彼の声41

2004年

3月31日

 あなたは誘惑に負けた。磔にされたキリストに悪魔がそうささやく。誰がそんな場面を思い浮かべるだろう。そのままじっと動かずに時が経つ。君は何を信じているのだろうか。たぶん君を通り越して何かが到来しているのだろう。そうしている間にも時はさらに過ぎ去ろうとしている。今や予言者は完全に置いてきぼりだ。世界は誰が予言者なのか忘れてしまっている。もはやそんなことはどうでもいいことだろう。世紀末はあと数十年後にやってくるかも知れないが、そのときには別の予言者でも現れるだろうか。また同じようなペテンがまかり通るわけか。そんなわけはなさそうに思われる。ではすべてはあっけなく過ぎ去るばかりなのか。くだらぬ戦争の記憶も茶番劇の様相を呈しているだろうか。本当にそれは誰も予想し得なかった事態なのだろうか。どのような事態なのか誰も把握できていないか。誰も真面目に対応できない。まともな意見はことごとく無視され、意見のまともさそのものが否定の対象となってしまう。そんな風には誰も思わないだろうか。しかしまともな意見とはどのような意見なのだろう。それを知り得ないうちは、安易に自らをまともだと思ってはいけないか。まともなのは自らでなく他の誰かだろう。この世界はまともさを望んではいないはずだ。誰もがまともであってはおもしろくないか。限られたひとにぎりの人間がまともであって、その極めてまれに存在するまともな人間が、その他大勢の大多数を占めるまともでない人間たちに向かって、自分たちの言うことを聞けと命令する状況がまともだといえるか。やはりそれは極めてまともでないおかしな状況だといえるか。現状がそんなはずはないだろう。それは誰かの思い込みなのだろうか。虐げられていると感じている人間はよくそんな幻想を抱くものか。世間が自分の方を向いてくれないと困る、とでも妄想しているのだろうか。しかしその世間とはどんな世間なのだろうか。人それぞれで違う世間があるわけか。何やらあやふやな方向でものを述べているのかも知れない。世間体を気にしている人には、その人独自の思い込みの中に世間が構成されている。しかしそれが未来へつながるとは思えない。その未来は誰にとっての未来なのか。君に未来を体験する資格があるわけか。それはどんな資格なのだろう。資格などなくても誰の下にも未来はやってくるものか。だが未来に世間があるとは思わない。それは過去に属する概念であり、なぜそんな世間が未来永劫続いていかねばならないのかわからない。持続はいつも裏切られ、中断され、期待とは無縁の状況がやってくる。君の強がりや痩せ我慢は来るべき状況下では通用しないだろう。だが通用しなければ通用するように改良を加えるだけのことか。結局どのような状況が到来しようと物足りなく感じるように修正し続けるわけか。だから君が感じる世界はいつもつまらない。そしてつまらないからおもろくなるように何かを試みるのだろうか。しかしその結果としてどうなったのだろう。以前とどこが変わったのか。この世界に何を感じているのだろうか。また君は何も思わないとうそぶきたいのか。何か思っているのに、それは言葉に表さず、その代わりに何も思わないだのつまらないだのと繰り返すだけか。それでは本当につまらないだろう。ではそれ以外に何を表明できるだろう。どこかで精神がねじれていて、率直に本音を語れない状態になってしまったらしい。それでも言葉は適当に繰り出され、心は沈黙の荒野を君とは別人の誰かが突き進んでいく幻影を思い描く。それは君にとっては何の意味もない光景だろう。それはただのカッコつけなのか。何となく君の影は暇にまかせて虚しい気分を演出したいようだ。忘れた頃にまたもや性懲りもなく影が登場している。いつもの苦し紛れだろうか。わからないが意味不明になって満足したいようだ。そうやって蛇足を楽しみながら、無駄に言葉を連ねたい。現実にそれも暇つぶしには有効なのかも知れない。


3月30日

 何を思うでもなく、君はまだつまらないことを語っているのかも知れない。それは違うか。言葉を紡いでゆく苦労を知らない人はそこから離れてゆくだろう。そして幻想の世界へ一緒に連れて行ってほしいか。それは幻想ではなく映像だろう。しかしそこで誰の視線と出会おうとも、それは画面の向こう側から見つめる幻影にすぎないか。今こそ考えてみてくれ、友よ。君は誰が友なのか知り得ないだろう。知っていることは、そこに言葉が散らばっていることぐらいか。何もない空間には真空が存在するが、苦労はそれとは別の空間に作用する。若い時の苦労は買ってでもするものだ、と説教をたれる老人は、自分は苦労を重ねて成功したと思い込んでいるものだ。苦労した末に何も報われなかった人ならそんなことは言わないものか。他人に教えを垂れることは、自らの浅はかさを露呈させてしまう危険性があるのだろうか。世の中にはさして辛い思いなど経験せずに暮らしている人もいるだろう。辛い思い自体が人によって異なる。君は無意味な風景の中で苦労しているつもりのようだが、その苦労は何の足しにもならないのだろうか。偶然の出来事に振り回されてかつての思考を見失っている、と思い込みたいようだが、かつてどんな思考を保持していたかなんて今の状況下では関係ないか。何に関わろうとしているのかなんてわかるはずもない。だがそこで終わりにしてならないのかも知れない。しかし相変わらず説明は何の意味もなさないままか。何を説明しているのだろう。どんなに言葉を弄してみても決して結論には達しないだろう。結論に達し得ないように述べようとしている。仮に至ったとしても、そんな結論は無視してその先へ進むだろう。それは誰かの独り言だろうか。それを無視しながらもひたすら報われることを願う。どんな形であれ、報われていることの確証を得たくてひたすら言葉を繰り出しているのかも知れないが、一方では報われることをひたすら拒否し続けているようだ。願いや望みが矛盾しているのは誰にでもあり得ることか。それを目的によって偽りの一貫性に至ろうとは思わない。目的を設定して意識をそれに従わせることは、自らに嘘をついていることになる。無理にそんなことなどやらなくてもいいのに、それを達成した先に報われる瞬間が訪れると幻想してしまうわけだ。そんな自らの弱さを隠すために、自らに目的というノルマを課すのだろうか。そうやって苦労を強いることへの言い訳を用意するわけか。やがてそれらの苦労は実を結び、夢が実現して至福の時を味わうことになるだろう。そんな風に述べればやる気が出るだろうか。しかしやる気を出して何をやるつもりなのか。すでに何かをやっているではないか。その何かでは気に入らないのか。できればもっと気の利いたことを述べてみたいか。世間に流通している論調に迎合したいわけか。では努力していればいつかは報われるとかいう気休めを糧として、さらなる精進を重ねないといけないのだろうか。もし君がひねくれ者ならそんな風には思いたくないところか。意志薄弱な君はもう待ちくたびれたらしい。何を待っていたかさえ忘れてしまっている。それでもいつか何かの機会が訪れるだろう。その時には君はもういないかも知れない。君とは何の関係もない機会が君とは別の誰かの下に訪れるわけだ。しかし機会の逃したのは君ではないはずか。逃したのではなく、機会の方が君を避けているのかも知れない。君に機会を与えるのが面倒くさいのか。しかしそれは何の機会なのだろう。そうであるなら、君にとってはそんな機会などどうでもいいことか。たぶん君が求めている機会は君とは関わり合いのない機会かも知れない。君はそれとは違う偶然を求めている。誰も求めていない偶然の機会を求めているのかも知れない。だがそこで矛盾している。たぶんその矛盾のただ中にとどまっていたいのだろう。何の目的もなく、そんな一貫性を欠いた切れ切れの意識を保持していたいのか。


3月29日

 繰り返されるのはそんなことか。無駄に言葉を連ねているように感じられるが、語りにはまだ続きがあるらしい。しかし今日も君には時間がないと感じられている。だが時間がないのを言い訳にはしたくない。時間がなくても、結果的に何かしら成し遂げられればそれでかまわないのか。しかしそうやって何を期待しているのだろう。偶然の出来事はいつの日にか必然だと言いくるめられるだろうか。たぶん冗長な表現は嫌われるだろう。そう述べながら何を語っているのでもない。語らずともわかるようなことは語られないだろうが、わからないことは相変わらずわからないままである。ここには魔法の言葉などありはしない。あるのは同じような表現に依存した似たような言葉か。たぶんそれは何かに似ていると思われる。確かにさっきまで語っていたことと、これから語ろうとすることは似ている。それを途中で投げ出さずに、忍耐強く語っているつもりのようだ。何に耐えているのか君にはわかっていないか。何もない空虚の中で、何もないことに耐えているわけか。しかしそれではつまらない。ではもっと大げさなものに耐えているように装いたいのか。だがそれでは何か軽薄な印象を受けかねない。見え透いた嘘はやめてほしいか。くだらぬ断言には中身がない。しかし中身を求めるのなら、別の機会を待てばいいか。中身が何もないのに、何もない事実まで吐き出してどうするのか。では何もやることがない人は気晴らしに何を求めているのだろうか。例えばメロドラマのお涙ちょうだいシーンに、わざとらしく涙することを求めているのだろうか。たぶん多くの人から共感を得られた話には、わかりやすさが貼り付いているのだろう。そう思われるのは、共感と呼ばれる幻想を多くの人が信じているからか。幻想ではないと思うから信じられるのだろうか。いつの間にか君は文章のわかりやすさを信仰している。しかしそれは真実ではないことも承知している。そうやって嘘と冗談とともに真実を覆い隠そうとしている。そんなやり方でそれをやり遂げるだけの時間は、まだたっぷりあるはずだ。現実にはそんなわけはないが、紋切り型的にはそこでそんな表現が求められているはずか。それは君の勘違いだろうが、とりあえず時間がないのに、そんな状況は気にしていないように振る舞っているわけか。気にしている暇さえないらしい。暇さえないが、それでも説得力のある内容を求めている。それは無い物ねだりというものだろうか。実感としては何をねだっているわけでもないが、無い物ねだりと述べれば、そんな表現が状況に適合するような気がしてくる。だがやはりそれでは冗長な言い回しになっているか。ではどうすれば文章がすっきりするだろうか。打開策を模索しているわけではない。打開できないから苦悶していて、苦し紛れに安易な手段に頼ろうとする。とりあえず他人の真似などはしたくないと思いつつも、真似する対象を探し求めている。もちろん本当に真似しようというのではなく、真似ているように装いながらも、真似ている対象を馬鹿にしたいようだ。もちろんそれが本音とは思えない。ではただ無駄に言葉を弄しているだけか。無駄ではないと述べるだけの自信がないか。どうやら放浪者は自らがどこで彷徨っているのかを知らないらしい。積極的に知ろうとしていないようにも感じられる。要するにわけのわからない状況の中で彷徨っていたいわけか。そんな迷路の成り立ちは道路工事中の立て看板から生じた。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただ他人から嫌われることを恐れているわけか。それらの間につながりは何もなさそうだ。それでも日付的には、徐々に終わりへと近づいているつもりのようだ。だから言葉と言葉の間につながりを見いだせない現実は、この際無視すべきなのか。しかしいくらやってもやり足りないと同時に、常にやりすぎている事態に遭遇している。やりすぎているから言葉が足りなくなっているのであり、それによって同じ表現が繰り返される事態を招いている。しかしそれでかまわないわけはないだろう。


3月28日

 夕暮れ時に眠っている場合ではないらしい。今は切羽詰まった状況ではないのか。ではそれ風の表現で文章を構成すれば気が済むだろうか。気が済むわけもないが、一応は無駄な悪あがきをやっておくべきか。何かをやる気はあるが、現実には何もできないとき、そんな息苦しさに耐えかねて、画面から顔を背ける。たぶん今日もそれをやらないと先へ進めないらしい。何を語っているのか知らないが、繰り出されたそれら言説は絶えず循環している。そしてそれ以外に何もないときは、過去の時空からいつもの状況が押し寄せる。いったい君は何をやっているのか。想定される様々な行為の中から、何をやるかについての優先順位はない。その時々の状況に合わせて何かを適当にやっているつもりらしいが、そのことについてどのように語ろうと、それが奇異に感じられるのはなぜだろう。それは何かではなく具体的に何なのか、それを特定できないことがおかしいのか。またいつものパターンに陥りそうになる。君はいったいそこで何をやっているつもりなのか。つもりではなく、これからやろうとしているわけか。そのことについて、君はいつもうまく立ち回ることを心がけいるそうだが、そこから先に立ち回る場所がないことを知らない。その後の君がどうなったのか、それを知る人が未来の時空に存在し得るだろうか。しかしそれはいつの話なのか。いつでもかまわないのかも知れない。今は夜であり、夜空を見上げれば、暗闇の中に宇宙が広がっている。ならばそれは夜の話だろう。しかし夜空に輝く星々はただの星だ。それがどうかしたのか。それ以外に星が存在するだろうか。存在してほしいと願えば彗星でも現れるだろうか。君は何かの冗談のつもりでそんなことを語っているのだろうか。何となくわざとおかしなことを述べているような気がする。だがそれを続けていれば、いつか終わりの時を迎えられるはずか。そんな信念が揺らぐことはない。それは信念とはいえないだろう。投げやりな気持ちを信念と取り違えている。しかしそうやって何を続けているつもりなのか。つもりではなく現実に続けているようだ。だが未だに何を続けているのか、という問いに明確な答えはなさそうだ。そこで前もって用意された問いに答える義務はないだろう。しかしいったいどんな問いが用意されていたのだろう。そんなことは承知している。絶えず問い続けるという行為が用意されていたのか。だが絶えず、自らが何をやっているのか、と問うことのどこか用意された問いなのか。同じような言葉を循環させていると、次第になぜそうしているのか疑問に感じるようになるのか。そして何を続けているのかよくわからないが、それでも何かしら続けているという現実に嫌気がしてくる。今は問うことを続けているだけであり、なぜ問うのかよくわからないが、そのよくわからない状況から逃げてはだめなのか。だがなぜだめなのか理由がわからない。そういうわけでわからないことになっているようだが、たぶんそれは嘘なのだろう。君にはそのわからない理由がよくわかっている。わかっているがそれを言葉にできない。明確に語ってしまえばそこで終わりとなってしまう。それがとりあえずの答えだろうか。そして答えはいつも流動的に変化していき、かつての答えがいつの間にか問いとなっている。君ははじめから答えを提示しておきながら、それが問いだと執拗に主張しているようだ。ここで問われているのはそんなことではないはずか。問われていないことまで問おうとする態度は受け入れられない。しかし受け入れられるような問いもない。自らに何を問うてもそれは問いになっていない。それは問いではなく答えなのだ。どんなに言葉を弄しても答え以外にはなれないだろう。答えが導き出される途中において、もうすでに問いには何度も答えているはずだ。答えられないことにも無理に答えているかも知れない。そして間違うことをいとわないので、いくらでも間違った答えを提示してきたつもりか。ここで答えの正しさなど求めても仕方ないだろう。問いも答えもどうでもいいことのように思える。


3月27日

 日々どこかで愚かなことが行われている。だがそうでなければ人は何も思わなくなるだろう。その愚かな行為によって君の人格は形成されている。人格などというものに興味はないか。興味があるのはその後の成り行きか。誰かと誰かがどこで出会い、そしてどういう理由で別れたのか、などということに興味はないか。例えばそれが有名人だったら、にわかに興味を覚えるわけか。そこにはどのような仕掛けがあるのだろう。仕掛けなど何もなく、ただそういうことに興味があるだけだろう。人は希少価値というもの惹かれる。ありふれたことには興味を示さないが、しかしそういう人自身には希少価値があるわけはなく、そういったものに興味を示す人はありふれている。そして今や希少価値自体がありふれている。人々がそれを探しすぎるからありふれてしまうわけだ。同じものにみなの興味が集中してしまうと魅力が失われてしまうのかも知れない。他人と同じものを求めることが恥ずかしく感じられるようになる。人は絶えず幻想を追い求めている。自分独自の趣味を形成したいのだ。何かしらこだわりを持って生きていたい。自分だけが気に入っている、ある特定のものに価値を固定したいわけだ。そしてその特定のものに関しては、自分が第一人者だと自負したい。自らが設定した価値観に自らを縛りつけて、そんな自業自得のただ中で遊んでいたい。恥知らずな人々はそれを他人に強要したりする。そんな人が権力を握ったら大変だろう。だが自分の価値観を他人に強要せずにはいられないのが人間の性かも知れない。それが妥協を知らない飽くなき闘争心を生み出していることも否定できないが、強引なやり方で価値観を他人に認めさせ、そうやって支配欲を満足させることで快楽を得るやり方は、屈服させられた人々の間に反感をもたらす。そこからやがて復讐心が生み出され、容赦のないやり方で勝利の美酒に酔いしれている者に襲いかかるだろう。そこではやられたらやり返すのが正義を行使する唯一のやり方となる。苛烈な世界がそこで繰り広げられる。そんな世界が画面上に映し出されている。それを眺めながら何を思う。何も思わないわけにはいかないか。君はそれらの何に感動したつもりになっているのか。断片だけでは感動できないか。しかしそれらのすべてが映し出されることはないだろう。すべてではないからそんな世界を構成することが可能なのだ。そのような部分だけをかき集めてくればそんな風になるだけか。誰もがそれ以外があることを知っている。それ以外がないとやっていられなくなる。適当なところで妥協する余裕がないと息がつまる。譲れないことばかりでは疲れる。過酷な競争は何としても避けなければならない。そうするために人には知恵が備わっているわけか。それでも自己実現を望むならば、様々な駆け引きを身につける必要が生じてくる。時には他人をだまして利益をかすめ取るやり方が有効な場合もある。他人に目的のためなら手段を選ばないことを悟らせてはまずいわけだ。そのためにはだまさなければならない。だまして油断させておいて、もはや手遅れになるまでだまし続けることができれば成功だ。他人の優しさにつけ込み、しかもつけ込んでいることを悟らせない。そんなやり方で自己実現を図る人は多いが、たぶんそうやって他人を利用しなければ何もできないのかも知れない。互いに利用し合わなければ、何の進展も起こらない。他人から利用されていることを承知しながらも、それを逆手にとって自らの影響力を拡大しようとする人もいる。それを利用すればするほど、利用しているもの自体に染まってゆく。そんなまるでインフルエンザウィルスのように他人を侵し続けるやり方もある。案外仕掛けの正体とはそんなものなのかも知れない。特に人が抱いている欲望に働きかける類のものは蔓延しやすい。最大公約数的な欲望が標的となっていることは言うまでもない。そこに焦点を合わせて誘惑の罠をしけるわけだ。


3月26日

 何を考えすぎているのか不明だが、それはたぶん思い過ごしだろう。この世界の中で見聞する何事にも驚きを感じなくなって久しい。CMを挟んで何やら衝撃的な事実が明らかにされるそうだが、別にそれは誰が驚くようなものでもないだろう。しかしそのとき君は何を見聞して驚かなかったのか。肝心のそれが省かれているのは驚きか。驚く以前に意味不明だろう。誰が何を見聞きしたのかが不明のままでは誰も驚きようがないか。君は驚きを感じるような環境には暮らしていないのかも知れない。あるいはその場で多少は驚きを感じる時もあるかも知れないが、ただそれが記憶に残らないだけなのかも知れない。ではそれらは記憶に残るような驚きをもたらさないということか。記憶には残っているのかも知れないが、それを思い出そうと努力する気にはなれない代物なのかも知れない。要するにそれはつまらないものなのであり、つまらないものに無理に驚いたとしても、到底退屈を紛らすには至らず、結局疲労以外は何も感じないだろう。大げさなBGMとともに驚愕の真実と呼ばれるものがいくら明らかにされようと、それらの状況がどうなるわけでもない。ところでそれらの状況とは何なのか。それは人を驚かせて金を儲けようとする浅はかな魂胆が蔓延している状況のことか。なぜそれが浅はかだと思うのだろう。別に浅はかであってもかまわないだろう。その軽薄さによって人々は安心するのだから、何もそれは否定されるような行為ではないはずか。だからそれらの現象に遭遇したからといって、無理に驚く必要はないし、わざとらしく驚いても状況には何の変化ももたらさないだろう。そのような水準では何も変化せず、その機会は永遠に訪れないだろう。また君は気まぐれに何を語っているのか。とりあえず今は何かを語っているらしいが、それがどうしたわけでもない。切羽詰まっているはずなのに、張りつめた雰囲気を感じない。それらの意識は緊張感を知らないかのように弛緩しきっている。しかしそれでどうしたのだろう。確かに何かを語っているようだが、例えばそれは、画面上で演じられているありふれた物語のことでも述べているつもりなのか。そうやってまたもやありもしない物語について言及してしまいそうになる。何やらどこかの誰かはもはや疲れを通り越して、次第にハイな気分に近づきつつあるようだが、そんなわけはないと翌日の意識は思うだろうか。ハイな気分などというものには何の実態もない。それは誰の意識が感じる気分なのか。そんなことを語っているうちに、すでにその翌日を遙かに過ぎているような気もしてくる。驚きを感じないということは、長く生きていることから様々な経験が積み重なってきており、そのことで過去に経験した出来事と似た出来事に遭遇する機会が、相対的に多くなってきただけなのかも知れず、かつて経験したことと似たように感じられる出来事に驚かないのは当然のことかも知れない。またそのような経験について言葉を弄せば弄するほど、以前に語っていたことの繰り返しになってしまう。そんな内容で語りたくないのならば無理に語る必要はないか。何も君が語らなくても、他の誰かが同じようなことを語っていることだろう。しかし誰がそんなことを語るだろうか。いったい誰に期待しているのか。別に期待しているわけでもなく、いつものように何を思っているのでもない。誰もそんなことは望まないし、当然君も望まないだろう。そこにいかなる必然性も見出されるわけがないか。では必要もないのになぜ繰り返し執拗に語っているのだろう。必要でないと述べたのは嘘偽りか。あるいは実際には必要のないことをやり続ける一方で、意味もなくそれが必要だと思い込もうとしているだけか。自らに嘘をついているのかもしれない。たぶんそうすることが架空の君にとっては必要なのだ。必要だからこそ語り続けているわけか。ならばそう思いたければそう思っていればいいだろう。だが誰がそう思っているのか架空の君には知り得ない。君が知っていることは誰もが知っていて、君が知らないことは誰も知らないことだろうか。どこかの誰かはそんなはずはないと思いたい。何やらわけのわからないことを語っているようだ。


3月25日

 今さら奇跡を信じるわけには行かないが、場合によってはそれに近い状況になることもあるだろう。確率的にゼロパーセントはあり得ない。わずかでも可能性があればそれに向かって努力すべきなのか。絶えず危機的な状況に身を晒している者は、そうでない者より生き残る確率が高いというのは本当だろうか。その場の状況にもよるだろう。危機的な状況下で絶えず神経をすり減らしている者は、そうでない者より疲労しているだろうし、度重なる激務で心身が消耗しきっているかも知れず、そのことが原因で病気になったりして、結果的に短命に終る確率が高い場合もあり得るだろう。たぶん心身を鍛えるには、人によってタイミングがあり、時機を逸して鍛えても却って逆効果になってしまうのかも知れない。だが今がその時機だとは断言できない。いったい君は言葉を弄して何を鍛えているつもりなのか。キーボードを打つタイピング術でもマスターしようとしているのだろうか。よくわからないことをひたすら繰り返している。もうあまり考えを巡らすときではないらしいが、やはり何かしら考え続けていなければやっていられないようだ。しかし何を考えているかは直接言葉で示されない状態が続いている。いつも考えているとは述べられるのだが、その考えている内容がよくわからない。たぶん何かしら考えているのだろうが、意識はそれをどう表現したらいいのかわからないのかも知れない。どうも述べていることと考えていることの間にはかなりの背離があるような気がする。たぶんそれは裏腹の関係とは少し違うようで、互いが並行しながら推移していて、それがどこかで交わることはないのかも知れない。しかし意識はそれらが交わる点を絶えず模索し続ける。思考と言動が一致しなければならないという固定観念にとりつかれているように思われる。だが現実には一致していなくても言葉を繰り出すことは可能だ。しかしその繰り出された言葉が気に入らないのだろう。考えていることがまったく反映されていないような気がする。いったい君は何を考えているのだろうか。なぜそれが言葉として顕在化しないのか。どうして連ねられた言葉は君の思考とは無関係なのだろう。しかし現実の君にどのような思考があるというのか。それを言葉で表現できなければないも同然ではないのか。過去において、たまにはそれが述べられた機会があっただろうか。あったかも知れないし、なかったかも知れない。今はそれを思い出すことはできない。その代わりに思い出されるのは意味不明な言葉の羅列を構築しつつあるときか。そして構築された結果を読んで落胆しながら、そのような構築物の内容を疑わしく思う。いったいそこには何が述べられているのだろう。何かしらいい加減で適当なことが述べられているようだが、その結果に満足できないのはどうしてなのだろう。そんなことはわかりきったことで、そこに自らの思考が反映されていないように思われるからか。しかしその自らの思考とはどのような内容なのか。結果として言葉で示されない限り、その内容がわかる機会は永遠にやって来ないだろう。そしてそこで言葉が循環している。未だありもしない思考を巡って、あたかもそれがあることを前提としているかのように、それについて何やらよくわからない言葉が繰り返し連ねられる。すでにもう何度もおなじことを述べているような気になってくる。それはすでに語られたことではないのか。今さら何を述べているのだろう。そんなことはわかりきったことだと何度述べれば気が済むのか。それでもまだ語り足りないのか。では今からそれとは違うことを述べられるのか。やはりそんなことはわかりきったことか。たぶん君はわかっていながらそれらの状況を放置し続けているように思われる。それをやり続ける君は、もはや自らが確信犯であることもわかっているはずだ。そうでなければ継続は不可能だろう。


3月24日

 いったい彼らは何をやっているのだろう。現状としては、そして誰もいなくなった、とでも述べれば納得するだろうか。しかしそれで誰が納得するのか。とりあえずそこに居合わせた誰もが納得して欲しいわけか。だが誰が納得して欲しいと思っているのか。しかしそこに何があるというのか。それでも残った老人たちは勝ち誇りたいわけか。去り行く人は誰もがあっさり引き下がってしまうので、自分たちが残ったことに満足しつつも、内心焦っているのかも知れない。中には納得できずにまだやり続けたい者もいるらしいが、それらの未練がやめる方針に勝つことはないだろう。未練がましさは新たなる旅立ちには似合わない。去り行く人達は、負け残りが勝ち残ったと勘違いしていることを知っているのかも知れない。まともな人達が去った後に生じている、それらの状況に満ち溢れているものは、常にありふれた言葉で満たされ、架空の内面で幻想を追い求めることに疲れ果てた老人たちの姿だろうか。それでも残りかすたちはそれらの行為をやめようとしないだろう。まだ物語は終っていないと思い込んでいる。ではそれらの物語はいつ完結するのだろう。それに関して誰かは最近つまらないことを述べているようだ。彼らはさらなる道行きにおいて何を求めているのでもない。ただ現状に心身を合わせようとしているだけなのであり、それでも何かしら閉塞状況の出口になるような言説を模索しているつもりのようだが、やはり思考の対象となる具体的な主題を見出せないでいるようだ。そして大したことは何も見出せぬままに、徒に言葉を弄し続けている。その往生際ぎわの悪さには病的な感情も見えかくれする。起死回生の一撃が見出されることをひたすら信じているのかも知れない。だから実質的にはもうすでに終りかけている言説を執拗に蒸し返し、それらのすべてが終ってしまったとは到底思えない、と自らに言い聞かせているのかも知れない。だが彼らがそうまでして紡ぎ出そうとしている物語とは具体的に何なのか、それがここに至ってなお見えて来ない。ではそれが何かもわからずに、それ以上語る必要がどこにあるのだろう。必要がなくても語ることの意味とは何だろう。ならば今すぐ終りにしなければならないのか。終りにすることにどんな意味があるのか。いったい何をもって完了したといえるのか。まだ終ってはいないように感じられるのはどうしてなのか。しかし何が終らなければならないのかを知り得ない。残った人のうちで、誰が消えようと、それらの状況が変化することはない。相変わらず誰も自分が何を述べているのかわからない状態が続いている。君たちはそこから何をどうしたいのか。君たちが知っていることのすべてが、本当のすべてでないことはわかっているが、本当のすべてなど誰にも知り得ないだろうし、それどころか本当でない嘘のすべてさえ知り得ないのかも知れない。嘘も本当もすべてとはなり得ないのであり、それらを合わせてもまだすべてには達しないだろう。そしてそれは、単に本当と嘘とすべてという言葉の組合せから生じた言葉の連なりについて、あれやこれや推測で述べているだけであり、それを知っているか否かは、それを受け取る各人の思い込みの問題に過ぎないだろう。自分がすべてを知っていると思い込んでいるなら、何かのきっかけでその思い込みが覆されない限り、その人間にとってそれはすべてを知っていることになるだろう。確かにそう思い込んでいるうちにはそうなのかも知れないが、なぜそう思い込みたいのかがわからない。別にすべてなど知らなくてもいいと思えば、それでもかまわないだろうが、思慮の足りない人々は、必ず自分が興味を抱いていることのすべてを知りたがるものだ。要するに噂の真相を絶えず求めている。そしてそこから知ることの不可能な幻想が生まれるわけだ。自分が知っていることのすべてが自分に関係していると思い込む。そしてそんな幻想から馬鹿げた誇大妄想が生じることになる。自分と赤の他人との距離を無視して、赤の他人の生活や思想信条に介入しようと試みる。そんな何にでも興味を抱かせるメディア至上時代が、ストーカー的な人格を形成しているのかも知れない。


3月23日

 構成された言葉の配置がおかしい。意味をなさないのは毎度のことだが、それらの文章を記述している者までが無意味になろうとしている。意味を導き出そうとする気持ちと意識と、それを保持し続けようと試みる意志までがどこかに放り出され、意味不明に分散しながらバラバラになる。何を考えているのかわからないと思っているのが自分自身だとしたら、その自己は何を思っているのだろうか。たぶんそれをわかりたくないのかも知れない。わかってしまう自分を信じられないようだ。やはりそれは苦し紛れから生じる思いなのか。なぜそうなってしまうのだろうか。たぶんどこの誰がそれを読んでいるわけでもないだろうが、当初においては、それは何か冗談のつもりで記された文章だったかも知れないが、記述を重ねるうちに、いつしか本気になってしまい、くだらぬことに本気になっている自らに気づき、そんな自分に飽きれ果て、次第にもうやっていられないと思うようになる。たぶんいったんそうなってしまったらしめたものだろう。これまでにやってきたことがどうでもいいように思われ、まるで価値がないことを必死になってやってきた自らに愛想をつかし、そんな自分が今までの自分ではないように思われてくる。自由とはそういう状況をいうのかも知れない。今言葉を連ねている人間が何を考えているのか定かでない。特定の思考から解き放たれて空虚な気分を経験する。たぶんそれでいいのかもしれないが、ことの善し悪しとは無関係だろう。そんな状況を否定するつもりならいつでもいくらでも否定できるかも知れないが、まだ性急に結論を出すわけにはいかないような気がしてくる。否定的な断言に酔ってしまうことは避けなければならない。見通しのきかない状況での近視眼的な思考は無駄に誤解を招くだけか。しかし最終的にはそれらの状況によって何がもたらされるのだろう。それらの状況とはどんな状況なのか。それ以外に何も思い浮かばないとき、それらの背景にどんな雰囲気を構成しようとしているのか。要するにただの虚無なのか。だがそんな断言はすぐに意識から排除され、虚無の内容を言葉で表そうとしている。夜は何を思い出すために存在しているのか。かつてはそこに規則的な意識の逡巡があったかも知れないが、もはやなおざりにされつつあるその規則を今ごろになって持ち出すことに、どんな意義があるというのか。その規則とは何だったのか。それを思い出そうとするとまた元に戻らなければならない。たぶん過去と同じ状態を再現できるはずもないし、無理にそんな状況をこしらえても、その中で正気でいられるはずがない。ただ文章の上ではそう思いがちになっているだけか。では未来に向けてどんな規則を構築しようとしているのか。わけのわからない混濁した意識は、過去と未来の間にどんな連続性を示そうとしているのか。それが意識である確証もないのに何を述べようとしているのだろう。眠気に逆らいつつ何とか言葉を連ねているらしいが、それは昨晩のことだ。ならばいつものように何を述べているのか定かでないのも数日前のことか。では過ぎ去った時の中で何をやっていたのか思い出せなかったのはいつの日のことだろうか。いつの日でもなく、いつの日でもある。そんなことはよくあることで、いちいち特定の日付まで覚えていられないか。そんなわけで空虚に覆われた仮想空間の中に存在しているつもりの自己は、何一つまとまりに欠ける意識の断片を拾い集めた側から周囲にまき散らしている。今君はどこを向いて語っているのだろう。窓から眺めている景色の何が気に入っているのか。そこには何もないような気がしているのはどうしてなのか。しばらく間を置かれ、正気の振りをしながら何もない夜はまだ続いてゆくような予感がしている。君は意味のない夜明けに何を見出すのか。たぶんいつものように何も見出せないかも知れない。ではいったいどこを見ているのだろう。わざと見ている場所を特定できないように振舞う。何を思うでもなく、やはりそれでも何か適当なことを思っているつもりになる。ジグザグにぶれながらまっすぐに進んでいると思っている。どこへ進んでいるかは知らないままに、そんなことを感じているうちにも景色は次第に遠ざかり、もうすでに何も思い出せなくなるくらいに遠くへ行ってしまう。それらの出来事は何だったのか、その意味を理解できないうちに次の出来事に遭遇してしまう。だから出来事の内容を示すことができないのだろう。


3月22日

 誰かの記憶によると、君の気持ちは揺れているそうだ。暴力は世界を破壊する。そして暴力によって破壊された世界に言葉が蔓延る。そんなわけはないか。暴力をふるう者にとっては暴力も言葉も共存共栄でいきたいところか。言葉による暴力にはそんな願いが込められているのだろうか。君は何が暴力なのか思い当たる節はないか。要するに、精神薄弱者の暴力依存傾向が言葉の貧困を招いている、などと利いた風な意見を述べたいわけか。なるほど言葉と暴力を対立させて論じるなら、何となく説得力がありそうに感じられる。だが、暴力に頼らず話し合いで問題を解決しようとすれば時間がかかるし、話し合いを重ねるうちに、当初に抱いていた解決の有り様が変質していってしまう状況は大いにあり得る。そして話し合い自体が、現状維持を図るための時間稼ぎにしか思われない場合もあり得る。また暴力を振りかざす者に話し合いを提案するのは無駄かも知れない。いつの時代にも話し合いへの機運は暴力によって葬り去られてきた。最終的には暴力の行使こそが正義を実現するだろう。その手の漫画では、極悪非道な敵に勝つために必要とされる圧倒的な暴力が、度重なる苦難を乗り越えた末に正義を体現する英雄に付与される。途中で試みられる戦いを回避するための話し合いは必ず不調に終わり、結局は読者の期待を満足させるために、大げさな戦いが繰り広げられなければならない。どこかの誰かが唱えているテロとの戦いやそれに対抗する聖戦がマンガチックに感じられるのは、そうしたことからの影響だろうか。浅はかな人々の期待を満足させるために多くの命が失われるのも、漫画的な展開かも知れない。簡単に殺し合いになってしまうのは、人々がそれを求めているからなのか。建前としては平和を説き、本音としては殺し合いを見てみたい。現実には見ることができないので、格闘技見物あたりで妥協しているのかも知れない。もちろん痛い思いはしたくないので当事者にはなりたくない。あくまでも傍観者として見物したいだけなのかも知れない。しかしそのような成り行きの中に話し合いの入る余地があるのだろうか。冒険活劇が話し合いで終わってしまったら、それは理不尽な結末になるか。しかし現実の世界のどこで冒険活劇が行われているのだろう。画面上やスクリーン上に映るフィクションの世界以外にあり得るだろうか。実際に行われている戦争は冒険活劇とは違い、英雄が存在する余地はない。もちろん悪質なマスメディアが、自分たちの雑誌や新聞の部数や番組の視聴率を上げる目的で、特定の個人を英雄に仕立て上げて、軽薄な人々の気を惹こうとする場合はよくあるだろう。それはスポーツ選手や政治家などを英雄扱いするのと同じ手法かも知れないが、やはりそれらの報道を真に受けた一般人には戦争を肯定したい気持ちが芽生えるのだろうか。それがまかり通るのなら、それも仕方のないことか。そしてそれらの人々に考える余裕を与えないようにするには、識者と称する批評家もどきに難しいことを言わせれば、その内容を理解できないまでも、何となく納得した気にさせることができる。例えば、十九世紀の帝国主義的な思考では、国家間に生じる競争の一形態として戦争にも存在価値があるのかも知れないが、今日ではそれのバリエーションとして、国家対テロ組織という形態が浮上してきたということだ、などと意味ありげなことを説教させれば、何となく知識が身に付いたような気分になれるか。しかし話し合いはどこへ行ったのだろう。例えば、はじめから不調に終わることが目に見えていた北朝鮮の核開発に関する六カ国協議について、事前に協議の内容とは直接関係のない、日本人拉致問題について何か進展があるはず、と集中的に報じていたのは、どんな思惑に基づいていたのだろうか。やはり拉致被害者やその家族を登場させて、北朝鮮に対して憎しみや反感が増すようにをあおっていたわけか。戦争とは行かないまでも、話し合いなどは無駄だと日本国民に悟らせ、経済制裁などの対決へと持ち込みたいのだろうか。しかし仮に経済制裁を実施したとして、北朝鮮側とすれば国境を接する中国や韓国やロシアと交易していればいいわけで、それほどの痛手にはならないような気がするのだが。


3月21日

 いったいどこまでやるつもりなのか。もういい加減にあきらめたらどうか。君は誰に対して断念を勧めているのだろう。道半ばにしてまだ君は死につきまとわれているとは思わない。だが江戸時代の道行きは心中を表していたらしい。しかしこの場では誰と誰が心中することもなさそうだ。間違いに間違いを重ねながら、成り行きまかせにさらなる迂回路を模索する。しかし成り行きに逆らうことも成り行きには違いない。なぜそんなことを思うのか。友愛とは何だろう。無くなってしまったものに、あるいは亡くなってしまった者に何を思えばいいのか。近頃は感覚的に受け入れられない文章が多く見受けられる。なぜかいつまでも無駄なことを無駄なように語っているようだ。そのやり方はおかしいか。おかしいのではなく間違っているのかも知れない。あるいはたぶんそれは嘘に違いない。すでに終わりの予感は始まりから始まっているらしい。繰り出された言葉の端々に、断片的に何かの終わりが見え隠れしている。それはなぜだろう。あるいはなぜではなくどうしてなのか。やはり言葉の用法が間違っているようだ。どんなに工夫を凝らしてみても言葉がつながらない。たぶんそこには何らかの勘違いや思い違いがあるに違いない。しかしなぜこうもつまらないのだろう。いったい何をつまらないと感じているのか。他人を驚かすような話はもう要らないとするなら、いったい何を話せばいいのだろう。まだ正気に戻っているわけではないらしいが、またわけがわからなくなったらどうすればいいのか。元に戻って気を取り直し、そこから何をやろうというのか。やろうとしないことをやっているつもりか。あるいはいつものように何もやれるわけがないと思いたいのか。そう思いながらも、結果的に適当な文章が構成されていればそれでいいわけか。たぶんそれがやろうとしないことなのだろう。そしてそこで思い誤っているのかも知れない。だがいったんそうなってしまったら、もう元に戻れなくなっている。だが簡単に戻れないことが幸いしているのかも知れない。そこに戻ろうとして無理が生じていることも、状況的には有利に働いているはずか。何事も良いように思い込めば、何となく気持ちが晴れるということか。そういうわけで、それらの身の程知らずな振る舞いにも、何らかの未来があるのかも知れない。少なくとも何も強制されていないはずだ。無理強いされることなく無理を押し通すことが可能らしい。そしてそれは、いとも簡単に実現されつつあるように見せかけられている。わざとらしく嘘をつくなら、実際に簡単なのだから仕方がない、ということか。現実には簡単になされるようなものなど何一つありはしないだろう。確かに簡単ではないが、まるっきり不可能でもないようなことをやっているわけか。だが本当に何をやっているのだろうか。絶えず物事の本質から逸れてゆくような感じがする。言葉を繰り出せば繰り出すほど何もない空虚に近づく。しかしそうすることに不安は感じない。本質から逸れながら逆に本質に近づいているのかも知れない。もちろんそれは勘違いや思い違いの類だろう。だがだんだんそれでもかまわないような気がしてくる。元からそこに何があったわけでもない。そこに山があるから登るのとはわけが違うような気がする。動機など何でもよく、そのどうでもいいような動機がどんな結果に結びつくこともないように思われる。原因と結果の間には何の因果関係もなさそうだ。たぶんそれらは原因でも結果でもないのかも知れない。ではそこに何があるのだろう。元から何が原因で何が結果なのかが示されていないということか。それはそこではなくここにある事実かも知れない。ではここにある事実をふまえて何をすればいいのか。まず手始めに原因とは何かを探らなければならないか。そしてこれからどうすればいいのかを考えねばならない。しかしそれに対する解答はすでに持ち合わせていて、どんなに考えてみてもどうすればいいかなんてわかるはずがない。考える以前に、すでにどうにかしているのだ。


3月20日

 君は君自身から離れ、ついでにこの世界から遠ざかる。どうも君は話をまとめようとする気がないらしい。意識はいつもありふれた空想につきまとわれ、夢から醒めたよく朝には、白紙の上に適当な文字が記される。たぶんそこにはいい加減な作り話でも生じていることだろう。耳を澄ませば、誰かのつぶやき声が文字と文字の間から聞こえてくるかもしれない。そんなことはあり得ないか。それは何かの聞き違いだろうか。誰が聞いているわけでもなく、聞いているのではなく喋っているのか。では誰がその喋りを聞いて喜ぶのか。しかし何を語っているのかわからなくなってきた。たぶん眠っている意識は夢の中で何かを思っているのだろう。その夢物語の中で思いがけない事態に遭遇した君は、一瞬そんなはずはないと思うはずか。そして次の瞬間には、何を予想していたのか忘れていることに気づく。そのとき見ていたのは何かの幻影だろうか。幻影ではなく幻想的なアニメーションの一種だろう。しかしありふれた空想とはどんな内容なのだろう。どこで何を空想していたのか思い出せない。それは夢の大地で誰かが魔法を使って悪魔と戦う話か。そこで使われる魔法の種類は魅力的でなければならない。それはいったい誰にとって魅力的なのだろう。それはあからさまに魔法とは呼ばれず、結果としては魔法と同じような作用を及ぼすのだが、何やら疑似科学的な言説とともに超能力的な力として説明され、オタク系のアニメが好きな人々の間ではリアリティを持つような魔法もどきになるだろう。その手のアニメーションは原因と結果を短絡させることによって神秘的な魅力を引き出そうとする。そのためには何やら不思議な力を登場人物達に付与しなければならなくなる。また単純な勧善懲悪的な内容では飽きられてしまうので、敵と味方の間に微妙な人間関係を設定する。しかしそれがどうしたというのか。そんな説明ではまったくおもしろくない。おもしろくないからその先には無関係な言葉が連なるだろう。例えばどこかの液晶画面上に現れた怪しげな人影の頭上には、広大な闇があり、その果てしなく広がる闇夜の空に無数の星が輝いている。そこで誰が星空を眺めているのだろう。誰が何を眺めているわけでもないらしい。確かさっきまでは眺めているのではなく、何かつぶやいていたはずだ。では架空の誰かはそこで何をつぶやいていたのだろう。それを聞いているつもりの君にはそのつぶやきが耐えられない。だからつぶやきに抗って何やらつまらないことを述べているようだが、述べている内容がつまらないので、文章上ではその内容は省かれてしまい、仕方がないので、そのつぶやきには全く興味がないふりを装う。そして今や君は、ただ闇雲にすべてを否定しなければならなくなる。だがまるで呪文のように繰り返し唱えているそれらの否定的な意見は、いったい何を攻撃しているつもりなのか。実際にそこで否定されているのは、例えば誰もが自由に生きる権利だったりするわけだが、それは権利ではなく幻想ではないのか。生きる権利など否定しようとしまいと、やはりそれもどうでもいいことであり、権利があったりなかったりするのは、憲法か何かの文章に記されている言葉の上でのフィクションに属することだ。権利があろうとなかろうと、誰もがそのときの状況に左右されながらあるがままに生きているだけであり、それをどうにかしたければ、それなりの戦略に基づいて行動に訴えれば済むことだろう。しかしなぜどうにかしなければならないのだろう。たぶん行動を起こす理由など見つからないだろう。現に見つからないから何もできずにいるわけか。何もできないままにただ時間が過ぎさってゆくだけか。今は真夜中ではないはずだが、昼のただ中に何を思っているのだろう。言葉を連ねるには何も思わないわけにはいかないところか。何も語らずに何をやっているわけでもないが、沈黙に囲まれながら何も思わないのはおかしいか。


3月19日

 真夜中に何を思うでもないのはいつものことか。また真実を述べれば必ずそれに対する反発が起こるのもいつものことか。では世論調査の多数意見でも述べていれば何の反発も起こらないだろうか。倫理的にはそんなクズのような行為はつつしむべきなのだろう。しかしそれ以外に何を述べればいいのか。そんなことはすでにわかっていることだが、わかっていることを述べるには抵抗感がある。そこには何か偉そうな内容になってしまう危険性が潜んでいる。それでもたまには利いた風な意見も表明すべきだろうか。しかし、何の落度もなかったわけではないが、連日マイクやカメラを向けられ、質問とは名ばかりの抗議攻めに遭って、まるで集団リンチのようなやり方に耐えきれずに自殺してしまった養鶏業者や、また何の落度もなかったのに、自分が飼っている牛に狂牛病が出たことが周囲に知れて、そのことで子供が学校でいじめられたことにショックを受けて自殺してしまった母親などに、今さら同情しても仕方がないか。真面目な人の末路とはそういうものなのだろう。たぶんそういった人達は、自らに攻撃を仕掛けている対象がいかに馬鹿げた人達や制度であるかを知り得ないのだ。それが世の中のすべてではないどころか、そんな人達や制度などこの世界のほんの一部分を占めているにすぎず、それらを無視しても生きていくには何の不都合もないことを知り得ないのだ。それらの人達や制度が振りまく、世間の常識や良識というものを真に受けるほど愚かなことはない。だが馬鹿げた人達や制度にとっては、その程度の人々が大勢いないと困るのであり、そんな人々を相手に商売を繰り広げているのだから、世間の大半がそれぐらいでなければ、なかなかだましてものを売りつけることはできない。そしてそれは何も実体を伴ったものを売りつけることばかりではなく、自分たちがやっていることに関心を向けてくれさえすれば、それが利益につながる商売でもある。もうそれらの人達や属している機構は、実際の売り買いには直接関与しておらず、それらは昔ながらの商売の呈をなしてないのかも知れないが、とりあえずそれらの詐欺師あるいは詐欺師もどきにとっては、世の中の大勢が常にその程度で推移してくれることが望ましいのだろう。しかし誰があるいはどんな機構が詐欺師あるいはその立場を有しているのだろう。それは大勢の人々が日々接している情報の流通に関与し、あわよくばそれを受け取る側の意識を、自らが発する情報によって支配しようと目論む人達あるいは組織のことか。また何も完全に支配しようというのではなく、一刻でも魅了すればそれでかまわないのかも知れず、それで利益が出るのならそれに越したことはない人達、あるいは組織のことか。とりあえず彼らは広く浅く世の中の隅々にまで罠を仕掛け、その罠にはまってしまった人々をマインドコントロールしたいわけだ。何でもないことを繰り返し報じて、それを受け取る人々がその事態を深刻に受けとめるように、絶えず大げさに騒ぎ立てている。そんな人達や組織が特権階級を気取ってのさばり続けているうちは、いつまで経ってもそんな愚かしくも悲惨な事件が繰り返されることだろう。だからこそ、誰もがそのような特定の目的によって閉じられた装置には頼らずに、自らの思いや考えを様々な機会や場を利用して発信するべきであり、そのためにインターネットが存在するわけか。またずいぶんときれいごとの結論に至ってしまったようだが、とりあえずこの場ではその程度でもかまわないか。


3月18日

 晴れた日に誰かは何をしているのだろうか。たぶん何かやっているのだろうが、その何か以外には何をしているわけでもない。誰が何をやろうと、その誰かにとってはどうでもいいことか。そうやっていつまでも天気の話をしているわけにはいかないか。だがそれ以外に何があるのだろう。いつ雨が降っていたのか忘れてしまったが、話の内容の方は、また最近よく使うパターンになろうとしている。結果的に何を語っているのでもないようだが、今日も何かしら意味のない言葉を連ねているらしい。しかしそれ以上に何ができるのか。何もできないから、おかしな方向に話を進めているのだろう。しかしある一定の方向に偏らない話などありはしない。そうやって誰もが各自の都合に合わせて適当な話をでっちあげているわけか。そういつもいつもでっちあげられた話ばかりではないだろう。中には真実を語っている話もあるだろうし、たとえ話の内容が虚構であったとしても、寓意を通して世界の本質を物語っている話もあるはずか。ではどうやればそのような本質をでっちあげられるだろうか。だがなぜでっちあげなければならないのか。どうしてでっちあげることに固執するのだろう。見聞した通りに、あるいは思った通りに、素直に語ればそれで良いのではないか。それができないから悩んでいるわけか。だがいったい誰が悩んでいるというのか。どこの誰がでっちあげることに固執しているのだろう。現実に誰かが悩んでいるとして、それは当り前のことであり、むしろ悩まない方がおかしいのではないか。たぶん素直に語っている者にも何かしら悩みがあるはずだ。しかしその悩みは語ることとは無関係の悩みではないのか。なぜ率直に語ることが悩みをもたらすのだろう。例えば、なぜ素直にしか語れないのか、どうしてひねくれた見解を示せないのだろう、という悩みもあり得るかも知れないが、それはひねくれた想像でしかないだろう。無理矢理こじつけた感が否めない。それこそが素直に語る者を妬むひねくれ者が想像する、わざとらしいでっちあげにすぎないないか。そのような見解こそがひねくれた見解であり、そんな風に想像すること自体がひねくれ者の本質を物語っているだろうか。ならばいったいひねくれ者は何を悩んでいるのだろう。とりあえずひねくれ者らしくひねくれた見解を示せたのだからそれでいいのではないか。その程度では飽きたらないか。まだひねくれ足りないということか。できることならそのひねくれ者は、素直な者を装うことを目論んでいるのであり、率直な見解をでっちあげなければならない、ということになるだろうか。そんな物語が過去にあったかも知れないが、別にそれが大げさな物語である必要はなく、わかりやすい簡単な見解を示せたらそれでいいということか。しかしもうすでにわかりにくい話の最中なのではないか。それらのわざと込み入らせたような話は何を物語っているのだろうか。やはりひねくれ者の本質だけか。それ以外に何か寓意的な内容を含んでいるとでもいうのか。ただ寓意的な内容を含んでいるとほのめかしているだけか。そして何かに悩んでいるともほのめかしていたはずか。その二つを合わせれば、寓意的な内容をでっちあげられずに悩んでいるということになるだろうか。たぶん他に何か語っていたかも知れないが、結論としてはそんな安易なものでもかまわないか。それでも一応は何かやっていることに変わりはないか。しかしそれで満足できるはずもなく、絶えずそれ以上の話をでっちあげようとしていることは確かなようだが、現状ではなかなかうまくいっていないようだ。要するに日々見聞することもそれについて思うことも、どうでもいいようなことばかりなのか。


3月17日

 雨降る夜はいつのことだろう。いつの出来事でもなく、それは単なる作りごとか。架空の雨を想像してみよう。中には黒い雨というのもあるらしい。確かそんな題名の映画が有名なのかも知れない。白い雨は雪になるはずか。雪は雨ではないだろう。雨の降らない土地は珍しい。そんな風に思えるのは湿潤地帯に暮らしているからか。水星では雨は降らない。水曜日に雨が降らないこともある。海に降り注ぐ雨は無駄かも知れない。熱くなった頭を冷やす雨は有用なのか。放っておくと風邪をひくだけか。放っておかないはずがない。風邪になったら風邪薬でも服用すればいいだろう。風邪になるのはいつだろう。きっと忘れたころになるはずか。老人は風邪をこじらせて肺炎にかかって死ぬことが多い。そんな死に方は嫌か。できることなら死にたくないという思いは、心身が健康な時に抱くことが多いだろうか。人が死ぬ原因は千差万別であり、死因はいくらでもあるだろうか。たぶん人がいなくなれば誰も死にはしない。最後の人間が死んだ以降は誰も死なないだろう。何を当り前のことを述べているのか。誰も死にたくないのならみんな死んでしまえばいい。それなら当り前からは程遠い述べ方になるかも知れない。とりあえず死ぬためには生きなければならないはずだ。生き続けることによって絶えず死の危険に身をさらし続けることになる。いったん死んでしまったらもう二度と死ねなくなる。もちろん輪廻転生を信じていれば、何度でも死ねると思い込んでいられるか。そんな宗教にはおもしろみがないか。ちょっと安易すぎるような気がする。もう少し人の限界について思いをめぐらしてみるべきだろうか。何でもありならそれに越したことはないが、現状は至るところで制限だらけだ。多くの人々が自由という言葉が虚しく響く環境に暮らしている。そこでは誰もまともな死に方はできない。しかしまともな死に方とはどんなことだろうか。死に方にまともも何もあったものではないか。例えば夫婦そろって首吊り自殺を遂げた養鶏業者は、その数ヵ月前にはまともに暮らしていたはずだ。いったい誰が彼らを死に追いやったかは誰もが知っているところだが、それをあからさまに口にする者はいない。中にはいるかも知れないが、そういう発言はマスメディアによって無視されるだけなので、表面上は誰もそんなことは言わないことになっているようだ。一連の報道によって殺されたなんて誰も言うはずがない。要するにそんな社会なのだ。狂牛病騒ぎのときも何人か自殺したらしい。そんな風に一見平和な社会でも簡単に人は死んでしまうわけだから、何も自爆テロに驚く必要はない。人の命などその程度のものなのだ。そしてそんなやり方で何を主張しようと、誰も真に受けるはずがない。いちいち他人のやっていることに目くじらを立てる必要はなく、ある程度は無視していても何の不都合も感じないのかも知れないし、誰もが退屈しのぎに野次馬気分になりすぎているのかも知れない。そんな風に世の中を見聞するだけでは馬鹿になるだけだろう。馬鹿になってもかまわないのなら一日中テレビでも見ていればいい。そしてそれに飽きたら冒険にでも出かけよう。大陸横断とか世界一周とか命がけの山登りとか、暇つぶしの手段ならいくらでもあるだろう。人間馬鹿になれば何でもできるはずか。できるはずだが、実際にやってみればできないこともあることに気づくかも知れない。そうなれば少しはましな生き方ができるだろうか。別にましな生き方などする必要もないか。たぶん必要などあってもなくても、人は適当に生き、そして死んでゆくのだろう。


3月16日

 あまり本気になれないのはいつものことだが、気まぐれに晴れ時々雨の天候を想像してみる。それはどうしたわけでもないだろう。晴れていても雨が降っていてもどれがどうしたわけでもない。ただ何となく気が晴れないので、支離滅裂な気分になりたいだけか。憂鬱な気分は天候からもたらされるときもあるだろうが、それ以外の要因で憂鬱になってしまった場合、晴れた空を眺めることが気分転換になるだろうか。時にはなる場合もあるだろう。どこかの誰かは相変わらず雑なことを述べている。誰でもない誰かは何でもないことに腹を立てている風を装う。いつもそんなポーズでは見苦しく感じられてしまうか。誰の目を意識しているわけでもない。たぶん何もかもが消失した後にそれらが何でもないことが明らかになるだろう。すべては生やさしいことだと誤解すべきなのだろうか。楽観的な気分は一時的な気休めをもたらす。それでもかまわないのかも知れないが、かまわないままでいると、それなりにかまわない状況が出現するのかも知れない。誰もが求めているのは一時の気晴らしか。それ以外は下らぬ夢や希望の類になるわけか。誰かが求めている物語ではそんな状況が繰り返される。例えば悲劇の主人公は求めていた絶望が手に入って狂喜する。そうでなければ主人公たり得ないことを承知しているらしく、自ら進んで死と戯れながら破滅への道を邁進するだろう。しかしそんなありふれた展開では感動しないが、人を感動させるために語っているのではない。また何か気の利いたことを述べたいわけでもないだろう。そこには何もありはしない。ただそんな風に思っているだけかも知れない。たぶんどこかの誰かは主人公にはなり得ない立場なのだ。そこに悲劇はない。それは笑えない状況だろうか。なぜ悲劇を笑う必要があるのか。ひねくれた性根だから皆が泣く場面では笑っていなければならないわけか。本当にそれらを笑う勇気を持ち合わせているのだろうか。ばかげた人々のことを思うと自然に笑いがこみ上げてくる。いったい誰がアメリカの大統領のことを笑えるだろうか。笑えなくとも馬鹿にすることは可能か。少なくとも偉大だとは思わない。だが状況はそんなことには目もくれない。顧みられないことばかりが行われている。振り返っている暇さえない。ただそんな具合に状況は進行してゆくばかりのようだ。事後報告あるいはアリバイ作りのためだけに言動は使用される。まずは取り返しのつかないことをやってしまった後で、そのことの是非をああだこうだと議論しているにすぎない。要するにやってしまった者勝ちということか。別に最終的に勝ったわけでもないのだろうが、とりあえずその場では、やってしまった方が気分が良いらしい。ざまあみろという気持ちに至りたいばかりに、我先に後先考えずに目先の利益を目指しているように思われる。しかもそれが最終的な利益に結びつかなくてもかまわない。利益に結びつかなければつかないで、そのときになってまた新たに何かやればいいだけであり、何ら反省する気はない。そういう刹那的なやり方が横行しているうちは、そんなやり方に身をまかせている方が気楽なのかも知れない。そうやって誰もが安易なことをやろうとして、結果的にややこしい事態に陥ってしまうわけなのだが、それもやり方を変える気配はない。それ以外のやり方を思いつかないのだから、とりあえずはそれで押し通すしかないのかも知れない。それが通用しているうちはそれでもかまわないのだろうが、はたして通用しなくなる事態が訪れるのだろうか。誰もそんなことは思いもしないだろうか。だから思いがけぬ事が起こり得るということか。


3月15日

 言葉にならない思いは記述を拒絶する。現状はどうしようもない状態のままに推移しているらしく、それについて何を語ればいいのかわからない。意識はいつものように空疎な思いに包まれているようで、何もない空白のただ中に存在する思いは、それ以上何を付け足すべきかを知り得ない。それ以外にどんな言葉を付け加えても余分な気がしてならない。とりあえずその先に何かを述べなければ、どんなに考えをめぐらそうとも、何もやっていないことになってしまうような気もするが、やはり目に見える結果が示されなければ何をやっているのかわからないだろうか。思考した結果を言葉で表現しなければ何もないのと同じことか。しかし言葉の他に何があるというのか。絵や音や映像があるが、この場ではそのような表現形態を持ち合わせていないので、今はただ無理を承知で言葉を記述するだけに留まる。そんなことはわかりきったことか。だがたとえそれがわかりきったことであっても、ここではわざとわからないふりをすべきなのか。なぜそうしなければならないかを知り得ない。そんなことを誰が知るはずもなく、そうすべき理由など何もないのかも知れないが、たぶんまだ何を述べているわけでもないのだろう。そして付け足されるべき言葉など何もありはしない。言葉を弄しているうちに何を知ろうとしていたのか忘れてしまったらしい。それは知ろうとして知ることができるようなものではないのかも知れず、たぶん誰もそんなことは知らないし、仮に知っているとしても、それを赤の他人に教える筋合いはないだろう。架空の人物が何を教えてくれるというのか。別に知り得ないことを知ろうとは思わない。それはおかしな言い草かも知れない。わかったことは知り得たことで、わからないことは知り得ないことであり、知ろうと思ってわかったことは知り得たことであり、わからなかったことは知り得なかったことになる。知り得ないことは知ろうと思わないわけにはいかないことだ。それを知ろうと思うから、結果的に知り得ないことが生ずるのであって、始めから知り得ないことなどありはしないだろう。現状がどうあれ、そこから何かを知ろうと試みなければならなくなる。なぜそれが何もない現状なのか思考せざるを得ない。なぜ何もないと思われるのか、その理由を探さなければならない。何もないわけはないだろう。何もないと思っていても、そこには何かあるはずか。たぶんそこには空虚があり、そしてそれは嘘になる。それが言葉にならないのは何もないからではない。少なくとも何かがあるのであり、その何かが言葉を繰り出す上で何らかの障害となっている。だがそんな風に述べていること自体が言葉を繰り出している証拠になっていて、別に言葉にならない思いなど抱いているはずもなく、よって語り手が嘘をついていることが明らかとなる。そんな簡単に現状を述べてしまうと何か物足りなく感じてしまうか。ならばそれに付け加えて、何らかの装飾的な文章表現が求められるだろうか。だが詩的表現の唐突な出現では今さらであり、いかにもわざとらしく思われる。またこの期に及んでの情景描写も取って付けたような感が拭えない。それらを付け加えるにはもうすでに語りすぎている。いったい今まで何を語ってきたのだろうか。読み返すと落胆し、自己嫌悪に陥るような内容だろうか。なんとなくそれでもかまわないような気はするが、もう少しまともにならないものか。


3月14日

 なぜそれほどまでにこだわるのだろう。何にこだわっているかは一目瞭然だが、それをあからさまに表現できずにいる。空を見上げて何を思う。猫が上を向いている。猫のことはどうでもいいが、何を見ているのか。何も見ていないのかも知れない。夢を見て何を思う。夢を見ながら眠っている。今日も思いを語る時間はなさそうだ。思いなどあるはずがない。君は眠りながら何をやろうとしているのだろう。それらの作業に対して情熱などあるわけもなく、冷めた思いのまま適当に意識を操作して、意味のない言葉を繰り出しているだけか。しかしそこからどうやって離れることができるだろう。誰がそこから旅立とうとしているのだろう。ありふれた台詞ならすぐに思いつく。何のためにこの世界は存在しているのだろう。君が何かを描き出すためにあるわけか。ではそこから旅立つのは誰なのか。すでに旅立っているのかも知れない。そしてもう何を語っても無駄だと思いたいわけか。あきらめが早すぎるだろうか。まだ何を告げられているわけでもない。誰にそんなことを告げればいいのか。そんなこととはどんな内容だろう。誰がその内容を知っているのだろうか。たぶん君はいつものようにわからないことを考えているようだ。見上げれば空が傾いている。時計の針が歪んで見えるのは夢の中だからか。山と谷に囲まれた地に何があるのだろう。たぶんそこには人が住んでいる。誰がそれらの集落を眺めているわけではない。何かをやるきっかけを探しているのかも知れない。きっかけはどこからともなくやってくると思いたいが、一向に現れる気配がない。いつまでの何をやるわけでもなく、誰かは見知らぬ人を求めて出かけてゆく。だがその辺に現れたのは雀の群であったりする。人の気配に気づいて一斉に飛び立つ。人は人でしかなく、それらの人々には名前すらなさそうだ。人は誰に出会うのか。人を人とは思わない人に出会うかも知れない。人は人ではなく、それは誰でもない。それでも人は誰かになろうと努力する。ちゃんとした名前と人格をほしがっている。中にはそれでも飽きたらずに、社会的な地位と名誉を求めて右往左往する人もいる。毎日各方面へを働きかけを欠かさない。たぶん彼らは自らの業績を認めてほしいのだろう。自分たちが今までに何をやってきたのか、それを振り返りながら自画自賛をしたいらしい。表彰されたいのだろう。それが栄光の瞬間なのか。そうやっていつまでも忘れ得ぬ人になりたいのか。そんな人を忘れてしまったら怒るだろうか。いつかは忘れてしまうだろう。一月も経てば忘れてしまう。一年も経てば思い出せなくなるかも知れないが、ある時何かのきっかけでふと思い出すこともあるだろうか。しかし思い出そうとはしないだろう。思い出そうとして思い出しているわけではない。それどころか思い出すのが鬱陶しいからすぐに忘れようとしている。いやな人のことはすぐに忘れたい。誰がいやな人なのか。君もいやな人の中に入るのだろうか。いやな理由はいくらでもありそうだが、何を忘れようとしていたのかを忘れている。それは嘘かも知れない。現実はその時の状況によって異なる。異なっているのはその時の思いか。思い出そうとしているのはその時の思いではなく、今思っているその内容かも知れない。その時とは今のことなのか。なぜそんな風に思いを短絡させるのだろう。ただ面倒なだけか。短絡させているのではなく、その時と今の間に何もないのかも知れない。少なくとも何かあったかも知れないが、それを思い出せずにいるだけか。案外それが真実かも知れない。だが思い出そうとして思い出せないのではなく、今は面倒なので思い出すつもりがないだけか。要するに考えるのが面倒で、それについて言葉を繰り出すのが面倒なのか。それにしてはずいぶん意味のないことを語ってきたような気がする。


3月13日

 どうでもいいわけはないだろう。何とかそれらの作業を完結させなければならない。苦悩を忘れられるはずがない。それは間違った行為かも知れない。いったんやりだしたら際限がなくなるのは仕方のないことなのか。意識の中ではとうに言説の連続性を保てない現実が突きつけられていた。そんなことはありふれた結末なのだろう。ありふれた日常の中にありふれた思いとともにありふれた結末が横たわっている。そしてそれがどうしたわけでもない。ただそれらをすべて無視しながら時は過ぎ去って行く。何かをやろうとすると、そのつかの間のやる気はすぐに忘れ去られ、忘却の彼方にかつてやりたかった夢が堆く積まれている光景を思い浮かべる。そこから先は空虚に支配された意識が続いてゆくらしい。たぶん瞬発力でたどり着けるのはそこまでなのだろう。できないことをやろうとすれば、何らかのごまかしが必要になってくる。漫才師は楽屋話を話のネタとして使っている。それでかまわないのならそれに越したことはないか。何も年がら年中語り続ける義務はないだろう。その辺で妥協しておかないと遠からず終わってしまうような気がする。とりあえずやれる範囲は限られていると思い込んでおけば、無理に言葉を連ねることもないだろう。その程度では満足できないのだろうが、満足させようとして言葉を弄すれば空虚を招き入れることとなる。その何もない空虚にいつまで精神が耐えられるのか。しかしそれをやめようとするとやめられない状況に追い込まれる。なぜそうなってしまうのかよくわからない。内心ではよくわかっているのかも知れないが、それを言葉で表明できない機構が存在しているらしい。実際によくわかっているとほのめかしているではないか。たぶんそこには何らかの意地が作用しているのだろう。では意地になって継続させているのはなぜか。それはただ継続が途切れてしまうのが気に入らないだけなのか。だがそれは理由にならない理由だろう。もう少し説得力のある理由をねつ造できないものか。しかしそれをねつ造してどうするのか。それでは単なるフィクションとなってしまう。そんな風に思いを巡らしているうちにそんなことはどうでもよくなってきた。そして何となく過ちを犯していることに気づき始める。やはりいつものように言葉を弄して空虚を呼び込んでいるようだ。それが過ちの正体なのだろうが、その過ちによって継続を保っているわけか。たぶんそれが目下のところは実態を反映した説明になるだろう。意識はそれでかまわないとは思っていないようだが、そんな意識に逆らって勝手に言葉が連なってしまう現実があるようだ。それはいかんともしがたいことか。どうすることもできないわけでもないような気はするが、それには膿を出し切るようにそれらの言葉を出し切らなければ、その先に立ち現れるかも知れないまともな言説には出会えないのかも知れない。もしかしたらそれは準備運動の一種なのかも知れない。それをやらないことにはちゃんとした言説を繰り出せないようだ。つまり空虚で無駄だと思われるそれも必要悪的な意味を持っているのだろうか。それがないとその先に進めないということか。しかしその先にはいつ進めるのだろう。何となくいつまでもそればかりのような気がするのだが、たまにはまともなことを述べているときもあるのだろうか。過去を振り返る余裕がないので何ともいえない面があるのかも知れない。それでもかまわないと思うのならそれで行くしかないか。だがわからないことはわからないままにしておくのは怠慢だろうか。わからないままにもわからないところでわかろうとしているのかも知れない。しかし何を述べているのかわからなくなってくる。どういうわけかそれらの言説は、何かの付け足しにすぎない、という気がしないでもない。気まぐれに何かいい加減なことを述べているだけなのか。たぶんそうなのかも知れないし、それ以外はやりようがないのかも知れない。そんな言説から影響を受けて意識の方も空虚に覆われつつあるようだ。


3月12日

 別にそんなことはどうでもいいことかも知れないが、気晴らしに試みた気分転換は思わぬ結果をもたらす。様々な紆余曲折を経て構成された文章は、もはや互いに無関係な言葉が羅列されているだけとしか思えない。そこで論理的な飛躍を期待しているの誰なのか。誰なのかではないだろう。それに応じてやけくそ気味の台詞が矢継ぎ早に繰り出される。誰かの暗い瞳は遠い夕焼けを眺めるでもなくあらぬ方角を見つめ、意識は偶然の巡り合わせに惑わされて過ちを許容しつつ、過去の記憶はそれを忘れようとする意志を裏切って、唐突に何か適当なことが思い出されたりするが、いつか聞いた雨音は外界のどこから響いてくるのだろう。音が伝わる媒体はいろいろありそうだが、その雨音を聞いたのはいつのことなのか。たぶんこれから雨音について何を述べようとしているわけでもなく、今思い出そうとしているのはそんなことではないはずか。過去の経緯などこの際どうでもいいことだろうか。ただそのいきさつを思い出したくないだけなのかも知れない。しかしそれを思い出さないことによってどんな効用が得られるというのだろうか。そんなやり方で怨恨を乗り越えることが可能だろうか。君はそれが怨恨だとは思わない。それは時間的な隔たりでしかなく、その隔たりを乗り越えて何が到来するというのか。この期に及んで何がやってくるわけもないだろう。やってくるのはいつもの明日か。どうやら間近に迫っているのは終わりの時ではなさそうだ。明日で空白の時が終わるはずがない。そんな予感とともに静かな夜は過ぎ去り、誰かは過去に吹きつけてきた風の音を懐かしむ。そして偶然の成り行きによって生じた気まぐれな思いを気にかける風もなく、相変わらずよくわからないことを想像し続けている。それは誰にとってもよくわからないことかも知れない。乗り越えようもないことを乗り越えられるわけがない。乗り越えるのではなく、避けて通ることしかできないだろう。知らず知らずのうちに際限のない回り道に誘われるわけだ。道に迷うためにそれらの回り道は存在しており、そこを歩んでいる途中で意味不明に苛まれてわけがわからなくなり、後悔の念を繰り返しながら、同時にもう手遅れになっていることを悟らされる。そこで繰り返し意識されるのは甘美な誘惑などではない。むき出しの感情を拒絶する理由を求めて、理性はなおも論理的な整合性を模索しているが、それが無駄な悪あがきだろうか。意識する身体をおいてどこかへ行けるはずもない。どこへも行けないから回り道の途中で立ち往生しているわけなのか。そんな風には思わない方が身のためか。それらの思いのどこが気まぐれなのか理解できない。気まぐれに思っていることはそれとは別のことか。ただ飽きもせず繰り返し同じことを考えているだけではないのか。しかしその同じことを説得力のある言葉で表現できないらしい。ではその代わりに何を述べているのだろう。何となく頭に浮かんだ台詞を適当に組み合わせて、いい加減な文章を構成しつつあるわけか。そしてそうは思いたくない意識が一方にはあるようだ。そう思うのが面倒なので、それについてはとりあえず無関心を決め込んで、何も思わなかったことにしておこう。はたしてそんなことができるのか。それらの込み入った事情をどう整理していいのかわかりかねる。たぶんわざと複雑なことを述べようとしているだけかも知れないが、いつものようにひねくれた方向から繰り出されたそれらの言葉は、毎度のことのようにまとまりを欠いて、離散的な分布を示しているのかも知れない。だがそれがどうだというのか。意識は継続を途切れさせないために終わりをもてあそび、それらの文章は無内容を繰り返してどこかへ行ってしまう。その行き先はそのときの偶然に左右される。繰り出された言葉の性質によって適当な振れ幅をもたらす。そしてそうやって導き出された結論らしき虚偽の振る舞いには何の意味もなさそうに思われる。やはりそんなことはどうでもいいことなのか。


3月11日

 知りすぎた君はなにがしかの報いを受けるだろう。それは何かの予言だろうか。別に知りすぎているとは思わないか。だが何も知らないわけでもないだろう。君には君特有の専門分野においては知りすぎている面もあるのかも知れないが、それ以外の分野においては知らないこともあるはずか。しかし何を説明しているわけでもない。報いとは何だろう。報われることで満足できるだろうか。君はそれが嘘だと信じている。説明とは無縁の分散状態の中に空虚な思いが漂っている。過ぎ去った時間の中に不信の念が取り残される。否定の連続の最中には何も信じていないわけではない。ただ何もかもを否定できるという確信を信じられないのかも知れない。それでは確信とはいえないのではないか。一方に固く信じている意識があり、もう一方にはそれを冷ややかに見つめている視点が存在する。たぶんそれは虚構だろう。何となく複雑な思いはあっさり否定したくなる。何かの到来を待ちくたびれて、何の到来を期待していたのか思い出せなくなる。たぶんこれからも様々な出来事が待ち受けているのかも知れないが、待ち望んでいた状況が到来することはないだろう。それはそうなり得ない要因を知り得ないからだ。その知り得ないことを積極的に知ろうとは思わない。何かが起こったあとから適当な説明が可能なことは確かなのだから、そうなる時を待てばいいのだろうか。待ちくたびれてそんなことは忘れ去ってしまうかも知れない。そんなわけでそのときはすでに到来しているのにそれに気づこうとはしない。それを説明するのが面倒なのか。面倒なら説明しなくてもいいわけか。たぶんそれでもかまわないと思いたいのだろう。それを説明しない場合は何かそれ相応の報いでも受けるのだろうか。いったいそれはどんな報いなのか。無視と忘却の憂き目にでも遭うわけか。その程度で済むのならそれでも一向にかまわないだろうか。それ以外に何を思いつけば気が済むのか。君には意識とそこから生じる言葉に対する不信感が根強くある。それが何事に対しても本気になれない意識を形作っているのだろうか。繰り出された言葉のすべてが無駄だとは思わないが、その大半はどうでもいいようなことの集積と思われる。何をどう説明しても嘘になってしまうような気がしてくる。だからいったん繰り出され連ねた言葉を振り返る気が起こらない。それらのほとんどがもはやうち捨てられたも同然の状態にあるのかも知れない。たいしたことは何一つない。それが何と比較されればいいのか、それに見合う存在を見いだせない。だがそんな意識を真に受けるわけにはいかないか。本気でそんなことを述べているわけではないようだ。今脳裏をよぎっているのは空虚の他に何があるだろう。しかしそれは空虚にさえならないようなただの何でもないことかも知れない。だが何でもなくてどうでもいいことばかりでは、これ以上は何もできなくなってしまうだろう。それらの空虚な気分の中から、かろうじて言葉になるような精神状態を見つけ出さなければならないか。たぶんそれがありもしないフィクションを形成するのかも知れないが、それはそれで肯定的に捉えなければならない現象といえるだろうか。誰がそんな現象の到来を待ち望んでいるのか。それは君の意識以外にはあり得ないことだろうか。たぶん君はそれでもかまわないのかも知れないが、他の人々にとってはどうなのだろう。そんなことの繰り返しではついて行けなくなるかも知れないか。しかしそれでも君はかまわないと感じているのだろう。要するに君は語りすぎているのだ。語りすぎて語ることがなくなってもまだ語り続けている。それで何が報われるのだろう。それでも何らかの報いを受けるだろうし、すでに報われているのかも知れない。君はそれによって何者にもなれないとは思わないだろう。すでに何者かになってしまっている。それでも君は何かを知っているはずだ。意識を空虚に覆われながらも、すでに何者かになってしまっているのに、それでも何かになろうとしている。


3月10日

 もはやそれらの作業は意味を失っている。何やらまたわけのわからない内容になってしまっているようだ。周りを取り巻く様々なしがらみを断ち切って自由になるにはどうしたらいいのか。それともしがらみを断ち切らなくても何とかなるのだろうか。あるいは何とかなったりならなかったりすること自体が勝手な幻想にすぎないのか。ではどちらでもかまわないのか。しがらみの意味にも自由の意味にもリアリティを感じない。それをしがらみと感じたり、それを断ち切って自由を手にすると感じたりすること自体が、ありふれた物語の中に現れる感情をなぞっているにすぎないのかも知れない。それは体験しつつある状況を物語の紋切り型に当てはめているだけなのか。そんな風にして物語の支配に屈しながら生きている人はどれほどいるのだろう。そういえばどこかの国の大統領は「テロとの戦い」=「聖戦」という物語的な図式の中にとらわれているのだろうか。すべてではないのかも知れないが、少なくともその種の演説をしている最中はそのような言葉に酔っている可能性がある。浅はかな人々はそこからすぐにキリスト教徒とイスラム教徒との戦い、というかつての十字軍から生じた文明の衝突の物語を持ち出したくなるだろう。しかし物語とは何なのか。なぜ人間社会には物語という紋切り型が流通するのだろう。そこにはある種の思考・行動様式が存在しているかも知れない。たとえば、夢に向かって努力する、という世の中の隅々にまで行き渡っている物語に忠実な人の思考や行動パターンはわかりやすく、そのような人に接している周りの人々に安心感をもたらす。そうやってその種の人は社会に受け入れられるわけだ。アメリカの大統領も「テロとの戦い」というわかりやすい物語を掲げることによってかつては高い支持率を誇っていた。たぶんどんな人もある程度はそのような物語に依存して生きている面を持っているのだろう。それがないと理解不能な人間と思われてしまうのかも知れない。不可解な事件を起こした犯罪者なども、裁判という手続きを介して検察と弁護士と裁判官とそれを報道するマスメディアによって、結局はわかりやすい物語の主人公に仕立て上げられてしまう。もしかしたらあらゆる人間のどんな思考や行動も、物語という翻訳装置を通過すれば、それらはすべて理解可能と見なされてしまうのかも知れない。そのようなわかりやすさや安心感によって社会の秩序は保たれているのだろうか。人々が不条理の蔓延によって発狂しないためには物語が必要なわけか。現実には様々な不条理がまかり通っているのかも知れないが、そんな現状から目をそらせるために物語が活用されているのだろうか。やはりある程度は現状から目をそらせていないと発狂してしまうわけか。そして都合の良い時だけ問題意識を持ってマスメディアの主張に同調すればいいのか。しかしそうやって正気を保っているつもりの人々にはたして変革の力が宿っているだろうか。何か社会を変革しなければならない理由があるのか?変革の理由が見出されること自体が、問題を解決して社会をよりよい方向へ導く、という物語に汚染されてしまっている証拠か。君にはそれ以上語る理由が見出せないか。現状を説明することは、わかりやすくて理解可能な物語を提示することにしかならないような気がしてくるのだが、それ以外に現状を説明する理由がどこにあるのだろう。別に理由を求めているわけでもないが、一応はなにがしかの理由を提示できればそれなりに安心するのかも知れない。しかしいったい誰が安心するのだろう。安心するということは、安心できない不条理から目をそらしていることにしかならないのではないか。では不条理を見つめることで何がもたらされるのか。狂気以外の何を求めようとしているのか。何かを求めようとすること自体が、理解可能で安心できる解答の存在を信じようとしているだけであり、それも物語の中の挿話にしかならないか。


3月9日

 微笑みの絶えない人は恐ろしい。たぶん君はそんな風には思わないだろう。君の微笑みはいつも苦し紛れだ。そんな君をどこかで誰かが想っている。しかし思い出される風景の中には誰もいない。むき出しのコンクリートの壁に囲まれた殺風景な部屋の中に埃が積もる。それはただの空き部屋だろう。考えようによってはこの世界はすばらしいものじゃない。そんな風に想っている君は、世界のすばらしさを理解できないのだろうか。しかしメディア以外の誰が世界のすばらしさを人々に伝えているのだろう。そもそも世界のどこがすばらしいのか、具体的な事例を示さなければ文章が意味不明だ。なぜすばらしいなどという言葉をとっさに思いついたのだろう。しかもなぜそれを否定したいのか。なぜこの世界がすばらしくないと述べなければならないのか。君の空想はそれとは別のところにあり、空想の世界は別にすばらしくない。君はこの世界を不確かな記憶に基づいて空想している。だがそんなことにはお構いなく、誰でもない架空の誰かが夜の静けさとともに風の音を聞いているとき、つながりを欠いた言葉が真実を語ろうとしている。意識の崩壊を崩壊しかけた意識は望み、そんな望みを叶えてくれるはずのない空虚が、それ以外は何も思わない意識の内部から滲み出てくる。たぶんそれに影響されて言葉の連なりがぎくしゃくしているはずだ。もう文章など読みたくはないとどこかから悲鳴が聞こえてくる。悲鳴を上げているのが君の精神ではないことを祈ろう。もちろんそれは誰が祈っているのでもなく、文章表現のバリエーションとしてそんな言い方があるのだろう。だが実態としては悲鳴ではなく沈黙が続いているのかも知れない。そして何も語らずに言葉を弄しているつもりのようだが、そんなのは嘘に決まっている。何も語らないように心がけながらも、結局は何かを語っているわけだ。それはただのひねくれ根性にすぎないか。ひねくれ者に微笑みかけても無駄なのか。たぶん世界のすばらしさを語る人は微笑みが絶えないのだろう。にこやかな笑顔ですばらしき世界を声高らかに歌い上げているかも知れない。その清らかでたくましい歌声はきっと天まで届くだろう。しかし何を述べているのだろう。述べている途中から皮肉な笑いが頭をもたげる。それが何となく嘘っぽく感じられるのはどうしてなのだろうか。君が本気でそんなことを述べているわけではないのは明らかか。その微笑みにはニュアンスの違いがあるだろうか。この世界には微笑みの国というのもある。それは確か東南アジアにあると記憶している。それらの微笑みの裏側には何があるのだろうか。毎度おなじみの歓楽街が連なっていて、そこへ団体客が欲望を漁りにやってくるわけか。しかしそんな紋切り型では飽き足らない人はどうすればいいのだろうか。中にはただ何もせずに旅を拒否する者も出てくるかも知れない。京都の寺ではそんな人々のために石庭が設けられている。ただそれを眺めていれば自然に時が過ぎ去り、日が暮れて意識は現実に戻らなければならない。ただそれだけのことでしかないのに、そこでの体験はその場限りのものでしかないとは思いたくない者もいて、石庭を介してこの世界のありように思いを馳せる人々は、おのおのが適当な考えに至って自己満足にでも耽るのだろうか。たぶんそれらの石庭を眺めて微笑む者は日本文化を馬鹿にしているのかも知れない。まさか、きゃーかわいい!と勘違いの歓声でも上げたらおもしろいだろうか。しかし寺院側としてはそれらの石庭に何を見出せば納得するのだろう。そんなことまで考えていないか。それらは拝観料を稼ぐための仕掛けにすぎないか。その寺では住職が今でも修学旅行の学生に向かって何やら利いた風な説教でもたれているのかも知れないが、その説教の内容を今ではまったく思い出せない。当時の高校生にはあまり理解できなかったし、ちょっと胡散臭い印象を持った記憶もある。また思い違いかも知れないが、もしかしたらその坊さんは口臭が臭かったかも知れない。


3月8日

 君は苦し紛れに何を思っているのだろう。しかし何を苦しがっているのか。たぶん何か思っているはずだと思いたいわけだ。心の奥底にはまだ何かあるのだろうか。何かあるかも知れないが、形あるものは何もなさそうだ。その時々で何があるかは違ってくるだろう。影は君の本心を知りたがっている。それが苦し紛れであるはずがない。しかし影とは何なのか。それはただの影のことか。そうであってそうではないか。虚構の部分も含んでいるが、それを影と呼ぶ根拠は何もなさそうだ。わざとらしく影という言葉を使って意味不明になろうとしている。あるいは影に思わせぶりな雰囲気を担わせてそれ風の効果を期待しているわけか。そしていい加減な言説に終始する。要するにそこには何もないのに、影を利用して何かあるように装っているわけか。だが本当に何もないのだから、何を装っているかは特定されないだろう。何を装っているかなんて、装っているものは何でも構わない。当然のことながら虚構の影には偽りの思いが託されており、その言葉によって何かを連想して欲しいということか。要するにそんな類の言葉を使って誰かの興味をつなぎ止めたいのだろう。しかしその誰かは特定の誰かではなく、誰でも構わない誰かでしかないから、誰からの興味も期待していないし、結果的に誰からも無視されても構わないか。しかし君はなぜそんな風に思うのか。たぶん話の展開上そうなってしまっただけかも知れず、そんなことはどうでもいいことだろう。ただ言葉が適当に連なっていればそれで構わないのかも知れない。そしてそう思っているのは君ではなくてもよく、君も含めた誰もそんなことは思っていなくても構わない。もちろん思っているのは君以外の誰でもないし、現実には君以外ではあり得ないことになっているかも知れないが、それは話の内容からそんな風に推測されるかも知れないだけで、本当の君はそうは思わなくても構わない。たとえば心の奥底にそんな君自身が影を装って存在していることにしても何ら不都合はない。そしてなぜそんなものが存在しているのかは、その理由や根拠はなくても構わないだろうし、その場の気まぐれでなんとなくそんな言葉が導き出されたに過ぎないのかも知れない。そしてそんなことを述べれば不思議な気分になれるのかも知れない。だからそれが影という言葉である必然性はないのは当然だろう。その他の何でも構わないのに、偶然のなりゆきで影が導き出された。そんな雰囲気になれる言葉なら何でもよかったのであり、しかし思いついた言葉はたまたま影という言葉だったわけだ。ただそれだけのことで他には何もなさそうに思える。ただ思いついた言葉を利用して文章を構成しているだけか。ではなぜ君はそれをやらなければならないのか。やる前からやる気は失せていて、やはり今日もまともな内容からは程遠い結果になっているのかも知れない。いつものように君はそこで、それらの言葉の連なりを眺めながら、何を思っているのだろう。たぶん何かを思っているのだろう。様々なことを思っている。だがそれらはすべては退屈に感じられ、退屈に感じている君を無気力にさせる。そしていつもの虚無感に心を覆われ、それでも無理にやっていることを途中で投げ出すわけにはいかないと感じている。どうしてそんな風に思ってしまうのか。積極的に何らかの使命感に燃えているわけでもないだろう。ただそれらを継続させてきたから、それを途絶えさせるわけにはいかなくなってしまっただけか。そんななりゆきが君の思いを形成しているわけか。そうやって何かを思いながら見ながら、思っている心はそれを通り過ぎる。どうやら思っていることとは無関係なことを考えているようだ。気まぐれにいつか見た風景を思い出そうとしている。君は遠い記憶を呼び覚まして何を作り上げようとしているのか。何も作り上げるわけでもなく、ただ言葉を弄しているだけか。


3月7日

 今日も夜は次第に更けて行き、しばらく前から君は行き詰まったまま途方に暮れている。この期に及んでごまかしは通用しないだろう。通用させてもかまわないとは思うが、なぜか意識はそれをためらっている。しかしごまかしとはどういうことなのか。それをごまかしと見なすなら、すでにだいぶ以前からごまかしにごまかしを重ねている現状があるのに、それをためらって何をやろうというのだろう。要するにためらいながらも今後もごまかしを続けるということか。それがごかましと思いたければ思っていてかまわないか。君以外にとっては何をごまかしているのかわかりかねるだろうか。まだそれほどの極限状態でもないような気もしている。いったい何が極限状態なのだろう。かつて世界各地で戦争などに伴って生じた過去の様々な極限状態から我々は何を学んだのだろう。近所にある墓地から誰かの亡霊が這い出て来て、君に何か適当なことを語りかけている。なぜ唐突にそんな嘘をついているのだろう。亡霊は何を語るのか。どこの誰が亡霊なのだろうか。たぶん首つり自殺でもすれば、君も亡霊になれるかも知れない。たぶん亡霊は何かを求めている。誰かの亡霊は生きている手応えがほしいようだ。だが暗闇の中で踊るダンサーに誰が気を止めるだろう。なぜ亡霊が踊らなければならないのか。そんな話は嘘に決まっている。まだ亡霊は亡霊になりきれていないらしい。外では犬が犬を食べている。亡霊が眺める光景はどこか残酷に感じられる。いつか歌われた歌詞の内容を思い出そうとしているのか。見上げれば天井がぐるぐる回っていて、空飛ぶ円盤を見た話をしたくなる。文章の完璧さを追求していれば、いつかは何もない空虚を言葉で表現できるようになるだろうか。間違いだらけの文章のどこが完璧さを表しているのか。思い込みだけで何ができると思う。途中で折れ曲がってしまった意志が使い物になるわけがない。挫折感を糧にして復讐を果たそうとする感情は浅はかに思われる。それがどこかの漫画が喚起する感情でしかないか。亡霊を無視し続ける我々は何も学ばないだろう。悲惨な戦争を二度と繰り返したくないというのなら、悲惨ではない戦争を演出したくなってくる。それらを悲惨とは思わなければいいわけか。要は気の持ちようになってしまう。戦争だけが特別なことではないはずか。過去の失敗を教訓として、たとえそれが戦争であろうと、今度はうまくやろうとするわけだ。現にアフガニスタンやイラクでの戦争はうまくやっているつもりなのだから、それはそれで一つの成果なのかも知れない。味方の戦死者の数が過去のそれよりは極端に少なく抑えていること自体は成功といえるだろう。戦争を批判するマスメディアは失敗した面を選んで報道しているわけで、それを割り引いて考えるなら、やはり成功には違いない。メンツや誇りを捨てて実利を得る方向で動いていれば破局的な敗北を喫する事態には至らないだろう。それを言論によって突き崩すのは容易なことではなさそうだ。つけいる隙を見つけにくく、仮にそれを見つけたとしても、力がそこまで届かない場合がほとんどかも知れない。たぶんマスメディア上では誰が何を述べても無駄なのだ。しかもそれ以外はあり得ないのだからどうしようもない。だからそのような現状を教訓として、我々がそれとは別の道を模索しなければならないのは当然の帰結か。しかしなぜそれが不可能を求めることに行き着くのだろう。不可能を不可能とは思わないわけにはいかないか。ただ単にそうではないと思っているだけかも知れない。君は何ら戦争状態を特別視していないし、悲惨な状況だとも思わない。そのような現象の中に希望さえあると思っている。それが悲惨なら、ニュースショーで馬鹿な人間がくだらぬ説教をたれたり、同じ人間がスポーツネタで馬鹿騒ぎしているような状況も同じように悲惨だろう。そしてマスメディアからもたらされるそれらの情報を真に受けることぐらい悲惨な状況はあり得ない。そうやって我々は日々考える時間を失い続けているわけだ。できることならそうではないと思いたいが、その思いを捨て去ることはできないようだ。


3月6日

 今日も誰かが利いた風なことを語っている。本当にこの世界には永遠に残るものなど何もないか。確かに形あるものはいつかは崩れ去り、すべての生成物はいつかは灰燼に帰すだろう。そんなことはわかりきったことかも知れないが、今はどうしてもそれを認めたくない状況にあるらしい。ありふれた内容を物語るうちに風景を見失い、いつか見た光景を思い出せなくなる。何かを物語っているつもりの言葉には現実感が欠けている。現実には誰も何も物語っていないのかも知れない。物語から遠く隔たっている君はそれらの内容を知り得ない。なぜ遠く隔たっているといえるのか。少なくとも君がこれまで歩んできた紆余曲折だらけの迂回路は何かを物語っている。過ぎ去った日々をどうやって忘れられるだろう。二度と戻ってこないそのときの気持ちをどうやって再現するつもりなのか。表現を託しているつもりの言葉にはいつも裏切られる。たぶん君はわざと嘘をついている。それ以上何も知ろうとしない態度にはどのような偽りが潜んでいるのだろう。知り得ないことは他にもありそうだが、それらの偽りを取り除くことはできない。嘘とはどんな嘘なのか。見知らぬ場所で新鮮な思いになりたいわけか。今感じているそれらの現実感は希薄に思える。あり得ない事態を想定して何を語っているのか。たぶん何を求めているのでもない。ただ繰り出された言葉がつながらないような気がしている。半日後の日差しの下にそれとは違った思いがあるかも知れないが、時間的に分散してしまっている思いや言葉を一つにまとめることはできない。それらをまとめようとすれば当然嘘になるが、そんな嘘でも何も言わないよりはマシだろうか。嘘でもかまわないから何か主張しなければ気が済まないのか。何か形あるものを構成したい気持ちを払いのけることはできない。そうやって物語る言葉をねつ造して、その嘘に見合った風景を配し、偽りの光景を想像しながら構成するわけだが、そんなことを繰り返すうちに、次第にそれだけでは気が済まなくなってくる。他に誰か登場人物でも必要なのだろうか。しかし架空の君たちはそこで何を競い合っているのか。なぜ唐突に競い合うのだろう。いつの間にかゲームの中につなぎ止められているようだ。別に参加したくなければやめてもかまわない。くだらぬ遊びに全知全霊を傾けていなければ生きて行けないわけでもないだろう。それでも同じような者たちと群れていなければ気が休まらないのか。それはどんな気休めなのだろうか。気休め程度のことでは納得できないか。ではそれ以上に何を思えば納得するのか。納得したくて言葉を弄しているわけでもないか。君たちはただその辺で彷徨い続けたいだけなのかも知れない。しかし彷徨っているだけでは、これから体験する状況を前もって選ぶことなどできないか。たぶんそんな状況には耐えられないだろう。耐えられないから他の選択肢を空想するのであり、そして何を空想しているのか想像しているのかも知れない。それは他の誰にも知り得ないことか。想像力を使って知り得たつもりにはなれるだろう。それはつかの間の安心をもたらすと同時に心に隙を生じさせ、そんな油断をめがけて思いもしなかった事態が到来するわけだ。彷徨う思いはそのような事態によってさらに励起させられる。しかし驚きや感動を求めることばかりにかまけていると現実を見失う。知らず知らずのうちに妄想の虜となってしまう。君はそれでもかまわないのかも知れない。自らの妄想から導き出された言葉を弄してファンタジーでも構築したいのだろうか。たぶんそのようなファンタジーの中にかつて君がやりたかったことが隠されているのだろう。無意識のうちにその思いを言葉で表現したくなるのかも知れない。空虚の中に住まう意識はそんな行為の繰り返しから安らぎを得ようとしている。しかしそればかりではそれ以外の可能性を犠牲にしていることにならないか。それ以外とはどのような可能性なのだろう。他に何か有望な選択肢でもあって、現状ではそれに気づいていないわけか。では君たちはそれを見込んでこれから何をやるつもりなのか。


3月5日

 誰が生意気なことを述べているのでもないらしい。いったい君はこの世界の何を知っているというのだろうか。誰が空腹を耐えているでもない。まだ君たちは本当の貧困を知らぬ。ではメディアを通して伝わってくるあれらの状況は嘘の貧困だとでも言うのか。嘘ではないが本当でもないだろう。あれらの貧困は演出された貧困とでも言えば妥当な感じがする。貧困を演じる舞台がメディアによって設置されていて、その舞台上で貧しさが演じられているのだ。そしてその演技をあれやこれや批評するわけだ。だが誰が批評するわけでもなく、その役割を担っている人々はただの幻影にすぎない。どこからともなく幽霊のように登場して、それらの登場人物たちの様態によってこの世界の貧困が示される。たぶんこれ以上いくら述べても無駄だろう。君たちはそれを知らないようだが、それとは何かという問いがいつもながらの紋切り型を誘発する。それはどういうことだろう。最近は君の意志を感じることができないのだが、その代わりにどこかの誰かが黄昏時に意味不明を認識しているようだ。君はそれを利用して何を述べようとしているのか。たぶん誰かには何を述べるつもりもなさそうに見えるのだろう。また誰かが適当なことを述べようとしているだが、誰が何を述べようとしているのか不明だ。たぶんどこかで影が復活しようとしているようだが、相変わらず君はそこで何を述べようとしているのでもないらしい。今さら何を述べてみても嘘になるだろう。それでも影は、君がどこで何を述べようとしているかを知りたいようだ。影に限ってそんなはずはないか。知りたいのではなく、君が今直面している現状について何か述べたいのだ。しかしのその何かがわからない。たぶんそれは誰にも知りようのない何かなのかも知れず、そのわからないことを利用して、何もないのに何かとして存在しているように装っているだけなのかもしれない。要するに影も幻影の一種なのか。そんなことは以前からわかりきったことだろう。そんなわけもないと同時にそんなわけで君が何を述べても無効なのか。しかしそんなわけの理由が未だ述べられていないような気がする。そこには何か語る上での何か不備でもあるのだろうか。それがあるとしたらどうだというのか。誰かがその欠陥を告発すべきなのか。誰が告発しなければならないのかを知りたいのは誰だろう。その際に何か気の利いた台詞でも持ち合わせていた方がいいわけか。だが言葉には限界がある。限界がないのが限界を構成している。そんな台詞がいつ発せられるのか知らないが、たぶんそれは君たちには到底思いつかぬ台詞だろう。それはどこにも存在しない台詞だから、発せられるまでは知りようがないか。しかし依然として、未だ台詞が発せられる以前に、何を述べようとしているかを知りたいのはどうしたことだろう。何を知りたいのかを知りたいなどということはどだい不可能なことか。誰がそれを知ろうとしているのかは知らないが、これまでのところ君は知りたい内容について具体的には何も述べていないはずだが、それでも何か述べていると思い込んでいる。そこにはいつもの何もない空虚しか存在しないはずだが、物は考え方次第でどのようにも解釈可能であり、何も存在しないのに空虚が存在するはずがなく、それは禅問答か何かのバリエーションだろうか。何か過去の遺物でも持ち出して字数稼ぎでもやっているつもりなのか。それ以外に何をやろうとしているのだろうか。たぶん必死になって何かを思い出そうとしているのだろう。その何かを思い出せないから苦悩しているわけか。何も思い出せないときは、それを想像すれば事足りるだろうか。では何を想像したらいいのか。たぶん何も思い出せないし、何も想像できないだろう。自己の記憶力と想像力を否定してどうするのか。どうするわけもなく、その代わりに適当な言葉を連ねているだけか。継続とはそういうものなのか。そんなわけで意識はまだそれを続けようとしているらしい。


3月4日

 たぶん今日もこれといって何を述べようとしているわけでもないが、結果的には何か述べていることは確かなようだ。だが確かなことは何も言えない。実際にこれまでのところは何を言っているわけでもないらしい。まだそれらの思考が意味を伴った内容に至っていないのだろうか。そこで誰が何を求めているのか知らないが、どこかの誰かには求めていないものが手に入るかも知れない。多くの人は自らの死を求めている。それを知り得ない人がたくさんいる。知らず知らずのうちに死を求めている自らに気づかない。必死になって生きているつもりでいるわけだ。そういう人々は死にものぐるいで生きていることの意味を誤って解釈している。それらの死をおそれない勇気は最終的には自爆テロにでも行き着くだろうか。同じような心境の人は世の中に掃いて捨てるほどいるかも知れない。たとえば真剣になるとはそういうことだろうか。そうだとしたら、真剣な気持ちで物事に取り組むことのどこが誤っているのだろう。それ自体は別に誤りとはいえず、その取り組んでいる内容に時として誤りが潜んでいるということか。自爆テロを企てる者も真剣な気持ちでそれに取り組んでいることに変わりはない。また誤りであるどころか彼らにとってはそれが正しい行いなのだ。個々の人の判断でそれらの行為は正しかったり誤っていたりするわけだ。たぶんそのような水準で普遍的な価値判断を求めるのは無意味なことかも知れない。行為の正しさをひたすら追い求めること自体が独善主義に陥る危険性があるのか。また普遍的な判断基準を設定して、多くの人々がその基準を採用するように求めるのにも限界があるだろう。これさえやっておけばいい、というような万能のやり方を思い描くのにも無理がある。流動的な状況に合わせて絶えずやり方を修正していなければ、やがて立ち行かなくなることは目に見えている。物事の本質は表層の変化の中にある。この世界の本質は本質的でないということかも知れない。どうでもいいように思われる物事の中にどうでもいいような内容があり、しかしそれを無視していては状況を把握できない。取るに足りないと思われることは本当に取るに足りないことなのだが、しかし人々の意識はその取るに足りないことに支配されている。人々は些細な感情の行き違いから殺し合いを始めてしまう。あとから思えば馬鹿げたことのように思われるが、その渦中にいる間は馬鹿げたことに命がけで取り組んでいるわけだ。そのような行為が正気の沙汰でないと思われるのは野次馬特有の心境でしかないのかも知れない。狂人は自らの狂気を把握できずに本気で行動している。スポーツ・ニュースでも見れば、大の大人が棒切れの真ん中に球を当てることに死にものぐるいで取り組んでいる光景を目にすることだろう。そのような行為も大金が絡めば立派な仕事となってしまう現実は驚愕に値するだろうか。別に誰も驚きはしないし、それどころか棒切れに当たった球が遠くへ飛べば歓喜したりするわけだ。人々が日々行っていることや感じていることは、そういったことのバリエーションでしかない。それが当たり前のことのように思われる物事の本質は本質的でない。別にそれがあってもなくてもかまわないようなことにこだわりざるを得ない宿命の中に人々は生きている。たぶんそれ以外には何もないのだ。何もないのに何かがあると思い込むことで人は自らの文明の存在を意識することができる。たぶん人以外の誰かからすれば、この地上では毛の抜けた裸の猿が布切れをつけて何やら適当にうごめいているだけにすぎないのかも知れない。人間に対する見方のバリエーションとしてはそのような視点もあり得るだろうか。だが人以外の誰かとは誰のことなのか。それは君に決まっているだろう。そういうわけで君はあり得ない存在となってしまうわけか。ところで君がすでに手に入れているものは何だろう。それはいつもの空虚か何かの類だろうか。手に入れようとして入るようなものを求めているわけではないらしいが、それがまるで不可能だとは思わない。何も求めていないわけではないのだろうが、結果として君にも求めていないものが手に入ってしまうだろう。それが君の死でないとすると何なのか。人でない君が人のように死ぬことはあり得ないというわけか。


3月3日

 どう考えても不具合が生じているはずなのだが、それでもそれでまかり通ってしまうわけか。なぜそんな成り行きになってしまうのだろうか。しかしそれは恐ろしくも普通の展開なのかも知れない。互いに相容れない立場をどうすることもできないのに、そこから何とかうまくやっていこうとする。この世の中にその程度の矛盾などいくらでもあるか。たぶんどこかで勘違いが働いているのだろうが、そんな勘違いなどいくらでも無視できるし、勘違いをそのままにしておける状況などいくらでもあるだろう。それを改める機会など永遠に巡ってこない場合がほとんどかも知れない。そんな行き詰まりをそのままにして月日が経ち、いつの間にかそんなことはどうでもいいことになってしまう。本当はどうでもよくはないのに、どうでもいいと思い込もうとして、それに異議を唱える人などいるはずもない。どうやら行き詰まりの向こう側には、もう一つの行き詰まりがありそうだが、仮にあったとしてもそれも放置されたまま、ただ歳月を経るだけなのかも知れない。そんなどうしようもない現実のただ中で、心は陽気な気分に包まれている一方で、いつまで経っても何もやろうとしない。そのような雰囲気の中に自足してしまっていて、それ以上いくら言葉を弄してみても焼け石に水のように感じられ、実際に何ももたらされずに、ただ空疎な文章が次から次へと繰り出されるばかりのようだ。そうした状況の中でも、君は相変わらず何を思っているのでも考えているのでもなさそうに振る舞う。君の代わりにどこかの誰かが何かいい加減なことを考えているような気がして、その誰かは君とは無関係な見ず知らずの別人かも知れないが、別にそれを君が考えていることにしても何の不都合もないように思われる。たぶん誰が何を考えようとどうなるものでもなさそうだし、それらの状況はなるようにしかならないだろう。しかし君は見ず知らずの人々に何を期待しているのだろう。それらの人々を利用して何か利益を得たいわけか。そしてそんな毎度おなじみの展開に気晴らしや救いを求めているわけなのか。しかし気晴らしや救いが何の利益になるのだろう。気晴らしや救いに比べれば利益などどうでもいいことか。では君はいつでも無益な行為に命がけなわけか。それは行為ではなく思いや感じでしかないし、別に命がけで思ったり感じたりはしないだろう。平和な地域や時代には命をかけるほどの行為は必要ない。そんな時代や場所でやる命がけは勘違いである場合がほとんどだろう。それは何らかのフィクションにはまっている者にあり得る現象かも知れない。何か命をかけて守らなければならない大義があると勘違いしている。それは狂気の沙汰では済まされぬ勘違いかも知れない。現にそれらの勘違いで多数の人々が死んでいる状況にあるのかも知れず、その勘違いに対抗して別の勘違いも蔓延っている。たぶんそれらの勘違いに身を捧げている人々にとっては、そこに人道主義的なきれい事をはね除けるリアリティを感じているのかも知れない。しかしそんなことは君にとってはどうでもいいことにすぎないか。それは君とは無関係な人々が無関係な地域でやっていることにすぎないのであり、もちろん本当はそうではないのかも知れず、何からの形で君もどこかでそれらの現象に関係しながら生きているのかも知れないが、そんなことをいちいち気にとめているほど暇ではないらしい。君は君以外の人々に君にはない人格を求めている一方で、君以外の人々にはまともな人格が皆無だと思っている。そしてそんな矛盾を語って悦に入る。もちろんそれと同時にその程度ではだめだとも思っている。いつもの無い物ねだりには飽き飽きしている。たぶんそれは何かの冗談だろう。冗談でないのならそれ以外の何かだ。つまらぬ身の上話には飽き飽きしているはずか。自己満足に浸るための自慢話にも辟易している。重大な事実などどこにも隠れていないだろう。そこにはあるがままの現実しかない。それ以外に何を妄想してもかまわないが、それらの妄想には限りがないだろう。想像と実感の間にどのような関連があるだろうか。君は実感をもとにして何を想像しているのだろう。たぶん実感としては何も想像していないし、何を述べているのかわからない。積極的には何も述べようとしてないのかも知れない。


3月2日

 つまらないことならいくらでもあるだろうか。何を見ているわけでもないのに何かを見てしまうこともあるようだ。実際に君が何を見ているのか知らないが、どうもドラマチックな展開とは行かないようだ。なぜそれらの物語には見せ場が必要なのか。見ている者の気を引かなければならないから、クライマックスという大げさな見せ場を設けなければいけなくなるのか。そんなわけで時代劇にはチャンバラ・シーンがつきものとなる。それはまるでとってつけたような展開だ。そんなものなどなくてもかまわないと思うが、そういうお約束の場面がないとお茶の間の人々は納得しないだろうか。そういう人々にとってはそれがなければ時代劇とはいえないのかも知れない。たとえば始めから終わりまでチャンバラ・シーンが一度も出てこない江戸時代のドラマがあったら、それは画期的なことだろうか。コメディ以外では誰もそんなものなど見る気はしないか。とりあえずその手のドラマには刀による斬り合いなどの暴力シーンが欠かせない。たとえば浮世絵師でも主人公に据えればチャンバラなしでも話になるか。しかしそうなると何やら芸術に関する紋切り型の見解が出現してしまったりして、別に意味でウケねらい気味の内容になってしまうかも知れない。伝説の浮世絵師に関する驚異的なエピソードを大げさに披露することによって人々の興味を惹こうとするわけか。あるいは謎の浮世絵師の足跡を探偵的にたどりながらミステリー仕立てにまとめるわけか。そんな内容がこれまで何度も繰り返されてきたような気がする。江戸時代以外では、たとえば平安時代の貴族の生活を恋愛ドラマ風にアレンジして見せたりするパターンもあったはずだ。そんな風に現代人の思惑を過去の時代に反映させようとする試みはどこなく浅はかに感じられる。何となく過去を利用して、現代に横たわっている不都合な事象を避けて通ろうとしているような気がしてならない。それは多くの人々が日々体験しつつある、物語の題材とは決してなり得ない、何でもない日常の日々だろうか。たとえばそれは、朝早く起きて会社に向かい、昼は仕事に明け暮れ、仕事が終われば帰宅して、何も考えずに夕方から深夜にかけて何時間もテレビを見続けている実態であったりするか。ただそれを延々と繰り返しているドラマなどあり得ないか。実際の現代劇ではどうだろうか。たとえば争いごとをスマートに見せるためには法廷シーンが欠かせないか。裁判沙汰を利用して知性的なことをやっているように見せかけるわけか。正義派の弁護士が登場すれば一応は格好がつくだろうか。大学病院のエリート医師と正義派弁護士が医療事故を巡って法廷で対決するわけか。何やら最近流行っているテレビドラマのような話になってきた。やはりそんな話も最終的にはウケねらいということか。しかし君は皮肉以外に何も述べることができないのか。それのどこか皮肉なのか。それでは何か不都合なことでもあるのか。そういう安易さが気に入らないわけか。そしてできれば内容をもう少し高尚なものに近づけたいわけか。誰が高尚さを期待しているのかわからないし、何を述べても現実感が希薄だ。リアリズムとはいったい何だろう。リアリティのない話がリアリズムを標榜しているのかも知れない。そんな物語がもてはやされる世の中なのか。別にもてはやされているわけでもないだろう。それらのほとんどは大した話ではないのかも知れない。そして誰もそれ以上を求める必要はない。気晴らしの娯楽にそれ以上の何を期待しているのか。しかし君は何を馬鹿にしているのか。馬鹿にされる側の君が何を述べようと説得力も持たないだろう。しかし誰がそんな自己卑下を真に受けるのか。話の内容のすべてが嘘くさく感じられる。しかしなぜそんな風に感じられるのかわからない。とりあえず内容がおもしろくないのなら仕方がないだろう。ならばそのわけのわからないこだわりは捨てて、その程度で納得していればいいだろう。いつまでもあり得ない話を空想しているわけにはいかない。現にある話には全面的ではないにしても、少しは興味を惹かれる部分もあるはずか。しかし依然として、何を見てそんなことを述べているのかわからないままか。別にわからなくてもいいだろう。


3月1日

 もしかしたら昔からこうだったのかも知れない。ただ、それらの対象についてどう感じるか、その感じ方が歳月の経過とともに変わってきたのだろうか。本当にすべてがどうでもいいことなのだろうか。答えはすでに出ている。それを否定することはできない。見たまま感じたままに語ることはできない。それとこれとは違う動作になる。すでに出ている答えとは違う答えを導き出そうとしているのか。一つの対象から複数の答えを導き出すことができるか。それは一つの対象とは限らない。複数の対象が複雑に絡み合っている状態から、様々な答えが導き出される。それらに対する見方や感じ方は無数にある。しかしそんな見解では何もわからない。無秩序な多様性の存在を肯定しているだけか。本当は答えなど何も持ち合わせていないようだ。そんなものには興味さえないか。それによって何が達成されるわけでもない。何を悲観しているわけでもないが、冷めた態度が日増しに強くなってくる。将来は将来で適当な未来がやってくるだろう。つまらぬ感情がその時々に生じることだろう。しかしそれらが積み重なることはなく、適当に流れ去り、また適当に溜まってしまったりするのだろう。そこからさらに適当な進展があったりする。だがそれだけではどうなるわけでもない。何かが欠けていると同時に過剰なのか。普通に思われることが普通に起こり、それ以外のことにはそれ以外の感慨を抱くだけか。それらの思いに特別な意味はない。たぶん普通であったりなかったりするだけであり、それ以外は何も導き出せないだろう。同じような言葉がいつまでも連なり、無感動と無感覚がもたらされる。そう思いたくなければ思わなければいい。もしかしたらそれとは違った結果に導かれるかも知れないが、君の関知するところではない。そんな思いを超えてどこまでもそれらの言葉は連なるだろう。浅はかな思いは浅はかな世界を映し出す。たぶん世の中には浅はかでない世界もあるのだろう。つまらない水準にとどまりたければそうすればいい。それでいいのならそれでかまわないし、それ以外を求めたければ求めてみるがいい。何をどうやろうとそれなりの結果を見いだせるだろう。語気を荒げて批判する人は、物足りない気分に耐えられない。もっと何かすごい出来事を期待しているのだろう。それに遭遇できないうちは批判する姿勢を改められないのかも知れない。ならば気が済むまで批判を繰り返せばいいだろう。いずれは分かり合える瞬間に巡り会えるだろう。その際誰と誰が分かり合えるかは、そのときが来てみないことにはわからない。気まぐれな偶然が適当に作用して、思いがけない人々に和解の機会が訪れる。そしてつかの間の春を謳歌した後は神のみぞ知るか。案外神も知り得ないような展開が待ち受けていたりするだろうか。たとえそうなったとしても、適当に驚いていれば時が過ぎ去って、心地よい忘却作用を味わえるかも知れない。それは相互理解の外に普通の世界が広がっていることを示している。似たような物語は本に閉じられて本棚へ仕舞われるだけか。それらのバリエーションはいくらでも可能なのであり、それらが現実を凌駕することはあり得ない。そんな風に思われるのは、たぶん日々それらの物語を繰り出しているそれらのメディアからの影響なのかも知れない。なぜ彼らは現実に後れをとり、現実に敗れ続けるのか。未来を先取りしたつもりで過去を提示する。未来でさえ現実には過去の遺物を反映した空想でしかないのはどうしたことなのか。なぜそこには超えられない限界が立ちふさがっているのだろうか。なぜそんな現状を受け入れられないのか。君たちが追い求めている理想は、理想からは程遠い欠陥だらけの物語だ。そしてそれらの欠陥によって君たちは夢を抱くことができる。欠陥がなければ何も思う必要はないだろう。何かを思っていること自体が、その思っているものをまだ得られていないことを示している。お互いに分かり合えていないから分かり合おうとしているわけで、永遠に分かり合えないからいつまでも分かり合おうとしているわけだ。それらの思いは思いを遂げられない間だけ意識の内に存在し続け、思い遂げたりそれをあきらめたとたんに忘れ去られるだろう。そんなわけですべての思いは最終的には忘却をもたらすわけか。そうは思わないのならそれでもかまわないか。


2月29日

 やらなければならないという君からの脅しに屈して何か述べてるらしいが、何を述べているのか君自身にはわからないようだ。確かにまるでやる気が起こらないのに何か述べている。たぶんさっきから無内容に陥っているのかも知れない。そんな状態では何についてどのように語ろうと、その内容は変わらないだろう。要するに内容がないということなのか。矛盾しているのはいつものことだが、行き詰まりを感じながらも、なぜか偶然にそれを見つけ出す。それとは何だろう。それはそれでしかないか。だがそれについて急いで書くと間違えるから、仮に書き上げることができたとしても、その達成感に浸っている余裕はない。意識は別に急いでいるわけではないようだが、後で読み返して誤りが判明した箇所には修正を加えつつ、さらにおかしな表現がないか読み返している。たぶん君は意味の通らないことを述べている。退屈にまかせてわざと間違えているのかも知れないが、それが意図的に繰り返される理由は何だろう。そんなことの繰り返しの中から何がわかるのか。とりあえず誤りがわかるだろう。では誤りに気づいたときに君は何を思うのだろう。ただ単純にしまったと思うだけか。そして思い通りに行かぬ状況に苛立つわけか。何かをやろうとすれば必ず妨害が入り、そんなことの繰り返しによって、さらに被害妄想が強まる。確かに思い通りには行かないのはいつものことであって、もうそんな状況にも慣れてしまっているわけだが、やはりそれが積み重なるにつれてストレスがたまってくるように感じられるのだろう。ちりも積もれば山となるわけもないが、その内実は産廃の不法投棄現場のような様相を呈しているかも知れない。中途半端な挫折によってうち捨てられたゴミがたまりすぎている。そしてさらに憂鬱な気分が増してくる。たぶんそんな精神状態で立ち直りは期待できないだろう。このままではそこから先はあり得ない。そこで何もかもがお終いなのかも知れない。何がお終いなのかわからないが、お終いのただ中で何もお終いではないと思いたいの当然のことか。何かをあきらめきれずにいるのは万人に共通した思いだろうか。なぜそう思うのか。そう思う根拠がどこにあるのだろう。根拠などいくらでもねつ造できるかも知れないが、それが説得力を持つかどうかは疑わしい。ではどうすればいいのだろう。まさかここで、まだ始まったばかりではないか、と強がってみせるのもわざとらしい。そんなことを述べているうちは、確かにまだ何も始まっていないのかも知れないが、そうやって絶えず始まりの機会を逃し続け、次第に何をやっているのかわからなくなる。要するに言葉を弄してあきらめの思いを紛らそうとしているだけなのか。そんなごまかしがいつまでも通用すると思っているのか。別に通用するとは思っていないが、通用しないままでもかまわないし、それ以前に通用させる対象自体が不明のままだ。そうやってやる気はいつも不完全燃焼に終わってしまうように思われるが、次の瞬間にはやる気などもとからありはしなかったことに気づき、思うことと気づいたことに隔たりを感じている。それはどういうことなのか。どういうことでもなくそういうことなのだろうか。しかしそんなやり方で信念を貫き通せると思っているわけか。それはどのような信念なのか。何を疑っているのだろう。たとえば疑い続けることが君の信念だとするなら満足できるだろうか。どこの誰が満足するのか。別に何もかもが信じられないわけではないが、とりあえず何かを信じる心を疑っていることは確かなようだ。そしてわかりやすい言説を信じられない。そんなことがわかるはずがないと思い続けていたいらしい。それはモラトリアム的な態度だろうか。そうであってもかまわないのだろうか。しかしそれだけでは面倒なので、気分次第でそんな思いなど適当に裏切って、たまにはわかりやさを追求したいときもある。要するにそんなことはどうでもいいのか。しかしそれではやはり同じようなことの繰り返しになってしまうのか。飽き飽きしながらも繰り返されるそれらの言葉には一定のパターンがあるらしい。物事にはあきらめが肝心なときもあるようだが、それをわかろうとしない場合はどうやってあきらめることができるだろうか。あきらめきれないのにあきらめる方法などあるはずもない。君は今不可能について語っているわけか。そんな大げさなことではなく、ただあきらめきれない未練がましさを言葉で表現しているだけか。しかしそれでも少しずつ態度を変えて行かなければならない。今までにわかっていることを整理して、少しは意味のある文章にまとめていかなければならない。だがたぶんそれはでまかせに違いない。


2月28日

 当たり前のこととはどんなことだろう。今日も地球の重力に引っ張られながら誰もが地上に立ちつくしている。寝たきりの人も寝たまま地球の中心方向に引っ張られていることだろう。しかしそれがどうしたというのだろう。君はまだそんなことにこだわっているのか。こだわっているのではなく、こだわりを見いだせないから重力の話になってしまうのかも知れない。この世界には重力以外にどんな力が働いているのだろう。今さらもったいぶって権力の話でもするつもりだったのか。思考力の減退に伴って笑い話の方に比重が傾きつつあるようだが、君には何が笑い話なのかわからない。笑えない話にもならない水準でそれらはいい加減に推移しているだけか。何事も焦りは禁物かも知れないが、これが焦らずにいられようか。なぜか焦っているさなかに、唐突に場違いな台詞を思い出す。この期に及んで何か言い残すことはないか。死刑執行の当日にそんなことをいわれたら麻原尊師はどうするだろうか。何となくその場で笑い転げるような気がする。どうせ被害者に対してどんなに謝罪しても死刑にされてしまうのだから、謝っても仕方がないし謝り損だろう。きっと金正日同志も日本のニュースショーでも見ながら笑い転げていることだろう。おおっ!ぼくちゃんの顔が出ない日はないじゃないか。誰かが電車の中で新聞の競艇欄を血走った目つきで熱心に読んでいる。今日のレースで誰が勝つのか、賭ける対象を真剣に検討しているのかも知れないが、そんな光景を横目で見ながら、英国の競馬場は日本のそれとは違い、着飾った紳士淑女が語らう社交の場だとかいう識者の話を思い出す。要するにきれい事でしかない。たぶんそれらの紳士淑女はくだらぬ演技でもしているのだろう。ままごと遊びと同じように競馬場ごっこをやっているわけか。もちろんそう述べてしまうのは大きな間違いであり、建前としてはきれい事で包まないと、賭け事は庶民の娯楽として成り立たないのかも知れない。たぶん日本のギャンブラーの大半は遊びの範囲を逸脱して賭け事にのめり込みすぎている。まじめすぎて遊びと仕事の区別がつかなくなってしまうようだ。たぶんまじめで真剣な人ほどのめり込み、結果として自己破産に近づくのかも知れない。しかしそれがどうしたのか。他人がどうなろうとその人の勝手ではないのか。誰が何を語っているのでもなく、何かを語ろうとしている誰かが進むべき道はどこかで途切れ、その先へ向かおうとする思いはそこで断ち切られる。面倒なのでそんな思いはそこで忘れてしまいたくなる。その気持ちもわからないではない。誰が何を表現しようとしているのかわからない。しかしそこで自暴自棄になってはまずいか。何もできずに焦って過ちを犯す人は多い。だがたとえそれが過ちであってもかまわないか。何もしないよりは積極的に過ちを犯し続けている方が気晴らしにはなるだろうか。いつの間にか風はやんでいるらしく、あたりは静寂に包まれている。時折近くの国道を通り過ぎる車の音以外は何も聞こえてこない。そして今はそれから数日が経過しているが、やはり相変わらず何を述べているのでもなさそうだ。とりあえず言葉を弄しているらしいが、一向に話の中身が見えてこない。そうは思えないか。何を思っているのでもなく、思ってもいないことを述べようとしているのだ。そんなわけはないか。そんなわけがあるとしたらどうだというのか。たぶんいつかの君はすでにそんなことを述べていた。ただ単にそういうことでしかない。要するに何を述べようとしているわけでもない。言葉につまって途方に暮れている振りをしているだけなのか。途方に暮れながら日が暮れて、いつか見たそれらの光景はすべての思いから遠ざかる。蛍光灯か発せられた光は水面で屈折して、それを見ている者の屈折した思いとは無関係に、途中の熱帯魚に反射しながら水槽の底に到達する。なりふり構わず装ってみせる見せかけの強がりが外見のみすぼらしさを誘う。嘘を述べるならファッションセンスがいまいちのようだ。誰かのファッションはスーツにジーンズを組み合わせているそうだ。似合っていないのか外見そのものがファッションとは無縁なのか知らないが、そんなわけでまだ戯れ言から遠ざかっていないようだ。偽りの思いでは誰かの真心には到達できないのだろうか。だがもし到達できたらどうだというのか。どうもしないとしたら他に何をやればいいのだろう。


2月27日

 夜の暗闇の中で強風にあおられて誰かが立ちすくんでいるようだが、体が飛ばされるほどの強風でもないらしい。動けないのはそれが誰かの銅像だからか。たぶん銅像は動けないから酸性雨によって少しずつ溶けて行くだろう。生身の人間なら酸性雨を浴びれば禿げるところか。別に放射線ではないのだからそれほどのことはないか。禿げる要因は別のところにあり、通常なら雨に濡れて風邪を引く程度か。しかしそんなことはどうでもいいことか。人によっては深刻な問題かも知れないが、それは少なくとも酸性雨に比べればどうでもいい個人的な問題に属することか。現に酸性雨について論じている人は禿げていて、自らの禿頭より酸性雨の方が重要な問題であるような口ぶりだ。しかしやはりそれがどうしたわけでもない。ただ単に眠いのだ。酸性雨も頭髪の後退も眠気には勝てそうにない。では銅像はそれとどう関連しているのか。有名なロダンの考える人ではなく、生身の眠る人の方に興味があるわけか。君はカミーユ・クローデルの彫刻に感動できるだろうか。確か彼女の兄か弟のクローデルは外交官で劇作家であったかも知れない。しかしそれもやはりどうでもいい挿話になってしまうか。確かに暗闇の世界ではそんなことはどうでもいいことだ。光がなければ何も見えないが、闇がなければ光を感じることはできない。彫刻にも時代によって流行の形態があるらしく、それらの流行を考慮しなければならず、ずぶの素人が何の先入観もなくそれだけを見ただけでは何もわからないようだ。しかしカミーユの不幸な人生がなければそれらの作品は成立しないのだろうか。それでは彫刻の普遍性を導き出せないのではないか。別に彫刻に普遍性を見いだしたい人はいないか。だが作者の個人的な事情が作品に反映しているように思いこめば、それで感動したことになるのだろうか。たぶん多くの人々はそれで感動しているつもりなのかもしれない。しかしそれ以外に何があるというのか。またもや以前に何度も繰り返されたような台詞に出くわしている。それ以外に何かがなければいけないのだろうか。その何かとは、やはり普遍性とかいう抽象的な概念のことか。その普遍性とは何だろう。どのようにしたら普遍性を感じることができるのか。それは何らかの技巧的な要素だろうか。たとえばその作品がうまく作られていると感じることが普遍性につながるのだろうか。あるいはそれを美しいと感じることが普遍性そのものであったりするだろうか。そんな簡単な感じ方では作品の普遍性を唱える識者気取りは納得しないか。何となくそれなりの格調高い言葉で表現しなければ普遍性には到達できないか。しかしその作品についていくら多言を要しようと、彫刻は彫刻でしかなく、別にそれが賞賛の言葉の塊であるはずがない。なぜ単なる見るという行為に複雑怪奇な言語表現を当てはめなければならないのか。作品そのものではなく、作品の解説を読んで感動してどうするのだろう。すべての作品に先んじてそれに対する評論が優先されるのだろうか。確かに評論の中で見受けられる小難しい内容を理解したつもりになれば、多少なりとも優越感に浸れるかも知れないが、知識人ぶってそれの受け売りをするような人は恥ずかしく見える。しかし受け売り以外に評論の有効な活用法があるだろうか。もしかしてそれは活用してはいけない文章なのかも知れない。活用しようとすればとたんにパクリとなり、評論家に対して負い目を感じるようになってしまうか。卑屈な感情が頭をもたげてくる。何となく知識人もどきでそんな人を多く見かけるように思われるが、そんなお里が知れるような人ほど自己顕示欲が強いのかも知れない。しかし肝心の普遍性はどこへ行ったのだろう。やはりいくら多言を弄しても普遍性にはたどり着きそうにないが、案外すでにそれらの普遍性からかけ離れた言説の中に答えは出ているのかも知れない。それとは気づかずに普遍性を通り過ぎてしまい、その代わりに評論に関する下世話な現実をあげつらって、その手のメディアが繰り出す紋切り型をなぞっているだけか。やはりその辺が限界を形作っているのかも知れないが、それもこの際どうでもいいことになるか。それらの限界を利用して何か適当なことを述べることができたわけだから、それではそれでその程度の結果が導き出されたにすぎないことか。


2月26日

 気に入らないことを探しているの誰だろう。おもろくないことは他にもあるのだろうか。何がおもしろくないわけではなさそうだが、焦点の定まらぬ目つきを鏡が映している。相変わらず風が強い。だがうつろな思いが風に飛ばされてどこかへ飛んでいってしまうわけもないか。たぶんこの世はそんな調子で続いてゆくのだろうが、そんな調子の内容を思いつかぬままに、そんな雰囲気をやり過ごしている。いつものように何を述べているのでもなさそうだ。やっと機会が巡ってきたというのに、そんな調子ではどうにもならないだろう。それでも適当に作業をやり続けているらしい。やむことのない何かの流れは意識をどこかへ運び去るだけか。だがどこまで行ってもどこにも行き着かぬそれらの流れに、今さら逆らうつもりはない。救急車のサイレンの音が近づいてくるが、それがつかの間の気晴らしにでもなるだろうか。だがそれはさっきまでの状況で、今はそれも聞こえなくなり、相変わらず風が強い。低気圧でも近づいているのだろう。寒冷前線が通り過ぎたら少しは寒くなるだろうか。寒くなったところでどうなるわけでもなく、空虚に包まれた心に何をもたらすわけもないか。しかし空虚でさえ心をどうすることもできはしないだろう。もうなれてしまったらしく、何も感じないことに自足してしまっているらしい。それでは空虚に包まれている意味がないだろう。もっと執拗にとりついて意識を苦しめなければならないのに、何となくそれらの作用には拍子抜けしてしまった感がある。この居心地の良さはどうしたことだろう。不快な感情はどこかへ消え去ってしまったのか。それではおもしろくないか。どうにもならない不快さのただ中でもがき苦しんでいなければ君らしくないか。たぶんそれは嘘かも知れない。そんな嘘が今までのフィクションを構成してきたのだろう。本当は感情などもとからなかったのかも知れない。感情ではなく、適当な感情を構成しようとする思考が存在していた。もちろんそんな思考も虚構に含まれる。もとからあったものなど何もなく、そこにはただの空虚があっただけか。何かがあったわけではなく、何もなかったのだ。何もないことがあったわけではない。そうやってだんだん言葉を込み入らせるのが君のやり方か。だがそれでも何か述べているわけではない。それらの状態を言葉で表現することに無理があるのか。その辺に思考と表現とやり方に限界を感じる。しかしそれでもそこから先へ進んでみよう。先へ進む理由は何もないと同時に、何かあるかも知れないが、それを明かすわけにはいかないらしい。理由などどうでもいいと同時に、それを述べてしまうのはつまらない。君は原点を見失っていると同時に、そこへ立ち戻ることを拒否している。そこからの影響を避けながらも無視できない愚かさをどうすることもできない。馬鹿げた人々が馬鹿げたことを述べている状況をどうすることもできはしない。ただそれらの言説を批判するにも疲れてきたのか。誰もが相変わらずを望んでいる状況には、どうにもできない救いようのなさがあると思われるが、その相変わらずが彼らにとっては唯一の救いなのだから、その前では無力以外ではあり得ないだろう。何しろそれらを批判する側がそれに依存していなければ生きて行けないのだから、批判自体が無効であるどころか、批判している当のものの延命に力を貸しているどうしようもない現状を、批判によってどう変えられるというのか。そんな今の時代に飽きもせず同じような批判を繰り返す者自身が、逆に批判されるべき対象なのではないだろうか。しかしこの期に及んでそんなことをいくら述べても無効だ。状況は何も変わらないし、それでも変わる可能性があるとすれば、それとはまったく無関係なところから変わって行くような気がしている。だが気がしていること自体がすでに勘違いなのかも知れず、現実に変化のただ中に生きているのに、それに気づかないだけなのかも知れない。毎度おなじみの批判勢力はもはや何の力も持ち得なくなっていて、批判対象自体が希薄化の一途をたどっているのかも知れない。やがてそんなものはどうでもよくなってしまう時代がやってくるだろうか。そうなってしまうまでどれほどの歳月を要するのだろう。はたして君が生きているうちにこの世界がそんな風になってしまうのだろうか。たぶんそれを見極めるためだけでもまだ生きている価値はありそうか。


2月25日

 夜の庭を見渡すと窓明かりに照らされて猫の目が光っている。春が近いのかも知れない。暖房ももうすぐ必要なくなるだろう。しかし何もない。相変わらず苦し紛れの言い回しには余裕が感じられない。いつまでも笑っていると目尻のしわが深くなる。年をとるとおもしろくもないのに笑う習慣が身に付くようだ。身に覚えのある人は不快感をあらわにするだろうか。観察はどのような方向にも働くらしい。だが他愛のないこだわりが勝手な方向にねじ曲げる。流行現象に合わせようとする強迫観念がつまらぬ嗜好を招き寄せる。それではいつものパターンの繰り返しではないか。勇み足を犯さないうちに進むべき方向を修正しておこう。そんなことはどうでもいいことだろう。しかしそれを行わなければ先へ進めないのでやりざるを得ない。そうやって無理を承知でいつものやり方を貫こうとしているが、たとえそれを成し遂げたとしても、大した結果は期待できないことも知っているはずだ。それでもそのような作業にこだわっているのはなぜだろう。またもやそんな疑問で間を持たせようとしているのか。だが困ったときの奥の手は封印しているつもりだ。奥の手などあるわけがないだろう。あったとしたらとっくの昔に使っているはずか。たぶん書物を読まなければならない。映像を見ているだけでは何も残らない。それらの印象は瞬く間に忘れ去られ、その場限りが絶え間なく繰り出されているだけか。その一方でそれとは無縁の日常が果てしなく続いてゆく。たぶんそれらの日々が創造力を奪っている。それは何かの言い訳であり負け惜しみに違いない。愚痴を述べたければ他でやってほしいか。そんなたわごとは無視して先へ進んでみよう。その先があったらの話だが。人それぞれでやっていることが違うから、他のやり方ぐらいいくらでもありそうなものだが、それらのほとんどには魅力がないし興味を惹かないのは、行為者が視野狭窄に陥っている証拠か。他人の心配をしている場合ではないか。それは他人ではなく、他人でさえない何者にもなり得ない意識以前のぼやけた雰囲気だろうか。それはおかしな言い回しだ。どうやら言葉が表現形態になり損ねているようだ。南から吹きつけるなま暖かい風とともにいい加減な言葉遣いを押し通す。それでその場を切り抜けることができればしめたものか。しめたと思ったらそれ以降はそればかりになってしまうのだろうか。いつか手痛いしっぺ返しを食らうかも知れない。だから同じようなやり方をいつまでもやっているわけにはいかないわけか。しかしその理由がどこに示されているのだろうか。たぶんそんなやり方でも、時と場合によっては有効であったりするのかも知れない。中には伝統工芸として確立されて、人間国宝になったりする人もいる。だがそれはひとにぎりの世間的な成功例にすぎないだろう。だいいちそんなやり方で成功してしまうこと自体が、近い将来に待ち受けている滅亡の要因を形作っている。他の誰も受け継ぐことの不可能なレベルまで高められた職人芸的なものはそこでお終いなのだ。その時点で袋小路にはまっている。隙だらけでは散漫な印象しかもたらさないが、ある程度は未完成な部分がなければそれ以上の発展は望めないだろう。しかしそれはどういうことなのか。雑なことを述べるための口実なのか。何となく抽象的なことを述べているような気もするが、たまに利いた風な意見になってしまうことが君の弱点なのかも知れない。そんなわけでそこから先へはなかなか進むことができないらしく、いつまで経ってもその程度の言説で我慢しなければならない状況のただ中にいるようだ。何を述べようとしているのか定かでなく、話の方向も絶えず変更せざるを得ない状況に陥っている。だがその一方で方向などどうでもいいと思っていたりするので、要するにあまりまともなことは語りたくないようだ。誰がそんなことを思っているのかさえ定かでない。その場の思いつきは単なる気まぐれなのであり、本当のところは誰の思いでもないのかも知れない。誰もそんなことは思っていないのと同時に、誰もがそう思う可能性は誰に向かっても開かれている。しかしそれは毒にも薬にもならないどうでもいいような代物である可能性が高いか。それでも何もないよりはいくらかマシだろうか。それともただの余分な戯れ言でしかないか。


2月24日

 よくわからないのだが、いったい何がわからないのかわからない。君は何を笑っているのか。笑っているのではなく、笑えない状況に陥ってしまったことを嘆いているわけか。そんなわけもないだろう。笑っている現実と笑えない状況とはだいぶ事情が異なるようだが、世の中には笑えないおかしさというものがあるだろうか。どこかの誰かはそれを知っているかも知れないが、今となってはそのとき何がおかしかったのか思い出せないだろう。たぶん君が思い出そうとしていたのは、それとは違った状況かも知れない。要するにそんなことはどうでもいいことか。現にそのとき何かを思い出していたはずだが、なぜか未だにそれを言葉で表現する気がないようだ。君はその代わりに実体験からはかけ離れた空想を物語るだろう。現実の世の中をなめているのだろうか。容易には思い通りに行かない世界がおもしろくないようだ。しかし思い通りの世界を空想するのも容易くはないか。空想の中の何が思い通りなのかよくわからない。たぶん現実から背を向けて空想してしまうこと自体が、思い通りには行かない現実を物語っているのかもしれない。要するに君は空想が現実のものとなってほしいが、一向にそうならない現状を嘆いているわけか。それはいつもの無い物ねだりであって、何かを空想してしまった時点で現状に敗北を喫しているのかも知れない。心ならずも敗北感を抱いてしまうことが許せないのだろうか。なぜ君はそれを敗北だと決めつけるのか。君が決めつけているのではなく、言葉のつながりを保つためには、そんな表現の方が自然に思われるだけか。君にはそれは不自然なつながりに思えるのか。誰がそう思えるのかわからないが、そんなよくわからない理由で、君の意志に反する文章が君の手によってできあがりつつあるようだ。それは思わしくない結果そのものだろうか。思わしくない結果を招いたことが即敗北を示しているということか。では何かを物語る者は最初からそれらの現実に負けているわけか。現実に負けたから空想の世界に逃げ込んでいるわけか。空想すること以外に何もできないから、空想から導き出されたありもしない話で自己正当化しなければならず、やはり自らの正当性を主張するためには、不特定多数の人々に向かってその内容を報告しなければならなくなるのか。しかし報告する対象ならありもしないことではなくてもかまわないのではないか。現実に見聞きしたことを報告すれば空想する手間を省けるだろうか。しかしそれでは安易なジャーナリズムと同じになってしまうか。手間を省いて何を期待できるだろうか。その手の人々は手間を省いてリアリズムを手に入れたいらしい。そしてそのような手法が世のため人のためになっていると思い込み、それらの情報を受け取る人々が安眠できるように微力ながら手助けしているつもりになるわけか。できれば安眠したままついでに永眠してほしいか。放っておいてもいつかは永眠する機会が巡ってくるだろう。だがそれがジャーナリズム的な報告とどう関係するのか。世の中は今日も永眠できずに未練がましく生き残ろうとする人々でごった返しているはずか。やはり何を語っているのかわからなくなってきたか。そうやっていつもの安易な脱線状態を長引かせようとしているわけか。たぶんそれらの実態は空疎そのものかも知れない。ではそれらの空疎を利用して何を導き出そうとしているのか。たぶん空疎な空想以外は何も導き出せないだろう。現実には何もできないのだから、そんなことをやっているだけなのかも知れず、もちろんそのような行為も本気でやっているわけではないらしい。それ以外に何も思いつかなかったのだろうが、本当にそれ以外はあり得ないのか。そんな状態で言葉を繰り出す限り、そうなってしまうしかあり得ないのではないか。そしてそんなことをやっているうちに何を考えていたのか忘れてしまったらしい。さらにそれを思い出す気が起こらない。始めから何もないのだから思い出せるわけがないか。思い出そうとしていたのはそれとは違う内容かも知れないが、それはこれから新たに構築しなければならないことかも知れない。思い出すのではなく考え出さなければならないか。だが意識はそこで途切れしまう。そこから先が思い出せないようだ。たぶん眠ってしまって覚えていないのだろう。あるいは面倒くさいから眠ってしまったことにしているのかも知れない。そういうわけで何を考え出そうとしていたのか思い出せずにいるようだ。


2月23日

 どこかの誰かは切羽詰まってから何をやっているのだろう。たぶんそこには何の意図も思惑もない。意味不明な表現を使うなら、何かの抜け殻がそこからだいぶ離れたところで朽ち果てようとしている。それは何のたとえなのか今のところは不明かも知れないが、いずれ何かのこじつけに使われるかも知れないので、今はとりあえず記憶にとどめておこう。しかしそれは誰の記憶にもならないだろう。やはり何を述べているのかよくわからない。その受け入れがたい言葉の起伏をどう見ればいいのかわからないか。調子が狂っているようでいて、その狂っているような調子によって継続が保たれている。またそれ以上は無理を重ねるべきでないと思われるが、無理を押し通すことでかろうじて平静を保っていることも確からしい。しかしそれらの文章表現はかなりおかしい。そして何かどこかの奥底から笑いの感情がこみ上げてくるような予感がしている。笑えない状況で無理に笑おうとするのは体に悪いかも知れないが、精神衛生上は笑いが必要なのだろう。しかしそれは誰の精神でもなく、文字として記された言葉の上での精神でしかないか。それはどういうことなのか。どういうことでもなく、ただ感性は意味不明な表現にとどまろうとするばかりだ。やはり今回もあまり本気ではないらしい。それは感性ではなく意識が何かくだらぬ思考形態に毒されているだけなのか。あらゆる感情の発露に先駆けて、ひねくれた思考を前面に押し出してみたら、そんな風にねじ曲がった言語表現を許してしまうわけか。しかしその場合、良識と呼ばれる社会とのつながりを保とうとする意識はどこにあるのか。たぶんどこかに置き忘れてきたのかも知れないが、今からそれを探しに行く余裕はなさそうだ。おそらくそれは何かの冗談だろう。意識はまだそれらの呪縛から逃れられずにいるらしい。冗談ではないものが冗談としか思われなくなるとき、ひねくれた感性はそれを利用して適当な文章を構築しようとするだろう。そしてそのときそれしか可能でないことを悟る。他にやり方を見いだせないのだから、そんな風に言葉を連ねる以外にやりようがなくなるわけか。それらの行為には何か効用でもあるのだろうか。暇ではないのに暇にまかせて何かをやっているつもりになれる。無駄なことをやっているという実感とともに、意識は絶えずその実感を裏切るような言葉の連なりを追い求める。その辺が君のねらい目なのだろうか。結果としてうまく回っていけばそれでかまわないのだろうか。本気でないのをいいことにして、一時的に本気になったつもりになれるのだろう。そうやっていつも同じ雰囲気を保とうとしているようだが、それが成功していない状況をもたらしたい。要するに皮肉な結果をもたらしたいわけなのか。皮肉以上の無内容を望んでいるのかも知れない。無内容ではなく無感覚の中での憩いのひとときをもたらしたいのか。無内容の前に適当な内容がすでにあるはずか。言葉を文字にすれば錬金術のように詐欺的な内容が生じてしまうだろう。いとも簡単にそのときの思いを再現したつもりになれるが、それは際限ではなく新たな虚構の構築につながってしまうわけか。たぶんそれでもかまわないのだろう。初めに抱いた思い自体が後から言葉によって構成された幻想なのかも知れない。そうやって君はフィクションにリアリティを感じているわけか。ありもしない思いを絶対にありもしないとは思わないだろう。構築された文章によってありもしない思いが現前していたように錯覚させられるわけか。それは錯覚ではなく実感なのだからどうしようもない。そのときそこには確かにそのような思いを抱いていた意識があったのだからどうしようもないか。そんな議論を延々と続けていくと、結局はそれを信じるか信じないかの話になってしまうか。やはりそれが君のねらい目なのだろう。そうやっていつまでもそれらをやり続けるのが君の目的なのだろうか。目的ではなく成り行きから導き出された結果そのものか。必ずしも意図的にそうなるわけではないようだ。では初めから意図など介在させないことがそれらの継続を保つ秘訣なのか。しかしそんな問い自体がそれらの継続に貢献する仕組みになっている。


2月22日

 今は夕闇が迫りくる頃からだいぶ時間が経っている。別にそれがどうしたわけでもないか。そんなことはどうでもいいことかも知れない。しかし今求めているのは、そういったどうでもいいことなのかも知れない。確かに今も誰かが何かを求めていることに変わりはない。それは誰かではなく君であってもかまわないだろうか。君はそれとは別のものを求めているのか。たとえばいつものようにここにはない何かを求め、それが何なのか特定できずにいるわけか。それでは何も求めていないのと同じことかも知れないが、もしかしたら本当に何も求めていないのかも知れない。文学的な表現を使うなら、堕落した意識には何も求められはしない。軽薄な誰かならここはそんな風に述べるところか。しかし何を述べても無駄である。岬の先には海が広がっている。それとこれとは関係ないだろう。風は今どこから吹きつけているのだろうか。そうやって誰かを煙に巻くつもりなのか。しかしそれらの蛇はとうにとぐろを巻いてひからびている。それは漢方薬の材料にでもなるのだろうか。そんなことは知ったことではないかも知れないが、軒先につるされた干し大根はいつまで経っても漬け物樽へ移されない。漬け物が趣味の老人はとうの昔にあの世へ旅立ってしまったのか。あのろれつの回らない口調はいつの日か思い出されることもあるだろうか。たぶんそんなことも君の知ったことではないか。別に目が回るほどの忙しさを経験しているわけでもないが、目が回るのは自らの体が回っているからか。それはおかしな表現だろうか。では鵜の目鷹の目とはどのような意味なのだろうか。ボクサーの目つきはそんな表現を受け入れるだろうか。嘘つきの言うことを信じるなら、濃いコーヒーには乳酸菌を殺す働きがあるらしい。そんなことがあるはずがないかも知れないが、中国の仙人はいつの頃からか北朝鮮に移り住んでいるそうだ。仙人とはちょっと太り気味でシークレットブーツでも履いている人物のことか。彼には何か人目を避ける理由でもあるのだろうか。もはや誰にとってもそんなことはどうでもいいことか。いつもまでもそのときはやってこないだろう。過去のただ中で未来はいつやってくるのだろう。そんなことを思いながら過去