎ならそれに越したことはない。何も思考を伴わないのなら、他の誰かが考えればいい。君がどうすることもできなければ、他の誰かがどうにかしようとしているはずだ。何事も他人任せならかなり楽になるはずか。それは幻想かもしれない。もちろん幻想であってもかまわない。なんとなくいい加減に開き直ってしまえばいいのだろうか。ただそんな風に思いたいだけで、実際にはやるべきことをやろうとするのだろう。ではやるべきことでなければやる気がしないのだろうか。やる気がしないことまでやっているときもあるかもしれない。その場の気まぐれで何をやっているかは違ってくるだろう。そんな思いとは関係なく、絶えず何かをやっているのだろう。それが無駄であったり有用であったりしても、それはそのときの結果がそうなのだから、それはそれでそういうことでしかない。それ以上考えても仕方ないだろう。何が仕方ないのかよく分からないが、それもそういうことでしかないのだろう。いったいどこに基準があるというのか。どんな規則に従って行動しているのだろうか。そこまで考えてどうするのだろうか。そんなことを述べていれば気が済むのだろうか。気が済まないからさらに述べようとしているわけか。しかしそのような述べ方ではそんなに遠くまでは行けないような気がする。いくら述べても、結局は以前と同じことを述べているに過ぎないのか。それと同時にそんな気になって、虚しさがこみ上げてくるか。どこにこみ上げてくるのだろう。とりあえず何を語っているのでもなさそうに思える。さっきからかなり馬鹿げたことを述べているのではないか。そんな風に思えて、言葉に詰まってしまうか。詰まったら無理に吐き出せばいいだろう。たぶんこれからもそんなことの繰り返しになってしまうだろう。今はそれ以外にやりようがない。ところでいったい今はいつなのか。さっきからどれほどの時間が経過したのだろうか。


7月21日

 これからどうするべきか判断がつきかねる。結局、適当に迷った末に、終わりを回避しようとして始まりに結論を付け加える。始めに結論ありきでもかまわないか。それほど奇異なことでもないだろう。それでも無駄な試みになりそうな予感がしてくる。もはや限界は限界として認めなければならないか。その限界を超えて言葉を繰り出すつもりはない。限界を超えられないから避けて通るつもりか。避けて通れるような限界が限界といえるだろうか。何が限界なのかはっきりしない。誰かはそれを認識しているようだが、やっていることと思っていることが違うらしい。その限界を無視しているわけではないが、なんとなくそれはそれとして放置されているようだ。それらの文章を読んで君は何を思うだろう。何も思わなくてもさらに作業を続けられるだろうか。あまり真剣には読んでいないので、まだその境地に至っていないようだ。何の境地なのか不明だが、いつまで経っても何を悟っているわけでもなさそうだ。そんな風に嘘をついてみせるのはなぜか。何をはぐらかしているのか。あるいは強がっているのか。そして面倒なのではぐらかしを強がりだと思うわけか。では何がそれらの強がりを構成しているのだろう。強がりと弱音の区別が曖昧だが、今から述べるそれが強がりだと誰が思うだろう。いくら考えても何もはかどらない。構想ばかり練っていても埒が明かない。誰かは始めからそうなることを願っているわけか。たぶん願いは願いとして別の場所にあり、時間と場所を隔てて発生した同じような二つの出来事の間に生じている微妙な差違を見落として、それを感じ取れないことに君は落胆しているらしい。誰かの微かな心変わりを見逃してしまい、君によってもたらされた状況が心境の変化を招いていることにも気づかない。自業自得とはこのことをいうのだろうか。それでも性懲りもなく同じようなことを述べているつもりのようだが、やはりそれでも限界に直面している現実は変わらない。いったい構成された文章がどんな意味になるようにしたいのか。仮にそれが分かればどのような結果に至るのだろう。君自身はどのような結果になるようにしたいわけでもない。思い通りの結果を求めているわけではないらしい。ただ途中で語りの調子を変えたいだけか。これまではかなり錯乱していたように思われる。だがそれは違う時間帯での出来事だろう。このままでは精神まで錯乱してしまうか。錯乱したくてもしたくなくても、するときはするのかもしれないが、その際君の思いは無視されるだけか。あるいは君とは無関係な別の意識が異常を来すかも知れない。そんな都合のいいように事が運ぶわけがないか。何も回りくどい表現に逃げなくてもいいだろう。だが素直になれないのは今に始まったことではない。それで何をかわしたつもりなのか。何か避けては通れない状況でもあるのだろうか。とりあえず平静を装ってから話の本題に入るべきなのだろう。それが君の間合いなのかもしれないが、本題などどこにもありはしない。ただわざとらしく心にもないことを述べている自身に驚いてみせる。そこで誰が錯乱してるのだろう。ただ言葉が混乱しているだけか。それでもあやふやな文章を構成しようとしている。何かの本質を避けて限りなく迂回し続ける。これなら途中を美的に飾りたてる必要はないか。歪んだ思考が美的な映像を作り上げる。どのように歪んでいるのだろうか。ただ映像を多くの人に見せびらかそうとしているだけだ。それの何が歪んでいるのだろう。分かりやすさを求める心は大衆に屈している。要するに大げさなアクションによって人目を引きつけなければならなくなる。たぶんそれがさもしい現実を構成しているのだが、そんなやり方を馬鹿にして芸術作品を目指す者たちは、アカデミズムに屈している。小難しいことを述べる人々を相手にしているわけだ。その思考は特定の主義主張を構築できずにいるらしい。そんなことは眼中にないのかもしれない。すべてを悟ると何もできなくなるということだ。悟ってしまったらどうしたらいいのだろうか。ただ何もできなくなること以外に何があるのだろう。では何かをやり続けるためには、容易に悟らないための配慮が必要なのだろうか。しかしいったい何を悟ったつもりになっているのだろう。誰が誰のために生きているわけでもない。それに気がついてる誰かは何を求めているのだろう。日々を過ごしているそれぞれの時間と場所によって、求めているものは異なってくるだろうか。求める対象はその場の成り行きに左右されるわけか。


7月20日

 いったんそれをやり始めたらきりがないようだが、そこから得るものは何もない。得ようとしたものは得る前に得られている。それでは以前と変わらないだろう。相変わらずの言葉の並びに呆れ果てる。しかしそれが現状から得られた言葉の並びなのか。いつか状況にフィットした言説が出現する時が来るのだろうか。それはいつになるのだろう。だがそうなってしまうのは似合わないか。簡単にそれを許すわけがない。記述を阻んでいる悪霊はまだ退散しないようだ。何が悪霊なのか知らないが、それが悪霊だと思っているうちはそうなのだろう。様々な人々に内在するそれぞれの意識は互いに無視しあい、各自がまるでバラバラなことを述べているようだ。それらのどこに共通する認識が潜んでいるのだろう。それを知りたければどこかへ行けばいいのか。竹林の中に誰かの隠れ家があるらしい。それは誰の隠れ家などではなく、ただの雀の巣か。そこから何も聞こえてこないのはどうしたわけか。それらの沈黙は何を指し示しているのだろう。どこからか聞こえてくるのはいつかの風の音か。誰かは仕事の合間にいい加減なことをやっているらしい。君はそれらの行為をどこから始めたらいいのだろうか。気晴らしに書かれた文章には始まりが省かれている。仕事の一部ではないのだから、それでかまわないのか。気が向いたときにでも、省かれた始まりを後から付け加えよう。夕暮れ時の車内では細かな埃が舞っている。それを吸い込みたくなければ呼吸を止めるしかない。何を馬鹿なことを空想しているのか。煙草の香りを愛でている人物は、電池切れの腕時計をいつまでそのままにしておくつもりなのか。その間に何か適当な言葉を差し挟んでおくべきか。煙草の煙はマナーに逆らうものか。いつものようにそれとこれとは関係のないことだろう。誰かは始めから文章の構築を放棄しているのか。部屋の中では、埃が降り積もって掃除の時期が迫り来る。何かが積もって山になるほどほったらかしにはできないようだ。それでも何とか工夫しながら、貧窮の時を切り抜けなければならない。本音を押し隠しながら建前を並べ立てる。しかし君が用意した台詞はどこに差し挟めばいいのだろう。悪霊は区切りの良いところで退散できるだろうか。そこでは怨霊を退散させる祈祷でも行われているわけか。文脈を意識できない。少なくともそれが事件と関わることはあり得ないか。君が事件を事件と思わないのは、その事件について何も述べる立場にはないからか。君が何かを思うのはそれは偶発的な出来事であり、仕組まれた儀式ではないはずだ。だが思いとは別に形式的に言葉を並べ立てる一方で、それに嫌気が差して気が抜けた一瞬を狙って何かを思い出す。それによって君は何に反撃を加えたいのだろうか。それ以前に君自身にはどのような攻撃が加えられているというのだろう。何も攻撃されているわけではないと思う。ではそれとは別の場所で語っているそれは誰の物語なのか。別の場所はフィクションの中にある。そのフィクションを構築しなければ、フィクションの中で何も語りようがないだろう。いったい君の意識はどこで何をやっているのか。何もないのだから、誰も台詞など発しようがないではないか。たぶんそれは台詞などではない。誰かの独白の中に住まう気まぐれな偶然が、周りの状況を無視して適当に言葉を繰り出しているだけか。それは悪霊でさえない。悪霊以前に生じている何かの雰囲気なのかもしれない。悪霊の方はそれとは無関係に、どこか別のフィクションの中に言葉として定着しているだろう。悪霊を感じたければそれを読めばいいか。試しに検索サイトで調べてみれば、いくつものそれらしい悪霊に出会えることだろう。そしてそれくらいで満足していれば、悪霊も君を苦しめるのをあきらめて、忘却の彼方へと退散してくれるかもしれない。


7月19日

 それらの語り方が気に入らない。海で溺れて人が死ぬ。山で遭難している人もいる。高速道路で追突事故が発生している。人身事故で電車が遅れる。窓越しに外の風景を眺めながら、窓ガラスに映るテレビ画面も同時に見ている。画面の中で人々はただ当たり前のことをやっているだけなのに、誰かにとってそれらの行為は奇異に映るらしい。なぜ否定的な感慨しか抱けないのか。過去から連綿と続けられている慣習を個人の力でそう簡単に覆すことはできない。認識している制度に新たな地平を付け加えることは容易にできない。それは過去から現在までの間に多くの者たちが踏み固めてきた古い大地なのかもしれない。そこにどんな可能性があるのだろうか。架空の書物は幻覚作用をもたらす。新しい言葉には不快感が付属している。それは君の思い違いか。どのような言説に巡り合おうと、それをどう解釈するかは、その言葉を受け取る者次第か。それの何が新しいのか分かりかねる。何が不快なのかも分からない。不快感を誘発させるには、それがどんな言葉なのか説明しなければいいのか。そんなやり方のどこが新しいのだろう。では他にどんなやり方があるのか。別に人を不快にさせるために語っているわけではない。いつの間にか冒頭とは関係のないことを語っているらしい。言説がどこかへ押し出されてしまう。そこでは語るための基盤が存在しない。何も語れないのにさらに言葉を繰り出そうとしているようだ。なぜそう思われるのか。そのような捉え方では気に入らないか。ではそれとは別の観点で判断するなら、迷走を繰り返しているように思われる。たぶんこれからさらに別の要素がよせ集められて、話が一層錯綜してしまうのかもしれないが、それでは予定調和の結末を予感させる。要するにわけがわからなくなってしまうということか。そして最終的に、それがどうした、と述べたいわけか。まだ具体的なことは何も語っていないうちから、いきなりそんな決め台詞を述べてしまってはしらけるばかりか。わざと場をしらけさせようとしているわけではない。ではいったいこれから何を述べようとしているのだろう。今さらまともなことを述べられるだろうか。確かにブラインド越しに見える昼の光景に感動する要素は見つけられないが、意識はとりたてて何を見つけようとしているわけでもない。たぶん何に感動したいわけでもないのだろう。では何のために言葉を連ねているのか。それは惰性でやっていることなのか。理由が不在ではいけないわけか。あるタイミングではそうなのかもしれない。かつては理由を求めていた時期もあったのだろう。季節が移り変わり、心境も変化して、述べている内容も以前とは違ってきてしまったらしい。それはまるで他人事のようにしか思われない過去だろうか。今はそこから先を求めている。先には何もないのかもしれないが、とりあえずその先の状態に至ることを目指しているのかもしれない。その過渡的な段階として、現状の文章が構成されているわけか。過去の風景は額縁の中で無視の対象となるだけか。何を無視しているわけでもないだろう。そこでは虚無に至ろうとする情熱でも燻っているのだろうか。結果的に虚無を目指しているとしても、その過程では何に至ろうとしているわけでもないと思いたい。たぶん語りすぎているのだろう。語りすぎて、語る対象を通りすぎてしまっている。その結果として、対象を無視して語っているように感じられてしまう。思い違いの意識は何が対象なのか特定できない。しかしそれも嘘なのかもしれない。ただ単に語る対象に興味を持てないのだ。それについて語っている意識は、そんなことを語ろうとは思っていない。ではどんなことを語りたいのかといえば、それが分からないのかもしれない。ただ分からないのに適当に語っている現実があるだけか。


7月18日

 抽象的な台詞を考えながら、日常生活の中でそんなことを口走るはずがないと思いつつも、それでも気の利いた格好の良いことを述べてみたくなる。要するに見栄を張りだけのようだ。そんな生身の君からは遠く離れた言葉の群れを、余白に連ねて悦に入りたいのか。身近に感じられることは、世間話の中に出現する紋切り型の台詞しかないのだろうか。たぶん君はわざと嘘をついているのだろう。見え透いた嘘とはこういうことを言うのだろうか。それはどういうことなのか。どんな嘘をつけば納得するだろう。何を語っても、どうせ何も見いだせずに終わってしまうのだろう。そんなあきらめの台詞も嘘のうちに入るのだろうか。フィクションと戯れているつもりが、いつの間にかそれとはまったく異なることを述べようとしてる自分に気づく。すでに本心から語っているのかもしれない。やはりそれはいつものことなのか。いつも四六時中本気でいられるはずがないか。だが一面的な解釈では、登場人物の微妙な心境の変化を捉えきれない。何かを延々と語っているうちに、中途半端に話が途切れようとしている。そんなことはもうどうでもいいと思いたいようだ。いったい君は何を読んでいるのか。君の話は分かり難くて、とても最後まで聞いていられない。ぎくしゃくした物語の成り行きを無視して、途中で話を飛ばしてしまう。読み進んでいくうちになんとなく飽きてきたようだ。詳しく話すのが面倒なのか。あるいは話している自分が理解していればそれでいいのか。どこかで繰り広げられている会話は、よくあるパターンをなぞりながら、不意に驚いてみせたりしている。本当は何も驚いていない。例えばそれはどんなことなのだろう。壁の表面に小さな染みを見つけて誰かがうろたえる。それは血飛沫の痕だろうか。穿ちすぎの詮索好きはわざとらしい。壁に掛かった絵をよく見ると、ありふれた景色の中に細い亀裂が刻まれている。絵の具が固まってひびが入っているだけだ。しかしそれを見ているのは君でない。君はそれを見ている人物をただ眺めているだけか。そんなありもしないことを思い描いているとき、ふと空気の流れを感じて、微風の風上に人の気配を感じる。フィクションの中ではそこに謎の人物が姿を現す。物語の外部に存在している君は、誰もいない部屋の隅に一瞥をくれてから、傾いた額縁に囲まれた風景を眺めながら、過去の出来事に思いを馳せる。偶然にそうしているだけのようだ。そのときの思い出は何ももたらさないだろう。面倒くさいので言葉にはできない。郷愁はいつの間にか心に巣くっているものか。誰かが思い描いた夢の中では、懐かしい風景の中に人々は暮らしている。それは掛け軸に描かれた風景かもしれない。そこには人々の影が描かれているのか。たぶん見たままの風景を描いているのではないのだろう。手本となる自然の配置が前もって提示されているのかもしれない。描き方にも一定の規則があるようだ。急峻な岩山や枝ぶりが極端な松など、当時の美的な定型に沿って描かなければ、まともには扱ってもらえないか。それらの何が桃源郷なのか。桃源郷なら別の絵の中に存在するだろう。桃の木の下で何を誓えば人々の興味を誘うだろうか。三国志では何かを誓い合っていたかもしれない。そこで絵でも描いてみれば、何か気が利いた台詞を思いつくかもしれない。絵を描きたいなら絵だけを描いていればいいか。暇があれば絵の具とキャンバスでも買ってくればいい。黒く塗りつぶされたキャンバスがどこかの物置に放置されている。そこからくだらないエピソードでも構築したいのか。話の内容がよく分からないか。もしかしたら比喩的に何かを述べようとしていたのかもしれない。そこから寓話的に何らかの意味を導きだせるだろうか。


7月17日

 またいつもの悪い癖が出てしまったようだ。性懲りもないとはどのような行為のことをいうのか。相変わらず無駄に言葉を連ねているようだが、そのわりには何を述べているわけでもない。内容は至って空疎な状態で推移している。たぶん君はそれとは別の何かを述べようとしているらしいが、今のところ何を述べられるわけでもなさそうに思える。ただそうやって何もない現状を説明しようとしているだけか。説明する前に説明の対象を特定できないようだ。いったい現状の何を説明したいのか。また説明したくもないことを説明しているように感じられるのだが、それで何の説明になっているのだろうか。結局は何も説明できていないのではないか。何かが説明の邪魔をしている。陽の光を遮っているものは何なのか。君の影の中に誰かの意識が存在している。説明に困って妄想に逃げるつもりか。その辺が君の限界を形作っているわけか。今さら何をどうやっても説明にはならないだろう。その代わりに君は何か別の人格を演じているのかもしれない。なぜそれを説明しようとしないのか。それが何なのかわからないからか。すでに何かしら説明しつつある。簡単に述べるなら、君は君の影を演じようとしている。影を演じることによって、君の意識とは違う性格を醸し出したいらしい。戯れに君は君ではないと思い込みたいわけか。自己に言及するのではなく、ありもしない幻影の告白を構成してみたいようだ。しかし今のところ告白の内容がどこにも見当たらない。仮面は本当に告白できるのか。それは誰かの小説の題名か。影は仮面でさえないだろう。影には実態が皆無なのか。それでは話にならないだろう。別にここで影のありもしない身の上話を捏造しようとは思わないが、それでは何をどうしようとしているのだろう。君にはどうしようもできないから、影の力を借りようとしているだけか。しかし実態のない影にどんな力があるというのか。もとから何もありはしないか。要するに何もないのに何かを述べようとしているわけか。意識はすでに何かしら述べているつもりになってきたようだ。確かに何も述べていないわけではないが、果たしてそんな述べ方でいいのだろうか。誰がいいと思うだろう。導き出されたそれらは君にとっても受け入れ難い内容になっているかもしれない。誰もそれらの試みを認めようとしないだろうか。誰が認めてくれるというのか。たとえそれが無内容であったとしても、影にとってそれは許容の範囲内なのだろうか。確かにそれでも何か述べているのだから、まるっきり無内容ではないのかもしれない。しかし死ぬほど退屈な内容になっているのかもしれない。ただ愚かなことを繰り返し演じている。演じているのではなく述べているのだろう。そうやって的外れなことを語りながら、君の意識は君の外部にも内部にも踏み込めない状態を保っているのかもしれない。説話的な内容は何も語らずに、ただ自己言及的に言葉を連ねて、しかも内面の告白を避けている。それがここでの説明になるだろうか。やはり何を述べているのでもなさそうに思える。ただ苦悩の痕跡をたどりながら、苦悩している当の意識から適当な距離を保って、無関心を装いつつ外部から眺めている。何を眺めても気が晴れることはないだろう。それとは違うことを語りたかったのに、それができずに、惰性に負けていることに気づく。それに勝とうとは思わない。勝てるわけがないだろう。それは勝負の範疇での行為には結びつかない。ただ延々と誰かが語り続けるだけの行為なのか。終わりも始まりもありはしない。語りに付随している意識は常に過渡的な状態に留まり続けることしか出来はしない。それ以前にも以後にも進めない。


7月16日

 いつかの君は何を模索していたのか。記憶から引き出されるのは雰囲気だけの無意味な話ばかりか。何を読み返しているのだろう。絶えず制度を改善していかなければ、不具合が増大してしまうのはわかりきったことだ。世の中の変化に対応した柔軟な運用と修正が求められている。硬直した形態を維持しようとすると、必ず無理が生じて、結果的に時代からも世界からも取り残されてしまうだろう。これだけをやっていれば事足りるということはあり得ない。以前と同じやり方が通用する期間は思ったより短いはずだ。昔やっていたことの蒸し返しが通用すると思ってしまうのは危険な兆候だろうか。兆候というよりは、その時点ですでに終わっているのかもしれない。それを見て喜んだり感動している人たちも終わっているのか。そんなはずはないと思いたいところか。終わっているとはどういうことなのだろう。そのような代物に対する評価なのか。この道一筋何十年という人も終わっているのだろうか。そういう人は死んだときに後継者がいなければそこで終わりということになるのだろう。とりあえずはそれをやめるまでは終わっていないということになるだろうか。ならばもういい加減にやめて欲しいか。まだ何十年もやっていないだろう。何十年もしないうちにやめてしまったら中途半端か。ではそれが続けるための言い訳にでもなるわけか。何とでも言い逃れは利くだろうか。しかしそれで逃れたことにはなりそうもない。逃れようのない状況のただ中にいるらしい。終わりにも継続にも、そうする理由が必要とされるだろうか。君は何のためにそれをやっているのだろう。それはありふれた回答を引き出すための罠か。そんな罠から逃れるためにやっているのかもしれない。たぶんそれもありふれた回答の一種になるだろう。ただ逃げているだけでは何も得られないが、何を得ようとしているのでもない。ではこれまで通りに逃げていればいいのか。そんなはずはないと思いたいわけか。逃げてばかりいないで、たまには立ち向かわなければいけないらしいが、何に立ち向かえばいいのか、立ち向かう対象がわからない。要するに対象がわからないと述べて逃げているわけだ。そんな語り方が気に入らないようだ。言葉のつながりがわざとらしく、そこに葛藤が感じられない。ではわざとらしく思い悩んだり迷ったりして、それらを大げさに告白してみせれば感動を呼ぶだろうか。感動を呼んでどうするのか。そういうことは太宰治の小説でも読めば事足りるか。あるいはナレーション付きのスポーツドキュメンタリーでも見れば、同じような感動を味わえるかもしれない。競技や試合に負けて行き詰まったりして、それでも苦悩の表情を浮かべながら黙々と練習に励む姿に感動したりするだろうか。そして番組のクライマックスにおいて、運命の競技や試合が待ち受けていたりして、そこで勝ったり負けたりして、やはり大げさなナレーションとともに感動したりするわけだ。しかし君はなぜ笑いながらそんなことを述べているのか。過去においてその手のスポーツ漫画を読みすぎているからそうなってしまうのだろうか。そんな君は人間失格だろうか。そういえば太宰治の「人間失格」を読んで感動できたか。何十年も前のことは忘れてしまったらしい。なんとなくそんなことを述べているうちに、だんだん阿呆臭くなってくる。例えば天才ベース奏者のジャコ・パストリアスの人生などはそういうものなのだろうか。彼はなぜ簡単に落ちぶれて死んでしまったのだろうか。やはり彼は人間失格だからか。彼の最高傑作だと評されている白夜のジャケットのCDを聴きながら、彼の人生の短さを嘆きたいとは思わないが、そんなものなのかという感慨以外はなさそうに思われる。


7月15日

 君はそこから動かない。誰かは昔の記憶を頼りに適当なフィクションを構築しようとしている。君がまだ君であった頃、世の中では何が流行っていたのだろうか。それは現代の話ではないらしい。矛盾のない秩序を夢見て、そのような制度を構築しようと日夜勉学に励んでいる人もまだいるらしい。本当にそれは現代の話ではないのだろうか。また誰かの決め台詞が思い浮かぶ。何かまだやり残したことはないか。遠からず意識の中で何かがついえ去る。それでも誰かはまだあきらめきれないらしい。しかし期待は裏切られ、希望は忘れ去られてしまった。この期に及んで君は何を待っているのか。何を待っているのか知らないが、どんなに待っても何も到来しないだろう。今は世紀末ではない。君は出現する機会を失ってしまったのだ。浅はかにも予言を信じた君が愚かだったのだ。それらの現象は完全に終わってしまったようだ。今は出来事からも見放されている。出来事が君を避けているようだ。君の周囲では何も起こらないように配慮されているのかもしれない。君は不幸の到来から守られている代わりに、状況には何も手出しできないようになっているのだろうか。ただひたすらじっと動かないことを強いられているようだ。そんな何もできないことが、君を単なる傍観者に仕立て上げている。しかしこれといって何を傍観しているわけでもなく、ただ何もない状況の中ににつなぎ止められている。空白を眺める他にできることといえば、ありきたりな妄想を抱くことだけか。何を妄想しているのだろう。何かを画策している姿でも想像しているわけか。君にはまだ起死回生を呼び込むための計画がある。そんな妄想に引きずられながら、まだあきらめきれずにいるようだ。そんな状況に精神が耐えられなくなっている。だから強引にこれから何かをやろうとしている。何かとは何なのだろう。それはいつまで経っても何かにしかならないような何かで、具体的な何かになることはないだろう。それでもやろうとしているらしいが、さっきから一向にやるべきことが見えてこない。たぶんそれはこれからやるべきことではなく、すでにやってしまっていることだろう。もうかなり以前から何かをやってきた。これからその続きをやろうというのか。仮にそれをやっても、何も捉えきれずに、空振りに終わってしまうだろう。これまでがことごとく空振りの連続だったのだから、これからもそうなりそうな予感がしている。結局は何もやっていないことになってしまうだろう。だから君は待ち続けなければならない。すでに待つことは終わってしまったのかもしれないが、さらに無駄な待ち時間を過ごさなければならない。なぜ待たなければならないのか。他の誰かはそれとは別のことを述べている。誰に告げられたわけでもないが、もう何も待たなくてもいいのかもしれない。ただそんな気がするだけか。では本当の君はいつ出現するのだろう。それは今なのか。だが文字を書き込もうとしている余白には、何もない空虚が出現し続けるだけか。やはりそこではまだ何もやっていないことになっているのか。神経のすべては何かを見せるために費やされている。なぜそれを眺めているのだろう。ただ眺めているだけでは退屈なのではないか。それはただ文字が連続しているだけの平面だろう。そしてそこに書き込まれている言葉の意味など、いちいち確かめるまでもないか。そこに何が書かれているかなんて、読まなくてもわかるだろう。読んでも時間の無駄か。すでに無駄な時間を過ごしている最中か。しかしなぜそんな言い草になってしまうのか。それが必ずしも無駄でないと思うのは、まだ前向きに生きている証拠になるだろうか。


7月14日

 気がづけばまた誰かがテレビを見ている。見飽きていると思っているのにそれでも見てしまう。それはもう病気の一種かもしれない。簡単にいえばテレビ依存症なのだろうか。確かさっきまでは乾ききった大地が画面に映し出されていた。乾いているとはどういうことなのだろう。たぶん画面の向こうは乾いているのだろう。灼熱の砂漠でありがちな冒険者が歩いている。もちろん形式的には彼の役柄は冒険者ではなく、単なるテレビレポーターの類だろう。現に画面のこちら側に向かって、その場所がいかに暑く乾ききっているかをわかりやすく説明しようとしている。しかしこちら側はかなり蒸し暑い。湿気を含んだ大気のどこが乾いているのだろう。冷房の効いた室内は乾いている。心まで乾ききっている。それは似非文学的な表現か。では乾いた意識は何を感じ取っているのだろう。退屈な毎日で死にそうか。いや、蒸し暑さで死にそうだろうか。すでに誰かは死んでいるのかもしれない。だが誰が死のうとそれは他愛のないことだ。他愛のない出来事が連続している。他では様々な出来事が起こっているようだが、今ここでは何が起こっているのだろうか。本当に誰かが死んでいるわけか。それは何かの比喩だろうか。比喩ではなく本当に死んでいる場合もあり得る。例えば暑さで頭が死んでいる。だが死んでいるのにどうして言葉を連ねられるのか。死んでいるのではなく、ただ死にそうに感じているだけだろう。もっとも冷房の効いた室内でそんなことを述べても説得力がないか。たぶん頭の中で何かが起こっているのだろう。神経回路上で電気信号が錯綜している。そうやってくだらぬ妄想が形作られて、妄想から生じたフィクションの中で、他愛のない出来事が起こり続けている。通常はその程度の出来事で言葉を弄するには至らないのかもしれない。何が通常なのか。しかしそれでは何も述べられなくなる。それでも何か述べられるとしたら他に何があるだろう。やはりそれも他愛のないことか。しかし何でもかんでも他愛のないことで片付けてしまえるだろうか。やろうと思えばできるかもしれないが、それでは言説がくだらぬ水準にとどまるしかないだろう。ではどうすればいいのか。例えばこれは何かのゲームなのか。ゲームについて何を述べられるだろう。今の君はいつかプレイしたゲームの内容についてあれこれ論評するような立場にはないか。世の中にはゲーム評論というジャンルもあるかもしれないが、やっている当人にとってそれは他愛のないことではないのだろう。しかし他愛があろうとなかろうと君にとってはどうでもいいことか。それはいつもの決め台詞のバリエーションに含まれるだろう。結局は何を述べているのでもない。何を述べても無意味に思われる。もちろん無意味だからどうだというわけではない。無意味を取り除いたら何もなくなってしまうだろう。本当に何もなくなってしまったら何を思えばいいのだろう。日が沈み、日がまた昇り、明日になったら何か言葉を弄するに値する出来事に巡り会えるだろうか。何を期待しているのだろう。期待は忘却とともに消え去るのみか。明日も同じようなことの連続になるかもしれない。それが常に到来している出来事なのだろう。だがいつかは乾ききった大地にも雨が降ることもあるだろう。現にどこかで雨が降っている。いつかこの蒸し暑さに耐えかねて誰かがどこかへ飛び出す。なぜそれが君ではなく誰かなのか。それも他愛のない出来事に含まれるだろうか。それでも決定的な破綻に陥ることはない。それは心の空虚を覆い隠すために企てられたわざとらしい動作に違いない。そんなことをやって、ただ虚しいだけの心境を一時的に忘れたいだけなのか。しかしそれを忘れてどうするのか。ここに至ってまだ何も述べていないような気がするだけか。確かに言葉は適当に連なるが、それらは君が述べようとしている内容ではない。だが君は何を述べようとしているのかわからない。ただ夏の蒸し暑さに耐えている。まだこれからいくらでも暑くなるのだろう。そう思っていないとやっていられないか。何をやっていられないのだろう。そんなことを思っているうちに季節は移り変わり、あっと言う間に秋になっているかもしれない。それは誰の願望なのだろう。


7月13日

 また何を述べているのかわけがわからなくなってきたようだ。それらの意味不明な動作から何かを導けるだろうか。誰かは目を凝らして遠くを見つめている。何も見えはしないだろう。別に盲目になってしまったわけではない。目を閉じて数日前を振り返る。やはり時間には追いつけないようだ。何も思い浮かべられずに焦りを覚え、結局は何も考えがまとまらないうちに、これから適当な文章が構成されようとしている。たぶんそれが冒頭の一文ではないだろう。後から適当な蛇足が付け加えられる。それはいつもの機械的な動作なのか。機械は機械固有の思考を宿している。それは設計者と使用者の思考だろうか。適当な場所に適当な機械が設置されている。そこで君は何を探しているのだろう。機械の運転に関するマニュアルか何かか。すでに駆動している機械をどうやって止めればいいのかわからない。思い通りの結果が出るように動作を微調整したいのに、何をどうやっていいのかわからない。君には応用力と想像力と決断力が不足している。それは無意味な見解だ。見解を述べている暇があれば、現状をどうにかして欲しいか。それでも何か述べているのだから、別に失語症というわけではないらしい。要するに君は機械を用いて文章を構成しようとしているわけか。そんなことはわかりきったことだろう。何かに依存していないと文章一つ構成できない。それは危険な兆候だろうか。始めからそうなのだからそれは仕方のないことだ。機械によって表現が制約を受ける。では言葉に関してはそれ以上の展開は不可能か。なぜそう思うのか理由が分からない。語る対象を特定できないうちは意味不明になりざるを得ない。君にはできそうもないことを君はやろうとしている。能力の限界を超えている。しかし君の能力とは何だろう。見いだされているのはそんなことではない。刺激のない無感動に包まれている意識は何を見いだしたのか。すでにこの状況が見いだされているではないか。ただ何もないのに何かを述べている。調子の外れたことを述べているのかもしれない。頭の中で何かごちゃごちゃしているようだ。日々変化する意識をどうやって文章の中に定着できるのだろう。できることなら首尾一貫した話にならないものか。そんなことができるわけがない。努力しないうちからあきらめてはいけないか。そのとき無意識は何を求めているのか。どこかで意識を制御しているだけかもしれない。誰かは興味のない話をしたがっているらしい。なぜ興味を持たれたくないのだろうか。ウケねらいをする必要を感じないのはどうしてなのだろう。そこに金銭が絡んでいないからその必要はないのだろうか。しかしどう考えても清廉潔白などではあり得ない。たぶんそれらの言葉を別の言葉で翻訳しなければ、何を述べているのかわかりようがないのかもしれない。何かそのときの気分に流されている感じがしている。それでもたまには霊感が到来するらしく、突然何かがひらめくときもあるようだ。奇妙な感覚がどこからともなくもたらされる。たぶん君はこの世界を馬鹿にしたいのだろう。批判する気も起こらないほど呆れ返っているのだろう。だがそんな台詞は安易なその場しのぎに利用されるだけだ。本当はもっと慎重な言葉遣いを目指しているはずか。ではどうしたらいいのだろう。君は世界中の人々から馬鹿にされたいのか。どうやってもそんな風になるほど有名にはなれないだろう。では何を困っているのか。困ったときには愛という言葉を使えばいい。その場限りの言い逃れとしては、すべては愛するがゆえに述べたことということにしておけばいい。やはりそれでは意味不明だろうか。それらのどこに愛があるのか。とりあえず愛という言葉ならいくらでも使用可能か。あるいはそれは恥ずかしくて容易には使えない言葉か。


7月12日

 文と文の間に意味が通るような文を構成しなければならない。だが石版に刻まれた異国の文字を読めるはずもない。鏡に映るそれはまるで屍同然の身なりか。人々の装いは日々刻々と変化するだろう。微かに響いている音は人の声か。誰かが墓の底から助けを求めている。もうここには何もない。では地上には何があるというのか。地上のどこへ行けば何に出会えるのか。そこで思考する対象に出会えるだろうか。巡り会うのが空白の時ばかりでは何ともやりようがない。それでも君は適当な思いを抱いているようだ。それが適当がどうかは人によって異なるかもしれないが、天上では理解しがたい光景に出くわしたりするらしい。なぜ天上界の話になってしまうのだろう。別に目の前の光景を理解する必要はないだろう。そうやっていつものように空虚から何かを抽出しようとしている。また際限のない戯れに囚われているようだ。だが技巧を弄する以前に、技巧とは言えない段階にとどまっている。彼は白夜の夜に何を見たのだろう。オーロラが出現する季節ではないと思われる。それはただのコンパクトディスクか。ディスクの表面に映る顔を眺める。誰かが画面の向こう側から呪文を唱えている。見え透いたことを述べない方がよさそうだ。読経も呪文を唱えるのと同じようなものか。呪文には何かよからぬ目的があるのと同じように、読経する人にも何らかの思惑があるのだろうか。よくありがちな目的として、健康を保つために読経する人もいるだろうか。それは写経とどう違うのか。健康を保つことがよからぬ目的とはいえないだろう。そんなことを思っているうちにも、画面はどんどん移り変わってしまう。それは空想上の画面になるかもしれない。君は文字が連なる画面以外には何も見ていない。たぶんそれは理解しがたい光景ではないだろう。画面から意識の中に何かが戻ってくる。光はどこかで乱反射しているようだ。それをプリズムを用いて七色に分光してみたいか。網膜を通して見えるのは光以外に何があるのだろう。幻影は目で見ているわけではない。目の網膜には映らないものを見ているような気がするだけか。それは幻影などではない。わずか五年の歳月によって人はどう変わるのだろう。変わり果てた姿は何を物語っているのか。変貌の激しさは、その地域の発展や衰退を示しているわけか。変わらない光景を保つにはどうしたらいいのか。雨が降っている。雨の香りと雨音を思い出す。それはいつの雨なのか。君は誰も必要としないだろう。君自身が君から必要とされていない。そう思っているのは君の意識ではない。利用する価値がないのかもしれない。少なくとも呪い殺されるようなことはやっていないはずか。気のせいかもしれない。何が気のせいなのだろう。幻影を見たのが気のせいなのか。何を空想しているのだろう。雲の切れ間から陽の光が差し込む。今見えている空は幻影などではない。だが今は夜かもしれない。腐臭を放つ屍は誰の変わり果てた姿なのか。それは映像表現の一種か。しかしそれが健康そうに見えるだろうか。誰が写経に励んでいるわけでもない。逆光の中で立ちすくむ人影に見覚えはない。秘密の三景の一つが白夜の季節に出現する。そんな思わせぶりに他意はない。ただ何かを空想しているだけか。音楽が人を狂わす時代があるように思われるのは勘違いだろう。世の中の移り変わりが激しいときには、人も次々と生まれては消えゆくだけだ。そんな時代に殉じて消え去った人々を、今さら物語によってよみがえらせようとは思わない。それだけの力量はなさそうだ。それは力量というよりは倫理の問題かもしれない。なんとなくあざとそうに思われてしまいたくない。小利口に振る舞っているつもりの人は下心が透けて見える。いったい誰がそんなことをやっているのか。


7月11日

 まともなことを述べるにはあとどれくらい無意味なことを述べればいいのか。無理だろう。無意味なことを述べていてはまともなことは述べられない。ではどうすればいいのか。前後の文脈がつながらないのは気が狂っているからか。そういう述べ方自体がとても正気とは思えない。笑いをこらえながらいつものフィクションへと逃げ込んでしまうらしい。そうやって現実から逃避し続ける。何を悩んでいるのだろう。悩んでいるのではなく、悩もうとしても悩めないのかもしれない。悩むような心境からは程遠い。では久しぶりの曇り空の下で、蝉の鳴き声を聞きながら何を見ているのだろうか。たぶん空を見ているだけなのだろう。しかし別に空模様を気にしているわけではない。天気の話には飽き飽きしている。意識はもっと意味のある内容を求めているのかもしれないが、君の存在には意味がない。なぜ意味がないのか。意味がないから適当な意味を付与しようとしているわけか。それでどうにかなるのだろうか。それは浅はかな行為かもしれないが、それによって君がこの世界に存在しているという確証を得たい。君自身は君の存在を実感したい。そうやってまた嘘をついているのだろう。それはあり得ないことだ。君が君でないという現実を君は無視している。そんな現実は知らないが、何が現実なのか話の中では定かでない。君が語っていることは、他の何かの動きと連動しているのかもしれない。試しにサイクロイド曲線上に感情の高低を重ね合わせてみる。何がサイクロイドなのか。意味不明だろう。難しい単語を用いて体裁を取り繕いたいようだ。それはどんな意味なのだろう。君はそこで何を無視しているのだろう。思惑通りには行かない現状から意味を抽出しようとしている。そのためには何を無視する必要があるのか。やはり話の前後の文脈を無視して、唐突にわけのわからないことを述べてみるべきなのか。意味不明に陥らないためにはそうするべきではないだろう。しかし今さら路線変更はできない。すでに手遅れなのかもしれない。現実に何をどのように述べてみても、それは現実ではないような気がしている。ただそこには、別々の時間に生じた様々な思惑が重なり合っている。まだ忘れられていない思惑のいくつかが意志を構成しているのだろう。それが心という言葉で表現される概念なのだろうか。その心から感情や思考が生じているのか。それらのどこまでが人の心から生じたものなのかはっきりしないが、そのすべてが心という言葉で表現できる概念と連関しているわけでもなさそうだ。とてもそんな風には思えない。君には心がない。それはまたいつもの嘘だろうか。なぜ心を嫌うのか。心に依存しない君の意識は、心とは考え方もやり方も微妙に異なる。そこで見えていると思っているものは心の幻影だろう。ただ心を幻想だと思いたいだけか。それは本質的なことではないかもしれない。何が本質なのかは、その対象の捉え方によって違ってくるのかもしれない。医学的な心臓が心であるはずがないか。なぜ臓器である心臓と心を絡めようとするのか。脳や心臓とは違う次元で語っているはずだ。では君が求めている思考の対象とは何なのか。対象はそこら中に散らばっている。別に脳や心臓を思考の対象としてもかまわないだろう。また途中が抜けているようだ。そこに至る過程が抜け落ちている。なぜ意図的に文脈から外れようとするのだろう。そうやってわざと破綻を装う。わざとではなく、必然的に破綻しているのではないか。今まで何を語ってきたのだろう。要するに人の心などに興味はないということか。それは何かの強がりが反映しているのかもしれない。結局何を述べても何ももたらされないか。水は限りなく透明に近い青色をもたらす。夕焼け色の空を見上げて青色を探している。意識していることのどこまでが意識の作用によって生じていることなのだろう。そこには必ず他と区別できる境界線が引かれているのだろうか。その線が目に見えていれば安心できるわけか。見えるわけがないだろう。


7月10日

 相変わらず失敗の連続を経験しつつあるようだが、まだ懲りずにやるつもりなのだろうか。誰に何を聞いているのだろう。これがフィクションなら、どこからともなくこんな声が聞こえてくるかもしれない。やりたければやってみればいい。いくら失敗してもかまわない。しかしそれは君の意志とは反対の動作なのではないか。それでもかまわないのか。確かにやりたくなくてもやっている状況もあり得る。だがいくらやりたくても何もやらせてもらえないときだってある。それをやらせる権限は誰にあるのか。そして何もやらせてもらえないときは、干されているということか。干されて干からびてミイラとなり果てる。そんなミイラはあり得ないか。アジの干物ではない。しかしそれらの何が失敗しているのだろう。君は失敗のただ中で何を感じているつもりなのか。本当に失敗したと思っているのだろうか。どうも成功であっても失敗であっても、そのどちらであってもかまわないような気がしている。要するにまだ出来事のただ中で、難局を切り抜けられずにいるだけなのではないか。もちろん意識はそれが難局だなんて少しも思ってもいないのだが、未だ切り抜けていないのだから、結果的にそれは難局だと見なしてもかまわないような気もしている。切り抜けられない状況のただ中で何をやっているのだろう。相変わらずもがき苦しんでいるふりをしているだけか。そんな風に思い込んでいると楽しいか。何が楽しいのか。わざといつもとは違うことを述べようとして、結果的に失敗に終わっているだけのようだ。作り話の中の窮地にはどこか楽しそうな雰囲気が漂っている。人格の自由度が物語の制約を受けて削られていて、作者が設定した枠内から逸脱できずに窮屈な感じを受ける。架空の意識が縮こまってしまう。だから状況的に絶体絶命のピンチであっても、誰が窮地に陥っているわけでもなく、誰かがそれを演じているだけなのだから、それほど深刻そうには感じられない。ではそれが本当の話だとしたらどうだというのか。過去にそんな出来事があったわけか。過去の話なら解決済みだろう。解決していなければ忘れてしまえばいい。忘れられないのなら、時折思い起こしてみるべきか。思い出して再検討でもしていれば気が晴れるだろうか。やはりそれは暇つぶし程度の効用を期待しているわけか。しかしそれだけではおもしろくないか。別におもろくなければならないわけでもないだろう。別にどこかの誰かと内容のおもしろさを競い合っているわけでもない。そしてそれをやるために死に物狂いというわけでもない。本気になれないのはいつものことか。いったいどのような状態が本気になったときなのだろう。どうやら途中から違う話になってきているらしい。偶然に頼って誰かの意志を無視してしまったのか。いや、まだ継続の意志は変わらない。ただ継続に嫌気が差している意識は、何も思わずに何かを眺めている。無視されていてもかまわないのか。それでもそれを文章にすると何か以外にはなり得ないのだろうか。具体的なものを言葉で構成できていないのか。具体的なものとは、ここでは何になるのだろう。沈まない太陽は北欧の白夜を思わせる。君は何を見ているのか。それはパノラマ的な景色に見える。本当に見ているものに興味を惹かれているようだが、思っていることはそれとは別のようだ。何かを眺めながら、その何かとは関係のないことを思っている。もちろんそれもいつものことだろう。しかしその思っていることにも飽きてきた。さっきまで何を思っていたのだろう。いきなり時間が飛んでいる。どうも空白の時間においては意識の存在が省略されているようだ。本当に今はいつなのだろうか。君の意識はどこで何をやっているのか。別に時空を飛び越えて北欧の白夜を体験していたわけでもないだろう。地平線をかすめながら太陽の軌道が正弦波のように上下している連続画像を見ているだけか。それがどうしたわけでもない。どうかしているのは、何を述べているのか定かでない言葉の連なりの方だ。なぜ唐突に北欧の白夜の話になってしまうのか。それは話ではなく画像だろう。


7月9日

 空疎な内容が繰り返される。なぜいつも同じようなことを語ってしまうのだろう。いったいそこで誰が語っているのか。相変わらず君は何も語ろうとしない。意識はどこかで停滞し続ける。つまらないことはどうやってもつまらない。早朝から壊れかけている。さっきから何をやっているつもりなのか。出だしから君にはふさわしくない天候を予感させる。そんなはずはないか。精神的に壊れているのかもしれない。どんな天気が君にふさわしいかなんてわかるわけがないだろう。そのときの空模様などもう覚えていない。そんなわけで、どんなわけなのか知らないが、いつものように日付とは無関係に何かを思い出そうとしているようだが、実際には架空の出来事を言葉で構成しようとしているだけなのかもしれない。そんなのはわかりきったことか。確かにわかりきったことかもしれないが、それでもなお、何かを思い出そうとしている。開き直ってフィクションを語るのが気に入らないのか。そう語っていること自体がすでにフィクションなのかもしれない。では何かを思い出そうとしているのも嘘なのか。本当に思い出してしまうのが怖いか。思い出すのが面倒なので、何も思い出せはしないだろう、と思い続ける。思い出したのはそんな台詞か。すでに何かを思い出しているのではないか。思い出しても、それを言葉にするのが億劫になる。言葉にならない思いなど何の役にも立たないか。役に立つようなことは、言葉にする以前に実践で利用されるはずか。そして実践でうまく行ったやり方が言葉で表現されて、社会に広まるわけか。そんなことの繰り返しの上に人間社会は成り立っているわけか。だからどうだというのか。そんな功利主義的な内容はありふれているが、それが人々に求められているのだろう。確か以前にそんなことを述べていたことがあったかもしれない。そのとき他に何を述べていたのか思い出せない。他のことはどうでもいいだろう。別にそのときと同じように語る必要はないだろう。しかし君が語ろうとしている内容は、誰からも求められていない無内容かもしれない。箸にも棒にも掛からない気休めの娯楽にさえならないようなことを語っているわけか。それほど卑下するようなことでもないか。とりあえずそれでも思い出そうとしているらしい。そして思い出そうとすればするほど無駄に時間を費やし、時間をかけて語れば語るほど、そこに嘘の内容が添加される。それは思い出された内容ではない。そこに作り話の入り込む余地が生まれつつあるわけか。誰かは渇いたのどを潤すために水を求めているようだ。水なら近所のコンビニで買えばいいだろう。買う金が惜しければ公園の水でも飲めばいい。ここは不毛の砂漠などではない。誰に向かって語りかけているのか。それは何と関係があるのか。暑さで意識がはっきりしないか。しかしそれはいつの話なのだろう。誰かはそこから何かを語りたいのかもしれないが、君にとってそんなことはどうでもいいことか。何をどう述べてようと本気にはなれない。そんなことを語ってどうするのか。何を考えているのだろう。思い浮かぶのは枝葉末節なことばかりか。そこに物事の本質などありはしない。本質そのものがわからない。やはり以前と同じようなことを述べているようだ。具体的に何を語る状況にもないらしい。何もやれる状況に至っていないのに、唐突にこれから何をやるつもりなのか。これから新たに何をやるのでもなく、それはまたしてもすでにやっていることの継続にしかならないことをやるしかないようだ。そんな風には思いたくないか。それでも思い出そうとしている。別に記憶喪失でもないのに、すでに何度も思い出していることを、また執拗に思い出そうとしている。何かがひらめいたときの状況を思い出したいようだが、それはどんなときだったのだろう。そんなときがそう度々到来するわけもないのに、そのときのことを思い出そうとしている。その時君は何をやっていたのだろう。たぶん何かをやっていたはずだが、それはまたしても何かでしなく、その何かが何なのかわからない。


7月8日

 どうもわからない。昔話の中で君は何を妄想しているのか。昔といえるほど昔のことでもないだろう。君が何を心配してみても、天地が崩れ去るわけがない。くだらぬ心配は杞憂に終わるしかないだろう。たぶんそれはあり得ないことだ。確かに一部ではそんな話があるらしいが、そうではないだろう。なぜそうではないといえるのか。機会が通りすぎてしまったので、わかりやすいことを述べられなくなる。権限が何も与えられていない状況で、そんなことができるわけがないか。何もやろうとは思わないが、何をやろうとしているのか。ただ何も思わなくても、適当な文章が形成されてしまうだろう。だが君が求めているのはそんなものではないはずか。それは誰が求めているのでもないのに、空白に適当な言葉が連なってしまう現象なのだろう。しかし相変わらず内容がないようだ。それは何かの駄洒落なのだろうか。何かではなく何なのか。そう述べてしまえる目的は何なのか。それはわざとらしい問いだ。なげやりな態度は夢や目標を抱いている人々には理解不能か。別に自暴自棄になっているわけでもないだろう。意識はすでに夢が叶ってしまった後の時期に入っているのかもしれない。そのときの夢とは何だったのだろう。そのときとはどの時なのか。その先へ進んでしまった意識にとっては、忘れてしまった夢を思い出すことなど面倒くさいだけか。忘れた頃に突然それが思い出されるときもあるだろうか。ただ今は空腹なのかもしれない。何が空腹なのか。それは何かの比喩なのかもしれない。では空腹と夢とはどう関係するわけか。比喩的には空腹を満たすことが夢を叶えることになるのだろうか。それでは動物と変わらないではないか。なぜ動物と人間を区別しなければいけないのか。動物が大志を抱いたりするわけか。もしかしたら動物だからそんなことができるのかもしれない。逆説的にありもしないことを夢想しているだけのようだ。夢見る動物は夢の中で獲物にありついて満足するわけか。それは獏か何かのことをいっているのかもしれない。しかし夢を食べる動物も夢を見るのだろうか。自分の見た夢を自分で食べていては、自分の尻尾に噛みついている蛇のようではないか。もしかしたらそれは人間特有の現象かもしれない。もちろん現実にはそう思い込んでいる人が多いだけで、実際には自分の抱いている夢は他人からもたらされたものだ。他人が語る夢に憧れて、自分もその他人を真似て同じような夢を抱くようになるだけだろう。とりあえずそこにオリジナリティはない。ただ話の尾ひれがついて、夢がより誇大妄想化することはあっても、それは他の固体の行動を真似るという動物的な行動の一種にすぎないだろう。ではそこに人間固有の作用を見ることはできないのだろうか。そんなことは知らない。その手の学者なら見ることができるのではないか。ここではそんなことはどうでもいいことか。それは述べる内容にもよるだろう。ではどんな内容を述べているのだろう。それもわざとらしい問いだろう。そんなことは一目瞭然でわかりきっている。他に何を問えるというのか。だが問われていることは何なのか。やはりそんなことはどうでもいいことか。夢と同じように誰かにとってはどうでもよくはないのかもしれないが、どうも違うような気がしている。途中から興味の薄い方向へ逸れていってしまったように思える。何を述べようとしていたのかわからなくなってしまったらしい。そのときの意識は、何かそれらの内容とは別のことを述べようとしていたのかもしれないが、結果的にそれはどうでもよくなってしまったらしい。別に燃えているわけではないが、比喩的には不完全燃焼状態なのだろうか。


7月7日

 わざとらしい憂いは空回りせざるを得ない。それで誰かの行く末を心配しているわけではない。またこの国の将来を心配しているわけでもない。ただ思い通りにならないから憂国の士になってしまうわけか。それに対して、何も思わない意識は何を思えばいいのだろう。何も思わなければいい。何も思わないではいられないのなら、何か適当なことでも思っていればいい。それでも飽き足らない人は発言の機会を求めるようになる。この状況をどうにかしなければならないようだ。誰かと議論を戦わせたいわけか。頭の中の集積回路が加熱しているらしい。そんな様子は無視してただ沈黙を装っている。ふりをしているだけか。くだらないことに関わり合いたくはないか。だがそれでは、何もしないうちに時間だけが過ぎ行くようだ。架空の君はどこかにいると思い込んでいる未知の人々に向かって何を語りかけているのか。少なくともそんなことを語りかけているわけではない。軽い気持ちで空白の時を過ごしているうちに、テレビ画面から目を引き離せなくなってしまう。それでかまわないのだろうか。そればかりでは何もできなくなってしまうだろうか。そんなことはお構いなしに画面上では狂態が繰り広げられている。見ている者の意識などにいちいちかまっていられないことは承知しているが、いったい何を考えているのか。何も考えていないのかもしれない。もちろんそれを見ているこちら側も何も考えていないのかもしれない。別にそれが狂態だなんて思わない。ただ成り行きでそう述べているだけのようだ。とりあえず現状を打開して作業を再開させなければならないので、意識の方から何かを調整しなければならないようだ。また得体の知れない何かに助けを求めているらしい。別に助からなくてもいいだろう。何に溺れかけているわけでもない。また何に思いを馳せているわけでもないが、いつも同じ気持ちでいられるはずがない。ただ他にやり方はないものか。いつも考えていることはそんなことばかりか。たぶんそれも計算の内なのだろう。決定的な破綻を回避しつつ、予定調和の内に留まり続ける。それでも何かが少しずつ変化してきているのだろうか。近頃の君ははったりが利いているのかもしれない。君が仮講した別の場面では、誰かが氷を噛み砕きながら考えている。何をやり損なっているのだろう。つまらぬこだわりは短い年月に洗い流される。何が洗い流すのだろう。言葉はどこにあるのか。あるとき博打打ちは望みを絶つ。何に絶望すればいいのか。つきからも見放されている。君はもう終わりだ。博徒は何を賭けていたのか。それは何かの決め台詞なのか。終わりだなんてこれっぽっちも思っていない。終わっていないのなら、これから何をやればいいのか。何をやろうと、空白の領域がますます拡大するだけだ。やる気は失せているのに適当な言葉が自動的に連なる。情熱とは何だろう。空虚にも情熱があるのだろうか。何かに夢中になっているときなどに情熱を感じられるわけか。それは誰の情熱なのだろう。誰が夢中になっているのか。君は覚めている。君の心に情熱を感じられないのはどうしてなのか。ただ何かに酔っているのではないと思い込みたいだけか。くだらぬ語り口に酔っているだけで、覚めていると思っているのは思い違いかもしれない。もしかしたら睡眠中かもしれない。睡眠中に何ができるのか。たぶん呼吸をしているのだろう。そして何かに巡り会うのは別の時間帯だろう。それは今ではない。今はただ何も考えずに眠るだけか。それだけではつまらないか。つまらないからこうして無駄に言葉を弄しているわけか。もちろんそれが無駄だとは思っていないのだが、結果的に無駄であったとしてもかまわないだろう。無駄であろうとなかろうと、君にはどうしようもできない。


7月6日

 また作業が遅れ始めたようだ。だが余白のどこに文字を書き込む場所があるのだろう。何も記述できそうもない君は苦しいのか。苦しいからどうだというのか。近頃はわけのわからない開き直りが流行っているらしい。本当に何を苦しんでいるのだろう。だがそれが苦難であるはずがないか。誰か他の人が災難に遭っているのかもしれない。しかし困難のただ中でもがき苦しんでいる人物は嘘をついている。その人物とは誰のことなのだろう。そんな設定のどこがおもしろいのか。まだ何も設定されていないのではないか。それらの何が真実なのだろう。それらとは何のことなのか。真実の中には嘘も含まれている。それが嘘であるはずがないか。またもやそれとは何なのか。それが見つからずに苦労している。苦労はしているようだが、誰がもがき苦しんでいるわけでもない。それが特定の人物であるはずがない。ではそれとは何なのか。ただ言葉としてのそれが循環しているだけか。何が循環しようと結果はわかっている。結局はわからずじまいになるらしい。それについて本気にはなれない。それがそれでしかないことに精神が耐えられない。できることなら、それがもう少しマシなそれであって欲しい。それではなく、ちゃんとした固有名で呼ばれたいか。それがそれでなくなったら、それではなくなってしまうだろう。しかし寝ても覚めてもそればかりでは気が滅入ってしまう。ではそれ以外に何を否定しているのか。なぜ否定しなければならないのか。寝過ごしてしまったら、いつかの朝に目覚めるだろうか。何かはぐらかそうとしているらしい。それがわかるのはいつになるのか。いつかの朝にそれがわかったりするわけか。しかしそれが困難に直面していることになるのだろうか。そして困難に直面して、わざとらしくもがき苦しんでみせるわけか。なぜそうなってしまうのだろう。どうも何かから逃げているような気がする。だがそんな気になるのも予定調和のうちだろう。それに次は何かになってしまうのもいつものことか。それでも逃げ道を模索しているわけか。なぜそこから逃げなければならないのか。そこには何もないから耐えられないのだろうか。何もないわけではなく、それや何かがあるらしいが、それや何かが何なのかわからないところが苦しいようだ。それはたとえようのない状況だと思われる。問うことをやめて、何もかも放棄してしまいたくなる。何かが何なのかわかろうとしなくてもいいだろう。それはいつまで経っても何かのままなのであり、それが特定の何かになってしまったらおかしいのではないか。唐突に特定の固有名が登場してしまっては不自然だろうか。君には何がおかしいのかわからない。それをわかろうとしていないのは誰でもない。君はすでにわかっているはずだ。いつの間にかそれは否定しがたい無内容になっている。だが語っていることは思っていることとは違う。語っているときは何を思っているのか意識していない。ただ口の中が苦くなる。それは意識とどう関係するのか。誰かがもがき苦しんでいるのは物語の中でのことか。そして物語などいくらでもある。君は方々にあるそれらの物語を無視して、無理に言葉をひねり出そうとしている。ただ結果に期待しているわけではない。思考している最中にそれとは別の思いに囚われてしまい、思考自体がつまらなく思えてくる。しかしそんなことを述べているうちに、興味を抱いた別の思いも忘れてしまう。そのとき何を思っていたのだろう。それは君には関係のないことか。ただ無関係だと思いたいだけのようだ。関係などあると思えばいくらでも思い込むことはできるだろう。


7月5日

 なぜそうなってしまうのだろう。やる気が失せているのは誰だろう。真実を語るのが面倒なので、またもや架空の話になってしまうのか。誰かがどこかへ走り去る。誰かとともに行ってしまうのは時間だけではない。誰かがさっきまで踏みとどまっていた場所もどこかへ流れ去る。流れ去るのは場所だけではない。さっきまで抱いていた思いも跡形もなく消え失せる。思いに跡形などないか。君は無駄に言葉を連ねながらどこへたどり着こうとしているのか。椰子の実が流れ着くのはどこかの海岸にでもなるのだろうか。架空の海から何が流れ着くのか。流れ着くように仕向けるのが面倒だから、いつの間にか何もかも流れ去ってしまうことにしておこう。そんな風に感じられるのはどうしてなのか。理由を知りたいか。君は文章の主語を探している。言葉はどこにも見当たらないようだ。まだ空虚という言葉を使う余地があるだろうか。そこは空虚な思いに満たされている。そことはどこなのだろう。それが空虚でないとすると、何に満たされているのか。誰かは満たされぬ思いをどこかに持っていきたいようだ。迷路の出口へ進みたい。そしてついでに、どこかに隠されている宝を探し当てたい。それはゲームなのだろう。君は君が誰なのか知っている。しかしそれはゲームのプランにはないことだ。それは公然の秘密ではない。しかし誰も知らない秘密は秘密とはいえないか。君はそれについて何を知っているのか。たぶん誰かがそれを知っているのだろう。今のところそれは君ではないらしい。ではそこで人知れず何かを知るのは誰なのか。誰も秘密を知る立場にはない。しかしそれは秘密ではないはずか。それを知るのは君の知らない誰かになるのだろうか。誰かが知っているのはそれだけではない。他に何を知っているのだろう。君もそれを知っているはずだ。知らないとしたらどうだというのか。覚えがないということか。それらの問答がつまらないのだ。それが率直な感想になるだろうか。それは前回と同じようなことだろうか。前回とはいつの前回なのだろう。まったく覚えがない。君は前回の過ちから何を学ぼうとしているのか。そこから学ぶべきものは何もないのだろうか。謙虚な気持ちがない。欠けているのはそれだけか。欠けているだけではなく、過剰に突出している部分もいくらかありそうだ。これから何を語ろうとしているのか知りたいか。それを知ってどうするのだろう。世の中にはいくら努力しても知り得ないこともある。そんなことに興味はない。そのときの気分を再現しようとは思わないか。要するに自らフィクションを構成したいわけか。フィクションの登場人物がフィクションを構成したいらしい。それはできない話ではない。君の感性はどの程度まで把握可能なのか。君は君について何をつかんでいると思っているのだろう。それは何かの秘密なのか。ではいつか隠されている感情が日の目を見ることになるのだろうか。架空の人と人との出会いはどこで実現することになるのだろう。今すぐここで出会いが実現してしまう。わざとそんなことを語っているようだ。気分は最悪か。絶体絶命の誰かはそれに類する台詞を繰り出していた。映画の中だから大丈夫だろう。演技しているだけだから死ぬはずがない。台本上でも危機を乗り切ることになっているはずだ。そして仕事が終われば大金が転がり込む。それはただの見せ物以上の何かを見る者にもたらしたいらしいが、その何かにだまされてその気になって生きている人が多すぎるか。なぜそれほどまでに懐疑的になれるのだろう。それの何が懐疑的なのか。それらの中の何を疑っているのだろうか。すべてではないにしても、いったん疑い出したら切りがなく疑い続け、結局はそのすべてを否定的な言説で覆い尽くそうとしてしまう。たぶんそうなった時点で気持ちが退いてしまうのだろう。やはりそれではつまらないと思うか。その途中で何かを見失っていると思われる。


7月4日

 相変わらず何を述べているのかわけがわからない。わけのわからないことにはどんな効用があるのだろうか。効用も何もそれがどうしたわけでもないか。何とかそこに一定の意味を構成しようとして、試行錯誤を繰り返しているようだが、結果的には失敗しているだけか。そんな状況がいつまで続くのだろうか。たぶんそれが利いた風な内容になってしまえば、そこで了ってしまうのだろう。そうならないように、意図的にわけがわからなくしているわけか。そこまで恣意的に述べているわけでもないだろう。しかしそんな自問自答状態ではつまらなく思えてくる。つまらないから、それとはまったく違う表現を文章に盛り込もうとしてしまう。そして調子に乗って盛り込みすぎてしまうと、内容が不連続となり、その結果わけのわからない文章となってしまうらしい。それも一つの回答になるだろうか。しかしそれは何に対する回答なのか。誰の問いかけに応じているのか。そんなことはわかりきっているのに、なぜわかりきっていることにわざと疑問を呈するのか。それもわけのわからなさを助長すべく試みられる、意味不明な問いかけの一つのパターンか。必ずしも意味は不明ではない。見いだそうと試みれば、そこに明確な意味や意図が立ち現れるだろう。今はどうなのか。意識は見いだそうと試みているのだろうか。試みているのかもしれないが、その試みのほとんどは失敗に終わっているのかもしれない。そして失敗していた方がなんとなくいいような気もする。仮に見いだされても、それらの意味や意図を信じられない。本当にそうなのかまったく確信が持てない。君は意図的に何をやろうとしているのか。また果たして見いだされた意味で満足できるのだろうか。自らにどのような能動性があるのだろう。またそのような意味になってしまうことに納得している意識とは誰の意識なのか。それらはただ難しく考えようとしているだけなのか。わざと込み入らせようとしているだけか。すっきりした精神状態ではいたくないわけか。ただごちゃごちゃ入り組んだ構造を愛でているのだろうか。構造が複雑であるほど何がどうなるというのか。要するにわけがわからなくなるだけのようだ。そんな現状を肯定も否定もできない。いや、肯定しようと思えば肯定できるし、否定しようと思えば否定できるだろう。肯定も否定もどちらでもいいような気がする一方で、そのどちらでもないような精神状態でもあるらしい。どうもそのような判断基準とは違う方面で何かを模索しているのかもしれない。そしてまた同時に、何を模索しているのでもないような気もしてくる。言葉は適当に繰り出されているものの、やはり何を述べているのでもないような気がしている。思考する対象がそのまま文章の内容とはならないようだ。語っていくうちに、自然とそこから意味のない領域にはみ出ていってしまう。絶えず揺れ動きながら、意図から外れた移動を繰り返す。そして結果として立ち現れてくるのは、どうしようもないわけのわからなさなのか。意識は常にそれ以外へと言葉の連なりを導きたいようだが、それらの試みのことごとくは失敗に終わり、しかもそれでかまわないと思い始めてしまう。それは仕方のないことなのだろうか。それ以外はあり得ないわけか。まれにそれ以外になっているときもあるのだろうか。よくはわからないが、そうなっていると思い込みたいときもあるように感じられる。たぶんそこに何らかの救いを求めているのだろう。もちろんそれを信じているわけではなく、懐疑の心が気まぐれにそれもありかと思うだけか。それは一瞬の気晴らしなのかもしれない。ちょっとだけ触れて、面倒なことにならないうちに急いでそこから立ち去ってしまう。何かをつかんでそれに囚われてしまうよりも、何もない自由が優先されてしまうようだ。しかし何もないと衰弱してしまうので、たまにそのときの気まぐれで、何らかの対象をつかんだつもりになってみるのか。ではちなみに今は何をつかんでいるつもりなのか。


7月3日

 今日も誰かがどこかで死にかけている。アフリカあたりでは道端で野垂れ死んでいる人が多いだろうか。それは偏見かもしれない。アジアでも中南米でもロシアでも中近東でも、世界中どこでも行くところへ行けば、そんな光景が垣間見られるだろうか。日本でも都会へ行けば、まれにホームレスが同じようは死に方をしている場面に出くわすかもしれない。しかしそれがどうかしたのか。それも結局はフィクションの一種だと思われる。現実には人知れず死んで行く場合が多いのかもしれない。そこに焦点を当て、それについて語り始めると、とたんにそれらの死はすべて虚構になってしまうのだ。そこに視点や論点を導入すること自体がフィクションを招いている。他人の死について語っている時点で嘘になってしまうだろう。君はそんな風には思わないか。サスペンスドラマでは人が岩場に追い詰められる。崖の上からカメラが荒海や渓谷を覗き込む。なぜそんな場所で殺人事件が起こるのだろうか。ドラマのロケ地としてそんなところしか撮影許可が下りないのかもしれない。あるいは見る者に束の間のスリルをもたらすには、そんな場所が最適なのか。しかしそんな理由が介在して、そんなシーンが構成されているとすれば、興醒めとなってしまうだろうか。そんな風に語ればなんとなくそんな気になるか。そこで人の死はどこへ行ってしまったのだろう。そこで死にかけている誰かの意識は、いつか見たそれらの光景を覚えているだろうか。ニュースによると、凶悪犯は自分の人殺し体験の自慢をしたくてしょうがないそうだ。刑務所に行けばそんな自慢話があちらこちらから聞かれるわけか。そういう意味では人殺しなど大したことではないのだろう。それは空き地に雑草が蔓延り、ベランダの植木は枯れているのと同じようなものか。同じであるはずがないか。ところで水はどこにあるのだろう。火星の地中深くにでも存在しているわけか。それはどこかの科学者の言い分か。雑草は土と水のあるところではどこでも生えてくるだろうか。別に雑草の話をしたかったわけではないが、なんとなくそこへ流されてしまう。そうなってしまう理由は何もないだろう。気分次第で雑草が好きになるときもあるのだろう。雑草が蔓延り続けているところでは人影がない。草を刈る人が見当たらない。誰かはそんな場所が好きなのか。廃屋が山の中で樹木に埋もれている。山村に人がいなくなれば、いつかはそうなるのだろう。行くところへ行けばそんな光景に出くわすこともあるだろうか。だが今は行くところへ行く気はないらしい。わざわざ出かけていくのが面倒なのか。たぶんそんなときにフィクションが構成されるのだろう。そうやって妄想の言語空間がどこかに生じているわけか。そこでは誰もが軽はずみに言葉を配しているようだ。しかし誰もいないのになぜ言葉が生じているのだろう。それは嘘だろう。独白には人一人いれば足りてしまうだろう。たぶん余白はそんな言葉で埋め尽くされている。夜に紛れて猫がどこかへ出かけて行く。誘惑の香りはどこから漂ってくるのだろう。架空の人物が闇の中で手繰り寄せているものは何だろう。それらの手探り状態は何のたとえなのか。それが探偵なら何かの手がかりを得るかもしれない。しかし現状では何もたとえになっていないようだ。強引に構成されたそれらは、現実に存在しているそれらではない。感触としては形あるものではないようだ。そして語っているうちに次第に馬鹿らしくなり、語り飽きてきたので、気まぐれに真昼の光景を思い浮かべる。しかし真昼に内容を求めるのも面倒だ。そんなことでは結局は何もない空間に向かってわざとらしく問い続けるしかなくなってしまうだろう。具体的に何を問うつもりなのか。闇はどこにあるのか。たぶん地球の反対側は闇に包まれている。だが他に誰もいないのになぜそんな答えが返ってくるのだろう。それもフィクションのなせる業だと述べたいわけか。しかし誰が述べたいのかはっきりしない。それはいつもの欠陥が露呈しているだけだ。


7月2日

 空白の時はなかなか埋まりそうもない。対象らしき現象に接しているつもりでも、言葉を思い浮かべるまでには至らない。また何を述べているのでもなさそうだ。なかなか語りが始まらないようだが、何を語ろうとしているのだろう。何を問いかけているのでもない。なぜ始まりからあきらめてしまうのか。何を述べようと言葉はどこにも響かない。何を否定しているつもりなのか。そんなことを述べたいわけでもない。音でないのだから響くはずがない。比喩的な表現でそんなことを述べているつもりなのか。つもりではなく実際に述べている。それらにつもりはないが、たぶんそこに興味を惹くものは何もないのだろう。いったい誰の興味に応えているつもりなのか。どうも今回はつもりばかりが連続してしまう。それはある夜の出来事だった。出来事はそれではない。そんな昔のことは忘れてしまった。忘れかけていたことが出来事になる。たぶん今は過去でない。ではなぜ今が夜なのか。出来事がどこにあるのだろうか。何もない現実が真実である理由を見いだせない。それとは何だろう。そんな表現はおかしいか。確かにおかしいが、どこがおかしいのだろう。同じ言葉が繰り返されている。意識は依然として部屋の中にとどまっている。そこからどこへ行けるはずもないだろう。何を見いだそうとしているのでもないし、何が見いだされるのを期待しているわけでもない。夜はやがて更ける。それを知ろうとしているわけでもないだろう。それとは何なのか。出来事がどこに起こったのか。意識が出来事の中身を知るまでには至っていないのだろう。それはどういうことなのか。何かが引き伸ばされているように思われる。そしてその先へ進もうとする意識を阻害している。意味のない言葉に埋もれて、何を述べてようとしているのかわからなくなる。言葉が求めていたのはそんな状況なのだろうか。今の君にメッセージは似合わない。似合わないからどうだというのか。何もないことを示すのも一つのメッセージには違いないが、それが君のメッセージである必要はないだろう。では他に何か送るべきメッセージでも持ち合わせているのか。腕時計の電池が切れたままのようだ。それを誰に伝えたいのだろう。それで空虚と戯れているつもりなのか。やはり何かがおかしいと思われる。夜中に中古車のオークション情報を見ている。それで空っぽの心が満たされるわけか。それの何がおかしいのだろう。君はリオデジャネイロへ行ったことがあるだろうか。ブラジルの未来世紀はどうなっているのだろう。そんな映画を断片的に見たことがある。今では内容を完全には覚えていないかもしれない。確かそれは未来ではなく過去の話に属していたはずだ。全体主義という過去か。普通の若者は政治についてあまり興味はないだろう。それはファッションとどう違うのだろうか。流行り廃りの言説に支配されているところはどちらも同じようなものか。車のデザインにも流行り廃りはあるだろう。例えばキャディラックが昔のような型だけだと思ったら大間違いのようだ。国産車とそれほど変わらない型のキャディラックもあるらしい。しかしそれと政治とどう関係するわけか。車と政治は無関係か。まるっきり無関係というわけでもないが、すでに期日前投票を済ませてある。後は中古車でも買えばいいわけか。しかし車を買ってどうするわけでもどうなるわけでもなさそうだ。それはわからないか。だが仮にどうにかなってどうするのか。いつ買うとも知れない車を利用して言葉を連ねているだけか。ある夜の出来事とは、後から思えば夜中に中古車情報を見ていたことかもしれない。たぶん後になれば、どうにかなっている自意識に気づくかもしれない。しかし後とはどれほど後のことなのだろう。死ぬ直前のことか。それほど先のことでもないかもしれない。例えば買った中古車で事故死して意識は唐突に幕を閉じてしまうわけか。それは何かの啓示だろうか。事故死するから車を買ってはいけないわけか。そんな展開もあり得るだろう。だが仮にそうなったからといってどうなるわけでもない。ただ死ぬだけだ。


7月1日

 それは構造的な不具合ではない。季節は移り変わり、それにつれて意識が思っている内容も適当に変化するようだ。それは思い込みに過ぎないのだろうか。バランス感覚とは何だろう。この世界のどこが均衡が取れているのか。相変わらず些細な環境の変化に心は動揺し続ける。無理矢理取ってつけたような出来事を、物語に付け加えることに、感性は疲れているのではないか。過去にやり残した仕事のことを、今でも片時も忘れたことはない。しかしそれが仕事だといえるだろうか。それとはどんな仕事なのか。またいつものはぐらかしになってしまう。人はいくらでも死ぬ。言葉はいくらでも構成可能だろうか。だがそれがメッセージだとは思わない。何を学ぶにも遅すぎるのだろうか。たぶんそんなはずはないと思いたいのだろう。世の中には一握りの本物と、その他大勢のイミテーションが存在しているのだそうだ。それは貴重品願望の一種かもしれない。現実には本物が多すぎて、それを模倣する気も起きない状況なのかもしれない。利益を期待できない代物を真似る必然性はないか。逆に模造品の存在を貴重だと思えば、気晴らし程度のおもしろさを感じられるかもしれない。ではいったい何が模造品なのか。例えば言葉自体が現実に存在する物を真似ているといえるだろうか。真似ているのではなく、指示しているのではないか。そして物自体に名前を与えているわけか。だがそこから先に思考は及ばないだろう。ただそれだけのことか。それだけのことにこだわる必要はないか。では何にこだわれば新たな認識へと到達できるだろうか。そんな風に思っているうちは無理だろう。気づいたときにはすでに認識を通りすぎている。捉えようのないことを捉えようとしているだけなのか。しかしそれでは何もやっていないことになってしまうのではないか。そう述べながらも意識は何かを捉えているのかもしれない。本物と偽物の境界線は本物幻想に基づいて引かれる。言葉の散らばりが適当な意味を構成している。それらの幻想は誰によって広められたのか。そこに何かがあるように思われるのはなぜだろう。実際には史実に基づいて物語が構成されているだけか。歴史上のある時点で誰かが興味深い行動を起こしたらしい。それが今でないのには何か理由があるのだろうか。過去に真実を求めないと何か差し支えでもあるのか。そしてそこで現代の有名人が登場しないことには見せ物として成り立たないらしい。君はそれらの物語が移り変わる様をただ眺めている。別にそこにカタルシスを求めているわけではない。何を昇華できるのだろう。内面のどこに攻撃的な本能が宿っているのか。さっきまで言葉に定着されていると思っていた意味が変容してきているように思われる。思い悩めば悩むほど、悩んでいる内容が馬鹿らしく思えてくる。そして気づいたときには何を悩んでいたのか忘れてしまう。また悩んでいた内容が記述されていないことにも気づく。それを文章として構成する気が起こらない。さっきから同じことが繰り返されているだけのような気がしている。さっきではなく、もうだいぶ前からそうなのかもしれないが、それが何なのか示されていない。示す気がないのだろう。情緒的に戦争について語る時代ではない。そこではただ人が死んだり生き残ったりしているだけか。そして大義が何なのか忘れ去られようとしている。そんなものがあるわけがないか。礼節などわきまえている場合でもないらしい。対岸の火事ばかり見物していても無駄かもしれない。それでもまだ世界平和を祈る人もいるわけか。それも無駄なことのように思われるが、やりざるを得ない立場の人もいるらしい。そうやって君は余白に無駄なことを書き込んでいるつもりなのか。今はわからない。何らかのシステムに組み込まれてしまっているのかもしれない。そんなこと以外にやりようがないのか。そう思われるのならそう思っていればいいだろう。それ以外に何を思えば気が済むのか。現時点でそんなことがわかるはずがないか。


6月30日

 何気ない写真の表面に虫の死骸が貼り付いている。たぶん世界と君は無関係だ。出だしから何を述べているのだろう。どうやってそれを継続させたいのか。何を思いながら作業を進めているのだろう。それは過去の出来事なのか。そしてなぜ未来に思いを馳せなければならないのか。どこかで現在の時刻に追いつけるかもしれない。それは微かな光明が見えている証拠だろうか。でまかせかもしれない。架空の物語の中では、螺旋状の階段を上へ昇っている最中らしい。下降してくるのは透明なエレベーターか。そこで何を見いだそうというのでもない。あるいは何を否定したいわけでもない。否定したい状況は他にあるらしい。たぶんその機会を待ち望んでいるのだろう。木陰の下から蔓が伸びつつある。早く切らないと木の幹に絡みつく。根こそぎにしないとまた執拗に生えてくる。雰囲気的にはそんな状況か。だが焦って何をやっても無駄だろう。遠からず誰かの意識は幻影の虜になってしまうだろう。そこには何らかの思惑が関与している。では思惑の内容とは何か。ただエスカレーターで躓く老人が多いらしい。それは何のたとえなのか。階段とエレベーターの間にエスカレーターがあるわけか。たぶんそれは内容ではない。内容がないから代わりにエスカレーターの話になってしまう。それが代わりになるとは思えない。壊れているのかもしれない。意識は何に対して反発しているのか。無限の世界は幻想の産物らしい。絶えず利いた風なことを語りたい欲望は、映像との共鳴現象の一部を構成している。それは演出による結果なのだろう。木を見て森を見ないのは誰もが気づかない過ちだろうか。誰も過ちだとは思っていないだろう。エッシャーのだまし絵を見たことがあるだろうか。連続する水路を流れる水の流れが途中で逆流している。未来が過去の原因となってしまう。映像表現の演出はそればかりのような気がする。はじめに結果ありきで、そのような結果になるようにあれこれ工夫を凝らしているだけではないのか。そんな制作者の思惑通りの結末がこれ見よがしに提示される。そこには途中で必ず綻びが出てしまう。無理を承知で強引に結論へ導きこうとする意志が見え見えになってしまう。必ずそうならなくては気が済まないのだろう。たぶんそんな見苦しくもわざとらしい展開を少しでも緩和するためにスポーツ中継があるのだろう。スポーツなら予想外の勝ち負けを体験できる。もちろん体験しているつもりになれるだけだ。ただ他人が勝ったり負けたりしている光景を眺めているだけか。さらに勝っても負けても紋切り型の結論が用意されている。それは解説者の感想でも聞けばわかることか。とりあえず実況者とともに興奮しなければならないのだろう。それはニュースでも同じことか。どう見ても予想外の結末なのに、それに対するコメントによって予想の範囲内に言いくるめるわけだ。コメントする者がどうあっても自分の思考が及ぶ範囲内の出来事だと述べたいのだろう。そうしなければコメント商売は成り立たないか。絶句してばかりでは仕事とはいえないだろう。しかしナイーブな人々はそんなコメントを真に受けることで現実をフィクションと取り違えてしまうわけだ。出来事をありきたりな言葉で言い表せば、たちまち現実がフィクションに変化してしまうことに気づかない人が多すぎるのかもしれない。出来事が言葉と映像によって幻影になってしまうことに無自覚な人が多すぎるか。しかしそれがこの世界を構成するリアリティそのものなのかもしれない。今やリアリティとは言葉と映像によって再構成されたもののことを言うのだろう。それを幻影だと断じてしまってはリアリティが成り立たないか。リアリティこそがフィクションだと述べてもピンと来ないか。それはほとんど間違った認識になってしまうかもしれない。


6月29日

 なぜ意識は冒頭に戻ってきたのか。たぶんそれは君の意識ではない。手法的に誠実さを欠いていると思われる。それはどのようなやり方なのだろう。やり方以前のやり方かもしれない。暇にまかせて暇を浪費している。それは以前から繰り返されてきた手法だろう。暇があるなら、浜辺で貝殻でも拾い集めていればいいだろう。しかし画面の向こう側にある浜辺に行くことはできない。時期的にも過去の映像かもしれない。それは過去の心象風景か。過去の世界であやふやなことが語られつつあるようだが、その時点で君は何を求めているのでもない。文章の結末の方で誰かが何かを語っているらしいが、それは君とは関係のない内容だろう。何を迷っているのか。迷いはいつから迷いとして立ち現れているのか。架空の物語の中で何を語ればいいのか。小説とはどのような文章から構成されているのか。漫画の中で漫画家が漫画を読んでいる。くだらない言葉遊びの範囲内で言動は推移しているようだ。だがそこにおいて人はしゃべらない。英語で語りかける者は人ではなく、英会話学校の生徒だろう。君は日本語の意味を取り違えている。この世界のどこに人類が存在するのか。どうも左肩の筋肉に不具合が生じているようだ。たぶん文章の中で過去と未来が逆転してしまっている。だがその最中においても、君の思考はどこへも向かわず、ただそのことについてのみ作動するらしい。今は過去なのか未来なのか。今は今でしかないだろう。ある時点でのすべての情報は娯楽に向かって繰り出されている。だが見せ物ばかりでは飽きてしまう。なぜそこで風景を見せようとするのか。しかしそれの何が風景なのか。そこに興味を惹くような中身があるとすれば、それは何だろう。君はそこに娯楽以外の中身を期待しているわけか。人々は何を求めているのだろうか。人によってそれぞれ求めているものは異なるだろう。君は何を求めているのか。過去の断片を取り出して言葉にしてみると、いつか繰り返した話になってしまう。また蛍光灯をつけっぱなしにして眠ってしまったらしい。まぶしさで目覚めていやな思いがする。夢を見ていたわけではない。誰かがどこかで何かを思い描いている。唐突に場違いな言葉が思い浮かぶ。プラネタリウムで冬の星座を眺めているつもりか。花瓶の模様に引きつけられる。相変わらずの意味不明か。水瓶座の季節はいつだろう。そこで何を述べているのでもないらしい。いくら努力しても何も得られない。そんな成り行きが好きなのか。そんな結果は承服しかねるか。それらの結果の何に納得すればいいのか。どこからともなく別の声が響く。現実はそれとはまったく違うと思いたい。努力は何のためにあるのだろう。なぜそんな問いかけになってしまうのか。無駄な努力は果てしない。そうやって誰にも得られない文字列を導き出そうとしているわけか。またそうやってわざとらしい技巧に走っているのだろうか。話はいつも未完のままに、意識は未知の領域に踏み込んでいるつもりなのか。結果をぶち壊しにしている。何をやっても戯れ言を得るだけだろう。それに反論するための文句が見当たらない。記憶の断片は方々へ散逸している。意識は雰囲気だけの思考に満たされ、それで適当な歳月を過ごさなければならない。いつまでも同じことをやっているらしい。そんな風には思いたくないか。そこに記述されている文章は、過去からどのように変化してきたのか。次第に中身が希薄になりつつあるのだろうか。それでも過去の文章を読み返す気にはならないか。たぶんそこに思想が欠けているのだろう。それは思想ではなく誰かが唱えているお題目だ。そんなお題目なら日本の政治家でも唱えられる。ユッスーの歌詞には魅力を感じなくなった。なんとなく十数年前に感じた幻影が消え失せてしまったように思われる。


6月28日

 昼と夜の合間に何を思う。焦燥のただ中で何も思いつかず、なんとなく終わりを予感させる気配を感じている。意識は生きているのか死んでいるのか分からない。この世界は何から構成されているのだろう。こんな状態で未来を信じることができるだろうか。世の中がこれ以上良くなると思い込めるだろうか。何を根拠に信じられるのだろうか。浅はかな思いには何も理由を見いだせないか。何を考えても無駄に思われ、何ら有用性と巡り合っている気がしない。有効な方策を見いだせずに、ただ無為に流されているように思われる。何に流されているのだろう。川が流れて行く方角は君の行き先とは関係なさそうだ。今はどんな出来事に囚われているのか。架空の意識にとっては、やっていることのすべてが無駄だと思われるようだが、現実にはそれは嘘だろう。実際にそれなりの利潤を得ているのではないか。しかしその利潤と作業はほとんど無関係に思われる。二つの時間の一方で無駄なことをやっているらしく、それを継続させるためにもう一方の時間が存在しているのだが、そこから得られる利益は無駄な試みには反映されていないようだ。だからなぜそんなことをやっているのか理由を見いだせない。では余白を文字で埋める作業はいつまで続くのか。それらはほとんど惰性で続いている行為かも知れない。そして後には意志も意識も介さない言葉の群れが現れる。そんな状況で何を述べてもすべてはまやかしか。しかしそれらの何がまやかしなのかわからない。わかろうとするのが面倒くさい。では具体的に何を述べているのだろう。相変わらずおかしなことを述べている。いったい誰が何を述べているのか。たぶん君が何か適当なことを記述しているのだろう。少し前の君はまやかしという言葉が好きらしい。しかしいつまでもまやかしの中に埋もれていても、作業は一向に進まない。そうこうしているうちに、妄想の世界では、壊れていた記憶装置の修理が終わり、次第に過去の忌まわしい記憶がよみがえってくる。そんなはずはないだろう。あちら側の世界では、それはいつの出来事なのか。あちら側には何があるのだろう。こちら側には何もない。今の君にはどちらの側にも何もないような気がする。あちらとこちらを隔てる境界線はどこにあるのだろう。身につけたつもりの軽薄な知識を用いて、この世界で起こっている出来事の何を馬鹿にしたいのか。何が大衆蔑視なのか。蔑視する対象がどこにいるのだろう。人はどこにもいないのかもしれない。漫画はまやかしだが、文学もまやかしだろう。それらのどこにも真実は語られていない。真実こそがあり得ない虚構なのかもしれない。誰がそれを心から叫んでいるわけでもない。まともな神経の持ち主なら、むやみやたらに叫びはしないか。それが文章として提示された場合、心の叫びは幻聴として響く。そしてそれはあり得ない虚構の叫びになる。そこで何かが燃え尽きている。対象を言葉と入れ替えて、思考はどこへも行けなくなり、いったん語ってしまった対象に戻れなくなる。出発した地点が原点ではないのか。その結果、架空の話の中で架空の出来事が起こる。そこで乗り越える壁などというものは存在ない。たぶん物自体が欠けているのだろう。それ以上何を説明すべきなのか。それ以外に何が必要とされているのか。例えばそこには音楽があるのかもしれない。だがそれで安易な逃げ道を見いだせるだろうか。なぜそれが安易だと思われるのだろうか。そこに教訓的なメッセージが潜んでいたりするわけか。やはりそんなやり方では本気になれそうもない。もちろん本気になった時点で勘違いの罠にはまっているのだろうが、それ以外にどうすればいいのか方策を見いだせずにいる。たぶん無理に迷路の出口を探す必要はないのかもしれない。


6月27日

 雨音を聞きながら他に何かを聴いている。それは砂が流れる音かもしれない。あるいはピアノの音色か。だがそんなことを述べていることに意味はない。述べた後から意味をこじつけても仕方がないだろう。だが本気で仕方がないと思っているわけではない。ただその場の成り行きで、気まぐれにそんなことを述べてみただけかもしれない。何を述べても述べなくてもいいのだろうか。何がそうさせているわけでもないか。その場の状況がそうさせているだけなのか。説明としてはそれでかまわないのかもしれないが、どうもそれ以外のことを述べてみたくなる。心のどこかにそんな意識が潜んでいるようだ。そんな意識がさっきから顕在化しているわけか。さっきから誰が夜空を見上げているのだろうか。唐突につながりを欠いて何を述べているのだろう。別に伝染病に感染しているわけでもないだろう。やはり言葉のつながりが見えてこないか。影はその話題にはあまり乗り気でないようだ。影にも意識が取り憑いているらしい。それは霊魂の一種か。通常霊は仏壇や墓地に宿るらしい。拝む人はそこに霊があることを暗黙の前提として拝んでいる。そこに何もなければ拝む必要はないか。実際には何もないわけではなく、位牌や墓石に刻まれた死者の名前がある。伝染病で死んだ人も、そこに名前が刻まれている限り、拝みの対象にはなるだろう。名もなき行き倒れの人は、無縁仏として坊さんが拝んでくれるかもしれない。ところで人はなぜ拝むのか。死者が成仏して欲しいからか。亡霊となって災いをもたらさぬために拝むわけか。拝むだけでそのような効果を期待するのは虫がよすぎるか。例えば死者が生前有力者だったら、その名を冠した神社でも建立すべきなのだろうか。そこまでやるような奇特な人がどこにいるのだろう。各地にその手の神社が点在している現状を思えば、過去にはその手の人が大勢いたらしい。今はどうなのだろう。人知れず自分専用の神社を造っている金持ちもいるのかもしれない。何か御利益を期待してそんなことをやっているわけか。神仏に頼るようでは先が見えている証拠だろうか。神頼みには真剣さが足りないか。真剣になって祈れば祈るほど、他の手段がおろそかになってしまうか。とりあえず八方手を尽くして、やれることはすべてやってからでないと、最後の神頼みに持ち込んではいけないか。そんなことをやって何になるだろう。商売がうまくいったり、難関校に合格したりするわけか。運はそうやって切り開くものだろうか。もちろん本気でそんなことを思っているわけではない。なんとなくステレオタイプな展開を馬鹿にしているだけのように感じられる。しかし何を述べようとしてそうなってしまったのか。言葉を連ねているわりには、実態として何を述べてるわけでもなさそうか。つまらない水準でうごめいているだけらしい。どこかで躓いてみたいか。それが階段の上でなら怪我をするだろう。現実に躓いている。フィクションの中でも躓いている。よろめいてどこかへ流される。形式にこだわっているのは馬鹿げたことだと思うわけか。人々はなぜそんな展開に感動できるのだろう。しかし人々が抱いている関心から離れて何を述べられるだろう。それでも何かを伝えようとしなければ駄目なのか。ではどこに興味深い対象があると思っているのか。たぶん君の知らないどこかにあるのだろう。現時点でそれを知ることはできない。今までに知り得たことは、ほんの一部分にしか過ぎないことは承知しているつもりだが、これ以上何を知ろうとしたいのか。それを知ってどうするのか。仮に知ったところでどうなるわけでもないか。一応はどうにかなるのかもしれないが、とりあえず知ってみないことには何も始まらないだろう。ならば知ろうとしてみればいい。是非それを知って欲しい。


6月26日

 今日はこれから何をどうすればいいのか。そんなことは誰に聞かなくてもわかっているはずか。すでにどうにかしようとしているではないか。夜空に向かってどうするのだろう。夜空ではない。いつものように誰がどうするわけでもない。夜空に見えるのは空飛ぶ円盤かもしれない。そんなはずはないか。夜空を見ているわけではない。それと同じように、たぶん昨日は昨日ではないはずだ。なぜ夜空と昨日が同じなのだろうか。君は昨日を振り返れない。今は昨日より過去なのだから、数日後の未来を振り返れるはずがない。振り返れば振り返った分だけ、振り返っている記憶を数日後の未来において忘れてしまうだろう。それはどこまでいってもフィクションの領域にとどまる記憶か。それでも昨日を振り返ってみるか。そこで何を反省すればいいのか。思考は何に対して働かせればいいのか。どこにも働いていないような気がしてくる。だがすぐにそれを否定したくなる。見栄を張って何かを考えているつもりになりたいようだ。しかし今は悠長なことはとてもやっていられないか。それほど忙しいわけでもないが、とりあえず思考を働かせる以前に、適当な言葉を繰り出さなければならない。なぜそうしなければならないのか理由は定かでないが、適当に言葉を弄んだ後から、その場の偶然で出現した言葉の連なりを、いい加減に分析しているつもりのようだ。要するに何をやっているのだろう。昔の詩人は夜空に向かって吠えていたらしい。まるで犬のような人だったのか。現代において誰がそうする必要があるのだろう。そんな仮定はわざとらしいか。ただあり得ないことをあり得ないことのように述べているだけか。あまり作為的に語る気にはなれない。それは冗談にはならないのかもしれない。目指しているのは冗談とは違うのだろうか。何が冗談なのか。夜空に向かって吠えることが冗談なのかもしれない。吠えているだけでは言葉にならない。犬は犬で人は人だろう。吠えるのではなく、言葉を繰り出すことが必要なのか。世の中には必ずしも必要でない人もいるかもしれない。吠えているだけで用が足りる人もいるだろうか。いつでも四六時中喧嘩腰の人ならそれでもいいのかもしれない。漫画のやられ役にはそんなキャラクターが多いか。話を分かりやすくするためにはそんな人物が欠かせないか。特定の人物に脚光を当てるにはそんなやられ役の存在が欠かせない。なぜ安易な物語にはそんな構図が必要なのか。それは誰のために物語なのだろう。そんな風に分かりやすさを求める人たちはどれほどいるというのか。最終的に勝ったり負けたりしないと気が済まない人がどれほどいるのだろう。そんな争い事が絶えないと話にならない物語が世間にはどれほど流通しているのか。人が行動するには争う相手が必要なのか。他人と争わなければ何もやってないことになってしまうだろうか。人と人の間には差違が横たわっていて、その差違を認められないことから争いが生じて、最終的にどちらかが折れて、自分が認識していた差違より、相手が主張する差違を優先させるまで、争い事は続くわけか。しかしそうなったからといってどうなるのだろうか。勝った側の主張を基にしたルールが制定されるわけか。そのルールに従わない者は、ルールを作った者や組織と争わなければならない。そんなことの繰り返しによって世の中は推移しているのだろうか。心優しき者はそれだけではないと思いたいところか。ではそれ以外に何があるというのだろう。譲り合いの精神が必要か。何かの標語のようだ。それはシルバーシートのことか。そんなルールを制定した者は誰なのだろう。やはりそこには電車やバスの中で座席に腰掛けたいという老人の願いが反映されているのだろうか。ではやはりそのルールに従わない者は、老人でもないのにシルバーシートに座るべきなのか。座席が空いていれば座ってもいいのかもしれない。後から老人が乗ってきても、譲るのが面倒なら座り続けるべきか。声をかける勇気がないならそうすべきかもしれない。それはおかしな述べ方か。実際にはそうすべきではないと思いつつもそうしている人が大半かも知れない。それは強制するようなルールではないような気がする。マナーという言葉で分類されるようなものに強制力はない。それをやれる心のゆとりがすべての人に備わっているわけではないのだろう。それはそういうことでしかないか。そんなことにいちいち目くじらを立てても仕方がない。どうしてそんな従いたい者だけが従えばいいだけのルールばかりでは世の中は成り立たないのだろうか。人に強制を強いるようなルールを徐々に減らしていく方向で世の中が推移していけば、それだけそこに暮らす人の自由度が増すことは確かだと考えられるが、そうなるためにはどうしたらいいのだろうか。


6月25日

 いつまでも天候について語っている場合ではないか。では他に何を語れというのだろう。時間的には今は夜だろう。天気の次は時間か。それは今の時間ではない。今でなければいつの時間について語ればいいのか。今がいつなのかわかっているが、いつものように正確な日付ではない。そこには何が表示されているのだろうか。ただの時計か。それ以外に何が見えているのか。それは何かの画像かもしれない。様々な色が混じり合い、カラフルな光景が形成されている。そこには適当な絵が描かれている。誰かにとっては適当でないかもしれないが、君にとっては適当な絵だと思われる。くどい言い回しだが、適当だと思われる基準が何なのかわからない。それはわからせようとしてわかるようなものではないか。しかしそれではわからないままではないか。気まぐれに柱に突き刺さった画びょうを抜いている。それは適当な表現ではないだろう。なぜ唐突にそんなことを述べるのかわからないが、何も述べられないよりはマシか。途中に付け加えるべき言葉を思いつかない。写真の表面に疲れた顔で歌っている人物が写っている。別にそれは心霊写真などではない。誰かが土埃舞う空き地でサッカーに興じている。何をやるべきか迷う余地などどこにもない。湿気に覆われた地帯では、薄汚れたゴム手袋からムカデが這い出てくる。机の上でつぶされたゴキブリの残骸を片付けながら何を思う。すべては写真の表面上で起こっている出来事なのか。鏡に映る姿は輪郭が希薄だ。靄の中で黄色い光が道を横切る。架空の君にそんなことがわかるわけがない。それは誰かの思考だろうか。残骸に囲まれて空気の重みを知ろうとする。今は夜なのか。崩れかけた壁にもたれかかり、彼は何を示そうとしているのか。希望がどこにあるのかわからない。この世には何もないが、あの世はこの世の続きではない。意識の連続性を確保することはできないだろう。君はこの世によみがえっているのではない。ただ写真の表面に一瞬の残像が貼り付いているに過ぎない。それについて写真家どう思おうと君には関係のないことだ。希望とはそういうわけのわからなさの後から出現するものか。だがそれもでまかせに過ぎないだろう。茶の色を愛でている人は暇なのか。こぼれ落ちる水道水を何で受け止めるべきなのか。バラバラに言葉を配置しているつもりなのか。そこに配置すべき基盤があるとは思えない。まるで音の残骸をつなぎ合わせたような曲だ。何を聴いているのか。同じような曲が延々と続いている。それは曲ではなく絵画だったはずか。当初においてはそうだったかもしれない。何を述べても無駄だと思う。メディアはすぐ単純な台詞に飛びついてしまうだろう。まともなことを述べようとしても、それらはみな軽薄なキャッチフレーズと化してしまう。君にそれと戦う権利などない。戦っている場合ではないだろう。フィクションの中で戦っても作者の思うつぼでしかない。誰が作者なのか知らないが、君はそこから逃れてどこかへ消え失せなければならない。そんなことがどうして可能なのか。君がいなくなれば、作品は未完のままどこかへ打ち捨てられなければならない。それは常に作品以前の習作でしかなかったのだから、それはそれで当然の帰結かもしれない。つながりを著しく欠いて、物語が出現する余地がないようだ。それらは単なる断片の寄せ集めに過ぎないのか。何の断片だったのか。安易な言葉の使用は禁物か。また幻想や空虚という言葉が思い浮かぶわけか。たまにはそれとは違った言葉を使うことができるだろうか。どこに使う余地があるのだろう。作品がどこにあるわけでもなく、打ち捨てられるべきものなどどこにもありはしない。はじめからそんな物語など存在し得ないのだ。あるのは何かが終わった後に残った燃え滓だけか。もはや燃焼する材料さえどこにも残っていないようだ。


6月24日

 雨がやんでまた蒸し暑さが増してきたようだ。しかし相変わらずやっていることに進展はない。何がどうなっているのかわからずにいる。わかろうとしていないのだろう。わかりたくないのかもしれない。思い通りにいかない現状に敗れ去っているわけか。わかっていることはそれだけか。それだけではないと思いたい。それ以上の出来事に巡り会いたい。やはり不可能を感じているようだ。作業は限界に近づいている。その限界が何なのかわかろうとしないようだ。意識は何を求めているのだろう。あるいは何も求めてはいないのだろうか。神経回路が壊れているのかもしれない。利いた風な意見の出力はごめん被りたい。絶えず分からず屋的な状態にとどまっていたいのか。それで気が治まるのならそれでもかまわないだろうか。ところで君たちは何を求めているのか。何を見つけ出せば満足するのだろう。そんなことを知ることは不可能かも知れない。それぞれの思いは千差万別であり、その範囲に明確な区切りは存在しないだろう。君たちの定義自体があやふやだ。定義などどこにもないのかもしれない。たぶん君たちは何も語らないだろう。これらの現状について語りようがないのか。何をどう語ったらいいのか見当がつかないか。それは途方もないことなのだろうか。無内容は限界を知らない。その気になったらどこまでも言葉を連ねられる。それらの文章は特定の意識を必要としないようだ。主張を持たないことは致命的なことではないらしい。それが時には科学的な知識に基づいてフィクションを構成するときもあるが、それでも何を述べているか不明のままだ。あり得ない話ではない。しかしどことなく嘘臭さが漂う。おかしな情念に操られて、どうでもいいような日常の慣習がごり押しされている。そんなことに心奪われていたいわけでもないだろう。なぜか否定的な気分でいたいようだ。それらの雰囲気をどうしても容認できない。いったい人々はどこに群れ集っているのか。それは多数の情念が指し示す方角に存在するのだろうか。例えば蜃気楼か何かだろうか。砂漠のただ中にオアシスがあるように見えるだけか。暴力的な欲望を満足させるために様々な娯楽が提供されているだけなのか。しかしそれらはみな見聞することしかできない。画面の向こう側でうごめいているだけだ。視覚と聴覚だけの疑似体験には限界がある。ではそれに飽き足らない人々は、触覚を伴った身体による直接的な快楽を求めているわけか。しかしそこにも疑似体験を介在させる余地があるのかもしれない。どこまでも直接性を回避できるだろうか。回避すればするほどそれの反動による暴力犯罪が蔓延するのかもしれない。抑制を利かすことはますますできなくなる。それが現状に適合した雰囲気なのだろうか。メディアから繰り出される情報を真に受けた拡大解釈の一種かもしれない。画面を消して紙面を閉じればいつもの静寂が戻ってくる。これが紛れもない現実なのだろう。さっきまで情報に踊らされていた情念はどこかへ消え去り、意識はただの空虚に覆われる。本当にそこには何もないのだろうか。外から鳥のさえずりが聞こえてくるが、それは幻聴だろうか。幻聴はスピーカーから聞こえてくる騒がしい雑音の方か。機械が作り出す音と自然の音との間に何か相違でもあるのだろうか。両者とも鼓膜の振動を介して聞こえているのだからそれほどの違いはないだろう。違いを感じ取っているとすれば、たぶんそこには思い込みが潜んでいる。その思い込みを肯定したい人は、やはりメディアからの情報に踊らされているのかもしれない。それが現代風の自然崇拝を構成しているわけか。もちろん昔風の自然崇拝も、当時のメディアである教会やら寺院やら神殿やらから発せられた情報を元として構成されていたのかもしれない。そしてさらにさかのぼれば、山や森や川や滝や海や湖や空から直接情報を受け取っていたわけか。それは今もそうだろう。


6月23日

 君は何を馬鹿にしているのか。馬鹿にしているのではなく批判しているのではないのか。だが君は君の知らないところで誰かに馬鹿にされているかもしれない。馬鹿にされたままでもかまわないのか。誰に馬鹿にされているのか知らないのだからどうしようもないだろう。また知り得ないことまで知ろうとは思わないか。では今知り得ていることは何だろう。外では雨が降っている。ならば雨が降り続いていることについて何を思うのか。ただ雨が降っていると思うだけか。そう思っているうちは雨が降っているのだろう。そんなはずはないか。君は状況的に雨が降っていることが気に入らないわけか。気に入らないからどうだというのか。そんなことはどうでもいいことか。では何か他に気に入らないことでもあるのだろうか。例えば、気に入らない人は早くいなくなって欲しいか。そう思っているうちはいなくならないだろう。そんなはずはないか。あるいはそんなケースもあり得るか。気に入らない人と和解しなければ、その人はいつまでもそこに居続けるだろう。しかしそれではいやな思いが募るばかりではないか。絶えず緊張状態のただ中にいると、ストレスから病気になってしまうかもしれない。君は気に入らない人と一緒にいると緊張するわけか。だが気に入らないにも程度がある。精神的に耐えられる程度の気にいらなさであれば、それほど苦痛を感じることにもならないか。また相手が自分より愚かだという確信があれば、苦痛を感じるどころか、しばらくは優越感に浸っていられるだろうか。とりあえずそんな風に思いたければ思っていればいいだろう。いつか自分の愚かさに気づくときが来るかもしれない。気づいたからどうだというのか。そのときが来たらわざとらしく改心したつもりになればいいわけか。それまではいやな思いのままでいればいいだろう。しかし誰がそのままでいられるだろうか。風に吹かれて心変わりがしてしまう。雨はもうやんだのだろうか。やんでいるとしたらまた降ってくるだろう。誰かは執拗に雨が降り続くことを願う。本当に願っているのだろうか。では戯れに心にもないことを述べているだけなのか。考えてみれば、別にそれほど気に入らないわけではない。別にどこの誰が気に入らないわけでもない。たぶんそれは嘘だろう。なんとなく述べた後から嘘だと気づく。そしてそれはつまらないことかもしれない。見聞する何もかもが気に入らないわけではないが、世の中には気に入らないことが多すぎるのかもしれない。だから何かしら批判したくなるのか。で、今は何を批判したいのだろう。何が痛烈に批判したいことでもあるのか。批判する対象を探しているわけか。たぶん探してもまともな内容は得られないだろう。現時点では何を批判すべきかわからない。今までに繰り出された数々の批判と同じような批判ではつまらないか。冗談にも程があるだろうか。何を卑下しているのだろう。言葉を重ねるうちに、いつものように何を批判しようとしていたのか忘れてしまったらしい。そしてそれが最近の逃げ口上になっているようだ。本当はむかついていることが山ほどあるのかもしれないが、とてもそんな雰囲気には見えないか。何を述べても、結局すべてはどうでもいいことに思えてくる。具体的な内容に至らないうちに気持ちが萎えてしまうようだ。そして気がつくと、無駄に言葉を弄しているだけのように感じられる。薄暗い戸外に目をやると、まだ雨が降っていることに気づく。確か冒頭では雨について語ろうとしていたはずだったが、その話の続きはどうなったのだろう。たぶんどうにもならなかったのだろう。雨は雨のままで何に転じることもなく、降り続く雨をただひたすら眺めているだけか。だがそれを誰が眺めているのか。君は画面に向かってただ何かを述べているだけのようだ。それは独り言の一種だろうか。


6月22日

 それは何かのお笑い種か。どこかの誰かは死ぬことや生きることに理由を見いだしたいらしい。何か理由があって、それによって人は死んだり生きたりするわけか。そんな風に思い込めば精神的に救われたりするのだろうか。そんな人は精神科のカウンセリングでも受けた方がよさそうだ。生きている人はただなんとなく生きているだけだろう。たまに生きている自身に気づく。自分は生きていると思い込もうとする。死んでしまえば死んだことには気づかないか。とりあえずナイーブな人は心のケアが必要らしい。そこに何が見いだされるわけでもないが、見いだしたい人には何かが見いだされるのだろう。背中に腕が回らなくなる。気分次第で死んだりする人もいるらしい。気が滅入っている人もいるそうだ。ブルースを聴きながら背中がかゆくなる。孫の手が欲しいところか。気が滅入る原因が分からないか。理由と言い訳との間にどのような違いがあるのだろうか。自分のやっていることに言い訳したい人にとってはそれが理由なのか。そして言い訳に行き詰まってしまったら死ぬしかないのだろうか。しかし何も永遠に沈黙していなくてもよさそうなものだ。ではその代わりに遺言状でも書けばいいのか。そんな暇がある人は幸せか。君には何もない。何もないから生きてるようだ。とりあえず生きているのだから、そのまま惰性で生きて行く方が、何もしない分だけ楽かもしれない。しかしそれが生きる理由になるだろうか。何が理由なのか定かでない。楽だから生きているというのは嘘だろう。苦しくても生きているかもしれない。それほど生きることにこだわっているわけでもないだろうが、死ぬことにこだわっているわけでもなさそうだ。何か強烈な衝動に囚われているわけではない。物事を深刻に感じられなくなっているだけなのかもしれない。そこに選択肢などいくらでもあり、また選択の余地など全くない。人は選ぶが選んでいるわけではない。ただそうなってしまうだけだ。たぶんそんなものではないのだろう。何か理由を見いだしたつもりになっていることに何の救いもない。しかしそれは誰の視点なのか。当人は救われた気になるかもしれない。それで救われてしまうのかもしれないが、そんな救いに何の価値があるのか。当人にとってそれは至福の瞬間なのかもしれない。なんとなくその程度で救われてしまうのは虚しい気がするが、そういう人が実際に大勢いるのだとすれば、それはそれで仕方のないことか。世の中がそんな風になっているのだとしたら、そういうことなのだろう。生きる理由を見つけて死ぬことを思いとどまってしまうとかいう話はお粗末に感じられる。その程度の人間は逆に死んでしまってもかまわないのではないか。なぜそんな展開になってしまうのだろう。命が大切であったりなかったりすることに何のリアリティも感じないのはどうしてなのか。理由が簡単に見つかってしまうこと自体がおかしい。そこには様々な精神的な葛藤が用意されていて、そんな試練を乗り越えた末に生きる喜びとやらを感じてしまうこと自体がフィクションなのではないか。それで済んでしまう人々は幼稚である。だが何が幼稚なのか不明だ。なんとなくそう思うだけでは説得力がない。どうもその辺に言葉では伝えられない何かがあるらしい。死ねば周囲の人が悲しむとかいうレベルの話ではなくて、要するに死んだ後に残る死体の処理が面倒なのだ。葬儀の費用やその段取りに気を使い、また火葬場で焼いた後に残る遺骨を入れる墓も用意しなければならない。だから天寿を全うして死ぬのは仕方ないにしても、なるべくならそれ以外では死なないで欲しい。とりあえず周囲に迷惑をかけたくなければ、その程度のことで生きていればいいのではないか。もちろん生きていることで周囲に迷惑をかけている人は、その周囲の人たちは当人が早く死んで欲しいと願っているのかもしれない。通常人の生死はそのようなレベルで処理されていると思われる。あまり情緒的に考えてしまうとフィクションの中で自家中毒に陥るだけだ。


6月21日

 どうも行事が立て込んでいるようで、さらに記述が遅れてしまうようで、やる気がまったく出ないらしい。そしてわざとらしく何をやる気なのかわからなくなる。わかっているのにわからないと述べてみる。これ以上何を述べても苦痛が増していくばかりか。しかし何が苦しく何が痛いのだろう。その場では、文字として苦痛という言葉が必要な雰囲気なのか。なぜそのような言葉が必要なのかわからない。そのような言葉に合うような何かが苦しくて何かが痛いのか。だが意識はその何かを知ろうとしていない。それは知ろうとして知り得るものではないのか。どうやら苦し紛れに回りくどいことを述べているようだ。思い通りにはいかないにしても、もう少しマシな内容にならないものか。相変わらず始まりにおいて無駄に言葉を弄している。だがそこからしか始められないのかもしれない。それ以外にどのように始められるというのか。それは始まりではないのかもしれない