彼の声42

2004年

5月31日

 あやふやな表現に走ってはいけない。別に走っているわけではないだろう。つまらないと思う意識は雨と風を感じている。そしてそれとは別の意識は言葉の用法を考えている。雨と風とは無関係なことを述べようとしているわけか。しかし風に揺れる竹林は何を連想させるだろう。心の移り変わりにでもたとえたい情景描写を導き出したいのか。それによって何を伝えたいのか。どのような状態からどのような状態へ心が移り変わるのだろう。何かを伝えることだけに生きている人は、この世界に何をもたらすだろう。そればかりの人は、たぶんそれが仕事なのだろう。では情報産業は世界に何をもたらしつつあるのだろう。それを知ってどうするのか。知らないことはいくらでもありそうだ。それらについて何を語っても無駄だと思う。君はそうは思わないか。もし思わないのなら、君は何を信じているのだろう。信じる者は、信じている対象が現前している、と思い込むことで救われるかもしれないが、語りかけている対象が、語りそのものに無頓着であることに気づかない。それらの意図や思惑を知ろうとしない。ただその場の気分で信じてしまう。また信じている対象が、何らかの権威をまとっていると思い込むことで、その権威をよりどころにして信じてしまう。しかし何かを信じるとはそういうことなのだろうか。例えば、述べていることの論理的整合性を信じるに足る判断基準とでもすれば、信じるという行為にもそれなりの説得力を持ち得るだろうか。君は論理的整合性などという概念が万能の効用があるとでも本当に思っているのだろうか。たぶんほとんどの人は論理的整合性を吟味する以前から信じているのだ。そして後からとってつけたように、論理的整合性という詭弁を強引に構成してみせる。政治家が述べていることの大半は、それに属する言説かもしれない。言葉を弄することの本質は、詭弁を構成することかもしれない。それが説得力を持ち得るか否かは、それを受け取る側の程度によるだろう。浅はかな人々はそれをすぐに真に受けてしまう。一方政治家の言うことなんてそんなものだと高をくくっている人々も、選挙になればそんな政治家と属している政党に投票するのだろう。政治家なんてそんなものだという思い込みに忠実なわけだ。たぶんそんな人々が、そんなことがまかり通る社会を支えているのだろう。そんな思い込みが崩れ去るのはいつのことか。まだ当分は無理のような気がする。結局は軽薄な議論に終始する人や、声の大きい人がもてはやされるわけだ。人々が安心して訳知り顔ができる程度の政治家でないと困るのだろう。テレビの討論番組で、芸能人から馬鹿にされたり呆れられたりするような人でないと困るわけだ。しかしそれ以外の政治家が存在できるのだろうか。やはりそれも制度的に無理だろうか。なにしろそんな人々によって選挙で選ばれるのだから、それに即した政治家が存在するのは当然のことかもしれない。政治家という職業自体が、そのような人でないとやっていかれないのかもしれない。しかしそれでは政治家なんてそんなものだという言説を裏付けてしまうのではないか。もう少し建設的な内容にならないものか。いったい政治家の誰について語ってきたのだろう。別に個々の政治家について具体的に語ろうとは思わない。それでは話が漠然としすぎているだろうか。とりとめがない。そんな話は信じられないか。それらの内容の中で、具体的に何を信じればいいのだろう。それらの内容によって世界を変えようとしているわけではないらしい。例えば有無をいわせぬ暴力の前で何を伝えようとしても無力だ。暴力を許しているのは一般市民なのであり、その暴力にさらされているのも一般市民なのだから、それらの自業自得の人々の間に理性を介在させることは難しい。簡単に破綻してしまうような、安易な夢や希望にすがりつくことが、暴力を助長している。やっていることがうまくいかなくなれば、すぐに暴力によって憂さを晴らしたくなるわけだ。そして無理を押し通すのにも暴力が用いられる。しかし暴力だけが問題なのでもない。他人をだまして出し抜くのもよくやる手口だ。嘘をついたりごまかしたりすることによって、やはり無理を押し通そうとするだろう。そんなことをやらなくても正々堂々と生きていける人は、すでに自らの立場が安泰なのだが、その安泰の立場を築くために、暴力やごまかしを手段として使うに人はいくらでもいる。


5月30日

 何がどうしたわけでもない。何も見えてこないのもいつものことか。見えていないわけではないだろう。十分によく見えているはずだ。視界はいたって良好だ。では何が見えてこないのか。何かが見えてこない。その何かを知りたい。何か途中にごまかしがあるのかもしれない。いったい意識は何を見たいのか。あるいは何も見たくないのか。いい加減に言葉遊びをやめさせたいのかもしれない。それらの何が言葉遊びだというのか。それを説明できるか。何を特定したら納得してもらえるだろうか。何がやりたいのだろう。ただ何かをやっている。ひたすらやっている。何をやっているかは人それぞれで違うだろうか。他人のやっていることには関心がないか。中には馬鹿なことをやっている人もいるだろう。それをやっているのが君だと思うわけか。誰が馬鹿なことをやってもかまわないだろう。馬鹿なことをやっている者は、別にそれが馬鹿なことだとは思わない。君もそうは思わないか。君のやっていることを、馬鹿なことだと誰が決めつけるのだろう。誰も君のやっていることなど気にもとめないか。何の利害関係もないのに、他人のやっていることにいちいち口を挟む気にはなれないか。しかし君は何をやっているのだろう。何を詮索しているのか。君自身のやっていることを知りたい。誰が知りたいのか。自分で自分のやっていることがわからないのか。そんな風には思わない。自問自答は避けたいところか。すでにやっているのではないか。では君のやっていることは、自問自答だということになるのだろうか。たとえそうであってもかまわないか。しかし誰にそれを問いかけているのか。君自身に決まっているだろう。君はそれらの問いには何も答えられない。それは答える気がないからか。何かそれとは違うことを述べてみたい。つまらないのだろう。つまらないと思う。おもしろくない。おもしろいとは思わない。どこかにおもしろい出来事があるかもしれない、とは思わないか。なぜそんな心境になれるのだろう。何もやっていないからか。つまらないこと以外は何もやっていないということだろうか。この世の中の何がおもしろいのか。おもしろそうに振る舞えば、自然とおもしろい心境になれるかもしれない。そんな心境になれないからつまらないのか。それはいい加減な推論か。つまらない原因など何でもかまわないだろう。なんとなくおもしろくなりたいとは思わない。今はつまらないままでもけっこうだ。なぜそう思うのかはわからない。なんとなくそう思うだけなのかもしれない。それ以上は詮索する気になれないようだ。もう十分に詮索しているではないか。つまらない原因はおもしろくないからだ。つまらないとおもしろくないの間が短絡されている。その間に何を差し入れたら納得するだろうか。どんな言葉を挿入しようと納得するつもりはない。なぜならつまらないからだ。そういうやり方がつまらない。ただいい加減なことを述べているだけなのかもしれない。気に入らないことについて気に入らないように語っているだけか。誰か画面を見て何を思えばいいのか教えて欲しいか。つまらないと思えば事足りるのだろうか。今はそうかもしれない。これからずーとそればかりではつまらないか。だからつまらないのだろう。ではおもしろくなりたいのなら、そればかりではないと思えばいいのか。それでおもしろくなったら世話ないか。しかし本当につまらないのだろうか。もしかしたら何も思っていないのかもしれない。つまらないともおもしろいとも思わない。いつしかおもしろくなくてもつまらなくなくても、どちらでもいいように思うようになるだろうか。何かおかしい。おかしくてもかまわないだろう。おもしろくなければつまらないのであり、つまらなくなければおもしろいのではないか。そんな風には思わないか。面倒なので論理的には考えたくないだけか。では他に何を考えているのだろう。それ以外の様々なことを考えている。なぜそれについては語らないのか。語るのが面倒だからか。込み入らせて語ることに疲れてしまったのか。簡単に分かりやすく語ればいいだろう。それができないから苦労しているわけか。できないとは思わないか。もうすでにやっているとは思わないのか。それも面倒なので肯定も否定もしようとは思わない。架空の存在である君には判断不能かもしれない。実在できないのだから判断しても仕方ないか。ではどうすれば君は実在できるのだろう。誰かから固有名でも授かればいいわけか。フィクションの中にも固有名はあるだろう。ならば君には生身の肉体が必要か。しかし君が実在してはつまらない。仮に実在するのなら名乗り出て欲しいが、そんなのは嘘だと思う。実際に出会っても君の実在を信じないだろう。出会うのもフィクションの中かもしれない。なんとなくそれは冗談のように思える。


5月29日

 何か主張したいことでもあるのだろうか。何が主張したいか考えてみる必要でもあるのだろうか。なんとなく冒頭から馬鹿らしく思えてくる。何があったか知らないが、もう少し陽気に振る舞えないものか。何かを主張するのと陽気に振る舞うのとは無関係だろう。暗闇の中に、ろうそくの炎に照らされて、暗い双眸が浮かび上がる。沈痛な面持ちで何を悩んでいるのだろう。意味がない。そんなのは嘘に決まっている。何やら映画の中の一シーンでも思い浮かべているつもりか。何を強引に差し入れているつもりなのか知らないが、そこにまともな主張は何一つない。それも主張とは無関係か。主張という言葉が気に入らない。過去の話題はすぐに忘れ去れ、メディアはその空虚な正体を隠すために、新たな出来事を探し回る。その一方で、気に入らないそれらの出来事を忘れ去ることなどできはしない。また北朝鮮か。またイラクか。そんなことには飽き飽きしている誰かは、何もかも忘れたふりをしている。そんな風にメディアを捉えるのは無益なことか。果たして善意はどこにあるのだろう。しかしそれ以上は述べたくない。たぶんどこかに突破口でもあるのだろう。その気もないふりを装いながらも、それを必死になって探し回っているのかもしれないが、面倒くさいので偽りの記憶喪失をもてあそぶ。実際には何をもてあそんでいるのでもないが、語りの中では、それが可能なふりをしているだけか。何を忘れたわけでもないのに、そんなことは忘れてしまった、が口癖になりそうな気配だ。また別に何を思い出そうとしているわけでもないのに、時はいくらでも過ぎ去る。君の記憶は風化の一途をたどるだけか。君の意識は忘却の彼方でもがき苦しむ。しかし文中の誰かとは何の面識もない。実際の意識は、相変わらず気の抜けた毎日を送っているようだが、それでいいのだろうか。それでいいわけがないか。そんなことはわかっているが、同時にわからないこともあるようだ。何がわからないのだろう。何がわからないのかわからないということか。ふざけている。そんなことが赤の他人にわかるわけがないだろう。だがわからなくともわかっているふりをすることは可能だろう。あるいはそれと同時にわからないふりも可能だ。さらに、わかるかわからないとは違う水準で、そのどちらとも無関係な態度を装うことも可能か。しかしそれでは、いつものように何を述べているのかわからないか。そして、わかっているのにわからないふりをしているのもいつものことか。そんな矛盾をわざと放置している。もう少し論理的に話を進めたらどうか。例えば起承転結の形式を導入してみたらいいのではないか。できるはずがないか。やはり何をふざけているのだろう。そうは思わないか。誰が思うのかわからない。また無駄な逡巡を繰り返す。陽気になるには、そこから脱出しなければならないか。脱出できるわけがない。すでに陽気な気分でいるらしい。陽気な気分であろうとなかろうと、何がどうなるわけでもない。その何とは何か。何にこだわっているのだろう。たぶん君がこだわっているものは意味不明だ。そのこだわり自体が意味不明なのか。それでもそんな形式にこだわっているのか。わかったりわからなかったりする状況の存在が信じられない。そこに何が存在しているわけでもない。そこには存在という言葉は当てはまらない。君の語りには欠陥がある。拭いがたい不信の念もある。君は過ちにしか反応せず、それらのよさを何も伝えようとはせず、ただ批判を繰り返すばかりだ。なぜ肯定できないのか。肯定できないはずがないか。世の中の矛盾とは何なのだろう。なぜ矛盾していると思うのか。満たされぬことの腹いせに批判しているわけか。たぶんそうではないと述べたいのだろうが、他に理由を捏造できるだろうか。捏造したいわけでもないだろう。どんな理由を並べ立てるにしても、それは捏造などではないと主張したいのだろう。できるだけ正直に、そして率直に語りたいわけか。何もできるはずのないことを述べているわけではないか。別にそれは自己批判などではないか。自己がどこにあるのかわからない、と嘘をつきたい気分になる。またそんなことはどうでもいいわけではない。どうでもいいことは他にあるようだ。例えばそれは何だろう。それは君自身の存在か。存在していても姿を現さないのが不特定多数の存在か。だがその存在をどうしようというのか。君にはどうにもできないか。ここでは結論が得られない。


5月28日

 これ以上何を述べても無駄か。まだこれ以上は述べていないだろう。これから何かを述べようとしているようだが、たぶん意識は無駄な言葉を導き出すだけだろう。時の流れには勢いが感じられない。時はどこへ向かって流れているのか。それは未来に決まっている。では君も未来へ向かって流されていると思っているのか。それとこれとは違う水準で推移している。無関係とはいわないまでも、関係を探すのが面倒だ。心が淀んでいるらしい。気持ちがふさぎ込んでしまっている。そんなわけでさっきから作業は中断している。そしていつものように、手遅れになってから過ちに気がつく。そんなよくある現象に悩まされる。もちろん本気で悩んでいるわけではない。悩んでいるように装わないと同情は得られないか。誰に同情して欲しいのか。とりあえず落ち着きを取り戻さなければならない。落ち着いていられるはずがないか。フィクションの中ではそういうことになっている。それは誰が構成した虚構なのだろう。それは君には関係のないことかも知れない。そればかりか、誰にとっても無関係なフィクションかも知れない。自分を飾り立てる意識が世界を見失わせる。そんな装飾的な試みが幻想をもたらす。しかしそんな幻想を通して世界が見えてくる。それは一時的に見失った世界とは別の世界のように感じられるが、実態は以前と何も変わっていない。視点も固定されたままだ。しかし君はこの世界の何を見ているのだろう。何も見ていないわけではない。だがそこから言葉をつなげるのが面倒なので、別の誰かが君の代わりに何かを思っているところだ。これから世の中はどうなるのだろう。そんな問いに答えようとは思わないか。予言者は予言の言葉を忘れてしまっている。誰が予言者なのか。未来が予言通りになってしまってはつまらないだろう。誰がそんなことを思っているのか。予言者に刃向かうものは神の呪いに苦しめられる。では、これで誰かは破滅か?君がそんなことを知る必要はないだろう。誰かは急いで言葉を選んで予言から遠ざかる。とっさに、やるべき事柄の優先順位を無視して、強引に適当な間合いを割り込ませる。しかしそれで何をやっているわけではない。わざとわけが分からない振りをしているだけか。目指していた動作はそんなものではなかったはずだ。そこで意識は立往生してしまったのだろうか。往生際の悪い誰かは、そうは思わないと思いたいか。とりあえずそれで何かが解決するわけもない。往時の真面目さはどこへ消えてしまったのだろうか。往時とはいつのことだろうか。遠ざかりつつある誰かの思いはいつ帰ってくるのだろうか。帰る場所などありはしない。その代わりに、何やら過去に聞いたことがありそうな台詞を耳にする。冬でもないのに冬眠中の動物には何も聞こえないだろう。言葉はちぐはぐな現れ方を好む。当分はこの調子なのだろうか。心の中には何もないのに、考え込んでいる振りをしている。だがそれで心は言葉に満たされているつもりなのだ。疲れているのかも知れない。疲れはありもしない状況を物語る。そのとき君は何かを繰り出すきっかけを忘れている。強風により出航を見合わせている。そんなアナウンスを聞いた覚えがあるだろうか。今すぐにもできることをやろうとはしない。辺りを覆う空虚には気力を見出せない。ただそれをやめなければならないと思う。それとは何か。パズルを組み合わせようとしないばかりか、組み合わせるべき断片をライターで燃やしてしまう。現状をそんな風には思わないか。意識は何を述べているのか分かろうとしていない。そんなわけで、誰かは思わせぶりな意見には耳を貸さない。なぜそう語るのか。そんな行為によって誰が何を悟って欲しいのだろう。神は用件を単刀直入に述べようとは思わないのか。それが神に対する精いっぱいの抵抗か。かなり雑なことを述べているように感じられる。そしてそんなつまらぬやり取りの後には、辺り一面にしばらく静寂の時が訪れる。やはり誰が何を述べているのでもなさそうだ。分かりやすさを望む誰かの意向を無視して、どこからともなく言葉が勝手に繰り出されているだけか。そんな結果を誰が予想していただろうか。だがいつまでも続けられるはずもないだろう。そんな台詞は聞き飽きたか。たぶん君はどこかで感性と事件の衝突に遭遇するかも知れないが、そうなったら自然とそれに合わせた言説が導き出されるはずか。だがはじめからそれを求めているわけではない。苦労してわざとらしさに至ろうとは思わない。


5月27日

 現状が気に入らない意識は批判の対象を模索する。だが何を語ってもどこへも至らないようだ。批判によってどこへ至ろうとしているのか。行き先はさっきから空洞を示している。空洞はどこにあるのだろう。至るところに空洞は存在している。だからそこに至ろうとしているのか。それが理由になるだろうか。例えばドーナツの真中に空いた穴の中に空洞がある。それを空洞とは呼ばないだろう。ところで否定作用はいつまで意識に影響を及ぼすのだろう。この先も何かを否定し続けるのか。もういい加減にして欲しいか。適当なところで妥協できないものだろうか。すでにある程度は妥協しているはずか。何を妥協しているのだろう。妥協せざるを得ない状況に陥っている。思い通りに行かないのはいつものことか。ここに至って何もない。妥協する材料が何も見当たらない。だがそれで妥協していないわけではない。だいぶ前から何か語るべき内容を探していたはずだ。いくら探しても何も見つからないので、結局はいつものように内容なしで語り始めてしまう。それが妥協の正体か。そして自己言及に至ってしまう。それが至った先になる。それでおしまいか。自己言及は空洞そのものか。冗談ではないか。あるいは冗談だろう。そのどちらでもかまわない。途中のどこかに言葉を挿入する気のようだ。それでも文章は意味を示そうとしている。では文章を生かすためには、意味に至るまで語り続ける必要があるか。適当なところで妥協して、意味不明のままにしておいてはいけないか。語り続ければいいだろう。語り続けている間は、情念を押え込んでいられるか。しかし情念は何を欲しているのだろうか。たぶん意味に至りたいのだろう。すっきりした分かりやすい文章によって、簡単な意味を提示してみたいのか。何を述べているのかはっきりしたい。そんなことが可能だろうか。情念はそれが困難であることに気づいていない。ここに至る過程において、さまざまな接ぎ木が行われながら、わけの分からない紆余曲折を経てきた事情を無視している。そしてそんな試行錯誤に疲れ果てて、内面のほとんどが空虚に覆われている現状から顔を背けている。誰が顔を背けているのだろう。情念に顔があるわけがないか。そんなことを述べているのではないか。意図的に語ろうとしている内容から語る方向をずらしているようだ。なぜそうしているのか君には分かるだろうか。語ろうとしている内容を見出せないからか。要するに意識は何らかの内容を構築しようとしながらも、結果的には無内容の回りをぐるぐる回っているだけかも知れない。メディアからもたらされる気休めの娯楽などでは満足できないか。しかし受身の態度では、いつまで経ってもそれ以外は何ももたらされないのではないか。自らが積極的に動き回らなければ何も発見できないだろう。だが動き回る範囲は自ずから限られる。ある場所と別の場所の間を行ったり来たりすることしかできない。そんなことでは行動が発見につながることにはならないか。だがいつまでも犬小屋に鎖でつなぎ止められた犬のような生活をしているわけには行かなくなるだろう。しかしそれは希望的観測といわれる気休めだろう。もちろんそこから抜け出す戦略がないわけではない。それは嘘だろう。やはり本気で述べているわけではないらしい。どうも現状はそれとは違うような気がする。本当は自由を満喫しているのではないか。それは言葉の上での自由だ。それ以外に自由はあり得ない。自由そのものが言葉によって構成されている。自由という言葉に勝手な実感を重ね合わせているにすぎない。そしてそんな実感に至ることを妄想している。自由になりたいと思うわけだ。現実には、その思っている自由な状態に至ることは決してあり得ない。いつも結果は決まって、こんなはずではなかったと落胆するばかりか。しかしそれでも、案外そうでもなさそうだ、と自らに嘘をつく。


5月26日

 なんとなく適当でいい加減な意見が続いてしまうような気がする。この際そんなことはどうでもいいか。何かに憑かれたように意味不明なままでいられるだろうか。なぜできるはずのないことを思うのだろう。意味はどこにでも貼りついてくる。何もなくても誰かが意味を見出してしまうだろう。そこから逃れることはできない。言葉は幻影にすぎないが、その幻影が物事に意味を付与しているわけだ。そんな粗雑で安易な解釈ではつまらないか。つまるつまらないの問題ではなく、根本的に間違っているだろうか。何が間違っているのか分からないか。間違っていようといまいと、そんな風にしか述べられない状況の中にいるらしい。誰かは疾走しているつもりなのだ。言葉をばらまきながら走っている。それは陳腐な表現か。比喩的にどうかしている。要するに何か気の利いたことが出てくるまでのつなぎとして述べていることだろうか。それを思いつくまで粘っているのかも知れない。だがそれでいいはずがないだろう。その場合、思い込みは勘違いと同義語になるだろうか。何かが近づいているように思われる。それが出口だと思われることが勘違いなのか。何を夢想しているのだろう。獲物を捕らえて逃さない工夫が欲しいところか。手の平から時間がこぼれ落ちる。何に追われているのか定かでない。しかしここからどこへ連れて行って欲しいのか。その辺に散らばっている言葉の断片をどうやって拾い集めたらいいのだろう。音楽はあてにならないか。だがそれしかないようだ。影は何を見抜いているのだろう。君は破滅から逃れ去るだろう。そして魅力的な生からも遠ざかる。破滅に近づくことが生きる喜びをもたらす。危険と隣合わせに生きなければ何も得られないだろう。そして死んでしまうわけだ。死して名を残すような人はそうやって破滅したわけだ。そんな誘いを拒絶することができるだろうか。拒絶したらそこでおしまいか。おしまいでもかまわないか。まるで何かに魅入られたかのように死への起動に乗っかってしまうのはごめん被りたいか。とりあえず今はそんな状況にはないはずか。それが出口とはならないだろう。死への入口を出口と見間違えている人は多いか。無理を重ね続けているとそれが分からなくなる。そこに救いを見出してしまうわけだ。別に誰が追い詰めているわけでもないのに、自分から勝手に追い詰められてしまう。終わりが見えてくるときはそんなものだろうか。しかしなぜそれで終われるのだろうか。いったい何を悩んでいるのだろう。ただ考える手間を省いているだけか。考えている間は終われないが、思考が途切れて行き詰まったときが危ないか。しかし死について考えるのはいかにもありふれているような気がしてくる。どこかの偉い坊さんのようにはなりたくないか。寺院という狭い範囲内でしか通用しないことを、もったいぶって話す姿には哀しいものがある。それを真に受けて信じられる人ほど、坊主としての位が高くなるのかも知れない。もちろん修行の初期は、一通り戒律などに反発するらしいが、いったんそれに染まって転向してしまうと、ある時期を堺に急に物分かりがよくなって、従順な態度になってしまうようだ。そして命がけの荒行などを平気でやるようになる。そして厳しい修行の末に偉くなると、何やら利いた風なことを弟子たちに向かって説教するようになる。そんなことが過去から連綿と繰り返されているらしい。それが洋の東西を問わず、さまざまな宗派で実践されている。しかしそれが何になるのだろう。何になるかなどと考えてはいけないのか。人間の生きる形態として、そんな生き方もありなのだろうか。何のためにではなく、ただそういうことのためだけに生きている人もいるわけだ。もちろん寺院の外に暮らす一般の人々向けには、救済という方便や口実があるわけだが、果たしてそれを信じている人がどれほどいるのだろうか。もちろん実際に坊さんたちの活動が世の中の役に立っている面もあるのだろうが、どうもそれを無批判に受け入れるわけにはいかないような気がする。


5月25日

 否定的な意見は否定する対象を故意におとしめる。君は人畜無害な結果に惹かれているのかも知れない。その一方で邪悪とされる存在を滑稽に扱おうとする。邪悪だと非難することが馬鹿らしく思われなければ気が済まない。そんなことに救いを求める行為が気に食わないのか。安易に救いを求めてはならない。それでは宗教の罠にはまるだけだろう。できれば救われない状態の中で生き続けるべきだと思う。頭が弛緩しないように少しは緊張していないと、なんとなくもったいないように思われる。幸せになってしまったらそれでおしまいだ。そこから先は何もできなくなるような気がする。目指しているものがそれとは違うのだろうか。建前上は何も目指していないことになっているはずだ。たぶんそれでもかまわないのだろう。目指すとか目指さないとか、そんな基準で語っているわけではないと思いたい。夢や望みなどを安易に表明すべきではない。そんな表明によって行き先が固定されてしまう。要するに君は何者にもなれない宿命なのか。たぶんそれ以前に何者かになっていることだろう。すでに何らかの立場を占有してしまっている。そしてその立場にしがみつこうとしているだろう。そんな卑しい性根を隠そうと必死の人もいることだろう。偽善者とはそういうものか。もちろん偽善者はそうではないと否定することしかできないだろう。誰もが無垢でいられるはずがない。嘘をつかないとやって行かれない場合がほとんどか。正直であろうとすれば必ず破綻するだろうか。状況が正直であろうとする態度を打ち破ってしまう。またひとたび他人を諭すようなことを述べれば、いつか自分が諭される番が回ってくるかも知れない。だから無防備のままで偉そうなことは述べられない。どこかに逃げ道を用意しておかないと、窮地に陥ることになるかも知れない。立派なことをやればやるほど、いい加減に振舞えなくなるか。周囲が認める自らに対する高い評価を裏切れなくなってしまうわけか。もちろん思わぬ不祥事の発覚によって化けの皮が剥がれてしまう場合も多いが、やはりそんな人々は滑稽に映るだろうか。中にはざまあみろと陰口を叩いている人もいるかも知れない。それでも有名になりたい人はあとをたたないだろうか。自分のやっていることを認めてくれる人が大勢欲しいか。そうならなければむくわれたことにはならないのだろうか。テレビ画面上から自己主張する人々は何やら脂ぎっている。いつもそんな人々でごったがえしている。他愛のないことに夢中になれる人は幸いである。そんな台詞を誰が発すればいいのだろう。それとも、わざとらしい感動の押しつけやお涙頂戴にはへき易させられるか。今さらそんなことを述べてみても始まらないだろう。君には始めから関係のないことかも知れない。君はすでに終わっている存在でしかない。何が終わっているのか知らないが、なんとなくそんなレッテルを貼られているような気がする。どこかの誰かは、一時期抱いていた幻想に完全に幻滅してしまったわけか。だが幻想は幻想を超えられない。それは現実以上に幻想的な想像力の発動を望んでいるが、幻想はどこまでも幻想の地平のこちら側で右往左往するしかないようだ。すでに終わっているのだからまた何か始められると思うのは大きな間違いか。しかし小さな間違いよりは大きな間違いの方が気分が良いのではないか。だがそもそも何が間違っているのか定かでないのに、間違いの大小を比較すること自体が間違っているだろう。たぶんそれもこれもどうでもいいような気がするだけで、いい加減な語りの回りを同じような言葉がぐるぐる回っているだけにすぎないか。だがそれで気が済むのならそれに越したことはないか。いったいそれで誰の気が済むのだろう。


5月24日

 さっきまで何をやっていたのだろう。わからない。画面上から闇の力の素晴らしさを見ていた。それは冗談かも知れない。冗談を述べている暇があるのか。暇があるわけではないが、暇がないわけでもない。実際にそんなことを述べている。まだそれを述べる時期ではないのかも知れない。しかし未来においては時期を逸しているだろう。だから冗談を述べている暇などない。何か言葉的にごまかされているような気がする。ところで闇の力の方はその後どうなったのだろう。有名な空想映画の中で怪しげな超能力として表現されているわけか。いつもそれは光と闇との戦いとなるだろう。なぜ闇に正義が宿らないのだろう。正義自体が光を目指しているわけか。誰かが調子に乗って叫んで見せる。正義は偽善だ!偽善の何が悪いのか。そんな反論もありだろうか。誰に問いかけているのか。そして誰が反論しているのか不明だ。それらの語りには内容が伴っていないようだ。何かしら争い事が生じる限りにおいて、当事者の誰もが自らに正義があると主張したくなる。自ら進んで悪を引き受ける者などいはしないだろう。悪いのはいつも相手側に決まっている。そういう意味で君は悪い人だ。それがどういう意味なのか明らかになっているだろうか。君が正義に対立する相手だからか。だが悪の化身は子ども向けのアニメの中に出現する安易なキャラクター以外にあり得ない。それと君とはどういう関係にあるのか。またずいぶんとまわりくどいこじつけではないか。それも冗談の範囲内になるのだろうか。闇の力は欲望に根ざしている。すべてを手に入れすべてを支配しようと欲する者から闇の力は発動するそうだ。それを実現させるための障害となる法や制度を打ち砕き、邪魔者や邪魔する組織や団体を暴力によって壊滅させ、この世のすべてを手中に収めるまでは極悪非道の限りを尽くす。だがそこまでやる必要性がどこから生じてくるのだろう。それは物語的な帰結として、そんな人物や組織を配置しないと、正義を体現する主人公が魅力に欠け、それを見聞する人々の興味を惹かないからか。劇的な展開にはそんな設定が欠かせないか。そしてそんな悪を体現する人物や組織は最後の最後で挫折してしまうわけだ。そうしないと物語は終われなくなる。要するにまずは極悪非道の者たちを適当な時空に配置し、そしてその者たちが正義の前に敗れ去るまでが、紋切り型的なファンタジーの一部始終となるわけだ。大枠としてはそうやっておいて、終わるまでの途中において、紆余曲折を伴った筋書きが時間稼ぎに挿入される。恋あり裏切りあり冒険あり謎解きありの、魅惑のおとぎ話になるわけだ。しかしそんなことは誰もが前もって承知していることではないのか。たぶんそれらを堪能する以前に安心しきっているのだろう。堪能するためには前もって安心しておかなければならないわけか。それがなければわざとらしくハラハラドキドキできないか。そんなわけはないか。それも冗談の一種だろうか。目ざとい者はそこからこぼれ落ちる部分に注目しなければならないか。さらに冗談を続けるなら、そこに感動の源泉が存在しているわけだ。個々の登場人物に思い入れをしなければならない。あるときは哀愁を帯びたキャラクターに恋心を抱き、またあるときはドジで間抜けで憎めない悪役に惹かれてしまったりするわけか。楽しみ方は人それぞれかも知れない。そうじゃないだろう。自然と笑いをこらえきれなくなる。なぜ君は低次元の話しかできないのだろう。では利いた風なことでも述べれば気が済むのか。例えば、感動する観客は、物語の中のエピソードに思い当たる節でもあるのだろうか。自分の生活とファンタジーがリンクしてリアリティを感じさせるわけか。それが我がことのように思われて、時として涙を誘ったりするだろうか。しかしそれがどうしたのだろう。それが精神的な昇華作用にでもつながるのだろうか。そんなわけ知り顔的な解釈は好きになれないか。


5月23日

 どこかで冗長ぎみに会話が交わされている。それをまともに聞いているわけでもないらしいが、次第にその内容に飽きてくる。何が始まるわけでもなく、何が終わるわけでもない。意識はそんな相変わらずの毎日に流される。世間話に聞き入っているように装いながらも、自らは無言のままでいるようだ。あまり積極的に話に加わらない。言葉を繰り出すきっかけはどこにあるのだろう。真面目なのではない。どうも始まりが見当たらないようだ。それはおかしいか。挙動不審に陥っているわけでもないだろう。警察から職務質問を受けているわけでもない。ただ言葉づかいが少しおかしいのかも知れない。おかしいことに自ら気づいて、それで気分がすっきりするのか。気分の問題ではないだろう。そんなことは以前から気づいていることだ。ではこれから何を否定するつもりなのか。否定すべき事柄を見出せない。冷汗が出る。そのときの気分はまともでない。まだ半分夢の中にいるようだ。ぼやけた意識を調整して正気に戻れるだろうか。正気か否かはどうでもいいことか。別に狂気に触れているわけでもない。身体は空気に触れている。ただ語りの内容がまともではない。だがそれもいつものことだろう。わざとらしくそんな風に思いたいだけか。そしてひねくれた性根がまともでない文章を構築したいだけか。本心からひねくれているとは思わないか。そしてまともか否かの基準などどこにもないと思うわけか。そんな目論見はあっさり砕かれる。実際には何を砕いているのだろう。それはハンマーで砕かれたラムネのビンか。それは思考の対象ではない。ガラスを砕くと砂になる。そこで物と意味が一致しないように思えるのは気のせいか。空気は物だろうか。微視的に見ればある程度は物質で満たされているのだろうが、そんな意味で空気という言葉を用いているわけではないだろう。それを用いて、いつものように空虚な気分を醸し出したいわけか。そうやって虚しさに浸りたいのだろうか。やはりそれでは意味がない。しかし意味を求めているわけでもないだろう。だがことさらに意味不明を構成したいわけでもない。この時点で何を求めているかなんて分かるはずがないか。何を分かりたいのかが不明だ。何も分からないが、分からない振りをしているだけのようにも思える。しかしそんな語りでどこへ到達したいのか。それは涅槃の境地か。返答に窮して、唐突に仏教用語に逃げている。そんなことをやっているうちにもどこかを通り過ぎている。ただ通り過ぎるだけで、意味をつかめずに対象を見失う。語っているうちに何かがかみ合わなくなる。頭の中が整理できていない。事態が錯綜しているように思えるが、それは気のせいだろうか。気のせいではなく、意識が混乱しているのかも知れない。神経回路が混線しているのか。そんな風に思うのは後から文章を読み返しているからか。その場の気分で書かれた文章を後から読み、それについて適当な見解を出したい。それで満足できるか。それは何らかの批評になるだろうか。読むのが面倒なので、そこから逃げ出したくなってくる。わけが分からず、やっていられなくなる。あまり本気にはなれない。それが逃げている証拠になるだろうか。嫌になると正気でない振りをする。しかし何を顧みているのだろう。ここから帰るあてはない。まともに戻る戻り道を探しているわけか。どこへ戻そうとしているのか。それらは過去とのつながりを見出せないようだが、この後に及んで、過去と同じような展開を模索すべきなのか。それで行き詰まりを打開できると思うか。思うならやってみればいいだろう。やる前に気持ちが萎縮しているようだ。たぶん飽きもせずつまらぬ行程が繰り返されている未来を予感させるのだろう。他人にとっては別にそれがつまらないわけではないだろうが、本人は納得できないらしい。納得したら、そこから先は紋切り型になるしかないか。


5月22日

 暇にまかせて何を見ているのか。それは不思議な光景だ。夕日はいつまで経っても夕日のままだ。いつになったら陽が沈むのか。それは風景画の一種かも知れない。君は不思議なことを述べている。暇にまかせて何をやっているわけでもないだろう。それでも作業は続いてゆく。何を続けているのか知らないが、いずれすべては飽和状態になる。もう何もできなくなるだろう。それはいつになるのだろう。たぶんそれは嘘になるだろう。何を述べているのか知らないが、何を続けているかは分かっていることだ。それも嘘かも知れない。何を述べているのかも分かっているはずか。くだらぬ時間稼ぎはいい加減にしてもらいたいか。時間稼ぎでもないのかも知れない。今や誰もがそれを知っている。それとは何だろう。それは何でもいいような何かだ。どうやら彼の頭の中では空虚が循環しているようだ。ありふれた日常の中でいつもながらの意味不明に苛まれる。そんなくだらなさのただ中に何を見いだせるだろうか。すでに意味不明を見いだしているではないか。見いだしているのではなく、そう思っているだけだろう。しかしなぜ現状をくだらないと思うのか。内向きの意識ではとりとめのない空想からは抜け出られない。それと同時に何を空想しているわけではないと思いたい。空想を言葉に変換するのが面倒か。それはおかしな思いつきだ。誰かの夢の中では遠くから光明が迫ってくる。過去にそんな文章を読んだことがあるらしい。今ごろになってなぜそれを思い出すのか分からないが、その程度の水準で語っている現状に飽きてくる。水準も何もあったものではないか。それでも相変わらず過去の時空で、誰かが適当な内容を語っているように感じられる。語り得ぬことについては沈黙しなければならない、と誰かが語っている。それが逆説になり得るだろうか。それ以外に何も見いだせないようだ。なぜ語り得ぬことについて語ろうとするのか。そしてなぜ沈黙したまま語っているつもりになれるのか。君には分からない。いったい何を読んでいるのだろう。雰囲気だけの勘違いを歓迎するが、それは勘違いでさえなく、始めから成り立たない推論を推し進めているだけかも知れない。テレビ画面に見入っている人々のことを思う。娯楽の対象について思考する必要は感じられないか。何をコメントしているのだろう。コメントしたからといってどうなるものでもないか。どうにかしなければならないのは、コメントしたからといってどうなるものでもない、という状況なのかも知れない。それを画面上の人々がどうにかできるわけもないか。どうにかできる範囲を逸脱している。彼らは語り得ぬことを語れる立場にはない。その代わりに他のことをいやと言うほど語っているのだから、そんなことにまで言及する必要はないだろう。都合の悪いことにまではなかなか言及できないのは、どこでも同じことか。それは誰の都合なのだろうか。別に誰のせいでもないのかも知れない。成行き上そうなってしまったのだからどうしようもないか。その結果、軽薄なことが軽薄に取り扱われるのは当然のことか。そんな状況が嫌になって、誰かがそこから身を退くのも自然の成行きかも知れない。しかしその中身が出てこない。語るべき内容が文章として構成されずにいる。なぜだろう。なぜその先に言及できないのか。分からないからか。あるいはそのことについて何も思わないからか。何を思えばいいのか分からない。何を語ればいいのか分からない。しかしそんなことはどうでもいいことか。中身は分からないが、語り方は分かりやすくなっているかも知れない。だが、かも知れない、はあやふやな述べ方か。とりあえずはっきりしたことは何も分からない。何かを語りながらも、何を語っているでもないことに気づく。別にそれが矛盾しているとは思わない。


5月21日

 気まぐれに何を振り返っているのか。たぶんそれらの内省と遡行は、過去を目指しているのだろうが、過ぎ去った日々を懐かしんで、いくら言葉を弄してみても、苦しみを和らげるには至らないだろう。それらの説明は何を説明しているわけでもない。説明しようにも適切な言葉が見つからないようだ。しかし唐突に何を述べているのか。その不自然な言葉のつながりをこれからどう修正していけばいいのだろう。下手に妄想を膨らまして述べれば、もはや文章として機能しなくなる。わけが分からなくなるだろう。それでも何かしら語っていればかまわないわけか。そんな何かが崩れ去る感覚を構成したいのか。それは嘘だと思う。何を否定したいのか分からないが、どうも無意識の意図が理解できないようだ。そんな意図などあるはずがないか。意図として形をなさないか。それは無意識ではなく、書かれた文章から読みとれる意図となるだろうか。誰も意図していなかった意図が、後からそれを読んだ者の意識の中で構成されようとしているわけか。その場の状況によって、それは幻影として機能するかも知れない。しかし現実には何が機能しているわけでもない。酔狂な意識がそんな風に思いだけのようのだ。ほんの些細な作用の中でも何かが機能していると思いたい。感覚の水準をわざと取り違えて、つまらぬものを恣意的に過大評価したい。意図的に語っている内容をわけが分からなくしたいのか。分かりやすく説明できないから、そんな風にしてごまかす。たぶんそれが装われた複雑さを見せかけるのだろう。もしかしたらそれ以外に中身は何もないのかも知れない。それがすべてなのか。意識はそうではないと思いたい。だから無理に説明しようとしているらしい。何を説明しようとしているのだろう。それらのわけの分からなさをわけの分からない語りで説明して、果たして読む者が理解できるだろうか。たぶん理解などまったく期待していないのだろう。無意味なことだ。意味と意味を重ねて、双方の意味が意味を打ち消しあい、結果として無意味が構成されることもあるだろうか。それが意図して企てられているはずもないか。わけの分からない無意味な言葉の連なりの中に、何らかの意図を読みとろうとすれば読みとれる可能性もないわけではないか。何やら不確かなことが述べられているようだ。そこからどこへ突き抜けられるだろう。意味のない停滞の中では嫌気がさしてくるか。堂々巡りの迷路の中から外へ出たいと思うのは当然の成行きか。何を思っても、そう簡単に思いがかなうわけではない。努力すればするほど、努力する目的が見失われてしまうだろう。何をやっているのか定かでなくなる。ただ惰性で続けているだけのように思われてくる。では当初に意図していたことはそんな結論を得ることだったのか。やはりそうではないと思いたいようだが、反論する材料が文章の中には見当たらないことに気づく。しかもそれらの語りはその内容によって、逆に語っている者の意図に反論しているように思われ、語り手の意識の存在さえも否定しているのかも知れない。意識してそんな文章を構成できるわけがない。設計図通りの語りなどどこにもありはしない。事前に思い描いていた設計図を超え、それを打ち破り、完全に否定する形で打ち立てられなければ面白くない。そこからしか思いがけない作用は生じないだろう。予定調和の語りでは自己満足を得るだけか。それでもかまわないか。なんとなくそれでもいいような気がしてくる。思いがけない結果には疲れるだけだ。何よりも意識を打ち砕かれることが苦痛に感じる。なぜそうなってしまうのだろう。なぜまともな文章を構築しようとしないのか。アバンギャルドなどという言葉は嫌いなはずだろう。思い通りに行かないことに酔いすぎているのかも知れない。それだけでは辛いが、結果的にはそうなるしかないらしい。なんとなくそんな状況が続いているようだ。


5月20日

 外ではまた雨が降っている。今日も自らは何を語るわけでもない。昨日も何かに頼って語っていた。他の誰かの語りに引きつけられている。そして誰かが繰り出した無意味な言葉の連なりに見とれている。詩人は誰のために朗読しているのでもないらしい。何を読んでいるのかはっきりしない。たぶん自分でも何を述べているのか分からないだろう。彼にとってそんなことはどうでもいいことか。それは君にとってもそうかも知れないが、他の誰かはそうは思わないだろう。中にはそれらの言葉の連なりに感動したい人種もいるらしい。君はそんな声を分かろうとしない。だいいち何をどうしたら満足するかを知らない。しかし満足してどうするのだろう。ただ満足するだけか。それらの語りは魅力に乏しいと思われる。他人の興味を惹くような内容ではない。それではどうすればいいのだろう。どうもしないか。どうにもできないのではないか。そんなことを思っているうちに急に頭が重くなる。疲れているのだろう。あれからあまり時間が経っていないようだ。何を病んでいるのかはっきりしない。何かしら病んでいるのかも知れないが、致命的な状態ではないのだろう。慢性的に疲労を覚えている振りをする。慢性的に腰が痛んでいるのかもしれない。なんとなくそんな嘘をつきたくなってくる。意図は何もないが、思いもしない効果を狙っているのだろうか。はたして効果が表れる未来まで覚えているだろうか。何を覚えていればいいのだろう。君が想像していた未来はすでに過ぎ去ってしまったのではないか。今ではもうその未来を通り越して新たな時空の中にいるらしい。しかしそこで何もできないでいる。何を思い何を考えたらいいのか分からず、いつものように途方に暮れているわけか。なんとなくそれではつまらないか。かつて君は何を思い描いていたのだろうか。どんな未来になることを望んでいたのか。誰もが望むように、君もありふれた成功を望んでいたわけか。今から思えばそんなことだったのかも知れない。ただ漠然を認められたかったのだろうか。いったい何を認めて欲しかったのか。ほとんど徒労に終わろうとしているそれらの努力を、誰に認めさせたかったのだろう。気がついてみれば誰もいなくなった。もうすでに認められるような代物ではなくなっているのかも知れない。ではこれからどうすればいいのか。もう一度自由になりたいか。かつて自由であった例しがあったのか。一時期自由を感じていたこともあったかも知れないが、それは単なる勘違いだったようだ。今はあやふやな気分でいる。このままでは自らが繰り出した言葉を裏切ることになるかも知れない。投げやりな気分のただ中で、もはや過去の言葉などどうでもいいと思っている。ところで何か約束を忘れていないか。忘れているとしたら思い出す必要はないだろう。何かを放棄してしまったのかも知れないが、打ち捨てられたものを今さら捜し出そうとは思わないか。それはどのような試みだったのか。ただ語ること以外に何をやろうとしていたのか。あのとき交わした約束が果たされるとき、この世界がどうなるわけでもないだろうが、個人的に何かしら将来への展望が開けることもあるだろうか。今となってはどうでもいいことになってしまったのかも知れない。君は誰もいない虚空で無内容の言葉を用いてただ語るだけか。誰にも届かないメッセージを訴えかけるでもなく、ただ淡々と語るばかりか。別に真実を見極めようというのでもなく、そうかといってフィクションを礼賛するわけでもなく、なんとなく中途半端なことを語っているように感じられる。ここは荒野ではない。荒れ地を耕しているわけでもない。誰かが語った内容を非難することもあるかも知れないが、それは本意ではなく、他に語ることがないから、その場凌ぎに述べているだけかも知れない。非難するような言説にはあまり本気にはなれないのだろう。そんな障害物を適当に避けて通り過ぎようとしているだけか。たぶんもう少しましな内容を期待していただけなのだろう。


5月19日

 また元の書物へと思考の対象が戻ってくる。そこから出発したわけでもないのに、なぜか興味を惹くようだ。意識を引きつける重力のようなものを感じる。際限なく語りが循環している。意識は次第に思いから離れ、思考の対象から逸れてゆく。感情に酔っている場合ではない。それらの感情は打ち砕かれ、辺りに四散してしまうだろう。そんな表現では足りないのか。何が足りないのか分からないか。言葉が足りない。意味をとらえきれていないようだ。理解することを許さない。無理に分かろうとすれば憤怒の形相をもたらす。誰が怒っているのでもない。ただ単に理解できないことに腹を立てているだけか。理解しようがない。それは感情とは異質の動作を必要としている。理解には至らない性質を有している。結果はどこへも行き着かない。それは結果に行き着くことを不可能としている。いつまでも途中に留まり続け、そこで循環を繰り返す。目的はあまりなさそうに思われる。迷わせることも彷徨わせることも目的とはならない。勝手にそうなってしまうだけだ。誰が頼んだわけでも、誰に頼まれたわけでもない。何を抱いているのか定かでない。それは感情とはいえないだろう。それ以前の段階で迷っている。何かの犠牲となっているわけではない。何かと取り引きしているのでもない。何も引き渡されはしない。それに接する者が勝手に思い考えるだけだ。本当に接しているのだろうか。それは何かの思い違いなのか。漠然とした不安を打ち消すことはできない。何が不安をもたらしているのか分からず、それが不安を誘っているのかも知れない。そんな述べ方はごまかしだろうか。どこかに思考するうえでの起点があるはずか。そこから思考が始まらなければならないと思うが、それ以前から始まっているような気がして、さらに始まりも終わりもないような気がしてくる。始まれないし、終われないと思い始めて、さらに不安が増してゆく。実際に何が始まり、何が終わろうとしているのか。そんな問いは無意味に思える。まだ始まってもいないのに、いつ始まったのかを探ろうとして、終わりもしないうちから、終わった後のことを考える。やはり始めから間違っているのだろうか。始まりがないのだから、間違いかどうかなど分かるわけがないか。それが分かれば未来を正しく予見できるだろうか。それとこれとは関係のないことか。ではなぜ始まらないのか。すでに始まっているから始まらない。またすでに終わっているから終わらない。しかしそれでは言葉遊びにしかならないのではないか。それが一つの結論となるだろうか。別に始まりが連続してもかまわないし、終わりがいくつ重なっても終わりには変わりない。そうやって前述の間違いが明らかになるか。間違いではなく、どちらも正しいかも知れないし、どちらも間違っている場合もあり得るだろうし、どちらか一方が正しい状況もありだろう。要するにそんなことはどうでもいいことだ。たぶんそれがもう一つの結論であるかも知れない。もちろん結論など思いつける範囲でいくらでも捏造可能か。しかしそんな結論など結論ではない。何も明らかにはなっていない。いっこうに何を述べているのかあやふやなままだ。始まりも終わりもあやふやなままに結論もはっきりしない。どうでもいいことをどうでもいいように語り、誰に何を語りかけているのでもないらしい。それは単に制度的な問題であり、一方では技術的な問題でもある。どのようにして空虚を長引かせるかが問題となっているのかも知れない。それは問題にさえならない問題か。そんな問題があるわけがない。急ごしらえで意味のない問題を捏造している。それと同時に他のことも考えている。これをやり終えたらどうしよう。そんなことも無意味だろう。やり終えるはずがないからだ。途中での中断はあっても、いくらやっても終わりにはたどり着けない。今のところ可能な状態は永久に中断してしまうことぐらいか。それが終わりではないのか。そんな風には到底思えないだけか。いつまでも終わりたくないのだから、決して自ら終わりを認めることはないだろう。もちろん第三者が終わりを宣告することもない。


5月18日

 誰か幻影をいらないか。求めているのはそんなものではない。リアリズムの嘘を見抜く力が欲しいか。それらは現実ではない。そんなことは分かりきったことだろう。別にそれが嘘であってもかまわないか。しかし君は嘘以外の確信が欲しい。信じられないことを信じてみたい。嘘を信じて、しかもそれが嘘であることも信じて疑わない。やはりそんなことも分かりきったことだろうか。何を醸し出しているわけでもない。すべては塵と化して欲しいか。しかし次の瞬間にはすべてはすべてでなくなるだろう。すべて以外にも他のすべてがあったわけだ。真のすべては、人の意識ではとらえきれない。人が意識していることがすべてではない。しかしそれだけでは言い足りないことも確かだ。いくら語っても足りることなどありはしない。だがいつかは足りる時がくることを信じて、その先へ語り続けないと終わりがやってくる。終わってくれればありがたい。それ以上無駄なことをやらずに済むからか。やらずに済むはずがないか。終わろうとして終われるわけがない。それが幻想であることを証明したいわけか。いったい誰が証明するのだろう。君以外の誰がやるというのか。終われない君に証明できるはずがない。躊躇してばかりの語りはどこかで循環しているようだ。なぜ苦しまなければならないのか。それが苦しみだと思っているうちは苦しまなければならない。読まれない文章は読まれないことを望んでいる。それが苦しみの原因だろう。読みたくもない文章を誰が読む気になれるだろうか。それも苦しみの原因かも知れない。老人のフォーク歌手がそんな内容を地下室で歌っていた。この世界では誰も救われない。君は安易に救われようとは思わない。つまらない言葉遊びは果てしなく続くだろう。それは誰がどこで歌おうと関係ない。そこからファンタジーの世界には入れないからか。心は常に外部の状況によって制御されている。一般的にそれを制御とは言わないだろう。何かを操ることができるような人格を欠いている。つまらないことをつまらないように語るのが誠実さの証なら、おもしろおかしくかつ興味深く語ることは不誠実の極みか。それが面白いかつまらないかは、ある程度それを受け取る他人まかせなのではないか。では語る側に誠実も不誠実も判断できないか。それは良心にしたがって語っているか否か、ということであって、要するに思い込みでしかないだろう。しかしそれで何を述べていることになるのか。他人を話題や価値観を共有していないと、客観的な判断は不可能になる。君の思い込みが君だけに固有なものなら、それは他人には理解不能であり、その思い込みに基づいてどんなに語っても、それはただの意味不明にしかならないだろう。すでにその意味不明の範疇で語っているのかも知れないが、今の君には判断不能だ。判断材料が何もない。材料を探す気がしないのかも知れない。それで十分だと思っている。周りの状況が見えていないのだ。そんなことは知ったことではないか。意味不明の中で自足してしまっている。幻想の現状で満足している。たぶんそんな振りをしているのだろう。他に語ることがないので虚無を装っている。虚無の深淵で意味に至ってしまう不安を鎮めようとしている。そんなはずはないか。難しそうな言語表現には意味を求めていない。ただの間違った表現でしかないのかも知れない。そんな心理状態を感知できるはずがない。無理に言葉で言い表せば嘘になる。もちろんそれが深刻な心理状態に陥っていることを示しはしない。うわべだけの言葉づかいに終始するだけだ。何を思っているかなんて、言葉にすればとたんに見当違いになってしまう。ただそうではないと思うだけかも知れない。たぶん語っている内容は、意識からすれば嘘としか思えないだろう。意識そのものは言葉以前の状態に留まり続ける。


5月17日

 黙っていては何も分からない。しかしその沈黙は暗黙にこれからの成行きを物語る。アドリブ的な演技や演奏は先が読めない。主張すべき内容をもたず、それを探すことばかりに無駄な時間を費す。そして今はただ何も語らずに遠くを見つめている。見つめるべき対象が見当たらない。何を求めているのか、さっきから誰かが呼びかけている。電話のベルが鳴りっぱなしだ。まともな返答は期待できないだろう。工事現場では、周囲の騒音に打ち勝とうとするかのような大声で、何を語っているのか。何を喋っているのか聞き取ろうとしているうちに、その中に奇妙な雑音が紛れ込んでいることに気づく。交通事故の幻影は、今までに聴いたことのない不思議な音色を奏でる。まるでそれを望んでいるかのように、何かいい加減な視線に見入られている。それに見とれているのは誰の眼でもなく、自意識過剰がもたらす世間の目というやつか。別にそんなことを思っているわけではない。例えば世界の中心はどこにあるのだろう。そこで何を叫んだらいいのか。それは誰を真似ているつもりなのか。真似ているのは誰でもない。そして君はたぶん何を読んでいるのでもない。いつか見た光景は君の瞳を連想させる。瞳の片方は誰を見ているのでもない。君はシェーンベルクを理解できない。物語はどこへ行ったのだろう。フィクションは情景描写を多用して何を醸し出そうとしているのか。無理に引き裂こうとしている関係を、一方では修復したいらしい。しかしそんな矛盾はありふれているか。はたして現実にそんなことが可能だろうか。木陰から誘いの手が伸びる。屋根の上で烏と猫が睨みあう。梢の先に雀がとまっている。雨は朝方になっても降り続いている。なるようにしかならないのは以前からのパターンだ。何か問題が生じても、適切に対処できるわけでもないらしい。それに関連して思い出されるのは、今では間違っても通用しないような昔のやり方ぐらいか。そんな時代遅れの手法によって切りぬけられるだろうか。結局はいつものながらの泥縄式に頼るしかないか。いったん適当な経験を積んで、変な癖がついてしまった頭脳を、そっくり新品と入れ替えることはできないか。意識は無理が利かないと思いたいのに、さっきから無理をしまくり状態になっている。一難去ってまた一難の成行きに呆れ果て、半ばあきらめ気味にこれまでの経過を振り返っている。一応はそんな状況にも対処しておかなければその先へ進めない。だがそんな経験が何の役に立つのだろう。生きたまま死の病にとりつかれているのは、誰にとっても平等に不幸をわかちあえる機会を与えられているということだ。何を述べているのか理解できないか。それを奇妙な語りだとは思えない。たぶん語りの種類が違うのだろう。真夜中に窓から陽の光が差し込んでいると思うか。急にあきらめが肝心だということを悟り、これまでの行程を簡単に否定したい衝動に駆られ、実際にそれが可能ならなおのこと都合が良いのだが、現実はそういう風にはいかないらしい。後から言葉が追いかけてくる。何としてもそこに引きとめたいのだろうか。しかしそれ以上に何を繰り出せばいいのだろう。誰かやり方を教えてくれないか。手法は無限にあるように思われ、しかしその中のどれを試したらいいのか分かりかねる。そして意識はどれも試せないことに気づいている。できるわけがないことが明らかになりつつあるようだ。もうすでに苦痛が全身を覆い尽くしている。そんな風に思いたいだけのようだ。なんとなく不幸を楽しんでしまう体質らしい。誰がそうなのかは不明のままに、動詞の主語をわざとらしく弄ぶ。すべてはフィクションだと断言してもかまわない。だがそれで何を述べているのでもないことも当然だろう。何でもかまわないのに、言葉を選んで大げさに振舞うつもりらしいが、明らかに見えすいている。なぜそんな風にしか語れないのだろう。もちろんそれは嘆きにさえなりそうにない。絶望の途中で冗談に変わってしまうのだから、真面目にやっていられないか。


5月16日

 君はこれまでに尊敬に値するようなことを述べてきたと思うか。君は君以外の誰を敬えばいいのだろう。そんな心配は無意味か。いつの間にか戒めの言葉を忘れてしまっている。すべては終わってしまったのだそうだ。それは誰の嘆きなのだろう。君は惨めな姿で生きながらえることを拒否できるだろうか。被害妄想とともに何を必要としているのか。そこ紅茶には砒素が混入している。心悪しき者はどこにいるのだろうか。呪いの言葉を誰に吐きかければ気が済むのか。ロマン派の詩人なら適切な対象でも思い浮かぶのだろう。君は雷についてどう思うか。雷にも哲学があるのだろうか。安らぎを求めているのなら、雷はいらないか。しかし雷と君の話は無関係だ。ただ不自然なつながりを平然と無視して、何か適当なことを語っているらしい。それは強引なやり方かも知れない。はたしてそれで結果に至ることができるだろうか。なんとなく惰性で生きているのかも知れないが、それらの困難を乗り越えようとは思わない。君にとって何が生きていく上での困難となっているのだろう。結果に至ろうとするから困難に直面してしまうわけか。そんなことでは困難を乗り越えられるわけがないか。困難に直面すると笑ってしまうらしい。やぶれかぶれで何を語っているのでもないようだ。君に劇的な感受性を期待しても無駄か。雨の降る日に何を思うのか。つまらぬ映像に腹をたて、また偉そうなことを述べたくなってくるわけか。君にはその内容が分からない。暇なときに何を空想しようと現実の世界では仕事に追われる毎日だ。だがどのように言葉を弄そうと、まともな内容に巡り会えるわけではない。国家の仕組みについて勝手な意見を抱こうと、それは君の主張ではないかも知れない。なぜイメージの世界にしか関心をもてないのか。それだけで生きて行くことはできない。現実にそれだけで生きているわけでもないか。それでも以前と同じような感覚を保っていると思い込んでいるらしいが、過去の文章を読めば、すでにそれらの感覚から遠く隔たっていることが分かるだろうか。そこから先へ行くために、意識は何を模索しているのだろう。もういい加減に無駄な試みはやめたらどうだ。やめることができるならとっくの昔にやめているだろう。もうすでに行き詰まりの向こう側で語っている。しかしその中身が気に入らないのだからどうしようもない。前置きが長すぎる。しばしばその前置きだけで終わってしまったりする。本題はどこへいってしまったのか。誰もが誰かの失墜を期待している。他人の不幸は世間話の種になる。たぶんそれがどうしたわけでもないのだろう。この先何がどうなろうと君は大丈夫だ。落ちぶれる以前に、成功に至ったことは一度もない。すでに落ちぶれようのない環境の中で生きている。失墜する者は、その野望が卑小であることに気づかないだけだ。いったい何に恍惚となっているのか。君の感覚にまとわりついて離れないのは、自らが成功した姿を額縁の中に飾りたてている他人の顔か。分かりにくいことを述べている。人間的な偉大さは、他人から崇拝されなければ生じないものか。しかし生きているうちに崇拝の対象となってしまうと、それ以上は望めなくなってしまい、後は落ちぶれるだけのような気がするが、どちらにしろ君にはあまり関係のないことだろう。君は有頂天になることも打ちひしがれることもない。ただ常に醒めた気分で冷静さを維持したいだけか。何に対しても熱くなるような状況にはならない。感情的になっている人々をただ眺めている。無感動のまま、それ以外にどうすることもない。憎しみはどこから生じるのだろう。他人を憎むことと愛することは同じことか。そのような心の動きを軽蔑したいわけでもないか。ではいつも落胆していたいのか。それもいいだろう。何事もうまくいくはずがないと思っていたい。そんなことばかりでは気が晴れないだろう。だからいつも曇り空を眺めているわけか。たぶんそれで誰かの期待に応えていることになっているはずか。


5月15日

 誰が何を認めているわけでもない。深刻ぶっているわけでもない。何を茶かしているのだろう。尊敬する人物がいるらしい。それらの感情の吐露を認めてやってもいいか。生きているうちには望めないことを誰がやろうとするだろうか。攻撃的な感情は、みすぼらしい権威にすがりつくことしかできはしない。君は現状に馴染めないようだ。単純な思考は拒絶する。誰が主人でもないはずだ。権威に媚びている者を横目で見ながら、君は媚びない語りを継続させなければならない。権威などに優劣はない。どうしてもそれが認められないのなら仕方のないことだ。華美な装飾に心を奪われているようだが、対象が何であろうとなかろうと、批判的な視点を見失ってしまったら、それはただ媚びているだけなのではないか。映像的なリアリティを追求すればするほど、肝心の中身が空疎になる。日本の漫画やアニメを賛美する者たちはそれを分かっていない。安易なキャラクターの使い回しと派手なアクションシーンによって、思考の欠如を隠しているだけのような気がする。それらの手法は視覚を過度なデコレーションで覆い尽くして考える暇を与えない。他愛のない話を映像によって飾りたてているだけなのに、それを知り得ない人が多すぎるのだろうか。そこまで思考が及ばないだけか。そんな映像表現の虜となっている人達では、政治的には現状追認以外の何もできないだろう。彼らはジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら、イラク戦争を追認する政府を支持していたりするか。また支持していなくとも、選挙のときは政権与党に投票するだろうか。別にそれが矛盾しているとは思わないだろう。まさか本気でそう思っているわけではないか。なんとなくどうでもいいことのように思われる。それらのメディアは結局何ももたらしはしないだろう。安易な方向で自意識過剰を煽りたてているだけか。それともそれがすべてではないと思いたいか。思っているのなら言葉に出して表現してみればいいか。君にとってそんなことは他人事になるだろうか。彼らは何を伝えたいのだろうか。画面上で踊る人体の躍動感とかいうやつか。特定の目的は何もなく、その場限りの快感を求めているのかも知れない。君は本気にはなれない。娯楽を真面目に取り扱うわけには行かないか。では真面目になることが娯楽になればいいのだろうか。そんなことではないような気がするのだが、その先をどうしても思いつかないらしい。それらの分かりやすさは何を意味するのだろう。何か特定の主義主張を訴えかけていなければいけないのだろうか。そんなことはないと思われる。分かっていないのはこちらの方ではないのか。愛が勝つわけでも正義が勝つわけでもなく、最終的に生き残った者が、自らの勝ちを宣言できるかも知れないが、宣言してどうなるわけでもないだろう。ただ勝ち誇っているだけか。自らの勝ちを第三者に認めてもらわなければならない。また負けた者が自らの負けを認めてくれるとありがたいか。しかしそれでも因果応報とはならないだろう。勝ち誇る者はその場限りで勝ち誇っているだけで、滅び去る者がどんなに良心的であっても、ただ滅び去るだけだ。そこに善悪の基準は適用されないし、通用しない。またそこに倫理を導入しても何も当てはまらない。物語に神の視点を導入するのは反則技か。登場人物を何とか救いたくて神が現れてしまう。あるいは救われない理由を説明するために出現する場合もあるだろう。作者としてはそれが偶然では済ませられないのだ。不慮の死であっては困るのだろう。安易なものとしてはことわざ的に説明するやり方もあるが、何としてもその成行きに説得力をもたせたいようだ。そんなわけで物語は因果応報的な成行きに支配されてしまう。謎が謎のままに終わってはならないのであって、そこで必ず理由が示されてしまう。要するに火の鳥は、最終的に理由を説明してしまうわけだ。


5月14日

 玉葱の皮を剥いているうちに涙がでてくる。それは間違ったやり方なのだろう。歪んだ世界は君が捏造する物語上で展開される。屋久島の杉はいつか枯れるだろう。実権を失ってしまったかつての独裁者を非難してみても仕方がないか。それらの歌は無効だ。今さらそれについて何を思えばいいのだろう。月の光はどこへ行ったのだろう。たぶんやることがないのかも知れない。何のことはないただの気分を感じている。夕闇の向こう側に曇り空が広がっている。晴れた空を望むなら明日を待てばいい。原生林を尊ぶ心は美学的か。白神山地にでも行ってみれば何か分かるだろうか。昔読んだ漫画によると、妖精は北海道に生息しているらしいから、東北地方で会える可能性は低いかも知れない。だがそんなことを本心から思っているわけではなさそうだ。戯れ言の一種で適当な間を取っているようだ。思いは文字から離れ、言葉にならない雰囲気の中に溶け込んでゆく。それらの思いはやがてどうでもいい言葉の羅列と化すだろう。たぶんそれらの言葉は誰の思いも反映していないだろう。記述している者は言葉から見放されている。早晩人格を放棄せざるを得なくなる。続ければ続けるほど思いから離れて行ってしまい、そこで何を語っているかなどということは、生きてゆくためにはまったく関係のないこととなってしまう。そしていつの間にか何もやっていない自分に気づく。影はそれ以上を目指さなければならない。虚栄の宴は果てしなく続く。もう誰も止めることはできない。止める立場がメディア上から消失している。雲が重く垂れこめて空が低くなり、雨の降りだしが間近に迫っていることを予感させる。それらはほとんど幻想に過ぎないのだろうか。誰からともなく受け継がれた使命は勝手な思い込みに由来する。君は妖精ではない。幽霊でもなく、怪物でもない。何者にもなり得ないただの意識だ。それは大したことじゃない。雨の中で傘をさす動作を知っている。そこから何を眺めているのでもない。車窓の風景は線路の周囲に限られる。夜の月は天空の主人公になれるだろうか。そんなことを知りたいわけではないらしい。酒に溺れる者は幸せになれるだろう。羞恥心はどこへ行ったのか。幻想曲に登場するナポレオンは生身の体を求めている。野望の復活を望むことは時代遅れと思われるだろうか。血痕が黒くこびりついている。他人の興味を引くためにあの手この手の手法があるらしいが、金儲けを指南したい人はハウツー本を書いて、その印税によって二重に金を儲けたいようだ。それらの形式には千差万別がある。それにつられて人の心も千差万別があるように装う。憎しみを抱き続けてはならない。誰かがそんなことを言っていた。君は誰を憎んでいるのだろう。君は誰かから憎まれているのだろうか。そんな被害妄想に凝り固まっていてはならないか。草刈りの民が山から里へ降りてくる。日がな一日雑木林の篠ごやを円盤鎌で刈り続ける。望む人々はどこへ行ったのだろう。望みがかなって幸せになってしまったのか。フリーターは定職に就きたいようだが、そんな保守的な傾向を諌める人はいない。言っていることが逆ではないのか。過ぎ去ったことは水に流そう。明日に向かって何をやろうとしているのだろう。不況はもう終わりなのか。まだその程度では物足りないか。そこからは何も生まれはしない。乾いた大地に雨水がしみこんでゆくように、何を吸収しているつもりなのか。そんなやり方ではたかが知れていると思われる。ではもっと劇的に金を儲けたいわけか。株式投資でもやってみればいいだろう。地道に働くよりは気分がいいかも知れない。働いているのは君ではない。働きそびれて何もやらずにホームレスになる。安易な選択だろうか。たぶんそこまで落ちぶれる前に寿命が尽きるだろう。君には才能がある。何もやらないことは才能になるだろうか。何もやっていないわけではないか。面倒なことが嫌いなだけか。


5月13日

 思いはまだ核心にはたどり着きそうにない。どこに核心が存在するのか。何の核心なのか不明か。罪の意識は勘違いである可能性もある。そんなアニメーションを斜めから眺めている。それについて何を語ってもとりとめがない。軽い冗談だけでは物足りないのか。図式的な説明を聞き流し、まだ微かに残っている良心の断片は、理解可能なことを考えていたいようだが、本心の方は何を理解すればいいのか分からない。それは聞き流されるだけのつまらない思いつきにしかならないだろう。相変わらず何を悟っているわけでもないが、あてもなく歩き回っている現実を、何と結びつけて語ればいいのだろうか。美学的な価値観から抜けでられずにいるようだ。年老いた人の言動には哀しい限界がある。昔を思い出しながら、以前のやり方を封印しているようだ。世界がだんだん幼稚になりつつあるように思われるのは、君の思い違いか。なんとなく思考が単純化されているような気がする。世捨て人のように山奥へ引き籠ってしまった人は、その原因となった思い通りにならない状況を否認することしかできず、そんな自分の幼稚さに甘えている。悲劇の主人公は、その悲劇的な宿命に甘えている。ありふれた成行きに酔っているわけだ。自分だけが特別だというありふれた思い込みも本気で信じている。そして神秘主義への傾倒があるようだ。もちろん神秘主義もありふれている。修行僧のような生活を通して、山奥の自然と一体となったと勘違いしている。山奥は山奥で街中は街中でしかないことを理解できない。孤独を装う人は弧高であろうとするが、心に抱いているその理想は、現実を無視することで成り立っている。偉そうに何を語っているのだろう。なぜか手塚治虫の「火の鳥」において、火の鳥自体が余分であることに気づく。火の鳥の存在なしに物語を展開すれば、それはどうということはないありふれた漫画になるだろうか。そういう意味で火の鳥は、人の気を引くためのこけおどし的な存在なのか。昔の漫画は昔の漫画でしかないのかも知れない。もちろんそれで何を述べているのでもないが、昔それを読んでいた頃の自分に落胆する。漫画家はそれを描きながら何に酔っていたのだろうか。結局はいつもながらの戦いの歴史をなぞっているだけか。争いごとがないと漫画にならない漫画家は多い。登場人物が事件を引き起こさないと先へ進めない。それは漫画家の日常でもおなじことなのだろうか。何かしら出来事が断続的に起こっていて、その出来事と出来事を恣意的につなげてゆけば物語になる。それの何が不満なのか。そんな魅力的な出来事の連なりを鑑賞していればいいのではないか。それでは退屈だと思うなら、自分でそれとは違うものを構成してみればいいだろう。たぶんあからさまな対決を避けているのだろう。自分の主張を遠回しに表現しているようだが、その後の成行きによっては、それが変節しながら、思いがけず他人の主張となってしまったり、また主張とはいえないような、もはやどうでもいいものとなってしまったりする。状況の推移とともに、主張していた当時の自分ではなくなってしまう。いつの間にか何を争っていたのか分からなくなる。当時とは状況が変わってしまったらしい。過去においては重大なことが、今となっては取るに足らぬこととなって、過去の思いは忘れ去られるしかない。歳月の経過による風化作用を被らないようなものは、人間の本質とは無関係なものだろうか。だがその人間の本質自体も、それについて思考する者の勝手な思い込みに基づいた観念かも知れない。それ以上を求めるのはないものねだりもいいところか。意識はそんな物語から遠ざかりつつあるようで、それを鑑賞している自らを見下している。そんなもので代替えできるような現状ではない。なんとなく違うような気がするだけか。しかしそれでも何を述べているのでもないようだ。


5月12日

 どうも今回も気の利いたことは語れないようだ。人間的な軽さは、馬鹿にされるような性質を帯びているものなのか。何が軽いのか基準が曖昧だ。多くのお偉方が国民年金の保険料を一時期払っていなかったことについて謝罪しているらしいが、それの何を重く受け止めていいのか分からなくなる。強制加入なんかにするからおかしくなるのだ。そんなものは任意加入で十分なのではないか。加入者が少なくなってたちゆかなくなったらやめてしまえばいい。もちろん国家主義者にとってそんなことは言語道断なのだろうが、国民なのだから国家にしがみついて生きて行くことが当然だとは思いたくない。個人が国家に対して何ができるかを考えてみると、絶望的な気分になってくる。何もできはしないような気がしてくる。老後の心配まで国家まかせでは共産主義と変わらない。そんな風に思ってくると、なんとなく国民も国家も冗談のように思えてくる。またイラクでイラク人を殺しながら、運悪く自らも殺されてしまうアメリカ兵などは、かつてベトナムで死んだ人々と同じように、単なる無駄死にの犬死に以外のなにものでもないような気がするのだが、そんな宿命をアメリカという国家から押しつけられている現状も、殺される当人にとっては冗談では済まされないだろうが、傍観者にはやはり冗談としか思えない。たぶん最近は冗談も言えないような状況でもないだろう。しかしそれで何か述べているつもりなのか。例えば人の死は笑いの種か。それではよく分からないままか。人の力には限界がある。国家が見せびらかす武力にも限界がある。無邪気な焦りは早朝特有の気分が醸し出している。昼にはそんなことはすっかり忘れて、他愛のない状況だと思っている。明日の天気は雨らしいが、今日の君は空模様を気にしていないようだ。頭の中ではおもちゃの卵が割れている。床一面には画鋲が散らばっている。では天井裏には何が落ちているだろう。あり得ない光景を夢想しているだけか。たぶんいつもの嘘には力がないのかも知れない。ここから先は説得力を期待できない文章になりそうだ。今の自分には政治についてとやかく言う義理はない。君以外の誰かの脳裏には適当なアイデアがひらめいているかも知れないが、それをどうやって実現させるつもりなのか。何を嫌っているのだろう。大言壮語して周囲から馬鹿にされたことを悟り、打ちひしがれた気分にはなりたくないか。影に遠くから見つめられている。臆病な言葉は暗号のような散らばりを示す。分散した言葉を文章として成り立つようにつなぎ合わせるのは面倒なことか。たぶん何をやるつもりもないのに、結果として何かしらやっている君は、言葉の連なりを提示することによって、何か意志とは別の内容を求めているのかも知れないが、君の影はそこからどこへ向かおうとしているのだろう。影は君の意志とは無関係にその辺を動き回っているらしいが、その行動は必ずしも決められた手順を踏んでいないようで、何か規則的な言葉の配列を嫌っているのかも知れない。結果として出力されるそれらの内容は、やはり何を述べているのか意味不明になる。君がいい加減な根拠によって定義する時代は不安を知らない。不安を知っているのは、不安から遠ざかる影か。もっと自由になれないものか。打ち砕くべき対象を知らない。何ものにもとらわれずに何を語ることができるだろう。なぜ夢想家は理論を構築しようとするのか。決まりごとには夢がない。規則を定めようとする意識は、煩わしさから開放されたい心と結びついているようだが、なぜ語りが途中で終わってしまうのだろう。他に何か言い残したことがあるのだろうか。具体的な出来事が抜けているか。知らないうちに、自らにとっても他人にとっても、精神的に耐えられない言葉の連なりになっているのかも知れない。


5月11日

 君はそれらの何が気に入らないのだろう。それで精一杯の表現なのだろうか。まるで故障箇所が無限にあるようだ。ドアが開けっぱなしになっていることに気づき、急いで閉めたがもう遅い。外界の思惑に翻弄され、気づいたときには何かを見失っている。それをどう修復すればいいのか思案に暮れているらしい。何を迷っているのか。すでに水増しされた請求書のように、空白に適当な文字が配置されていることに気づく。自分で記述していながら、そのことに無自覚なのか。そのつもりもないのに、意味ありげに空虚な言葉を並べたてて悦に入っている自らに気づく。そこで何を飾りたてているのか。いつもながら作品とみなしているものは、完成からは程遠い状況にあるらしい。何かを断念しなければ完成には至らないのか。意識には常に邪念があり、空には闇がある。闇夜は何を考える時間帯なのか。無垢を装う瞳は何を眺めているのだろう。そんな瞳があるわけがないか。それ以上に無駄な言葉はいらないと思うか。しかし無駄以外に何を知り得るだろうか。すべてが無駄であり、その無駄なすべてが、文章を構成するために必要とされている。砂漠に行けば何に出会えるだろう。誰に会うことを希望するのか。行くつもりもない場所について意識は何を思っているのだろう。たぶん想像しているのはそんなことではない。限界は嫌気とともに到来する。そうした嫌悪感は何をもたらすだろう。意識はそんなことを問いかけたいわけではない。同じような語りが循環している現状について何を思う。君は寒いのか。それは君とは別人の台詞か。それとは無関係な場所から借用されてきた言葉かも知れない。その先にどう言葉をつなげたらいいのか分からない。寒いのなら雨を眺めていればいいだろう。冬の光景を想像してみよう。そんな選択肢があったのか。別にテレビドラマを見ているわけではない。そしてとりあえず今は冬ではない。保冷庫の中で凍りつくような寒さを体験しているわけでもない。やはり話の前後の関係を無視している。そんな述べ方では不自然か。意識のどこかが砕けているようだ。深刻さとは無縁の遊戯を目指しているのかも知れない。そんな現状では深刻になれるはずもないか。何を述べてもそれ自身へと返ってくる。鉾先がどこを向いているのか判然としない。思考の抽象性は具体的な内容を見下しているのか。感性をとらえているのは、意味も形式も無視するような過程を経ない偶然の結果なのか。それでは何も残り得ない。何もない空白がすべてのようだ。意味ある場にはどこへもたどり着けずに、ただその辺を適当に逡巡し続けるだけなのか。なぜそこへ留まり続けようとしているのだろう。それは誰かの意志に基づいているのだろうか。しかしそこからはみ出なければならない。自らからはみ出て、自らの意志を別の言葉で包み込む。不具合には際限がなく、適当なところで修復あきらめないと、そこで足止めを食うしかない。早くそこから先へと歩を進めたいのに、理想を追い求める善意がいい加減な前進を許さない。たぶんそれがすべてを台無しにしているのだろう。しかしそのすべてを放棄できるだろうか。だがそれではどこまで行っても抽象論の域を出ない。具体的に何をやりたいのか分からない。分かっていることは、無駄に言葉を弄して気休めの文章を構成していることぐらいか。しかしそれが本音とは到底思えない。まだ具体性をあきらめきれないようだ。何を述べているのかはっきりさせたいらしい。はたしてそれがまだ可能なのだろうか。分かりやすさからは遠く離れている。それは誰の感想なのだろう。君はそんな風には思わないか。なぜだろう。何がなぜなのか分かりかねるか。いつまでもできないことを目指していないで、少しは簡単に述べてみたらどうか。何を簡単に述べられるのか分からない。簡単とはどのようなことなのだろう。それは少しわざとらしい。なんとなくすでに簡単なことを述べているような気がしてくる。これでいいのだ、は誰の台詞だろう。分かりきったことを聞かないで欲しいか。誰に聞いているのか分からないだろう。


5月10日

 意識はいつもの日常を過ごしているようだ。見慣れた風景に日の光が差し込んで、雨がやんだことを誰かに知らせている。どこでほにゅう類の呼吸は途切れるのだろうか。それは猿の一種だろうか。どうやら少しぐれた語りにずれ込んでいるらしい。なんとなくそれは違うと思う。面倒なのですぐに思うことをやめてしまう。ではこれからどうすればいいのだろう。映像の中にどよめきを呼び込んでいるのは誰だろう。それはいつの記憶なのか。洗練された風景には驚きが欠けている。安らぎを醸し出そうとすれば、間の抜けた感覚を呼び込む。誰かの意図を感じとろうとすれば、それが大きなお世話であることを忘れてしまうだろう。数時間前には、それでも日没までにはまだ間に合うと思っていた。何を間に合わせようとしていたかは明らかでない。文章上ではどうでもいいことのようだ。いったい何を強がっているのか。日付に追いつけない状態が長引いているようだが、意識はそんな現状を忘れたくなる。たぶん実質的に長引いているのは閉塞状態だろう。しかしそんな語りで間をもたせようというのでもない。方策は何もないのか。君の方策は方策以前の稚拙さを露呈させている。計画性が皆無なのだ。ガラス越しに他愛のない光景が展開されている。もう駄目だろう。それをのぞき込みながら暇をつぶしているらしい。もうとっくに手遅れを通り越しているのに、意識は未だに理由を探しているのかも知れない。何か画期的なことを述べてみたいのだろう。しかしつながりは何もない。理由はそこにはないような気がする。見出されたそれらの理由にはいつも失望させられる。全体を見通す能力に欠けているようだ。思うことは考えることに結びつかず、過去は過去であり、現在は現在でしかないことに気づかぬ振りを装って、今こそ未来を思い出さなければならない、とうそぶいている矛盾のただ中で、何を語ることができるだろうか。語ることができると思い込んでいること自体が嘘だろう。ではそのついでに、途中で途切れてしまった思考を今こそ復活させなければならないか。それも嘘に違いなさそうだが、たぶんいくらわけの分からないことを述べても、それが君の叫び声になることはないだろう。そんなことを述べたいわけではなく、しかし述べたくもないことを記述しながら、空白に言葉と言葉をつなぎ止めて、何かしら語っているように見せかける。それが対話になるはずがないか。何も対話を望んでいるわけでもない。そして何を思い起こしているわけでもないらしい。ただ空虚を手に入れるために沈黙を保持している。すでに手中には下らない意味不明が掴まれているのかも知れない。だが記憶が覚えているのは、今見えている光景ではない。見ようとしているのは、眼には映らない影かも知れない。そこからどうやって抜け出られるかを問題としたいようだが、そこまで至らずに抜け出てしまっている。問題が生成される以前に問題自体が解消してしまっている。結果的には何も問題ではない。何の問題もないのに、それを問題とする人は多い。すでに眼の前に存在している答えから目を背けながら、必死にそれらの問題について力説したがる。まずは自分が問題提起する立場を占有しないと、気が済まないのだ。そして分かり切ったことを大げさに語ってみせ、自己満足の表情とともに、これからどうすべきかを説教するわけだ。要するにそのような手続きを経ないと、答えに行き着いてはいけないのであり、それは分かり切った解答を提示するための儀式になるだろう。国会で行われていることの大半はそういうことだ。まともな精神状態でそれ以外を見出すことは困難かも知れない。たぶんそれらの儀式は制度的に必要不可欠であるのにもかかわらず、いつも批判の対象となっていて、制度的な改善を求める声は多いようだが、それが実現された例はない。そのような無駄がなければ、制度そのものが維持できないからだ。たぶん他にやりようがないのだろう。


5月9日

 何を語ってもどこへも行き着かないようなので、たまには世間と似たようなことを語ってみるか。そんな横柄さのただ中で、例えば羨望と嫉妬はどんな台詞を導き出すだろう。書物を読まぬ人はベストセラーを読む。それは矛盾した言い方かも知れないが、誰かはそれで的を射ているような気になりたいらしい。君自身は何を皮肉っているのでもないつもりのようだが、それはひがみと受け取られても仕方のない台詞だろう。過去にもそんなことを述べた人は大勢いたのだろうか。評論家的な台詞は知ったか振りをその気にさせる。しかしそれでは何も始まらないか。そこから何を始めようとしているのか分からないが、君の与り知らぬところで何かが始まっているのかも知れない。実際に何が始まっているのか。わざとらしく分からない振りをしているようだが、すでにそれを知っているはずか。君はいつも何もないところから言葉を連ねる作業を始めようとするが、君以外にとっては、それで何が始まるわけでもないか。君の物語的な設定としては、誰もが何も始められずに途方にくれているわけか。誰もではなく、実際に君がそうなのかも知れない。今はそう思われても仕方のないところか。語る内容を見出せないのに適当な語りが始まってしまう。それで何をやっているつもりなのか。そんなことは結果を見てから考えよう。何も今さら時流に逆らおうとしているわけでもないが、いちいち考えるのが面倒なので、その場の成行きに従えば、くつろいでいる時間帯には何もやりたくない。しかしいよいよ切羽詰まって焦りを感じ始めてから、いい加減な言葉を繰り出している。だがその場では依然として意味不明だ。普段から無口な誰かが何を述べようとしているわけでもないらしい。それは本筋とは無関係な言葉か。そうやってわざと不自然な言葉の構成を試みているわけか。ただ無言のままに、黙々と作業は続けられているだけのようだが、たぶんそんな状況は好きではないらしい。しかし状況とは何なのか。誰かはそんなよく分からない問いに悩まされるわけか。悩んでいるのはそのこと以外に何かあるのだろう。何もなければ、その話はそこで終わりだろうか。すでに始まる前から終わっているような気がしてくる。しかし終わっているのに、依然としてまだ何も始まっていない。君は現状が無内容の他に何もないことをどう思っているのか。そんな状況に焦りを感じながらも、苦し紛れに何をやろうとしているのか。取り立てて何をやっているつもりもないようだが、そのとき唐突に何かが発せられる。衝撃的な台詞とは何か。たぶんその台詞は衝撃的でないだろう。報われることのない言葉はどこに出現しているのか。それはここにあると思う。確かにその程度では誰も何も報われようとは思わないだろう。それを期待しているのは、別の物語の登場人物たちかも知れない。日頃から分かりやすさを求めている彼らは、そんなつまらない出だしに落胆する。たぶんそれらの作者たちはだいぶ肩が凝っているようだ。背中の痛みを誰に訴えているのか。君は訴えるべき人を知らない。君は孤独なのか。そんなはずはないだろう。しかしある意味では孤独かも知れない。だがそのある意味には意味がない。そして、またしてもいつもの言葉遊びに陥っている。そんな流れに記述は逆らうことはできない。流されつつも、意識はそんなはずがないと思いたいだけだ。別に曇り空を待ちわびていたわけでもないだろう。ではどんな結果を想定していたのか。見苦しい結末を嫌って、あれから二日経ってなおも悪あがきを繰り返そうというのか。現時点ではそんな風には思わないか。しかし何をもって結果とみなせばいいのだろう。まだ何も始まってはいないのではないか。いつもそんな風に語りながら、そこから先が提示されないままに終わってしまうようだが、それは現実に何もないのだから仕方がないのか。


5月8日

 どうもそれは違うらしい。君はいつものように勘違いを犯している。何を間違っているのか。糖分を過剰摂取していると糖尿病になるだろうか。そんなことを語りたいわけではないか。甘いものを飲食する度にそんな恐怖が脳裏をかすめるのは気の小さい証拠か。誰がそんなことを思っているのだろう。健康幻想に頭を害されているか。それは将来何らかの実感を伴った感想になるかも知れない。だが見つめている先には何も見当たらない。ガラクタの山にゴミ以外の何も見出せない。求められる答えではつまらないから意味を放棄する。語ることが何もない行き詰まりの時間帯を通り過ぎたら何が出現するだろう。その先に希望を見出したいようだが、通り過ぎられるわけがないか。また君は誰の相手をしているつもりなのか。相手になっていないか。争う理由を見出せない。無意識のうちに目前に迫っていた期限を先延ばしにしている。病んでいることが言い訳になることはないだろう。誰かは何を病んでいたのか忘れてしまったらしい。単なる筋肉痛であることを願っている。そこから先を見てみたい。君が何を思い考えているのかを知りたい。それは願望を越えて未来の出来事となるだろうか。そこまでに至らない可能性もあり得る。何も思わずにただ歩き続け、自らの死にも気づかずに終わってしまう運命もあるだろうか。誰にそれが到来するというのか。そこに何を見出したつもりになっているのか。またいつもの空虚に遭遇したように思われるのか。しかし必然性はどこにあるのだろう。君が存在していることに理由はない。君でなくてもかまわないが、たまたまその場にいる設定となっているようだ。しかし物語はどこにあるのか。君は何を語っているつもりなのか。なぜそのような展開になってしまうのだろう。そんなことは君の知ったことではないのは承知している。それを語らなければ話にならない。敢えて嘘をつくなら、君にはそこから先に言葉をつなげる義務でもあるのかも知れない。だが敢えてそうする必要はないだろう。なぜそうやって即座に嘘を否定してしまうのだろう。嘘の内容がつまらないからか。小手先のごまかしを多用している。間違ってもそこから驚くような内容へは至らないか。現実はめまいのするような世界を提示しているわけではない。人にはその人特有の勝手な言い分があるのだろう。さまざまな人々の勝手な言い分をすべて尊重しているように装うことは可能だろうか。なぜそれを実現させようとするのか。それは善意と呼べるようなものなのか。それとも偽善と受け取られても仕方のないような行為と見なされてしまうだろうか。それを受け取る立場の違いによって判断は異なるだろう。しかしそれでは何を述べているのでもなくなってしまうだろう。具体的に何について述べようとしていたのか。何を悩んでいるのだろう。別に悩んでいることを明らかにする必要は感じない。それ以外のことで語り続けられると思っているらしい。それは君の勘違いなのだろうか。やっと勘違いの原因が具体的に見えてきたような気がしてくる。悩みを悩みとはとらえずに、何か他のことを述べてごまかしているつもりのようだ。それがごまかしだなんて思いもしないか。思いもしなくても記述することは可能だろう。何をどのように語ろうと、その何かについて語れるはずがない。絶えずそれとは別の対象を妄想してしまい、語りも自然とそちらの方へとずれて行く。そして結果的には何を語っているのでもなくなってしまうが、それなりに言葉は連なり、適当な長さの文章となってしまうだろう。しかしその内容は記述した本人にもよく分からない代物か。


5月7日

 瓢箪から何が出てくるわけもないか。なぜ君は語っているのだろう。何を語っているのか。何を思いついたのか。誰かの反発を導き出すにはどんな台詞が必要なのか。例えば、スポーツは馬鹿らしい。そんな台詞に誰が反発するのか。あまり気乗りしないが、それでも雨音に合わせて途切れ途切れに語りだす。英会話を習得したい人には下心がある。下心などあって当り前だろう。生きるために役立つと思うことは、何でもやってみた方がいい。やる気があるならやってみればいい。努力を惜しんでは向上はあり得ない。しかし何を向上させたいのか。英会話力の向上か。だが人と話すことにどんな意義を見出せるだろうか。それは別に改まって見出すようなことではなく、話しているうちに自然と分かってくることかも知れない。また、たとえ分からなくても、会話によってその場が円滑に推移すれば、それに越したことはないだろう。しかし君は何も話せない。何が気に入らないのか。気まずい雰囲気が好きなのか。他人とそう簡単に意志疎通ができるとは思わないし、コミュニケーションという概念自体を理解できない。理解できない割にはコミュニケーション能力を重視しているのかも知れない。いつもどこかで齟齬が生じている。会話が気に入らないので、わざと食い違ったことを述べているのかも知れない。そうやっていつも人を困らせるひねくれ者を知っている。君はひねくれ者のひとりなのか。まんざら齟齬を解消するやり方を知らないわけでもないが、どうにも意識と意識して繰り出される言葉との間に、積極的なつながりを見出せないようだ。そのどちらもが虚構のような気がしてくる。それは何かの冗談か。なんとなくそこから逃げ出したくなってくる。それでもまだ何か工夫を加えれば何とかなるだろうか。ではこれから何を工夫するつもりなのか。講釈話にも謙虚さを滲ませれば説得力が宿るか。わけ知り顔にはそんな話は信じられない。何よりも心の底から自分自身を信じられない。また他人の勇気に後込みしている。あわただしい日々を忘れ、静かな日々に憧れ、それから何をどうしたわけなのか。やっていることは他愛のないことばかりか。願いはいつまでもかなわぬようだ。ふてくされて、誰かは短い月日を寝て過ごす。思い通りにいかないことに腹をたて、やりかけていた何もかもをどこかに放り投げる。君は世間とは無関係に行動しているつもりらしいが、老けた姿を夢想して、忙しさの合間に、竹林を眺めながら物思いに耽る。真昼に何を思うだろう。散慢な意識はすぐにうわの空だ。心は虚無に奪われている。他の話はどうなってしまったのか。途中からおかしくなってしまったのかも知れない。そんなはずはないか。嘘をついているうちに指先が痺れてきた。たぶんそれも嘘だろう。誰かは脳がいかれて嗅覚を失いつつある。またそれも架空の話なのか。架空の話が嘘であるのは当然か。嘘であってもかまわないのではないか。何をやっているわけでもないが、何もやらないことが幸いしているようだ。気分次第で何かの複合体が形成されつつある。そして結果はいつもの意味不明になるか。別にそれを大げさに表現したいとは思わない。真実を語ろうとしているのに嘘になってしまう。語り得ないことは無視すべきなのか。では現実に視界を遮っているのは何なのか。視界よりも思考の邪魔となっているかも知れない。絶えず到来続ける無為の時を避けられずに、何もできない振りをし続ける。それはどんなポーズなのだろう。時間が止まっているとは思えない。筋肉が固まっている。君は適切な接続詞を忘れてしまったようだ。そんな嘘によって痛みを和らげようとしているらしい。やはり後から思えば他愛のないことかも知れない。それでも何を述べているのだろう。空は唐突に晴れ渡る。面倒なので物語の中では雨はなしにしよう。


5月6日

 偽りの出来事が虚構を構成する。それが偽りであるはずがないか。何を批判しているのだろう。空中に浮かぶ都市が映像の中に出現する。奇想天外の意味を知りたくなる。架空の人物は見出された時を有効に使わなければならない。そんな話の中につなぎ止められている。それはいつの話なのか。いつも遅れ気味の腕時計をのぞき込む。満たされない気持ちはどこへ向かうのか。方位磁石の示す方向へと歩みだす。信用できない人々と共に何を求めているのだろう。どうでもいいような話に興味を示している。誰が何をしているのか。それとは無関係な嘘を述べるなら、冷静になれない自分を発見しようと誰もが努力している。映画を見るとはそのようなことなのか。どうでもいいことに真剣になれる余裕が欲しいそうだ。些細な行き違いを拡大解釈してみせる。こだわりとはそのような行為から生まれるのだろう。それらは相対的な価値観の相違に還元されるが、こだわりを求める心は、自虐的に自らの行為を卑下してみせる。他とはちょっと違うこだわりをばかばかしく思っている振りを装うが、それは単に用法的な間違いではないのか。何事にも突き放した態度でいられる立場でありたいようだ。すぐに熱くなる人を内心で馬鹿にしている一方で、表面的には同調しているように見せかける。そんないやらしさを相手から見抜かれていることに気づかない。そんな人はどこかで代償を払わされているのかも知れない。あまり過大評価してはならないが、過大評価を装ってわざとらしく驚いてみせる行為を虚しく感じている。しかしそれがおつき合いの常識なのかも知れない。そんな虚しい会話がどこかのパーティー会場では飛び交っているのだろうか。それ以外に何を話したらいいのだろうか。それとも何も話さず沈黙を守るべきなのか。そこでくじけてはならないそうだ。なぜ人々は居心地の悪さに耐えているのだろうか。作り笑いを多用しながらその場の雰囲気に合わせようとするのだろう。たぶん話すことなど何もないのかも知れない。会話自体が余計なものなのかも知れない。しかし余計だが必要不可欠になっている。無駄なのに必要とされている。よくいえば親睦を深めるためには無駄な会話が必要不可欠と思われている。ある意味ではそれは真実なのだろう。会話に見せかけた情報交換によってお互いの腹のうちを探り合う。話し相手に勝手な幻想を抱いて暇つぶしの材料としている。人間を観察しているつもりになって、根拠の希薄な会話理論を形成しようとする。わけ知り顔を装い、何が話題となっているのか探りをいれている。たぶんこの世はチンパンジー文明の亜種で満たされているのかも知れない。だが嘆くことはない。それがすべてなのであって、それ以外を想像しようにも、君は人間以外の人間の存在を知らない。宇宙人も人間の一種と見なされている。別にそれは深刻な事態になっていない。有無をいわさず実力行使に訴える以前の段階にとどまれる可能性がある。君達はそこに何を求めているのでもない。ただ漂っていたいだけなのかも知れない。あてどなくさまよっているうちに人生を終える人もいる。それを肯定する度量が君にあるだろうか。少なくとも否定する度胸は備わっていないのかも知れない。些細な真実を否定してどうするのか。気に入らぬことは無視されてしまうだけか。まだそこから先があるらしい。君は知人を介して何を知ったのか。ある事件について興味深い文章を発見したつもりになっているだけか。大騒ぎするほどのことでもない。何を知ろうと知っていることにはならないだろう。過去の事件は未来を知らない。これからどうなるか予測を提供するものではない。それらの出来事は君とは無関係に思われる。それは単なる付け足しの域を出ない話か。よく分からないままに時間が過ぎ去るだけのようだ。いつものように何を語ろうとしているのか分からない。確か以前はそこで途切れていたように記憶している。


5月5日

 人の力が及ばないところに制度が横たわっている。それを変えようとすれば保守派が立ちはだかるか。保守派には変えられない事情があるのかも知れない。保守派の都合の良いように変えないと支持者が納得しないか。そんなことはどうでもいいか。なんとなく語りを放棄したくなる。往生際が悪いようだ。何事もあきらめてはいけないらしい。それが共産党辺りの信念となっている。清廉潔白を目指すべきなのか。それは目指す必要のない無駄な概念かも知れない。では何を目指すのにも信念は必要だろうか。そんなところから語りたいわけでもない。無駄足を引き受ける人の気が知れないか。効率的な作業に信念は要らないと思われる。それは効率的でない。思っている暇がない。何かを思っている間に作業は終わっている。しかし終わった後から疑念が生まれつつある。作業の合間に君は何をやっているのだろう。別の作業をやっているわけか。それは内職の類なのか。気分はそこから逃れたい。何もない空間で何もやらないことを望んでいる。そこから信念が生まれるだろうか。君は自らの信念を疑っているわけか。それでは信念にならないだろう。何事も疑ってかかるのが君の信念か。なんとなくそれで一応の答えを得たような気になってくる。それ以外にどう答えれば気が済むだろうか。何を信じたいのか。遠く離れてしまった思いを復活させたい。苦難の歴史を語り継ぐ者は被害妄想に陥っている。しかしその妄想の中に歴史の真実が息づいている。歴史そのものが虚構と幻想の産物なのかも知れない。だが性急に答えを導いてはならない。歴史は答えではない。安易な歴史はロマンを感じさせるだけか。構成してみればすでに死んでいる。屍臭が漂ってきて、蛆と共に自作の詩を朗読したくなる。それがロマンの源泉だろうか。メディアは前向きな意見に幻想を抱いている。ワインと共にパンとチーズを食していたいらしい。それは西洋かぶれに属する態度か。何を述べているのでもない。どうやら画面上に登場する人物たちは、みんな利いた風なことを語りたいようだ。自らの主張に酔いたいのか。語っている姿を思い浮かべて悦に入りたいわけか。そんな誘惑をはね除けることができるだろうか。浮ついた意識には隙が生じる。隙が生じてもかまわないだろう。隙の中に良くなる可能性がある。しかし大げさなステージの上にはしょぼい現実がある。月並な歌唱力で歌っているその曲は、ありふれた恋愛がテーマなのだろう。それ以外を求めるのはないものねだりか。隙の本質とはそんなところだろうか。だが君はそれで何を批判しているつもりなのか。それの何がウリなのだろう。売れるものは何もないか。内容が四方八方に飛んでいる。川は海に流れ込んでいる。砂漠へ流れ込む場合は途中で消えてしまうか。街の声はどこへ消え行くのか。ブラウン管か液晶画面上から、電磁波とともに何が伝わっているのだろう。国民の生活は彼らの言説を通して何を示しているのか。人間はよく分からない。それは君が人間でない証拠になるだろうか。証拠ではないか。君は人間という言葉が嫌いだ。人間に特徴があるとすればそれは何だろう。よく分からないことを分かるように語ることが可能だろうか。たぶん制度的に無理があるのだろう。とりあえず制度に寄りかかりながら生きてはならないのかも知れない。信用に足るような制度はあり得ないか。信用してその気になれば馬鹿を見るだけか。制度は制度として、ある程度はつき合っておかなければならないかも知れないが、それとは別に制度が崩壊したときに備えておかなければならないか。必ずしも備えあれば憂いなしというわけにもいかないだろうが、心配しつつも、その心配を利用して商売したい者たちのカモになってはまずいだろう。いずれにしても、制度や制度周辺でうごめいている人達は信用できない。制度を離れてどう思考し行動できるかが問題となっているのかも知れない。


5月4日

 砂漠にはねる狐は何を狙っているのか。何に出会うのだろう。たぶん昆虫とその背景とは関係ないだろう。では猿とジャズとはどんな関係にあるのか。ファイルを保存したくなる。猜疑心に満ちているようだ。何かに導かれてどこへ進もうとしているのか。行くあてのない者はどこへ行けばいいのだろう。どこにも行かなければいいだろう。何を求めているのでもない。風景は遠くから呼びかけてくる。応えなければならないように感じられ、臆病風を吹き払おうとする。それは用法上の誤りかも知れない。不親切な説明に終始しているのかも知れないが、それは説明以前の語りになりたいようだ。魂は撤去された看板に似ている。似ているのではなく、看板の宣伝文句の中に魂という文字を発見しただけかも知れない。だが現状ではどちらも正しくはない。時間的に過去でも未来でもない時が見出される。魂はどこにあるのだろう。たぶん言語表現的に現代と合っていないのかも知れない。魂の叫びは嘘を含有しているのだろう。表現が大げさすぎるのか。だからなんとなく羞恥心が邪魔をして、魂の出現を阻んでいる。目が覚めたのはコーヒーのせいか。虚ろな心には魂は不必要か。誰がそれを望んでいるのでもないが、君は空虚を愛しすぎている。だからどこへも行きたくなくなってしまうのか。だが人によっては、行くことは逝くことに結び付いているので、注意しなければならないか。生き急いではならない。自らはおかしなことを述べているらしい。誰ともなく勝手に始められたゲームを放棄できなくなる。それはどういうことなのか。自然発生的に何が始まったのだろう。昨日の真似をしてはならない。それらの雰囲気を打ち消したくなる。常にそこからゲームが始まっているようだ。標的を狙い撃ちするゲームが盛んに行われているらしいが、それらの標的が生身の人体であるとしたら、それはどのようなゲームになるのだろうか。人体中のカフェインの濃度が高くなるだろうか。異物を体外に排出したくなるか。至上の愛は誰が奏でるのだろう。それが愛でないと思い込みたい人もいるようだ。雑で荒削りな作品を認めたがらない。批評の対象から除外しなければならなくなる。だからまともな神経でいられなくなる。狂気を望んでいる人もいるらしい。だがそれはありふれた対応になるだろう。どんな状況下にあっても正気を保っているべきなのか。それが可能だと思う心が正気でないか。正気であろうとなかろうと抗議し続けなければならない。それが唯一残されたやり方なのだから、それを貫くべきなのか。だが誰がそれをやる権利があるのだろう。少なくとも君ではないのかも知れない。君はただ眺めている。それらの一部始終を黙って眺め続けるばかりだ。しかしまだ始められたばかりで終わりまではいっていないだろう。それは永久に終わらないゲームなのかも知れない。ゲームに参加する者たちは、正気を保ちながら狂気の沙汰を演じなければならない。絶えず人体が砕け散る瞬間を求め続ける。それが彼らの仕事なのだ。標的となった相手に死をもたらさなければ、上官の気分を害してしまう。そんな行為をどうすれば肯定できるだろうか。吐き気を催す状況の中に任務の実態がある。たぶん木を見て森を見ない専門家気取りなら、それを肯定できる説明を有しているのかも知れないが、そこに説得力が宿るとしたら、それらの言説に良心が入り込む余地はなさそうだ。だが現状ではそんな行為も許されているのかも知れない。それを黙認する人が多すぎるのか。しかし黙認して何になるのだろう。結果的に自らの首を絞めているだけかも知れない。それがありなら、遠からず何をやっても許されるようになるだろう。残忍な行為に歯止めが利かなくなる。やった者勝ちなら勝つためにやらざるを得なくなる。フィクション的に世界は魅惑のワンダーランドと化すだろう。もちろんそうなったら、ワクワクドキドキが日々の日常に入り込んでくるかも知れず、退屈を持て余していた者たちは狂喜乱舞するだろう。しかしそれは何かの脅し文句なのか。それらのほとんどは嘘の範疇に入るかも知れない。たぶんそうなるはずがないとたかを括っている。


5月3日

 まだ何か足りないような気がするのは、そう思いたいだけで、やらなければならないことをやろうとする気を起こさせようとしているだけか。空は無限に高い。鳥が羽ばたいても羽音に驚くことはない。眠たくなったら眠ればいいだろう。誰がやる気になるのだろう。状況を全く把握していない。単純なことは語らなくとも分かることだ。そこで何を語っているのだろう。ますます語彙が少なくなってくるかも知れない。それでも君は遠ざかり続ける。空虚から遠ざかり、ありふれた意味を求めるようになる。思考の限界が近づいているのだろうか。思考する手間を省いてどこかにたどり着く。おぞましい肖像画を好んでいるわけではない。鏡に映った自分自身には影が欠けている。描くのを忘れてしまったのか、あるいは故意に影を省いたのか。そのような手法で何かを訴えかけたいのかも知れない。影は重要な要素ではなさそうだ。手間を省いて陰影を忘れる。その結果、思考はどこにも反映されなくなる。事件は消え去り、語り口に溺れ、誰にも会いたくなくなる。たぶんそれ以外に何も必要ではないのだろう。確かに言葉のつながりを無視すれば何とでも語ることが可能になるが、何を語っているのか意味不明だ。君はどこで道草を食っているのだろう。山羊か羊の類か。猫まで草を喰む。人間は野菜を食べる。食べたついでに野原を畑にしてしまう。御都合主義とはそのことか。事件は常に生起し続ける。なまものにあたると死ぬかも知れない。食中毒のことを述べているのか。茸は毒にも薬にもなるだろう。ワライダケは笑いのもとにもなる。身体が軽くなり、仙人のように空を飛べるような気になり、崖から落ちて行方知れずになるか。それは何のたとえなのか。何を食べているのでもなく、でがらしの紅茶の色を眺めている。草は土手に生えている。川の流れを何にたとえようと、たとえているものは意識の外にある。不信感は芽生えのときを待ち、夜空は星を飾りたてているわけではない。真空の気持ちにはなれない。真空は空海と関係をもちたい。たぶんそれは気持ちではないのだろう。印象に残る風景はそんな気持ちを必要としていない。すべては必要から見放されているのかも知れない。この世界のどこかに何があるというのか。何かがあるのだろう。そこには苦しみがある。知る機会は何度でも訪れるだろう。公平な判断などまやかしに過ぎない。肝心なことは肝心なことを知らない。そうではないと思いたいが、事実がそれを証明してしまうだろう。たぶんその程度の自らをどう受け止めるかが問題といえば問題になるのかも知れない。たぶんその件については口を閉ざしたままになるのだろう。そんな人は多いか。それはそれで未解決のままに決着させてしまうわけだ。要するに自分自身に嘘をつく。宙づり状態になった問題から目を背け、何事もなかったかのように、いつもの生活を続けようとする。斜めからの視線を遠ざけようとするが、いくら必死になっても、それを止めさせることはできない。君はもう現実に負け続けている。マイナスの要因を放置し続けているのだから、修復は無理だろう。そのままで生き続けることがはたして可能なのか。君は誰のことを語っているのか。誰でもなさそうだ。そう思えば気休め程度の効用はありそうか。思わぬところから本音が洩れるかも知れないが、誰もそれを聞いていないだろう。たぶん何をやっても報われることはない。報いを受けるのは、君が君であることをやめるときか。しかしすでに君は君でなくなっている。おそらく架空の人格が尽きていて、それに代わって獲得されるべきものが何もないのだ。意識が面倒臭がって何も指し示さない。君はもう自由だ。障害物が辺りに何もないことに気づくはずか。それが語る上での障害となっているようだ。どこまでも通りすぎてしまい、ぶつかるものが見当たらない。そんな風に語れば意識に何が生じるのか。それはすでに生じている無駄な語りとどこが違うのか。


5月2日

 どうということはない一日が過ぎ去る。夕闇が迫る頃、空は曇っている。明日は晴れるだろうか。そんなことはどうでもいいことか。何を思ってもしっくりこない。調子が外れているように思われる。それ以外に何を思っているわけでもなさそうだ。またいつものように虚無を手に入れることができるだろうか。わけの分からない言葉とともに遠くまで歩いてきた。夢の中では空が輝いている。意識は幻想の虜となるだろう。心の中と瞳の中に映し出される影の残像は一致しない。誰の魂に触れているわけでもない。豊かに実っているのは葡萄のように見えるが、それを手に入れる気にならない。なんとなくそう思いながら川沿いを歩いている。君にはそれなりの理由が要る。理由の定かでない動作に身を委ねて立ち去り続ける。もはや真実を見極める力などない。黄金色の風景は秋の記憶かも知れない。傷ついた心を癒すために人が群れ集うのは、どこかの刑務所になるらしい。彼らは何を叫んでいるのか。自分たちをどこへ連れて行こうとしているのか、誰も分かっていないようだ。期待はそれとは別の理想を追い求める。触れることのできない領域に影は逃げ込んでいるようだ。誰も追いかけてこられないと思っている。真実とは何だろう。遠い記憶は意味を無視している。昨日のことは今日につながらない。思い込みは疑い深く探し回るが、何を探しているのか定かでない。何を見極めようとしているのだろう。それは何かが成立するために必要な条件だろうか。まだ会話が成立していると思いたいのか。それは何のための会話なのだろう。どのような意志を確認したいのか。だが無理に決断を迫っているわけでもないらしい。その場の雰囲気を表現していると思われる色彩は、微妙な配色を感じさせる。それで何を述べているのでもない。感性を越えて自我を押し潰す要因がある。誰のものでもない感性は、語られた言葉以外に何も必要としない。だから構成された文章は誰のものともならない。風に乗って蒸し暑い空気を目指して羽虫が飛び交う。君にとってはそれらの目的などどうでもいいことだ。もう一度何を信じたいのか。言葉の確かさはもはや砕け散っている。君は独りなのに独りでない境遇を利用する。それを利用して何をやろうとしているのか。いつの間にか風はやみ、羽虫が目に入ることもなくなったようだ。それとは別に蚊に刺されたときのかゆみを覚える。去年の夏は今年の夏を凌いだつもりになれるだろうか。誰がそう思うか定かでない。だが間違った意味を流通させたいわけではない。滞りなく作業を終わらせたいだけか。それにはまだ苦悩する時間が足りないようだ。そこから逃れ去るには、まだやらなければならないことが残っている。それをやらず終いにしておけばどうなるというのか。影が呼びかけているようだ。まだ頑張っている君に安らぎのときを提供したいらしい。かたくなな態度を解きほぐして何を思っていればいいのか。自らで自らを解きほぐせるわけもないか。その態度は君が君である限り不動のものだ。では君でなくなればいいわけか。君が君でなくなれば誰になるのだろう。簡単な選択肢としては、面倒なので君は彼になるかも知れない。そうなれば、君の声が彼の声に近づくわけか。ありふれた曲調に乗っているのに歌詞はよく分からない。観念的なのは昔からのようだ。複雑に語りながらも、その複雑さが見かけ倒しなのは惜しいところか。実際に何を狙っているのでもない。狙いは別の人格が保持しているのかもしれない。滅多に現れない彼には、何もかもがちんぷんかんぷんに感じられる。それでいいのだろうか。誰かの台詞はそれでいいことを示しているか。古い話には黴が生えているかも知れない。顕微鏡で覗いてみれば、黴でもダニでも見つかるだろう。何が古い話なのか分からないが、たぶん古い話を蒸し返しているのだろう。そこには何が存在しているのか。存在しているのではなく空想しているのか。存在はいつも空想されるだけのようだ。それで気が済むのならそれも致し方ないか。


5月1日

 気力が続かないのはいつものことか。確かにいつもそうだが、それでも何かしら語り続けているようだ。意味のない語りになる。意味を知ろうとしていないだけか。意味ならいくらでもあるだろう。確かに一般的な意味ならいくらでもありそうだ。だがいくらでもありそうなそれらの意味に感性が合わない。なんとなくずれているような気がしてくる。ただそんな気がするだけだろう。それは気のせいで、そんな感性を無視すれば、何らかの意味に行き当たるのかも知れない。感性はないものねだりでもしているのか。では感性の理想とする意味とはどのようなものだろうか。やはりそれは意識に驚きをもたらすような思いがけないものとなるだろうか。そんな意味を模索しているわけか。それだけではつまらない。探しても無駄だろう。無駄だが探しざるを得ない。ありふれた意味ではつまらない。要するにどちらにしてもつまらないということか。それだけではつまらない。つまらないから眠たくなる。眠たくなるがそれでもやろうとしている。だが何をやろうとしているか定かでない。定かなことは、画面を見つめていること以外に何かあるだろうか。そこからどうしようというのか。どうにかなるとたかを括っているのか。それでどうにかなったらそんなに楽なことはない。現にどうにかなっているではないか。頭がどうかしている。どこかが麻痺しているらしい。そんな理由を捏造して逃げ出したくなる。それでは理由になっていないだろう。他に理由らしい理由が見当たらないか。どうかしているのは頭でなく世の中の方か。それはどこかで聞いたような逃げ口上か。そんなことを述べるつもりはなかったようだが、なんとなくそんな紋切り型を繰り返したくなる。たぶん面白いから繰り返す気になるのだろう。それではつまらないだろうか。なぜ面白いのにつまらないのか。逃げ口上を繰り返すことは面白いが、その内容はつまらない。では面白さとつまらなさのどちらを優先させればいいのだろう。どちらでもないのかも知れない。何かを優先させればとたんにつまらなくなる。結果が分かってしまってはつまらない。なんとなくしらけてしまう。しかし無理に面白くさせようとしているわけでもないので、そうなったらなったでそれは仕方のないことだ。ここに至ってあまり技巧を凝らす気にはなれない。投げやりになってもかまわないだろうか。どうしたら投げやりになれるのだろう。投げやりになるには、まずは焼けくそになることが肝心か。焼けくそになって、それに挫折すれば投げやりになれるだろうか。しかしそれでは言葉遊びをやっているに過ぎないだろう。空虚の本質から遠ざかってしまう。すでに遠ざかってしまったのではなかったか。それは以前のことか。そうやって誰かの魂は滅びの予感を無理矢理引き寄せたいわけか。しかしそれでは意味不明な飾りたてになってしまう。語っているのは誰の魂でもなく、滅びの予感はフィクション上からコピーされた決まり文句だ。たぶんそれも逃げ口上の一種だろう。自らの都合の良いときに滅ぶはずがないか。滅びたくないときに滅ばなければ滅んだことにはならない。わざと滅ぶのは計画倒産のようなものか。だから逃げているうちに苦痛が増して行くのか。まだまだ嫌なことをたくさん経験する必要があるらしい。だが必要があるのは君の意識ではなく、そこに形成されつつある言葉の連なりのようだ。それらの文章からしてみれば、意識がどうなろうと知ったことではないのかも知れず、適当に言葉を繰り出して、言葉を繰り出す作業を続けてくれればそれで良いのだろう。もちろん誰がそんな風に思っているのでもなく、意識が勝手に架空の意識を想像しているだけかも知れない。要するにそれらの文章から導き出される意識は虚構なのか。たぶんどこかでごまかしが行われていて、途中から嘘をついているのだろう。そしてそういう風に思っているのも誰の意識でもなく、ただ君が嘘の思いを構成しているに過ぎない。そうやってそれらの試みは継続されて行くらしい。


4月30日

 何も問題がないことは良いことかも知れないが、却って張合いがないか。問題がないわけではない。それは解決すべき事柄ではないので問題とはいえないかも知れないが、とりあえずそれをどうにかしなければならない。問題について語ることは必要でないのか。必要でないことをすべきではないか。しかし他に必要なことは何もない。そんなはずはないだろう。例えば生きて行くには呼吸が必要だ。そして衣食住が最低限の必要だろうか。ではそれ以外に何がある。君は芸術の問題を軽んじている。それは思い込みの問題だろう。何が芸術であるかについて論じる気にはなれない。必要でないからか。君には芸術が分からない。君にとって芸術は空虚な言葉だ。現実の生活からはかけ離れた対象となっている。しかし現実の生活も空虚な言葉で示される。芸術よりも現実の生活の方がより空虚に満たされているかも知れない。毎日意味のない作業を繰り返しているように感じられる。だが意味がなければ困るわけでもないか。例えそれを言葉で語っても意味が宿るとは限らない。なぜ意味を求めようとするのだろう。意味のないことばかりやっても虚しいだけだからか。意味はなくても目的はあるだろう。それを設定することは可能か。安易な目的で述べるなら、誰もが金のために仕事をやっている。それは虚しいことか。金に対して幻想を抱くなら、たちまちそうではなくなるかも知れないが、そんな気になれない心境に留まり続ける。労働がすべてなのにそれを忘れようとする人は多い。余暇を楽しむ人はそうではないと思っている。それは欧米流の幻想だろうか。幻想を抱いて何が悪いのか。夢や希望を持って何が悪いのか。たぶんそれは正論になるだろう。しかし正論を述べてはつまらない。そんな理由で正論を批判することができるだろうか。批判していることにはならないのかも知れない。仕事だと割り切って妥協する気にはなれないか。では仕事の中に自らの主張や思いを反映させれば、それで気が済むのだろうか。そんな人も多いかも知れない。彼らの目当ては何なのだろう。思いを遂げることか。それだけでは気が済まぬか。思いがけず非業の死を遂げたりして、周りの者たちを涙させることもありだろうか。そんな劇的な展開はメロドラマみたいで恥ずかしいかも知れない。たぶん何かをあきらめなければ人生を全うできないだろう。恰好の悪さのただ中で生きて行かなければならなくなる。みじめな思いを経験しなければその先へ進めなかったりする。要するに思い通りには行かないということか。しかしそんな当り前の結論ではつまらない。だが無理に面白おかしくすれば、ピエロになるかも知れない。そんな境遇に納得できるだろうか。漫才師は売れてくると、漫才師のままで終わりたくないと思うようになる。欲が出て野望を抱くようになるわけか。しかしそれは司会者やコメンテーターや俳優になる程度のことか。中には国会議員になった人もいるだろう。要するに笑いで有名になりながらも、笑い者から脱したいのだろうか。狂言師には伝統芸能という言い訳がある。だから死ぬまで己の芸に精進していられるわけか。君は人間国宝と認定された人々のことをどう思っているのか。あれこそが芸術を身をもって体現している人々だろうか。彼らの大半は老人か死人だろう。芸術は去り行く人々とともにある。では君も老人か死人になれたら芸術を体現できるだろうか。それが必要条件ではないだろう。今はさらに語らなければならないと感じているらしい。しかしそれは芸術とは何の関係もないことだ。誰かが富や栄光とは無関係なことをやりたいと述べていたが、それはどういうことなのだろう。特に何もしなくてもそうなれるような気がする。ではそれと言葉を連ねることとどう結びつければいいのか。別に無理に結びつけなくてもかまわないか。なんとなくそれとは違うことを考えている。


4月29日

 何をしていたわけでもないのに、予想外に時間が余ってしまったようだ。そのときなぜ忙しいと感じていたのか。現実には何かをやっていたはずか。いつものことではなく、思いがけないことをやっていたのかも知れない。では思いもしないことはいつ思い出されるのだろう。なぜではなのかつながりが分からないが、意識して思い出せるわけもない。今はただ時が過ぎ行くばかりで、それ以外は何もないように感じられる。君はそんな成行きを許容できるだろうか。許容するもしないも、現実にそうなっているのだから仕方がないだろう。そんなことを考えているうちに雲行きが怪しくなってくる。今にも雨が降り出しそうだ。たぶんそこで何かを見ていたのかも知れない。そのとき何を見ていたのか忘れてしまったが、では何を許した方がいいのだろうか。なぜ許さなければならないのか。怠惰な意識を許していたらその先へ進めない。しかし怠惰になりざるを得ない事情もあるらしい。やる気のなさに嫌気がさして、意識はすべてから遠ざかっているように感じられる。何もかもが離れて行って、自意識さえも身体から離れて行ってしまう。そして遠からず身体さえも遠ざかってしまうだろう。何から遠ざかってしまうのか分からなくなる。過去の景色は遠く感じられるが、未来の景色はさらに遠い。その眼差しは今見ている景色を忘れている。現実には何を見ているのか。車窓の向こう側に広がるありふれた景色のさらに向こう側に何があるわけもないだろう。それは見ることと思うことを混同している。さらなる向こう側などあり得ないか。そうやってあり得ない景色を思い浮かべながら、気休めに幻想的なイラストを眺めていたときのことを思い出す。そう都合良く思い出せるわけもないか。それがフィクションの中でならあり得るかも知れない。ではすでにフィクションの中での話となっているわけか。だがそれで何を述べているわけでもない。そのとき曇り空を見上げながら君は何を思っていたのか。たぶんその場の思いつきでは大した内容には至らないだろう。だがそれは思いつきでないかも知れない。思いもしないことを述べているつもりなのか。もちろん誰がそれを述べているのでもない。誰でもない人格がなんとなく無駄に言葉を連ねているようだ。そんなことはあり得ないか。ではこれから誰が何を語ろうとしているのだろう。面倒なのでそんなことは知らないことにしておこう。そこには誰もいないのだから、それは架空の語りになるだろうか。要するに独り言とというわけか。しかしそれでは語りはじめる前に終わっている。何が終わっているかは誰かの想像にまかせるしかないか。そんな風には思わないが、たぶん何かが終わっているのだろう。なんとなく状況を難しく考えすぎているのかも知れない。確かに難しい表現は避けなければならないが、何が確かなのか、あるいは何が難しいのか分からないか。ところで逃げ向上とはどんな意味なのか。あからさまに逃げているのに、そんな前置きはいらないか。そうやってまた前置きだけで終わってしまうわけか。何が前置きなのだろう。本題がないのだから、すでに前置きではなくなっているのかも知れない。気まぐれに何を語ろうとしているのか。それは誰の声なのだろう。その程度に留まっていてはいけない。しかしそこからどこへ行ったらいいのか分からない。それ以上何をやろうにも、結果的に無駄な試みを繰り返すだけで、もはやどこへも行けそうにないような気がしてくる。いつものように気力が減退しているわけか。それだけではないはずか。それ以上を求めながらそれだけだったらおかしいか。何がおかしいのだろう。被害妄想に因われている人は、自分のおかしさを棚にあげて、すぐに世の中がおかしいと思いはじめる。しかしそれがどうしたのか。被害妄想の人はありふれた意見には耳を貸さない。そんな決め台詞は聞き飽きているのかも知れない。


4月28日

 また誰かは以前と同じようなことを述べているらしい。国際社会などという社会はない。いったい誰がその社会の一員なのだろう。アメリカ一辺倒を貫きたい一握りの人々がそうなのか。そんなことは君には関係のないことだ。たぶんそれは固定観念の一種かも知れない。何を考えているのかはっきりしないが、考えれば考えるほど分からなくなる。そんなはずはないと思いつつも、さらに思考をめぐらせているつもりになって、迷路の奥深くまで招き寄せられる。何がそこへ招き寄せているのだろう。それが迷路であるはずがない、と思いたい意識が招き寄せているのか。しかしそんなこともどうでもいいことか。だがまたしても、すべてがどうでもいいことであるはずがない、と思いたいわけか。どこかに興味を引く事象が埋もれていたりするだろうか。それに気づかない振りを装っているのかも知れない。しかしその無気力な意識にどこまで身体は耐えられるだろうか。いつか良心に目覚め、何か建設的な意見を提示することができるようになるだろうか。目覚めた場所がどこであろうと関係ない。別に退屈を紛らすのに、良心に目覚めるとは限らない。目覚めた時点で、それとは違うことを考えている可能性もあるだろう。しかし何がどうなってそうなるのか、相変わらず君の語っている内容はわけが分からない。途中で肝心なことが省かれているような気がする。その省かれている内容とは何か。それは君には思いつかないことかも知れない。思いつかないから語りようがない。しかしそれでいいのだろうか。他人はどう思うか知らないが、なんとなく笑い話で済ませられるような気もする。現に今は人がいくら死んでも笑ってしまえる状況なのかも知れない。死ぬほどおかしいときは、笑っている当人が死んでしまう可能性もある。しかし何がそんなにおかしいのか。例えばなぜ映画の中では冒険が横行するのだろう。別にそれが悪事とは限らないと思うが、なぜ横行しなければならないのか。なんとなくそんな述べ方がしっくりくると感じているらしい。しかしそれは言葉遊びの範囲内かも知れない。要するに、横行という表現を使ってわざと冒険の価値を貶めようとしているだけか。ところで指輪をめぐる旅に出た者たちはその後どうなったのだろう。大げさな映画の話ならすでに結果は出ているはずか。それについて笑いころげている者など誰もいないか。それは笑いころげるほど面白い話でもないか。その面白さは笑いとは無関係の面白さだろう。それを見る人によっては面白く感じることもあるだろうし、感動してしまう人も大勢いるだろう。多くの人がその単純明解さを見抜けぬわけでもないが、それが面白かったり感動してしまう要因となっているのだから、それはそれで製作者の思惑通りなのだろう。スクリーン上に展開される架空の冒険に心踊らされる人は多いか。さまざまな環境条件を考慮しなければ、その冒険を疑似体験していると思い込むことは可能か。実際には見ているだけなのに、それで冒険を体験できたらそれは素晴らしいことだろうか。それで済むなら人々は自ら行動しなくてもいいことに気づくだろう。その方が楽に決まっているからだ。画面をのぞき込んでいるだけで生きていけたら、それは大変幸せなことかも知れない。もちろん本気でそんなことを語っているわけでもなさそうだ。まだ話の途中だったはずか。いつの間にか眠ってしまったらしいが、なんとなく退屈に思われて、そこから先を語る気にはなれない。なぜ登場人物たちはつまらぬ諍いを繰り返すのだろう。そうしないと話が続かないからか。そうやって先回りすれば何とでも説明できるか。だがそんな説明ではつまらない。そこにはどうしようもないリアリティの欠如が横たわっている。現実の日常生活との間に埋めることの不可能な溝が存在している。しかし同時に、そんなことは誰にとってもどうでもいいことかも知れない。そんなところまで考えをめぐらす必要はないだろう。


4月27日

 それは馬鹿げたことかも知れないが、なんとなく君は真実から逃げているような気がする。しかしそんなことは君にとっては無関係のどうでもいい問題なのだろうか。紛争地域で活動するジャーナリストから届いた記事や写真や報告を使って商売していながら、そのジャーナリストの中の誰かが自らの不注意や偶然の巡り合わせから、武装勢力に捕らえられて人質となったとたん、自己責任だなんだと非難して、挙げ句の果てに、多くの人々に心配や迷惑をかけたから謝罪しろ、と凄んでみせる者まで現れる始末を、ただ報道し続ける。それでまかり通るのならそれも仕方ないか。だが危険な地域から実況中継などをやっている報道機関の責任はどこへいったのか。やはり現場で危険な目に遭いながらも報道し続ける者たちを見捨てたら仁義に反するか。そういう矛盾したことを平気でやっているマスメディアは信用しない方がいいのだろうか。日頃から誰も信用などしていないのかも知れない。またその程度のことがわからないような人は正真正銘の馬鹿なのか。なぜ人々は短絡的な感情しか持ち合わせていないのか。もちろん本当はそうではなく、そんな風に見せかけているだけかも知れない。事実に反して、何も考えようとせず、浅はかな煽動に乗っかって誹謗中傷をやりまくっているように報道されているわけか。それらはごく一部の人達なのだろうか。一部でなければまずいか。もしそうでなければ、やはりこんな世の中はすぐに滅び去った方がいいのかも知れないが、現実にはそうなるはずもなく、結局生き残るのは、理性を捨てて感情に走る愚か者の方かも知れない。そういう人たちが多数派を形成しているように思われているのだから、この社会は彼らのものだ。たぶんそれが紛れもない真実なのだろう。些細なことをセンセーショナルに騒ぎたてて、人々の感情に訴えかけるやり方には勝てないと思われるので、それ以上に何を述べても無駄かも知れないが、それは何かの冗談か。冗談では済まされない問題だろうか。確か世界の総人口は六十億人を越えているらしいから、ごく一部でも数十万人はいてもおかしくないだろう。とりあえずその数十万人を相手にしていれば一応は商売が成り立つのかも知れない。ならばそれはそれで何の問題もないことか。しかしそれで一件落着なのだろうか。まだ何か執拗に難癖でもつけたいわけか。それ以上どう述べていいのか分からなくなる。人はさまざまなことを経験しつつあるようだ。それらの経験をどう評価していいのか分からない。あまり他人のやっていることにとやかく文句をつける気にはならないが、勝手に心配しておいて迷惑かけたから謝罪しろはないような気がするし、人質を救出するのに税金使うのが嫌なら、はじめから救出など試みなければいいとも思うし、別に日本政府が直接救出したわけでもないのに、後からその費用を請求するのは虫が良すぎるだろう。そんなことをやっている一方で、各国の日本大使館では税金を湯水のように使い、酒代に数百万もかけて定期的にパーティーなどをやっているわけだ。そして政府開発援助で数百億もかけて無駄なダムをつくって、その国の住民からひんしゅくをかっていたりする。それとこれとは別か。そんな言い訳が通用してしまうわけか。それはそれでどうということはないのかも知れない。何しろ国の借金が数百兆円もあるわけだから、それから比べればそんなはした金はどうでもいいことかも知れない。なんとなくそんなことを考えているうちにアホらしくなってきた。たぶんそれはそれでそういうことでしかないのだろう。しかしそういうこととはどういうことなのか。そんなことは各自で考えればいいことか。意味不明に述べるなら、答えは風の中にあるということか。


4月26日

 どうでもいいことを考えているうちに、ただ闇雲に言葉が付け足されている。どこでそうなってしまうのか。それはどこでもないだろう。だがそれではどうにもならない状態を立て直すことは不可能か。やはり何を語っているのかわからない。切羽詰まってから何を語っているのか。何ももったいぶっているわけではない。しかし君がそれを理解することはないだろう。何かが飛び去る。飛翔するのは鳥か。では飛躍するのは何だろう。何かが飛躍している。昼の空をカラスが飛んでいく。だがそれは飛躍的な進歩などではなさそうだ。なぜカラスと進歩が関係するのか。人は常に周りの環境の一部としてうごめいている。その役割を担っている者は自分の役割に気づかない。それと気づかずに役割を放棄して、何をやっているのかわからないまま、意識はいつもの意味不明に近づく。そして空虚を抱え込んで自分の過去を思い出せなくなる。しかし君は空腹に堪え忍んでいるわけではない。それとこれとは関係ないだろう。また何かが邪魔をしているような気がして、知らず知らずのうちに被害妄想にとらわれている。しかし現状では何の損害も被ってはいないはずだ。だからそこでやめてはならない。その場所から飛翔しなければならない。意識は自分自身へ帰ってくるが、そこで感じたことはどのように言い表されるのだろう。束縛だらけのそこから飛び去りたい衝動に駆られている。絡め取られているのはやる気とともにそれに似た類の感情だろうか。感情よりも思考が抜け殻状態になりつつある。神経が重圧に耐えられなくなり、次第に行き詰まりの全貌が目前に迫ってくる。それについて君は何を考えているのだろう。かろうじて瀬戸際で持ちこたえているようだが、はたしてそのときの判断は正しかったのだろうか。それ以前の問題として、始めから君は正しさを求めていない。行動の正しさは硬直した判断基準に基づいて決定される。正しさはその場限りの正しさにすぎない。今は間違っていてもかまわないのであり、とりあえずそこを通り過ぎなければならない。今といわず永久に間違っていてもかまわないか。しかし君は自らの行動の何が間違っているのか理解できない。まだ目覚めていないのだろう。夢の世界で心地よい夢を見ている最中なのか。そんなことを君が知るよしもない。未来の君ならそれからの君を知っているはずか。何かを探り当てたつもりになっているようだが、それは宝のありかなどではない。そこでは禿鷲が腐肉を啄んでいるだけか。宝は忌み嫌われている。宝探しは不幸の始まりになるだろう。だが別に誰がそれを執り行うとも限らない。わざとらしく君が宝探しをやる必要はないだろう。誰か暇な奴が犠牲となればいいのかも知れないが、そのころにはすでに君は土に還っている。腐葉土に埋もれて地面と見分けがつかなくなる。人知れずこの世から消え去るわけか。しかしそれは君の終わり方ではない。土に還った君は別の君の身代わりか。通俗的な述べ方をするなら、たぶん思い出は忘れるためにあるのだろう。ではそこに居続けてはいけないのか。そうではない。そこに居続けたから土に還ってしまったのだ。君は別の君にそれ以外の何を期待していたのか。容易にそこから立ち去ることができないので、なおもそこへとどまり続ける。だからお前は終われないのか。期待を外れてお前は何者にもなれないだろう。著しくタイミングがずれている。今はそんなことを述べているときでない。だから君はそこへとどまり続ける。何も述べられなくなるまでとどまり続けるつもりなのか。たぶんそんな風にはならないだろう。適当なタイミングで意識はどこかへ行ってしまう。面倒くさいからそれ以上は語る気がしない。しかし君はそこで何を見ているのか。見ているのではなく語っているのかも知れない。何かを見ながら語っている可能性もある。だがそれは見ている対象とは関係がない。要するにつまらないものを見ているわけか。ありがちな結論としてはそれもありだろう。


4月25日

 何を語っているのかわからない。支離滅裂な内容に嫌気が差すか。嫌気が差しているのは架空の誰かか。そうやって結論に至るのを逃れているつもりのようだ。虫けらにも魂があると思うことは可能か。それとも不可能と思う方が賢明な態度だろうか。しかし賢明な態度は誰からも好まれない。二番煎じは三番煎じを予感させ、三番煎じは四番煎じを予感させる。どこまで煎じてもきりがないか。煎じすぎて灰になる。そこから始めなければ何も始まらない。他人の模倣はとどまることを知らず、いつしかオリジナルは忘れられてしまうだろう。模倣の世界は模倣で成り立っている。模倣は模倣以外を知らない。そんなコピーだらけの世の中に架空の誰かが暮らしている。それらの話を誰かは誰かに向かって語りたいらしい。いつまでも洞窟の壁画に見とれていることはできない。もうそこは洞窟でなくなっているはずだ。知らないうちに君は洞窟から部屋の中に移動していて、机の上の本棚に並べられた百科事典の数巻を開いてみる。洞窟の写真はどこに載っているのだろうか。鍾乳洞の頁を開いてみれば、退屈な気分から逃れられるだろうか。途中の鉱物の頁で躓いて、そこからあらぬ空想を思い描いてみる。原始人は洞窟の中で何をやっていたのか。動物の壁画を描いてそれを眺めていただけか。それ以外に何をやっていたかなんて今となっては知りようがないか。たとえ知ることがあろうとも、それは想像力をふくらませて思いついた空想なのかも知れない。その空想のバリエーションとしてファンタジックな英雄物語でも構成できるだろうか。またお宝を巡って強者たちが争う話をねつ造したいのか。壮絶な戦闘シーンが一般大衆にはうけるウケるのかも知れないが、その手の大スペクタクルを映像で構築するには、莫大な費用と時間がかかるのだろう。映画となればそれを興行収入によって補わなければならない。興行的な黒字をねらうなら、やはり大げさで単純な内容となるだろうか。たぶんそれだけではヒットしないのかも知れない。勧善懲悪的な構造の紋切り型を忘れさせる目新しさも必要となるだろうか。しかし目新しさは一時的なものにとどまる。すぐにそれとは違う目新しさを売り物にした別の映画が制作され、その映画と比較すれば、以前の映画は目新しく思われなくなるか。そんなわけで君がそれを映画館で見る機会はやってこないかも知れない。行っている暇がないのか。暇もないがあまり興味を覚えないのかも知れない。ではせいぜいがテレビ画面上で見るぐらいだろうか。先日もその手の映画を見ていたのではないか。最初から最後までは見る気がしない。何か他のことをやっている合間に、他のチャンネルにも切り替えながら、断片的に見ていたようだ。途中から見て結末までは見ていない。テレビで見るぐらいならそれでもかまわないのか。何となくその程度で済ませられる状況の中に暮らしているらしい。音と映像にのめり込めないし、本気になれないのだ。何となくそんな実感とともに映画を馬鹿にしているつもりのようだが、本心はそうではないのかも知れない。眼が画面に釘付けになるのが怖いのか。本当に釘付けになったら痛いだろう。痛いどころではなく失明してしまうか。そうやって何となく冗談で逃げたくなってくる。さっきから何を語っている気もしてこない。本質的な事柄を避けて通っているみたいだ。わざと無感動を装っている。映像メディアに反感でも持っているのだろうか。それは個々のメディアによって異なるか。自らの主張を押し通すつもりはない。それは主張ではなく感慨の一種かも知れない。洞窟に描かれた壁画が、それから数万年後に、部屋の中のテレビ画面に映し出される、音声付きの動く映像へと進化したわけか。壁画からテレビ画面までそれを見る行為が連続している。見て何を思うのか。その見て思う行為も連続している。自らの願望をそれらの画面に投影させようと思う者は多い。現実の事象そのものではなく、間接的な画面上を選んで、自らのやりたいことを展開させようとする。


4月24日

 何もないのに何かをやろうとしているのはいつものことか。そこからどうやって結末に至るのだろうか。適当にカーチェイスでもやって見ている人の興味をつなぎ止めるつもりか。君は警察か何かの回し者か。たぶん映画の中ではスタントの事故でもない限りあまり人は死なないだろう。音楽もあまり人を死なせない。人を死なせるのは麻薬の作用か。満月を背にして誰かが見得を切る。それは歌舞伎か何かの一場面かも知れない。遠くで吠えているのは狼ではない。猫は肺炎に罹って重体のようだ。猫エイズに罹ると雄猫の方が致死率は高いのかも知れない。言葉を弄して人を死に導く宗教もあるらしく、盛んに自爆テロを呼びかける者もいるらしいが、いくら死んでも攻撃の対象は動じない。たぶん魅力に欠けるのだろう。しかしそうかといって論理に訴えかけても無駄だ。裁判などやっているうちに状況はどうでもいい方向に推移して、犯罪行為はうやむやになってしまうだろう。どうあがいても勝ち目はない。だが素直に負けを認めるわけにはいかないので、とりあえず腹の虫が治まらない人は自爆テロでもやっていればいいのかも知れない。しかしブッシュ氏がアメリカの大統領に再選されたらどうなるのだろうか。彼らにとっては暗黒時代の到来となるのだろうか。あと最低四年は苦難を耐えなければならなくなるか。しかし彼らとはどのような人々のことをいっているのか。ただ対象が漠然としている。砂の岬で海を眺めている人々のことではなさそうだ。わざとそれとはまったく無関係なことを述べているのか。廃線のレールの上を歩き続ける人々はどこを目指しているのだろうか。無理をしてはならない。眠たくなったら眠ればいい。嫌な状況を堪え忍ぶことは精神的な苦痛を伴う。愚かな人はそれを実行して自らに早死にをもたらそうとするわけか。心身を鍛えることで気休めを求めるのにも限界がある。何もそこまでやる必要はないか。そこから遠く離れて何を思えばいいのか。すでに遠ざかりつつあるのに、見ているものが戸外の風景を超えるものとはなり難いか。漢和辞典でおもしろそうな単語を探してみよう。きっとどこかに気休めを見いだせるだろう。そこはすでに内面を離れて外部の彼方と接している。何も思わないことで何かをつかみ取りたいようだ。そんな試みが徒労に終わろうとも、それで何かをやったことになるのだろう。まだ終わるわけにはいかないのか。誰が終わろうとしているのでもなく、それにつれて話も終わりそうもない。希薄な意識をさらに薄めて自意識を消し去っているようだ。もはや誰が語っているのでもない。何となくそんな気になって、また適当な嘘をつこうとしている。それがありもしない虚構を構成するわけか。そうなったらおもしろいだろうか。いったい誰がおもしろがるのか。君は少なくともしらけているだろうか。引き気味の気持ちでいつでもそこを立ち去れる準備を怠らない。先を見通しているわけでもないらしい。やる気が失せてからそれに対応する言葉を連ねてさらにやる気をなくしているわけか。たぶん君はそれを否定しながらも無意識のうちに先を見通しているのだろう。後先考えずにとりあえず何かを語って馬鹿な振りを装う。別にそれが真実でも現実でもなく、ただの戯れ言に内包する軽薄な響きを尊重しつつも、それとは無関係などこにも存在し得ない言葉の連なりを夢想する。そして文章の構成者はわざと結論ではない結論を結論として提示して、架空の意識がそれが誤りであること悟り、作り話の中でわざと大げさに嘆いてみせる。もはやこの世に憩いのオアシスはあり得ない。冗談で求めているそれは浦安にあるデコレーションケーキのような遊園地か。そこでは着ぐるみの不自然な笑顔がうれしそうに踊っているのだろうか。そんなことを思っていたら、風に吹かれて奇妙な台詞が聞こえてくる。もはや誰も無知を装う必要はない。無知であってもそうでなくても、それがその人の価値を決定する判断基準とはならないだろう。判断すること自体が間違っているのだ。たぶんそれらは初めから意味不明なのかも知れない。


4月23日

 君はいつも何とかしなければと思っているが、それで何とかなっているのだろうか。結果は御覧の通りの惨憺たる有様か。やる気のない言い訳に興味深い映像に見とれている。眼と意識が映像に支配されているようで、その先が見えてこない。その先とは何だろう。はたしてそれが作業が遅れていることの言い訳になるのだろうか。少なくともそれは作業ではない。何やら芸術的な試みだと勘違いしているのかも知れない。しかしその勘違いを真に受けることはできない。勘違いを装っているだけの可能性がある。可能性はあるかも知れないが、そんな可能性を突き詰めて考えてどうするのだろう。だんだん窮屈な話になってきているようで、それとは無関係に何となくリラックスしたくなる。だがそれでは君は本気になれる機会を失うだろう。時事問題に傾倒するには時機を逸しているし、世の中は常にどうでもいいような状況に覆われているような気がする。それとこれとは無関係なのか。焦りを覚えながらも必死に興味を惹く出来事を探しているようだが、それはすべてメディア経由の映像や言葉の塊にすぎない。君とは無関係な出来事に思われる。それらと関係を持ちたければ、その出来事を報じている報道機関に自らの考えを投書でもすればいいことか。だが君がやりたくないのは、何よりもそのような回りくどいやり方かも知れず、何の効果も期待できないと思われるそのようなやり方を嫌って、そこから目を背けているのかも知れない。しかしそれがどうしたのか。リラックスしたいのに、あらぬ方向に話が進んでいる。はたしてそんなことに関心を持って何になるのだろう。何らかの利益を得たいわけか。そうではなく言葉を連ねることで充実感を味わいたいのか。しかしそれで何が充実するというのか。空白を文字で埋め尽くすことによって快楽を得られるとでも思い込んでいるわけか。現実にそうなったらおもしろいだろう。君はどこまで苦痛を快楽に転化できるだろうか。何が苦痛なのか知らない振りをしている。言葉の上では絶えず平静を保とうとする。しかし平常心で何ができるというのか。何かをやるには絶えず熱狂状態を必要とするだろうか。では実際に熱狂している対象は何なのか。画面上に繰り広げられるドタバタ劇に熱狂できるほどうぶではない。想像力は絶えずそれとは無関係な方向に働いている。どうでもいいようなことを込み入らせて、意味不明を装いながらも、微かに何かを語っているような気がするだけか。そしてその何かを具体的に表現できずにいるようだ。はっきりしたことは何も述べられずにいるらしい。しかしその中に愉快な気分が紛れ込んでいると思いたい。街の通りでやけくそ気味に突っ走っているのは君ではない。それは映画の中の一場面にすぎないだろう。調子に乗ってはしゃいでいるのも君ではない。人間的な軽さを売り物にしている民主党の代表を批判するつもりはない。あの程度でちょうどいいのかも知れない。今の時代に人の姿に威厳など宿りようがないだろう。馬鹿は馬鹿のままが似合っているのであり、間抜けな人も間抜けなところが愛嬌なのだ。誰もがアドルフ・ヒトラーのような口調になってしまってはまずいだろう。情熱は時として災いを招くこともある。馬鹿げたことに命がけで取り組んでいるうちに、それが誰にとってもすばらしいことだと思うようになってしまっては、それは破滅への道を歩んでいることになるだろうか。今や君はそれらの出来事から遠く離れてしまっているようだ。もはや突拍子もない言語表現をねらう気にはなれない。それはどこかの漫才師がやればいいことかも知れない。たぶん人の気を惹こうとするためだけに語っているわけでもなさそうだ。本当はそれで納得したいのかも知れないが、未だ納得からは程遠い内容に嫌気が差している感もある。何となく間違っているような気がするだけか。しかしどこでどう間違っているのかがわからない。もしかしたら間違っているはずもなく、君にとってはそれが正しい行為なのかも知れない。それは何かの冗談か。


4月22日

 死んだ人間はどこにいるのだろう。なぜ君は死人を探しているのか。君はゾンビハンターか。確かにゾンビは死人だが、死人のすべてがゾンビであるはずもない。それはつまらない知識になるだろうか。死人の名を思い出せないので今はどこにもいない。たぶん彼はまだ死んでいない。君は彼が誰なのか知らない。知っているとすれば彼は君の知合いになるだろう。君は彼の名を知らない。眼の焦点が合っていないようだ。いつものように何を述べているのか分からなくなる。そして適当に語ることが困難になりつつある。その不具合が解消されることは当分なさそうだ。もしかしたら永久にそうなのかも知れない。たぶんそれは不具合ではない。不具合は別のところにあるのかも知れない。例えばそれはどのようなことか。今も昔も若者が政治に無関心でいることは良心的な証となる。政治は後先短い老人の玩具なのか。そんなことでは保守派の思惑通りになってしまう、と半端な知識人ならそう思うかも知れないが、それもいいだろう。なんとなくそんな状況を放置しておいていいような気がする。君がその状況を変えることはできない。その役割は君にではなくマスメディアにあるのかも知れないが、本当は誰もそんな役割など担っていないのかも知れない。そう思いたければそう思い込んでいてもいいのか。あ